第四章
「注意事項は以上よ。それじゃあ皆、怪我の無いように勉強しましょうね」
生徒達の前に立って少し厳しく言い付ければ、返った元気な声に頷く。
今日は課外活動としてカリーナの国軍に協力してもらいその仕事の見学をさせてもらう授業を組んだ。
カリーナは学業にこそ重きを置くが、卒業生の全てが研究職に就く訳ではない。中には当然その実力を買われて軍に引き抜かれたりする子もいれば、自ら志願する生徒もいる。そちらは主に親の背を見て育った子が多いが、それが彼らが選んだ道なら尊重して背中を押してあげるのが先生の役目だろう。
そんな将来を決める手助けの一つとして、時折こうして大人の現場を見学させてもらうのだ。今回は国軍。
実力を求められ、その力で国を守護する彼らは、子供の憧れの一つでもある。そんな目標の一端と触れて話をする機会は彼らにとっていい経験になるはずだ。
「まずは国軍について話を聞きましょうか」
生徒達が自分の足で行動するのはもう少し後。最初は国軍がどんな仕事なのか。何を求められるのかの勉強だ。
向けた視線の先には、今回の特別講師を引き受けてくれた騎士──白角騎士団の団長、アラン・モノセロスが傷一つ無い綺麗な甲冑姿で立っていた。
カリーナ最強を謳われる騎士であり騎士団を纏め上げる彼は、顔立ちもよく、人当たりもよく、鍛え抜かれた体は頼り甲斐がある──既婚者だ。
先のお祭りで陛下の巡覧を共にした彼に惹かれた心は、けれども妻子持ちと言う揺らがない事実に打ちのめされた。皆が憧れる騎士なのだ。既に誰かのお手つきだなんて考えれば直ぐにわかるはずだったのに。あの時の私は子供以上に盲目に曇った眼差しをしていたに違いないと恥ずかしくなる。
もちろん、知ってしまえば不埒な感情は冷めてしまった。幾ら恋焦がれようとも、既に家庭を持つ彼を困らせるような事をするつもりはない。私は、大人なのだ。
……まぁ多少未練はあるけれども。けれどそれは憧れとしての感情で、恋愛のそれではない。
それに思ったのだ。これまでの経験で、私に男を見る目がない事はよく分かったから。だったら私に振り回される相手の事を考えてこれ以上の夢は見ない方がいいのだと。
女としての何かを捨てれば……私にはほら、純粋に慕ってくれる生徒達がいるから。私はもう、仕事に生きると決めたのだっ……!
だから今はただ、憧れとしてその背中を眺めさせて欲しい。子供達に優しく語りかけながら笑みを浮かべる彼の声に耳を傾ければ、生徒達の質問攻めも終わっていい頃合になった。
「もう他に質問はないかい?」
あれだけ子供の興味にさらされて尚笑みを絶やさない彼は尊敬すべき大人だと改めて思いながら。場の主導権を返すようにこちらに向けられた視線に頷いて口を開く。
「では今度は実際に仕事を見てみましょうか」
子供らしい元気な声と共に、生徒達の瞳にそれまで以上の興味と歓喜がこもる。
私の思い煩いはもういいのだ。今はただ、彼らの先生として仕事を全うするだけ。
そんな風に考えつつ、今日の為に準備をしてくれた国軍の元へ。
国軍の駐屯地であるここはカリーナ城の直ぐ近くだ。騎士が住まう宿舎に訓練場が並ぶ簡素な光景は、現実味以上に殺伐さを感じる。敷地内には任務を共にする幻想生物も飼われており、それらの管理も彼ら騎士の仕事だ。
その背に跨り空を飛ぶ相棒。危地にさえ赴くことのある命を預けるべき戦友とは、互いと助け合う絆で結ばれている。その関係を育むためにも、毎日の世話は欠かせないのだ。
一応私も軍属としての地位は持っている。生徒達に妖精術の扱いを教えるに辺り、教員はその権利を得る為に教習時に軍役を経験するのだ。もちろん本職の騎士と比べれば語るべくもない下っ端もいいところだが、生徒達の安全を守るためにも必要な事なのだ。
それに、いざという時は自分の身を守る役にも立つ。妖精術を使う場面の知識は持っておいて損はない。
勉強の一貫としての駐屯地訪問。数年前にメゾン級の生徒を担当した時にも来た事があるが、基本的にやる事はない。見て回って、危なければ注意するだけだ。
仕事としては少し楽な部類。……だが、今年は特に注意しておくべきだろう。
何せ彼女達がいるのだ。幾ら手懐けられているとは言え幻想生物は獣。何があるかは予測がつかない。何かあってからでは遅いのだ。できるだけ目を離さないでおくとしよう。
そんな風に考えながらたくさんの生徒が騎士達の傍で貴重な経験を重ねていく。本物そっくりの模擬剣を振ってみたり、妖精術を使って的を攻撃してみたり、幻想生物に触れてみたり。
木の棒を振るとか、妖精に触れるとか、昆虫を探すとか。彼らが幼い頃に経験したその延長線を極めたのが彼ら国を守る騎士だ。だからなのか、騎士になるのは基本男の子で、女の子が志願するというのは珍しい。その為女の子の騎士志望は重宝されるらしい。
きっと今年入学した彼女達の中からも数人は軍への入隊を志願する子も出てくるのだろう。ならばその為にも、基礎の基礎である今から未来を見据えてしっかり大切な事を教えてあげるだけだ。
一通りの説明と注意事項を終えると、自主性に任せて各々が興味の引かれる場所へと散っていく。全ての始まりは興味から。それを優しく、時に厳しく導く為に傍に寄り添い共に歩むのが私達教員の仕事。
今回の課外授業では特に危険な事をしていないか注意をしつつ彼らの様子を見守るのが主な仕事。
それなりに広い敷地内を歩き回って生徒の様子を巡れば、幻想生物を飼う区画に件の双子の姿を見つけた。と、直ぐ傍にアランがついて何事かを説明しているのに気付く。
前に言っていたが、彼と双子とは長い付き合いらしい。見かけて声を掛けたのだろう。
彼がいるならば安心だと、先生である以上に信頼した個人的な感情で思えば、不意にアランと視線が交わった。次いで彼は説明を終えたのか、同じクラスターである四人を幻想生物の元へと案内し他の騎士に任せるとこちらにやってきた。
「お疲れ様です、先生」
「そう呼ばれるのはなんだかくすぐったいですね」
優しい笑顔で挨拶をくれた彼に笑う。私がテトラフィラに教員として採用されたのは彼が学園を卒業した後だ。だから先生と生徒としての関係はないし、そもそも彼の方が年上。どう間違っても特別な事などなく、直接話をしたのだって誕生祭のときが初めてだ。
