雨
ひとりの少女が本を読んでいた。十四、五歳くらいだろうか。
その少女は黒いワンピースを着ていた。そのワンピースが、彼女を本来の年齢よりも大人に見せている。しかし、瞳にはまだ幼さが残ってもいる。
大きな瞳と長くさらさらとした髪は、真っ黒な夜の色だった。
少女のいる小さな家は静まり返っていた。彼女のほかに、家の中には誰もいないからだ。
聞こえるものといえば、しとしとと降り続けている雨の音くらい。その雨の音が、家の中の静けさを際立たせている。
ふと、少女は何かに気づいたかのように、今まで読んでいた少しくたびれた文庫本を、目の前のテーブルに伏せた。
「雨は憂鬱。こんな日は、本を読むくらいしかすることがないじゃない」
そんな独り言をつぶやく。消えそうなくらい小さな声が、悲しく家の中に響いた。
少女は、雨が嫌いだった。外で日向ぼっこをすることも、友達とおしゃべりをすることもできないからだ。
少女は孤独を嫌っていた。
一人は寂しい。孤独は悲しい。周りの子たちは、いまごろ家で、家族と楽しく暮らしているのだろう。
父親が出兵しているにとても、母親がいない家はまだ珍しかった。そのうえ、自分の両親はもう帰ってこないのだ。
ただ戦だけが、じわじわと少女たちの周りに近づいてきていた。
以前は、少女は雨を嫌ってはいなかった。
なぜなら、家の中にいても彼女がひとりになることはなかったからだ。
いままでは、家の中にいちばん好きなものがあったのだ。けれど、今はいない。
この家の中にあるものといえば、いくつかの家具と少しの食料と少女の孤独だけだった。
「お兄ちゃん。いつ、帰ってくるの?」
彼女のいちばん好きなもの。それは、唯一の肉親であり、唯一の兄弟であり、唯一の家族である兄のロンだった。
ロンは今十八歳で、隣の国との戦争の兵隊として、三ヶ月前に国の軍隊に召集されてしまった。
それから、少女は孤独だった。もちろん、彼女には大好きな友達もいたし、優しい学校の先生や少しお節介な、隣に住む、人のいいおばさんだっていた。
それでも、兄のいない寂しさは埋められなかった。
彼女の両親は隣の国との戦争のせいで、3年前に亡くなっていた。
父親は兵隊として、母親は看護婦として戦地に呼ばれたのだ。
そして、ふたりとも相手の国の兵士に殺された。二人の遺体が帰ってくることは無かった。
それからは兄が母親代わりとして、父親代わりとして、兄として少女と暮らしてきたのであった。
彼女はふと、物思いから覚めて、身体にしみこむような雨の音を聞いていた。
雨の日は雨粒が地面にしみこむように、寂しさが身体にしみこんだ。
「こんな日は紅茶を飲むに限るわよね」
紅茶は、少女の好きなものであり、兄のロンが好きなものでもあった。
彼女は夜色の髪をなびかせながら立ち上がると、小さなキッチンに向かった。
キッチンに入る。すぐ脇には、大きな食器棚があった。
その中には、一人にしても二人にしても十分すぎる食器が並べられていた。
彼女は楽しそうに、食器棚の扉を開けた。
「今日はどのカップにしようかしら」
そう言うと、彼女は小さな花柄のついたティーカップを選んだ。
これも、彼女の好きなもののひとつだった。このカップは三年前に兄が誕生日プレゼントに、と少女に買ってくれたものだった。
少女の周りには、好きなものがあふれていた。
けれど、彼女は感じていた。
『私の好きなものは、どんどん無くなっている』と。
だいすきだったお母さん、お父さん。
少女がいちばん大切に思っていた人達が、どんどんいなくなっていく。
時々、お兄ちゃんまで居なくなってしまうのではないか、という考えが頭をよぎる。
ふと、紅茶の甘いにおいが立ちこめる。
彼女はさっきまで本を読んでいたテーブルに紅茶を運び、椅子に座った。
