第二章
あれは確か……あたしが八歳、今から約七年前のことだ。
物心ついたときから隣にいた幼馴染、ロベール・アリオン。親同士の親交が深く、生まれ年も同じと言う事もあってきょうだいのように育ってきた間柄の男の子。
あたしとしては異性であるよりも先に、共に遊ぶ友人としての感情の方が強くて、よく二人で馬鹿をしては親に怒られる日々を過ごしていた。
そんな、有り触れて平凡な毎日の……そこから逸脱した一日。今でも深く記憶に刻まれ、忘れる事なんて出来ないたった半日の出来事。
それがあたしとロベールに後悔と傷を刻み込んだ、これ以上ない大きな失敗。
その日もいつものように二人で遊んでいた。丁度他国から流れの大道芸がやって来ていて、二人で芸を見に行ったのだ。
広場で行われていた見世物には通りすがりも含めて結構な数の衆人環視が犇いていて。大人もいた人の壁に子供心な我が儘を振りかざし合間を縫って顔を覗かせれば、まさに一つの芸の終わりとして何処からともなく現れた白い鳥が羽ばたいて男の人の帽子の上に留まったところだった。
沸いた拍手にロベールと二人目を輝かせて二つ分の手のひらの音を加えたのを今でもよく覚えている。
それから幾つもの芸に見入っていた。妖精術を使わない不思議な奇術。人形劇。宙に踊るお手玉。それからお客さんまで巻き込んだものまで。一体次は何を見られるのかとわくわくしながらその世界に引きこまれ、立っている疲れも忘れて熱中していた。
けれども楽しい時が永遠に続くわけもなく。一通りの公演を終えた男性は最後に一礼して演目を終える。後に残ったのは満足感と僅かながらの寂しさ。我が儘を言ってもいいのならもっと見ていたかったと強請りたくなるような、寂寥の思いと共に一時の幻想的空間に後ろ髪を引かれつつその場を後にする。
一つ気になって尋ねたら、数日はカリーナに滞在するとのことで明日もまた違う場所で芸をすると話してくれた。ならば折角の非日常、楽しまないのは損だと翌日以降の予定を言葉を交わす事無くロベールと定めて帰路につく。
慣れ親しんだ町並みは子供ながら遊びの庭。これまで何度も歩きまわったその風景は、路地の裏まで知り尽くして頭の中に地図を描き出す。
早く帰って大人たちに自慢したい。そんな思いから何度か使ったことのある細い近道へと二人で足を踏み入れる。
建物に日が遮られた薄暗い石の道。肌を撫でる風もが冷たく音を立てるのももう怖くないと楽しくロベールと話をしながら。
次いで曲がった角で大人の男とぶつかりそうになる。
「あっ、と、ごめんなさい」
城下に住む者なら極稀に利用するかもしれない裏道。ぎりぎり人が擦れ違えるかという幅のそこで、もしかしたら別の誰かに会うのは初めてかもしれないと思いながら頭を下げて擦れ違おうとしたその時。まるで壁にように立ちはだかり目の前を大きな体で塞がれる。
思わず見上げればそこにはこちらを見下ろす男の顔。
「子供がこんな所通っちゃ危ないよ?」
「大丈夫だって。知ってる道だし」
忠告に、それも尤もだと考えた傍らで。いつだって自信に溢れた幼馴染が胸を張る。
大人相手に怖気付かないのは育った環境の所為か。心なしか無鉄砲を感じる彼の言葉に呆れつつ先を急ごうと頭を下げる。
「ごめんなさい。次からは気をつけます」
もちろん子供の言い訳。きっとその時が来ればまた迷わずこの道を選ぶのだろうと思いながら体のいい言葉を口にして。次いで上げた顔で……耳で、予想外の声を聞く。
「次があればいいけどね」
「え……?」
惚けたような声は直ぐ隣から。一体何の話だと、過ぎった思考が刹那にまどろむ。
ぐらりとふらついた足元。途端に体の自由が利かなくなって冷たい石の地面に倒れる。
何、これ……。体、動かない…………頭が、ねむい…………。
そこでふと、何の脈絡もなく妖精術と言う単語が巡って。それからあたし達の意識は暗転した。
目が覚めるとそこは見慣れない部屋だった。否、部屋と言うよりは倉庫といった方が正しいか。四方を窓のない石の壁に囲まれ、隅には幾つかの木箱が重ねられている。
ここは何処だろうか。鈍く渦巻く思考に鞭を打って転がった体を持ち上げれば、それに合わせて重い金属音が部屋の中に反響した。音の出所に顔を向ければ、そこには自分の足。いつの間にか無くなっている靴が白い足を晒し、小さい足首に見慣れない金属の塊。
一体何が……。確認しようとして腕を伸ばそうとした所で、後ろ手に手首が悲鳴を上げて体勢を崩し前のめりに倒れた。
「ぁぐ……!」
重なった金属音。頬の痛みに現実である事を認識するのと同時、生存本能か何かで立ち上がろうとした足が思うように動かない事に遅ればせながら気付く。身を捩って今一度自分の足首を見れば、重々しい鈍色の枷が両の足に嵌り、その間を頑強な鎖が渡っていた。
足枷……!
謂われなく湧きあがってきた恐怖。次いで希望を探すよう先ほど異物を感じた後ろ腰の腕へ意識を向ける。ぎちり、じゃらりと言う鈍き金属臭い音。共に両腕さえも自由を奪われている事を察する。
嘘、何でっ……!?
