第一章
会館の舞台の上に双子がいる。顔つきは少し遠くて詳細には分からないが、それ以上に特別な雰囲気がこの空間を包んでいく。
小さな背丈は真新しい制服に着られているようで、けれど彼女達を確かに感じる。講演台の目の前で止まった足取りがこちらを向けば、その人形のように精緻な瞳が音もなく全てを見渡した。
仕草に揺れたのは双子の鏡映しの髪形。頭の横で一つに括った長い亜麻色の髪。記憶が正しければ、頭の右側で括ったのが姉で、左側で纏めたのが妹だったはずだ。
そんな双子が、特に目立って示し合わせることもなく口を開き、静かに喋り始める。
世界の隣人の御技、妖精術を使って拡声された言葉。鈴の音が転がるような小さくも、しっかりと刻み込む落ち着いた音に耳を奪われる。
彼女達が、今年の新入生代表挨拶を担当するこの国の双子。
カリーナ国王、グンター・コルヴァズ大統領の孫である、ピス・アルレシャとケス・アルレシャだ。
フェルクレールト。妖精と人間、そしてエルフにドラゴンが住まう、1275年の歴史を重ねた大地の上より。その南部に今から約800年ほど前に出来た国、カリーナ共和国。
南に陽光跳ねる紺碧の海を広げる温暖な気候を有したこの国は、国としての明確な君主と言うものを頂かない、共和国だ。一応他国との吊り合いに、四大国会談の場に肩を並べる代理の君主を大統領として据える民選の形式を取っている、少しだけややこしい国だ。
そんなカリーナ共和国には四つの国営教育機関が存在する。世界的に見ても国営、国立の学び舎が最も多いらしく、またカリーナからは学者が多く輩出されることから、国全体を指して大きな学び舎と呼ばれることもある。特にその中心地であるカリーナ城を指して白皙城と付いた名前は、カリーナの象徴だ。
そんなカリーナ城のある城下の片隅に建造されたのがここ、四つある国営の内の一つ──国営教育機関テトラフィラ学園だ。
名前の由来はヨツバカタバミと言う植物で、花言葉は輝く心。名前の通りにカタバミの中でも四葉をつけることが多く、幸運の象徴とも言われる植物だ。
妖精と言う、人とは異なる種族と交信する妖精憑き。妖精と契約をした妖精従きと呼ばれる者達が世界と、そして妖精を学ぶための場所がこの学園。そんな者達が花言葉に肖って、世界で輝く者として心気高く幸運に恵まれた今と未来を送って欲しいと言うのがテトラフィラの掲げる願いだ。
また、テトラフィラは四つある国営の学び舎の中でも頭一つ抜けていると言われ、カリーナでの名門と言えば基本テトラフィラを指すほどだ。
つまりこの学園はカリーナ最高峰であり、世界に認められる学び舎と言うわけだ。
その学園の入学式。そこで入学生代表挨拶を出来るのは、地位が重要視されるカリーナでは珍しい、入学試験の最優秀者。その年の天才だ。
その場に今、あの双子が立って朗々と流れるような一定の調子で辞を述べている。
カリーナ共和国の王孫殿下である、ピス・アルレシャと、ケス・アルレシャ。
カリーナ国内で時折名前を聞く人物で、独特な空気感を纏う双子は人の世界に生きていないとさえ言われる不思議な少女。
そんな二人が、家系のものか、それとも天性のものか。噂では全教科満点で二人並んで結果を残したと言う偉業をなしたのだ。
心無い者が裏から手を回しただとか色々言っているようだが、ぼくはそんな噂信じていない。何より彼女たち自身が気にも留めていない。
そのことが何より雄弁に今紡がれる淀みのない音としてこの空間を満たしている。それがたまらなく心地よくて、胸の奥が揺られるのだ。
……憧れだ。同い年で、随分と先を行く、羽のような二対一組の双子。物語のピスケスのように可憐で聡明な、ある種の目標。
だからこそまるで恋焦がれるように、惹かれてしまう。叶うことなら、彼女達の傍にいたい。隣に立ちたい。まだ見ぬ世界を見て見たい……!
胸を締め付けるほどの強い思いが視線を釘付けにし、壇上の二人を捉えて離さない。
……あぁ、テトラフィラに感謝だ。彼女たちと同じ時で学ばさせてくれてありがとう!
* * *
「お疲れ様。途中原稿にないことを読んだ時は少し肝が冷えたわ」
「ごめんなさい」
「でも楽しかった」
先ほど入学式の壇上で挨拶を終えた双子と共に職員室へと戻ってきた。言葉にして少しだけ胸の内を吐露すれば、素直に返った言葉に笑う。
最初は大統領のお孫さんが入学すると聞いて身構えてしまったが、新入生挨拶の件で少し話をした限りではとてもいい子達だ。
嘘がなくて、純粋で。まるで妖精が人の形になったような双子の少女。聡明でありながらどこかずれている空気は、今までに感じたことがない独特さ。
不思議な双子だ。彼女たちには彼女たちの世界が既にある。誰にも汚されず侵されない、決定的に何かが異なる少女たち。
長年教師をしてきた勘が告げる。この二人は、特別だ。きっと色々な意味で名を残す卒業生になることだろう。それが今から楽しみで、叶うことならその門出を祝いたい。
そう思えるほどにこの先が想像もつかないような少女達。
「さて、大変なお仕事が終わった貴女達にはご褒美が存在するわ。この中から好きな教室を選びなさい」
そう言って差し出したのは今年の入学生を分けた教室毎の名簿。
ここ国営教育機関テトラフィラ学園には、毎年特例が一つ存在する。それは最優秀成績者……つまり新入生代表挨拶を担当した生徒に、好きな教室での勉学の希望をとらせることだ。
カリーナ共和国は、国を挙げて学問に重きを置いている。それはこれまでの歴史で多くの学者を輩出して来た経緯と、目の前の双子……ピス・アルレシャとケス・アルレシャの祖父である現大統領のグンター・コルヴァズの意向に拠る物が大きい。
流石に入学最初は一番下の階級から同時に歩み始めるが、そこから先は彼女たち次第だ。
この教室の選択は基本的に生徒の自主性に任せるが、大抵は自分と同じ得意を持つ師を仰いで更なる勉学に力を入れるのが恒例だ。話ではこの双子は揃って地の属性に秀でているらしい。
紙を受け取った二人が器用に片手ずつで間に持って、けれども直ぐに外した視線でこちらを見据え当然のように口を開く。
「先生は」
「駄目?」
「え、私?」
次いだ響きに思わず訊き返す。確かに私も彼女たちと同じ地を得意とする妖精従きだ。そう言う意味では彼女達が仰ぐ師として別に問題はないのだが。
それよりも気になったのは彼女達が手元の紙に目を殆ど通さなかったこと。それでいてその瞳の奥には確信に満ちた色が宿っていて、それがなんなのか分からないのだ。
「他にも先生はいるわよ?」
「先生は、6で」
「先生は、4だから」
「6…………4…………?」
「ピスと同じ」
「ケスと同じ」
一体何の数字だろうか。そう考えて繰り返せば、二人は人差し指を同時に立ててそこに小さな石を作り出し、それに視線を向けた。
遅れて気付く。……あぁ、属性のことか。
しかし、ならば書面を見ずにどうして分かったのだろう。先程の6や4と言う数字は一体……?
