とられていない財布の在処
「財布!! スられたのよ!!」
いつも通りの業務をこなすのに忙しかった、小売店の店長代理のY中は、突然のお客様の訴えの対応に出て直ぐに、そう言われた。
「スられたの!! ちょっとカートから離れた隙に! あたしのカート、バッグ掛けといたら、ほら! 見て!! バッグの口が開いてるのよ! スられた、あたしの財布が盗まれたの!!」
お客様は70代位の女性。車にて夫とともに来店し、鮮魚売場を見に行くため、自身の財布を入れたバッグをかけた買い物カートから、一時的に離れたのだと言う。
やや大型のスーパーマーケットでの出来事だった。
大変に興奮しており、とにかく財布を盗まれたと絶叫しながら女性客は訴えてくる。
連れ立って来ていた彼女の夫の男性客は、スーパーマーケットのレジの出口に陣取り、誰かが会計時に、自分たちの財布を覗かせはしないかと、ウロウロと行ったり来たりしながら見張っている状態だった。
店長代理のスーパーマーケットの正社員、40代前半の男性職員であるY中は、まず女性客の怒号の全てを真剣な面持ちをして相槌をうちながら、受け止めた。
そして、女性客を売り場から、サービスカウンターへ優しく誘導する。
サービスカウンターは主にお節や、Xmasケーキや、お中元なんかの申し込みに使われる接客台で、忘れ物の受け渡しも此処で行う、というコーナーだった。
Y中は、女性客をサービスカウンターの椅子に座らせ、冷静にお客様の訴えに対応する。
「もしもし。警察ですか。スーパーマーケット✕✕✕、△△店でお客様が盗難にあったとおっしゃられております。私は本日店長代理を勤めております、Y中と申しますーー」
盗難であるとお客様が仰有る以上は、警察に連絡するのが当然の対応となる。
しかし、勤続年数20年をスーパーマーケットで重ねてきていたY中にとっても、実はこんな事例は初めてであった。
万引きなら数限りなく見てきたY中でも、店の商品ではなく『お客様のものがお客様に盗まれる』という事態は前代未聞だったのだ。
20分ぐらい、怒号を飛ばし荒れに荒れていた女性客も、警察が呼ばれ、陳情を全て述べきってしまうと、若干の落ち着きを見せ始めた。
その間も女性客の夫の男性客はレジを見張っている。
Y中は、あくまで穏やかに、優しく優しく女性客に問う。
「お車の中にお忘れということはありませんか?」「或いはご主人さまが持っていらっしゃる、とか」「お洋服の中、ということは?」
何をどう聞いてみても、女性客の返事は一つきり。
「違うわ!! スられたの!! 絶対にあのバッグに入っていたわ、財布は盗まれたのよ!!」
サービスカウンターでは謎が深まり、レジカウンター前では見張り番の男性客が目を光らせている。
ーー10分後ぐらいだろうか。スーパーマーケットに、警察が到着した。
Y中は警察官に事情を説明して、女性客のもとに案内をした。
忙しい時間帯であった。
女性客を警察官に引き合わせ、事情聴取が始まったのを見届けると、Y中は再び売場を駆けずり回り、通常業務に戻った。
女性客は警察官に会うと再び興奮しはじめ、財布を盗まれたと高々に騒ぎ立てていた。
Y中は、女性客の『対応』を終えた警察官から事後報告を受けていた。
あの女性客の財布は、盗まれてなどいなかった。
「ーーあるんですよねぇ、こういうこと」
大変でしたねえ、お疲れ様でしたーー。
Y中と警察官は苦笑しあい、別れた。
この珍事のあとには、通常業務をスーパーマーケットの終業時刻まで勤めあげ、閉店業務をこなすだけ、といういつもの職場がY中には残されているだけだった。
女性客の財布は、来店時に持ってきていたバッグの中にも、夫の男性客のポケットにも、スーパーマーケットの駐車場の車の中にも、無かった。
女性客の財布の在処はーー。
「……っえ? いつもと違うバッグで出たわよ、持ってきているんだもの、だからあのカートのバッグに財布が入っていて、それが無くなってるから盗まれてるって言ってるじゃない」
「ーーああ~、成る程です~、因みにいま、お家にどなたかご家族っていらっしゃいますか? ご連絡つくようでしたら、この件お知らせしたいので~、お電話とかってご自宅に出来ますかねぇ?」
「知らせなきゃいけないわね! 盗まれた財布が見付かったとき、連絡来なくちゃ困るもの!! いいわ、あの人がいるから電話するわよ、もしもし! もしもし!!」
「あ、じゃあ、ちょぉっとですね~、いちおう、一旦お電話かわらせて頂きますね~、すみませ~ん、突然。実はですね、おかあさまが出掛けた先で財布を失くされたって仰有っておいでなのでね、私✕✕署の○○って言うんですが……」
女性客の、財布は。
ずっと。
ーーご自宅に、あったのだったーー
「Y中さん! お客様がお財布盗まれたって、本当なんですか? 怖いですねえ」
お客様財布盗難事件は、スーパーマーケットの店内で働く従業員たちの間でも噂になっていた。
スーパーマーケットは表面上通常どおりに回っていたが、バックヤードではさわさわと騒ぎになっていたのだった。
恐怖を顔に浮かべた従業員たちに、Y中はやわらかく事の顛末を説明する。
すると、とあるスーパーマーケットのバックヤードは、笑いでいっぱいに包まれたのだった。
女性客とその夫の男性客は、店員の誰にも一言も掛ける事なく、いつの間にか退店していた。