頭の中に反響した警鐘。咄嗟にもがいてどうにかならないかと試みてみるが、拘束された辺りが冷たく擦れて痛くなるだけ。その事実に、ようやく思考が追いついて脱力する。
……まだよく分からないけれど、どうやらあたしは身動きが取れない状態にあるらしい。這って移動しようにも後ろ手の拘束具が壁か何かに繋がれているのか、勢いの反動を後ろに返すだけだ。
一体何でこんな事に……。無力感と共にこうなった原因を思い出そうと記憶を遡ろうとする。それとほぼ同時、のっぺりとした壁の一部が突如として開き、光が差し込む奥から大きな影が中に入ってきた。
「おう、お目覚めかい、お嬢さん」
「っ……! あ、貴方誰……!?」
「元気そうで何よりだ。自己紹介は、そうさね……名前が必要ならケニーとでも呼んでくれ。昔飼ってた猫の名前だ」
ケニー。偽名を隠そうとしない顎鬚の生えた年若い男が目の前までやって来て座り込み、こちらの顔色を伺うように覗きこんでくる。
その際男、ケニーから鼻先を掠めた独特な臭い。前に何度か家にやってきたお客さんの中に似たような臭いを纏った人がいたのを覚えている。これは……ツィガレだ。
ツィガレとはある種の葉を乾燥させて筒状に丸め、片側に火を燻らせもう片方から発生した煙を吸ってその風味を楽しむという嗜好品だ。基本的に上流階級の嗜みか、はたまた素行の悪い連中が好んで常用する物で、立ち上る紫煙や特有の香りを嫌うという人も多い。主に大人の楽しみの一つで、あたしのような子供には縁のない代物だ。
あたし個人としてはあまり好きではない臭い。思わず顔を顰めたくなるその雰囲気に顔を逸らせば、彼は何かに気付いたように距離を取った。
「おっと、失礼。育ちのいいお嬢さんには嫌な思いさせたかね。悪い悪い」
思いの他親切な物腰に改めて男の姿を見る。
身形は、そこまで整っていない。少なくとも立派な家柄の出身ではなさそうだ。それ以外は、ツィガレの臭いを纏った顎鬚の大人の男。ちょっとだけ背が高いだろうか。
いつしかあまり光の届かない室内に目が慣れて鮮明な情報が目の中に飛び込んでくる。
何かを縛るような荒縄だったり畑仕事をするような農具だったり……。それらから考えるに、どうやらここは倉庫のような何からしい。そう至れば、心なしか土のにおいもする気がする。
驕る訳ではないがそれなりの家の一人娘。だからこそ普段から幼馴染と色々なところへ遊び回っていたお陰で土のにおいにはある種の安堵さえ覚える。
だからか、意識して呼吸すれば混乱が最低限になって疑問が口から零れた。
「……ここはどこ、ですか?」
「悪いがそれは教えられないね。……けど何も知らないままってのもそれはそれで不安だろうからな。多分そろそろ気付いてるだろう事は言っておこうか」
僅かに、同情するような色を綯い交ぜにして。それからケニーは、あたしが頭の片隅で考えていた可能性を当然のように音にする。
「君は偶然と気まぐれで、お金目的で悪い大人に攫われた。ま、平たく言えば誘拐って事だな」
誘拐。飾らないその言葉に、氷の塊を服の内側に入れられたような悪寒が体を震わせた。
そうでなければいいと、思っていたのに。思う毎に否定する材料が消えていく事に怯えて、必死に目を逸らそうとしていたのに。それでも現実は否応なく目の前に突きつけられる。
と、そこでふと過ぎったもう一つの疑問。回した視界で目的の姿がない事にケニーに詰め寄る。
「っ、ロベールは……! ロベールは何処にいるのっ!?」
傍に見えない幼馴染の姿。気を失った時に一緒にいたはずの彼がいない事に詰問するような音を投げかける。
するとケニーはこれまた騙すような素振りも見せず素直に答えてくれた。
「一緒にいた男の子か? あの子なら一足先に上に行ってるよ。今頃は筋肉のおっさんと話をしてる頃じゃないか?」
上? そう至って天井に視線を向ける。先ほど倉庫のような所だと考えたこの場所は、どうやら何かの建物の地下室らしい。構造がはっきりしない以上自力での脱出は難しそうだ。なにより……。
「ケニーさん、妖精従きですか」
「おしいな、妖精憑きだ」
彼から感じるそれはあたしと同じ、妖精の見える者の気配。妖精憑きや妖精従きは妖精力を扱える。そのお陰か、時折勘のように相手が同類かどうか肌で分かるのだ。
今回は偶然、ツィガレの臭いを嗅いだ時に気付いたのだ。
そう思って尋ねた言葉には、けれども少しだけずれた答え。返答に、思わず思考が止まる。
え……? 妖精憑き? 普通妖精の見える人は学び舎に通って、卒業するときには全員契約をして巣立っていく。だから妖精の見える大人は妖精従きである事が普通なのだが……彼はその常識に当て嵌まらないらしい。
「別におかしな事じゃないさ。妖精だって生きてるんだ。反りが合わなくなったりして仕方なく契約を破棄したり、はたまた契約妖精を手に掛けたりってのは別にない話じゃない。……それともその年じゃあまだ知らなかったか?」
「それは…………」
学び舎にはまだ通っていない。が、一応家庭教師のような人がいるからその人に簡単には教わっている。
将来の自分が進む道、学び舎では妖精との付き合い方や妖精術使い方の他に、契約の仕方やその危険性もしっかりと教えてくれる。事実、入学したあたしは詳しい話も最初の方の授業で習ったから知っている。
妖精との契約は基本的に一生のものだ。一度した契約は余程の事がない限り破棄はされない。だから契約する際に自分を預けられる相手を全てを賭して見つけ出すのだ。
人と妖精は一対一でしか契約できない。より正確には、多重契約は出来るが、直ぐに破綻してしまうのだ。
その唯一を求め、伴侶のように行動を共にする。中には実際に家庭を築く者もいるらしい。
そもそも契約とは、冷たい事を言えば利害関係の一致に過ぎない。妖精は一人では二十から三十年ほどしか生きられず、人間も妖精力を持っていても独り身では大きな妖精術は使えない。それを、契約で、回路で結び様々な恩恵を得る事で互いに未来へと足を向けるのだ。