「一緒がいいってお爺様が言ってた」
「それじゃあ駄目?」
「…………いえ、大丈夫よ。歓迎するわ。とりあえず一年間、よろしくね」
「うん」
「よろしく」
幾つか疑問は残るが、とりあえず二人の申し出だ。断る理由もない。…………恐らくお爺様……グンター陛下が何かお話をされたのかもしれない。
私はそこまで目立つような教師でもなかった気もするけれど、頼られたならそれが全てだ。全身全霊を以って彼女たちの期待に応えるとしよう。
「私の教室は三組よ。一緒に行くかしら?」
「……先に行く」
「またね、先生」
あっさりとした決断に少しだけ拍子抜け。けれども直ぐに彼女達を見送って小さく息を吐く。
…………まさか私が担当することになるとは思わなかった。事前の話では他の生徒と同じように接していいとのお達しだが、さて、そんな図太い真似が私に出来るだろうか。
少し不安だ……が、将来のために共に歩む彼女たちの名誉ある師だ! 私の全てを賭して、彼女達を立派な妖精従きとして巣立たせてあげようっ!
* * *
入学式が終わって教室に向かう廊下で。浮かれて足取りも定まらない様子の幼馴染を肘で突く。
「ロベール、変な顔してる」
「うぇ? ぁ、あぁ……うん」
「なに、どうしたの?」
「その……あの二人、よかったなぁって…………」
ふわふわと浮いた語調。いつもの悪い病気に呆れて溜息を吐く。一体これで何度目だろうか……。
「ロベール……」
「違うよっ、今度は本気だから!」
「どうだか……。そう言ってこれまで何回実らない恋をしてきたの?」
「う、うるさいなぁっ。シルヴィには関係ないだろっ?」
「大有りよっ。毎回聞きたくもない相談される身にもなってよ!」
無神経な幼馴染の言葉に反論する。あたしはロベールの目安箱じゃないってのっ!
全く以って暢気で迷惑な幼馴染だ。学園に入って少しは落ち着くかとも思ったが、入学式初日にこれでは先が思いやられる。学園を卒業する頃には色々な意味で有名人になっていそうで怖い……。いつも隣で引っ張り回されるあたしにはいい迷惑だっ。一体いつになったらこの悪癖は直るのだろうか……。
「しかも今度はよりにもよってあの二人だなんて……! 本当一回痛い目を見ればいいのに…………」
「別に僕の勝手なんだからいいだろ? 誰にも迷惑は掛けないから」
「掛かってるから! 誰よりも先にあたしにっ。これからあの二人にもねっ!」
「……何で怒ってんだよ」
何でぇ!? それはこっちの台詞だってのっ! 毎回毎回付き合わされるあたしの気も知らないで!
…………もういい、分かった! 今日という今日は一言言ってやる! 泣いたって許さないからっ!
「…………ねぇロベール、貴方────」
「あ、あの二人っ……!」
そうして胸の奥に長年積もった鬱憤を吐き出してぶつけてやろうとした刹那、こちらを一切見ていないロベールが瞳に期待を灯して嬉しそうな声を上げる。
人の話を────そう思いつつ声につられて顔を向ければ、廊下の先に職員室から丁度出てきたらしい件の双子を見つけた。
世界が違う。噂でしか知らない双子を見た最初の感想は、それだった。
まるで彼女たちだけ何かに隔てられているように。その内側に、異質で不必要なものなど一切ないと語るように。誰にも壊せない殻を纏ったような不思議な雰囲気。
その音を、形を、幻のように感じて。次の瞬間、いつしかこちらを向いていた双子と視線が交わった、気がした。
先ほどの新入生挨拶では遠くて分からなかった細かい部分。芸術作品のように整った人形のような顔立ちと、それを支える骨のような長い髪。そして何よりも、全てを見透かすような海のように深い天色の双眸。
否応無しに胸の奥が跳ねる。まるで、何かを覗き見られたような錯覚────
と、次の瞬間には時間が切り取られたようにこちらへ背中を向けて歩き出していた双子の少女。歩調に揺れる左右対称な一つ括りの髪先が気まぐれな猫の尻尾のように思いながらその後姿を見送って。曲がり角を曲がって姿が見えなくなったところでようやく息を吐き出し、自分が呼吸を止めていた事を気付かされた。
…………あれは、駄目だ。特別すぎて、あたしたちのことなんて歯牙にも掛けていない。そう言う存在だ。
話には聞いていた。独特な空気を持つ大統領のお孫さんだと。けれどここまで絶対的に形容し難い何かが違うのだと言うのは、最早理解を通り越した恐怖だ。
気付けば隣を見ていて、そこには視線を奪われた用に立ち尽くす幼馴染がいた。
「……ロベール…………」
「シルヴィ。今、あの二人と目があった、よな……。ぼくのこと、見てたよな……?」
何を言っているのだろう。何て答えればいいのだろう。あれはそう言う次元の話ではない気がするのに。
考えて、けれどそれよりも先に感情が口を突いた。
「……馬鹿じゃないの?」
「え……?」
「………………なんでもない」
今何か間違えた気がする。
と、そうしてようやく自分が足を出したことに気が付けば、遅れて何処からか現実に戻ってきたような錯覚を噛み締めた。
……決めた。あの二人には関わらない事にしよう。それが今ある大切な物を守る、唯一の方法だ。
過ぎった考えに答えを見つけて胸の内で納得として落としこむ。
訳の分からないものには関わらないのが吉だ。それがきっと、何よりも正しいのだ。
「ぇ…………?」
思わず声が漏れた。直ぐに席が一番後ろでよかったと安堵した。
口の中が渇いていく感覚を味わいながら目の前の現実を理解しようと止まっていた思考が動き始める。
……なんて言った? あの二人が、同じ教室? なんで先生は少し嬉しそうなの? 斜め前方のロベールは、もうこの世界に意識がないし……。教室内も少しうるさいほどにざわめいている。
…………違う、そうじゃない。
どうしてあの二人があたしたちと同じ教室なのっ? 一体何の嫌がらせっ?
