『何もしなかった恋の話』
この話には、大きな事件は起きません。
誰かが救われることも、壊れることもありません。
それでも、何かが残る話です。
放課後の教室は、いつもより静かだった。
机を引く音も、廊下を走る足音もなく、窓の外から聞こえる運動部の声だけが、遠くで揺れている。西日が差し込み、机の影を長く伸ばしていた。
彼は、まだそこにいた。
私が鞄を持ち直すと、彼は顔を上げて、少し困ったように笑った。
「忘れ物?」
その声は柔らかくて、誰に対しても同じ調子だった。
「うん……ちょっと」
本当は、忘れ物なんてなかった。ただ、帰る理由を失っていただけだ。
教室には、私と彼の二人だけ。それでも、空気は張りつめない。彼がいると、いつもそうだった。沈黙が重くならない。何も話さなくても、責められている気がしない。
優しい人だった。
それが、彼のすべてだったと思う。
彼は、私のことをよく見ていた。元気がない日も、眠そうな日も、理由もなく黙り込んでいる日も。
「無理しなくていいよ」
そう言って、笑う。
それ以上、何もしない。
助けてくれるわけでも、踏み込んでくるわけでもない。ただ、そこにいる。私がどんな顔をしていても、変わらない距離で。
その距離が、私は好きだった。
ある日、私は泣いていた。
理由は、もう覚えていない。友達のことだったか、家のことだったか、それとも、ただ疲れていただけだったのかもしれない。
気づいたときには、机に伏せて、声を殺していた。
彼は、隣の席に座っていた。
何も言わず、肩に触れることもなく、ただ私を見ていた。視線を逸らすでもなく、同情するでもなく、叱るでもなく。
誰かに見られているのに、責められない。
そのことが、なぜか安心だった。
「……大丈夫?」
少しして、彼はそう言った。
私は頷いた。本当は大丈夫じゃなかったけれど、そう答える以外の選択肢が、思いつかなかった。
彼は、それ以上、何も聞かなかった。
助けてくれなかった。でも、突き放しもしなかった。
優しい人だった。
そのときは、それでいいと思っていた。
何も起きなくていい。何も変わらなくていい。ただ、このまま、同じ教室で、同じ距離で、同じ時間を過ごせれば。
それが、恋だと思っていた。
それからも、私たちは同じ距離のままだった。
放課後、時間が合えば一緒に帰ったし、教室に二人きりになることも珍しくなかった。でも、特別なことは何もなかった。連絡先を交換するわけでも、約束をするわけでもない。
ただ、並んで歩く。
それだけ。
帰り道、駅まで続く坂は、夕方になると風が強かった。制服の袖口が揺れて、スカートが少しだけ持ち上がる。
彼は、いつも隣を歩いていた。近すぎず、遠すぎず。肩が触れることはないけれど、離れようと思えば不自然になる距離。
「今日さ」
彼が言った。
「うん」
それ以上、言葉が続かない。
少し沈黙があって、車の走る音が間に入り込む。私は、彼が何か考えている気配だけを感じていた。
そして――
「……好き、だと思う」
その声は小さくて、風に溶けそうだった。
一瞬、聞き間違いかと思った。でも、確かにそう聞こえた。語尾が曖昧で、断定を避けるような言い方。
胸の奥が、ほんの一瞬だけ跳ねる。
「……え?」
思わず、そう返してしまった。
彼は驚いたように瞬きをして、首を傾げる。
「なに?」
噛み合わない。
私の心臓は、まだ早いままなのに、彼はいつもの調子だった。
「今、なんて言った?」
勇気を出して聞き返すと、彼は少し困ったように笑った。
「今日は寒いなって」
――違う。
そう思った。でも、否定する材料もなかった。彼は嘘をつく人じゃない。少なくとも、そう信じていた。
「……そっか」
私は、それ以上踏み込めなかった。
次の日、学校で会った彼は、何も変わっていなかった。
普通に話し、普通に笑い、普通に、距離を保つ。
昼休み、思い切って聞いてみた。
「昨日のこと、覚えてる?」
「昨日?」
彼は首を傾げる。
「なにかあったっけ」
その瞬間、胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。
聞き間違いだったのか。思い込みだったのか。それとも、言ったけれど、なかったことにされたのか。
答えは、どれでも同じだった。
それ以来、私は彼の言葉を注意深く聞くようになった。
「たぶん」「気がする」「かもしれない」
彼は、いつも逃げ道を残していた。誰も傷つけないために。誰にも責任を負わないために。
放課後の教室で、私たちはまた隣に座っていた。
黒板の文字は消され、チョークの粉だけが残っている。私は、それを見つめているふりをしながら、ずっと彼の手を意識していた。
机の上に置かれた手。
指は長く、少しだけ力が抜けている。
触れようと思えば、触れられる距離だった。
それなのに、私は動かなかった。
触れた瞬間に、何かが終わってしまう気がした。
彼は窓の外を見たまま、小さく息を吐いた。
「……寒くなってきたな」
その声に、胸の奥がざわつく。
彼の手が、ほんの少しだけ動いた。指先が、私の方に向く。
身体が強張る。
触れられる、と思った。
でも、触れられなかった。
彼の指は、私の机の端で止まった。
「……ごめん」
唐突な謝罪。
何に対してなのか、分からない。
「いいよ」
そう答えた声が、思ったよりも冷たく聞こえて、少し後悔した。
沈黙が戻る。
触れていないはずなのに、手のひらがじんわりと熱を帯びていく。
まるで、すでに一度触れたことがあるみたいに。
彼が、こちらを見る。
目が合った瞬間、私は確信してしまった。
――彼も、同じものを感じている。
言葉はいらなかった。
ただ、触れなかった手だけが、そこにあった。
卒業が近づいても、彼は変わらなかった。
誰にも踏み込まず、誰も拒まず。私に対しても、あの日から何かが変わることはなかった。教室で隣に座り、同じように話し、同じように笑う。
それが続くことを、私はどこかで期待していたのだと思う。
最後の日、校舎の前で、私は立ち止まった。
春が近いはずなのに、風はまだ冷たかった。
「……あのさ」
声が、少しだけ震えた。
彼は振り返って、いつものように笑った。
「どうしたの?」
私は言葉を探した。
助けてほしかったわけじゃない。答えがほしかったわけでもない。ただ――何かを、変えてほしかった。
「なんでもない」
そう言うと、彼は頷いた。
「そっか」
それだけだった。
彼は、最後まで優しかった。
私が何も言わないことを、尊重した。踏み込まないことを、選び続けた。
そして、何もしなかった。
後で聞いた。
彼は、私が苦しんでいたことを、全部知っていたらしい。
「気づいてたよ」
そう言って、少しだけ困った顔をした。
「でも、踏み込むのは違うと思って」
その言葉を聞いたとき、私は初めて、寒さを感じた。
あの教室の、あの夕方の、あの静けさの正体を。
優しい人は、助けなかった。
それだけの話。
それだけなのに――
今でも、あの教室には、誰もいないはずの席を、じっと見ている何かがいる気がする。
あの日、私が助けを求めなかったことを。
彼が、助けなかったことを。
まだ、誰かが、静かに見ている。
人は、行動よりも「行動しなかった選択」によって長く縛られることがあります。
この作品は、恋愛という形式を借りて、介入しない優しさと、その残留について書きました。
読後に「悪者がいないのに、何かが怖い」と感じていただけたなら幸いです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「何もしなかった」ことを、どう感じたか。
もしよければ、感想で教えてください。