一番大きな物と言えば、妖精は人から妖精力を受け取り長く生きて楽しい事を追いかける事。逆に人間は、持て余す妖精力を妖精の力を借りて妖精術に昇華し、想像を具現化させる事にあるだろうか。
互いに利のある約束。それが契約で、一生に一度の繋がりを吟味を重ねて手繰り寄せる。
けれども全てにおいて絶対と言う物はないと言うか……絶対がない事が絶対と言うか。当然事故や過失によって契約が破棄されてしまうこともありえる。それが彼の口にした話だ。
主に戦いなどで契約妖精や契約者を失う片割れ。生命としての終わりは、そのまま契約の断絶に繋がり、そうして大人でも妖精憑きと言う存在が生まれるのだ。そう言う類は基本的に戦いの場に身を置く軍属が主で、ある種仕方のないこと、といった風潮がある。嫌ならその道を選ばない覚悟もまた、未来の形の一つだ。
また、それとは別に妖精を失うこともある。事故でなければ故意……過失によるものだ。
人の関係が永遠でないように。例え妖精とであっても……異種族だからこそ隔たりは存在して。時を経る毎にその蟠りが大きくなれば、袂を分かつ可能性だってあるわけで。その衝動が、隣を生きる者に矛先として向けば一線を越える者も僅かにだがいる。
そうした、相棒を手に掛ける者達の蔑称が……妖精殺し。同じ妖精憑き、妖精従きとして反面教師にするべき、世界にとっては認められない価値観だ。
妖精殺しはその行為が共に歩む隣人を傷付ける悪とされ、拘束対象となる。捕まった者は拘置所などで更生し、社会復帰を辿るのが一般的だ。
大まかに分けて二種類。妖精を失った者は周りから距離を置かれがちだが、彼は────
「言っとくが妖精殺しじゃあねぇからな? ……ちょいと失敗して、契約を解消しただけだ。別の誰か見つけてればまだ楽しい事を追いかけてるだろうし、そうでなければそろそろ一人での存在維持は厳しい頃だろう……」
どこか遠くを羨むように視線を揺らす。何があったか、なんてそんな無粋な事を訊くつもりはないけれど。彼が少なからず後悔しているのだという事は理解できた。
「…………それで、こんな事を?」
「ははっ、同情かい? そりゃあ流石に傲慢が過ぎるってもんだぜ、お譲ちゃん。俺の人生は俺のもんだ。誰に指図されるもんでもねぇ。分かったら……こうはなってくれるなよ」
自嘲するように零して。それから彼は僅かに見せていた人間臭さを体の奥にしまい込む。
「さて、無駄話はおしまいだ。そろそろ立てるか?」
鋭い大人に視線に、どこか忘れかけていた現状を自覚する。そうだ……あたしは彼に、彼らに誘拐されたのだ。
「……これからどうするんですか?」
「大人しくしてれば傷付けたりする事はないだろうよ。分かったらほら、自分で歩いてくれ。生憎と、か弱い女の子の背中を蹴る趣味はないんでな」
そう言って、壁か何かに繋がれていた拘束を解くケニー。もちろん手首の枷が外れた訳ではないが、ようやく自由に立ち上がれる。足枷のせいで歩き辛いけれども……。
先導するように歩き出すケニー。その背を摺り足でゆっくりと追いかける。
彼との会話で少しだけ冷静になった頭で考える。妖精術で抵抗……は、やめておくべきだ。彼が妖精憑きである以上、同じく力は使える。けれど例えば、あたしの風と相性の悪い……相性の良い炎に愛された力だったら直ぐに無力化されてしまう。体を動かそうにも手足を拘束され、男と女、大人と子供の体格差。無駄な足掻きにしかならない。下手に警戒されたり、いざという時に動く力が残っていないと話にならない。
彼の言う通り、身を守るためには大人しくしているほかないだろう。
こういう時にこそ静かに動いてくれる自分の頭に感謝をしつつ階段を昇る。途中段差に躓いてこけそうになった所を目の前から差し出された手のひらで受け止められた。
本当に、危害を加えるつもりはないらしい。だとすると、彼の……彼らの目的に幾つかの想像がつく。
考えていると重い音を響かせて開いた扉の向こう。暗闇に慣れていた視界が弱くとも確かな光を捉えて思わず目を細める。次いでゆっくりと明るさに慣れてくると、ようやくその部屋を見渡す事が出来た。
くすんだ色の壁。天井からぶら下がった照明。使い込まれた上に放置されていくらか劣化した長机……の奥には同じく木造の食器か何かを入れるのだろう棚がずらりと並んでいる。遅れて、微かに鼻先を掠めたのは、家でも少し嗅ぎ慣れた…………お酒のにおい。
内装から察するに、ここは喫茶店……いや。酒場のような何かだろうか。今は放置されて久しい、店のようだ。
随分と洒落た場所に居を構えているものだと思いつつ、そうして回した視界の中で見慣れた顔を見つけて安堵の声を上げる。
「ロベール……!」
「っ、シルヴィ!」
声にこちらへ気付いた幼馴染が振り返って、同じように安心したような色を見慣れたコバルトブルーの瞳に灯した。
咄嗟に駆け寄ろうとして繋がれた足が上手く動かず前のめりに。またしても隣にいたケニーに助けられつつ、周りにいる大人に遮られる事なくロベールの下へと辿り着いた。すると彼はすぐさまあたしの身を案じてくれた。
「無事か? 怪我とか、何か酷い事とかは……?」
「大丈夫。ちょっとこれ痛いけど……。ロベールは?」
「あぁ、平気だ」
両手の自由を奪う枷が金属臭い音を立てる。その事実に、改めて自分の置かれている状況を客観視し、こちらを見つめる大人の姿を見回した。
値踏みするような視線。中には嫌悪感さえ抱く下卑た薄い笑みを浮かべる者もいる。数は……五人。全員男で、無闇に暴れて勝てる人数じゃない。
そんな中から、一人……恐らくこの集団の頭らしき男が口を開く。先ほどケニーが言っていた筋肉の大男だ。
「感動の再会だな。どうだ、一杯飲むか?」
営業していたなら店主が酒を供する長机に腰掛け、蜂蜜色の液体が注がれたグラスをからかうようにこちらへ向けて差し出す。
「……お酒は19歳になってからですよ」
「いい子ちゃんだな。結構なことだ」
カリーナの法では飲酒は19歳から。加えて結婚は男女共に20歳から。カリーナ共和国でのこの辺りの決め事は他の大国と比べて最も年かさなものだ。
