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フェアリー・ダブル  作者: 芝森 蛍
灰の燻る交錯の邂逅
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第一章

 夏。そう一言で言い含めるには、毎年様々な事が起こります。きっと今年もその例に漏れず、想像の外からの現実が突きつけられるのでしょう。

 けれどもそれはきっと悪い事ばかりではないはずです。特に今年は、お嬢様にとっても初めてとなる経験が数多潜んでいるようですからね。




「ジネット、これ?」

「お弁当は?」

「はいそちらに。お弁当はこちらの手提げに入っておりますので」


 朝の(せわ)しない時間。普段気ままに、自らの時間を過ごされているお嬢様ですが、準備のこの時間だけはのんびりできません。

 必要な物の用意。忘れ物の確認。学園に通われ始めてからは自己管理されるようになった身の周りのことですが、まだ時折全てを(つつが)無く……とはまいりません様で。既に今年が始まってから八個目の月、ウィードに差し掛かる今日この頃ですが、お嬢様のお世話の任は今日も今日とて遣り甲斐の感じるものでございます。

 特に本日のような特別授業の時は顕著でございまして。目まぐるしい日々の微かな変化は、お嬢様にとってあまり受け入れられない物のご様子です。

 お嬢様は言動こそ少しばかり周囲と異なりますが、穏やかな時間を好まれるお方ですので。いつもの(わだち)から逸れる行いは、仕方のないこととは言え少しばかり納得されていらっしゃらないようです。

 それに今回は…………お嬢様にとってあまり馴染みのないことのようですので……。


「ん、ジネット、行ってくる」

「行ってきます」

「はい。どうぞお気をつけて」


 荷物を背負ったお嬢様がこちらに向いて礼儀正しく出立のご挨拶。例え気乗りしなくとも、真正面から挑むそのお心に深く歓心を得ながら。

 そうしてお嬢様を屋敷の玄関でお見送りすれば、お背中が見えなくなって小さく息を吐きます。

 青空に煌々と浮かぶ眩しい陽。砂糖菓子のような白い雲が揺蕩(たゆた)う自然の画布を仰ぎ見て夏の盛りを肌に感じながら少しばかり心配します。

 今日は課外授業。学園の授業としては毎年恒例の──水練でございます。

 地に足つけて歩む人が、身近に潜む危険に抗する為。そしてお嬢様にとっては、妖精の悪戯やその御技への対策を学ぶ為。

 授業は砂浜を使用するもので、一応家族観覧も可能とのこと。学園に入学してからのお嬢様の功績を記憶に収めることも出来ましょうが……残念ながら今日は朝から予定が詰まっております故。不承不承(ふしょうぶしょう)仕事に邁進すると致しましょう。

 叶う事ならば波打ち際のお嬢様の勇姿を眺めとうございますが、ここは我慢。ただいつも以上に、ご健勝とご活躍をお祈り致しておりましょう。

 …………さて、お仕事です。夏の日差しに負けぬよう、本日も張り切ってまいりましょう。




              *   *   *




「あっつ……」


 思わず零れた声に、それから後ろを振り返ってまだ生徒がいない事に安堵する。幾ら本心でも、教師が生徒に見せる姿ではないと。波の押し寄せる音に緩んだ意思を今一度引き締めなおして大海を眺める。

 今日は水練の授業。毎年恒例の、こうして海にまでやってきての実地研修だ。

 私たちの住まうこの大地、フェルクレールトは海の上に浮かぶ大陸だ。そのため、大陸の外周部に沿って歩けば、海と共に世界を一周できる。……もちろんそんな事をするつもりはないけど。

 そんなフェルクレールトの大地の南側に位置するここ、カリーナ共和国は、その他にある三つの国々と比べ比較的温暖な気候の一年を紡ぎ、夏のこの時期になると行楽地として海水浴を筆頭に様々な場所から観光客が訪れる。その殆どが陽光を受け輝く深い色をした大海に惹かれ、特別感に日々の癒しを求める光景が、あちらこちらで見られるのだ。

 中でもカリーナ城下のここは、共和国の象徴である白亜の城……白皙城(ヴァイスシューレ)を見られるということで観光地として揺るがない地位を戦後から築いている。

 人々の娯楽の一つ。その世界の片隅で楽しむためには、幾つかの知識も必要だ。

 なにせ人は、陸上の生き物。空を飛ぶ事も出来なければ、海中で呼吸も出来ない。その戒めを超えて夏を愛でる為に……そして何より、いざという時の自己防衛として水との接し方は必要不可欠だ。

 特に私たち、妖精の見える者はその隣人たちと接する機会が多い。時には過干渉から悪戯を越えることだってある接触だ。確かな知識と判断力を持って対処しなければ、命だって危ぶまれる。目立った争いこそないが、だからこそ注意すべき事はたくさんあるのだ。

 その訓練の為……妖精憑き(フィジー)として、妖精従き(フィニアン)として立派な未来を歩む為の練習が、今日と言う日だ。

 もちろん軍のように危険な事はしない。遊びの延長線で、楽しく学ぶのが今回の目的。

 それでも命に関わる事には間違い無いと。彼ら彼女らの将来を思い気を引き締め直せば、着替えを終えた生徒達が集団でやってくる。

 彼らが着用する水着には規定はない。少しでも楽しく学んでもらおうと言う方針の下の判断だ。楽しい事には興味が湧く。事務的に方法論を詰め込むよりは、自主的に体験した方が記憶に残り易いからだ。

 そんな彼らは、けれども水着の上に揃って白い半袖を着ている。

 今回の水練は着衣泳。衣服を着た状態で水に自由を奪われた際に、どうやって乗り切るかと言う内容だからだ。

 考えてみれば当然だが、水難に見舞われる際に水着を着ているなんてそんな偶然まずありえない。加えて布と言う性質上水を吸って行動を阻害する衣服の存在に慣れていなければ、普段出来ることでさえ不十分な実力しか発揮されなくなる。 