「見回りですか?」
「はい。彼女たちは何を?」
「幻想生物に触れてみたいとのことだったので」
言葉を交わすが、前ほどの緊張はない。それは彼の事を諦めたからなのか、それともそれぞれの立場がそうさせているのか。
何にせよ、あの時のように挙動不審にもならなければ、職務に邁進も出来る。
「学園では触れる機会がありませんからね。今回は見学の場を設けてくださりありがとうございました」
「よしてください。決めたのはもっと上の人ですからっ。……けど、先生のとこの子と聞いたときは少し嬉しくもありましたね」
「彼女達がいますからね」
「はは、それは確かに」
笑うその目は慈愛に満ちて。それほどまでに周りに愛されている二人を特別に思う。陛下からは特別扱いはしないで欲しいと言われているが、中々に難題だ。
「そういえば先生をしていると言う事は従軍経験が?」
「アランさんほどきっちりとしたものではありませんが、一通りは。同期と比べた限りではそれなりに芽があったみたいで……幻想生物に騎乗した経験もあります」
「そうでしたか。いえ、もし経験がなければと思ったんですが……」
「生徒の前で示しがつきませんので」
誰がいてもいつも通りな彼の空気と言葉に感謝をしつつ。脳裏に過ぎるのは彼が属する部隊について。
幻想生物。その種類は様々で、幾つかの用途によって分けられ部隊の名に冠されたりもすることがある。白角騎士団もその一つで、彼らは主に水竜やイッカクに騎乗してカリーナの海を守護する任に就いている。
フェルクレールトではスハイルとカリーナでイッカクを見られる。特にカリーナのそれはスハイルの物と比べ体が黒く特徴的な白い角が更に美しく見える。その事から区別して呼ぶ際にシロヅノイッカクと言う呼称も存在しているほどだ。
そんな通称から名前を借りて付けられた部隊名が白角騎士団だ。
水棲生物であるイッカクは当然水の中でしか生きられない。その為飼育等も海で行われ、この場には居ない。今ここにいるのは陸での仕事にも備えての陸上用の幻想生物だけだ。
今回の課外授業、本当はイッカクなどに触れる機会をと思っていたのだが、直前の報告で見学は陸上用の幻想生物に変更せざるを得なかった。と言うのも、近頃水竜の棲息地であるタルフ岩礁の辺りが騒がしいらしく、念のためを考えての措置なのだ。幾ら滅多にない機会だからと言っても命の危険までは冒せない。今もあの辺りは厳戒態勢で軍が警邏しているとのことだ。何事もなければいいが……。
そんな任をこなす白角騎士団と対を成すように陸上部隊も編成されており、私が従軍をした時にはそちらで研修を行った。その際に実力を買われて幻想生物に騎乗する経験も得たのだが……私が乗ったのはユニコーンだった。
もちろん栄誉なことだ。ユニコーンに乗れる機会は早々ないし、常日頃からその背に乗って任に付く者達は選ばれし騎士。ともすればその端くれとして認められたのだから嬉しくないわけはないだろう。
…………ただ、ユニコーンには子供でも知るような逸話が──否、事実が存在する。
曰く、清らかなる乙女しかその背に乗せないというものだ。
時に、言い回しと言うのは非常に重要だと、私は思う。清らかな乙女。そう、それだけだ。
……ただそれが若い頃であれ今であれ、事実は変わらないわけで。だからこそ具体的にそうだと言うことが恥ずかしいのだ。聖職者だからとでも言えば少しは気分が晴れるだろうか? ……いやいや。幾ら言い飾った所で個人的な思いまでは拭えないと。あぁ、若さが恨めしい。
などと、口にした言葉から過去の事を思い出して少しだけ恥ずかしくなる。こんなのだから恋愛に縁がないのだろうか……。
いっそのこと今からでも例の部隊に志願してしまおうか。…………あぁ、よほど疲れていると見える。これは重症だ。今夜は自棄酒にしよう。
勝手な自己嫌悪で思考の渦に落ちて小さく息を吐く。
「はぁ…………」
「少し休憩でもしますか?」
「あぁ、いえ、そうではないんです。ただ少し考え事をしていただけで……」
彼の優しさが今は痛い。笑みを浮かべるたび彼が心配そうな視線を向けてくる事が居た堪れなくなって、逃げるように話題を逸らした。
「そう言えばここは野良の妖精がよくいるんですね」
「そうですね。自然も近いのでよく遊びに来てます。中には顔馴染みもいるくらいですよ」
実際それに気付いたのは事実だ。
妖精と共に歩む世界。特に私たち妖精の見える者にとって彼女たちは景色の中に溶け込む日常だ。だから特別何かが起こらない限り気にも留めない。気まぐれに、鳥が空を飛んでいると考えるように、妖精がいるなと思う程度だ。
だから珍しい事ではないのだが、この辺りは少しばかりその数が多く見られた。彼の言う通り自然が近いからこそなのだろう。
野良の妖精達は基本的に自然の中で暮らしている。時折何かに惹かれるように人の世界に姿を現して、興味が刺激されれば悪戯をしていくのが妖精という存在だ。今までにからかわれた数なんて最早数え飽きた。
そんな妖精が、けれども直ぐそこにいる人間以上に興味を示す相手がここにはいる。幻想生物だ。
「今日日妖精にとって人は傍にいてしかるべき相手ですから。余程のことがない限り人に興味を抱く野良はいません。けれど幻想生物はそうではない。彼らは妖精と同じく自然の……それも彼女達よりも尚深い場所に住まう存在ですから。人里にその姿があるのは彼女たちにとって珍しいのでしょう」
「同じ自然に住まう物同士でありながら、その住み分けはきっちりなされている。だから触れ合う事もない。その珍しいが興味に変わって彼女達の楽しさを刺激しているんでしょうね」
幻想生物の中には特別な力を持つ個体もいる。文献には人と言葉を交わしたドラゴンの存在も綴られているほどだ。
異種族間の意識交換は、人間と妖精という前例を考えればありえないことではない。が、妖精のそれは人に近しい姿をしている事からもそれなりに想像のつく話だ。
しかしドラゴンは空を飛ぶ爬虫類とも言うべき異形。体の大きさも、生態も、まるっきり異なり相容れない彼らと人が、同じ言語を解して意思疎通を図ったというのは中々に興味をそそられる話だ。