そんな国が定めた守るべき規則を正直に答えれば、男は片頬をつり上げて笑い手に持ったグラスを軽く揺らした。天井から注ぐ光がグラスの縁と中身とで反射する。
次いで落ちた沈黙。まるで何かを待っているようなその時間に、せめて虚勢でもとじっと見つめてこちらから踏み込む。
「……何が目的ですか?」
「お譲さんは聡明だな。そっちの坊やよりは余程冷静と見える」
一口飲み下した男があたしを推し量るように見つめて零す。あれがお酒なら、沢山飲んで酔ってくれれば突破口が開けるかもしれない。
まだ正常な口調の男を観察しつつ視線で答えを催促すれば、彼はグラスを直ぐ傍に置いて口を開いた。
「……まぁいい。気の強い女は好きだからな。君に免じて答えてあげよう。…………とは言え、もう殆ど察しはついているだろうがな」
言葉と視線には……けれども深い意味は感じない。純粋に、敬意を表しているようだ。
そこでふと、いやな想像が巡る。世界広し、だ。変わった嗜好の持ち主は数多いる。もしかしてこの男……少女愛者だろうか。
それなりの家柄で育ってきたから耳にした事もある。カリーナでは家柄を重視する傾向にあるから、早くから婚姻を将来視した許婚や婚約を結ぶ事が多い。あたしも八歳と言う年にしてもう二度経験した。実感がわかなかったから先送りにしたけれども……。
そんな男女の関係。中には持ちかけられた縁談を快く受け入れる者もいるだろう。それを拒む事を許され無い者もいるかもしれない。
自由など捨てた先の未来。あたしにとっては想像もつかない遠い場所の出来事だけれども。望んで紡いだ結果なら、年齢など関係のない感情が芽生えてもおかしくはない。事実、一人知っている。同い年で、既に将来を約束した相手がいる子を。
前のその子と少し話をした時に言っていた。自分は彼を好きで、彼も自分を好きでいてくれているのだと。とても幸せそうに、微笑んでいた。
その時に知ったのだ。募る想いに、年齢など些細な問題なのだと。
それと同じと言う訳ではないけれども、広い世界には大人でありながら小さい子供に劣情を……純情を抱く者もいる。
まだ断定をする訳ではないけれど、目の前の男にはその片鱗がある気がする。それも、どちらかと言えば純粋に好意を抱くように。あたしを……子供だからと言外に切り捨てている感じは、あまりしない。
まるで、一人の女性として扱うように…………。
「君たちを攫った。その引き換えに求めるのは──金だ」
「っ……!」
惜しげもなく、そのところを告げる。
「話は簡単だ。君たちは人質としてじっとしていればいい。俺達はお金が手に入ったら無事君たちを解放するとしよう。下手な事をしない限り手を上げるつもりはない。お金で大人が解決する話だ。な? 理解できない話じゃないだろ?」
とっても単純で。そしてとっても下種で。そうする事に迷いがなく、覚悟がある音。
だからこそ気付いてしまう。あぁ、駄目だ。説得なんて、通じない。彼には彼の信じるものがあるのだ。
「ついては君達の家名を教えてもらいたい。そうすれば交渉に移れる。坊やに訊いたが教えてくれなくてね。……でも君は違うだろう、お嬢さん。冷静で、聡明で、理知的な君なら、悩んだ末に選ぶべき答えが分かるはずだ」
「シルヴィ、騙されちゃ駄目だ。信用できない。言ったらぼくたちは用済みだ。それこそ…………殺されるかもしれない」
男を睨んだまま隣のロベールが噛み付く。確かに彼の言う可能性もあるだろう。心配は嬉しい。その危ないほどの真っ直ぐな気持ちは、格好いいとさえ思う。
けれど…………けれど、それでは駄目なのだ。
「じゃあ教えて。他にどうするの? 大人を五人も相手に、二人共手足を拘束されて、どうやってこの状況を打開するの?」
「それは…………」
「それに五人だけとは限らない。その机の向こうに潜んでるかもしれない。建物の外にもいるかもしれない。相手の数も分からないのに、どんな無茶が出来るの?」
「でも、だからって…………!」
分かってる。だからあたしも今足りない頭で必死に考えてる。どうするのがいいか……男が言う、冷静で、聡明で、理知的な自分を総動員させてる。その中に、一つだけ道がある事も、理解している。
声を潜めたところでこの静寂では向こうに筒抜けだ。だからこそ、逆に少しだけ声を張ってロベールと会話する。
まるで子供の成長を見守るように、そのやり取りに一切の口を挟んでこない大人たちに聞かせてやる。
「あたし達が無茶をするのも、それからこの人たちがやりたくない事をするのも、どっちもあっちゃいけないこと。あたしたちは……人質だから。少なくとも目的が達せられるまで手出しはされないよ」
誘拐の人質と金の交換。だからこそ成り立つ取引は、片方が反故にされればもう片方だって判断に迷わない。
だからこそあたしは生きている。生かされている。その事を隠す事無く告げ、男に視線を向ける。
「そうでしょ?」
「察しがよくて助かる。何なら大切な何かに誓ってもいい。お前達が下手な事をしなければ、指一本触れはしない」
「……本当だな?」
「生憎と、殺人犯にも性犯罪者にもなるつもりはないんでな」
「誘拐犯だって大概だと思うけど……」
思わず口にすれば、違いないとばかりに男が笑った。
そんな彼に、また一つ疑問が沸いて尋ねる。
「……ねぇ」
「んだ?」
「最初からお金目的だったの?」
「あぁ。誰でもよかった。そしたら偶然暮らしの良さそうなお嬢さんとお坊ちゃんを見かけたからな。同じ危険なら見返りが大きい方を選ぶのが当然だろう?」
「何に使うの?」
少し安心した。どうやら特別恨みを買っていたわけではなかったようだ。
けれど逆に、割り込めそうな隙も見失う。
「聞いてどうする」
「気になっただけ……。どれくらいのお金が欲しいのかは分からないけど、でもこうする事は確定だった。ってことはお金に困ってるんでしょ?」
「正直に話せばお恵みくださるってのか? 慈悲深いことだね」
「そうじゃない、けど……。そこまでする理由ってなんだろうって思って」
