猫の生きる世界
西暦3205年10月…
人類が招いた環境破壊、環境汚染により地球上から人類が消えた後、辛うじて生き残り、命を繋いできたのが猫達だった。
猫達の祖先は言った。
人類や他の動物が次々と滅びていく中で、我々が生き残ったのは、生きろと神が望んだからなのだ、と。
雄猫のトーヤは、祖父の話を聞きながら欠伸をした。祖父が語るご先祖様の武勇伝は聞き飽きた。
「こりゃトーヤ!ちゃんと聞いとるのか!?」
「我々こそが神に選ばれた存在なのだー!だろ?ガキん頃から毎日毎日同じこと聞かされてりゃ覚えるよ」
言ってトーヤはその場を離れた。
「偉そうなんだよ、猫以外の動物だって生きてるだろ」
苛立った気持ちを言葉にして吐き捨てた。祖父に聞こえていようが聞こえていまいがどうでもよかった。
猫達が生き延びてきた世界は、人類が自らの手で壊すよりずっと前の世界の姿を取り戻そうとしていた。
山や森や大地に広がる緑、海や川や湖の青、花や木の実の赤や黄色や茶色など、世界は少しずつ色を取り戻していた。
猫達は自然の恵を貰い生き延びてきた。川に住まう魚や低木を飾り付けるようになる果実。今では満腹になるまでとは言えなくともそれらの恩恵を受けられていた。
しかし、まだ自然を取り戻す前は、濁った雨水で空腹を満たすしかなかったそうだ。食べられる物は何でも口にした。それが苦さで痺れる草であっても枯れ干からびた花であっても。
そんな過酷な環境を生き、命を繋いでくれた猫達のおかげで今の自分が存在しているのだから、ご先祖様達を凄いとも有り難いともトーヤは思っていた。
それに、過酷な環境下で生きるべく進化していった遺伝子のおかげで、最近の猫はかつて存在していた人間と同じくらい生きられるようになっていた。祖父は今、何歳になっただろうか、ふとそんな事を考えた。
トーヤは少し言い過ぎたかなと思いながらも、事実を言っただけだと自分に言い聞かせるように、首を横にぶんぶんと何度か振った。
トーヤは、猫が神に選ばれた存在だという考えがとても嫌いだった。それが仮に事実だとしても思い上がってはいけない、人類と同じ道を歩いてはいけない、そう思っていた。
トーヤの怒りは、猫達が滅びることへの怖れ、危機感からくるものだった。今、15歳のトーヤでさえ感じていた怖れに対し大人の猫達は鈍感だった。いや、強がっていないと潰される、そんな虚栄心に洗脳されているのかもしれなかった。
「トーヤ?」
まだあちこちに点在するすっかり風化した瓦礫の山を飛び越えて、2匹の猫がトーヤの前に現れた。
1匹は灰色ベースに黒色の縞模様の雄猫で、もう1匹は白い雌猫だった。名前を呼んだのは白い雌猫だ。
「相変わらず愛想ない顔して歩いてるな。黒猫のイメージが悪くなるから迷惑だって、前に会った時リアナが言ってたぞ」
雄猫が言った。
リアナというのはトーヤの妹猫で、トーヤと同じ黒猫だ。しかし、兄妹で同じ黒猫なのに性格はぜんぜん違った。兄トーヤが警戒心が強く単独行動を好むのに対し、リアナは社交的で誰からも愛される才能を持っていた。
「何がイメージだ、何が迷惑だ、勝手なこと言いやがって」
ようやく1度はおさまった苛立ちが、再びむくむくと膨れ上がっていった。
「シュウ、わざと怒らせるようなこと言わないで。トーヤは悪いこと何もしてないじゃない」
「ちっ、何でサキはいちいちトーヤを庇うんだよ」
シュウと呼ばれた雄猫は面白くなさそうに、トーヤに背を向けてその場に座った。そして、尻尾だけを落ち着きなく動かしていた。
「今のはシュウが悪いのよ。私は正しい猫の味方なだけ」
サキの言葉が苛立ちのガス抜きになり、トーヤは気持ちを落ち着かせることが出来た。
「トーヤ、どこかに出かける途中だったの?」
「いや…じぃさんのつまらない話から逃げてきただけさ。お前らは?」
「私、嫌な話を聞いちゃって、不安になったから皆にも知らせようって思って…」
サキの顔は強張っていた。話を聞いていたシュウの尻尾も地面に落ち、おとなしくなっていた。
「何だよ嫌な話って」
トーヤはサキを見つめて、話の続きを急がせるように強い口調で聞いた。
「また狼が近くの山で目撃されたんですって…」
トーヤ達が住んでいる一帯はトリントと呼ばれていた。トーヤとトーヤの祖父以外に十数匹の猫が住んでいる小さな集落だった。集落といってもそれぞれに屋根付きの家があったわけはもちろんなく、岩場や草原にそれぞれが適当に住みつき、それがたまたま近かったというだけの話だった。
東側をしばらく行けば海があり、北側には高い山々がそびえ立っていた。南側に広がる平野は、どこまでもどこまでも続いているように思えた。西側へ少し進めば、アルスと呼ばれる二十匹程の猫が暮らす集落があった。シュウとサキはアルスの住民だった。
アルスの子猫数匹が北側の山のふもとで遊んでいた時、山の中を歩く狼の姿を目撃したということだった。
「狼は何も悪かねーよ」
トーヤがどちらにともなく言った。
「それなのに、たまに姿を見せただけで悪者扱いすんのかよ。ふざけんな」
苛立った声で吐き捨てた。
「一方的に悪者扱いをしているわけじゃないわ。ただ、気を付けなきゃいけないのは事実よ」
「気を付ける…か。はい、どうぞ、ご自由に」
トーヤは何を言っても無駄と諦めたように、むすっとした顔で歩き始めた。
「トーヤ…」
「ほっとけよ。止めても聞かないさ」
シュウは言いながら腰を上げ、トーヤとは別方向へ歩き出した。シュウ達の目的地はトリントだった。狼の存在を伝えるため向かっている途中でトーヤに会ったのだった。トーヤは北へ向かって歩いて行くように見えた。
サキは不思議でならなかった。どうして狼を庇うようなことをトーヤは言うのか。しかし、本当にそう思っているの?何故そう思えるの?と聞くのは躊躇われた。それは、トーヤの両親はトーヤが小さい時に狼に襲われ殺されたと聞いたからだった。教えてくれたのはトーヤの祖父だった。
