第四章
「でっけぇ…………」
首が痛くなるほどに見上げて簡素な感想を零す。間近で見たその威圧感に、この場には無関係な男の性が少しだけ騒ぐ。
建物然り、巨大なものとはどうしてこう魅力があるのだろうか。
本能に訴える感慨に震え、射竦められたように立ち尽くす。見上げた視界の中央で、この町と同じ純白の布が風にはためいていた。
カリーナ共和国城下町の玄関口。様々な物流の始まりと終わりである、市場区画。雑多に人が行き交い、煩いほどの大人の声が飛び交う活気溢れる場所から、更に南。どこまでも広がる、空と同じ深い青色の海原がこちら側に押し寄せる、その際で。フェルクレールトの大地でも有数の絶景を背景に、数多もの乗り物が波に揺られる。
船。人の手の届かない海の上を行く、人が造りし水の足。海洋生物の棲み処を侵犯しかねない傲慢で描き出されたもう一つの世界は、その巨体によって沢山の物を波に漂わせる。
実感の無い知識でしかない、先の大戦。第二次妖精大戦で、戦の道具として技術躍進をした一つ。造船技術は、数多もの犠牲を経て手繰り寄せた今現在、主に物資輸送などの役割を担って世界に普及している手段の一つだ。
土地や環境に左右される曲がりくねった地上の道に比べ、遮るものの無い海の上は自由に道を描ける。その為、空輸と合わせて何かを運ぶ際に事故や休息などで立ち止まったりと言う損失が圧倒的に少ない、優秀な道だ。
また、海上輸送は障害物がない故に巨大な運送物も楽々運べる。ドラゴンの力を借りて僅かの物を吊り下げ空を行く空輸と違い、海路でのそれは船が海に浮きさえすれば後はどうとでもなる。だから海上輸送では巨大な運送物や、物量を必要とする貿易品などが取り扱われる。
そんな海上輸送は、現在各国の間で交わされた条約により、その土地では手に入らない品をやり取りすることでそれぞれの国に得を生み出している。
ここカリーナでは、温暖な気候で育つ食べ物や新鮮な魚介類。薬などに使う草花などを多く輸出し、代わりに産出量の少ない鉱物資源などを輸入している。
その運搬に、物を沢山、殆ど障害も無く運べる海上輸送と言う手段を用いているのだ。
言わば世界の物流を支える一柱。そしてそれを可能にする目の前の巨大な船が停泊するカリーナ随一の港に、ロベール・アリオンことぼくはやって来ていた。
「ぼーっとしてると置いていくよ」
「んだよ。シルヴィはこれ見て何も思わないのか?」
白い帆に風を受け、広い海原を滑るように進む木造帆船。時には魚よりも早く動くその巨体は、しかし人の手は操舵と観測のみと言う、自然の力をこれでもかと利用した叡智の結晶の一つ。
一体こんなのをどこの誰が思いつくのだろうかと、その最初の人物に尊敬さえ抱く証に、けれども降り注ぐは無粋で冷たい声。
思わず顔を顰めて、隣を通り過ぎた幼馴染……シルヴィ・クラズに食って掛かる。
「……それ、今関係ある? これからする仕事に必要?」
「ぅぐ……!」
た、確かにその疑問に対しての答えは無い、けれども……。だからってそれとは別問題でやっぱり胸踊る部分はあるはずだろうと。言葉を探す沈黙と共に視線で訴えれば、彼女は呆れたように溜め息を吐く。
「……はぁ…………。……別に、何も思わないことは無いけど。その話は後でできるでしょ?」
「絶対だからなっ?」
「はいはい……」
こんなに巨大な舟を目の前にしてどうしてそんなにいつも通りでいられるのか。幼馴染ながら時折理解できないその感性に確約を得つつ足を出す。隣に並べば、シルヴィは辺りを見渡しながら口を開いた。
「で。この辺りで待ち合わせなんだけど。ロベール見た?」
「いや……」
彼女につられて周りにぐるりと視線を向けるが、お目当ての人物の姿は捉えられない。
「呼び出しておいて遅刻か?」
「そんなことする人には見えなかったけど……」
その点に関しては彼女と同意見。商人と言う仕事を生業とする彼が、約束を違えるとは思えない。だから恐らく見落としているだけなのだろうけれども……。
そう考えながら、荷下ろしを行う人と物の中から記憶を頼りにその顔を探す。と────
「おーいっ!」
「船の上」
「手を振ってる」
声は頭の上の方から。直ぐ傍よりあがった抑揚の薄い短い言葉を受けて再び見上げるように顔を上げる。すると逆光に影を落とす世界の中に、こちらへ向けて腕を掲げて左右に振る人物を船の縁に見つけた。
手を上げて返せば、その人物はすぐさま船を下りてこちらに駆け寄って来た。
「やぁ、よく来てくれたね」
既に一仕事終えているのか、額に汗を浮かべた男性。見覚えのある声と顔に、彼の名前を思い出す。
ジュスト・リーン。世界を荷馬車と共に巡って物を売り捌く、行商人だ。
一月ほど前、シルヴィの誕生日当日に偶然出会った商人で、元々はピスとケスの知り合い。各国を回って珍しい品物を取り扱っているらしく、今はカリーナで仕事に精を出しているのだ。
本来はそろそろ次の行商に向かう頃合らしいのだが、今回は少し事情があって滞在を長引かせている。その理由が、今目の前にある巨大な舟だ。
大量の物資輸送を目的とした帆船。この舟に、彼がブランデンブルクを出る時に買い付けた商品が乗っているらしいのだ。それをカリーナで売り捌く予定だったらしいが、なにやら問題があったらしく船の到着が随分と遅れた。お陰で彼も待ち惚けを食らっていたというわけだ。
そんな話を数日前に聞いて、興味本位で荷降ろしの手伝いがしたいと首を突っ込めば彼は人手が増えるならばと頷いてくれたのだ。