「皆さん静かに。先ほども話した通り、お二人は今日からこの教室で一緒に授業を受ける級友よ。皆、仲良くしてあげてね」
「よろしく」
「おねがい……?」
……あぁ、駄目だ。もう限界だ。先生が何を話しているのか、あたしには理解が出来そうにない。
誰か、助けて…………。
* * *
教室内のざわめきに最初の仕事を見つける。少なくとも今日から数日は彼女たちのことで色々騒がしくなるだろう。教師である私の最初の仕事は、この混乱とも呼ぶべきまとまりのなさをどうにかして纏めること。
けれどくじけるなんてそんな事はありえないっ。だって彼女達がいいと言ったのだ。カリーナ中から不思議がられる王族に認められたのだっ。教師として仰がれ、これ以上に幸いなことはないだろう!
だから大丈夫。私には出来るっ。だって私だから────
「それで、二人の席は────あら?」
そう意気込んで隣の双子に案内をと言葉にしようとしたところ、既に二人は開いている席を見つけて腰を下していた。
…………う~ん。私、頼られたんだよね? 先生だよね? 人のお話は最後まで聞きましょうね、アルレシャさん。
気を取り直して眼鏡を押し上げながら告げる。
「まぁいいわ。それじゃあ早速だけれど最初の授業を始めるわよ。一緒に学ぶ友はいい競争相手になるわ。だから自己紹介からね。まずは私。今日から一年間皆さんの担任を受け持つ、リゼット・ヌンキよ。得意な属性は地。教える教科は自然科学。何か困ったことがあったら直ぐに相談してね。じゃぁ、そうね……そっちの端から順に行こうかしら」
教師として染み付いた本能のようなものが、多少のずれを修正していつも通りの道へと戻る。
指名をすれば順に立ち上がって挨拶をしていく生徒達。今回の新入学生は全員で二百人弱。一つの教室に約三十人が顔を並べる計算だ。
この中から卒業の時に最上級学年であるフォール級に上がれるのが、多くて一人か二人。学年全体で二桁いれば多い方だ。
出来ることならそこまで導いてあげたいが、経験上どうしても足りない生徒はいる。テトラフィラは優秀な子達が集まるとはいえ、それでも厳しい。
だから芽があるならば出来る限り伸ばして上げたいのだ。その一環として、主席入学の子には教室を選ぶ権利が与えられるのだけれども。
と、そんなことを考えていると今年の特例……異例の同着首位の双子が立ち上がる。
「ピスはピス」
「ケスはケス」
「よろしく」
「お願いします」
そうしてすとんと腰を下した双子。必要最低限の簡素な挨拶に少しだけざわついた教室内だったが、特に誰かが面と向かって深掘ることもなく流れていく。
……色々な意味で彼女達がこの教室の中心になりそうな予感がする。
しかし、任され頼られた身だ。彼女たちの味方として一年頑張っていくとしようっ。
* * *
どこか上の空で終えた挨拶から時間は流れて行く。
視界の中心には先ほど無駄のない自己紹介をした件の双子。その後姿をじっと見つめながら思う。
見れば見るほど惹きつけられていく。微かな仕草、くしゃみの一つに揺れる頭の横の一つ括り。後ろから見える旋毛、髪の分け目、襟足の後れ毛……。
無駄なところなど何一つないとさえ思えるほどに整った姿。
教壇で話をするリゼット先生が何気なく教室の出入り口に向かって歩けば、その足取りを追って彼女達が横を向く。
額から鼻の頭、そして唇を経由して顎の先までの一本の線。まるで美術室の石膏像のような美麗さに目を奪われる。
あぁ、叶うならずっと彼女達を見ていたい……。触れられなくてもいいから、少し離れたところより彼女達の傍にいたい…………。
どんな理由にせよ、彼女達と同じ教室で授業を受けることが出来るのはこれ以上ない幸運だっ。
「……ール…………ロベールっ」
「え、ぅわぁっ! な、なんだ……シルヴィか……」
耳元で名前を呼ばれて思わず跳び跳ねる。見れば直ぐそこには幼馴染のシルヴィ・クラズが立っていた。
と、そこで周りの景色の変化に気付く。
「え、あれ……皆は?」
「外よ。先生の話聞いてなかったの?」
「……ごめん」
いつの間にかいなくなっていた教室の同級生たち。
どうやら周りに気付かないほどに想像の中へと落ちていたらしい。小さく謝れば、目の前の彼女は呆れたように溜息を吐く。
「それで、えっと……なんで?」
「クラスターを組むって言ってたでしょ?」
「クラスター……?」
「それも聞いてなかったの? 一体何をしてたのよっ」
「いや、それは……!」
流石に言葉には出来ない。すれば、今以上に彼女を怒らせてしまう。幾らぼくでもそれくらいは分かる。
言葉に詰まりつつ、逃げるように立ち上がって廊下へ。少し駆けて隣に並んだシルヴィが疲れたように教えてくれる。
「クラスターってのはこのテトラフィラで組む生徒同士の班のこと。同じ学年で、三人から五人の集まりを作って一年協力して生活するの。目立つことをしなければ何も問題はないけれど、班の誰かの失敗は全員の失敗。皆で協力するための集団行動の練習ってこと」
「へぇー。って事は最低後一人か……」
「勝手にあたしを数に入れないでくれる?」
「嫌なの?」
「…………そうやって何も考えずに無理矢理はいやっ」
何故か怒ってそっぽを向いてしまった。なんで……?