集落が比較的近い場所にあり、それぞれの両親が仲が良かったため、シュウとサキ、トーヤとリアナは子猫の時からよく両親に付いてお互いの集落を行き来していた。
サキの記憶では、トーヤの両親とも美しい毛を持った黒猫で、特に印象に残っているのは、母親の吸い込まれそうな空色の瞳だった。父親の瞳は月のように綺麗な黄色だったが、その父親の瞳の色を受け継いだリアナは、空色の方が良かったと叶わぬ駄々をこねていたこともあった。今ではすっかり自他共に認める自慢の月色だ。
トーヤは母親の瞳の色を受け継いでいた。ただ、母親よりずっと暗い空の色をしていた。
あの日の空の色のようじゃ、前にそうトーヤの祖父が言っていたことをサキは思い出した。
トーヤは狼のねぐらのある山へ向かっていた。ゆっくり歩きながら、サキの怯えた顔を思い出していた。狼が悪だと信じこませていたのは、トーヤの祖父をはじめとした自分達を神に近い存在だと信じる大人達だった。トーヤが知る狼達はとても穏やかで優しかった。そして、肉体的にも精神的にも強かった。
初めて会ったのは、10年も前の暑い夏の日だった。
遊び盛りで集落の中だけでは遊び足りなくなったトーヤは、集落を1匹で飛び出した。その日が集落を出た初めてではなく、それまでも海の方まで遊びに行くことだってあった。生まれ持っても本能なのだろう、どんなに遠くに遊びに行ってもちゃんと家族の元へ帰って来れた。時に泥だらけになって時に葉っぱにまみれて、時々は擦り傷を作って、それでもえへへと笑って帰って来た。
10年前、好奇心いっぱいに北の山へ向かったのも初めてではなかったが、その日はいつもより高く登りたくて、どんどんどんどんと進んで行った。夏の暑い日射しが木々に遮られ、山の中は涼しく気持ち良かった。
トーヤはまだ猫以外の動物と話をしたことがなかった。見るだけなら、海や川で魚、空やこの山で鳥を見たことはあった。ただ、魚も鳥も素早くて、近付くとすぐに逃げられた。一緒に遊びたいだけなのにというトーヤの純粋な気持ちは、残念ながら伝わらないのだった。大人が取っ捕まえに来ることあるからな、子猫でも用心用心、というのはこの山に住む鳥の心の声だった。
祖父の昔話にはニンゲンやらウチュウジンやら出てきたが、まだトーヤが幼かったし、それに加えて話が抽象的過ぎてそれらの姿を想像することができなかった。想像できないから興味もわかなかった。子猫のトーヤにとって興味の対象は楽しそうなことだけだった。
しばらく夢中で進んでいたが喉が渇いているのに気付き立ち止まった。一旦歩みを止めるとどっと疲れが襲ってきて、トーヤはその場に伏せる他できなかった。湿った地面にお腹が付くとひんやりして気持ち良かった。上を見上げると木々の間から光が射し込み、キラキラと葉っぱが輝いていた。葉っぱ達が楽しそうにお喋りしているみたいで、良いなぁと羨ましく思った。
「ねぇ、ぼくも仲間に入れてよ」
呟くように声を出した。寂しさもじわじわと襲ってきた。母親に早く会いたいと思った。
地面に目を落とすと、これまでは気付かなかった小さな小さなな虫達が歩いていた。その内で、3ミリくらいの大きさで6本足でせかせか歩いていた虫をじっと目で追ってみた。体の色は真っ黒で、猫のように毛は生えておらずつるつるしていた。一所懸命に歩くその虫は、どんどん進み、あっという間にトーヤの視界から消えていった。
あんなに早く歩いて、喉、渇かないのかなぁ、心配した。
お腹のひんやりさはだんだんと感じなくなった。トーヤの体温が移って地面が温まったのだろう。起き上がる元気はまだ取り戻せていなかった。あまりの喉の渇きに悲しさと寂しさが溢れてきて、空色の瞳にどんどん涙が溜まっていった。
「にゃぁ…にゃぁ…」
弱々しい声を上げて泣いた。
瞬きをすると溜まっていた涙が頬を伝い顎からぽとりと落ちて地面の色を変えた。頬を伝う涙をトーヤは手で拭いなめた。飲める物なら何でも良いから口にしたかった。しかし、手で拭った涙は、味がわからなかったし、トーヤの渇きを癒すには全く足りなかった。
だんだんと空しくなって、なめることも拭うことも止めたが、涙は止まらずじわっじわっと地面の中へと消えていった。潤んだ瞳のせいで、虫達の姿をはっきり捉えられなくなった。トーヤは落ちた涙に当たりびしょ濡れになった虫を想像した。巣に帰ってお母さんに叱られたらごめんね、想像した虫に謝りながら、自分が汚れて帰った時の、困ったようなでもちょっと嬉しそうな母の顔を思い出し、ますます涙を流した。
「にゃぁー…にゃぁー…」
母親を呼ぶように精一杯の声で鳴いた。その声は、森に吸い込まれるように消えた。疲れ切ったトーヤは完全に突っ伏して目を閉じた。
「お母さぁん…喉が渇いたよぉ…」
目を閉じたままからからの喉から絞り出すように発した声は、こわい夢を見ている時の寝言のようだった。
ぴちゃん…
突然、冷たい何かがトーヤの鼻先に当たり体が驚いてびくっと
震えた。
ぴちゃん…
次は瞼の辺りに当たった。
ゆっくり目を開けると、トーヤの脇にびしょ濡れになった灰色の動物が佇んでいた。大人の猫の一回りも二回りも大きく見えた。その動物から滴る水がトーヤを驚かせた冷たい何かの正体だった。
「だぁれ…?」
トーヤは上目使いにじっと見て細々とした声で聞いた。
「自己紹介は後でする。喉が渇いているのだろう?先ずは飲むんだ。この山に流れる川の水だから安心しろ」
「うん…」
トーヤは上半身を起こして、灰色の動物から滴る水を待ち構え捕まえるように口にした。少しずつではあるが喉が潤っていくのを感じていた。
「少し待っていろ。すぐに戻る」
安心しろとでも言うように、ぺろりとトーヤの頭を舌で撫でた。そして、ぶるぶるぶるっと身震いさせて体の水分を払いのけ、その場から軽やかに走り去った。飛んできた水分はトーヤに雨のように降り注いでいた。今のトーヤにはとても有り難く気持ち良かった。