 いざという時に対処できなければ意味がない。そのときの為の訓練だ。


「はい、整列してっ」


 目の前の海にざわつく生徒を一声で纏めて並ばせる。遊びたい盛りの彼らの意識をこちらに向ければ、思いの他素直に声に従ってくれた。

 春からの学園生活の間に培われた信頼関係の賜物か。こういう時に信頼を感じられるのが、教師をしていてよかったと言う小さな喜びだ。


「早く終わればそれだけたくさん遊べるから。そのかわり、手は抜いちゃダメよ? いざという時に今日学ぶ事を覚えておかないと、他人も自分も助けられなくなるからね」


 何よりも大切な心構えを()けば、元気よく返事をした生徒達。素直な彼らに私も気持ちを切り替えて授業を始める。

 協力が重要視される一つの柱。今回もクラスターでの取り組みだ。指示すれば、直ぐにそれぞれで集まった彼らを見渡して告げる。


「それじゃあまずは準備運動から。怪我しないようにしっかりとね」


 全ては安全の上に。自分も体を解しつつ生徒の様子を見て回れば、しばらくして準備の整った彼らと共にようやく海へと入って行く。

 夏の日差し激しい空模様だが、海に入ればその暑さも何処へやら。直ぐに足の先から涼に包まれ、体の熱が冷めてゆく。あぁ、許されるならずっとこうしていたい……が、それはまた後で。今は生徒の見本としてするべき事をしなくては。


「まずは水に慣れて浮くところから」


 通常の水泳の練習も兼ねて順にこなしていく。当然個人差、得意不得意が存在する。けれどそれを見過ごすような教育はしない。出来ない子には丁寧に。基礎が出来なければ前には進めない。……もちろん、無理をさせるつもりはないけれども。

 そんな事を思いつつ生徒達を見て回るが、どうやら今年は特別泳ぎが苦手と言う子は居ないようで。何か事故でも起きない限り溺れるような姿は見られない。これならば直ぐに次に移れそうだ。

 簡単な泳ぎの練習から、ちょっとした競争まで。実力を見る意味も含めてそれぞれをこなせば、やはりと言う個人的な推論がまた確証を帯びる。

 水泳に関してだが、特に(ウィルム)属性(エレメント)に秀でる子が頭一つ抜けて得意ということが多いのだ。だからこそ水に愛されるのか、水を扱う事を得意とするからその延長線で水泳が得意になるのかは分からないが……なんらかの因果関係がありそうだ。

 もし研究者だったなら、そういう事を調べていたのかも知れないと思いつつ。一度砂浜に上がって休憩を挟んだ後、ようやく本題の着衣泳の訓練へ。


「じゃあ始めましょうかっ。最初は足のつくところからね」


 ゆっくり、順を追って。無理だけはしないように気をつけながら感覚を慣らし、少しずつ難易度を上げていく。

 着衣状態での水泳でもっとも大切な事は、慌てない事。まずは力を抜いて服の内側の空気などを利用して浮力を稼ぎ無駄な体力の消耗を防ぐ。次いで声を上げて助けを呼び、救助がなけれ漂流物や衣服を利用して更に楽な姿勢へ。泳いで助かろうと言うのは最終的な判断だ。

 これを知っているだけでも助かる確率はぐんと上がる。加えて我々が教えるべきは非常時の対策だ。

 基礎が出来るようになったのを見計らって、妖精憑きとして、妖精従きとして知っておくべき事を教える。


「水に落ちた時の大まかな対処はこれでいいわね。次は、その落ちた原因が妖精にある場合よ」


 この世界では妖精が直ぐ傍で暮らす。人が扱う妖精術に属性の得意不得意があるように、妖精にだって当然その住み分けは存在する。


「自然に暮らす妖精はその者が最も過ごし易い環境にいることが多いわ。(グラド)なら洞窟や坑道、(フラム)なら火山地帯、(フェリヤ)なら強風の吹く峡谷……。なら水に属する妖精は分かるわね?」

「水の近く?」

「えぇ、正解。そして多くの場合、水に纏わる妖精は水を用いた悪戯を得意とするわ」


 水に代表される妖精は数多くいるが、中でも有名なのはケルピーやケット・シーだろうか。ケット・シーは比較的温厚な性格で、悪戯をする際もあまり危険はないが…………ケルピーは異なる。

 躾の為の物語などに登場するケルピーは、馬の姿で人を直ぐ傍の危険へと連れ込む。名馬と誉れ高かったり、美しかったり、旅人に擦り寄ったり。人が持つ幾つかの欲求を刺激してその背に乗せた水馬は、そのまま川や湖の深いところまで連れ去ってしまうと言われる。

 そこから転じて、水の中で自由に行動できない戒めとして危険を教える教科書であったり、妖精に騙されないための道徳心を養う教材足りえるのだ。

 もちろん水際に限らず、妖精は至る所にいて。それぞれに注意すべき事はあるけれども。今回は水に関すること、そして泳ぎ方の練習などの訓練がその目的だ。


「悪戯をされないならそれでいい。けれどもし向こうから好かれた時、対処をするべきは私たちの方だから。今日はその練習もしておきましょうか」


 そう告げて、それから生徒を見渡し三人程を近くに呼ぶ。その中にはロベール・アリオンの姿もあった。


「じゃあちょっとした問題。今呼ばれた子たちには共通点があるけれど、それは分かるかしら?」

「……水の妖精術?」

「えぇ、そうね。今年は優秀な子が多いから、既に属性妖精術を扱える子もいるわね」


 答えたロベールに頷く。彼は水を。彼の幼馴染であるシルヴィ・クラズは風を。二人と同じクラスターを組む陛下のお孫さん、ピス・アルレシャとケス・アルレシャは地を得意としている。

 妖精憑きや妖精従きにはそれぞれ得意分野があるが、彼らの年齢でそれを扱えると言うのは数が限られる。特に属性妖精術ともなれば教える側としても期待が高まる生徒だ。


「三人なら水に関する対処はお手の物よね。だからまずはそのお手本と、終わった後で今度は皆の手伝いをしてもらえるかしら?」

「分かったっ」


 了承を得て、それから三人にも距離を取らせ説明する。取り出したのは術式封印石。


「この中には水の妖精術が秘められてる。効果は水の渦を発生させるものよ。今からこれを使って小さな渦を起こす。そうしたら三人は溺れないように抵抗してくれるかしら? あまり周りに被害は出ないように注意してね」