「早く行かないと気の合う子がいなくなるわよっ」
「……大丈夫っ。当てはあるから!」
「先生の話もまともに聞いてないのに当てなんて────まさか……!」
「そうと決まれば早い者勝ちぃ!」
「ちょっとぉ! あたしの話も聞いてってば!」
なにやら後ろから声が聞こえるが無視だ。
これはチャンスだっ。彼女たちを誰かに取られるわけにはいかないっ……!
想像を馳せ胸を躍らせながら昇降口へ。と、そこで思い切り肩を掴まれて引き戻された。
「まっ、ちなさい、てばぁ……!」
「なんだよ。誰か他に一緒になりたい奴でもいるのか?」
「違っ、そうじゃなくて! あの二人はやめようよ!」
「なんでさっ!」
「なんでって、それは…………」
言葉に勢いをなくして俯くシルヴィ。
ぼくは好きな子と一緒にいられて、彼女は二人と仲よくなれる。なにも問題はないはずなのに。一体何がいけないというのだろうか?
「もうっ、理由なんていいでしょ! 他なら誰でもいいけど、あの二人だけは……なんかヤダ…………」
「なんだよそれ、意味わかんね…………」
今までシルヴィがこんな風に理由もなく嫌がるのを見た事は殆どない。あるとすれば、苦手な蛙を目の前にした時か、二人で遊んでいてじゃれ合いが白熱した時だけだ。
けれどその二つとも今の彼女は何だか違う気がする。それがよく分からなくて、教えてくれないことに苛立ちが募る。
「……もういい。嫌ならシルヴィは別の人を探せばいいよっ」
「え…………や……なんで…………」
困惑した様子で立ち尽くす彼女を置いて靴を履き替え運動場へ。外には他の教室の生徒達も集まってクラスターを組む為に声に溢れていた。
その中に入っていって、辺りを見渡し彼女達を探す。と、人の輪から外れたところに立っている双子を見つけた。
双子に孤立、と言うのも何かおかしいかもしれないが、彼女達の周りにはぽっかりと空いた空間。どうやら周りの生徒達は独特な雰囲気に声を掛ける事を躊躇っているらしい。
やがて一人、また一人と離れて行く生徒達。それは諦めと言うよりは恐怖のようで。そんな様子を遠くから見つめていると、しばらくして彼女達の周りには声を掛けようとする生徒がいなくなる。
その事が、何故か胸の内に焦燥を燃やして。気付けば出していた足取りで彼女達の前へ。うるさいほどになる鼓動を呼吸で押さえ込んで、詰まった息と共に声を絞り出す。
「ね、ねぇ……」
「…………?」
「なに?」
「うっ…………」
向けられたのは純粋な視線。彼女達にとっては周りなどどうでもいいのだろう真っ直ぐな色に、喉まで出掛かった言葉で苦しくなる。
…………けれど、それは嫌だ。嫌なのだ。
彼女達に恋をした、なんてのはきっと数多あるうちの一つ。けれどそれ以上に、今胸に渦巻いているそれは、寂しさなのだ。
彼女達をこのままにしたくない。そんな、興味を失ったような視線をしないで欲しい。笑って、欲しい…………。
自己満足だと言うならそれでも構わない。ただ単純に、彼女達にこのままでいて欲しくない。
言葉になりきらない胸を締め付けるような感情が暴れ始める。だから、勇気を出せと。ここまで来て、逃げて何の意味があると。そう自分に言い聞かせて、無理やりに搾り出す。
「っ……! ぼ、ぼくとクラスターを組んでっ!」
* * *
人の温もりがなくて少しだけ寒い昇降口で立ち尽くす。
────……もういい。嫌ならシルヴィは別の人を探せばいいよっ
明確な否定と拒絶。これまで向けられた事がない声色の、幼馴染の言葉。
ずっと、ずっと隣を歩いてきた。面倒な事も、怖い事も、楽しい事も……。殆ど全てを共に過ごしてきた。
だから分かった気でいた。分かると思っていた。なのに、分からなくなってしまった。
あんな風に真剣なロベールは、初めてだ。いつもは悩んで、足踏みして、最後の最後であたしが呆れて手を貸すことで、ようやく踏み出して──玉砕を重ねてきた彼。
そんな彼が、今回はあたしに頼ったり縋ったりする事なく、一人で選んで行ってしまった。
その事が苦しくて…………嫌なのだ。
理由と言うならば、きっと入学なのだろう。自分で選んで決めたこの学園。だからこの機を境に、本気で覚悟を決めたロベール。
今まで隣で見てきたからその違いが分かる。今回はきっと、本気なのだ。一度の失敗で、諦めるつもりはないのだ。
それが…………嫌なのだ。
心配よりも嫉妬、なのだろう。あたしは、彼を取られるのが嫌なのだ。
彼は気付いていないのだろう。あたしが彼のことを好きだなんて。男の子として慕って想っているだなんて。もし気付いていれば、これまで積み重ねてきた中にその欠片はあっただろうし、少しでも意識してくれているはずだ。
けれどそんな経験は、記憶はあたしにはない。向けられる好意に気付いてそれに気付かない振りを出来るほど、彼は器用ではない。
そんな彼が本気になったことが嫌で…………嫌なのは、あたしだ。
嫉妬は、きっと恋心だけの物ではない。彼が一人で歩いて行こうとしている事にも、妬んでいるのだ。
誰よりも意気地がないのは、あたしだ。そんな自分が、嫌なのだ。甘えていた事が。自惚れていた事が。浸っていた事が。高を括っていた自分が恥ずかしい…………!