「早速だが手を貸してくれるか? 沢山あるんだ」
「うん」
「がんばる」
声に頷いたのは鏡写しな見た目の双子の少女。先ほど舟にジュストがいる事を教えてくれたのも彼女達だ。
この国の大統領、グンター・コルヴァズの孫、ピス・アルレシャにケス・アルレシャ。ぼくが想いを寄せる、カリーナの双玉だ。
今回はこの二人にぼくと、そして幼馴染の腐れ縁、シルヴィの四人と言ういつもの面子でジュストの手伝いに来ていると言うわけだ。
舟に向かってのびる舷梯を、先導するジュストについてのぼる。
「沢山ってどのくらいだ?」
「んー……馬車で三往復分はあると思うぞ」
「そんなにかよっ」
「それだけ沢山のものを一度に運べるのが海上輸送の強みの一つだからな」
一体何をそんなに持ってきたのか。量よりも中身が気になる。
「一つって事は他にも何かあるんですか?」
「輸送料が空輸に比べると格段に安い。そう言う所をいかに安く済ませて高値で売って利益を出すか。これが商売の楽しさの一つだ」
シルヴィの問い掛けに答えるジュスト。その横顔は子供のように楽しそうだ。
「全てはどれだけ儲けを出せるか。商売なんて簡単に言えばそれだけの事だからな」
「単純なんだな」
「だからこそ奥が深いのさ。世界には需要と供給がある。それを敏感に察知して対応しなけりゃ、次の瞬間には多額の負債を抱え込む事だってありえる。同時にまだ誰も取り扱っていない、けれども価値のある商品を探し出して周りを出し抜くことで先んじて利益を独占も出来る。店先の交渉一つでさえも、やり取り一つで値段が変わるんだ。一瞬たりとも気が抜けない……故に面白いのさっ!」
熱の入る弁には、先ほど巨大な舟に感じたような衝動が胸を打つ。
商売とは、戦いなのだ。何となく脳裏を過ぎったその言葉が自分の内側に収まると、納得と共にむず痒くなる。
難しそうだ。だから楽しそうだ。その事実を、何よりもジュストの顔が物語っている。
と、どうやらそんな感慨に、今度はシルヴィも共感したようだった。
「……少し興味が湧きました」
「本気なら嬉しいねぇ。どうだい。つまらないお勉強は捨てて一緒に世界を見て回るか?」
冗談なのだろう提案に、それからシルヴィはこちらを振り返って見つめてくる。
僅かに交わした視線。海の色にも似た、エメラルドグリーンの瞳を疑問に思いつつ首を傾げれば、彼女は何かを決意したようにジュストの方を向いて紡ぐ。
「…………いえ、まだ遣り残したことが沢山ありますから」
「そうかい。ま、勉強も必要なことだ。その上で、卒業してまだ興味があったら声を掛けてくれ。その時は世界の縮図を見せてあげよう」
「楽しみにしてます」
社交辞令ではあるのだろうが、少しだけ不安にもなる。
シルヴィは、そういう小難しい事を考えるのが得意だ。どこか感情的に思いのままに行動に移す僕とは正反対の、理知的で合理的な性格。彼女ならもしかすると、一角の商人になれるのかもしれないと想像する。
……幼馴染の事は何となくでも未来が描けるのに、自分のそれが曖昧なのはどうなのだろうかと。どこかで冷静な自分がそんな批評を突きつけるのと同時、次なる疑問がピスとケスから挙がった。
「荷物なに?」
「食べ物?」
「今回食べ物は輸送してないんだ。海上輸送は安い分移動に時間が掛かるからな。そう言うのは向かない。一応食べ物の為の小型高速帆船なんてのもあるが、生憎と食べ物関係は行商には向かなくてね。取り扱うとしても腐り辛い漬け物とか調味料とかだろうな」
そう言えば彼が開いていた店に言った時も食べ物の類は余り売っていなかったと思い出す。あの時に見たのは全部、ここカリーナでよく採れるものばかりだった。彼はどうやらそういう方面は取り扱っていないらしい。他国の珍しい食べ物にも興味はあるが……まぁいいとしようか。
考えていると、甲板に運び出された木箱や樽が並ぶ一角の前に足を止めたジュスト。
「さて。お話は一端終了だ。下に馬車が用意してあるから怪我しないように運んでくれ」
雑談を切り上げ、本来の仕事に取り掛かる。終わったらジルさんのところにでも行ってゆっくり休憩するとしよう。
* * *
ピスたちに荷運びをお願いしてから、少しだけ気になっていた疑問の解消に向かった。捕まえたのは他の商人らしき人物達と困ったように笑う男。彼は会話の中でこちらに気付くと手を上げて名前を呼ぶ。
「おぉっ、ジュストの旦那!」
「ご無沙汰してます」
恰幅のいい体は陽気で大きな声と共に。その身を海の服に包んだ彼は、この舟の船長だ。
彼とはブランデンブルクを出る前に海上輸送の契約を交わしていて、今回は既に四度目。所謂顔馴染みと言う奴で、毎年同じ時期に顔を合わせる為に懇意にさせてもらっている。
「あれかい。旦那も予定に遅れた件を言い咎めに来た口か?」
「言い咎めるだなんて。ただ何か理由があったのかと思いまして」
「いきなり糾弾しないとは、旦那は話が分かる御仁だな。金に目をギラつかせた奴らの嫌味ったらしい言葉と言ったら一に損失、二に責任と来たもんだ」
思わず乾いた笑みで応じつつ思う。
商人とはそういう生き物。財布の中身を数えて増えた減ったに一喜一憂するせせこましい人種だ。それを直接左右する商品に関することで妥協と言う物をあまりしない。そう言う意味では僕も大概かもしれないが、無駄に甘言を弄して少しでも儲けようとする同業とは少しだけ違う姿勢を持っているだろうか。多分根っからの性格の違いなのだろう。
