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恋愛短編集

『何もしなかった恋の話』

作者: 月見酒
掲載日:2026/01/22

この話には、大きな事件は起きません。

誰かが救われることも、壊れることもありません。


それでも、何かが残る話です。



 放課後の教室は、いつもより静かだった。


 机を引く音も、廊下を走る足音もなく、窓の外から聞こえる運動部の声だけが、遠くで揺れている。西日が差し込み、机の影を長く伸ばしていた。


 彼は、まだそこにいた。


 私が鞄を持ち直すと、彼は顔を上げて、少し困ったように笑った。


「忘れ物?」


 その声は柔らかくて、誰に対しても同じ調子だった。


「うん……ちょっと」


 本当は、忘れ物なんてなかった。ただ、帰る理由を失っていただけだ。


 教室には、私と彼の二人だけ。それでも、空気は張りつめない。彼がいると、いつもそうだった。沈黙が重くならない。何も話さなくても、責められている気がしない。


 優しい人だった。


 それが、彼のすべてだったと思う。


 


 彼は、私のことをよく見ていた。元気がない日も、眠そうな日も、理由もなく黙り込んでいる日も。


「無理しなくていいよ」


 そう言って、笑う。


 それ以上、何もしない。


 助けてくれるわけでも、踏み込んでくるわけでもない。ただ、そこにいる。私がどんな顔をしていても、変わらない距離で。


 その距離が、私は好きだった。


 


 ある日、私は泣いていた。


 理由は、もう覚えていない。友達のことだったか、家のことだったか、それとも、ただ疲れていただけだったのかもしれない。


 気づいたときには、机に伏せて、声を殺していた。


 彼は、隣の席に座っていた。


 何も言わず、肩に触れることもなく、ただ私を見ていた。視線を逸らすでもなく、同情するでもなく、叱るでもなく。


 誰かに見られているのに、責められない。


 そのことが、なぜか安心だった。


 


「……大丈夫?」


 少しして、彼はそう言った。


 私は頷いた。本当は大丈夫じゃなかったけれど、そう答える以外の選択肢が、思いつかなかった。


 彼は、それ以上、何も聞かなかった。


 助けてくれなかった。でも、突き放しもしなかった。


 優しい人だった。


 


 そのときは、それでいいと思っていた。


 何も起きなくていい。何も変わらなくていい。ただ、このまま、同じ教室で、同じ距離で、同じ時間を過ごせれば。


 それが、恋だと思っていた。




 それからも、私たちは同じ距離のままだった。


 放課後、時間が合えば一緒に帰ったし、教室に二人きりになることも珍しくなかった。でも、特別なことは何もなかった。連絡先を交換するわけでも、約束をするわけでもない。


 ただ、並んで歩く。


 それだけ。


 


 帰り道、駅まで続く坂は、夕方になると風が強かった。制服の袖口が揺れて、スカートが少しだけ持ち上がる。


 彼は、いつも隣を歩いていた。近すぎず、遠すぎず。肩が触れることはないけれど、離れようと思えば不自然になる距離。


「今日さ」


 彼が言った。


「うん」


 それ以上、言葉が続かない。


 少し沈黙があって、車の走る音が間に入り込む。私は、彼が何か考えている気配だけを感じていた。


 そして――


「……好き、だと思う」


 


 その声は小さくて、風に溶けそうだった。


 一瞬、聞き間違いかと思った。でも、確かにそう聞こえた。語尾が曖昧で、断定を避けるような言い方。


 胸の奥が、ほんの一瞬だけ跳ねる。


「……え?」


 思わず、そう返してしまった。


 彼は驚いたように瞬きをして、首を傾げる。


「なに?」


 


 噛み合わない。


 私の心臓は、まだ早いままなのに、彼はいつもの調子だった。


「今、なんて言った?」


 勇気を出して聞き返すと、彼は少し困ったように笑った。


「今日は寒いなって」


 


 ――違う。


 そう思った。でも、否定する材料もなかった。彼は嘘をつく人じゃない。少なくとも、そう信じていた。


「……そっか」


 私は、それ以上踏み込めなかった。


 