だから先ほどの言葉に、見限られたような気がして怖いのだ。
もっと傍にいたいのに。こっちに振り向いて欲しいのに。きっと、ずっと…………。
「お悩み事ー?」
「っ……!」
声は耳の傍から。驚いて振り返れば、そこにいたのは妖精だった。きっと何処からか学園内に入り込んだ、野良だろう。
「いいわねー、とっても生きてるっ」
「……生き、て…………?」
「えぇっ、踏み出そうとしてる。歩き出そうとしてるっ」
誰、が……? …………ううん、知っている。そうしないといけないと、そうしたいのだと。その事に、名も知らない通りすがりに気付かされる。
「かわいそうに、自由を知らないのね」
「自由……?」
「えぇっ! 自分で選ぶことよっ。生きたいままにやりたいことをするのっ」
自由。それは彼女達隣人の代名詞だ。
何ものにも縛られず、ただ自分の好きなことを追いかける。それが彼女達の──妖精の生き様だ。
「好きな事に嘘を吐いちゃ駄目よっ」
「っ……!」
心の奥を見透かされた気になって肩が跳ねる。
……分かってる。これは気まぐれだ。適当だ。彼女はただ、そこにいたあたしに声を掛けただけ。遊びの、戯れ。けれど…………。
「嘘ほど楽しくない事はないわっ。だって世界は真実で回っているのだからっ」
「真実…………」
「そうっ! だから、嘘は駄目。そうじゃないと、わたしたちはあなたたちのことを好きになれない」
素直に、真っ直ぐに。軽口の如く好きだといえるその生き様が、眩しくさえ感じる。
……もし、もし彼女達みたいに素直になれたなら。彼はあたしの事を見てくれるだろうか…………?
「あなたは嘘の道を歩いてもいいの?」
「それはっ…………!」
答えて、気付かされる。
……嫉妬だなんて、我が儘だ。酷い話だ。
だってあたしは、ロベールに好きだなんて伝えていないのに。なのに裏切られた気分になって勝手に悪者にして。酷いのはあたしだ。
ならばせめて彼と同じ舞台に立たなければ。そうしなければ文句も嫉妬も意味がない。
「うん、いい顔! だから人間は面白いっ」
そういい残して、風を吹かせたその妖精はあたしが顔を庇って視界を塞いでるうちに姿を消した。
…………うん、謝ろう。それで、勇気が出れば思いを告げて、こっちに振り返ってもらう。……よっし!
惨めな自分を追い出すように頬を軽く叩いて気持ちを入れ替えると、その足取りで校庭へ。見渡して彼の後姿を見つけると声を掛ける。
「ロベ────」
「っ……! ぼ、僕とクラスターを組んでっ!」
…………あぁ、遅かった。流石にこれで告白なんて出来ないよ。
出来ない、けれど……出来ないなりに出来る事はある。意地悪で、卑怯だと言われても構わない。これが私の我が儘だ。
「それ、あたしも混ぜて?」
「えっ、シルヴィ!?」
「何よ……文句があるの?」
「いや……その…………」
覚悟を決めて首を突っ込めば驚いたようなロベールの声。一番驚いているのはあたし自身だ。人間、やろうと思えば出来るらしい。この勇気と同じ物を持って、彼も双子に突撃したのだろう。
そう思えば、嫉妬よりも強く彼の事を男らしく思える。溺れているのだと言われても別にいい。そんな、時折男らしい彼を好きになったのだから。
「いいよ?」
「やろ?」
ついで返ったのは双子の声。存外呆気なく響いた音に二人して少しだけ驚く。
まさかこんなにあっさりと受け入れてもらえるとは思わなかった。しかし、決まった物はもう覆せない。全て飲み込んで、腹の中で掻き混ぜて受け入れるだけだ。
……実を言うとまだ彼女達の事は苦手だ。何を考えているか分からないし、ともすれば先ほどの妖精のように真実を何気なく口にしてしまうかも知れない。本当は関わりたくない……。あたしの中にはそんな危惧が渦巻いていて、この勘はきっと外れてはいない。
彼女達は、周りの空気など気にしないだろう。その危うさに巻き込まれて傷を負うかもしれない。
が、その時はその時だ。既に踏み出した一歩を後悔するなんてそれこそ間違っているから。こうなったらその時までとことん振り切ってやるっ。
* * *
「申請を受理したわ。これで貴方達は一年間同じクラスターよ。仲良く協力して学園生活に励みなさい」
「はいっ」
放課後になって、続々とやってくるクラスターの申請を次から次へと捌く。長く教師をしていれば既にそれほど目新しい事ではないが、その年毎に面白い組み合わせもあって新鮮と言えば新鮮だ。
特に今年は彼女達……ピスとケスの双子に注目をしていた。
色々な意味で独特な二人。クラスターの規定上、三人以上で組まなければならないそれに、彼女達が一体どんな選択をするのか……それが少し楽しみだったのだ。
まずもって二人が別のクラスターに入ると言うのは想像していなかったから、その楽しみは酷いほどの倍率を誇る大穴。現に今目の前には彼女達のほかに二人を連れてクラスターの申請をしてきたことからも、安堵のような何かを覚えている。
ならばその相方は一体誰が名乗り出るのかと危惧をしていたのだ。最悪、余り者と組まされるのではないかと内心冷や汗物だった。
しかし蓋を開けて見ればなんて事はない。しっかりと彼女達がいいと言葉にして組んだ仲間。これならば今後にも期待出来るクラスターだ。
「班長はロベール・アリオン。間違いはないわね?」
「はいっ」
威勢のいい返事。どこかゆったりとした彼女達の相方ならばこれくらいが丁度いいのかもしれない。
……しかし、少しだけ心配もある。
この班はピス、ケスに加え、シルヴィ・クラズと言う女子生徒を含めた男子一人の編成だ。その上でこの班を纏めるなんて、肩身の狭い彼に出来るのだろうかと……。
そんな不安が顔に出たのか、ロベールの隣に立つシルヴィが口を開く。
「大丈夫です、先生。いざとなったらあたしが助けます。ロベールの事は小さい頃からよく知ってますから」
「……そう。なら信じさせてもらおうかしら。貴方たちにとって実り多き一年になる事を期待しているわ」
面白味のない恒例文句を謳って彼女達を送り出す。……さて、一生徒に肩入れしていては教師として模範的ではない。一律に、平等に。全ての生徒を愛し、その芽を出来る限り伸ばしてあげなければ。
「はい、次」
* * *
わたくしが丁度お屋敷の目の前の道を掃除しているとお嬢様方がご帰宅なされました。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「うん」
「ただいま」
返った言葉は簡素に、けれど少しだけいつもとは違う色を含んで響きます。どうやらご気分が麗しい様子です。何か楽しい事でもあったのでしょうか?