もちろんお金や商品も大切だが、同等に損得で語れない物も存在しているわけで。そこにある程度の重きを置くのが僕がカリーナ出身である理由に違いない。
そんな、本来ならば必要以上に仲良くしない相手でも何となくの関係を紡いできた一端が、彼のその好意的な解釈なのだろう。……これで例えば、海上輸送で一旗揚げようとか言い出したらどうなるだろうかと想像しつつ。
「それで、舟が遅れた理由とは一体?」
そう。それが本題だ。
実はこの舟の到着が予定より数日遅れたのだ。
その所為で他の商人……特に期日指定で取り寄せたりしている同業がここ数日酒に溺れながらよく愚痴を零していたりもした。それが今日になってようやく到着したものだから、商人たちは理由よりも先に積もり積もった悪態をぶつけて……目の前の彼はそれに曝され辟易しているのだろう。
僕が今回そういう商品を取り扱ってなくてよかったと言うのは、単なる幸運に過ぎない。何かが違えば僕もあちら側だったかもしれないのだ。
遅まきながら到着した荷物を運び出そうと、いつも以上に騒がしい港周辺の音を遠くに聞きつつ尋ねる。すると船長は疲れたように吐き出した。
「一つ前の港で足止め食らったんだよ。補給以上にな」
「そこで何か?」
「いんや。問題があったのはここさ。何でもタルフ岩礁の辺りで問題があったらしくってな。落ち着くまでは近付くなってんでこっちに来られなかったんだよ」
「ふぅむ……?」
そう言えば何だかそんな話題を小耳に挟んだ気がするが……なんだったか。
「今もまだ行き来を制限してるみたいでな。港の出入りには誘導と護衛が必要なんだと。その順番待ちも含めて今も尚滞ってるってことだ」
「じゃああれか? ついさっき見た白角の面々は……」
「おうよっ。ま、お陰でこうして無事港に入れたんだから、命以上に大切な物は無いって話だな! ……いいや。あんたらには貨幣の方が大事かぁ?」
一緒に話を聞いていた商人に向けて歯を見せて笑う彼。言いつつ差し出すのは運送代金を記した紙。
当然だが、それこそが彼らの仕事。対価はしっかりと、だ。
加えて今回は難儀した様子。それでもこうして無事に届けてくれた感謝を伝えるためには、少しくらい色を付けた支払いをするとしようかと。
懐を心配した彼の言葉に、それで信頼が買えるならば安いことかと思いつつ。こちらにも差し出された紙を受け取る。
「とりあえず、ご無事で何よりでした。今後もどうぞご贔屓に」
「あぁ、任せときな!」
頼り甲斐のある海の男の声に差し出された手を取る。海風に吹かれ、操舵輪を長く握ってきた手の皮は、ずっと筆と手綱ばかりを握ってきた自分のそれとは違い分厚く、そして温かかった。
運送料の支払いは組合を通しての為に後回し。それよりも今はこの人でごった返す港を出て、遅れを取り戻さなければ。予定より遅れたからこそ、ここからは商人として腕の見せ所だ。
そんな風に考えながら手伝いを頼んだ四人と共に馬車に荷物を積み込んで、御者台に腰を下ろす。と、断りもなくピスとケスが僕を挟むように座った。相変わらずこの二人は自分の世界を生きてるな。この空気は、慌しい港の雰囲気を隔絶されていてどこか安心する。
「船遅れたの」
「どうして?」
「ん? ……あぁ、誰かの話を聞いたのか」
不意に零れた真っ直ぐな疑問。次いで一緒に手伝ってくれた後の二人も興味の視線を向けてくる。好奇心旺盛だな。
手綱を握り、馬を歩かせながら暇潰しに答える。
「なに、ちょっとした想定外さ。港に船が近づけなったんだと」
「海で何かあったのか?」
「タルフ岩礁の辺りで問題が起きたらしくてな。それの余波で安全が確保できなくて寄港できなかったんだ。今は白角騎士団が安全な道の先導と護衛をしてくれてるらしい」
「白角……と言う事はアランさんたちですか」
「……名前までは知らないがな。知り合いでも居るのか?」
残念ながらアランと言う名前に聞き覚えは無い。生まれてこの方騎士の世話になるような人生を歩んできていないのだ。名家のお嬢様が名前を覚えているのだからそれなりの人物なのだろう。
「白角騎士団の団長さんです。何度かお世話になっていて……二人は昔からの知り合いなんだよね?」
「うん」
「お酒弱い」
どうやらピスとケスも知っているらしい。彼女達は立場が立場故にそう言う変な繋がりが多いのだろう。後そのモノセロス何某の弱点を勝手に触れて回るのはいかがかと思うぞ?
「けど何があったんだろうな。二人は何か聞いてないのか?」
「知らない」
「聞いてない」
「そっか……」
「あれってそういうことだったのかな…………」
「あれ?」
湧いた疑問を解消しようと紡いだ言葉。僕も気になっていたそれには、けれども求めた答えは返らない。彼女達が知らないという事は、事は少し厄介な話しなのかもしれない。
そんな事を考える傍らで、シルヴィが何かを思い出すように呟いた。
「少し前に四人で海に行ったんです。その時にアランさんと偶然会って。海水浴場の緊急封鎖の話をしてたんです」
「それがタルフ岩礁との事と繋がってるかもしれないって?」
「想像ではありますが……」
確証は無いが、その物言いは理知的で。真剣な声に少しだけ思考を潜らせる。
しばらく前に海岸線を封鎖して。騎士団が動いていて。舟の運航が滞っている。そしてその理由を、大統領の孫である二人も知らない。
関係がないから知らせていない、と言うだけなら分かるが……もしそれが彼女達を巻き込まないようにする為の情報規制だとしたら?
