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3.

 ジャアアアアアアアア!!!!!



 水が、流れた。


 バケツに満杯に入った水をひっくり返すような音だった。

 風呂に溜め過ぎた水が浴槽から溢れ出るような音だった。

 ホースから蛇口を全開にして瞬く間に地面を水浸しにするような音だった。


 台所の方で、ひっきりなしにその音が鳴った。


 僕が台所に意識を奪われるのを見計らっていたのだろうか。

 次いで音がしたのは、反対側だった。



 ボト――。



 ほんの真横。

 居間に接した庭。

 今まで「怖さ」を感じていなかった想定外の場所こそが、庭。


 そこへ、水の塊が…落ちてきた。



 ボト…!



「!!」


 僕はびっくりして飛び上がり、しかし恐怖に身が竦んで動くことは叶わない。



 ボトリ――。



 また水が落ちてきた。


 敢えて言う。

 雨は降ってない。


 外はもう暗い。けれどまだ陽は落ちたばかりで、紺色の闇は外の様子を窺い知る事が出来る程度には明るい。



 ボトリ…!



 どうして水と言い切れるのか、僕にも分からない。

「水の塊」と表現したのは、水分をしこたま含んだ固形物のような何かが、上から下に叩きつけられたような…。そう、例えるなら水を一杯に入れた水風船が弾けもせずに地面に落ちたような、そんな音だったからだ。


 この時僕の感じている「怖さ」は、その感じる範囲を縮めていた。

 僕を取り囲む空気は冷たく、重く、そして禍々しい。


 この漠然とした「怖さ」は何なのだ。

 それにさっきからひっきりなしに落ちてくる水の塊のような音も、水の流れる音も。


 怖くて怖くて堪らなかった。僕はもう気絶してもいいとさえ思った。

 突っ立たまま背中にびっしょりと汗を掻いて、だけど顔は凍り付いて寒い。



 トントントントン

 チャチャチャ…



 軽快な足音が階段から降りてくる。

 あの爪の音はチコだ!


 助かったと思った。

 チコのふわふわな毛を顔に埋めていれば、もう安心だと思った。

 一人だからこんな目に遭う。

 だからチコが廊下からひょっこり顔を出すのを僕は待ち延びていて、その時ちょっと心の隙というか、僕は張っていた気を少し緩めて、油断してしまっていたのだろう。



 次の瞬間、僕の頭はついに恐怖の許容量を超えた。

 そしてこの年齢で恥ずかしげもなく、泣いてしまう事になる。


「ニぅ!」

 チコの顔が現れたのと。


「ピンポーーーーーーンっ!!」

 と、やけに間延びしたチャイムが鳴り響いたのと。


「ジリリリリリリリリ!ジリリリリリリリリ!」

 いきなり大音量で家の電話が鳴りだしたのと。


「ボトボト…ボトボトボト!!!!!」

 一際大きな水の塊が連続して庭に大量に落ちてきたのは。


 ほぼ同時の事だった。



「!!」


 人は本当に怖くて驚いてしまうと、ホラー映画のように呑気に悲鳴なんて出せないものだと知った。


 僕は弾かれるように部屋を飛び出した。

 頭の中はぐちゃぐちゃ。

 部屋を包み込む「怖さ」は酷く重くて、突破するのにかなり気合を入れなければダメだった。


 それでも僕は縺れながらも足を動かして、必死に玄関まで走った。

 ほんの数メートルが本当に長く感じて、僕は何キロもマラソンしたかのように息を切らして玄関の扉を開ける。


 逃げなくちゃ!!

 あそこにいたら危ない!!