話をしながら注意して見たが、別に暮らしに困っているようには見えないのだ。纏う衣服もそこらで普通に買える、安くとも丈夫な物。身形だってそれなりで、体つきも不衛生とは思えない。少なくとも、こうしてお話ができるくらいには冷静でいてくれている。それは、心にまだ幾許かの余裕があるからだ。
そんな彼らが、一対何を求めて金を欲しているのか。純粋に気になったのだ。
一応の脅しなのか、店の隅で刃物を一つ投げて弄んでいた男が口を開く。
「お譲ちゃんよぅ、お話が好きなのは分かるがもう少し自分の立場を省みたらどうだぃ?」
「……ご忠告ありがとうございます」
「お、おぅ…………」
「ははっ、なに言い負かされてんだよっ」
「うっせっ!」
言葉は鋭いが、そこに意味ほどの意思は感じられない。どちらかと言えば心配の色が強く感じられた。
住む世界が違うと。変に肩入れすると困るのはそっちだと。まるであたし達を守るように遠ざけようとした言葉。
下にいた時、ロベールと再会してから、そして今。どれをとっても、彼らは頑なに一線を引いたまま……こういうのは語弊があるのかもしれないが────優しい。
それはこの行いを後悔しているように。はたまた良心に苛まれるように。交わらざる平行線で互いのこれ以上の平穏を乱さまいと気を遣っているように感じる。
どこか陽気に笑う声。それに呆れたように頬杖を突いた男がこちらを見つめて問う。
「……まぁいい。これも何かの縁だ。お嬢さんとの話は楽しいからな。…………けどそこは取引だ。家の名前を教えてくれ。そしたら理由を話してやる。向こうから折り返しの連絡があるまでの暇潰しだ」
「シルヴィ…………」
心配するように名前を呼ぶロベール。大丈夫だと、少し萎縮している彼を身を寄せ合いながら手を繋いで答える。
「……クラズ。あたしの名前はシルヴィ・クラズ。聞いたことある?」
「あぁ、立派な家だな。何度か前を通った事もある。……そっかそっか。…………ん、って事はそっちの坊ちゃんはもしかするとアリオン家の一人息子か?」
「……ロベール・アリオン。…………なんで知ってるんだ?」
「それも含めて話してやるよ」
どうやら家名には聞き覚えがあったらしい。まぁそれなりに色々関わっている家なのは確かだ。だからこそこういうことも起こり得るし、それに対する振舞い方と言うのもなんとなく教えられた。だから今、どうにか落ち着いていられる。いわゆる嗜みと言うやつのお陰だ。
家名を聞いた男があたしを地下室から連れ出した男性……ケニーと名乗った彼に視線を向ける。彼らにとってはこれからが勝負。それぞれの家にあたしとロベールの誘拐を告げ、身代金と交換に人質解放へ……そして逃亡を、と言うのが簡単な筋書きだろう。
子供にも分かってしまうからこそそれだけ手段も選べないほどに何かに迫られているという事だ。
ならば一体その理由……彼らの目的とはなんだろうか。そう考えるのと同時、扉が閉まって男が一つ息を落とした。
「……さて、約束は約束だからな。暇潰しのお話だ」
彼が語ったのは少し意外な話だった。
どうやら彼らは全員軍属崩れらしい。しばらく前まで国に仕える騎士として働いていたらしく、大きな作戦に参加していたのだとか。詳しい所は語らなかったが、語れないほどに込み入った話なのだとすればいくつかは想像がつく。恐らく国と国の間の問題。四大国の大勢すら脅かしかねない重要な任務。
特に戦いを主にする部隊に身を置いていたらしい彼らは、作戦の成功と引き換えにこれまで苦楽を共にしてきた相棒……契約妖精を失ったのだそうだ。
妖精と共に歩む世界で隣を歩むはんぶんを失うという事は時折存在する。彼らのように戦いに身を投じていれば尚更だ。学園に入ってから少し勉強したが、これまで歴史上で起こってきた様々な争いの都度、数多の妖精がその存在を散らしてきた。
見も蓋もない事を言えば妖精は転生をする。体を失っても時を経てまたこの世界に生れ落ちる。その際に前の記憶は欠落してしまうらしいが、人のように死んでそれで終わりと言うわけではない。……いや、人間だって生まれ変わっているのかも知れないが、それは証明されていない。妖精に関してそれが分かっているのは、彼女たちが短い期間で同じ波長を持って生まれてくるからだ。そんな事をよく研究しようと思ったが、きっと妖精という種を理解しようとした末なのだろう。
そんな妖精との別離。大抵の場合どちらかの生が終わる事で紡がれる契約の破棄は、その先に別々の道を描く。
人が残った場合、妖精従きから妖精憑きへ。楽しく過ごしてきた相棒を失うことで、悲嘆に暮れる者が多く現れる。
それは波長を重ね契約する関係故の仕方のないこと。性格が似ていたり、好みが同じだったり。自分と同じ感性を持つ者同士が手繰り寄せ易い契約と言う形は、それだけ喪失に傷を伴うのだ。
ともすれば契りを交わし仲睦まじく愛し愛されて過ごしていた夫婦が引き裂かれたように。稀に種族の壁さえ越えて感情を抱く関係。その他と比べられない喪失感は何物にも代え難く、大きな悲痛を胸に落とす。
そうすると次の契約への意欲が失せたり、同じ光景を繰り返したくないという思いから妖精との関係が疎遠になってしまうのだ。
良き隣人と肩を並べる世界でその手を拒むという事は、人の世界でも爪弾きにされる可能性さえ孕む。結果周りから白い目で見られ距離を置かれる。最終的には、謂れのない中傷を受ける事だってあるだろう。
事軍属に限ればまた違った話もある。
軍とは誤解を恐れずに言えば力を必要とされる場所だ。様々な能力がそれぞれにある中で、最も比べ易い力。それを用いて力量を比べ、均衡さえ作り出す。治安維持の要の一つと言ってもいい。
中でも妖精従きが使う妖精術は最たる物で、これまでの歴史でも度々戦いの道具として使用されてきた。それくらいに信頼と実績のある妖精との関係の一柱だ。
例えばそれが途端に失われたらどうなるか。今まであった物がなくなるとどうなるか。……世界から妖精がいなくなったら、なんて荒唐無稽な話で想像がつかないからそれは別として。軍に限って、今まで均衡を保とうとしてきた抑止力がなくなるとどうなるか……。