「そういえば…………」
「どうかしたのか?」
「あ、いや……。なんでもない」
タルフ岩礁には水竜が棲息していた事を思い出す。海の治安を維持する彼らが出張っている状況を考えるに、それほどの危険があるということ。
…………まだ想像の域を出ないが、もしこの想像が当たっているとすれば彼女達には知らせない方がいいだろう。前途有望な若い芽を無闇に激しい風雨に晒す必要は無い。
「ま、金の匂いはしないからな。僕たちには無関係の話だ。気になるからって大人に迷惑をかけないようにな」
「うん」
「わかった」
大きな話には往々にして金銭が絡む。が、残念ながら情報で大きく儲けるより地道に小銭を積み上げる方が性に合っているのだ。真相に興味こそあるが、商人の血が騒ぐというほどのことでは無い。
可能であれば、カリーナに居るうちに事の顛末を酒の肴として知りたいと言ったくらいか。
釘を刺す意味も込めて話題を切れば、素直に頷いた双子の鏡写し達。
ま、幾ら普通じゃない彼女達でも、そんな問題に巻き込まれることは無いだろう。
* * *
あーやだやだ。あんなに荒れた海にあと少しだって居たくない。全然楽しくない。
そんな愚痴の捌け口を探して普段は余り来ない人の空気の中を飛ぶ。今更自由を生き甲斐とする妖精が人と人の合間を擦り抜けたって、気にするのは好奇心旺盛な子供ばかり。
と、不意に視線の交わった……人の暦で五つほどの男の子が物珍しそうにこちらを見つめてくる。その遠慮の無い視線に、傾いだ感情が更に傾いて、憂さ晴らしに悪戯を一つ。母親らしき女性と手を繋いだその鼻の先で、水の泡を一つパチンと弾けさせる。
いきなりの事に驚いた少年は往来の中で思わず尻餅を突いて母親の体勢を崩した。僅かに視線が集まってこちらへの意識が逸れた間に、少しだけ凪いだ感情を更に落ち着けて景色に溶ける。
……とは言ってもここは水辺では無いからそれほどの認識阻害にはならないだろうが。ないよりはましだろうと考えて。
それからしばらく迷路でも遊ぶように人の傍を飛び続ければ、やがて視界の端に水の張った樽を見つけてそこに腰掛けた。
そう言えば昨日雨が降ったのだったか。町の方に来ようと思ったのも、世界が水化粧をしていた所為なのだろう。
微かに濡れた石畳の地面を見つめ、戯れに樽の水面を指先で撫でる。すると水中に旋風でも発生したかのように水面が渦を巻いて回り始めた。次いでその渦の中心に指先を浸し、人が魚を釣るようにふっと持ち上げる。指の動きにつられて、水の渦が水である事を忘れたかのようにその形を反転させる。ワタシの直ぐ横で、逆巻く円錐の水の塊が流動していた。
他愛ない暇潰しに視線を感じて顔を上げる。目が合ったのは、屋根の上からこちらを覗く同類。ワタシとは違い、大地に住まう隣人か。
暢気そうな顔に少しだけ感情が膨れ上がり、隣で渦を巻く円錐の先から一条水を放った。
突然の事に慌てたのか、屋根の縁から落っこちて。それでも直ぐに翅を揺らし路地の奥へと消えていく。
……転生したばかりの浅い子だったかなぁ。だったら悪い事をしたかもしれない。
気付いて、それから同属にさえ荒んだ気持ちをぶつけた事に小さく息を吐く。何をしているのだろうか、ワタシは。……まぁ、原因と言えば一つしかないのだけれども。
「嫌にざわつくのよねぇ…………」
自分の胸に手を当てて零す。人ならばそこに鼓動があるらしいが、妖精は人ではない。人とは違う理で生きる種だ。だからあの不思議な……けれども聞いているとどこか安心する絶えない脈動の根源は存在しない。
代わりに魂を揺さぶる、己の声。いつからか聞こえる奥底からの呼び声は、陶酔さえ滲ませて理性を誘う。
けれども本能が否定する。放埓は自由ではない。戯れと傷害は違う。幾らそれが甘く濃厚な衝動であっても、それに身を任せる事は楽しくない。
だから疼くたび、自らを求めるように周りを見渡すのだ。まだワタシは、ここにいると…………。
「……みぃつけたぁ」
また少し乱れそうになった自分から目を背けるように人込みへと視線を向ける。するとその流れの中に、覚えのある波長を捉えて、気付けば樽の縁を蹴っていた。
縫う様に有象無象の傍を抜け、その頭の上に許可無く降り立つ。
「お久しぶりねぇ」
「うわっ!? びっくりしたぁ…………あれ、君……」
「覚えててくれたのぉ? 嬉しいわねぇ」
悪戯に想像通りの反応を見せてくれた少年に笑みを落として目の前に回り込む。すると彼はこちらを見て記憶を旅する音を口にした。
「海では楽しかったわねぇ」
「やっぱりあの時の……」
彼……確かロベールと言った気がする少年は、合点がいったように安心したような吐息を零した。
そんな彼にただただこちらの疑問を押し付ける。
「何をしてるのぉ?」
「さっきまでちょっと手伝いをしてて。今はそれが終わって散歩してただけ」
言って、隣の少女達に視線を送る彼。並ぶ顔ぶれは、ロベールと出会った時に一緒にいたのと同じ物。
ワタシに警戒するような視線を向ける少女と、人でも珍しいとされる鏡写し。女の名前なんて基本覚えないワタシだけど、双子の方には少しばかり興味がある。
「そっちこそ今日はこんな所まで来てどうしたんだ?」
「気が向いたのよぉ。それにぃ、妖精だっていつも同じ場所にいるわけじゃないのよぉ?」
自由が資本の魂だ。居場所に縛られはしない。
もちろん、魂が揺られる空間にいるのは好きだけれども。そうじゃない気分の時だって偶にはあるのだ。
「そっか、そうだよな。……あぁ、でも。こうやって再会できたのはちょっといいかもな」
「あらぁ、嬉しい事言ってくれるじゃなぁい? そうねぇ、これもきっと何かの縁よぉ。また少し一緒に遊んでもいいかしらぁ?」
「ぼくは別に。三人は?」
「危険じゃないならいいけど……」
「うん」
「遊ぼう」
「じゃあ決まりだなっ」
笑顔で決定を下したロベールの歩みに合わせて人の町を進み始める。その頃には既に、胸の奥のざわめきはいつの間にか消えていた。
* * *
町にまで遊びに来ていた妖精と共に歩く。
前に海で会って、きっとあの場限りの関係だと思っていた繋がりが、再び形を持つ。
数多の妖精が居るこのフェルクレールトの世界で、同じ隣人と出会う事は稀にある。特にその土地を好んで住まう者と、縄張りとも言うべきその場所に時が重なればありえることだ。
が、今回のこれはその例外。
どうやら水に縁を持つらしい彼女は、水辺を好む妖精だ。だから普通こんな人の行き交う町中に姿を現すことは無い。加えてこの人込みの中で再会するなど、中々に珍しい出来事なのだ。
