第二章
「皆さん準備はいいですか?」
問いかけには子供らしい元気な返事が返る。
時は春。新入生の入学式を終えて数日後の国営教育機関テトラフィラ学園の校庭より。目の前に広がるのは期待に胸を膨らませ、やる気に満ち溢れた少年少女達の瞳。
「それでは注意事項をしっかり守って、登山を楽しみましょうっ」
景気よく特別実習の始まりを告げれば、騒がしさと共にそれぞれの教室の生徒が担任の先生に導かれて行動を始める。
テトラフィラ学園の新入生が通る恒例行事。学園近くの山を登り、絶景を眺めてその道中に起きた事を最後に感想文として提出する。一日掛けての遠足と交流会だ。
ここカリーナ共和国は南を海に、北を山に挟まれた自然豊かで温暖な気候の国。そんな風土で学業に力を入れている都合上、学園の授業には他の国の学び舎にはない取り組みが幾つか存在する。
例えばクラスター。一年を通して同じ班で行動を共にし、助け合いながら学園生活を送ると言うものだ。
協調性と協力を学ぶ事で一人では出来ない事を成し遂げる達成感を味わう。競争ばかりではなく、共に学ぶ事に意義を見出す事を目的にした試みだ。
そのクラスターが結成されて数日。組まれた班の相性などを見るために催されるのがこの登山の授業だ。
学業に力を入れているカリーナではあるが、その資本は個人そのもの。健全な肉体がなければ知識を生かすことも溜め込むことも出来ない。椅子に座ってばかりでは得られないことも存在する。将来優秀な妖精従きになるためにも体を鍛える事は必須で、それを楽しく実施しようと言うのが目的の一つでもある授業だ。
その遠足の引率が、教員にとってその年に担当する最初の大仕事。普通の授業以上に直に生徒達と触れ合い、監督をしながら必要な事を見出す。やるべき事は沢山あって忙しいが、その分だけ遣り甲斐に溢れた授業だ。
個人的にはこうした生徒達と距離の近い授業の方が好みではある。敵うことならこういった授業ばかりで生徒の自主性を育みたいが、そうはいかない。
ならば少ない機会を存分に生かして先生として出来る限りのことをしようっ。手始めにまずは────彼女達の班からだ。
* * *
「ロベール、勝手に先走らないでよ?」
「んなこと言われなくても分かってるってのっ」
幼馴染であるシルヴィの言葉に答えつつ、視線は前を歩く双子の背中に注ぐ。
年齢の割に小さい背丈。いつもの制服とは異なる運動服に着替えた二人を改めて見つめる。
華奢な足首からすらりと伸びた白く細い足。微かなくびれから流れるような体の線。丸い肩。力を込めたら折れてしまいそうな腕。白い首筋。括った髪。
変わらない髪形は、けれどいつもは見ない服装と、山道と言う景色が相俟って特別感が増したように思える。
普段とは違う何か。心なしか楽しそうに揺れている気がする長い髪の先に視線を奪われる。
「……何見てんの?」
「なにってそりゃあ…………」
「そりゃあ?」
「…………何でもいいだろっ」
いつもの調子に乗せられて思わずそのまま口にしそうになった内心。危ない危ない……。シルヴィ相手は油断をしてしまう。彼女に聞かれてからかわれるのも、何より前を歩く彼女達に聞かれるのもまずい。折角の機会が台無しになってしまう。
……もちろん授業だと言う事は百も承知だ。ただそれよりも重要だと思えることがぼくの中にはあるというだけ。
覚悟と偶然から奇跡のように紡いだ今。憧れた彼女達双子と一緒のクラスターでこうして行動できる喜び。今でも少しだけ信じられないくらいには浮き足立っていて、先ほどももう少しでこけかけた。
けれどその事実に、これが夢でないのだと実感する。
ぼくは今、あの双子と同じ学園で、同じ班で、同じ道を歩いているっ。
夢のような現実の話。その事実を思い出し噛み締めるだけで次の一歩を踏み出す力が湧いてくる。
「ねぇ」
「なんだよ」
「これ遊びじゃないからね。ちゃんと後の感想文に書けるもの見つけておいてよ」
「うるさいなぁ……一々言わなくても分かってるよ」
「……ってないから……んじゃん……」
「え、なに……?」
「何でもないっ」
小言がうるさい隣の彼女に言い返せば、何事かを小さく呟いた様子。聞き逃して尋ね返せば、どこか怒った風に吐き出したシルヴィが早足になる。……何怒ってんだよ。意味分かんねぇ。
胸の内で悪態を吐けば、それから出遅れた事に息を呑む。気付けば双子……ピスとケスの隣に立って会話に移ったシルヴィ。途中一瞥をこちらに向けた視線の中に見えた、何か線を引くような色に会話への入り口を見失う。
そうして、事ここに至って気付く。この班、男子がぼくだけだ。だから必然、女子同士で話を始めればぼくが仲間外れにされる。……けれど女の子同士の話に首を突っ込んで面倒な事になるのはもっと嫌だ。その経験はこれまでにしてきて痛いほどに馬鹿を見た。
もう学園に入ったのだ。二年後には妖精との契約が待っている。同じ失敗はせずに、早く大人にならなければ。
そう自分に言い聞かせながら足を出して、様子を伺いつつどうにか輪に入ろうと試みるのだった。
* * *
後ろの馬鹿が機会を窺っているけれど、知った事ではない。嫉妬なんて可愛くはないけれど、近くを見ずに疎かになった足元で大事な一歩を踏み外したのが悪いのだ。だからこれは罰。せめて形だけでも謝るまでは口を利いてやるつもりはない。最低限の抵抗だっ。反省の色が見えたら少しは見直してあげるとしよう。
「二人はこの道は初めて?」
「……ううん」
「前に三回来たことがある」
少しだけ後ろを気にかけつつ、ある種の偵察も含めて話題を振る。会話の先は変わらない空気の双子、ピス・アルレシャとケス・アルレシャ。カリーナ国王の孫として学園で一目以上置かれている優秀な同級生。
彼女の事はこの数日で少しだけ調べた。とは言っても元から変わっている有名人として情報は集めるまでもなく集まった。独特な二人だけの世界は何者が侵す事も出来ない聖なる領域。彼女達が彼女達の調子を崩したことがないと言う噂は、噂以上に肌で実感する。
ちょっとした行き違いと僅かの覚悟から一緒に組んだクラスター。個人的には彼女よりも大切なものが存在するのだが、しかしだからと言って無視出来ない存在感で、確かな理由があるからそれも諦めた。
学生同士で助け合う事を目的としたのがクラスター。一緒になった以上避けては通れない未来を想像すれば、距離を置くより少しでも理解しようとする方が幾らか建設的だ、と言うのがこの数日悩んで出した結論だ。
もちろん全てを理解出来るなんて思わないし、不用意に近付けば傷つくのはこちらだと分かっている。だから最低限あたしの……あたし自身の為に歩み寄ると決めたのだ。
その最初の牽制がてらに、学園とは殆ど関係なさそうな雑談から試みてみる。返ったのは、随分と具体的な音。
「それじゃあ道も知ってるの?」
「覚えてない」
「ごめんなさい」