「彼女達の間で意思疎通は敵うのでしょうか?」
「さぁ、どうでしょうね。ただ、言語の平均化なんて妖精術があるんです。可能であっても不思議ではないと思いませんか?」
試すようにこちらに投げかけてくるアラン。確かに彼の言う事も一理あり。
人がドラゴンの言葉を理解できないだけで、妖精までがそうとは限らない。そうでなくとも妖精の全てを人間の側が理解できていないのに。その未知なる部分に他種族との意思疎通方法などがあれば幾らでも推論は広がる。
「興味の尽きない話ですが、私たちには私たちのやるべき事がありますから。そちらは専門で追い駆けている方を頼るとしましょう」
「俺たちが生きている間に全ての謎が解明されるかどうかは分かりませんがね」
妖精と付き合う者の端くれとして捨てきれない理想に二人して笑う。
そうしていれば普通に話し易い相手だと、彼の存在を大きく感じながら。次いで視界の端に捉えていた彼女達に視線を向ければ、隣のアランが少しだけ表情を固くした。
「……少し失礼します。先生はここにいてください」
戦う騎士としての緊張が宿った声。性差や年齢では語りきれない確かな物を肌で感じれば、彼は真剣な表情で四人の元へと足を向けたのだった。
* * *
異変に気付いたのは明確に意識を向けてからだった。傍から見れば微かにドラゴンが首を振るなんて別段代わり映えのしない光景。けれどもその行為に────いつもはそんな姿を見せない彼に違和感が募って足を出す。
杞憂であればそれでいい。そう思ってドラゴンの傍へと寄った刹那、目の前の獰猛な口から熱いほどの吐息と共に咆哮が放たれた。
咄嗟に耳を庇えば、次の瞬間小屋に繋がれた革が音を立てて千切れた。
今朝新しいものに変えたばかりなのに……。そう思考が巡った直後、天に向けて吼えた仕草に反対側の拘束具が鞭のように撓って宙を舞う。
まずい……! そんな思考と共にドラゴンの興奮を治めようとしたが、少しだけ遅かった。
大きく唸った羽ばたきが人の体など優に吹き飛ばす烈風を辺りに撒き散らす。無意識に体が低姿勢をとって最悪は回避したが、その間に先ほどまで繋がれていたドラゴンが小屋を飛び出して空へと舞い上がっていた。
普段は物静かで、対外的な場でも人に危害を加える事などない子なのに、どうして…………。そんな疑問と共に後を追った視界で、ドラゴンの背にしがみつく小さな姿を二つ捉えた。
「ピスッ! ケスッ!」
名を呼んだ声は、けれども次いで天へと轟いた更なる咆哮で掻き消される。しまった、どうやら背に乗っていたらしい二人が一緒に連れて行かれてしまった。
早く連れ戻さなければ……! そう考えるのと同時、緊急事態に気付いて駆け寄って来た先生が隣に並ぶ。
「二人は……!?」
「すみません、ドラゴンと一緒に。俺が直ぐに追います! 先生は残りの二人の様子をっ」
「えぇ、気をつけて。あの子達をよろしくお願いします」
「お任せをっ」
視界の端には小屋の中で座り込む生徒が二人。あの双子とクラスターを組んでいる子達だろう。共に幻想生物と触れ合っていた所への先ほどの羽ばたきの余波でやられたか。怪我をしていなければいいが……。
考えつつそちらは先生に任せて自らは隣の小屋のドラゴンに跨る。準備もしておらず鞍も鐙もないが事は急を要する。手早く拘束を解いて合図を送れば、訓練の賜物かいきなりのことでも素直に言う事を聞いてくれた。
風を裂いて空に上がり遅れて気付く。この子はいつも通り、大丈夫だ。ならばなぜあの子だけいきなり暴れ出した……?
考えている間にも風を掴んだドラゴンが空へと舞い上がる。直ぐに先に上がったドラゴンの傍に寄れば、背に乗った双子の姿を確認できた。どうやら振り落とされる事はなかったらしい。
「二人とも無事か!?」
風に掻き消されないようにと思い切り叫んで確認すれば、声に気付いたらしい彼女達がこちらを見つめて同時にこくりと頷いた。一先ず二人に命の危険はない。となれば後はどうやってドラゴンを地上へ下ろすかだ。
彼女たちの幻想生物との接触は今回が初めてではない。それこそ学園に通う前に剣の使い方を教えた際に何度か触れ合っている。だから特別恐怖はないのかもしれないが、だからと言って常日頃俺たちがそうしているような訓練をした経験は彼女達にもない。こういう場合の対処法は知らないはずだ。
本当ならば俺が乗って手綱を取れればいいのだが、興奮状態でどう動くか定かではないドラゴンに、しかも空中で飛び移るなんて自殺行為だ。そもそもこうして傍につくのが精一杯。
ならば彼女達を下で受け止める方がまだ確率が高い気がするが、そんな危険な事をさせられはしないだろう。
どうするか…………。そう悩む間にも時間は刻一刻と進む。早く決断しなければ今以上の危険もある……。
……この現状、本当に確実な方法はない。ならばやはり賭けるべきなのだろう。だったらせめて一番蓋然性の高い方法で…………。
「手綱は取れるかっ!」
宙を舞う手綱。実際は小屋の中に拘束しておく為の縄ではあるが、この際仕方ない。あれを手綱として利用するとしよう。
こちらの声が聞こえたのか、風に煽られる紐に手を伸ばす二人。だが彼女達の小さい体では中々に難しいようで、偶然傍にやってこない限り機会には恵まれない。
けれど一度握ってしまえば、後は俺が手本を見せて彼女達に同じ事をしてもらえばいい。そうすれば興奮状態のドラゴンでも言う事を聞くように出来る。錯乱さえしていなければ賢い子だ。正気はすぐに取り戻すだろう。
これ以上刺激をしないように少し距離を空けて様子を伺う。が、どうにも縄が手の届く範囲に来ず厳しいようだ。
ならば次の案。前に出て誘導を────
彼女達には力いっぱいしがみついていて貰おうと考えつつドラゴンを駆ろうとした刹那、縄に手を伸ばしていた彼女達がそれを諦めてドラゴンの背に体を預けるようにして抱きついた。
一体何を……。想定外の行動に危険を考えてやめさせようと口を開きかける。
それとほぼ同時、微かに感じたのは妖精力だった。一拍遅れてドラゴンの体を虹色の光が包み始める。どうやら二人が妖精術を使っているらしい。あれは……強化の妖精術か?