妖精は偶然と必然を司る。そんな文言を、この前読んだ本で目にした。
この再会は、偶然なのか。それとも必然なのか。……もし必然だとすれば、彼女との間に今後どんな未来を描くと言うのだろうか。
想像では語りきれないその先に、幾つかの景色を思い浮かべながら耳を傾ける。
「それで舟が遅れたらしくてな。色々な人が苦労してたみたいだぞ?」
「人の世界は大変ねぇ」
他人事の……いや、妖精だからそれが当たり前なのだろう距離感の返答。彼女達は色々な物に縛られなくて羨ましい限りだと思う。そしてそれに能天気に同調できる幼馴染を恨めしくも思う。
彼ほどに自分に正直になれたなら、今頃もっと違う関係になっていたのだろうか……。
「海での出来事はぼく達には殆ど関係ないからなぁ……。そう言えばそっちは大丈夫だったのか?」
「海が荒れるなんていつものことだものぉ。人が昨日と今日で、今日と明日で違う顔を見せるのと同じよぉ」
「広い世界で生きてると考え方まで大らかになるんだな」
「人は体ばっかり大きいものねぇ」
ちらりと、こちらに視線を向けてきた妖精の彼女。その意味に、女としての物が含まれている事に気付いてまた一つ胸の奥が重く蟠る。
……確かにそうして仲良く楽しく会話をしている所をただ見ているだけなのは少しばかり面白くないけれども。そんなことで一々癇癪を起こしていたらこの鈍感の幼馴染に情を募らせ一緒にい続けることなんて不可能だ。彼のお陰で、忍耐強いあたしがいるのだ。……それがいい事かどうかは、この際置いておくとして。
「けれどそうねぇ。いつもの居場所にいられないのは楽しくないわよねぇ。早く元通りになって欲しいわぁ」
「白角騎士団が頑張ってるからその内解決するだろ」
「因みにそちら側から見ても原因は分からないの?」
興味が疼いて尋ねる。初めてまともに向いた気がする視線を交わらせれば、僅かの沈黙の後に独り言のように音にした。
「……さぁあ? けれど騒がしいのはあの岩場の辺りだって言うのは他の子から聞いたわねぇ」
「岩場……?」
「…………もしかしてタルフ岩礁のこと?」
「人が勝手に付けた名前なんて知らないわよぉ」
人の世界の名称が妖精の世界で通用する、なんていうことは稀だ。そう言うのは余程人の世界に興味のある子が覚えているか、ハーフィーのようにそれぞれの世界に足を踏み入れているかのどちらかだ。
だからこれが普通の反応。人の側も、その事に一々認識の共有を求めたりはしない。
「まぁ、あの辺りが騒がしかったのは確かねぇ」
「タルフ岩礁って妖精の住処でもあるよね? 水を好むあなたたちをよく見られるからって、水竜に並んで観光名所の一つになってるくらいだから」
「居心地がいいのよぉ。……でも海が荒れてからあそこに近付く子達はいないわねぇ。そんな楽しくないこと、進んでしようなんて言う魂の持ち主は妖精じゃないものぉ」
「……ってことは妖精の仕業じゃないのか…………」
「一体何の得があるっていうのぉ?」
ロベールの言葉に至極当然な返答を零す彼女。確かに、妖精が自ら波乱を起こすことはまずありえない。しかも荒れているのは海。自分達が住まう大自然を……家を荒らすような行いを妖精がするはずは無いのだ。人が絡んでいるならば別だが、それだって悪戯の範疇。白角騎士団が対処するような大事になるとは思えない。
と、そこまで考えた時だった。
「帰る」
「ばいばい」
「え……?」
唐突に、何の前触れも無くピスとケスが別れを告げたのだ。
まだ陽も高く、いつもならこれから本日最後の目的地へ足を出す頃合。それにいくらこの二人でもこんなにいきなりな話は初めてだ。
なにか用事があるとも聞いていないし……一体どうしたのだろうか?
「あらぁ? もうお別れぇ? 寂しいわねぇ」
「うん」
「またね」
いつもと変わらない淡々とした口調で決定事項を振りかざす双子。突然の事に掛ける言葉も無く、とりあえず別れの挨拶だけは口にした。
同じ歩調で本当に家の方へと戻っていくその背中をしばらく見つめ、肩を並べた幼馴染と共にどちらからとも無く零す。
「なんだったんだろうな」
「さぁ……」
同じ事を感じたのだろう。
その違和感を、どう言葉にすればいいのか分からないまま、けれども共有する。
ただなんとなく、いつも通りな二人が、どこかいつもと違う気が、少しだけしたのだった。
* * *
「……おや?」
「どうかしたの、カドゥ」
定期的な訪問と、それから一つの疑問を抱えてやって来ていたカドゥケウスの下。今日も今日とて山のように動かない巨体の様子を一通り確認していたところ、彼が声に出して何かに反応を見せた。
「あの二人が来てるみたいだぞ?」
「あの二人……? ……って、えっ、まさか……!」
カドゥが興味を示して、その二人と言う人数がここに向かっている。その事実に気付く。
カドゥのいるこの一帯は彼の力によって結界のようなものが張られている。効果は単純に、カドゥの許可した者しか出入りを許されないというものだ。だから何の縁も持たない一般人が何かの拍子に足を踏み入れても彼の目の前に辿り着く事はありえない。
けれどそれが許されていて、そして二人と言うその存在に……心当たり以上の確信が浮かぶ。
…………しかしどうして? 彼女達は理由も無く約束を破るような子では無いと思っていたのだが……。
考えていると、想像通りの顔が森の中から姿を現した。
着飾る服まで全く一緒。秋口の森の中で一際映える存在感の、鏡写し。ピス・アルレシャとケス・アルレシャの二人だ。
「二人共、どうしてここに…………」
「カドゥにお話」
「お爺様がいいって」
「陛下が……。そう、それなら仕方ないわね」
カリーナ共和国の代表でありわたしの雇い主。そしてこの二人にとっては血の繋がった祖父であるグンター・コルヴァズ大統領陛下。彼が頷いたのならば、一介の研究者であるわたしに口を挟めることは無い。
と、彼女達の後ろから見覚えのある使用人が静かな足取りでやってきた。
「ご無沙汰しております、アルカルロプスさん。お嬢様がお世話になっております」
「あぁ、いえ」
礼儀正しく綺麗な所作で腰を折ったのは、随分前にそこの双子ちゃんを一緒に探した使用人、ジネット・シンストラ。彼女はアルレシャ家に仕える使用人で、二人のお世話を任されている。
ここで二人を見つけたとき以降、時折研究室に遊びに来るようになったピスとケスのお迎えとして顔を合わせるようになった間柄だ。この前は手土産にと焼き菓子を持ってきてくれた。
出不精なわたしにとっては数少ない交流の内の一人だ。