トーヤは優しい動物が戻ってくるのを信じてじっと伏せて待った。気が付くと涙はもう出ていなかった。虫達は変わらず忙しそうにせかせかと動いていた。たまには休んでね、ぼくみたいになっちゃうよ、トーヤはどの虫へともなく言った。
虫の観察に夢中になっていたため、待つ時間は寂しくなかった。どのくらい待ってたかわからなかったが、灰色の動物がまたずぶ濡れで戻って来る姿に気付いた時は嬉しくて、へへへと笑った。
「少しは元気になったようだな」
「うん、ありがとう」
トーヤは先ほどよりも上手に水を飲むことが出来た。トーヤの命の恩人とも言うべき灰色の動物は、その後、身震いをしてさっぱりしてから約束通り自己紹介をしてくれた。
この山で暮らす狼で名前はベルグと教えてくれた。ベルグはトーヤに歩けるかどうかを聞いた。いっぱいは歩けないとトーヤが答えると、痛かったらすぐに言えと言って、ベルグはトーヤの首根っこを軽く噛って持ち上げた。
「い、いぃ、痛い!」
ベルグはすぐさまトーヤを下ろした。
「すまない、小さい動物を生きたまま咥える加減がわからないんだ。お前を川に連れて行きたかった。もっと水分を摂った方が良い」
もしかしたら殺されてたかもしれないのかなというのは、世間知らずのトーヤでも言葉にする勇気が無かった素朴な疑問であった。
結局、再び噛られる勇気は無く、歩く元気も足りなかったため、トーヤはベルグの背中にしがみついて移動することになった。ベルグがトーヤを振り落とさないようにゆーっくり歩いてくれたので、川に着くまで1度も落ちずに済んだ。トーヤがベルグの毛を必死に掴むものだから痛くて仕方なかったという話は、ベルグに降りるよう言われた時についでのようにしかしはっきりと付け足された話だった。
川の水はゆっくりと流れていた。川の表面は太陽の光が当たってキラキラと輝きトーヤを眩しくさせた。トーヤは川の浅い所を見つけて慎重に入り、ごくごくと勢いよく飲んだ。
水は喉を通り、じわじわと身体中に行き渡っていった。
「ぷはーっ。うまかったぁー」
言ってその場で遊び始めた。
その様子をベルグは少しだけ離れた岩の上で座って見ていた。
トーヤは川の中をぴょんぴょん跳ねていた。何度か足を滑らせて川の中に顔から突っ込むこともあったが、楽しそうに笑っていた。ベルグは親の心境でトーヤのことを優しく見守っていた。
「ベルグ兄ちゃんもおいでよ!」
トーヤが呼び掛けた。
ベルグはゆっくり首を横に2度ほど振って遠慮の意思を伝えた。そして体を丸め顔を伏せて眠る真似をして見せた。山を吹き抜ける少し温い風に木々がざわめく音、トーヤが跳ねる度にぱしゃっぱしゃっと真似るように跳ねる水の音。そして、すっかり元気を取り戻したトーヤのはしゃぐ声。今、山に存在する音はどれも、ベルグの耳には心地よく響く音だった。
「わぁっ!、た、助けて!!」
ベルグはすぐさま反応してザッと起きあがり、声の方を確認した。川の中でばしゃばしゃと激しい水音を立てもがくトーヤの姿を捉え、ダッと岩場から駆け出し一瞬で川までたどり着いた。躊躇いなく川の中に入りトーヤに近付いた。
「兄ちゃん、捕まえた!」
トーヤがびしょ濡れの体でベルグに抱き付いた。ベルグは驚き一瞬何が起きたのかわからなかったが、すぐに冷静さを取り戻した。
「溺れた振りをして騙したのか?」
言いながら、トーヤを優しく手で押し体から離した。
ベルグの黄色と言うより金色に近い月色の瞳が、じっとトーヤを見つめた。
「だって、兄ちゃんと遊びたかった…」
短い言い訳を言い終えると俯いてしまった。悪気は無かったが、ベルグが怒ったのだと思った。トーヤの濡れたままの全身からは、ぽとりぽとりと滴が落ちていた。トーヤは俯いたまま落ちる滴を黙って見つめていた。
「もう帰れ」
ベルグが言って、鼻先でトーヤの頭を優しく撫でた。トーヤが顔を上げると互いの鼻先がちょんとぶつかった。トーヤはベルグを見つめた。
「ごめんなさい」
言った途端にトーヤの空色の瞳から涙がぼろぼろとこぼれ出した。ベルグはトーヤの泣き顔に頬を寄せて涙を拭った。その優しい頬の感触にますます涙が溢れてきた。
「ごっ…ごめ…ご…ごめん…なさい…」
それ以外に言うべき言葉が考えつかなかった。トーヤの肩も声も震えていた。ついには、うわぁぁんと声を上げて泣き出した。
「ふふふ、今度は泣き真似か?」
「ち、ちがっ…違う…そん…な、言い方す、するの…ひど…いよ」
「先に酷いことをしたのはお前だ。違うか?」
ベルグは容赦なく言い放った。間違っていないだけに言い返せず、トーヤは黙ったまま首を横に振った。
「これでおあいこだ。悪かったな酷いことを言って」
ベルグはトーヤに背を向けて歩き始めた。
「気を付けて帰るんだぞ。早くしないと暗くなるからな」
トーヤに背を向けたまま1度も振り返ることなく歩き、山の中へと消えていった。
その後、少しの間、ベルグが消えた辺りの景色をぼんやりと眺め、トーヤは家族の元へ帰るため山を下りた。下りきった頃には辺りは薄暗くなっていた。トリントにたどり着くと、両親が出迎えてくれた。
「トーヤ、無事で良かった。怪我は無い?」
母が言いトーヤに体をすり寄せた。
「大丈夫だよ」
あまりに母がぴったりとくっつくものだからくすぐったくて、くすくすと笑いながら答えた。あまりにも疲れていたせいか、母に何日も会っていなかったような錯覚に陥った。懐かしい気持ちになって、あたたかな気持ちになって、気が付くとその場に倒れ込むように横たわり眠っていた。父はトーヤの首根っこをくわえ、いつも眠っている草場へ連れて行った。父が歩く振動にぴくりとも反応せずトーヤは眠っていた。歩きながら、微かに猫以外の臭いがする、父は思っていた。
こうして子猫のトーヤと狼のベルグが出会った1日が幕を閉じたのであった。
トーヤは懐かしみながら、山の中を歩いていた。木々が色づき、足元はたくさんの落葉で覆われ、1歩また1歩と歩く度にざくっ…ざくっ…と音が響いた。