椅子がゆらゆらと揺れる。足の部分が丸くなっていて、ゆりかごのようになっているのだ。
紅茶を口に運ぶ。甘いミルクの味が口いっぱいに広がる。
思わず溜息が漏れる。とても幸せなひととき。心からリラックスできる数少ないひととき。この家の中にいるのは自分ひとり、ということを忘れさせてくれるひととき。
そして彼女はまた、さっきまで読んでいた本を開く。しおりをはずして読み始める。
物語の世界へと引き込まれる。
不意に、ドアをたたく音がした。
時計を見ると、紅茶を入れた時間から二時間も経っている。
カップに残っている、残りわずかの紅茶は冷え切っていた。
彼女は少し不機嫌になりながら、玄関へと向かう。いま、読んでいた小説がいい場面だったからだ。
(せっかく、主人公が盗賊を倒すところだったのに。一体、だれかしら。)
玄関に着き、彼女が開けるのには、すこし重い扉を両手で押し開ける。
「はい、どちらさまですか?」
目の前に立っている人を見たとき、彼女は言葉を失った。
少女よりも頭ふたつ分は大きな背丈。彼女と同じ、夜の色の髪と瞳。
そして、何よりも、誰よりも優しい笑顔。だいすきな、温かい笑顔。
「ただいま、ロセ。遅くなってごめんね」
いちばん好きなものが、目の前にあった。
それは、唯一の肉親であり、唯一の兄弟であり、唯一の家族だった。
「おそいよ、お兄ちゃん」
少女の、ロセの視界がにじんだ。真っ黒な夜色の髪がロンの胸に飛び込んだ。
ロンも、ロセをしっかりと抱きしめる。
はずだった。
たしかに、ロンの胸の中にはロセがしっかりと抱きしめられている。
けれど、感触がないのだ。
「ロセ……? きみは、ほんとうにロセなのか?」
ロンが聞く。警戒と疑いと動揺の声。
少女は、兄を見上げて答える。
「私がわからないの? ロセよ。お兄ちゃんの妹の。どうして、そんなことを聞くの?」
少女の目には、どんどん涙が浮かんでいく。
「ひどいわ。私のことが、わからないなんて。」
少女は、兄の胸の中から離れると、顔に手をあてて泣きだした。
降りつづく雨のように、静かに泣いている。
ロンはどうすることもできずに、ただ、泣き続ける妹を見ているだけだった。
今、彼女をなぐさめることは簡単だ。
けれど、それをしてしまえば、この違和感の原因がうやむやになってしまう。
ふと、少年は気づいた。
少年は、すべてを理解した。
少女は、うっすらと透けていた。後ろのドアが、少女の服の奥に映っていた。
「ごめんね、ロセ。久しぶりに帰ってきたから、変な感じがしたのかもしれない。
大丈夫。ロセは、俺の大切な妹だよ。今も、これからも、ずっと」
少女は、泣き腫らした目を自分の兄のほうにむける。
ロンは、少女の顔を両手でつつみ、自分の額と少女の額をくっつける。
「……だからね、ロセ。もう、眠ってもいいんだよ。無理しなくていい。
父さんと母さんのところへ行っていいんだ。俺をずっと待っていてくれたんだね」
少女は顔を上げる。涙で潤んだ目が、優しげな表情をつくる。
「俺はもう大丈夫。だから」
少年は、ロセをしっかりと抱きしめる。
「さよなら」
ロセは、優しく微笑んだ。
「お兄ちゃん。すぐにこっちに来たら、許さないんだからね」
涙がロセの頬をつたう。
「さよなら。お兄ちゃん」
ロンは、目をつむった。
何かが腕の中から消える感触がした。
腕の中には、かわいい妹の姿はない。
妹は、もうこの世にはいない。
甘い紅茶のにおいが、ロンの鼻をかすめた。
「お兄ちゃん、大好きだったよ」
雨は、静かに降りつづいていた。
初めて投稿した作品なので、とても不安なのですが楽しんでいただければ幸いです。
未熟な作者にアドバイス、感想などいただけると嬉しいです。
追記:中学生の時に思いついて書いた、まさに「中二」な小説です;あたたかい目で読んでいただければ幸いです。