「えっと……それで、今日はどうして…………?」
「お嬢様がカドゥケウス様にお話したいことがあるとのご要望で、陛下の許可を頂いてやってまいりました。わたくしは付き添いでございます」
ピスとケスの言葉を疑っていた訳ではないが、彼女が言うのだから間違いは無いのだろう。そしてそうまでするほどの用件が、二人の中にはあるということだ。相変わらずその考えが読めないのがこの二人らしい所か。
改めて向き直れば、彼女達は既にカドゥとの挨拶を終えていた。
「ふむ。それで、どうした。急な来訪と言う事は余程の事態か?」
「水竜が暴れてる」
「何か知ってる?」
「なっ……!?」
思わず声を上げる。
水竜の……タルフ岩礁の問題は現状秘匿事項として扱われている案件だ。知っているのは一部の関係者だけで、幾らこの二人でも危険の潜むその事については知らされていないはず。
そして何より、その話題は────
「うん? どうした? 何をそんなに驚いているんだ?」
「ぁ…………えっと……」
尾の頭に問われて、言葉に詰まる。いつの間にか二人の視線もこちらを射抜き、喉の奥が渇きを訴えるように絞っていく。
思わず逃げるように顔を背けて、その先でジネットと視線が交わった。すると彼女は、瞬き一つ挟んで告げる。
「わたくしもお話だけは伺っております。お嬢様をお守りする使命がございますので。その上で、僭越ながらお言葉を挟ませてもらえるのであれば、出来る限りの取り成しはわたくしの方からもさせていただけないでしょうか?」
「……いいん、ですか…………?」
「こうなってしまった以上、仕方のないことかと存じます。いかがなされますか?」
わたしの迷いや懸念を先回りして答えた彼女の慧眼に少しだけ安堵をしつつ。彼女が言うならばと覚悟を固めて二人に視線を戻す。
「……二人がどうやってその話を知ったのかは分からないけれど、水竜に関する案件は外には漏らしてはいけない決まりなの」
「うん」
「ごめんなさい」
その先の言葉を、途中までで察したらしい聡明な双子がいつもの調子で謝罪を口にする。まだ学生だと言うのに、物分りがよすぎるというのも少しだけ心配だ。
「けど知っているのならばもう隠す必要はなさそうだから、いいわ。その上で、わたしの方からも改めてカドゥに訊きたいの。水竜の棲息地域で起きている騒動について、何か心当たりは無い? 具体的には、妖精絡みで」
「それがそちらの話か?」
「えぇ。これ以上の放置はあなた達の側にも不利益が起こりかねないだろうから」
報告では水竜の暴走だけ。しかし理由の分からないその現象に、妖精という存在の可能性を鑑みた瞬間から最悪の事態は想像が尽きなかったのだ。
今ではよき隣人として世界を共有する妖精達。彼女達の協力で便利になった世の中に、波乱は必要ない。これはきっと世界が望む理想だ。
手遅れになってからでは遅いから。恥を忍んででも彼の力を借りて早急に解決を……と言うのがこちらの一方的な要求だ。
「どうかしら?」
「ふむ。話は理解した。が、生憎と期待には答えられない。この身は大地に属する魂だ。理の違う世界の道理は知る由もない」
「そう…………」
せめて何か手掛かりでも……。そう考えていたが、この口振りではそれすらも望めない。
数多もの妖精が集まるこの場所ならばと言うのは、少し考えが甘すぎたか……。
ならばやはり、水に縁のある妖精を探し出してどうにかするしか────。そう考えた所でピスとケスが小さく首を傾げた。
「知ってるよ?」
「連れてくる?」
「ふむ? それは……あぁ、水の魂に知り合いがいるということか?」
「うん」
「そう」
主語の無い会話を交わす二人とカドゥ。今更驚くようなことではないが、傍から聞いていると不思議なやり取りだ。一体何を介して相互理解をしていると言うのか。
しかし、今はそんなことはどうでもいいと。紡がれた話題の端を見つけて紐解く。
「水に属する妖精。その子ならもしかすると何か知ってるかもしれないわね。直ぐに会えるかしら?」
「ピスたちより」
「カドゥの方が早い」
「…………よかろう。但し今回限りだ。対価は後払いで構わん」
「……分かったわ」
何を要求されるのかは分からないが、ここは頷いておくべき。そう判断して首肯すれば、ジネットと視線が交わった。取り成し、期待してるわよ……?
「じゃあ」
「教える」
こくりと頷いた双子がその足取りでカドゥの首許へ。虚のような陰に抱かれてその巨体を見上げた彼女達は、周りの木々よりも太い首筋に両手と額をそっと触れさせて目を閉じた。
次の瞬間、わたしに流れる妖精の部分が強く刺激される。駆け抜けた気配は足下。まるで地面の中を巨大な根が這って行くような、不思議な感覚。
直ぐにそれが、カドゥケウスの放った妖精術か何かだと気付く。
疼いた好奇心がそのからくりを追いかけ、想像する。
先程の教えると言う言葉。そして今の妖精術。双子の特別性を加味して考えれば推論が立つ。
恐らくは、ピスとケスの知るその妖精の事をカドゥと共有し、彼が台地に探査の根を広げてその魂を探しているのだ。
どこか妖精に似た不思議な双子と、英雄的妖精のカドゥケウス。彼女達に掛かれば、大地の上の探し物など容易いことなのかもしれない。
とは言えカドゥの口振りからしてそう易々とこの方法での協力はしてくれないだろう。幾ら彼でも、その身一つで大規模な妖精術を行使するのは大変なはずだ。今回その無理を通してくれたのは、事態の深刻さに加えてピスとケスがいたから。
ともすればわたしよりも信頼されているこの双子の言動は、妖精の魂を簡単に動かす。
彼女達がいてくれてよかったと。偶然の今に感謝をすれば、風にか微かにざわめいていた木々の声が小さくなった気がした。気付けばカドゥから離れていたピスとケスがジネットに向き直る。
「ジネット」
「水ある?」
「水筒でしたらこちらに。いかがなさいましたか?」
「ここに」
「出して」
問いに、いつの間にか手に持っていた水筒。次いでピスとケスがそれぞれ片手を翳し、地面に小さなくぼみを作り出した。
一体何を……。そんな風に思いつつも水筒の口から零れる水を眺めていると、その中身が無くなって水溜りが出来た次の瞬間、その水面に不自然な渦が出来上がって回転した。
その水の渦に感じた妖精力。するとその中心から虹色の残滓を振りまいて一人の妖精が姿を現した。
「まったくもぅ。慣れない事させないでよねぇ?」