 次の日、学校で会った彼は、何も変わっていなかった。


 普通に話し、普通に笑い、普通に、距離を保つ。


 昼休み、思い切って聞いてみた。


「昨日のこと、覚えてる?」


「昨日?」


 彼は首を傾げる。


「なにかあったっけ」


 


 その瞬間、胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


 聞き間違いだったのか。思い込みだったのか。それとも、言ったけれど、なかったことにされたのか。


 答えは、どれでも同じだった。


 


 それ以来、私は彼の言葉を注意深く聞くようになった。


 「たぶん」「気がする」「かもしれない」


 彼は、いつも逃げ道を残していた。誰も傷つけないために。誰にも責任を負わないために。


 


 放課後の教室で、私たちはまた隣に座っていた。


 黒板の文字は消され、チョークの粉だけが残っている。私は、それを見つめているふりをしながら、ずっと彼の手を意識していた。


 机の上に置かれた手。


 指は長く、少しだけ力が抜けている。


 触れようと思えば、触れられる距離だった。


 それなのに、私は動かなかった。


 触れた瞬間に、何かが終わってしまう気がした。


 


 彼は窓の外を見たまま、小さく息を吐いた。


「……寒くなってきたな」


 その声に、胸の奥がざわつく。


 彼の手が、ほんの少しだけ動いた。指先が、私の方に向く。


 身体が強張る。


 触れられる、と思った。


 


 でも、触れられなかった。


 彼の指は、私の机の端で止まった。


「……ごめん」


 唐突な謝罪。


 何に対してなのか、分からない。


「いいよ」


 そう答えた声が、思ったよりも冷たく聞こえて、少し後悔した。


 


 沈黙が戻る。


 触れていないはずなのに、手のひらがじんわりと熱を帯びていく。


 まるで、すでに一度触れたことがあるみたいに。


 彼が、こちらを見る。


 目が合った瞬間、私は確信してしまった。


 ――彼も、同じものを感じている。


 言葉はいらなかった。


 ただ、触れなかった手だけが、そこにあった。




 卒業が近づいても、彼は変わらなかった。


 誰にも踏み込まず、誰も拒まず。私に対しても、あの日から何かが変わることはなかった。教室で隣に座り、同じように話し、同じように笑う。


 それが続くことを、私はどこかで期待していたのだと思う。


 


 最後の日、校舎の前で、私は立ち止まった。


 春が近いはずなのに、風はまだ冷たかった。


「……あのさ」


 声が、少しだけ震えた。


 彼は振り返って、いつものように笑った。


「どうしたの?」


 私は言葉を探した。


 助けてほしかったわけじゃない。答えがほしかったわけでもない。ただ――何かを、変えてほしかった。


「なんでもない」


 そう言うと、彼は頷いた。


「そっか」


 


 それだけだった。


 


 彼は、最後まで優しかった。


 私が何も言わないことを、尊重した。踏み込まないことを、選び続けた。


 そして、何もしなかった。


 


 後で聞いた。


 彼は、私が苦しんでいたことを、全部知っていたらしい。


「気づいてたよ」


 そう言って、少しだけ困った顔をした。


「でも、踏み込むのは違うと思って」


 


 その言葉を聞いたとき、私は初めて、寒さを感じた。


 あの教室の、あの夕方の、あの静けさの正体を。


 


 優しい人は、助けなかった。


 それだけの話。


 


 それだけなのに――


 今でも、あの教室には、誰もいないはずの席を、じっと見ている何かがいる気がする。


 


 あの日、私が助けを求めなかったことを。


 彼が、助けなかったことを。


 まだ、誰かが、静かに見ている。


人は、行動よりも「行動しなかった選択」によって長く縛られることがあります。

この作品は、恋愛という形式を借りて、介入しない優しさと、その残留について書きました。

読後に「悪者がいないのに、何かが怖い」と感じていただけたなら幸いです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


「何もしなかった」ことを、どう感じたか。

もしよければ、感想で教えてください。


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