考えている間にも規模を拡大した虹色の光がドラゴンの体を覆う。と、次いで目に見えてドラゴンの興奮が治まって行き、空を飛ぶ速度がぐんと落ちた。
定かではないが、なにやら妖精術でドラゴンの意識を元に戻したらしい。今なら誘導も簡単だ。
「しっかり掴まってろ!」
声にまた一つ頷いた双子。直ぐに興奮の治まったドラゴン前に出て、編隊飛行の要領で大きく旋回。それから着陸姿勢に入る。
やる事は普段の訓練通り。意識もはっきりしているあの子なら、その背に乗らなくとも意図を酌んでくれると。
高度を下げ更に減速すると、戻ってきた広場にゆっくりと着陸する。乗っていたドラゴンから飛び降りて後ろを確認すれば、後ろについてきてくれたドラゴンがいつもそうするように体を伏せて二人が降り易いようにしていた。
傍によって確認すれば、その瞳はいつものまま。先ほどまでの興奮の色はない。
続けて台地に戻ってきた双子の様子を見る。
「二人とも怪我はないか?」
「うん」
「だいじょうぶ」
「驚いたけど」
「楽しかった」
返ったのはいつもの調子。こんな時でさえ崩れない二人の世界に安堵の息を零した。
あんな事があったというのにそれを楽しむ余裕があるとは、流石は彼女達だ。
「ピスっ! ケスっ!」
「大丈夫っ!?」
二人の学友も息を切らして駆け寄ってくる。あれで心配しない方がどうかしていると。
この様子ならあの二人も大丈夫そうかと安心すれば、後からやってきた先生に声を掛けられる。
「アランさん」
「すみません。お騒がせしました。とりあえずあの子達は無事です。ドラゴンの方も今は落ち着いているみたいなので」
「ありがとうございました」
心底ほっとしたように頭を下げる彼女。もしもの事があったらと思ってはいたが、全部杞憂に終わってよかった。しかし……。
「とりあえず生徒を集めてもらえますか? このまま授業を続けるのはこちらとしても不本意なので」
「はい。仕方ありませんね。もしよろしければまた今度、日を改めて」
「もちろんです」
先生に進言すれば、彼女も同じ事を考えたのか二つ返事で頷いてもらえた。
一度起きた騒動。それが連続するかもしれない。その危険を考えれば、これ以上の強行は愚策だ。次も無事とは限らない。次の被害が出ないうちに切り上げて、できるだけ早く原因究明に努めるとしよう。
* * *
「へぇ、そんなことが」
今日も今日とてヴァネッサ・アルカルロプスと言う存在のの半分に流れる異種族の解明に研究所で作業をしていた所に、陛下のお孫さんが遊びにやってきた。
飲み物やお菓子を用意する傍ら、言葉少ない彼女達の声に耳を傾ければ、語られたのは先ほど起きたらしい騒動の話だった。
突然の事に、けれども決断の早い大人のお陰で二次被害はなかったらしく、課外授業はそのままお開きになったのだとか。
昼前に切り上げられた所為で、持参していた弁当を食べる時間もなかったらしく。彼女たちは先ほど少し遅い昼ご飯をここで食べていた。
「それで、どうしてここに? 自慢ではないけれど、幻想生物の研究は別の分野よ。それともそちらを紹介してあげようか?」
尋ねれば、首を振った彼女。ふむ、どうやら特別幻想生物に興味が湧いてここを訪れた訳ではないらしい。
「妖精がいたから」
「何か知らない?」
独特な調子で紡がれる双子の会話。多くを語らない言葉に、まるで物語の行間でも読むかのように思考を巡らせる。
「妖精なら何処にでもいると思うけど……」
「ちがう」
「ドラゴンの傍」
ドラゴンの傍に妖精。話から察するに、彼女達が今日訪れていたのは白角騎士団の駐屯地だろう。あの辺りは自然が近くて妖精がよく遊びにくる事で有名だからそれほど特別な事ではないとは思うが……。
「妖精が悪戯してた」
「8で3だった」
「妖精がドラゴンに……?」
それは少し変な話だ。
確かにドラゴンにも妖精力が宿る事がある。だから対象とはなるのかもしれないが、より干渉し易いのは契約ができるほどに妖精力を保持する人間の方だ。
特に妖精は人のその姿に酷似している。……人が妖精に似ているとも言い換えることが出来るが、今回はまぁいいか。
妖精が人間に悪戯をするのは、好意の裏返しでもある。人が作り出す有に興味を惹かれて、よく似た存在である人間を困らせたりするのだ。
けれどもドラゴンの生態に妖精が興味を示す事は殆どない。そもそも意思疎通が敵うかどうか怪しい異種族間で必要以上の接触は起きないのだ。
良くも悪くも楽しい事を生き甲斐とする妖精。興味の湧かない事に手を出すほど、彼女たちは放埓ではない。
「あぁ、ここにいた。君宛だ」
そんな風に考えこんでいたところへわたしを探していたらしい研究仲間から差し出された書類。差し迫った問題はこれと言ってなかったはずだがと思い返しつつ受け取れば、頭に記された概要に少しだけ気を引き締めた。
純粋な瞳でこちらを見つめる双子に断って書類に目を通す。すると文面には今し方聞いたばかりの単語がいくつか並んでいた。
一通り流し見れば、末尾には無視出来ないグンター・コルヴァズの署名。どうやらこれは彼からの下達書らしい。
どうにも少しばかり厄介な事になりそうだと。頭の中で幾つかの事柄が曖昧に繋がっていくのを感じつつ、目の前の二人に問う。
「……これからカドゥのところに行こうと思うけれど、二人も一緒に来る?」
声に、鏡合わせな仕草で互いを見つめたピスとケスが、それからこくりと一つ頷いたのだった。
各所に確認だけ済ませて馬車を走らせれば、やってきたのはつい先日も訪れた関係者以外の立ち入りを禁ずる厳戒区域。一歩足を踏み入れれば、まるでわたし達が来る事が分かっていたように顔馴染みの妖精が出迎えをしてくれて、案内でもするように前を飛び始める。