似たような妖精術を知っている。妖精従きと契約妖精の間でのみ行使される、契約を介した空間移動────強制招聘。今回のこれは、契約では無い何か別の繋がり……魂に縁のある水を媒介して遠方からここへとやってきたのだろう。この地が妖精力で溢れているからこそできる芸当と言ってもいい。
カドゥケウス一人の力ではないが、彼でなければこんなことは出来ないだろう。流石は英雄的妖精ということか。
「あぁ、でもぉ、ここは心地がいいわねぇ」
「慣れぬ場に呼んですまないな、海の同胞。少し話が訊きたくてな。いいだろうか?」
「楽しくないから嫌ぁよぉ。それにぃ、雑じり者に見えないのもいるみたいだしぃ? この二人のお願いじゃなかったらそもそも来てないのよぉ?」
ピスとケスの傍を飛びながらこちらを一瞥する妖精。
彼女は、どうやらハーフィーであるわたしにあまりいい感情を持っていないようだ。
ハーフィーは、人にも妖精にも好かれ、厭われる。どちらの態度を取られるのかは相手にもよるが、彼女の中では嫌悪の対象らしい。
個人的に、妖精達がわたしを嫌う時は人と言う種に重きを置いている個体が多い気がする。より具体的に言えば、その魂の形が人と一緒にいる事によって成り立つ者達が、半端物を爪弾きにすると言うことだ。
例えば……バンシー。彼女達は人に死に泣く妖精だ。その存在意義には、前提として人と言う存在がなければならない。こうした、人と言う種との関わりが魂の中核を担っている妖精ほど、寄り掛かるべき人に純血を求める傾向にあるのだ。
逆に言えば、あまり人に関係ない……もしくは人以外に拠り所のある魂の持ち主たちは、雑じり者に対しても寛容だ。
だから恐らく、今し方姿を現した彼女は、水に愛され人との関係に重きを置く魂の持ち主だ。
……これ以上その核を無粋に覗けば、直ぐにでも悪戯と言う報復がこの身に降りかかるだろうから詮索はやめておくけれども。研究者として少し気になるのも確かだ。
「お願い」
「大事なこと」
「この身にも、そしてその身にもきっと意味のある問いだ。教えてはくれぬか?」
「むぅぅ…………」
双子の純粋なお願いと、重ねたカドゥの低い声。妖精にとっては無視出来ない存在の言葉に、楽しくなさそうな音が漏れる。
とは言えここでわたしが口を挟むと傾きかけている彼女の感情を逆撫でしかねない。今は我慢。
と、何時の間にか直ぐ傍にやってきたジネットが耳打ちするように小声で尋ねてきた。
「先程のは、妖精ですか?」
「はい。そこの水を扉にして一人の妖精をこの場に呼んだんです。どうやらあの子が今回の件の重要な事を知っているようなので」
「そうでしたか」
妖精の見えない彼女の目には今、大切なお嬢様とわたし、そしてドラゴンのカドゥケウスしか映っていない。わたしが見渡せば草木の陰から遠巻きにこちらを窺う他の妖精達を見つけられるこの光景を、彼女だけは共有できない。
妖精が見えないと言うのは、この世界において半分しか知覚できないということ。そこにある隔たりは、言葉以上に大きい。
彼女のような人が妖精を知覚できるようになれば、世界にある人同士の諍いの種も幾つかは潰せるのに。未だ人の知見はその域には達していない。
ともすればその未来は、妖精の全てを詳らかにすることと同等に、世界に求められているわたし達研究者に課せられた使命なのだ。
……とは言え、そう簡単にきっかけの一つでも見つかっていれば、今の世界はこんなに楽しくは無いはずだ。…………楽しいなんて、この状況では不謹慎だろうか。
「ままならないものですね」
呟きは、答えを求めない音。いっそのこと彼女のようになにも知らないままでいられたら、幸せなのかもしれない。
己の境遇を省みてそんな事を思うのと同時、長く唸っていた妖精がようやく顔を上げて溜め息を吐いた。
「…………はぁ、分かったわよぅ。けれど条件を一ついいかしらぁ?」
妖精術には妖精力という対価を。妖精は見返りを求めて人と手を取る事がある。先程のカドゥも含めて、彼女達にとってそれは必要な譲歩なのだ。
ピスとケスが確認するようにこちらに振り向く。……ここまで来て今更退く足は無い。
「えぇ、構わないわよ」
「好きにはなれないけれど嫌いでは無いわよぉ?」
「……それはどうも」
妖精にしては珍しく曖昧な言葉に彼女と言う魂を知る。この溝はきっと埋まらない。ハーフィーの、妖精との関係と言うのはそう言うものだ。人間風に言い換えれば、損得勘定ではどうにか頷けるが生理的に無理、と言う辺りだ。
「それじゃあまずはこちらの提案からよぉ。二人が知っているあの二人ぃ……あの子達を連れてきなさぁい。そうしたらお話してあげるわぁ」
「二人……?」
「シルヴィと」
「ロベール」
生憎とその名前に覚えは無い。隣のジネットは何か知っている様子。と言う事はピスとケスの友人か。
となるとここは駄目だ。部外者にカドゥの事を教えるわけにはいかない。
「外でいいかしら? ここに無関係な人を呼ぶわけにはいかないの」
「うん」
「分かった」
素直に頷いた双子。いつしか話題の中心にいた双子がそう決めれば、周りが口を挟むような事はなく話が纏まる。
ピスとケスは妖精を連れてリゼット共に先にこの場所を後にする。まだカドゥの身の回りの仕事が残っていたわたしは後からの合流と言う形になった。
四人の後姿を見送って、殆ど口を挟まなかった英雄的妖精に声を向ける。
「巻き込んで悪かったわね」
「看過できない話なのは違いない。春先より目立つ事柄が多いのでな」
「ま、海の上の出来事じゃあお手上げって事だ。後の事は任せるぞ」
「えぇ。終わったらまた報告しに来るわ。色々協力してくれてありがとう、カドゥ」
頭と尾の声に答えて、その首筋に手を当てる。すると彼は、諦めを吐き出すように重く熱い吐息を一つ吐き出したのだった。
* * *
英雄的妖精、カドゥケウス。わたくしが唯一この目で認識できる妖精との遣り取りを終えて、お嬢様のご友人と合流をしてからしばらく。
まだ残っていた仕事を終えてやってきたヴァネッサ・アルカルロプス女史と共に、そこにいると言う妖精を加えてのお話は、カリーナ城内の一室で行われることとなりました。
今回は事が事だけに、どこかのお店で出来る話では無い為の措置でございます。
その点に関しては、個人的に都合がよかったのかもしれません。
わたくしは今日、お嬢様の付き添いと言う形で外に出ておりました。当然、使用人としての正装はきっちり整えた仕着せでございます。そんな服装でどこかのお店に立ち寄ろうものなら、勘違いと混乱を招くことも承知しております。ですので仕着せに身を包む今、こうして使用人としての振る舞いが許される空間にいられるというのは、日頃の行いの結果だと感謝をしておきましょう。