 何故か、そう思ったんだ。

 僕を取り巻く不穏な空気は明らかに範囲を縮め、あのままそこに立ちんぼしていたらいつか「怖い」空気に押しつぶされてペッチャンコになると思ったんだ。



 玄関を飛び出した時、あれほど感じていた「怖さ」は追いかけてこなかった。

 その理由はすぐに分かる。


「ユウ!チャイムを鳴らしたらすぐに出てこいって言ったやろうが!」


 家の外門で苛々した父が仁王立ちしていた。


 そう。

 誰か第三者が、僕という存在を認識したからである。


 同時に僕は()()()()である法則を逃れ、あれほど僕を苦しめた「怖さ」は完全に遠ざかっていったのだ。


「お父さん!!」


 僕は泣きながら父に抱き着いた。


「は?おま、何してんの?」


 ハタチも過ぎたいい大人が、涙と鼻水をダラダラ垂らしながら裸足て腰を抜かして飛びついてくるだなんて、父の方こそ驚いただろうね。

 ほんと、あれは今思い出しただけでも恥ずかしくて土の中に埋まりたくなる黒歴史だ。


 僕は父の登場により、助かったのだった。



 あれから父と僕は予定通りご飯を食べに行ったんだけど、僕が頑なに家の中に戻るのを拒むものだから、父が怒りながら靴と上着を持ってきてくれた。

 子どものように父にしがみ付き、今まで起こった一部始終を喋りながら二階から落ちてきたはずの水の塊を探したけどそんな跡などまるでなく、乾いた芝生と土があるのみで僕は混乱する。


「そんなんいいけ、はよ飯食いに行くぞ。俺は仕事してきて腹が減っとんじゃ」

「そんなん良くないのに……」


 父は呆れかえっている。


「いつもんとこでいいな?」

「え?」


 父の言う「いつものとこ」とは、安くて何でも揃っている全国チェーンのファミレスの事だ。


「肉が良かったのに…」

「あそこにも肉はある。俺の小遣いやぞ、贅沢禁止!」


 ちょっとがっかりした。

 なんでも、母が置いて行った当面の生活費に余剰が出たら、それをまるっと父の小遣いとして貰える約束をしているらしく、ちょっとでもお金が残るように節約生活に精を出しているのだそうだ。


「お前の所為で小遣いが減ったぞ!」

「そんな事言われても…」


 ご飯を食べている間、父は先ほどの僕の醜態をネタにしなかった。

 たまに掛かってくる母からの国際電話の内容をしきりに話していた。母の声はいつもウキウキしていて、日本とは全く違う文化にすっかり馴染んで、多いに羽を伸ばしているみたいだった。

 そしてそれを自分の事のように語る父も、とても楽しそうだった。



 その日は結局、僕は実家に泊まらなかった。


 あんな怖い目に遭って、呑気に寝てなんていられない。

 兄も妹も不在の二階で、僕はたった独りきりで過ごさなければならなくなる。

 二階から水が落ちてきた謎も解明できていないのに、またわざわざ怖い思いをする事はないと思ったからだ。


 あれから何度かその恐怖体験を家族に話したけれど、その都度鼻で笑われてそれでお仕舞い。

 あの時見せてしまった体たらくを、父は家族に内緒にしてくれていた。僕のちっぽけな名誉を守る為なのかな。父は生暖かい目で僕を見ながら、いつもほくそ笑んでいる。





 これが最初の「怖さ」のきっかけだった。


 それからふと、そんな不可解で絶対的な「怖さ」が、僕に現れるようになるのだ。


 それは時と場所と状況を選ばない。

 第三者が僕を認識せず、たった独りきりである時を狙ってやってくる。


 長い時もあれば短い時もある。

 トイレやお風呂でそんな「怖さ」に襲われると、僕は成す術もなく耐えるしかなくなる。

 ひょんな時に現れる頭痛のように、それは決して治る事はない。


 でも、後にも先にも、最初の時のような水音が聴こえる事はなかった。

 基本的には無害なこの「怖さ」が、僕にあからさまな()()見せたのはあの時たった一度きり。



 でもね。


 どうして僕が急にこんな事を語りだしたか知りたくない?