「おう!」


 彼らならこれくらいは大丈夫。これまでの授業で見てきた実績は確かなものだ。もし何かあれば直ぐに助ける準備もある。何事も安全の上の経験だ。

 頷く彼らにこちらも一つ頷いて。それから割った術式封印石に妖精力を流しこむ。

 次の瞬間、意識を集中させると三人の体の自由を奪うように水の渦が発生し始めた。直ぐに彼らが思い思いの対処を始める。

 一人は水の足場。水面より上に退避する方法で拘束を逃れる。

 一人は水の繭。外からの干渉を防ぐ防御で身の安全の確保。

 そしてもう一人、ロベールは周りの渦に逆向きの水をぶつけて勢いを中和。渦自体を消滅させた。

 三人とも冷静な対処。水の繭は少しばかり危険を感じないでもないが、その辺りは今後の課題。私がしっかり教えていけばいい。


「はい、ありがとう。……こんな風にやり方は様々だけど、落ち着いて対処すれば意図的な干渉でも防げるの。もちろん水の属性に愛されてなくてもいいわ。自分の得意な分野で対応する。そのやり方さえ自分が覚えていればいいから」

「炎の場合はどうするんですか?」


 生徒からの声は至極当然の疑問。炎は水で消されてしまう。今回のように周りに水しかない場所では対処が難しいだろう。


「直接の解決が出来ない場合は、さっきの練習と同じ、誰かに助けを求める事。炎を飛ばして救助の合図を送ってみるとかね。全部を自力で解決する必要はないわ。助けが来るまで頑張れればそれでいい」


 属性の有利不利は確かだが、許容量と言うものは存在する。たとえ炎を消す水でも、勢いよく逆巻く火炎の竜巻を一瞬で消し去る事は出来ない。そんな風に、その場しのぎでも時間稼ぎの方法が取れればいいのだ。

 少し無理やりな解決策としては、水で消しきれない物量の炎を顕現させ、力比べで勝ってしまう……と言うのもある。が、彼らのような若葉にそんな無茶は教えられない。


「今回は水辺での対処だけど、状況は水中だけとは限らない。その時に応じた対応が出来るようにしっかり練習しましょう」

「はいっ!」


 元気な返事に頷いて。それから先ほどの三人に協力してもらい授業を進めていく。


「もしそれが妖精からの干渉なら、要因は妖精力から出来ている。妖精術の対処は妖精術で。同じように、妖精力も妖精力で。属性妖精術が使えない子は自己強化や自分に向けられている力に対抗するように対処をしてみて!」


 生徒の様子を見て回りながら助言。先ほど例を見たからか、まだ苦戦しているような姿はない。この様子なら普通の対処は問題なさそうだ。

 そんな中でロベール達のクラスター、特にあの双子の調子を見に行く。

 双子の得意な属性は地。水との相性は良く、彼女達ならば問題はないだろうと思いながら。丁度ロベールが二人を渦で囲んでいる所を目撃する。

 周りを水の衝動で阻まれた彼女たちは、けれども動じない。まるで地面に立っているような感覚で……。と、そこまで考えた所で潜って確認すれば、その安定感に納得する。

 どうやら彼女たちは地面から砂を持ち上げて足場を作り、そこに足を固定して流されないようにしているらしい。普通は壁を作ったりして対処をする生徒が多いのだが、相変わらず彼女達の発想は人並みはずれていると。

 水に強い地の二人はある程度無茶が効く。が、それに驕って欲しくはない。


「対処法は一つとは限らないわよ。幾つかあればその時々に応じた使い分けが出来る。練習できるうちに色々試してみなさい」


 助言をしつつ一つ上の段階も試みていく。無茶はしない。けれども余裕がある子にはそれ相応の技術を身につけて欲しい。

 水の中での練習はこの時期が主なのだ。今のうちに出来る限りの知識と経験を積んで欲しい。そんな思いと共に教師としての目を鋭くしながら時間を刻んでいく。

 何よりも彼らが自分の身を守る為に。先達として教えられる事は全て教えてあげたいのだ。それがきっと、彼らの助けになると信じているから。


「もう少ししたら一度浜に上がって休憩しましょうか。更にもう一回練習したら、その後は自由時間ね」




              *   *   *




 授業から解放されて大きく息を吐く。降り注ぐ日差しが痛いほどに暑く、夏を実感する。

 水の中での授業。課外授業や実技は妖精憑きや妖精従きにとって何ごとにも代え難い経験だ。

 学園を卒業して、妖精従きとしての実力を問われる場所に身を置けば、そこからは本番の連続だ。左右するのは全て己の知識と力量。それを前もって得られる学園の授業は貴重なものだ。

 今回は自分にとってある程度慣れ親しんだ環境……水の多い場所での経験で少しばかり余裕があったが、今後同じようにはいかないだろう。特に属性で不利を強いられる地に関する練習では覚悟しておく方がいいに違いない。

 ……なんて事を思いながら、体の疲労をゆっくり抜いていく。

 と言うのも、先ほどジネット先生が教える授業は一段落して、今は自由時間。殆どの生徒が海に入って夏を楽しんでいる。しかしぼくはその授業の中で実力を買われ、他の生徒の手伝いに水の妖精術をひっきりなしに使い続けていたのだ。

 その影響で、今は体内の妖精力が枯渇していて体を動かすのがだるい。絶賛休息中だ。

 隣には同じく水の妖精術を使っていた生徒が日陰で寝転んでいる。……いや、協力するのは(やぶさ)かではないのだけれども、少しばかり理不尽を感じてしまうと。

 少し遠くに潮騒の音を聞きながら目を閉じる。このまま風邪を引くのを覚悟で意識を手放せば、直ぐにでも眠りの奥に落ちてしまえるだろう。……それもいいかも知れない。

 そう考えてしまうくらいには魅力的な誘惑に……けれどもどうにか首を振る。

 学園の授業とは言え、折角の夏の海。しかも理由などなくあの二人が……ぼくが不誠実に想いを寄せるピスとケスが水着姿でそこにいるのだ。

 その姿を記憶に留め、楽しい時間を共有しないと言うのは流石に看過できない相談だ。

 まだ少し……いや、随分と倦怠感は残るけれど。海に揺られている方がましかもしれない。

 ……いや、と言うか。前に何かの本で読んだけれど、妖精力の回復は最も(くつろ)げる環境で、かつ妖精力が溢れている場所が効果的らしい。妖精力が溢れている場所と言うのは、即ち妖精が好む場所……人の手が届き辛い自然の事だ。

 考えてみれば海とは自然の代表の一部。特に今は他の生徒が思い思いにはしゃぎ、ところどころでは妖精力を用いた遊びもしている。空気中に解けたそれらが濃密に漂う海の上ならば、回復効率もいいはずだ。