もちろん、本当にそのような場合には、使用人として場に即した対応はさせてもらいますけれどね。
「お待たせいたしました」
注いだ琥珀色の液体。天井を反射する香りが温かさと共に空気を柔らかくするのを感じながら、おもてなしを終えて壁際に控えます。
各々方が本題に入る前の一息にとカップに口をつける傍らで、つい先ほど呼ばれてここにやってこられたロベール様とシルヴィ様は状況が飲み込めていらっしゃらない様子です。
わたくしが後から聞いたところによりますと、どうやらお二方が同席することが妖精の提示した条件だったそうです。その関係性までをも推察することは叶いませんが、きっと必要なことなのでしょう。
「さて。とりあえず二人には自己紹介からかしらね」
優しい微笑みと共に口を開かれたのはヴァネッサ様。それに答えるようにお二方も挨拶をされて、僅かにあった緊張が緩んだのを感じました。
「……それで、えっと…………どうしてあたし達が呼ばれたんですか?」
「何でまた……」
ロベール様が机の上の一点を見つめて疑問を落とされます。どうやらその辺りに件の妖精がいるようです。
見えなければ、聞こえもしない。その為わたくしには交わされる言葉が時折時間を切り取ったように紡がれて聞こえます。
今もまた、ロベール様が表情を曇らせました。一体どんなお話をなさっているのでしょうか。
「そこからの説明はわたしが引き受けるわ」
沈黙に耳を傾けるような時間が微かに過ぎて。それから言葉を継いだヴァネッサ様が、一度だけこちらに視線を向けられました。
ご配慮、痛み入りますね。
「まず最初に、二人はタルフ岩礁のドラゴンについては知っているかしら?」
「それは、はい」
「そのドラゴンがこの頃暴れていると言う報告が挙がっているの。もちろんこれは一部の人しか知らないことだから、秘密にしてもらわないといけないのだけれども」
いきなり膨らんだ話に息を呑むお二方。
ヴァネッサ女史がそのお話をなさるという許可は事前に得ております。今回部外者であるお二方に情報を開示すると言うこれは、特例として認められた案件でございます。ヴァネッサ女史の説得、お嬢様のお口添え、それからわたくしの僅かばかりの具申にて、陛下も納得してくださったことでございます。
「海」
「封鎖」
「え…………あ、そっか」
「……やっぱりあの時のがそうなのか?」
「二人共何か知っているの?」
「知っているというほどの事では……。ですがしばらく前に、白角騎士団のアラン・モノセロスさんにお会いしまして。丁度その時、海水浴場の封鎖の事を言われました」
「二人が言ってるのは多分その時のことで、それで恐らくは封鎖に水竜の暴走が関わってる…………って事でいいんだよな?」
「うん」
「そう」
お嬢様のお言葉の真意を酌んでご説明なさるお二方。お若いながらも御聡明であらせられますね。このお二方なら秘密をしっかりと守ってくださることでしょう。
「そう、それを知っているのならば細かく説明する手間は要らないわね。想像通り、あの海上封鎖はタルフ岩礁の水竜に起因するものよ。そしてその対応に、今も白角騎士団が動いている」
「じゃあ船が遅れたってのは……」
「船?」
「商船です。カリーナの港に寄港する船が出入りを制限されて往生してるって聞きました。それで商人の方々が迷惑を被っていると」
「……そうね。それも水竜が原因ね」
港の出入りが制限されている事に関してはわたくしも耳にしております。商船の到着の遅延によって、城下町の物流にも変化や乱れが生じておりましたからね。物の動きはお金の動き。お金の動きは世界の動き。
たった一つの出来事が多方面に影響を与える…………往々にして起こりうる事でございます。
「でも、それとぼく達と何の関係が?」
「この子のお願いでね」
ロベール様の疑問に向いた言葉の先は、机の上。わたくしの目にはそこには先ほどお入れした紅茶とお菓子しかございませんが、それは世界の半分だけでしょう。きっとそこに、件の妖精がいらっしゃるはずです。
ここまでの付き合いをする妖精の方の姿を見てお話できないのは、仕方のないこととは言えども申し訳なく思いますね。
「ずっと気になってましたが、彼女がどうしてここに……?」
「原因」
「お話し」
「原因?」
お嬢様が独特な調子で言葉を紡がれます。ですがここにいる顔ぶれはその空気に何度も触れた事のある面子でございます。これくらいの不可解はお嬢様との日常の一部でございますね。
「二人を連れてきて、今回の話に同行してもらう。それを条件にこの子が知っているタルフ岩礁の情報を教えて貰うって取引なの」
「なんだ、そういうことか」
「ロベール、安心するのはまだ」
「理由が分かっただけいいじゃねぇか」
「問題はこれからでしょ。あたし達も一緒に行動する事になるんだから」
「理解が早くて助かるわ」
シルヴィ様はいつも冷静でございますね。そしてそれと同じくらい、ロベール様の度胸も尊敬に値することと思われます。何せロベール様は、シルヴィ様の仰った未来を想像して尚……だからこそより真っ直ぐに向き合っておられるのですから。
「気紛れに巻き込まれたのは……まぁでも妖精だからな。仕方ない。ぼくはただ、ぼくがここにいる理由を知りたかっただけだ。それで何かしないといけないなら、全力で取り組むっ」
「……流石は二人の友人ね」
感心の声を零されたヴァネッサ様。そしてロベール様の隣では、シルヴィ様が彼の横顔を見つめておいでですが、これは…………ふふっ。ロベール様も罪作りなお方ですね。
「ジネット」
「どうしたの?」
「いいえ、何でもございません。どうぞ、お話の続きを」
おっと、顔に出ていましたかね。大切なお話を邪魔しては使用人の名折れでございます。私見はこの場では諌めておきましょう。
「クラズさんも大丈夫ですか?」
「はい。……それで、あたし達は一体何をすればいいんですか?」
「そこに関しては彼女から話を聞いてからね。その情報次第でこちらの取る選択が変わってくる。ただ、近いうちに何かしらの進展はあると思うからそのつもりで話を聞いていて」
「あぁ」
「分かりました」
「じゃあ」
「お願い」
お嬢様の声と共に机の上に視線が集まります。声も聞こえないわたくしには別世界のお話ですが、きっと話が纏まり次第教えていただけることでしょう。
今はただ、無事にこの問題が終わりを迎えるその未来に向けて、及ばぬ身ながら切に理想を希望しておくといたしましょう。