何故か謝られた。……いや、今のは何かを期待していると勘違いされたのか。そう解釈しながら、少しだけ理解を深める。
彼女達はとても現実的で、端的だ。
質問にははっきりとした答え。時々要領を得ないこともあるだろうけれど、彼女達の中ではきっと納得されているのだ。そこを読み解ければ、彼女達の言動の理解が少しは進むはずだ。
なんだか試験で作者の心情を問われているみたいな手探り感。少し意地悪なのは、答えのきっかけを確かに示す試験問題とは違って、彼女達の場合は必ずしも言動に手がかりが隠されているとは限らないこと。二人の中で完結されたときは潔く諦めるのがいいかもしれない。
その上で信じられるものがあるとすれば、どこまでも真っ直ぐで裏のない発される言葉たち。
これは直感だが、彼女達はきっと嘘を吐かない。まるで妖精のように……いや、妖精よりも真実だけを語るのが二人だろう。妖精は本当の真実を隠したまま別の真実を被せるような悪戯をする子もいる。その子達に比べれば、言葉の裏を疑わなくていい分楽かもしれない。
……けれどきっと、真っ直ぐすぎる言葉は時に要らぬ誤解も生む筈だ。それこそ、言葉少なくロベールの意識を奪うくらいには、自由だ。…………王族にこんな事を思うのは失礼以上に危険なことかもしれないけど、魔性と言う言葉がしっくりくる。二人なら、それも気にしないかもしれないが。
魔性……魔物や魔法などの、魔の付く言葉は悪魔を想起させるために暗黙の了解としてフェルクレールトの大地では禁句とされている。理由としては、この世界に悪魔と言う存在はいないとされているからだ。
世界の全ては説明出来る根拠に基づいている。難しい理も、生物の意味も────そして妖精も。
共に隣を歩む存在、妖精。人の歴史──源生暦で約700年前から同じ大地の上で生きてきた彼女達は、人とは違う種でありながら、決して悪魔ではない。当然、彼女達が扱う力……妖精力や妖精術も魔力や魔法と形容してはならない。
それは長い歴史の中で確かに分かたれた概念で。言葉だけで実際に存在しない悪魔とは違い、妖精はそこにいて、触れて、契約や婚姻だって結べる。
随分昔。それこそ妖精がまだ妖精として認められていなかった遠い時代には彼女達を悪魔と呼ぶ風潮もあったそうだけれど、それは今の世界では最も犯してはならない領域の一つだ。
なぜなら悪魔は根拠を否定する結果だけの理不尽だから。根拠で成り立つ世界に、理由の必要がない悪魔は受け入れられる事はない。
だから誰かを指して悪魔憑きだとか、魔性だとか。そう言った事を明確に口にする事は憚られている。もし音にすれば、悪魔だと言われた方よりも言った方が周りから倦厭されてしまう。
その言葉の重さに気付かないままに、子供は他人を貶す際にそういった言葉を使ってしまうことがあるけれど、それはまぁ子供と言うことで仕方のないことだとは思う。制御の利かない感情で覚えた言葉を使ってしまうのは、きっと誰もが通ってくる道だろうから。
代わりに、そうした言動が目立つ子を育てる親は、周りから色々言われるらしい。大人って大変だ。
特にカリーナでは身分やそれに順ずる振る舞いに重きが置かれている。だから四大国の中でもカリーナでは悪魔に対する嫌悪感が根強い。この辺りの話はお母さんに聞いたものだけれど、そのうち学園の授業でも学ぶだろうと言っていた。
不謹慎かもしれないが、少しだけその時が楽しみな自分がいる。
……と、何だか色々と脱線してしまった気もするが、とりあえず二人と仲良くなりたいのは本心だ。本当に理解するまでには時間を要するかもしれないが、最低でも一年は同じクラスターで活動をしていく。その中で少しでも理解できれば……ロベールを諦めさせることが出来るかもしれない。
そう。これはあたしの我が儘じゃないっ。幼馴染として彼が痛い目を見ないように助けてあげようとしているだけだっ。
「それじゃあ、えっと……前に来た時はどうだったの?」
「別の道」
「お爺様と一緒だった」
お爺様。と言う事はグンター・コルヴァズ大統領陛下か。
「散歩の遠足」
「お弁当おいしかったよ…?」
「そ、そう…………」
うん。どうしよう。会話が弾まない。
分かりやすいのはいいことだが、どうにも話が完結してしまう。それが彼女達の呼吸だと言えばその通りなのだろうけれども、やはり互いの事を知るには会話が不可欠だ。どうにかしなければ。擦れ違ったまま一年を過ごすなんて嫌だっ。
どうにか会話の端を捕まえて話題を紡ぐ。
「…………今日のお弁当、は?」
「知らない」
「お母様が作った」
だぁあっ!? 選択肢失敗したぁ! どうしよこれぇ!
……い、いや。諦めるなあたしっ。諦めたら全部終わるっ。
「……ふ、二人のお母さんってどんな人?」
よしっ、どうにか繋いだ!
「びじ、ん?」
「やさ、しい?」
だっからぁ! 二人ももうちょっと努力してよぉ! 折角話し易そうなところに繋いだのにぃ……。
「いいな、それ。うちの母ちゃんなんかうるさいだけだっての……」
と、そこへ入ってきたのがロベール。いや、あんたの話が聞きたいんじゃないんだってば。と言うかロベールのお母さんは十分優しいでしょうがっ。家の方が酷いっての!
「うるさい?」
「怒るの?」
「あぁ、怒る。顔赤くしてでかい声で宿題しろとか部屋片付けろとか。一々言われなくても分かってるっての……」
……あれ? 繋がった? 二人が興味を……って、そうか。知らない話だからか。
何かを掴む。多分、他人の、知らないところの知らない景色だから食いついた。二人にとって自分の母親はよく知る相手。だから知っているを自分の中で完結させて繋がらなかった。
つまり、二人は基本自分の話を掘り下げない。そこには既に彼女達の興味はない。
もし二人を掴みどころのない妖精と同一視するのであれば、彼女達の本質を暴こうとするのではなく彼女達に興味を抱いてもらい、警戒心を解くところから始めるのがいいのかもしれない。
「それはロベールが普段しないからでしょ? してれば言われないんだから」
「うっさいなぁ。シルヴィはぼくの母ちゃんかよ」
「なっ……!?」
口を利くつもりは無かったが、きっかけを得たのも事実。とりあえず今はそれで相殺して話題の口を広げる。
ついでにちょっとした攻撃も含めて口を挟めば、思わぬ方向に話が広がった。人格攻撃とは卑怯なっ。
「大体勉強なんてして何の役に立つんだよ……」
国一番の……ともすればフェルクレールト最高峰の学び舎に入っておいてその発言はどう言うことだろうか。やれば出来るのだから普段からやっていればもっといいのに。……あたしはちょっと無理したから、常に頑張らないと彼に追いつけない。本当、どうしてこんなのが頭いいんだろうか。
「意味のない事」
「的外れ」
続いた呟きはピスとケスの二人。
「な、何が……?」
「先生の話」
「嘘ばかり」
う、嘘……? 先生の話が?