「今日のおやつは?」
「ジネットの手作り?」
「本日はオートーのパイを準備しております。わたくしの自信作です。直ぐに準備をしますので手を洗ってお待ちください」
「ん」
「分かった」
静かに答えればこれまた短く答えたお二方。少し袖の余った制服姿に背負った鞄を小さく揺らして歩く後姿に視線を奪われつつ。手元はてきぱきと仕事を切り上げて直ぐに次の仕事へ。……鞄を預けていただけるかと思いましたが残念です。
広く大きなアルレシャ家のお屋敷。その敷地の細やかな地図を脳裏に描きながら最短経路を弾き出してやるべき事に身を捧げます。使用人は陰の如く主の邪魔にならないように、それでいて速やかに仕事をこなす事を尊ぶべし。己に課した清規に従い、埃一つ立てないことを誇りに今日も今日とて大切な主人の為に尽くすだけ。
銀色の台車に乗せて目的地まで運べば、扉を叩いて入室の許可を窺います。
「いいよ」
「どーぞ」
「失礼します」
しっかりと二人分の声を聞いて確かに断り、木製の扉を開けて敬愛するお嬢様方のところへ。
お二方は屋上の草花溢れるテラスの中心でお行儀よく椅子に腰掛け今か今かとお待ちのご様子。そんなお二人の前に切り分けたパイと香り立つ紅茶を並べれば、鏡合わせのように同じ動作で口に運ばれました。
「おいしい」
「ありがと」
「どうぞごゆっくりお召し上がりください」
こちらを見て感想を口にされるお嬢様方。その口元についた欠片や果醤を優しく拭いつつ、身に余るお言葉に腰を折る。お二方の好みに合ってよかった……。
「ジネットは食べない?」
「使用人が仕えるべき方々と同じ席に座る事は無礼に当たりますので」
「お父様いないよ?」
「ご主人様にお仕えする事はこの屋敷にお仕えする事と同義と愚考いたします。当然、ご主人様のご家族にしてもそれは同じことです」
もし口頭でそれを許してもらえるのならば……それが命ならば従う事にわたくしの個など必要ありません。しかしながらお二方はまだ才気と将来に溢れる身。そのような大人の事情に巻き込まれるには幼く、なにより────
「だったらお話」
「ごほうこく?」
「承りましょう」
そうしていただく気遣いがわたくしにとって何よりも換え難い慈悲であるのです。
「こくえいきょういくきかんテトラフィラ学園」
「はい。お嬢様方がこの春より通われる学び舎でございますね」
「クラスターを組んだ」
「学園での生活を互いに協力しながら共に歩む学友との班分け、でございましたね」
クラスター。かの学園で協調性や仲間を学ぶための教育方針の一環。わたくしも似たような経験と知識がございますので存じております。私事を少し語れば、二年目の友人は少し奔放すぎましたね。
「声をかけられて」
「二人とも違ったからよかった」
「どのようなお二人でしたか?」
問いかけには少しだけ思い出すような間。鏡を見るようにお互いを見詰め合ったお二方が、それからこちらに視線を向けて返答をくださいます。
「……20と8」
「……3と3」
「水と風でございますね。お嬢様方と相性がよろしいお二人です」
記憶を頼りにお二人の世界を紐解けば、いつものように気にも留めない様子でまた一口頬張る双子様。その仕草に入学をなさっても変わらないお嬢様方を実感しながら少しだけ昔を思い出す。
わたくしは世界の隣人を目にすることが出来ません。触れる事も、話す事も叶いません。しかし時折、そこにいるのだろうと言う直感のような物は備わっております。それは経験則から来るもので、ちょっとした特技でもございます。
そんなわたくしは、お嬢様方から見て12で5であるとのこと。生憎と、浅学甚だしいわたくしの知識ではそれが一体何を指しているのか知りえる由もありませんが、どうやらそのことがお二人の興味を引いたらしく。この屋敷で働かせてもらうようになってしばらくの後、お嬢様方に目を掛けていただいて今こうしてお世話を仰せつかっているのです。
使用人としてはこれ以上ない至福の極み。ならばと出来る限りを賭してお仕えして今に至ります。
だから例え隣人が見えなくとも、わたくしには仕え守るべき主がこの胸にいらっしゃるのです。
「あと先生」
「同じだった」
「……お嬢様方と同じ地の力をお持ちと言うことでしょうか」
「ん」
「そう」
声に記憶の中から浮上しながら音にすれば、返った短い肯定の声に、お二方の考えを酌めてよかったと安堵をします。
前にそれで失敗してお二人を苦しめてしまった苦い記憶がございます。使用人として失格です。だからこそ同じ過ちを犯さまいと努力して今があるのです。もう二度と、あのような事を繰り返さないと。それがお嬢様方に信頼されるに足る使用人としての矜持でもあるのです。
と、そうして胸の内に秘めた思いを今を進む力に変えるのと同時、遠くに馬車を一輛捉え、そこに刻まれた紋章に小さく息を整え自分の中を切り替えます。
「お嬢様方、ご主人様がご帰宅なさいました。お出迎えして参りますのでしばらくお傍を離れる事をお許しくださいませ」
「行く?」
「行く」
「……ではご一緒に参りましょうか」
確認と承諾。そのやり取りにお二人の意向を察して僭越ながら発議させてもらえば、頷かれたお嬢様方が椅子から降りて玄関に向けて駆けて行かれます。
手早く食べかけのパイや紅茶を片付けて追いつけば、お二人はお屋敷の前の道まで出てご主人様のお出迎えを待っていました。その姿が何かに似ていると考えれば、いつもそうしているわたくしを真似て姿勢を揃えていらっしゃるのだと小さく笑みが零れます。
……っと、いけない。今はお仕事を。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「おかえり」
「お父様」
「あぁ、ただいま」
馬車から降りてきた主をお出迎えするお嬢様方。そんなお二人を腕の中に優しく抱いて笑みを浮かべるのがわたくしが仕えるこのお屋敷、アルレシャ家御党首、ルドガー・アルレシャ様です。
ここ、カリーナ共和国の長であらせられるグンター・コルヴァズ大統領のご子息であり、アルレシャ家に婿養子としてお二人のお嬢様を授かった、形式的にはこの国の王子様と言う事になりますでしょうか。