初めてベルグに会って以来、トーヤの遊び場はいつだって山になった。しかし、山のふもとから遠目に姿を見つけることは出来ても、山の中、近い場所でベルグの姿を見かけることはなかった。また会いたかった。寂しかった。しかし、どんなに呼び掛けても返事が返ってくることはなかった。
ベルグの金色の瞳を思い出した。見つめられると美しさに魅力され言葉を失う、大袈裟に言えばそんな神秘的な瞳だった。
10年という歳月が過ぎても、ベルグのことを忘れられずにいた。山を見ても、川を見ても、虫を見ても、あの夏の山での出来事を思い出した。
ベルグの存在があったから、両親が狼に襲われたと聞かされた時、信じられなかったし事実だとしても何か理由があるはずだと思った。両親を襲ったのがベルグなのか別の狼なのか未だにわかっていなかった。ただ、祖父は両親が襲われたと言っていたが、一部の大人猫達は喰われたと言っていた。誰も狼が両親を喰っている姿を目撃したわけではないのに、さも見たかのように喰った喰われたと話をしているのを聞くととても気分が悪かった。
両親が狼が暮らす山へ入り帰って来なくなった。大人猫達にとってはこの事実だけで充分に狼を悪者にすることが出来た。本当に頭が良すぎて困っちまうな、トーヤは皮肉たっぷりに思った。
ただ、大人猫達の話を完全に否定出来る材料をトーヤは持っていなかった。だからと言って肯定されるべきとは思わなく、事実を知りたいという気持ちがあり、狼に会うためにこの山にちょこちょこと出入りしていた。もちろん、ベルグに会いたいと純粋に思う気持ちもあった。久し振りに姿を見せた今日はやっと会えるかもしないと、サキ達の前では見せなかったが、トーヤの気持ちは話を聞いてからずっと興奮状態にあった。気持ちが暴走し感情的に走り回らないよう、わざと手足をゆっくりと動かし歩いた。10年前の夏の日のように死にそうな状態になれば助けに来てくれるのだろうか、ふと、そんな考えもよぎったが、騙すのは躊躇われた。騙すのは駄目な事だとベルグに教えてもらっていたのだから。
落葉を踏みしめ辺りを見回すように歩きながら、両親と最後に話をしたのはいつだったろうかと考えていた。9歳になった年の冬だったろうかと、トーヤは両親の顔を思い出すように視線を少し遠くに動かした。
すると、動かした視線の先に狼の姿を捉えた。子どもと思われる小さな灰色の狼が2匹並んで歩いていた。小さいとは言ってもトーヤより大きいに違いなさそうだった。トーヤの視線に気付いたのか振り向いた狼達は、トーヤに気付くと一目散に山の奥深くへと走り去って行った。あまりに一瞬の出来事に驚き、トーヤはすぐに体を動かすことが出来なかった。少し遅れて慌てて追い掛けるのだった。
「あの猫、また来たんだな。油断してて近くに居るの気付かなかった」
「追い付かれないように走りにくい道を通ろう」
走りながら2匹は一言ずつ交わした。
先に話をしたのが雄狼のリド。後に話をしたのが雌狼のアイだった。双子の姉弟だった。2匹は近距離で初めて猫に遭遇したのだった。
しばらく走った後、走る速度を少し落としアイが後ろを振り返った。猫の姿が全く見えないことを確認し足を止めた。
「リド、もう大丈夫みたいよ」
アイの前を走っていたリドは手足に力を入れ、ずざざっと音を立てて止まった。
「山の中は僕等の方が得意だからね。巻くのなんて簡単簡単」
「そんなこと言う割には必死で走ってたじゃない、私もだけど」
2匹は両肩を上下させて荒く呼吸していた。顔を見合わせへへへ、ふふふと笑い合った。
トーヤはすっかり狼達を見失ってしまった。無我夢中で追いかけて来たため、自分が今、山のどの辺りにいるのかもわからなかった。山の奥深く、乾燥した喉、速い呼吸、辺りを見回し軽くパニックになった。手足が震えているのを感じて余計に不安に襲われた。駄目だ駄目だ駄目だ、必死で迫りくる不安を押し退けようとした。体のあちこちに痛みを感じた。走ってき来た道には木がたくさん倒れていて、その倒れた木の枝で擦ってしまったようだった。よく見ると、手足の何か所からも血が流れていた。狼達を追うことばかりに意識が向き、こんなに傷だらけになっても気付かなかったのかと、トーヤは茫然としながら手から流れる血を舌でそっと舐めた。あの日は涙の味すらわからなかった。でも今は口の中いっぱいに苦い味が広がっていた。
トーヤはその場に座り空を見上げた。山の木々の間からは秋の空とそこに浮く鱗のような雲が見えた。川の魚も空を泳いでみたいと思うのだろうかと、そんなことを思った。涙が零れないように見上げた空があまりにも穏やかで、逆に涙が溢れてきた。瞬きをすると一粒の大きな雫が頬を伝い、ぽつりと枯れ葉に落ちる音が聞こえた。もう15歳にもなったのに、ぜんぜん成長できてねーなぁ…トーヤはすっかり下を向き、声を殺して泣き出した。木々は風に吹かれざわめき、そのざわざわという音はトーヤの嗚咽を消し去った。
「おじさん!」
リドとアイはほぼ同時に言った。
おじさんと呼ばれた狼は、川の浅瀬にいて捕まえた魚を咥えていた。狼は振り向いて、少し離れた岩場の上にいる2匹のことを優しい瞳で見つめた。
2匹は揃って川にいる狼に嬉しそうに駆け寄った。
「おじさん、お魚、美味しそうね」
浅瀬に着くと同時に姉のアイが瞳を輝かせ言った。
「相変わらずアイ姉は食いしん坊だな」
「だって美味しそうじゃない、ねっ、おじさん」
同意を求めるようにアイが見つめた相手は、トーヤが探し続けていたベルグだった。
「それに、たくさん走ったからお腹が空いちゃったもの」
アイは笑いながら言った。すっかり息は整っていた。
「命に感謝して食べるんだ」
ベルグは浅瀬から上がり、砂利で覆われた地面に魚を置いて言った。
「ねぇねぇおじさん、あと一匹、僕が捕まえても良い?」
リドが聞くと、ベルグは首を横に振った。
「腹一杯食わなくても良い。死なない程度に食べられれば良いんだ」