隣を歩く彼女たちにとっては二度目。その所為か、一度見た光景に特別興味を示す事無く我が道を歩くが如く迷いない足取り。英雄的妖精がいるこの場所も、彼女たちにとっては最早異世界ではないらしい。
今でもそれなりに緊張している自分がおかしいのかと思うほどに堂々とした振る舞いに、流石は双子姫だと思いつつ。辿り着いた大樹の洞でとぐろを巻く彼に声を掛ける。
「カドゥ、少し話がしたいの。いいかしらっ」
今回は陛下もいないからいいかと。呼び慣れた愛称を口にすれば、来ている事には当然気付いていたのだろう彼がのそりと双頭を持ち上げる。
尻尾の先にもついた二つの頭。いつ見てもこの世の生き物とは思えない不思議な姿に見つめられながら単刀直入に尋ねる。
「カドゥ、前に話した妖性の事で訊きたい事があるの」
「うむ、申してみよ」
「つい先ほど軍が使役しているドラゴンが暴れ出す騒動が起きたわ。原因は目下調査中だけど、どうにも妖精が関わっているみたいなの。何か聞いていないかしら?」
彼が英雄的妖精だからなのかは分からないが、この地には野良の妖精がよく集まる。まぁ十中八九、この地域一帯の妖精力濃度が高いからなのだろうが、そのお陰か常にここにいる彼の元に情報が集まるのだ。
その知見で様子を見に来る度に幾つか話をして、この前のように忠告や助言を貰う事がしばしばあるのだ。
今回もそれを望んでの訪問。加えて、隣の双子が気になる事を言っていたからと言うのもある。彼女達の視点はわたし個人にとっても興味深いものなのだ。
人ならざる、爬虫類そのものな瞳を閉じて考えるような間。次いで尾の彼が答える。
「……悪いが、生憎とまだ話は聞いていない」
「そう……」
彼ならば知っていても不思議ではなかったが、分からないならば仕方ない。妖精は嘘を吐かない。そうでなくとも人と妖精の関係を脅かしかねない問題だ。彼が隠し事をする理由はないだろう。
「ただ、先日の話が関係しているようには思う。妖精の悪戯ならば、その可能性は大いにあるだろう」
続いた厳かな物言いに思考をまた一つ沈める。そこはやはり同じ結論か。
ガンコナーの一件も、彼の妖性の制御が利きづらくなった末に起きた事だろうとカドゥも言っていた。まだ前例が少ないから断定は出来ないが、今までにない出来事故に今回も同様ではと勘繰っているのだ。
そしてその可能性を彼の口から聞けたと言うのならば、これまで以上に見過ごせない想像だと言う事だ。
「……ふむ。とは言え一概には言い切れぬからな。例えば群れ成す小人と言う事もあるだろう。彼女たちは動物への悪戯を好む」
群れ成す小人……ピクシーの事だ。確かに彼の言う通り、ピクシーはよく動物と共に語られる事が多い。どんな妖精よりも悪戯を生き甲斐とする彼女達ならば、ドラゴンにだって干渉するかもしれない。
しかし話に聞いたような騒動を起こすほど彼女達だって容赦がない訳ではない。基本的にピクシーの悪戯は一時益に困る事ばかりで、命を左右するような事は起こさないはずだ。……もちろん、この前提はどんな妖精にも当て嵌まるだろうが。
けれども例えば、そんな彼女達がガンコナーのように歯止めが利かなくなって本能のままに行動を起こしたのであれば、これまでなかった影響を及ぼす事も十分に考えられる。
と、そこまで考えた所で、それまで口を閉ざしていた彼女達が声を発する。
「違う」
「8で3」
「む、それは真か?」
果断に言い放った双子。その言葉に尋ね返したカドゥが考え込むように沈黙を作り出す。
8で3。研究室でも聞いたその意味は、彼女達が見聞きする妖精の世界。その中でも、彼女達を語る上で外せない要因……属性に関するものだ。
特別な目と耳で捉える隣の世界の理は、人が何年もかけて見つけ出した僅かな希望。それをいとも容易く暴く彼女達の存在はわたし達研究者にとって喉から手が出るほど欲しい人材だ。
……が、まだ学生の身で、将来の可能性が数多燻っている至宝の未来を、ただ個人的な欲望で遮るのは大人のするべきことではないだろう。彼女達が本心からそう望まない限りは無理強いはするべきではない。
それにだ。何の縁かこうして言葉を交わす距離まで紡がれた関係。今はそれだけでも僥倖で、時折零れる彼女達の世界を見聞きするだけでも十分に価値を感じる。何より今の彼女達が協力してくれたとして、二人が見聞きしている景色を全て理解出来るとは思わない。
個人的には、妖精の研究と同じくらいに彼女達個人にも興味があるのだ。……なんて、少しばかり人道を外れすぎているかも知れないが。
そんな事を考えながら、思考は別のところを追う。
彼女達が言う8で3。その数字の羅列が表す属性は、風だ。だから恐らく、二人は風に属する妖精が関わっていると、そう判断しているのだろう。
まだ考え込んでいるらしいカドゥに代わって、気になっていた事を尋ねる。
「そう言えば二人は断言していたけれど、ドラゴンに悪戯をした妖精の姿を見たの?」
「見てない」
「でも8で3だった」
要領を得ないのはきっと彼女達の呼吸。幾つかの情報が欠けている中で、必死にその思考を追いかける。
渡された資料によれば、暴れたドラゴンの背に連れられて二人が一緒に空へと舞い上がったらしい。それを追いかけたアラン・モノセロスがドラゴンの混乱を諌めようとした所、二人が何らかの妖精術を行使して興奮を治め、落ち着いたドラゴンを誘導して無事地上に戻ったとのこと。
これらの事から考えるに、鍵は恐らく二人が行使した妖精術にあるのだろう。
「……二人が妖精術を使ってドラゴンを大人しくさせたって報告にあったけど、本当?」
「妖精術じゃない」
「妖精力」
ふむ。どうやら複雑な事はしていないらしい。妖精力だけでできる事は限られている。
「妖精力でドラゴンを落ち着かせたってこと?」
「うん」
「乱れてた」