「もう行くのか……?」

「がんばってみる」

「溺れるなよー」


 友の声を背中に受け、波打ち際へ。爪先から順に体の熱を奪っていく冷たい液体に飲み込まれながらゆっくりと肩まで浸かれば、そのまま体の力を抜いて波に任せる。

 無駄な力のかからない浮遊感に少しだけ不安定さも感じたが、直ぐに慣れて目を閉じた。

 上からの熱と下からの冷却。不思議な感覚と共に自然の偉大さを感じながら揺れる。と、しばらくして誰かがこちらに近付いてくる気配。もしかして知らぬ間に流されたかと音の方を見れば、そこにあったのは見慣れた顔だった。


「なんだ、シルヴィか……」

「なんだって何……。もう動いて平気なの?」


 心なしかいつもより優しい声で心配してくれる少女。ぼくにとっては最早きょうだいのような存在、幼馴染のシルヴィ・クラズだ。どっちが上でどっちが下かは随分前に言い争って答えを見なかったからそこは無視。無駄な討論をする気力はない。


「こうしてる方が回復が早いかと思って」

「ロベールが水が得意だから?」

「そうだな」


 幼馴染の声に頷く。

 妖精力や妖精術に属性があるように、四つに分けられるそれにはなんとなくの近しい波長のようなものがある。その波長に干渉する事によって妖精術の規模を大きくしたりと言うやり方もあって、即ち波長が似ていれば自分の力を補助出来るのだ。

 いわゆる自分に有利かどうか。その環境に左右される実力は、根底の部分で言えば妖精力の運用が効率的かどうかだ。ならば自分が得意な状況下に身を預けて回復をすれば、普通に妖精力を吸収するより効率的だと考えられる。

 なんとなくの想像でしかないが、どうやらこの選択は間違っていなかったらしい。


「授業はお疲れ様だったけど、風邪引いたりしないでよ?」

「同じこと言うなよ……。大丈夫だって。幼馴染なら分かるだろ?」


 無駄に心配性な幼馴染の声を受け流す。とは言え気に掛けてくれるのは素直に嬉しいものだ。それが例え幼馴染故の挨拶のようなそれだとしても。言われて嬉しい事には違いない。

 ……まぁ逆の立場でも似たような事は言うのだろうから、表面上の言葉だけではないのは確かだろう。


「シルヴィこそ大丈夫なのか? 授業だと随分引っ掻き回した気がするけど」

「そっちこそ、幼馴染なんだから」


 意味のないやり取りで一応の確認。喧嘩さえにおわせた減らず口にいつも通りを感じて安堵する。

 と、そんなやり取りを聞いてか姿を見せたのは同じクラスターの双子、ピスとケスだった。


「ロベール」

「おつかれ」

「お、おうっ」


 気を抜いていた事もあって思わず慌てる。そんな姿に、海の中でも変わらず人形のようないでたちの二人が首を傾げた。

 ピス・アルレシャとケス・アルレシャ。この国の形としての大統領、グンター・コルヴァズ陛下のお孫さん。学園への入学に際し他の追随を許さない高得点を叩き出し、二人揃って新入生代表挨拶をしたカリーナ共和国の期待の双星。学力だけでなく妖精術の扱いにも長け、先ほどの授業でも危なげない対処を見せていた。

 そんな、やる事成す事……なにより見た目までが鏡映しな双子に、ぼくは不誠実な想いを抱いている。

 二人と、そして幼馴染であるシルヴィを巻き込んで行った試験結果での勝負。あの件で気付かされた自分の卑怯な感情は、己のことながら未だに結論を見つけていない目下最重要の問題だ。

 何もかもが同じなピスとケス。残酷なまでに鏡合わせな二人に抱いた感情……極一般的に言う所の恋心は、けれども彼女達に境界線など無く同じ物を向けてしまった。

 誰かを好きになるなんて、ぼくにとってはこれまで数え切れないほどに繰り返してきた事。一人の特別に想いを馳せる事は、きっと悪い事ではない。……ただ今回はそれがおかしな事だとシルヴィにも言われたのだ。

 幾ら似ているからってピスとケスは別人。想うべきは一人で、どちらかに絞らなければ彼女達にも失礼だと。

 もちろん分かっている。二人同時になんて、そんなことは許されない。……だが、だったら一体何を理由に二人を分けて考えればいいのだろう?

 二人は、二人でいるからピスとケスなのだ。片方が欠けた時の違和感は、見ている側の方が不安になる。その経験は試験の時にしたからよく分かる。

 だからこそ、二人の間に隔たりなんて無くて…………あれから時間が経って夏休みも迎えたというのに、結論は出ていない。

 唯一救われている点は、彼女達にした告白が不完全なものだった事だ。恋焦がれ、そのたびに苦悩して過ごしてきたから分かるが、彼女たちはぼくの気持ちに気付いてはいない。……それはきっと、友人として以上の感情を持っていないからこそなのだろうが、それは今はいいとして。

 ピスとケスがぼくの気持ちに気付いていないから、その事に少しばかり安堵もしているのだ。

 もし二人にこの気持ちがばれてしまえば、幾ら彼女達でも軽蔑をされるだろう。こんな分別のつかない感情に、彼女達を巻き込みたくはない……。迷惑を掛けたくはないのだ。

 とは言え悩んではきたもののきっかけは見つからない。このままでは何かの拍子に彼女達に知られてしまうかもしれない……。その事が少し怖いのだ。

 シルヴィはこの事を知っているけれど、多分言わない。それはこれまでの経験から分かる。色々厳しい事を言う幼馴染だけど、本当に嫌な事をするような子じゃないのは、ぼくが一番よく分かってるから。

 そんな彼女に協力をして欲しくて。その為には気持ちをはっきりさせる必要があって。決断はぼくのものだとシルヴィにも言われた。

 ……そう、ぼくしか決められないのだ。この感情は、ぼくだけのものなのだ。だから向き合わなければいけないのに……何処にも答えが見つからなくて、こんな気持ちで二人の近くにいる事が申し訳なく思う。