だって先生は正しい事を色々授業で教えてくれているのに。一体彼女達は何を言っているのだろうか。
「ほんと、勉強なんて意味ないよな」
「うん」
「そう」
何故か同調したロベールと双子。その根拠が……話の流れが分からなくて混乱する。
ロベールのそれはただ面倒くさがりなだけだろう。それでも頭がいいのは……もうこの際横に置いておくとして。問題は二人の方だ。
彼女達の話では、先生の話は嘘だらけの的外れで、何の意味もないらしい。その意味が、見つからない。
「……ど、どうしてそう思うの?」
「どうしてって、」
「間違ってるから?」
さも当然のように答える二人。その天色の瞳は微塵も疑いの色を宿さず、ただ当たり前の如く告げる。
その断固たる音に、自分が間違っているとさえ錯覚してくる。
「ま、間違ってる理由は?」
「嘘だから」
「そんな形してない」
……もう分からない。けれど、分かったことが一つ。
彼女達は、そうだと信じて疑っていない。彼女達には別の何かが見えている。
それが何なのか、あたしには分からない。理解、したいのに。出来ると思いたいのに。……とても、遠い。
「……でも先生はいい」
「どの先生?」
「ん……」
ロベールの声に腕を上げて指した二人。その先にいたのはあたし達の教室の担任であるリゼット先生だった。
「一個だけ、正しかった」
「ケス達は、4」
4。その数字の意味。それも、分からない。分からない事だらけだ。
でも彼女達はそれを知っていて、理解していて……それが何だか悔しい。
あたしは賢い方ではないかもしれないけれど、理解だけは人一倍頑張ってきたから。誰かの為に、自分の為に。どうすれば一番なのか、ずっと考えてきた。
けれど、それでも足りないことがとても悔しい。
「だから」
「お客さん」
と、続いた言葉が繋がらない。足を止めた二人が直ぐ傍の森の奥をじっと見つめる。今度は何事かと彼女達に続けば、それから草むらががさりと揺れて小さな体が姿を表した。
「……残念。もうちょっとで驚かせたのに。いい勘してるな」
「かくれんぼは得意」
「楽しかった、よ?」
「そりゃあ何よりだっ」
彼女達が言葉を交わした先は野良の男の妖精。どうやら悪戯で驚かせようとしたらしいところを、二人が察して見つけたらしい。全く気配なんてなかったのに……一体どうやって隠れていたのを見破ったのだろうか。
「しかしこうなっちゃあ甲斐がない。……よしこうしよう。これから一緒に遊びに行かないかっ。いいところに案内してやる」
「ちょ、ちょっと待って。あたし達今学園の授業中で」
「楽しいのかい、それ?」
「っ……」
言語の平均化の術式を使って話に横入りする。流石にその誘いを見過ごす事は出来ない。
そう告げれば返った音に言葉を詰まらせてしまった。
妖精は、良くも悪くも純粋だ。楽しい事だけを追いかける自由の象徴。そんな彼らと共に築き上げた生活が今のフェルクレールトの地盤となっている。
無闇に妖精の機嫌を損ねたりすれば、そんな誰かの非情が巡って大きな災いを齎すかもしれない。そうならなくとも、目の前の妖精の悪戯をこの身に受けるかもしれない。
だから基本的に妖精の自由、悪戯に深く干渉する事は避けられているのが人の世界の常識だ。
そんな彼が問う。学園とは、学ぶとは楽しい事なのか、と。
……確かに辛い事はあるだろう。全てが楽しいなんて、それこそ幻想のまやかしだ。けれどそれが全てではないし、学んだ先にしか得られないものがある。学ぶ事で、前に進める。
何よりここカリーナは、学の高さで人を判断するような風潮が根強い。そんなお国柄はどの国でもあることだろうが、だからあたし達はこうして国最高峰の……世界でも五指に入ると言われる学び舎に入学したのだ。そうすれば、未来が約束され、立派な妖精従きとして彼ら妖精と共に先を歩いていけると思うから。
もちろん彼に悪気がない事は分かっている。ただ純粋に……それこそ子供が疑問を口にするような危うさで音にしたのだと。
しかし、あたしはそうは感じないのだ。
妖精は、自由で、純粋で……直感に優れている。その瞳は、心は、思考の奥までも見通すと言われるほどだ。
そんな妖精の言葉は、少なくとも嘘ではないから。それがあたしに向けられた言葉なら、彼があたしの心の内に眠るそれを感じ取ったのかもしれないとさえ、怖くなる……。
飾らない妖精。けれど恐怖は信頼と紙一重で。だから交わした契約で助け合う妖精従きと契約妖精は、言葉にしないままに互いを認識して良好な関係が築けるのだ。悩みや不安を、共有出来るから。
人は、弱い。だから巡って、彼ら妖精の悪戯の対象にさえなる。
そうして、何よりも恐ろしいのは、本当に彼らが遊びたい以上の感情を有していない事なのだ。それが一番、厄介だ。
「楽しく生きないでどうするんだい? 苦しい事をしてどうするんだい? 自分に嘘を吐いたって、君達はその先に本当の満足を得られるのか? 幾ら言い繕った所で、それは迷いから生まれた結果だろう? 人は、根拠や覚悟のない行いを嫌うんじゃないのか?」
「っ……!」
根拠の権化にそう言われて胸の奥が曳き絞られる。
……分かっている。そこに悪意はない。純粋に、その通りなだけだ。……だけだ、けれども。だからこそ、それは、なによりも真実で…………。
「いいよ」
「いこ?」
「ぇ……?」
そんな迷いの最中にも、何事をも疑わない双子が足を出す。……分からない。何が正しいかなんて、そんなの、今は…………。
「ったくしょうがねぇなぁ……」
「ろ、ロベール……!」
「直ぐに戻ってくればいいだろ。それに、妖精が見せてくれるって言ってんだ。感想文にも面白いことが書けるしな」
「そ、そんなの駄目に…………!」
駄目に、決まっている。……本当に、そうだろうか?
何が、駄目なのだろうか。何が、いいのだろうか。
先生の言い付けや授業を受けること? 嘘かもしれないのに? 楽しくないかもしれないのに?
友達の思いを引き止めること? それって本当に友達のため? 誰の、ため?
妖精の言葉を疑うこと? 彼らは嘘は吐かないのに? 世界のはんぶんを見られるかもしれないのに?
好きな子に置いていかれてもいいの? …………嫌。それだけは、嫌っ。
「っ……! ま、待ってよ。あたしも付いて行くからっ」
「ははっ。それじゃあ楽しい時間にご招待だっ!」
気付けば出していた一歩。いつしか最後尾に取り残されていたそこから、予定にはない自然の中へと足を踏み出す。踏み外す……?