乱れてた。話の流れから察するに、それは恐らく妖精力のことなのだろう。妖精に悪戯されたことから考えても、件のドラゴンが少なからず妖精力を内包していたのは明らかだ。
それが乱されて暴れていたから、彼女たちは妖精力を使ったと……話はそういうことだ。
ならばと考えられる推論が一つ。
「……それじゃあ二人は乱れてた妖精力を元に戻すために妖精力を使ったってこと?」
「うん」
「妖精力は妖精力で消える」
妖精力は妖精力で消える。少し語弊がある言い方だが、概ね間違ってはいない。
基本的に妖精力は別な妖精力……つまり異なる波長のそれをぶつけると、乱されて霧散してしまう。それくらいに不安定な力だが、だからこそ不定形ゆえに色々な可能性が示唆されていて、日夜研究に熱が注がれているのだ。
妖精の全てを理解しているわけではない人の世界で。それでも数少ない真実は存在する。それが今、次代を担う彼女達に語り継がれるようにと教育と言うものが存在するのだ。
その、最早常識とも言うべき世界の理の一部を彼女たちはしっかりと理解をして、今回応用したということだ。
話には聞いていたが、やはり彼女たちは頭一つ抜けて優秀だ。だからこそ将来が楽しみなのだけれども。
「うむ。つまり翼竜が暴れていたのは妖精の仕業だという事か」
ここまで情報が揃えば間違えようがない。この件は、前のガンコナーのとき同様、妖精が絡んでいる事件と言うわけだ。
「8で3……風に属する妖精の悪戯。今度はどんな妖精が関わっているんでしょうね」
「まだこちらでは掴んでいない話だ。何か進展があれば知らせよう。それでよいか?」
「お願いするわ」
「またね」
「ばいばい」
小さく手を振る彼女達を連れてカドゥケウスの居城を後にする。馬車に乗って小さく息を吐けば、気持ちを切り替える。
彼女達の力を借りてはしまったが、本来はわたし達の仕事。前例もある事だし、帰ったらすぐに取り掛かるとしよう。
* * *
「そうか。うむ、報告ありがとう」
どうにか公務の合間を縫って作った時間。応接室にやってきたヴァネッサからの直接の連絡を聞いて一つ頷く。
彼女の隣には、何故かそこで当然のようにお茶を飲む双子の孫の姿。どうやら家に買える前に城に寄ったらしく、制服姿のままだ。……まぁ家にはジネットがいる。彼女のことだ、家族への連絡は済ませているだろうし、彼女達の帰りを今か今かと待っているに違いない。あまり心配をかけないうちに早く解放してやるとしよう。
受け取った書類から目を離し、神妙な顔つきのヴァネッサに問う。
「何かこちらからできる事はあるか?」
「そうですね……いえ、今はとりあえずは。こちらで出来る限りの調査を進めてみます」
「分かった」
「ごちそうさま」
「おいしかった」
相変わらずな時間の流れで生きている双子。けれどもそのお陰で少しばかり空気が軽くなる。
「そうか、それはよかった。……今日は早く帰ってゆっくり休むといい。明日も学校があるんだろう?」
「うん」
「わかった」
素直に頷く二人。もしかして喉が渇いていただけか?
結局話に参加する事のなかった彼女達がいつもの調子で部屋を出て行くと、少しだけ気持ちを切り替えてヴァネッサに尋ねる。
「……それで、目星くらいはついているのか?」
「今のところ風に属する妖精としか……。ですが数はそう多くありませんし、すぐにでも追っての報告はあげられるかと。カドゥも協力してくれると言っていましたから」
「そうか……。彼女達の様子は?」
「これと言って変わった様子は見受けられませんでした。心なしか、カドゥと話す時に少し楽しそうにしていたような気もしますが」
「もうそこまで理解出来るようになったのか?」
「残念ながら勘です」
祖父の我輩でも理解には手を焼いているというのに。先を越されたら堪ったものではないと。嫉妬でもするように零せば、小さく笑みを浮かべた彼女。
妖精に詳しい彼女でもあの二人の事を十全に理解するには厳しいかと。それほどに特別だと思えば、世界の秘密よりも価値がある気がする孫娘たちだ。
「それではわたしもこれで」
「あぁ、よろしく頼む」
「承りました」
畏まった物言いの彼女を見送って扉が閉まれば、大きく息を吐いた。
体が沈むほどの椅子に背中を預けて天井を見上げる。
「どうにも一筋縄ではいかんな」
「お疲れ様です。お茶を一杯、いかがですか?」
「あぁ、貰おうか」
ずっと傍に控えていた信頼する相棒、エドワールの声に答えて目を閉じる。
献身的に支えてくれる彼の存在に感謝をしつつ思う。
どうにもこの頃、妖精に関するきな臭い話題が多い。このまま話が推移すれば、ともすると世界に大きな変革を齎すほどの波になる恐れがある。その芽だけは、どうにか摘んでおかなければ。それをできる立場として、責任と行動を。
もう開催まで半年もない四大国会談。今年も一波乱ありそうだと今から億劫になりつつ、差し出されたカップを手にとって零す。
「エド、少し腹が減らないか?」
「では、少し早いですが休憩に致しましょうか」
今回は許してもらえた。機嫌がよかったらしい。
まぁここ最近は真面目に公務に励んでいるからな。……それが普通だと言われればそうなのだろうが、如何せん根が面倒くさがり屋なのだ。本当、どうしてこんなのが国の長などやっているのだろうか。国民の目を少し疑いたくなる。
……なんて、きっと彼らが認めたからこその椅子なのだろう。ならば国民の期待に応えるのもまた、上に立つものの責務と言うわけだ。もちろん、時には休息も必要だろうが。
「この後は予てよりの諸侯との会談が控えておりますのでそちらもお忘れなきようお願いします」
「分かっておるっ」
はぁ……。本気で羽を伸ばしたい。外遊、したいなぁ。
* * *
「あ…………」
「お?」
さて、今日もそろそろ開店休業の時間かと。昼間の茶房経営から時間を空けて、夜の憩いと社交の場の提供に外の明かりを点けようと店の前に出たところで一人の女性が向かいの壁に膝を抱えて座り込んでいるのを見つけた。