そう言うとベルグはリド達に背を向け歩き出した。
「んーもう、おじさん、足りないよー」
食べ盛りのリドは不満顔でベルグの後ろ姿に声を投げたが、振り向かれることも足を止められることもなかった。
「あんなに本気で走ったの久し振りだもんね。リドがあんな険しい道を選ぶから余計に疲れちゃったよ」
「まさか猫に見つかるなんてなー」
「あぁ!リドッ、しっ!」
2匹の会話にベルグは驚いた表情で振り向いた。
「お前達、猫に会ったのか?」
「あっ、うん…。いや…会ったというか…見かけた?だけだよ」
ベルグの問いにアイは都合悪そうに答えた。
「アイ、どこで見かけた?」
「…近付かないっておじさんと約束していた辺り…です」
「どうして行った?」
「…ごめんなさい」
「どうして行ったと聞いている?」
「ぼ、僕が行こうって誘ったんだ」
「猫を見かけてお前達はどうした?」
「慌てて逃げた。追いかけて来るかと思ったから」
「リド、どうして追いかけてくるかと思った?普通なら小さい猫の方が逃げると思うだろ?」
「…き、急に見つかって、びっくりして…それで…」
言葉に詰まってリドが黙っていると、
「それで?」
と、ベルグが続きの言葉を催促するように言った。
「…それで…だから…そ…それは……」
言葉を選びながらゆっくりと話そうとするが上手くいかなかった。
「ふっ…リド、がっかりだよ。なぜ嘘をつこうとするんだ?」
リドの体がびくっと震えた。
「あの辺りに行ったのは、今日が初めてじゃないんだろう。お前達はあの猫を見かけた事があった。あの猫が私を探しているのも知っていたのではないか?だから、狼を見ても逃げずに近寄って来ると思った。違うか?そして、お前達を追いかけて来た猫と私が出会ってしまえば、何度も約束を破ったのがばれると思い、必死で逃げたのだろう?」
ベルグは一気に言い放ち、寂しそうな悔しそうな色々な感情が混じったような表情で2匹を眺めた。そんなベルグの表情をずっと見ていることができず、2匹は俯き、ごめんなさいとそれだけをそれぞれに呟いた。
「リド、どの辺りを走って逃げて来た?」
「…あの辺りから…西側の倒れた木があちこちにたくさんある場所をわざと通って…逃げた…」
「そうか、わかった。今日はもうお前達の元へは帰れないかもしれない。暖かくして眠るんだぞ。それから、魚は絶対無駄にするな」
そう言って、ベルグは走り出した。
ベルグはトーヤに2度と会わないと、初めて会った日に決めていた。それは、トーヤの為を思っての決心だった。
この世界は人類が好き勝手に生きていた頃と比べると、見える景色はだいぶ違っていると思うが、所詮は弱肉強食なのだ。強い者が弱い者を糧にして生きいく。生き延びたければ自らの手で生を勝ち取っていくしかない。親が子を守れる時間には限りがあり、いずれは皆、自立して生きていかなければならない。それが、この世界を生きてきた中で学んだベルグの考えだった。
トーヤはあまりにも弱かった。家族の愛を充分に受けていたのだろう、とても優しい心を持っていた。弱肉強食の世界では喰われる方に分類されてしまうと断言できる程に。
初めてトーヤを見つけた日、トーヤは弱りきっていた。助けずに放って置くという選択もあった。弱肉強食の信念を貫くなら、本来はそうすべきだったとベルグは未だに後悔していた。一方で、トーヤが懐いたから後悔は生まれてしまったのだと言い訳のようなことも思っていた。
初めて会ってから10年の歳月が経っても、トーヤは山に足を運んでいた。そのお陰でと言うのも変な話だか、遠くから成長を見守ることが出来た。両親が居なくなってからも、トーヤは山へ来ることを止めなかった。ベルグはトーヤの両親の死を知っていた。2匹から生を奪ったのはベルグなので知っているのは当たり前のことだった。
1つしかない命をいつ奪い奪われるかもわからないこの世界で、他の動物を恐れないという気持ちは命取りだ。トーヤにとって狼は恐くない存在であってはいけないと思った。だから、トーヤの前から消えると決め避け続けてきた。
それなのに…
ベルグは走り続けた。トーヤを探すために。リドが言っていた木々があちらこちらに横たわった場所に着く頃には、辺りはだいぶ暗くなっていた。季節は着実に冬へ向かっていて、夜の風は寒いと思うくらい冷たかった。
「トーヤ!!トーヤ!!」
ベルグは倒れた木の上に乗り呼びかけた。返事でも合図でも何でも良いから聞こえないかと注意深く物音に耳を澄ませトーヤの居場所を探ろうとした。もうとっくに山を下りてしまっているかもしれなかった。しかしベルグは、根拠は無いが山の中で泣いている気がしてならなかった。
聞こえるのは、風のそよぐ音、木々のざわめく音だけで、トーヤに繋がりそうな音は何も聞こえなかった。この場所よりもっと先に進んでしまったかもしれないと思ったが、トーヤがどの方向に進んだのか検討もつかなかった。
茫然としていると突然、強い風が山の上の方から吹き下りてきた。その風に乗ってとても懐かしい匂いが微かに鼻に届いた。風が吹いてきた方向へ向いベルグは走った。辺りはもうすっかり暗くなっていたが、空に浮かぶ月が、雲の悪戯を受けてない間は山の中にも明るさを分けてくれていた。風を真っ向に受けても、月に見守られながらトーヤに会えると信じて走った。走っていると急に風の影響を受けない場所にたどり着いた。足を止めて辺りを見回した。
すると、
「兄…ちゃん?」
と、弱々しい声が聞こえた。声のした方をベルグが見ると、そこにはトーヤが横たわっていた。ベルグはすぐさま近寄り、ゆっくり起き上がろうとするトーヤを鼻で制止するように抑えた。
「悪かったな、チビ達が迷惑をかけた」
トーヤは辛いだろうに頑張って笑って見せた。
「兄ちゃんの子どもか?」
「いや、あの2匹は妹のこどもだ」
「兄ちゃんにも妹がいるんだね。俺にも可愛くない妹がいるんだ。母親になんてなれなさそうだよ」
