甘夏と餡ドーナツ
「みゃあ。みぃっ」
思わず、そんな声が喉から漏れた。俺の意思とは関係なく、身体が猫の形に変異する。指先が毛に覆われ、足が短くなり、背中には丸みが帯びる。視界が低くなり、嗅覚が鋭敏になる。もう何度も経験していることなのに、この急激な変化にはいまだに慣れない。
「ははは。なんだ相棒。お前またニャンコっちまったのか?」
大輔の声が、頭上から聞こえる。買い物から帰って来たのか。大輔とはルームシェアをしている。彼は慣れた手つきで俺の喉のあたりを撫で始めた。その力加減が絶妙で、ゴロゴロと自然に喉が鳴る。猫になった俺は、大輔の指の動きに合わせて体をよじる。ああ、気持ちいい。このまま溶けてしまいそうだ。
――ボワン!――
突然、身体が熱を帯び、膨張するような感覚に襲われる。次の瞬間、俺の身体は人型に戻っていた。猫の体毛が消え、再び指先が伸び、足が長くなる。目の高さも元に戻り、見慣れた景色が広がる。
「サンキュー。すまない、ちょっと仕事が忙しくて疲れてたみたいだ」
俺は照れくさそうに頭をかいた。俺はストレスや疲労が溜まると猫になってしまう体質だった。世間ではニャンガバースと呼ぶらしい。この体質は、適度に遊んで適度に放っておいてもらうと人型に戻るのだが、なにせ戻るタイミングが気まぐれで、社会に馴染むのが難しい。そんな俺を、大輔は嫌な顔一つせず、いつも支えてくれた。そして、不思議なことに、大輔に触れられると、俺は安心してすぐに元の姿に戻れるのだ。彼の掌から伝わる温もりは、まるで魔法のようだ。
「今度の小説、行き詰ってるのか?」
大輔の言葉に、俺の髪の毛が逆立つ。図星だった。在宅で仕事ができるという理由で、俺は今物書きとして生計を立てている。猫になってしまう体質を隠しながら生活するには、これしかないと思ったのだ。しかし小説の締め切りは迫っているのに、物語の展開が全く思いつかない。その焦燥感が、再び俺を猫に変えてしまう原因になっているのかもしれない。
「ぐぅ……!」
俺は唸り声を上げた。大輔は俺の表情を見て、すぐに察したようだ。
「おっと。悪い、失言した。それより最新ゲームのVOL.7を手に入れたぞ。一緒にやろうぜ」
大輔はそう言ってにやりと笑った。僕の気を紛らわせるために、わざとらしく明るい声を出しているのがわかる。こういうさりげない気遣いが、本当にありがたい。
「ええ!本当か?やるやる!」
俺は先ほどのイライラが嘘のように消え去り、目を輝かせた。最新のゲームは、俺が今一番熱中しているシリーズだ。新しい物語に没頭することで、きっと気分転換になるだろう。大輔の優しい心遣いに、改めて感謝の気持ちが湧き上がった。
◇◆◇
俺の相棒は、ツンデレだ。
こいつは気まぐれで、プライドが高い。そう、相棒のことだ。普段はぶっきらぼうで、素直じゃない。だけど、一度心を許した相手には、とことん甘えてくる。そのギャップが、堪らなく魅力的なのだ。はじめて俺の前でクロ猫になっちまった時は驚いたが納得もした。猫になったこいつが、俺の膝の上でゴロゴロと喉を鳴らし嬉しそうにする。その表情を見るたびに、俺は確信する。こいつは、俺が飼うべき存在だと。もちろん、「飼う」という言葉には、単なるペットとしての意味合いは含まれていない。俺は彼にとってのご主人様になるつもりはない。ただ人生の相棒として、共に生きていきたいのだ。彼の人生を、彼の全てを俺が支え守りたいと思う。
「何?顔が怖いぞ。ほれ、食えよ」
相棒の声に、俺はハッと我に返った。どうやら、考え事をしている間に、険しい顔になっていたらしい。目の前に差し出されたのは、冷やされた甘なつ蜜柑。透明感のある黄色い果肉が、みずみずしさを主張している。
「美味そうだな」
俺がそう言うと、相棒は得意げに笑った。
「編集者からの差し入れだ」
そう言いながら、彼は餡ドーナツを頬張っていた。見るからに甘そうな餡ドーナツを、彼は幸せそうに咀嚼している。そう、こいつは甘党なのだ。
「俺、柑橘系は無理」
相棒は、そう言って顔をしかめた。俺は苦笑する。柑橘系の爽やかな香りとは裏腹に、口にすると独特の苦みがあって酸っぱい。でも、その奥にほのかな甘さが広がる。それって、お前そのものなんだけどな。