扉から出てきたこちらに気付いて顔を上げた彼女と視線が交わる。
微かな明かりに照らされたその女性は眼鏡を掛けており、その奥からこちらを見上げる視線はくすんだフォッグの瞳。オリーブ色のミディアムヘアを、頭の横だけ編んで後ろで纏めたハーフアップ。微かに染まった頬が月光に照らされて妖艶ささえ纏う。
と、そんな彼女の目尻に小さな光の球が浮かんでいる事に気がついた。
「どうかされましたか?」
「あ、いえ……。一人自己嫌悪に陥っていただけですので、どうぞお気になさらず……」
落ち着いた声の中に感じたのは、悲しみの色。星すら輝く夜に女性が一人、道端で蹲って珠の雫を湛えているなんて流石に無視は出来ない。遠慮する彼女に柔らかく笑いかけてお節介を焼く。
「丁度これから店を開けるので、よろしければ中へ。夜は冷えますよ」
「店……? 『胡蝶の縁側』……?」
「大人の社交場です」
看板を見上げて零した女性に自己紹介。
無粋にお酒と言うのも躊躇われて飾った物言いをすれば、僅かに悩んだ女性は、それからおずおずといった様子で立ち上がり足を出した。一名様ご案内。
昼間とは違い、少ない照明で仄暗さを演出した店内を案内すれば、まずはと水を一杯差し出した。
小さく頭を下げた彼女に笑みを返して、意気消沈している様子の彼女を元気付けようと簡単に食べられる料理を用意し始める。
「……お洒落なお店ですね」
「昼間は喫茶店を、夜になれば大人のおもてなしを。それがここ、『胡蝶の縁側』の二つの顔です」
一日に二度の開店と閉店。似て非なる世界を映す、ただ自分の趣味を突き詰めた居城だ。
夜のこの時間からは酒精飲料を主に扱う看板を揺らす。世界の片隅の、小さな箱庭。
「どうぞ、ごゆっくりなさっていってください」
「…………ありがとうございます」
少しだけ体の強張りが解けたのか、はにかむような笑顔。そんな大人の微笑みが淡い光に照らされる。
何があったのかを無理に訊くような事はしない。お客様の事情はお客様の物。ここではただ、少しだけ酔いに任せるだけ。
そんな事を考えていると、店内を見回した女性が尋ねてきた。
「お一人で経営を?」
「えぇ、まぁ。客足はご覧の通りで、お恥ずかしい話ですが」
「もったいない……」
自嘲すれば、思わぬ言葉が返って少し驚く。どうやら随分とお気に召してもらえたようだ。もしや新たな常連となってくれるだろうか。
そんな淡い期待が小さく疼く。
少し込み入った路地の途中にある店だ。常日頃から閑古鳥が鳴いているが、別に生きていけないほどではない。一応大口も時折あるのだ。
「何か貰っても?」
「もちろん。さて、何に致しましょうかっ」
知らず跳ねた口調で注文を伺えば、彼女は悪酔いがしたかったのか少しだけ強めのお酒を頼んだ。
すぐに注いで出し、少し遅れてお酒の友を提供する。
静かな店内に彼女と二人きり。言葉など殆どなくただただ店主と客と言う時間を紡げば、やがて一杯空いたところで恥ずかしそうに笑った女性が零した。
「……さっきはごめんなさい」
「いえ、困っていたらお互い様です」
「仕事で少し失敗しまして。上司に思いっきり怒られ……いえ、叱られて。随分と久しぶりの事だったので滅入ってしまいまして」
どうやら大変な事があったらしい。きっちりした服から見るに立派な職に就いているようだが……。
普段はあまりしないが、少しだけ気になって尋ねる。
「お仕事は何を?」
「一応、教師の端くれを……」
「おや、先生でしたか。お仕事お疲れ様です」
言われてみれば確かに。聡明な雰囲気の中に優しさも垣間見える。立派な大人の女性だ。年は……僕とあまり変わらないだろうか。
「そんなに大したことではありませんよ。私からするとお一人でお店を切り盛りされている貴方の方がご立派に思えます」
「ジル・モサラーです。よろしければここではマスターと呼んでいただけると個人的に嬉しいですが」
「……そういえば声を掛けていただいたのにまだ名乗ってもいませんでしたね。リゼットです」
リゼット。その名前を聞いて、微かにぼやけていた目の前の女性の影が確かな形を持ったような気がした。
普段から飲み慣れているのか、大人の雰囲気を纏って唇を濡らす彼女。小さく零れた吐息に妖艶させ滲ませて、恥など捨てたように長机に頭を投げ出す。
「お酒、強すぎましたか?」
「いいえ…………。あの、少しだけ酔いに任せてもいいですか?」
「はい、お好きなだけ」
大人にだって疲れる時がある。愚痴を零して弱音を吐きたい時だってある。そんな、子供には見せられない柔らかい部分を包んで許されるのがこんな片隅だ。
彼女の言葉に笑顔で答えて、それから店の扉にかかった開店を知らせる看板を反転させる。他の客には悪いが、今日は貸切だ。……まぁ他の客なんて滅多に来ないけれども。
自嘲して戻れば、専属のマスターとして立つ。すると彼女が泣きそうなほどに薄く微笑んで呟いた。
「ありがとう、マスター…………」
妖精の悪戯も、月の光もここには届かない。ただあるのは、大人の世界だけ。
他言はしない。訊いてもいない。けれどもしっかり聴きながら。滔々と紡がれる音に時折相槌を打ちながら僅かばかりの時間を共有すれば、いつしか外れた箍と共に夜への誘いが耳元で囁いて。きっと夜空に輝く月が天辺を越えて傾き始めた頃、抵抗さえ曖昧に彼女の体が眠りの縁から底へと落ちて行った。
まったく、無用心で無防備な女性だ。あどけなささえ残る寝顔で小さな吐息を立てる彼女に毛布をかける。
彼女が申し出れば寝床くらい用意したのだが、それより早く意識を手放した彼女を起こすのも悪いかと。風邪だけは引かないようにと室温を気にしつつ、静かに片付ける。