「そうか。トーヤ、大丈夫か?怪我をしたんだろう?」
「へへへ、兄ちゃんに会えるかもって、はしゃぎ過ぎみたいだ。俺が勝手に怪我したんだから、子ども達は叱らないでくれよ」
「わかった。もう話をしなくていい。今夜一晩は傍にいるから安心して眠れ」
ベルグは自分の右腕に噛み付いた。みるみる血が滴ってきた。血がトーヤの口に入るよう腕を近付けた。
「悪いな、今回はこんなものしか飲ませられない」
トーヤは何も言わずに落ちてくる液体を一所懸命に喉に流した。ベルグは血の滴りが治まるとトーヤを包み込むように体を丸くし座った。
「兄ちゃん…来てくれてありがとう」
トーヤはベルグの体にぴったりとくっつき目を瞑った。ベルグもトーヤの寝息を聞くと安心して目を瞑った。
月には薄い雲がかかり山全体にぼんやりとした明かりを落としていた。
ベルグは空がまだ暗いうちに目を覚ました。昨晩、自分で噛んだ右腕の痛みが引かないせいだと思った。少し深く噛ってしまったようだ。トーヤは気持ち良さそうに寝息を立てていた。起こさないように、ベルグは頬でトーヤの頭をそっーとそーっと撫でた。風に乗って鼻に届いた匂いと同じ匂いがした。やはりトーヤの匂いだったのか。それならばトーヤの命を守ったのはあの風ではないかと自分の不甲斐なさが可笑しくて笑えてきた。自分はトーヤを守れるほど強くないな、そんなことを考え静かにくすりと笑った。それから、もう少し眠ろうと思い顔をトーヤにそっと寄せて目を瞑った。
外の明るさに反応して目を覚ましたトーヤは真っ先にベルグの存在を確認しようとした。しかし辺りを見回すまでもなく、昨晩、眠りについた時と同じようにトーヤのすぐ傍に居た。
「兄ちゃん」
トーヤは言いながらベルグの体に顔をすり寄せた。そんな仕草をするトーヤは幼く見え、ベルグは10年前のトーヤの姿を重ね懐かしんだ。
「少しは元気になったか?」
「まぁまぁかな。でも腹は減ってるな、相当」
「川に行くか。魚がいる」
「…その前に少し…話がしたいんだけど、良いかな?」
立ち上がり、ベルグの方を真っ直ぐ見て聞いた。久し振りに見たトーヤの瞳の色は、思い出の中の空色とは少し違っていた。
先程の幼さから一変、凛々しく落ち着いた表情で話をするトーヤに、ベルグは嫌とは言えなかった。
2匹は並んで座り、話を始めた。山には太陽の光が降り注ぎ、涼しい風が時折、2匹の周りを吹き抜けていった。
トーヤは最初に、10年前ベルグがトーヤを避けるようになった理由を教えてもらった。トーヤは自分の為だと知って喜んだ。そして、俺は弱くないから安心してとベルグに言ったのだった。そう言えばベルグに一緒に居ることを許されると思ったし、例え許されなくても一緒に居るつもりだった。
それから、およそ6年前の冬、トーヤの両親が山から戻らなくなった時の話をするとベルグは言った。トーヤはずっと両親は生きているのではないかと信じていた。しかし、その信じる気持ちは容赦なく打ち砕かれることとなった。それは、ベルグが6年前の冬、トーヤの両親を殺してしまったと話の冒頭で言ったからだった。
ベルグは動揺した風もなく抑揚のない声で話を続けた。
その年の冬はいつも以上に寒さが厳しく、小さな岩場や風化した瓦礫の山しかないような平野に暮らす猫達は山のふもとの木や茂みの陰に隠れるようになっていった。少しでも風や雨雪を避けるためだった。ベルグが住む山のふもとにはトリントとアルスの住民が避難してきていた。縄張り云々と言っていられる状態ではなく、皆で寄り添い寒さをしのぎ生きていた。当時、山の中にはベルグとベルグの妹のラディ、そしてラディの夫のコウが暮らしていた。ラディのお腹には命が宿っており、春に生まれてくるのをコウもベルグも楽しみに待っていた。狼達は異常な寒さに驚きながらも、自分達の身と新しく生まれてくる命を守るため、山の奥深くに身を潜め生きていた。
トーヤもその冬の恐ろしさは、はっきり覚えていた。脅威は寒さだけではなく、寒さによる食糧難も皆を苦しませた。いつもの冬であれば低木は実を付けたし、川には脂の乗った魚が泳ぎ、その魚を狙った大型の鳥がどこからともなく飛来していた。猫達は集団で自分達より大きい鳥を襲うこともあった。その年の冬は景色の全てが凍てつく程の寒さだった。雨は雪に変わり、瞬く間に見える世界の全部が白く塗り潰された。木々は美しい樹氷と化してしまい、川は凍りつき魚は姿を消した。大型の鳥は危険を察知したのか飛来してくることはなかった。猫達の食糧となるものが無く、皆、飢えに苦しんでいた。そうして寒さや飢えに苦しみながら死んでいった猫の血や肉を他の仲間達は悔しがりながら食べ生き続けてた。猫達の中には、見えない魔物が暴れているのだとそんな風に言う猫もいた。トーヤの祖父がその一匹だった。この世界に魔物が降り立った。神に選ばれし猫達がこのような魔物に屈してはならない。我々はどんな事があっても生き延びるのだ。そう言って祖父は皆を励ました。もう神にすがらなければ明日をも信じらないくらい、皆の心は追い詰められていた。
狼達も食糧には困っていた。ラディとお腹の子の為に、毎日、ベルグとコウは寒さに耐え食糧を探した。しかし、山の中で見つけられるのはせいぜい小さな小鳥の死骸くらいで、一匹のお腹すら満足させるには足りなかった。そのうちに小鳥の死骸さえも見つけられなくなった。ある日、痩せていくラディを見かねてコウは普段は立ち入らないような崖の方に食糧を探しに行った。無理はしないさと言って、ラディとベルグの制止を聞き入れなかった。その日を最後に、コウが姿を見せることはなかった。ラディはベルグの前では涙を見せることはなかった。数日は戻って来ることを信じていたのだろうが、1週間も過ぎてしまった頃には、ベルグから離れたがらない程に心が不安定になってしまった。ベルグはラディから離れられず、そのため、2匹が口に含めることが出来たのは周りに降り積もった冷たい雪だけだった。ラディと背中合わせで寝ていると、泣く気配を背中に感じることがよくあった。ベルグはただ気付かない振りをして傍に居ることしか出来なかった。