簡単な想像だ。だからこそそれを補って世界は巡っている。
普通は替えが利かない存在だが、埋め合わせて継ぎ接ぎして。そうしてどうにか紡いでいる今だ。
その例に漏れず、彼らも切り捨てられた。力を必要とされる場所でその力を失った事で、役目を解き放たれた。
もっとやり方はあったように思うけれど。それだけ厳しい世界だといえば、その肩に掛かる物の大きさと重さに意味が生まれる。
結果失った居場所を求めて、行動に移したと言うのが彼らの理由だ。
「別に戦いたかったわけじゃない。ただ、これまでそれしかしてこなかったからな。……ずっと隣にいた相棒も失って、世界から居場所が半分消えた。それでも彼女達の側を非難する気に離れなかった。最後の最後まで助けられたからな」
契約した妖精を失ったとき、その最後に彼女たちは彼らを庇ったらしい。より正確には、身を守ろうとして妖精術を行使し、苛烈な攻撃に耐えられなくて消滅したのだとか。
「今でも夢に見る。あの時こうしていれば……そう思わずにはいられない。契約は一生の物だからな。もう少し冷静になって退き際さえしっかり出来ていれば、こうならずに済んだかもしれないってな」
けれど個人的な思いと仕事としての感情は別で。背負った役目と守るべき物があって。選びたい道と取るべき選択肢は相反していた。結果、逃げられない場所から一歩だけ前に進んで、彼らは今に至った。
「最後まで寄り添ってくれた彼女達に罪はない。だからこそ彼女達の思いに応えるべきだと思って、嘆願したんだ。後方支援でも構わないから席を置かせてくれって。……けど認められなかった」
「それで仕返しにってことか?」
「まさか。それこそ彼女たちが望まない決断だ。妖精は楽しい事を生き甲斐とする。不和を生じさせるなんて、一度でも妖精との暮らしを知ればまず考えなくなる。……逆だ。彼女たちが望んだ平穏、そのために力を使いたいと思ったんだ。だから別の方法を考えた」
それがきっと、この誘拐。そうすることでしか道を見つけられなかった彼らの思いの果て。
「人の世界は現金な物だからな。特にここカリーナは立場に拘る嫌いが強い。最悪、立場さえあればどうとでもなる。だからこそ一介の騎士だった俺達には何もなくてな。ここじゃもう望む物は得られないと思った。だから外に目を向けたんだ」
「じゃあ、えっと……国外にって事か?」
「トゥレイス騎士団国……」
「お嬢さんは相変わらず頭の回転が速いな」
ロベールの言葉を継ぐように思わず呟けば、どこか嬉しそうに男が零した。
トゥレイス騎士団国。カリーナのお隣、フェルクレールトの大地で西に位置する大国の名だ。国としての歴史は浅いがその影響力は大きく、今や世界を支える柱の一つ。
今回の話で語るべきは、そのお国柄だろうか。
トゥレイスは騎士団国……騎士が治める国だ。その国の頭は総長と呼ばれ、国の長と騎士団の長を両方務めるという不思議な存在だ。騎士団がそのまま大きな国になった場所、といえば分かり易いか。
騎士には上下関係こそあるが、爵位のような煩わしさはない。その点で言えば、トゥレイスは四大国の中で最も爵位に関して寛容で杜撰な国。
加えて騎士団国と言う形式上、国が丸ごと騎士団の所有物で、その庇護下にいる者には平等に騎士の称号が与えられている。もちろん皆が皆帯剣して街中を闊歩しているわけでも、ましてや国ごと動いて騒乱の渦になるわけでもなく、ただ単純に国民の証としてのものだ。
国の中枢ともなると流石に国益や領土の為の武力はあるが、住む者全てが戦闘に参加するような野蛮な国ではない。どちらかと言えばその逆で、剣を抜く事に関しては比較的消極的で争いを好まない国かもしれない。
自身の国が周りに与える影響を知っているからこそ、無闇な闘争は望んでいないのだ。
「かの国は立場にそれほど固執してないからな。特に俺達のような戦う者にとっては過ごし易い風土だ。国外からの受け入れも盛んだと聞くし、行き場に困った際の最終的な避難所ってわけだ」
「……そこに行ってまた争いに参加するのか?」
「求められればな。けどそうじゃないならのんびり過ごすさ。平穏を目指して誰かを助けつつ、自由気ままに。それが許される場所だってのは、君たちも知ってるだろう?」
トゥレイスは妖精の見えない者にも分け隔てない国だと聞く。四大国の中で最もその隔たりが薄い国だろう。それくらい寛容なのだ。
比べる物ではない気がするが、逆に見える者とそうでない者の軋轢が激しいのがブランデンブルク王国だ。カリーナとは友好的だが、それはそれ。国によってあり様は様々で、だからこそ特色などが沢山あるのだ。
「人の世界である以上金は必要だからな。あっちで暮らす為の準備として君たちに少し迷惑を掛けてるだけだ。……すまないな」
謝られると変な気分だ。彼らだって悪い事だというのは承知の上。それでもそうするしかないほどに今ここに居場所が見つからないのだろう。……確かに、騎士にとってカリーナは住み辛い場所なのかもしれない。
と、そこで過ぎった別視点の可能性。だとしたらと言う想像が、これまで語られた言葉と口調からなんとなくの現実味を帯びる。
「…………本当にお金が必要?」
「え?」
驚いたような声は隣から。思わず漏れた音に、何かを期待してかじっと目の前の男を見つめる。こちらに返る視線は試すように。それに怯まず目を向け続ければ、先に折れたのは男の方だった。
「ふむ、どうしてそう思う?」
「筋が通らないから。こんなことしたら、それこそ国に目を付けられる」
「確かに」
「それに、国外に行くなら別にお金は要らない。時間を掛ければ歩いていける。少し前まで騎士のお仕事してたなら、そのお給料もあるはず」
「……相変わらず賢いお嬢さんだ」
まだ少し纏まりきらない思考を矢継ぎ早に音にすれば、降参したように笑って男が答えた。
「あぁそうだ。本当の所言うと金なんてどうでもいい。俺達はただ、自由が欲しいだけだ」
「自由?」