明日が定休日でよかった。一応紳士の端くれとして、彼女の身の安全を守らせてもらうとしよう。
目尻に微かな珠を浮かべた彼女にそんな覚悟を決めて、暇潰しに作成途中だったボトルシップを持ち出してくる。
こうして酒精飲料を提供していると、空の瓶が出てくる。基本は回収されてまた別の酒が注がれ市場に回るのだが、前に道楽で再利用を試したのが気に入って。それ以降こうしてボトルシップを制作しているのだ。
素人の趣味の創作物。完成品はこれまでで三つ。時間を掛けて年に一つ完成すれば早い方だ。
カリーナでは海洋貿易が盛んなため、土産としてボトルシップがよく売られている。それらは大量生産品として瓶の底を切り抜き船の完成品を中に入れて底を接着するという作成方法で作られた物が大半だ。
が、生来の凝り性なのか、折角作るならここにしかない一点物を……と意気込んで自らの手で瓶の中で組み立てる手法で頑張っている。店に飾ってあるのもお手製だ。
やり始めるとこれが意外と楽しくて。もしこの店を閉めたら今度はそっち方面で頑張ってみようかと思うほどだ。
今作っているのは丁度この前作り始めた新作。まだまだ形だけで、装飾などはこれからだ。遊ぼうと思えばこれから幾らでも自由がある。さて、今回のは一体どんな仕上がりになるのだろうかと。基礎以外曖昧な脳内の設計図を何枚も描きながら手元に集中する。
そんな風に時間を過ごせば、一体どれだけの時間が経っていたのか。気付けば窓の外が白み始めていて、段々と世界が動き始めるのを肌が感じていく。
丁度手元の作業も一段落して、区切りをつければ伸びを一つ。ずっと同じ姿勢でいた所為か、静かな店内に響いた音が心地よくさえ感じる。
そこでふと、視界の中に今の今まで抜け落ちていた人物の存在を捉える。
寝息は健やかに。少しだけ視線を奪われて、まじまじ見るものでもないとどうにか顔を逸らした。気分転換にと店の外に出れば、既に幾人かの人が動き始めている。早ければそろそろ港に朝の船が戻ってくる頃だろうか。
普段なら材料の仕入れに市まで足を伸ばすのだが今日は休み。一日のんびり過ごす事が出来る。自営業万歳だ。
自由と不自由を噛み締めながら朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで意識をはっきりとさせる。さて、そろそろ朝食の準備でも始めるとしようか。
何はなくとも腹が減るのは非情なものだと。どんな食材が残っていただろうかと考えながら店に戻った所で、景色の中に変化を一つ見つけた。
開いた扉に揺れた鈴。来客を知らせる商売の相棒の音にこちらへ振り返った女性が少しぼぅっとした視線で見つめる。
「おはようございます」
「あ、はい……。おはようございます……」
受け答えや声ははっきりしている。二日酔いはなさそうか。お酒に強いらしい。
そんな彼女でも、理解の出来ない事はあるようで。どうにも不安そうな色を灯した視線がこちらの一挙手一投足を追いかける。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
水を差し出せば、少し考えるような間を空けた彼女が、それから一口煽って。小さな吐息共にコップを置くと再度こちらを見つめて尋ねた。
「……あの、私…………」
「昨日店の前で座り込んでいたところを僕が案内したんです。その後お酒を嗜まれて……」
「あぁ、そっか……私そのまま…………」
曖昧な眠りに落ちる前の記憶を導けば、どうにか繋がったらしい認識に納得した彼女。次いで肩に掛かった毛布に気付いて、遅れて慌てたように立ち上がった。
「あっ、今時間は……!」
「まだ早朝です。お仕事までは少し時間がありますよ、リゼット先生」
少しだけからかうように口にすれば、安心したように腰を下ろした彼女。次いで両手で顔を覆うと、長い吐息を落として零す。居た堪れなくなったのだろうか。けれどもそれが許されるのがこの場所だ。不必要な事は見なかった振り。
「…………ご迷惑をおかけしました」
「いえ。少しでも日々の憩いになれたのであればそれが一番ですから」
受け取った毛布をたたみつつ答える。少しだけ顔色を伺えば、思い出して恥ずかしかったのか微かに頬が染まっていた。
酔いに潰れて目が覚めた客によくある反応だ。特に彼女のような、普段気を張っているような女性ならなおさらだろう。
「それで、その、御代は……」
「またで構いませんよ」
また。そうすれば少なくとももう一回は来てくれる。ずるい返答に気付いた彼女が申し訳なさそうに微笑んだ。
「……わかりました」
その顔に、昨夜のような消沈の色はない。僅かでも力になれたならよかった。お酒は偉大だ。
久しぶりに実感を覚えて彼女に応えるように笑みを浮かべれば、それから小さく息を整えて立ち上がったリゼットに向けて礼儀正しく腰を折る。
「ご来店、ありがとうございました。またのお越しを心よりお待ちしております」
「……こちらこそ、ありがとうございました」
朗らかな笑顔でそう答えて。それから確かな足取りで歩き出した彼女を店の外まで見送れば、やがて角を曲がってその背中が見えなくなった。
遅れて小さく息を吐く。
…………とっても個人的な事を言えば、楽しい時間だった。彼女のような美人と今度こそ潰れる事無く心地よく酔えたならどれだけ楽しい夜になるだろうかと夢想する。
……美人? あぁ、そうだ。有体に美人だ。だからこそ、少しばかり男の部分が顔を覗かせてしまう。
…………いやいや。彼女はお客さん。ぼくは店主。それ以上でも以下でもない。……けれどもまぁ、次が楽しみなのは事実だ。
「何か一本入れておこうかな……」
中々に収まりのつかない感情に納得を探すように零して昇ってきた陽に目を向ければ、やっと思い出したような眠気に欠伸が一つ漏れたのだった。