トーヤは両親や祖父から山のふもとを離れるなと言い付けられていたが、ベルグを探したい気持ちから山の中へと何度も入ろうとした。しかし山の中も一面が真っ白で、来るなと言わんばかりに冷たい風が吹き荒れていたため、断念せざるを得なかった。トーヤは山を見上げる度にベルグの身を案じた。
久し振りに青空が広がり太陽の光が大地に降り注いだある日の朝、トーヤは待ってましたとばかりに山の中へと向かった。寒さは相変わらずだったし、空腹でいつ倒れてもおかしくなかったが、青空と太陽の最強コンビが気持ちを明るくしてくれた。木や大地を覆った雪が太陽の光を反射し、くらっとしそうなくらい眩しかった。それでも、風はほとんど吹いていなく、行けるとトーヤは判断した。雪に埋まりそうになりながら、山の中、奥へ奥へと進んで行った。
ここからは祖父に聞いた話だが、朝から昼、そして夕方と太陽はずっと大地を照らし続け、猫達は皆、久し振りに笑顔を取り戻していた。しかし、トーヤの両親は、トーヤの姿がしばらく見えなくなっていたことが不安で不安で仕方なかった。暗くなる前に見つけたいと思い、リアナを祖父にお願いし、雪に残された足跡を手掛かりに2匹で山へ向かってしまった。足跡をたどり山へと向かい並んで歩く姿がトーヤの両親を最後に見た姿だと祖父は言っていた。
トーヤは日が間もなく沈んでしまうという時に無事に帰っていた。帰るとすぐ、祖父にこっぴどく叱られた。両親がまだ帰っていない事を聞かされて、再び山へ向かおうとして更に叱られた。トーヤは後悔で震えた。空はみるみる暗くなり、暗くなった空に浮かんだその日の月はトーヤには悲し気に見えた。トーヤ自身はわからなかったが、トーヤの瞳の色はこの日を境に明るい昼の空色から夕暮れの暗い空色になったそうだ。
そして、トーヤの両親は狼に襲われた、狼に喰われた、そんな誰も目にしていない噂話が事実のように受け入れられ、トリントの皆は狼を悪と決め付けた。
ベルグは並んで歩いて来た2匹の黒猫を見た瞬間、トーヤの両親だとすぐにわかった。なぜこんな山奥へと来たのか尋ねると子どもを探していますと雌猫が言った。2匹は足跡を追ってきたが、日射しの影響で雪解けが進んでしまった所があり、そこからすっかりわからなくなってしまった。それで、勘を頼りに歩き続けていたらここへ着いたと今度は雄猫の方が言った。ベルグはラディを庇うように座って話を聞いていた。ラディは飢えで立ち上がるのも難しいくらいに弱っていた。残念ながら猫は来ていないとだけ言い、ベルグは顔を伏せ眠る真似をした。しかし遠慮がちに声を掛けられ、思いがけず会話が続くことになった。
「その狼はあなたの奥さんですか?」
「いや、妹だ」
雌猫の問いに顔も上げずに答えた。雌猫の質問は終わりではなかった。
「どうして私達を襲いに来なかったのですか?」
「…」
「トーヤの為、ですか?」
「…違う。違うに決まっている」
ぶっきらぼうに答えた。
「トーヤは何も教えてくれませんでしたが、山の中に特別な存在の誰かが居るのだと、トーヤの行動から何となく感じていました。それはあなたなんだと、会ってすぐにわかりました」
「…」
「トーヤが小さい時、なかなか山から戻って来ない日がありました。山には危険がたくさんあります。川に流されたり崖から落ちたり、そんな悲惨な結果ばかりを考えていました。そんな中、トーヤの無事な姿を見た時の喜びは今でも忘れません。翌日、主人にトーヤから猫以外の臭いがしたと聞かされた時、その臭いの主がトーヤを私達の元へ帰してくれた恩人なのではないかと思いました。その恩人もあなたに違いありません」
「…」
ベルグは黙って話を聞いていた。
それから雌猫は、耳を疑うような事を口にした。
「今日、あなた達と出会えたのは偶然ではないような気がします。どうか、私達を食べてください」
はっとしてベルグは顔を上げた。雌猫は雄猫と顔を合わせ微笑み合っていた。2匹は少しだけベルグの近くに寄り、ゆっくりと並んで雪の上に座った。
「勝手な事を言うな。お前らが居なくなったらトーヤはどう思う?命の恩人のように言っておきながら、私にトーヤの敵になれと言うのは矛盾し過ぎではないか?」
「この世界は矛盾の上に成り立っている。それは、あなた自身も理解しているはずだ。だからトーヤを生かしてくれたのでしょう」
雄猫が穏やかな口調で言った。
「…」
「生きたまま食べられないのであれば、私達が死んだ後にどうか食べてください。生きて、トーヤに会ってあげてください」
雌猫は、美しい空色の瞳を輝かせベルグに微笑みかけた。
数日後、朝ベルグが目を覚ますと2匹は息を引き取っていた。2匹の体には昨日降った雪がうっすらと積もっていた。ベルグは立ち上がり2匹に近付き、鼻先で雪を払いのけた。黒色に包まれた痩せ細った体が現れた。ベルグは立ったまましばらく2匹をぼんやりと見下ろした。トーヤは私が食べたと知ったら泣くのだろうか、そんな事を考えていた。
その日のうちにラディに食べさせた。ラディには猫達とベルグの会話が聞こえていたようで、食べている間も食べ終わってからも目に涙を浮かべていた。ラディに促されベルグも口にしたが、今まで口にした何よりも旨いと感じた。骨までも噛み砕き食した。それが、2匹に対する可能な限りの礼儀だと思った。
それから間もなく寒さが緩み始め、雪解けが一気に進んだ。そして春にはリドとアイが生まれたが、ラディは間もなく死んだ。原因はわからないが、病気だったのかもしれない。
「トーヤ、お前の両親がいなければリドもアイも生まれてくることは出来なかった。私も今、この場所に居られなかったはずだ。感謝している。トーヤがどう思うかは自由だ。憎みたければ憎め、殺したければ殺せ」
バシッ!