ですがカリーナは隣国ブランデンブルク王国のように王家の血筋で長く続く歴史ではなく、国の代表を民選で決める共和国。必ずしも先代のご子息が位を継承されるとは限らないのがこれまでの歴史でございます。
加えてルドガー様は大統領の第二子でございます。もし大統領の後、民選で同じ家系から選ばれるとすれば、ルドガー様ではなく長子であるアロイス様が民の信頼を集めることでしょう。
しかしそれは、そのときにならないと分からないことで、そもそも別の方が選ばれる事だってありえます。何より、現大統領の未来を憂うような想像は使用人として恥ずべき行為。これ以上はこの国に連なる使用人として控えるとしましょう。
「ジネット」
「はい。旦那様が外出中にメタラー家とシャム家からご連絡が一件ずつ。それからコルヴァズ様より、お嬢様方を連れていらっしゃるようにとのお話です」
「ふむ……父上も大概…………。まぁいいか。今夜は向こうで食べてくる。マツリと一緒に後から来てくれるか?」
「承りました」
マツリ、と言うのはご主人様の奥方であられるジャスミーヌ様の愛称です。ここに働かせていただくことになったその日に伺った話では、どうやらそう言った草花の名前があるらしく、そこから取られた物なのだとか。後に調べた限りでは、どうやら主にスハイルの方で呼ばれる名だそうで。
詮索はあまりよろしくはありませんが、ジャスミーヌ様がスハイルの方に縁があるとのお話も耳にしました。……そう言えばお二人の馴れ初めを聞いた事はありませんでしたね。いつかお話いただける機会があれば、楽しく拝聴させていただくとしましょう。
「お爺様?」
「会えるの?」
「はい。お召し物をご用意しますのでそちらにお着替えください」
「ん」
「分かった」
お嬢様方の声に答えて脳裏に描くこれからの予定。優先順位通りに並べて焦らず騒がず一つずつ……。
我が儘ひとつ言わないお嬢様方と帰ったばかりでお疲れなはずの旦那様の支度をお手伝いしてお見送りをすれば、ようやく一人になって小さく息を吐くと屋敷に向き直って歩き出します。
脳裏を巡るのはお嬢様方がご帰宅なさってからの出来事。
真新しい制服に着られたお嬢様。心なしかいつもより上機嫌なお嬢様。オートーのパイを小さなお口一杯に頬張り瞳を輝かせていたお嬢様。食べかすを口元につけたお嬢様。学園での出来事を嬉しそうにお話になるお嬢様。そして旦那様をご一緒にお出迎えしたお嬢様。大層お可愛らしいお召し物を小さな仕草で翻し遊ばされたお嬢様…………。
あぁ、お嬢様…………。
「……わたくし、明日も生きていけそうですっ」
けれどそれをお嬢様方に押し付けるわけにはいきません。
これはただの、わたくしの我が儘でございますから。ただ見ているだけでよろしいのです。
だから今日も今日とて、わたくしはわたくし個人の我欲を満たすためにお二人のお世話を焼きたいのですっ。
「おっと、埃が立ってしまいますね」
気付けば浮かれていた足取りに気付いて小さく微笑みを零す。
さて、明日は一体どんなお顔を見せて下さるのでしょうか。今からとても楽しみですっ。
* * *
馬車に揺られて辿り着いたのはカリーナの象徴である白皙城。と、馬車が止まるや否や内側から扉を開けた娘達が跳び出して行く。
「こら、ピスっ、ケスっ」
そんな制止も空しく外から扉を開けようとした使用人の横を抜けて場内へと駆けて行く双子。全く、お父さん少し寂しい……。
「お待ちしておりました、ルドガー様。陛下が応接室でお待ちです」
「君、新入りかな?」
「あ、はい。お初にお目に掛かります」
「だったら一つ訂正だ。父上の事は公務でない限り陛下と呼ばぬように。あの頑固者は公私の隔たりに敏感だ」
「……失礼しました。以後気をつけます」
ちょっとした仕返しのつもりで新人に秘密を暴露。それから彼女の案内で応接室に向かえば、先に飛び出した娘達が彼の膝の上に座り込んでいた。
「ピス、ケス、降りなさい」
「構わんよ。なぁ、愛すべき孫たちよっ」
「お爺様」
「おひげ痛い」
国王としては些か緊張感に欠ける振る舞いの父親。孫可愛がりに頬が緩んだ自分の肉親に少しだけ呆れながら腰を下せば、針の拷問から逃げるように二人がやってきて隣に座る。
すると何処からともなく現れた使用人達が夕食の準備を進めて行く。その傍らに、暇つぶしに問い掛ける。
「……それで、今日はどういった用なんだ?」
「どうも何も、大切な孫娘の大事な入学初日だ。祝って話を聞かない親が何処にいるっ」
そんなことだろうと思った。実の父親より溺愛してどうする。忙しい身なのだから報告だけで済ませればいいものを。
「そっちはマツリが来てからだ。……と言うか本当にそれだけか?」
彼にとっては本題なのだろう話題を前置きにして、こちらにとっての本題を切り出す。
因みに彼に対して敬うと言う気持ちは既にない。長としては民の信頼の厚い良き王なのだろうが、先ほどのような一面や、そもそも色々とゆるい私生活の部分を知っている身からすれば普段の父親をあまり尊敬の対象とは見られない。
そしてそれ以上に、彼自身が公私をきっちりと隔て個人的な部分で仕事の話を仄めかせたくないと言う性格上、血を分けたわたし達にも畏まった態度を良しとしない人物なのが大きいだろう。
お陰で娘が彼のような自由奔放な子に育ってしまった……。やはり幼い頃に頻繁に預けていたのは失敗だっただろうか。
「後で目を通してもらいたい案件があるのと、近々二人の力も借りたいと言う話だ」
「またか……。どうする?」
「やる」
「がんばる」
分かりきっていた返答にせめてもの責任として親としての許可を下せば、殆ど変化の無い二人の表情が少しだけ楽しそうに変化した。
そんな感情の発露に気付いたらしい長年父の傍付きを勤める使用人が小さく微笑む。名は確かエドワールだったか。
彼はわたしやマツリ、そして祖父であるグンターが相手を出来ないときにピスとケスの相手を務めてきた、養父のような存在だ。
わたし個人も昔面倒を見てもらった記憶のある、優しくも厳しい教育係。その所為か、関係で言えば私の方が立場が上なのに、時折話をすると子供をあやす様に弄ばれている節がある。わたしだって既に家を持つ立派な大人なのだが……気のせいだろうか?