「上申が跳ね除けられて全てを否定されて。端から話し合う余地など無かったそれに満足しろってか? 身分のない騎士だからって馬鹿にしやがって……ふざけるのも大概にしろ」
不満を吐き捨てて、それから我が身可愛さといった様子で語る。
「確かにお嬢さんの言う通り国外に出るのは簡単だ。けどそのままだと直ぐに連れ戻される。情報漏洩だってありえるからな。なら飼い慣らしとけって話だが、それをするほど余裕もないみたいでな。だから俺達は、交渉の椅子を求めてる」
大人の世界の話だ。子供のあたしには半分くらいしか分からないけれども。それでも彼らが追い詰められているのはなんとなく分かる。
「しっかり面と向き合って話をして、俺達は俺達として自由に生きていく。その為に、そうだな……分かり易く言えば許可が欲しいんだ。けどそのお話をする機会にすら恵まれなかったから、こうして君たちを餌にしてるってわけだ」
「……なんだよ、それ」
「代わりに怒ってくれるのか? そりゃあいい。……けどな、これは俺達の問題だ。君らが悩む事じゃない。これ以上言うと話を聞いた君たちにも迷惑が掛かるからな。できるだけ忘れてくれ。…………あぁ、いや。一つだけ、覚えててくれてると助かる」
まるで親が子供を諭すように。優しくも、仕方ないと、困ったように笑って彼は告げる。
「大人の世界はややこしくて面倒なんだ。だから、馬鹿になりたくなかったら少しくらい疑う努力をした方がいい。聞き分けのいい君たちなら心配ないかもしれないがね」
大人の世界がややこしいのはなんとなく分かる気がする。笑うでもない時に笑って、言うべき事を隠して。そんな光景を幾度か見てきたから、共感も出来る。
彼が申し立てた相手にだって立場や柵があったことだろう。全てが恙無くうまく行くなんて、それはただの幻想だ。
彼はきっと、それに振り回されたのだ。振り回されて、他にどうしようもなくなったから最後の手段を講じた。それがこの場なのだろう。
何も無かった。だからこそ、何かあって欲しかった。誘拐をした相手にこんな事を思うのは間違っているのかも知れないけど、もっと別の方法があればよかったのにと、悔しくなってしまう。
「まっ、結局最後は自分の決断だ。自由も責任も全部自分の物。その納得さえあれば、誰でもこんな事が出来るんだ。そんな危ない世界に騙されないように、頑張って生きてくれ」
「お相手さん来ましたよっと」
「ん、了解っ」
気付けば随分と話し込んでいたらしい。ようやく進んだ気がする時間はケニーの声を聞いた所為だろうか。
頷いた男は、机から降りてこちらにやってくると、足と手の枷を外してくれた。
「一応診てくれ。折角楽しい話が出来た相手を傷ものにして返したくない」
「相変わらずお優しい事で」
信頼したように笑ったケニーが、それから妖精術を一つ行使する。どうやら水の力……治癒の妖精術らしい。
この頃のあたしは、得意な属性こそ知っていたが一人で属性妖精術を使えるほど自分の能力を把握していなくて。精々が強化と妖精弾の構築程度。それでも周りからは筋がいいといわれて子供心に嬉しかったのだが、それ以上を目にして少し思った事があったのだ。
「……あたしにも出来るかな」
「水の妖精術が使えるのか?」
首を振れば、ケニーは困ったように笑う。
「だったら少し難しいだろうな。治癒の妖精術は基本的に水に秀でた奴らが得意とする。中でも得意不得意があるから全員が使えるわけじゃない。だから、悪い事は言わない。出来ない事を無理にしようとするのはやめておくといい。自分に出来る事を突き詰めていれば、その内自分にしか出来ない事が出来るようになる。……こんな風にね」
言ってケニーがまた一つ妖精術を使う。すると水の猫が出現して、ロベールの足に擦り寄った。
「あ、猫……かわいい」
「おや、君は水が得意なのか」
「え……あ、うん」
「水は根源の腹。命の頭にして尾だ。きっと君の力になってくれる。頑張れ」
「その猫、なに?」
「ちょっとした護衛。水を得意とする人を特別好きになる変わり者だけどね」
どうやら属性に反応するらしい。面白い妖精術だ。これがケニーの言う自分にしか出来ない事、なのだろう。
「他には何が出来るの?」
「興味を持ってくれるのは嬉しいけど、もう時間がないからまた今度」
今度。それがないことくらいあたしにも分かるのに。そう言われてしまえばもう食い下がる事も出来なくて、少しだけ寂しく思いながら胸の前で手のひらを握った。
手足の感覚を確かめて立ち上がれば、あたし達に対しては見せなかった鋭い目つきで男が歩き出す。後ろをついて行けば、やがて玄関らしき扉から外に出た。
目の前に広がったのは人の壁。それがこちらを見つめて、思わず足が竦む。けれど直ぐにそれがあたし達を助けに来た大人だと気が付いて安堵した。
「お待たせ。さて、取引といこうか」
底冷えする低い声と共に隣に立った男が手元で月光を反射させる。横目で見れば彼の手には小さな……けれども人の命を奪うには十分な刃物が握られていた。先ほどまでの会話で安心していた所為か、急に現実を突きつけられた気がして思わず息を呑む。
次いで彼にその気がない事が分かって上げかけた悲鳴をどうにか留めた。と言うのも、彼が手に持つそれは片刃で、刃が上に向けてある。刺突なら別だが、薙いで切り裂く場合は刃は下が普通だ。そのまま振り回しても峰しかこちらには向かない。
建物の中で口にしていたように、本当に傷つけるつもりはないらしい。あって精々、最初の時のような昏睡程度だろう。
つまりあの刃物はただの形。そう気付けば、ちらりとこちらを一瞥した男が、安心させるように小さく笑みを浮かべた。
……こんなに色々配慮しているのに。それでもこうする事でしか事を成せないなんて。そうせざるを得なかった彼らの過去に少しだけ同情しながら。
傍らで交わされるやり取りはどこか別世界の話。緊張を汗にして手に握る空気の中、交渉役なのだろう男性と男が会話をする。
内容は先ほども聞いた、上申。もう一度話をする場を設けてほしいという、切なる願い。他に交渉材料になりそうな物が見えないため、金の要求はそもそもしていなかったのだろう。