するとざわりと肌を撫でた気がする何か。風か、枝か、妖精力か。
目に見えない何かが心の奥底から大事な物を掠め取って行くような不思議な感覚。代わりに胸を埋め尽くすのは、後悔と、背徳感と……僅かな高揚。
あぁ、駄目なのに…………。そんな感情を塗り潰す様な衝動が湧き上がってきて、背中を何かに押された気がした。
* * *
「…………あら……?」
「先生、どうしたんですか?」
点呼を取って確認すれば、一つだけ埋まらなかった名前に声を漏らす。思わずの音を拾い上げたらしい近くにいた生徒がこちらを見上げながら尋ねてきて、その瞳を見つめ返すと自然と仮面を被れた。
「いえ、大丈夫よ。休憩が終わったらまた登るから、今はゆっくりと休んでね」
「はいっ」
元気のいい返事に笑いかけて、それから足を出す。一通り自分の足で確認した後、別の引率の先生に事情を話して次の事を任せれば、そのまま来た道を引き返して行く。
……あの双子ちゃんがいる班だけ姿が見当たらない。どこかで逸れたか、遅れたか……。いや、それだったら少し後ろから追いかけて来ていた別の先生が気付いているはず。と言う事は、あれか…………。
面倒な事態を想像しつつ少し早足に。
毎年行われる登山の授業。登山と言っても整備された山道を列を成してゆっくりと進む、遠足のようなものだが、毎年ではないにしろ時折こんな問題が起きるのだ。
この山は自然の塊だ。だから自然を好む野良の妖精達が多く住んでいる。言わば彼女達の大きな家なのだ。
今回の授業としては、そんな妖精との触れ合いも少しばかり含まれているが、それは森の中にいる彼女達を遠めに見ながら観察をしたり、教員の監督の下妖精と意思疎通をしたりと言う程度の小さなものだ。そしてそれを授業後の感想文に書いて提出してもらうまでが一連の流れ。
けれど時々教員の目を盗んで個に接触してくる妖精が現れるのだ。大抵は好奇心から列を外れた生徒が対象で、そう言う事をしそうな生徒は予め目を光らせておくのが対策。その注意の外側で、外での授業に興奮した生徒達が今回のように妖精について行ってしまい、それを連れ戻すのがまた一苦労と言う、出来れば起こって欲しくない部類の問題だ。
それがまさか、今年は彼女達だなんて……。
気には掛けていたつもりだが他の生徒も見なければで、それに他の二人がいたから大丈夫だろうと油断していた。双子ちゃんほどではないが、あの二人も優秀な成績で入学した可愛い教え子だ。少なくともそこらの妖精の誘いには乗らないだろうと思っていたのだが、甘かったか……。
それともそう言う誘い文句に長けた子が偶然居合わせたのか。だとしたら少し本腰を入れなければ。
掛けた丸い眼鏡を小さく押し上げれば、覚悟を固めて相棒を呼ぶ。
「シリル、来て頂戴っ」
微かに妖精力を練り行使した力。強制招聘の妖精術。
普段は互いを尊重し別行動を取る彼は自由気ままで、何か用がある時にしか呼び出さない契約だ。が、今回は彼の力を借りなければ少し手こずりそうだ。
そんな事を考えていると虹色の残滓を巻き散らして目の前に現れた男の妖精が一人。彼がシリル。私ことリゼット・ヌンキの契約妖精だ。
「だぁあああっ!? もう一針で終わりだったのにぃ! 何でこう毎回毎回狙ったように呼び出すんだよっ!」
開口一番叫んだ相棒。どうやら今回も折が悪かったらしい。いつものことだからもう慣れてしまった……。
「悪かったわよ……。また今度生地買ってあげるから許して」
「……よく行く靴屋の向かいの角の店っ」
「はいはい。約束ね」
要らぬ出費になりそうだが、背に腹は代えられない。彼の要望に応えつつ要件を端的に告げる。
「探し物を手伝って。貴方の力が必要よ」
「で、今回はなんだ? 小さな装飾品か? 子供の頃から大事にしてるぬいぐるみか? それとも男か?」
「違うわよっ。……生徒。この辺りで妖精の悪戯にあった子がいないか調べて。数は四人よ」
失敬な。これでも男との接点はあるつもりよっ。……前にいいなって思った人は既に結婚してたけど。ってそうじゃなくてっ!
思わず感情的に反論して目的を告げながら落ち着く。私の事はいいんだってば。今日も仕事終わりに飲みに行くし……。いい出会いが転がっているかもしれないし。
そんな事を益体もなく考えていると、仕方ないとばかりに溜息を吐いたシリルが大地に座りこんで目を閉じる。次の瞬間、広がった方陣と妖精力が辺りの木々の枝を揺らせば、ぽつぽつと浮かび上がり始めた虹色の球。
彼はレプラコーン。大地に属する靴職人の妖精だ。自らのために働く存在で、特に物作りに関しては一家言を持つ少し頑固な子。
けれどそんな彼と、大概自分本位な私が深いところで惹かれ合ったのは仕組まれたような偶然で。彼との契約以降、一つだけ交わした約束は、互いの自分のための仕事を出来る限り邪魔しないこと。そうすれば必要なときに必要な手を取ると言う変わった契約だ。
先ほど呼び出す前にも何やらしていたようだったが、今度は一体何を作っていたのだろうか。また今度、彼の機嫌がいい時に訊いてみるとしよう。
……因みに、今私が履いているのは彼が作った靴だ。曰く失敗作らしい。随分履き心地はいいんだけれども。
普段は意識しないほどに馴染んだ靴の存在感を確かに覚えるのと同時、虹色の光が辺りに伝播して草木を軽く撓らせる。と、目を開けたシリルが呟く。
「……多分だが、恋語らいだな。そっちの方だ」
「そう。これまた面倒なのに引っかかったものね」
指を差すシリルの導きを脳裏の地図と比較しながらもう一つに思考を巡らせる。
恋語らい──ガンコナー。言い寄り魔とも呼ばれる口の立つ妖精。特に女性に言い寄ることが多く、これまでの研究では契約相手は皆女性らしい。言ってしまえば女の敵。そんな存在だ。
が、妖精であるからには契約をして、それに見合う恩恵を授けてくれる存在でもある。妖精従きはよくガンコナーに惚れてしまうと言われるが、その強い思いが高じて様々な結果を手繰り寄せると言う話だ。対価の見返りに福や益を齎す……ケルピーやリャナンシーに近い存在だ。
しかしそれは契約をすればの話。野良の彼らは特に悪戯で女性を拐かす事に楽しみを見出すことが多い存在だ。だから一律人型な妖精でもガンコナーは直ぐに見分けがつくと言われるのだ。
そんな悪戯に、どうやら彼女達が捕まってしまったらしい。魅入られたのは、双子たちか、それともシルヴィ・クラズか。罷り間違ってもロベール・アリオンと言う事はないだろう。
何にせよ、彼に引っ張りこまれて心酔してしまえばそのまま遭難からの餓死と言う可能性もないわけではない。一刻も早く探し出さなければ。
「んじゃあ俺は帰る。後は頑張ってくれ」
「えぇ、急に呼び出して悪かったわね」