ベルグの頬をトーヤは殴った。
「殺せって何だよ!父さんや母さんを糧にして生きたくせに、その命を粗末にするようなこと、何で平気で言うんだよ!」
トーヤは立って、ベルグの顔をじっと見つめていた。暗い空色の瞳に涙が溜まっているのがわかった。
「俺はずっと信じてた!父さんも母さんもどこかで生きているって。ただ、迷子になって帰って来れなくなったんだって。帰って来たら…帰って来たら笑ってお帰りって言って、たくさん話…しようって。大人のくせに迷子になるなんて、恥ずかしいなって言ってやるって。だから泣かずに信じて待ってたんだ!」
溜まっていた涙が溢れ落ちた。
「兄ちゃんの話を聞いて、父さんと母さんらしいなって思った。憎いなんて思うどころか嬉しいって思った。それなのに、兄ちゃんが何でそんな悲しいこと言うんだよ!そんなこと言うんだったら返せ!父さんと母さんを返せ!返せよっ!」
ベルグはトーヤの泣き顔を見つめた。そして立ち上がり、
「命を軽んじる発言をしてすまなかった」
素直に謝った。ベルグの右頬からは血が流れていた。トーヤが殴った時に爪が立っていたのだろう。
「ずっと一緒に居たいよ…」
トーヤは訴えるように言った。
ざっざっ
枯れ葉の踏みしめられる音が近付いてきた。
ベルグとトーヤは音が迫ってくる方向をほぼ同時に見た。
「おじさん!た、助けて!」
リドだった。
「どうした?何があった?」
「ね、猫達が急に襲って来たんだよ!アイが…!」
肩で息をしながらリドは答えた。トーヤはその答えを聞いて、リドが来た方向、ふもと目がけて走り出した。空腹のことなど忘れたようにただひたすらに走った。そして、猫達が騒ぎを起こしている様子が見える場所まで来た。
「やめろ!やめろ!やめろっ!」
トーヤは叫んだ。その声が届いたようで、猫達はトーヤの方を見て、そして歓声を上げた。トーヤは歓声を無視し更に走り、猫達の前で足を止めた。トーヤは目の前の光景に唖然とした。
「トーヤが帰って来ないから、狼に喰われちまったって皆で心配してたんだぞ」
「それで昨晩、狼なんていなくなっちまった方がいいって話になったんだ」
「お前の両親も酷い目にあったことだしよ。仇討だ、仇討」
トリントの住民が次々にトーヤに言葉をかけた。アルスの住民も混じっているようだった。後ろの方には祖父の姿も見えた。トーヤは目の前に倒れている狼を見つめていた。全身が赤く染まっていた。微かに呼吸はしているようだった。
「あっ!狼だ!」
猫の一匹が慌てたように言った。
トーヤが後ろを振り向くと、ベルグとリドが駆け下りてくるところだった。大人の狼の大きさに弱気になったのであろう猫達は、一旦引くぞと言って山に背を向けた。
「逃げんな!」
トーヤの叫びに猫達は驚き、動きを止めた。
ベルグとリドはアイの傍まで来て立ち止まった。
「皆!何してんだよ!」
「どうしたトーヤ、お前の為に皆で来たんだぞ」
「何が俺の為だよ!大人猫達はいつもそうだ。勝手に思い込み勝手に判断し勝手に英雄を気取る。俺は生きている。狼は俺を殺していない。俺の両親だって狼に殺されていない!それが事実だ!それに比べて皆がした事はどうだ!?俺が殺されたと勝手に思い込んで、俺が望んでもいない仇討ちを計画し、ただ山の中で遊んでいただけの子どもの狼を殺意を持って襲った!事実に反する事ばかりじゃねーか!これが皆の正義なのか!?」
猫達は黙っていた。
「トーヤ、わしらが生きていくには、綺麗事ばかり言っていられんのじゃ」
祖父が静かに言った。
「はぁ?じぃさん等大人猫様方は、自分の目で見た事が事実だろって言う話を綺麗事の一言で済ませるんですか?」
トーヤは呆れたように皮肉を込めて言った。
「皆が事実に目を向けていたら、こんな悲しい争いなんて起きなかっただろ?皆が生きたいと思うのと同じく狼だって生きたいんだ。これが綺麗事って言うんなら、俺は綺麗事だけの世界で生きたいよ…」
いつの間にか溢れていた涙が、落ちた。
「そ…それに…この子どもの狼は…父さんと母さんが助けた…命だった…のに…」
ベルグは動かなくなったアイの傍に伏せて傷口を優しく嘗めていた。
それから、ベルグは一言も発することなく、アイを咥えリドと一緒に山の中へ消えた。
騒動から数日後、トーヤはトリントの皆に別れを告げ、新たに住む場所を探すことにした。広い世界のことを自分の目でもっと見たくなったからだ。祖父は気を付けろよ、たまには帰って来いよ、と意外にも簡単にトーヤのわがままを許してくれた。
3205年10月…黒猫トーヤの旅の始まりだ