 今この瞬間に、このまま海中へ引きずり込まれても文句を言うつもりはない。


「あぁ、そうそう。さっき二人と話してて、ロベールが来たら一緒に遊ぼうって言ってたんだよ」

「え、あ……うん。ありがと。……大丈夫、遊ぼうぜ?」


 そんな悩みや感情が顔に出たのか、シルヴィが気を遣うように話題を提供してくれた。見れば彼女は瞳に呆れと不安を綯い交ぜにしてこちらを見つめていた。

 ……駄目だ駄目だっ。落ち込んでたらそれこそ溺れてしまう。…………そうだ。今分からなくても、明日には何か変わっているかもしれない。学園に入って彼女達に出会えたように。色々な刺激を得られたように。前に進み続ける事を諦めなければ、少なからず何か知らの変化はあるのだから。その先に彼女たちから選ぶ道がある事を信じて、今はただ今日の空のように翳りを作る必要はない。


「で、何するよ」

「妖精術」

「使う……?」

「危なくない?」

「大丈夫だろ」


 周りも大概だし。仲間を探すように辺りを見渡せば、つられて視界を回したシルヴィが諦めたように小さく息を吐いた。


「……ん、分かった。なら手加減しないから」

「手加減ってなんだよっ、ただの遊びだろ?」

「あ、うん」


 何だよその曖昧な返答。……全く、理由を見つけたときのシルヴィほど手に負えない物をぼくは知らないぞ。どうして時折そんなに箍が外れるんだよ。

 普段の冷静な彼女からはあまり考えられない無鉄砲さに辟易しつつ、けれども幼馴染の空気に救われる。

 少なくとも今は必要ない葛藤だからな。彼女が一歩踏み出したならぼくも覚悟を決めないと……。

 変に気合の入ったシルヴィに振り回されないようにと呼吸を整えて。それから何故か三対一になった数の暴力で蹂躙される時間が幕を開けたのだった。




「何で全力出したんだよ……」


 海に入る前と同じ体勢で疲労感に苛まれて寝転がる。一体ぼくが何をした……。


「ごめん、つい夢中になって」

「大丈夫?」

「疲れた?」

「あー、うん。……いや、大丈夫」


 折角回復した妖精力が再び枯渇して軽く眩暈を覚える。心なしか授業後より体がだるい気がする。その場の空気にのせられて力を使いすぎたらしい。

 流石にやりすぎたと反省したのか、シルヴィが心配そうにこちらを覗きこんでくる。


「寒くない?」

「……少し」

「じゃあ」

「こうする」


 それでも陽に当たっていれば大丈夫だろうと。体の力を抜いた次の瞬間、言葉を継いだ二人が音と共に妖精術を一つ行使。辺りにあった砂を瞬く間に掻き集めて、体の上からかけてくれた。


「おぉ……温かい…………」

「なんかこういう健康法があるらしいね」

「へぇ」


 シルヴィの声に上の空で相槌を打つ。それくらいに温かさに包まれる感覚は心地よくて、思わず眠ってしまいそうなほどだ。恐らくだが、陽に温められた砂だけを使っているのだろう。まるで湯の中に浸かっているようだ。


「でもこれ砂塗れにならない?」

「んー、後でもう一回海に入ればいいんじゃね?」

「……気持ちいい?」

「あぁ」


 少し羨ましそうな声。どうやらシルヴィも興味があるらしい。


「シルヴィ」

「する?」

「……また今度ね」


 砂塗れと天秤に掛けたのだろうが、面倒くさかったらしい。変なところで冷静だな。

 気を抜けばこのまま眠ってしまいそうな温かさ。今まで知らなかったが、こういう楽しみ方もいいかもしれない。


「ん」

「どう?」

「ふふっ、いいんじゃない?」


 と、直ぐ傍で微かに砂が動く気配。次いで二人の声にシルヴィが小さく笑う。何だか嫌な予感がして目を開ければ、こちらを見下ろす幼馴染がにやにやと笑みを浮かべていた。


「……なんだよ」

「いや、お似合いだなぁと思って」

「砂の絵」

「頑張った」

「あー……」


 心底楽しそうなシルヴィの笑顔と、平坦のピスとケスの声。それらの情報から、なんとなく自分の置かれている状況を把握する。

 どうやらぼくが身動きを取れないのをいい事に悪戯して遊んでいるらしい。自分で見られないのが少し悔しいが、見たら見たで多分怒ってしまいそうな気がするから考えない事にする。怒るほど体力が回復していないと言うのも大きな要因だろうか。


「……箱に、羽根? それ何?」

「6で4」

「ロベール」

「…………?」


 シルヴィが首を傾げる。また二人が理解の範疇を超えた何かを記したらしい。

 箱に羽根……一体何の暗号だろうか。相変わらず独特な感性を持っている双子だ。それがぼくだなんて……一体二人の瞳にはどう映っているのか。訊くのが少し怖いくらいだ。


「それは?」

「シルヴィ」

「違う?」

「え、えぇっ!? 嘘っ、ちょっと待って! やだ、消して消して! ロベールも見ないでっ!」

「なんだよ、うるさいなぁ……」


 次いで今度はシルヴィを砂で描いたらしい。少し首を傾けてみたが、何を描いたのかまではよく分からなかった。

 見ようとした事にシルヴィが慌てた辺り、何か彼女の秘密に関わる事だったらしいが……さて、一体何を描いたのやら。これまで隣で過ごしてきた身からすれば色々ありすぎて分からないくらいだ。


「ふぅ……。…………見た?」

「見てない。っていうか見えなかった」

「なら忘れて。なんでもないから……」

「……? 顔赤いぞ? 暑いなら陰に入ったらどうだ?」

「うっさい、馬鹿っ」

「なんだよ、それ」


 慌てて砂を揉み消して座り込んだシルヴィ。陽に当てられたのか少しだけ染まった頬に気遣えば、返ったのは理不尽な声だった。だから何なんだよ、それ…………。

 時折そうして理解の出来ない罵倒を突きつけられるのだが、一体ぼくに何の責任があるというのだろう。幼馴染ながらそこだけは未だに理解できないでいる。……お願いだからそろそろ教えて欲しい。


「……まぁいいや。で、変な落書きしてないよな?」

「変、じゃないよ? お似合いだよ?」


 隠す気のない嘘に小さく息を吐く。休憩も十分出来たこれ以上彼女達に玩具に甘んじる必要は感じない。

 少し重い砂の鎧を崩して立ち上がる。するとこちらを向いていた双子の瞳が微かに揺れた……気がした。もしかしてもう少し悪戯したかったのだろうか。だったら悪い事をしたかもしれない。