第二の父親のような彼。その柔らかな微笑みに、心の奥の疲れを少しだけ解きながら雑談を紡ぐ。しばらくすればジネットがマツリを連れてやってきて、それから晩餐が始まった。
晩餐と言っても厳しい作法で雁字搦めにされたような豪華なものではない。肩書きとしては王族と言うことにはなるのだろうが、それは対外的に意味を持つ椅子であって、この国の中では少し力のある家系の一つに過ぎない。
一般市民のそれと比べると豪勢だと言う話にはなるだろうが、少なくとも会食のような厳かさはない、並ぶ皿も好みと栄養をうまく組み合わせた至って普通の食事だ。
違うのは、それを作るのが専用の料理人で、周りには小さな世話をしてくれる使用人が立っているというだけ。別に毎日食べ切れない量やお金の掛かった食事をしているわけではないのだ。
そんな事をすれば民の反感を買い、忽ちに今いる椅子から引き摺り下ろされるだろう。カリーナとは、そう言う国だ。
……まぁそれにしても、今日は心なしか献立が偏っている気がする。主にピスとケスの好物に。
まず間違いなく父の仕業だ。前に一度ジネットも絡んでいた事があったが、さて、今日はどうだろうかと。
わたしがそれらのことを考えている合間に語られるのは、他愛ない娘達の学園での出来事。
生憎と仕事があって入学式に参列する事は出来なかったが、話を聞く限り特に問題もなく順調に一歩を踏み出せた様子。友達らしい子も出来たようで、これからの生活に今までにない彩りが加わるのだと想像を馳せれば少しだけ夢も描く。
彼女達は少しばかり感情表現が苦手だ。時折親のわたしでも理解に時間を要するやり取りをするほどに、少しだけ変わった空気の……世界の持ち主。前に聞いた話では、彼女達には世界が別の形に見えているらしいが、どうやらそれは彼女達が妖精憑きである事に起因する特技に因る物らしい。
その所為か、違う世界の中で生きる彼女達は、周りとは少し違う感性を育んで今に至る。……簡単に言い換えれば、常識と言うものが少し欠如しているのだ。
その欠けている物がテトラフィラで友と一緒に学び身に着けば、誇る以上に特別な将来を約束される二人だと言うのが父親としての見立てであり希望だ。
だからその友人たちと共に過ごし、実りある学園生活を心身ともに健全に送って欲しい。……他愛なく有り触れた、これ以上ない願いだ。
そんな事を考えながら食事を終えれば、しばらく休憩した後先ほど言っていた仕事に目を通し始める。重要な案件だった所為か、いつしか手元に没入し娘達が傍を離れている事に気が付かなかった。
* * *
「何が見えるかね?」
問いかけに声は返らない。どうやら随分集中しているらしい。その事に小さく笑って、先ほど用意させた毛布を二人の肩に掛けてやる。その事にも気付かない様子で、双子は静かに座りこみ空を見上げていた。
カリーナ城の外壁の上。既に夜間警備の兵達が実直に仕事に励む傍らで。そこにいる事に監視しているような誤解を与えながらただ愛すべき双子の孫を慈しむ。
吹いた夜風に身を捩る事もない人形のような二人。何かに意識を奪われたように暗く眩い空を見上げる彼女達には、一体何が見えているのだろうか。
不思議な世界で生きる少女達。彼女達の事を全て理解出来る者は、心を覗ける妖精くらいなものだろう。ならば一体、どんな妖精が彼女達と契約を交わすのだろうか。今から二年先のことが少しだけ待ち遠しく感じる。
と、不意に項垂れた二人。それからこちらへと振り返った彼女達は予備動作なく抱き付いてきて零す。
「つかれた」
「さむい」
「戻るとしようか」
さて、ここで今し方彼女達がしていた行動に疑問を持ってはいけない。不要なものだったと切り捨ててはいけない。それは彼女達の否定だ。理解の放棄だ。その端を見せれば、今ある彼女達の僅かな興味が全てなくなってしまう。
繊細で、不可思議で、少しだけ理不尽。
他人の事など全てを分かるはずもない人間の分際で、中でも最も理解に苦しむ相手。それが我が孫、ピス・アルレシャとケス・アルレシャだ。
そのことがたまらなく愛おしい。分からないことが楽しい。
何せ六十年生きてきてまだ分からない事に満ち溢れているのだ。世界はこれほどに広大なのだ。
一国の長としてまつり上げられても、この身はとても矮小だ。その事実を、二人を見ていると痛感する。
だから一人で勝負している。いつか愛すべき孫を全て理解してあげたいと。確かな物があるのだと。そしてそれ以上に、何もないのだと。
矛盾し、茨で苛むような夢。その難しさにこそ、追いかける価値があるように思う。
諦める事は簡単だ。ただ、諦めない先に、身になる何かを捕まえて欲しいのだ。失敗でもいいのだ。
人は、失敗する生き物だから。失敗しても尚、前に進み続ける者であればいい。そうして、僅かの偶然に輝く心を持てるのであれば、きっとそこにこそ意味が生まれるだろうから。
「お爺様」
「おんぶ」
「よしきたっ」
だから老人だと侮るなかれ。我が身はまだまだ現役だ!
「……少し成長したかね」
「多分」
「変わってない」
…………現役だっ!