用意していたらしい書面を介して逼迫する時間の下、少しずつ進み始める交渉。その刹那、何かに気付いたらしいロベールが屋根の上へと視線を向ける。つられてそちらを見れば、月夜の闇に小さな影。あたしたちが気付いた事に向こうも気付いたのか、口火を切る様にその何かが宙に身を躍らせた。
落下してくるその姿に、遅れてそれが人だと気付くのと同時、その手に切っ先が反射したのが見えた。
考えるよりも、察するよりも早く。体が様々な思考を無視して動く。
上から落ちてくる影。その落下地点にいる男。このままだと、彼は…………。ようやくそこまで頭が追い着いた所で、手のひらが男を横から突き飛ばしていた。
感情の発露から体に漲った妖精力に裏打ちされた膂力。子供の力でも、そこに不可思議な衝撃が乗れば無防備な大人を張り倒す事も出来るのだと、ゆっくり流れ行く景色の中で思う。
視界の端からは、驚愕に目を見開きながらも構えた短剣を落下の軌跡から外せない男の顔が近付いて。あぁ、馬鹿な事をしたなぁ……と、恐怖よりも諦めが胸の内に湧いた事に気付きながら、体は正直に次の瞬間を見越して全てから背く様に目を閉じた。
ちくり、と。冷たい感覚が胸の中心に広がる。それからじんわりと熱さが波及するように染み渡り、体の異常を脳に知らせた。
「シルヴィッ!!」
「ばっ…………かやろぉがぁっ!」
耳に届いた幼馴染の声。それを掻き消すような音は、ケニーの物。叫んだ彼が、それから瞼の向こうで気配を膨らませる。
次いで頬に生暖かい雫が垂れたのを肌で感じて、咄嗟に目を開けた。
そうして目にした景色。幾つかの大人の視線が、様々な物を追いかけて静止していた。あたしに、数人。激昂したケニーに、数人。壁際に凭れる様に座り込んだ男に、数人。
一体何が…………。そう理解を求めて視界を回せば、ケニーの後姿を捉えた。彼は肩で息をしながら右手で左手を押さえていて、そこにはまるで果物にでも突き立てたように短剣が一つ、手のひらに貫通していた。ぽたりと滴り落ちた雫が、石畳の隙間に滑って赤黒い染みを作る。
「っ、ケニーさ……ぃぅっ!?」
怪我を……いや、怪我と言っていいのかさえ怪しい出血をしている彼に驚いて声を出そうとした刹那、胸が内側から何かに殴打されたように鈍く痛みが広がって前のめりに倒れた。
受身さえ取れずに地面と衝突しかけた、既のところで差し込まれた腕。それはどうやらロベールの物らしく、彼の声が直ぐ傍で響く。
「シルヴィ! 動いちゃ駄目だ!」
「なん………………え……?」
何を言われているのか分からなくて問い返そうとする。けれどそれより早く、無意識に胸へ当てていた手のひらにぬるい違和感を覚えて離す。次いで見た自分の手のひらが、暗闇でも分かるほどに赤く染まっている事に気が付いた。
一拍空けて、体が現実を思い出したように熱を持ち、頭が緊急事態を知らせる。
あ……あたし、怪我してる。胸が、何かに切られて……血が、出てる…………。
自覚すれば、途端に痛みと熱さで意識が朦朧とし、受け入れ難い現実から目を逸らすように意識を暗転させ始める。
「坊主っ、仰向けにゆっくり寝かせろ! 早く治癒の妖精術っ! 誰か一人くらいいるだろっ!!」
ケニーの焦ったような声が遠くに聞こえる。耳元で慌しく走り回るような音が響いて……薄れていく。
「シルヴィ! しっかりしろ! シルヴィッ!」
ロベールが、あたしの名前を呼んでいる。今にも泣きそうなほどに顔を歪めて、あたしを覗き込んでいる。
……もぅ、男の子なのに、なんで泣くの? 大丈夫。あたしは、ここにいるよ……?
いつもの憎まれ口でそう告げたいのに、喉が何かに蓋をされたように塞がって出来ない。だからと曖昧な感覚の手のひらを彼に向ければ、酷く安心する温かさに包まれた。
そうしてあたしは、意識を失った。
* * *
丁度弄り終えた二人の髪。それなりの出来に満足しながら、結末だけをあっさりと締めくくる。
「それから病院で目が覚めて、あたしをたちを誘拐した人たちは捕まったって後から聞いた。二人が見た胸の傷は、その時のものなの」
自嘲するように笑って零す。それから目の前の髪形を見て満足した。
ピスは編み込みのポニーテール。いつもは右の側頭部で纏めているそれを頭の後ろに。横の髪を編んで後ろに持ってくると、そのまま一つに纏めた感じだ。さらさらとした髪質の所為か最初は戸惑ったけれど、どうにか形になってくれて安心した。
「あの人たちがどうしてるかは、今は知らない。ただ、出来れば普通の生活が出来てたらなって思う。同情するわけじゃないけど、本当に悪い事なんてなかった筈だから」
対するケスは長い髪を上手く隠した擬似ショート。内側に巻き込んで肩を少し撫でる感じに纏まっている。普段長い髪形を見ている所為かその姿は新鮮で、言われなければ彼女がピスだとは思わないかもしれない。
「同じ事を繰り返すとも思えないし、少しでも理想に近づけてたらいいかなって。……って、これじゃあほんとに同情だよね」
普段とは違う二人の姿にようやく現実へと帰ってくる。
「ん……まぁそんな感じかな。で、どう、この髪型?」
「うん、かわいい」
「シルヴィ、ありがと」
「えへへっ、どう致しまして!」
よかった。二人に喜んでもらえて何よりだ。
きっとこの姿は今日だけの物。明日からはまたいつも通りに鏡合わせのサイドテールに戻ってしまうはずだ。
そう考えれば、あたしはずいぶんな冒険をしたのではないかと少し居心地が悪くなる。
「シルヴィはまた今度」
「いい?」
「え、何が?」
「髪型」
「ケスたちもやりたい」
と、どうやら思いの他彼女たちに刺さったらしい。もちろん断る理由もない。素直に頷けば、心なしか二人が笑った気がした。
「じゃあまた今度ね。……よし、あたし達も帰ろっか」
今日はこれで解散。ロベールと合流して帰るだけだ。
ロベール、二人の髪型がいつもと違う事にどんな顔をするだろうか。そう考えれば、悪戯心が疼いて少し楽しく足取りが軽くなったのだった。