 とは言え折角海に来たのに砂の建造物となっているのは寂しい話だ。やはり子供として、遊びたい気持ちは多分にある。


「……よしっ。もういっちょ遊ぶかっ!」

「次何?」

「ロベール決める?」

「ん、そうだね。決めていいよ」

「なんで決めるのに許可が要るんだよ……」


 何故か上から目線な幼馴染の声に辟易しつつ。今度こそ普通に海を満喫したいと、体に付いた砂を払う目的も込めて海の中へ。

 温まった体から休息に熱を奪われていくのを感じながら、ようやくらしい時間を過ごしていく。

 疲れていたはずの体。それが、楽しさに上書きされて何処にあったのか分からない体力で体を動かす。自分のことながら不思議な話だが、今を楽しめるならそれに越した事はないか。

 そんな風に考えながら水の中と言う不自由な自由さで時間を浪費する。

 気付けばいつしか小さな妖精術を用いた勝負になっていて、また疲れるだけなのに……と頭の片隅で考える冷静な部分を押さえつけて負けられない幼馴染に闘志を燃やす。

 どんどんと白熱していく応酬。特にぼくは水に属する妖精術を扱うのが得意だ。感情が乗れば、周りの扱いきれないほどの水がのっかって妖精術の規模が大きくなる。

 対するシルヴィは、風を操り水中で爆発させるなどして擬似的な水の力を使う。座学ではぼくの方が上だが、妖精術の行使に関しては彼女に分がある。特に集中力を必要とする細かい事にかけては周りの追随を許さないほどで、今年の新入生の中でも指折りだろう。まぁ彼女の性格を考えれば、細々(こまごま)とした事が得意なのはなんとなく分かる話だ。一々やる事成す事が小さいと言うか……大概大雑把なぼくとは正反対なのだ。

 そんな彼女の水鉄砲。過圧縮された空気で押し出された水が、同じく筒状の空気の中を通ってこちらに飛んでくる。原理としては軍で使われている銃と同じものだ。あれは筒の底で火薬を爆発させて、その威力で弾を飛ばしているだけだと、前に聞いたことがある。

 理屈は簡単だ。だからこそ再現もできるし、それ相応の威力も出る。ましてや繊細な制御が得意なシルヴィなら、普通以上の質を手繰り寄せられる。

 飛来する水の弾丸に……しかしそこは水に秀でた力。対処法は良く知っている。とは言え防御するだけでは芸がないと至れば、彼女が放った弾を水の螺旋で受け、そのまま弧を描き行き先を反転させる。加えて螺旋の力を付与し、威力を高める。

 銃の原理を聞いた時に一緒に知ったのだが、物が飛ぶ時に回転すると速度が落ち辛かったり、狙いが定めやすくなるらしい。

 それを利用して撃ち返せば、彼女は咄嗟に風の壁で防御した。


「おまっ、風は卑怯だろ!」

「使っちゃいけないなんて決めてないし」

「この……そっちがその気なら……!」


 思わずかっとなった頭で妖精力を練り上げ、辺りの水まで利用して大規模な波を引き起こす。人の背など優に越える大きさだ。幾ら防御をしてもこれなら────と、そこまで考えたところで不意に思考が冷静になる。

 やりすぎた……!

 見ればシルヴィが慌てて風の妖精術で対抗しようとしていた。咄嗟に介入して水を()けさせようとする。

 その行動が、どうやら間違いだったらしく。妖精術に妖精術で干渉するという禁忌の常識。特に一度発動したそれに後から重ね掛けをしようとすると、術式が破綻……場合によっては暴走してしまうのだ。

 別な波長なら打ち消し合うが、同じ波長では予想外の事が起きてしまう。

 その例に(なら)って起きたのは……想定外の中でも比較的軽微な被害の、術式の崩壊だった。与えられた命令式がその指示をやめてしまう。結果残るのは、作り出した水が操る糸でも切られたように自然落下する質量の暴力だった。


「わぶっ!?」

「シルヴィ!」


 思わず叫んで水面が激しく波打つ中心へ向けて泳ぐ。直ぐに水中で口から大きな泡を吐き出す幼馴染を見つけて、慌てて抱え海面に急いだ。

 顔を出した途端、シルヴィが直ぐ傍で咳き込む。どうやら少し海水を飲んでしまったらしい。


「ごめんっ、ほんとにごめん! 大丈夫っ!?」

「ぇほっ、けほっ……! ぅんぇっ……しょっぱい…………」

「直ぐに砂浜に……!」


 海水は飲んでは駄目だ。吐けるなら吐いて、無理なら大量の水で薄めなければ。それくらいに海水は体にとって危険なのだ。

 つい先ほど習った対処法。それをこんな所で実践する破目になるなんて……と己の蒙昧さを呪いつつ浜へ。……と、その途中で傍で波から身を守っていたピスとケスが呟く。


「シルヴィ」

「水着」

「ふぇ……みず…………っ!! きゃあぁああっ!?」

「どぅへっ!?」


 一体何事かと。双子の単語を脳内で文章に変換して一緒にシルヴィの水着を見る。するとそこには、先ほどまで彼女の肢体を覆っていた布が半分ほどずれていた。

 シルヴィは今日上から下まで一続きになった形の、小さい花が散りばめられた水着を着ていた。動き易い、あまり肌を晒さないそれは、けれどもお洒落として花弁のような可愛らしいひらひらが幾つか付いていて、着替えを終えた後に似合っていると褒めたら理不尽に怒られた……なんて、そんな話は置いておいて。

 そんなシルヴィの体を守るたった一枚の布切れの肩紐が片方外れて、彼女の胸元が見えそうなほどにはだけていたのだ。

 いきなりの事にびっくりして固まった体。それから横殴りに襲った衝撃に突き飛ばされて今度はぼくが海中へと放り出される。微かに聞こえた悲鳴からして、恐らくシルヴィに突き飛ばされたのだろう。