少し疲れたように山の中を突っ切って町の方へと戻って行くシリルを見送り、それから意を決して道を外れ一歩を踏み出す。
全く、世話のかかる子達だ。まぁそれも可愛さの一つ。教師としての仕事だ。それに、何事もなく済めば教訓になる。そう言う意味では今回のこれも彼女達にとっての特別課外授業になるだろうと。
想像をしつつ辺りを見渡しながら歩みを進める。すると遠くに草の根を掻き分けたような道を見つけて少しだけ息を吐いた。
……さて、早く連れて帰ってしっかりお説教をしよう。
* * *
後ろからついて来る足音に上機嫌な音が弾む。男がついて来たのは計算外だったが、どうやらあいつは似たような心持らしい。想いが実るかどうかは彼次第だが、このままでは哀れな結末が待っていることだろう。
珍しく男に興味を抱いた事に少しだけ楽しさを見出しつつ、それから今回誘った二人の事を振り返る。
まるで鏡合わせのようによく似た少女。人の世界では確か……双子と言ったか。純粋な妖精に血族や出生の概念は薄いから理解が難しい話だが、外ではなく内側も相当似ているらしい。
特別意思疎通をしているわけでもないのに、考えることが互いを追い駆け。見ている景色が一つのものを反対側から見つめて別々の世界を見ている。……けれども相手の見ているものを直感のような何かで理解して、納得している。
人は面白い生き物だ。不安定で、曖昧で、確固としていて。だからこそふらつくその足取りがこちらへ傾いた時に楽しさを感じる。達成感を覚える。あぁ、彼女はまだまだ未熟で瑞々しい、と。
しかしあの二人にはそれがない。かと言って熟れ過ぎて魅力がないわけでもない。少しだけ覗いても中に何も感じなくて、この身にしてもどうして彼女達が頷いてくれたのかが分からない。
恋でも愛でもない。ただ純粋な……楽しさ。それこそ妖精と似たような、真っ直ぐさ。
こんな人間がいるのかと。一目見て、言葉を交わして、疑った上で……柄にも無く興味を持ってしまった。
全てを受け入れてくれそうなほどにがらんどうで。けれども全く認められないような潔癖さで。
全く違うのに、その二つが同じ体に同居しているような不思議さが、他の人間とは違うと知りたくなるのだ。
ならば、さて。これからどうしてくれようかと。この時間ならあっちの切り株に他の子達が集まっているから、そこに迷い込ませるのもいい。……それとも個人的な秘密の場所に招待するのも面白いかもしれない。
どう転んだら、一体どんな反応を見せてくれるのだろうか……。それが今から楽しみで仕方がないのだ。
無計画で、無限大な可能性を夢想してくるりと身を翻す。
「一応訊いておこうっ。どこか行ってみたい場所はあるかい? 楽しければその都合も考えてやろうっ」
それよりもなによりも。彼女達が見せてくれる世界が今は楽しみで仕方がない。惚れさせる者が惚れてしまうなんて愚かな話かもしれない。けれどこうも考えてしまうのだ。彼女達と契約をしたのなら、きっとこれまでにない楽しさが待っているのだろうと。
ならばこうして妖精の誘いに道を踏み外すように……人の決め事からも外れてしまうのも一興だろう。偶然ではあるが見つけた機会だ。今から二年も待つなんてそんなつまらない事はできそうにないっ。
そんな事を考えていると双子が声を落とす。
「どこでもいい」
「楽しいなら」
その中に、この身への興味は一切感じない。その事実が胸の奥の楽しさを更に疼かせる。
どうにかしてこちらに引きこみたい。目を合わせて、逸らせないようにして、振り回してやりたいっ。強い欲求が胸を打つ。
一体どうすれば彼女達の瞳はこちらを向いてくれるだろうか。それを考えるのが楽しくて仕方ないのだ。
「ふむ、ならば、そうだな…………例えば────」
こうなれば最早意地だ。絶対にその胸の奥を覗きこんで奪い去ってやるっ。
と、そうして意気込んだ直後。開いた口を思わず閉じる。近くに人の気配……。恐らく彼女達を探しに来た大人だろうか。
思ったより来るのが早かった。……いや、それよりも迷わない足取りの方が気になるか。こちら側の手助けでも借りたか。
きっと彼女達が通う学び舎の大人だろうと察して、それから諦めを見出す。
さすがに事を構えると自由が奪われてしまう。それは何より妖精として死守すべき一線だ。この山には沢山の同胞達が住んでいる。彼女達の居場所を騒がせるわけにもいかない。
「……よし決めた。この先にとっておきがある。森の中を連れまわしたお礼にいい景色を見せてやろうっ」
しかし、出来るところまでは彼女達と一緒にいたい。そうすれば楽しさを追いかけて生き続けられる。
「どんな場所?」
「遠い?」
「直ぐそこだ。お楽しみは自分達の目で見てからだなっ」
「ん、分かった」
「行こ?」
頷いた二人を先導するように木々の間を抜けていく。他の二人……特に女の方は随分と警戒しているようだが、さすがに今から口説き落とすだけの時間はない。また今度出会った時にでも少しばかりお話をするとしよう。悪戯は、楽しいからなっ。
考えながらしばらく歩いて、やがて開けた場所に出る。そこは森から一つ突き出た崖のような場所。人の身には危険かもしれないが、飛べる妖精には何の苦にもならないところだ。
そこから見える景色。緑の絨毯の先に広がる白亜の箱が立ち並ぶ景色。更に遠くには空に浮かぶ球から注ぐ光を反射して宝石のように光り輝く青い水の原。ここは、この山の中でも殆どが知らない絶景を拝める隠し場所だ。時が夕暮れなら、傾いた光に染まる人の国が幻想的にさえ映る風景を見せてくれる。
「すっげぇ……」
「こんな場所、あったんだ…………」
そんな美を楽しむ感性は人も妖精もそれほど変わりない様子で。零れた音は双子の後ろからついてきていた男と女のもの。可能であれば更に何か贈り物でも用意して永遠に振り回し続けてあげてもよかったのだが、生憎と今回は難しい。
その崖から一緒に跳び降りてくれるなら話は別だが、幾ら無関心な二人でも命までも投げ出す事はないだろう。人が飛べればよかったのに……。
「きれい」
「初めて」
「……ほんとはもっと楽しい場所に連れて行ってあげたいんだけどな。時間切れだ。またな、想い抱く人の子よっ」
もう直ぐ傍まで来ているらしい大人に捕まるわけにはいかないと。飛ぶ力を抑えてそのまま眼下の山中へと落下していく。
「またね」
「ばいばい」
そんな最中に、そうして初めて合った気がする視線と、投げかけられた別れの言葉。
また。その機会が訪れる事を願っていると笑みを浮かべれば、彼女達の姿が木々の幕に覆われて見えなくなったのだった。
* * *
「やっと見つけた……。ほら、戻るわよ?」
