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『夕暮れの匂いだけが本物だった』

作者: 悠羽
掲載日:2026/01/05

彼女は、いなかった


名前も声も思い出せないのに、夕暮れの匂いだけが、やけに鮮明だった。

沈みかけた太陽と、海から吹く風。

誰かが隣にいて、僕はそれに微笑み返していた――

そんな気が、確かにしていた。


けれど写真も、手紙も、証人もない。

携帯の中にも、彼女につながる痕跡は一つも残っていなかった。

残っているのは、失われた恋の感触だけだった。


それが現実だったのか、

それとも心が作り出した物語なのか、

今となっては確かめようがない。


二十代の終わりが近づき、周囲は結婚し始めていた。

祝いの言葉を口にするたび、

自分の過去だけが、妙に静かだと感じた。

語れる恋も、失恋もないまま、

時間だけが進んでいった。


たぶん僕は、その静けさに耐えられなかったのだと思う。

何もなかった人生より、

何かを失った人生のほうが、少しだけましに思えた。


彼女は理想だった。

友人の話や、映画の一場面、

誰かの幸せの断片を集めて作られた存在。

薄々、最初から気づいてはいた。

彼女が、現実の誰でもないことを。


それでも、その記憶は僕を守ってくれた。

誰にも選ばれなかったわけじゃないと、

そう思わせてくれたからだ。

ただ、勇気を持てなかっただけだと、

自分を責めすぎずにいられた。


ある日、ふと気づいた。

彼女の名前を、もう探していないことに。

声を思い出そうともしていないことに。


夕暮れの匂いだけを残して、

その記憶を、元の場所に返した。


僕はまだ一人だった。

部屋の広さも、夜の長さも変わらない。

けれど、過去に恋を置かなくても、

生きていける気がした。


彼女は、いなかった。

それでも僕は、ここまで来た。


そして今は、

いつか誰かと出会ってしまったとき、

その縁を大切にできるだけの余地が、

まだ自分の中に残っていることを、

静かに信じている。

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