 そんな暴力的なことしなくても、直ぐに離れたのに……。とは言え彼女の水着がはだけてしまったのは僕の責任かと至れば、今回ばかりは反省して海面へ戻る。


「ぷはっ……!」

「あっち向いてて、へんたい!」

「わ、分かってるよ!」


 流石に怒ったらしいシルヴィが顔を真っ赤にしてこっちに叫ぶ。反論も無く素直に従えば、しばらくして水着を直し終えた幼馴染が警戒するように呟いた。


「も、もういいよ……」

「その、ほんとにごめん! ついやりすぎた……」


 直ぐに謝れば、しばらく視線を向けていた彼女が、やがて小さく息を吐いた。


「…………いいよ。歯止めが利かなかったのはあたしもだし」

「うん」

「ほら、戻ろう? 先生も呼んでるし」

「うん」


 心の底から反省して俯く。

 本当に、肝が冷えた。シルヴィが泡を吐き出したとき、一瞬でも脳裏に最悪の未来が過ぎってしまった。

 ぼくの責任だ。もう二度と、シルヴィを危ない目に合わせないと、あの時誓ったのに……。まるで成長できていない。そんな自分が嫌になる。

 己の浅はかさに自己嫌悪。きっと今日一日はこの出来事を苛むのだろうと思いつつ浜に上がる。そんな胸の内と比べて、いつも通り過ぎる周りの空気に少しだけ嫉妬をしたのだった。




              *   *   *




 温かい湯が頭の上から流れ落ちてくる。温水は偉大だと、冷え切った体を温めながら潮水を洗い流していく。

 周りからは姦しい声。何処にいたって変わらない女の子特有の賑やかさを遠くに聞きながら優しい雨に打たれる。

 胸の内を巡るのはつい先ほどのこと。授業も終わり、自由時間として楽しく遊んでいた最中の出来事。

 少しだけ乗った調子。互いにいつもの呼吸、距離感での喧嘩未満。これまで幾度と無く交わしてきたその言葉の数々が、今回は少し違う形を伴って。気付いた時にはあたしは海中に放り出されていた。

 途中記憶が混乱しているけれど、どうやら幼馴染であるロベールに助けられて。咄嗟の、そういう男らしい部分に感謝と嬉しさ半分。そして……胸を見られたことに対する怒り半分。

 もちろん分かっている。事故だ。けれどその前提には幾つかの理由があって。……それは、うん。それはまぁ、両成敗であたしもロベールも既に決着していることだ。こういうところで深く根に持たないのが幼馴染の特権だろうか。

 とは言え無視出来ないこともあって。きっとロベールは……あの優しい幼馴染は、また後悔している事だろうと。己の体を見下ろして思う。

 胸を見られたことよりも。命の危険があったことよりも。何よりも二人の間に横たわる拭い切れない過去の証。思わず指先で撫でれば、海水の所為か少しだけ疼いた気がした。


「シルヴィ」

「だいじょうぶ?」


 唐突に掛けられた声。この春からの付き合いで聞き慣れた同じ音の言葉に振り返れば、そこに立っていたのは想像通りの顔二つ。

 ピス・アルレシャとケス・アルレシャ。ここ、カリーナ共和国の大統領、グンター・コルヴァズ陛下のお孫さんにして、あたしとロベールと同じクラスターを組む学友だ。

 人形のように整った顔立ち。今は下ろしている髪のせいで、一体どっちがどっちなのか分からないほどに鏡映しなその姿。長い亜麻(あま)色の髪から水滴を滴らせ、丸く綺麗な(あま)色の双眸がこちらを見つめる。一糸纏わぬ、同年代にしては小さな体は妖精のように華奢で。その白さに彫刻のような儚さと繊細さを感じる。

 他と比べられない特異な、彼女たちは生まれたままの姿でも視線を引きつけて止まないのかと。同性だと言うのに、何故か高鳴った胸の奥をどうにか落ち着けて純粋な心配に答える。


「あ、うん。ありがと」

「そう」

「よかった」


 彼女たちに、嘘はない。その言動は全て興味から出た真実で、平坦な抑揚の中にそれ以上の思惑を感じない。まさに嘘を吐かない妖精の如く、そのまま人型になったのが彼女達ではないかと思うのが常だ。

 と、そんな二人が納得を見つけたのか、踵を返してそのまま外へ向かおうとする。その後姿に、頓着の無さに思わず引きとめる。


「待って待って! 髪と体、拭かないとっ」

「……?」

「……忘れてた」


 周りとは異なる特別な二人。その感性は時折普通より逸脱して紡がれる。最早慣れてしまったけれど、この独特さは人を選ぶかもしれない。

 そんな風に変わっている双子を放ってはおけない。湯を止め軽く自分の体を拭くと最低限体に巻きつけて彼女達の下へ。

 するとそうするのが当たり前だと言うように布をこちらに向けて差し出し、くるりと背中を向けたお嬢様。こういうところはお姫様っぽくてらしいんだけどね……。


「もう、風邪引くよ?」

「いつもジネットが拭いてくれる」

「いないの忘れてた」

「いいなぁ、それ」


 使用人は(うち)にもいるけれど。流石にそこまでの世話はしてくれない。

 それが彼女達が特別だと言う証なのか、それとも必要以上に過保護なのかは曖昧な所だけれども。ここまで無防備だと心配を通り越して庇護欲を掻き立てられてしまうのは少し判る気がする。

 とは言え彼女達の世話係になるつもりはないと。長く綺麗な髪の水気を取ると脱衣室へ。

 既に半数ほどが体を流し終えて女子生徒が犇く部屋の中で。入り混じる匂いを少しだけ非日常に感じつつ服を身に纏う。流石に着替えは一人でしてくれた事に小さな安堵。


「よし……。後は髪乾かさないとだね。風石は?」

「だいじょうぶ」

「持ってる」


 荷物から取り出したるは宝石のように綺麗な緑色をした鉱石。風石と呼ばれる、風の属性を内に秘めた術式封印石だ。

 戦いでは風の力を発現させるものが使用されると聞くが、日常での役割は空調管理や掃除、そして濡れそぼった髪を乾かすなんてのが主だ。

 こうした妖精術を秘めた石の事を総じて術式封印石といい、特別属性に愛される以外の用途が求められる際に重宝される。他に有名なのは火を(おこ)す火石、水を出す水石、光を灯す光石などか。因みに光石は人工的には作れないらしく、自然から産出されるそれで(まかな)っているのだとか。まぁ妖精術で光という物質を作り出せないのだから仕方ない。

 風の妖精術を秘めた風石を用いた乾燥技術。しかしながらそれらは、風の妖精術が使えない者達が必要とする物だ。あたしは生来より妖精が見えて、偶然か風の属性に愛されている。だから風石を使う必要も無くて多少身軽なのだ。