小さく安堵の息を吐いて、それから崖に立つ四人の背中に声をかける。言葉に振り返った彼女達は、それぞれに違う表情を見せる。
いつもと変わらない無表情のピスとケス。少し寂しそうな色を浮かべたロベール。心の底から安心したようなシルヴィ。その表情だけで、どんな思いでここにやってきたのかが分かる。
「全く。そう簡単に妖精についていかない。中には命を失うかもしれない誘いもあるのよ? 無事だったからよかったなんてそんな言い訳はいつも通用するわけじゃないの。分かったら早く戻って、終わった後に反省文を書いてもらうから。いいわね?」
「…………はい」
「ごめんなさい、先生」
説教には物分りのいい返事。その言葉の通りに肝に銘じて危ない行動を控えてくれると嬉しいのだろうけれども。……しかし、まずは信じる事からか。彼女達がこれを教訓に一歩学んでくれる事を願うとしよう。
「さぁ、帰るわ────っ!?」
そうして四人を迎えようとした刹那。足の裏の感覚に息を詰めて妖精術を行使する。
次の瞬間、張り出した崖が中ほどから崩れて四人の体を宙に浮かせたのが見えた。咄嗟の妖精術は足場の構築。崩れたその断面からうねる蛇のように絡み合い筏を作るように土の大地を作り出す。その地面に彼らが足をつけた先から土の繭が体を包み、そのままこちら側へと引っ張りあげた。
が、その対処で助けられたのはロベールとシルヴィの二人。並んで遠くにいたピスとケスの二人が足場を見失って高さのある崖の下へと姿を消す。
ならばせめて身を挺してでもと。過ぎった思考と共に駆け出そうとしたところで唐突に大地が揺れ、立っていられなくなり膝を折った。
「っ……! 二人は……!?」
直ぐに収まった揺れに、慌てて崩れた崖から下を覗きこむ。崩れた岩が残骸となって森の中へと落ちていくさまを見て、胸の奥がすっと冷たくなる。
と────
「先生」
「ここ」
次いで響いたのはほぼ垂直に切り立った崖の裏側。妖精術で安全を確保しながらそこを覗き込めば、崖の壁から岩の足場を作り出して二人がそこに座り込んでいた。
「よ、よかったぁ…………。二人とも無事っ? 怪我とかしてないっ?」
「うん」
「すぐ戻る」
問えば元気そうな声が返って心の底から安堵する。突然の事でびっくりしたが、どうやら咄嗟に足場を作って命に関わる落下を防いだらしい。優秀なのは学力だけでなくいざと言うときの判断力もか。……何にせよ、彼女達が無事でよかった。
続けて妖精術を行使した双子が階段状に岩の足場を作って上まで登ってくる。その体運びだけ見ても、小柄ながらそれなりに動ける様子。あれなら実技の授業でもいいところまでいくかもしれないと少しだけ先が楽しみになる。
兎のように跳んで登って来た双子と合流し、それ以上の説教も忘れて元の道へと戻る。確かな道を踏みしめると、誰からともなく吐息が零れた。
「……さて、皆が待ってるわ。今度は寄り道しないようにちゃんと登るわよ」
「はい」
全てが恙無く終えられるとは思っていながったが、予想外にもほどがあったと。彼女達が無事である事実。それを確かめるように幾度か振り返りながら休憩する生徒達に追いついて。他の先生とも話し合い、彼女達のためにと少し長い休憩を取ってようやく授業を再開した。
残り半分の道行きはそれ以上大きな問題も起きる事無く。今度こそ全員で山を登りきり、見晴らしのいい頂上からカリーナの町を一望する。
広がる青空と深い色をした海を背景に陽の光に照らされた白い建造物と自然の緑。他のどこでも見られないこの景色は、カリーナが誇る絶景だ。
よくカリーナの色は白色だと言われる。それはきっとカリーナ城のお膝元であるこの地の印象が強いからなのだろう。
白は始まりの色。何色にも染まる最初であり、沢山の未来を詰め込める夢の象徴。その躍進と祝福を抱いて、この地から世界を変えるような人物が輩出される事を願っているのが、国としての指針の一つだ。
そんな未来溢れる生徒達をここに連れてきて膨大な可能性の将来を説く。それが我々教員側の願いと仕事。叶うことならば、彼女達が世界に羽ばたく一助を出来ますように、と…………。
「さぁ皆、お弁当を広げて昼食にしましょうっ。あまり遠くには行かないように気をつけてね」
さらりと注意を添えつつ、ここからは食事と自由時間。下山まではこちら側もそれなりの休息だ。
声には元気のいい返事が重なってまた一つ声が重なる。
やっぱり子供は元気がいいのが一番だ。
* * *
「ロベール、何してるの? ご飯食べるよ?」
「あ、うん」
背中に掛けられた声に振り向いて歩き出す。広げた敷物の上に腰を下せば、幼馴染のシルヴィが何かを言いたそうにこちらを見つめてきた。
「……何?」
「いや、ぼぅっと町のほう見てたから。ロベールにもそう言う感性があったのかぁって思って」
「なんだよそれ、失礼だな。……そうじゃなくて、少し比べてたんだよ」
「何と?」
幼い頃からの付き合いで遠慮などない言葉。シルヴィに何が分かるんだよ。ぼくにだってそれくらいの情緒はあるっての。
「あの妖精に見せてもらった景色と、ここと。何かちょっと違うなって」
「ちょっとって何よ。具体的には?」
具体的にって。一々細かいなぁ……。
「…………こっちの方が大きく見えるけど、向こうの方が綺麗だった」
「こっちは広いから」
「あっちは海が反射してた」
余り言葉にならない感想をどうにか音にすれば、続いたのはピスとケスの言葉。彼女達のぽつりとした響きにしっくりくる。
「そう、それっ」
「なら自分の言葉で言ってよ。……でも、そうね。こっちは視界が開けてるから、大きく見える。迫力はあるね」
「あっちは周りを木に囲まれてたけど、その分綺麗ではあったよな。絵にするなら向こうだなっ」
「絵下手な癖に」
「なっ……!?」
……そりゃあシルヴィに比べたら下手かもしれないけど。別に見れないほどじゃないだろっ。
「っ、大体何でそんな事訊いたんだよっ」
「感想文っ。似たような事書きたくないから」
「でたよ、シルヴィの得点稼ぎ……」
「稼いでないっ。ただロベールと同程度って評価されるのが嫌なだけっ」
「なんだよそれっ。俺の方が点数がいいだろ?」
「試験なんて一回限りでしょ?」
売り言葉に買い言葉でずれていく話の焦点。いつもの事だと言えばそれまでだが、どうにも対抗心を燃やさないでいられない。ずっと同じ環境で育ってきたが故の仕方ない反応だ。幼馴染なんていい事はそれほど存在しない。
「じゃあ勝負するか? 次の試験で点数が上だった方が相手の言う事を一つ聞くっ。どうだ!」
「……馬鹿じゃないの?」
「負けるのが怖いのか?」
「くだらないって言ってるの。なんで関係ない賭けをしないといけないのよ」
どうやら負けると分かって逃げたらしい。意気地なし。