 今まさに、その耐え難い「怖さ」と遭遇しているからなんだよ。


 あれきり現象を潜めていた「恐怖(これ)」が、あの時と同じ水音を立てているんだ。


 風呂の水があふれる音とも違う。

 洗濯物が濯がれている音とも違う。

 打ち水をしている音とも違うし、バケツが倒れて床に零れた音とも違う。


 娘が昼寝をしている隣の部屋から、そんな音が大音量で聴こえているんだ。



 そして、この瞬間――――。


 上から水が、落ちてきた。



 雨は降っていない。

 妻と娘と暮らすこの家は、二階建てのメゾネットタイプのアパートだ。

 僕が住む部屋はその二階。上には何もなく、空しか存在しないのに。


 ボトボトと落ちてくる水の塊は、僕の真横のベランダに当たって弾ける事なく、何個も何個も落ちてくる。

 見えない塊が、落ちてくる。


 それはまるで水分を多大に含んだ柔らかいナニカが上から落ちてきて、地面に激突すると同時に弾けた肉の音。




 ああ…怖い……。



 早く目覚めてくれないかな。


 一人はとっても…怖いんだ。




 ■■■



 ガチャリ



 妻が帰ってきた。

 19時50分。娘はきちんと玄関までお迎えができるようになった。


「ただいま!」


「おかえり。今日のご飯はホワイトシチューと手羽先の唐揚げだよ」


 僕の一日。

 娘が寝たらこれで終わりだ。






「いつまで怖かったん?あたしが帰ってくるまで震えとったん?」


 手羽先の唐揚げを何本も手に持って同時食いする妻は面白そうに笑った。

 妻の鳥好きは異常だ。


「いや、あーちゃんが起きてきてくれて収まったけど」


 情けなくも娘が寝ている部屋で水音が聞こえるのに、僕は駆けつける事が出来なかった。怖くて怖くてたまらなかったからだ。


「潜在意識かもしれんね。ユウ君、この幸せが無くなるのをとても怖がっているから」

「どういう事?」


 なんでもない事だよ、と妻は言う。

 彼女は強い。妻の驚く事なんて、滅多にない話だ。

 そんな妻は作り物のホラーゲームだけは恐る恐るやっているのだから面白い。


「もういっその事、水属性の小っちゃなオッサンだと思えば怖くないよ。ヤバイ奴を水魔法で攻撃して、何度もビタンビタンと上から落としてヤバイのを懲らしめてると思えば少しは気が楽にならん?」

「…なる、かな?」


 僕が趣味で書いている小説よりもぶっとんだ設定だ。


「世の中の不可思議な事を全て解明する事はできんよ。ただ、20年もユウ君は危害を加えられていない。怖いだけで終わってる。だからこれは()()()()()()()()()()()()なんだよ」

「……難しいから、オッサンだと思うことにするよ」

「今度怖くなったら、オッサンに感謝してみてごらん。状況が変わったりして」

「…他人事だと思って」


 でも、妻の言い分は成程と思った。


 僕は考える。

 そうして導き出された一つの答え。

 最初の時から約20年を経て、ようやくこの音の正体に辿り着いたかもしれない。



 この音は―――人だ。


 人が弾け、その血を洗い流す音。


 僕の感じる「怖さ」の大元は、人が落ちて死ぬ瞬間の、()()()()()()()


 自分と同種の人間の【死】が、いつか必ず訪れる未知なる【死】への誘いを拒絶する、一種の逃げのようなものだと考えれば辻褄が合う。


 抗えない怖さは、僕というものの終わりへの恐怖が具現化したもので。


 思えば僕が「怖さ」を感じる時、そこはかとなく幸せを感じていた時と同じだった。

 20年前は憧れていた一人暮らしの自由を満喫していたし、今日は初めて娘が僕を「まんま」と言ってくれてとても幸せを感じた。



 幸せを失いたくない「怖さ」こそ、この現象の正体―――。



「変な現象の99パーセントは解明できるよと。良かったね、ユウ君」




 僕は返事が出来なかった。


 でもほんのちょっとだけ、救われた気がした。






 おわり


次作も実家絡みのお話を予定しています。

ありがとうございました。


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