 付け加えるならば、秘められた石の力よりも、自らの妖精術の方が細かい制御が出来て汎用性が高いと言う事か。温風冷風や強弱。石に片手を塞がれる事を考えれば、常日頃から世話になるそれには恵まれている。

 特にピスやケスと同じくらいに長い髪を乾かすのは一苦労だ。それを手早く行えると言うのはよく羨ましがられる。……逆に、ここまで手軽でなければあたしも髪を伸ばしたりはしていなかっただろう。そこに関しては恵まれた才能に感謝だ。


「シルヴィ」

「便利」

「ふふ、そだね。後でやってあげよっか?」

「うん」

「お願い」


 風石よりも風の妖精術の方が優れている。一般的にそう認知されている事を二人共知っていたのか、少し羨ましそうにこちらを見つめて零す。

 提案には二つ返事。飾らない彼女達だからこそ、考えるところが分かり易くて付き合いやすい。

 手早く自分のそれを乾かし、柔らかくなった髪を髪留めで二つに結ぶ。左右の後ろに一つずつ。長い髪をそれぞれ尻尾のように垂らした髪型は昔からのもの。学園にも入ってまた一つ大人に近付いたから、そろそろこの子供っぽい髪型ともおさらばだろうか。……しかしならばどうするのかと自分に問えば明確な次の自分が想像出来なくて。きっとまだもう少しこのままなのだろうと嘆息する。

 象徴とも言うべき二つ結びを指先で梳いて後ろに流せば、急かすように背中を向けて椅子に座る二人の背後へ。直ぐに風の妖精術を展開すれば、発生した温風に二人の髪が絹糸のように(なび)いた。

 亜麻色の髪が一本一本まで細やかに風に遊ぶ。不公平な不平等は、この双子の毛先に至るまで何がしかの恩寵を授けたらしい。人形みたいで羨ましい。


「どう? 熱くない?」

「平気」

「気持ちいい」

「よかった。……いいなぁ、二人の髪。ふわふわしてて雲みたい」

「ありがと」

「シルヴィのも綺麗」

「二人のに比べると見劣りしちゃうよ」


 この前少し高い整髪剤が手に入ったからそれを使っているけれど、それでも二人には及ばない。もしそれが天性の物なのだとしたら、どうあがいても自分が惨めなだけだ。ちょっと嫉妬する。


「二人は髪形変えたりしないの?」

「変えない」

「皆困るって言う」

「あー、はは……」


 どうやら誰もが思う事は同じらしい。確かに、髪型を同じにしてしまうと本当に見分けがつかなくなってしまう。その混同を避ける為に、彼女達なりの努力らしい。

 けれどもそれはそれで少し寂しい話だ。折角こんなにも綺麗な髪を持っているのに……。


「ねぇ、髪、少し弄っちゃだめ?」


 ちょっとした思いつき。もしかしたら困らせるかも、と考えながら返答を待つと。鏡合わせに視線を交わらせたピスとケスが、それから同時にこくりと頷いた。


「いいよ」

「でもいっしょは駄目」

「ん、まかせてっ」


 流石にそれで彼女達を見失っては何よりあたしが困る。けれどこんな機会滅多にないだろうから。折角を無駄にしない為に、考えに考えていつもとは違う彼女達を演出してみよう。

 二人の髪を乾かし終わり、指と櫛で丁寧に梳いて真っ直ぐに。精緻な人形のような後姿に少しだけ見惚れて、それから幾つか思いついた中から独断と偏見で二つ選んで完成を予想。頭の中の想像を目指して柔らかい髪に手をつけ始める。

 騒がしく姦しい声の中に幾つか混じる興味の視線。通り過ぎていく女子生徒達が少し羨ましそうにこちらを一瞥する。

 別に声くらい掛けてくれてもいいのに。それを躊躇してしまうくらい目の前の二人が特別なのだと思えば、今自分が置かれている現実が酷く不安定な物に思えてくる。きっとこの椅子は、あたしでなくてもよかったのだ。

 ……なんて、過ぎった考えは直ぐに塗り替える。だからこそ、あたしは自分で選んでここにいるのだと。確かな選択の結果なのだと。それを誇りにこそすれ、疑うなんてもってのほかだ。

 あたしのことはあたしにしか決められないのだから。


「痛くない? 他人の髪の毛弄るの初めてだから加減が分からなくて」

「だいじょうぶ」

「楽しみ」

「あんまり期待されると逆に怖いかなぁ」


 言葉通りな願望に少しだけ照れつつ。まずはとピスの長い髪をいくつかに分けて編み始める。

 と、沈黙を埋めるように彼女達から話題……ならぬ疑問提供。


「シルヴィ」

「傷」

「……なに?」

「胸の」

「怪我?」


 短い単語で会話しがちな友人の言葉の意味が分からなくて問い返せば、続いた声に喉の奥が苦しくなった。思わず手を止めてしまう。

 胸の傷。…………あぁ、そっか。さっき……水着がずれた時にでも見えちゃったのか。

 彼女たちはきっと、純粋に質問しただけ。興味を満たそうとしただけ。そこに言葉以上の悪意はない。そう自分に言い聞かせて深呼吸。それから、自分に問うように答える。


「…………大した事じゃ、ないんだよ。うん、ただの傷」

「言いたくなかった?」

「ごめん」


 時折、心でも見透かされているのかと思うほどに真っ直ぐな双子の言葉。そのことに、けれども逆上するよりも先に平坦な奥にある優しさが身に沁みる。


「ううん。謝る事じゃないよ。ただ、その……楽しくない話だし、自分から話す事でもないかなって思ってただけだから」


 できることなら、全てを胸の内に秘めていたかった。しかし恐らく、既に彼女達にはなんとなく察しがついているだろう。

 だからこそ、その内逃げられなくなるのだと未来を垣間見て。少し苦しい胸の奥を意識すると、覚悟を決める。


「でも、友達に隠し事って言うのも、駄目だよね。……だから、ちょっとだけ暇潰しに付き合ってくれないかな? 他の皆には、特にロベールには内緒にして欲しいんだけど、いい?」

「ん」

「分かった」

「ありがと」


 さらりと指の間をすり抜けていくピスの髪。それを更に編み込みつつ、硬く閉じていた記憶の蓋をゆっくりと開ける。


「────あの傷はね、失敗で、後悔で……思い出なんだ」

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