「勝負」
「する?」
「……え?」
と、そんな事を考えていると横から上がった声。思わず惚けた声を出せば、ピスとケスがこちらをじっと見つめて首を傾げていた。
「ぁ……いや、その…………」
「……何、負けるのが怖いの?」
「ばっ……!?」
色々頭の中を駆け巡る。
主席入学の二人に自分の学力が及ぶだろうかとか。さっきは逃げたくせにいきなり掌返しやがってとか。馬鹿って言ったらそれこそ反論を許してしまうとか。
「何……?」
「……な、なんでもねぇよ…………」
「あっそ」
まるで勝ち誇ったように言葉を落とすシルヴィ。そのこちらを煽るような表情に、返す言葉を探し始める。
「勝負」
「どうするの?」
二人は二人で疑問を落とす。……だめだ、頭が回らなくなってきた…………。
そんな風に混乱していると、沈黙と嫌うように口を開いたのはシルヴィだった。
「…………いいよ、しようよ、勝負」
「へ…………?」
「その代わり二対二。ピスちゃんとケスちゃんが──」
「名前」
「ちゃんいらない」
次から次へと話が進む。と言うか跳んでいく。何だかよく分からないが、シルヴィがやる気になったらしい。
「あ、そう……。だったらあたしも呼び捨てでいいよ」
「うん」
「わかった」
そうしてぼくを置いてけぼりに三人が仲良くなる。何だか色々蚊帳の外だ。
「……で、ピスとケスがあたしとロベールとそれぞれ組んで、合計点で競う。どう?」
問われて、それからようやく思考が追いつく。……要するにチーム戦と言うことだろう。確かにそれならば全員参戦で面白くもなる。
「…………ぼくはいいよっ。二人は?」
「……意味」
「……ないよ?」
どこか外れた返答。話の主語が見つからずにシルヴィと二人戸惑う。
すると次いで彼女達が口を開く。
「ピス達」
「同じ点数だから」
「二人の勝負になるけど」
「いいの?」
「えっ……と……」
同じ点数……ってどう言うことだ?
「同じって……試験の点数だよ? 問題は出されるまで分からないんだよ?」
「うん、そう」
「これまでもそうだった」
「これまでって……もしかしてずっと同じ点数取ってきたのかっ?」
「ピスの分かる事はケスも分かる」
「ケスが分からない事はピスも分からない」
当たり前のように疑う余地もなく音にする二人。
にわかに信じがたい話だが……どうやら二人の中ではそう言うものらしい。双子とは不思議なものだ。……それとも二人が特別なのだろうか?
何にせよ、彼女達で差が付く事はないと確信している。だから勝負は必然ぼくとシルヴィの一騎打ちになると言うことだ。
「それでもいいなら」
「勝負しよ」
「ピス達も」
「少し楽しみ」
無表情ながら少しだけ言葉に熱が篭った……気がした。が、そんな感慨は直ぐに消え去り、シルヴィと視線を交わす。
彼女も大概頑固で、言い出したら引っ込めない性格だ。だったらもう逃げ道は存在しない。
既に散り始める火花。そこから思い出したようにシルヴィが問う。
「……二人は別々だから、あたし達のどっちかが勝ったらもう片方に言う事を聞かせられるようになるけど、それでもいいの?」
そうだ。ぼく達は長く一緒にいて、こうなる事も珍しくないからいいけれど。二人が敵対して競うと言うのは、まだ短い付き合いながらも想像でも難しい話。加えてこの話は勝敗の決定権がぼくとシルヴィに委ねられてしまう。彼女達にとってはどちらか片方が望まない結果を押し付けられるかもしれないのだ。
「大丈夫」
「勝負だから」
果断な物言い。これまでもそうだったが、彼女達の中での決断は既に決定事項らしい。その言動が確信を抱いて音として紡がれるのだろう。
二人は、嘘や方便とは間逆ところにいるのかもしれない。
「……いいか?」
「いいよ」
最後の確認に目の前のシルヴィに問えば、彼女の強い光を目に灯して頷く。
ならば決まりだ。学園に入ってから初めての勝負。それも二人を巻き込んだ戦いだ。負けられないっ!
……それに、シルヴィには悪いが今回は策があるのだ。自力と必勝法。この二つを振りかざして、目に物を見せてやる!
* * *
吹っ掛けられた勝負。今までも何度もしてきた約束を……それらとは決定的に違う今回の勝負を、自室の寝具の上から思い返して声をあげる。
「何でのっちゃたかなぁ、あたしぃっ……!?」
そのつもりは無かったのだ。
折角の学園生活。今までみたいな子供の馴れ合いは封印して、新たな始まりとして大人になろうと決意したのに。その理想がこんなにも早く、あっけなく崩れてしまう。
原因は……分かっている。可愛くない嫉妬だ。
一度は跳ね除けた話。けれどもその後に転がった話題に、あの双子ちゃんがいたのだ。そのことが嫌で堪らなかったのだ。
もちろん、二人に悪い部分は無い。あるのはあたしの短い気と、あの馬鹿の節操の無さと、あわよくば……。
あの時……話が思いもよらない方に転がった時、彼はどこか嬉しそうだったのだ。勝てる見込みなんて無いのに、それでも勝負できることが……接点のきっかけが出来た事が嬉しかったのだろう。分かりやすい表情をしていた。だから対抗心で、置いてけぼりにされたくなくて、こちらから首を突っ込んでしまった。
そうしたら彼女達の空気で話が更に大きくなって、気付けば双子ちゃんを分断して二対二のチーム戦になってしまった。
交わした言葉は少ないが、想像は出来る。二人にとってはいい迷惑だったに違いない。
ずっと同じ点数を取ってきたという二人。その言葉から分かるように、変わらず同じ物を見聞きして来たのだろう。その間を、あたしが裂いてしまった。
……もしこれが原因で二人の仲が悪くなってしまったら。何よりも、あたしとロベールの関係がこれ以上拗れてしまったら。一体どうすればいいのだろう……。
二人の顔色が分からない。その事がより深く自責の念を渦巻かせる。
けれど、逆に考えればこれはいい機会だ。まだどちらが味方でどちらが敵になるかは分からないが、片方と仲良くなれる可能性がある。その上でもし、二人の関係が変わらないのならば、もう一人とも仲良くなれる。
ロベールの好きな泥臭い物語ではないけれど。ぶつかって生まれる関係と言うものも確かにあるのだ。
だから、叶うことならこの勝負がいい方向に転がりますようにと何かに願って。それから胸に抱いた大きな枕を強く抱きしめる。
そして何より、願わくばロベールが変な気を起こしませんように……と。
* * *
ご帰宅なされたお嬢様方が大層ご機嫌なご様子でした。一体今日外で何があったのでございましょう。
そんな事を考えながら預からせていただいたお二方の通学鞄を運びます。その傍ら、お嬢様から預かった手紙を旦那様にお届けに上がります。
「失礼します。旦那様宛に学園からお手紙でございます」
「うむ、入ってくれ」
大きな木製の扉の前で要件を告げれば、招かれて部屋の中へ。無駄など一切無く与えられた仕事をこなせば、退出しようとしたところで旦那様に呼び止められました。
「ジネット、二人の事だ。君も聞くといい」
「はい」
「今日の授業であの子達が妖精に悪戯をされたらしい。集団行動を乱したそうだ。それから崖から落ちたとの連絡もある。一通り指導はしたそうだ」
「お話は旦那様からなさいますか?」
「……いや、君から頼む。彼女達のことだ、ちゃんと理由があっての事だろう。話を訊いてまた後でわたしに聞かせてくれるか?」
「承りました。並んで、お体の様子もご報告致します」
「頼む」
顔には出さなかったつもりだ。が、肝が冷えた。
まだ学園に入学して数日。しかしどうやら早くもお嬢様方の無軌道な自由さがはたらき始めたご様子です。
お二方は特別です。他には無い独特の世界を生き、一つ違った物の見方をしていらっしゃいます。その言動は時折折衝の種にもなれば、問題を解決する一助にもなる事があります。
もちろんの事、お二方にとってはそれが当たり前で、間違いの無い素直な事。我々に理解出来なくともお嬢様方には確かな納得があっての事です。
しかしそれをお二人は自らお話にはなりません。大抵の場合はこちらからお尋ねするか、解決した後に納得のように断片的な事を零されるのみです。
そのため、善意である以上お二人を盲目に糾弾する事は出来ません。例えこの身が旦那様より託されたお二方専属の使用人兼教育係であっても、です。
けれども糾弾は出来ないだけで、お話を聞き、表から裏から力になる事は可能です。時には導として愚考し、進言する事でお二人の道が誤った方に向かわないように手助けをする事が出来ます。
だからこそ今回も、そのようにするのが私に出来る精一杯であり、最大限でございます。
「お嬢様、ジネットです。よろしければお体を洗いますが如何でしょうか?」
「ん」
「お願い」
「畏まりました。それでは、失礼します」
辿り着いていた脱衣場。学園より帰ってきて一番に湯浴みがされたいと仰られたお二人。そんなお二方の思し召しを伺い、僭越ながら同じ場でお体の手入れを仰せつかります。
断り、扉を引けば内側より溢れた湯気。その奥に淡い室内光に照らされたお嬢様方の肢体が浮かび上がります。
空の雲よりも、ともすればここカリーナの城下町よりも白い肌。精緻な人形のような小さくも愛らしい華奢な手足。丸い肩は薄桃色に色づき珠の雫を滑らせ、触れたら包み込んで離さない様な……けれども確かな生命力を感じる瑞々しい肉付きが血色よくお嬢様方の裸体を彩ります。
下賎な事を申してもよいのでしたら、今この時のお二人を永遠なる縁に収めてしまいたいほどに端整で非の無いお姿です。
そんな絵画の中のようなお二人の小さな体を、優しく、丁寧に泡立てた海綿で洗っていきます。
「ん……ジネット」
「ちょっとくすぐったい」
「少々ご勘弁ください」
項から首、鎖骨、肩、腋、上腕、肘、肘窩、前腕、手首、甲、掌、指、爪。戻って胸、背、腹、下腹部、臀部、鼠蹊部、大腿、膝、膕、下腿、踝、踵、甲、趺、趾、爪。
必要以上に力を込めれば傷つけてしまいそうなほどに繊細で儚い肌を滑るように、泡沫の衣がお二方の肢体を彩っていきます。間接の微かな皺の一つまで余すところ無く隅々までお二方の結晶を浮かし落とせば、波打つ桶の湯を優しく掛け流して足元に雲海の如きかげろうが広がりました。
次いで湯気を昇らせる浴槽に身を預けたお嬢様方の長く美しい亜麻色の頭髪を、傷つけないように愛情を込めて梳き、泡立てた洗髪剤で軽やかに手入れしていきます。その傍らに、ユメミグサの花弁を浮かべた水面を掬っては小さな掌より逃がし、向かいに身を預けるお互いと戯れるお二人に尋ねます。
「今日の学園の授業は如何でしたか?」
「楽しかった」
「お散歩して来た」
「それはとても楽しげなお話ですね。よろしければわたくしに詳しくお聞かせ願えますでしょうか?」
「ん」
「いいよ」
少しだけ弾んだ声音。その端を確かに覚えながらお二方の静かで短く……そしてそれ以上に饒舌な景色の移り変わりに耽溺するように意識を傾けていきます。
話の途中、先ほどご主人様から窺ったお話に触れるところがございましたが、お二方の話ではどうやら危険を感じなかったために妖精のお誘いに頷いたとの事。その後の崖の崩落については全くの想定外。しかし直ぐに妖精術での対処をされたとの事で、自己診断ではお怪我は無いと言う話。
当然、先ほど洗体させていただいた際にお嬢様方の体を触診させていただき、その言葉に偽りが無い事も把握しております。
悪気は無く、確かな理由があっての納得の事。となれば、お嬢様方の身を案じる立場として言える事は僅かばかりでしょう。
「お嬢様」
「ん?」
「なに?」
「お嬢様方が通われる学び舎は妖精と共に歩む為の場所です。そこには数多の未来と真実が詰まり、通われる方全てに正しき導きがあらんと願っておられます。その学び舎に通われる以上、お嬢様方も周りの方々と同じお一人の生徒として学ぶ事が沢山存在すると思われます。その真実の探求のためにも、まずはお嬢様方がご無事に日々を過ごされ、今日よりも明日にはまた一つ大きく成長されることがわたくしの切なる思いです」
一言で言ってしまえば、心配なのだ。直接目にすることが出来ない以上、お二方が学園でどのような生活を送っていらっしゃるのか……。その事を思えば日々の仕事に手がつかないときもあります。
けれどそれ以上に、わたくしが敬愛するお嬢様方を信頼し、信用しているのです。
「ですので────」
「うん」
「大丈夫」
「危ない事はしない」
「約束、するよ?」
「……はい」
お嬢様方は大層聡明なお方です。お二人にしか感じられない世界で、いつも正しい事を見つめ、その先を探し求めていらっしゃいます。
だからこそ一度口にした事は少し強情なまでに違えようとはなさいません。そんなお二方だからこそ、わたくしは安心も出来るのです。
「では約束記念にお風呂から上がり次第紅茶とお菓子を用意しましょうか」
「うん、ありがと」
「今日はなに?」
「そちらの湯船に浮かんでいる、ユメミグサを用いた焼き菓子でございます」
「おいしそう」
「楽しみ」
「ではお召し物の準備をしてまいります」
話をしているうちにお嬢様方の長く流麗な御髪を洗い終わり、綺麗に流し終えると浴室を離れてお着替えの準備にとりかかります。
と、その時に丁度目に入った脱衣所の鏡。そこに映った笑顔の自分に小さく息を零して呟きます。
「お嬢様は、今日も今日とてわたくしの大切な心から仕えるべき主でございますね」