第三章
「準備はいい?」
「もちろん。泣いて謝っても許さないから」
「そっちこそ」
「それじゃあ」
「勝負」
ピスとケスの声にシルヴィと睨み合い、答案用紙を開示する。同時に並べられた幼馴染のそれと見比べて計算すれば、二人より早く結論に至った双子が無慈悲に紡ぐ。
「ロベール457」
「シルヴィ441」
「よぉしっ!」
「っ…………!」
分かれた明暗はそれぞれに表に出して。思わず握った拳に現実を噛み締めながらシルヴィに向き直る。
「ま、分かってたけどなっ」
「…………ごめん、ケス」
「でもシルヴィ頑張ってた」
「ありがと」
敗北を噛み締める幼馴染に気をよくする。勝負の世界は残酷だ。例え僅かでも、その差は確かな結果となる。
まぁシルヴィにしては健闘した方だろう。学園に入る前から仲良くしていて、ことある毎に勝負してきた間柄。競う以上に同じ学び舎に通えたらいいと願っていたのも事実で、その為に一緒に勉強もしてきたのだ。だから幾度か点数で勝負した事もある。
ぼくの記憶が正しければここまで点数で肉薄されたのは初めてだ。今回の点数は彼女にとっての最高得点だろう。その事を思えば、シルヴィがどれだけ本気だったか分かるというものだ。ピスと一緒に試験勉強をしていなければ負けていたに違いない。
……と言うか、シルヴィだってケスと組んで対抗していたのだ。その地盤から考えれば、点数の伸びがよかったのはシルヴィの方だろう。そう言う意味では彼女の勝ちかもしれないが……残念ながら今回の勝負は総合得点でのみ競われる。過程がどうあれ、勝ちは僕のものだっ!
「おめでと、ロベール」
「おうよ!」
共に戦った戦友、ピスからの言葉に、その音以上に嬉しくなる。
が、個人的にもう一つの目標としていたピスとケスへの勝負は手が届かなかった。彼女たちは今回、当然のように二人揃って497と言うほぼ満点。間違えた一箇所も同じ場所で、きっと鏡の世界からやってきたのだと尊敬さえする。
……いつかは彼女達に追いつくのだと。そう胸の内に秘めつつ、今はとりあえず目の前の勝利を見つめる。
「勝負はロベールの勝ち」
「命令は?」
「ん、そうだな」
二人に言われて思い出す。仲間であり強敵と肩を並べて。そうして勝ち取った先にあるのが事前の約束だ。
勝った方は負けた方に一つだけ言う事を聞かせられる。その強制力は、ぼくとシルヴィの間では最早普遍の理だ。
もちろん暗黙の了解のようなものも存在する。
「ロベール。分かってると思うけどいつも通りだからね」
「あぁ」
「いつも通り?」
「なに?」
「……あぁ、そうか。そういえばまだ二人には話してなかったな」
結果に言い訳は一切しない。潔いシルヴィの瞳と共に、確認するような声は戒め。だからこそ約束が意味を持つのだと考えれば、次いで上がった二人の声に納得する。一応共有はしておこう。今回の勝負には彼女達の存在は不可欠だったのだから。
「えっと、約束についての決め事みたいなもんだよ。まず、勝ち負けは絶対。言い訳も何もなし」
「約束も絶対。口にした事はしっかり守るのが責任だからね」
音にするのは今一度の前提検証。最早いつからだったか分からないシルヴィとの共通認識は、かけがえの無い繋がりの証明だ。
「約束……例えば今回の命令だと、その効力は一回限り。後に尾を引くような命令は駄目ってことだ」
「これからずっと学校への登校の時は荷物を持つ事、みたいなのは駄目って事だね」
「それから無理は駄目だ。出来ない事はやらせない。危険な事も同じだ。怪我とかしたら問題だからな」
「そして最後に……喧嘩はしないこと。仲が悪くなったら次の勝負での仕返しも出来なくなるからね」
「仕返しって……そんなこと考えてたのかよ」
「今までの戦績、あたしは全部覚えてるから」
不穏な事を言うシルヴィ。根に持つな、なんて決め事は無いけれども……初めて聞いたぞ、それ。
また今度、今の戦績を訊き出してみるとしよう。答えるかどうかは分からないけど……。
「とにかく、そういうことだ。互いに笑って許せる範囲でってことだな」
「ん、分かった」
「ロベールはどうするの?」
改めて問われて、それから考える。
「……シルヴィ。今回命令って一人にだけ? それとも相手の相方にしても大丈夫?」
「んー。二人も勝負には参加してるけど……どう? 二人はロベールに命令されたり、あたしに命令したりってのは?」
問い掛けには視線を交わらせた双子。無言の意見交換に、それから彼女たちはこちらに向き直って頷く。
「大丈夫」
「シルヴィは?」
「二人がいいなら。……ってことでロベールとピスはあたしとケスに好きな事を一つずつ命令していいよ」
「よしっ」
言質を得られて拳を握る。のと同時に、少しだけ慎重になる。
この分なら、先ほどの仕返しと言うのも考えて……次の試験ではシルヴィの方から勝負を仕掛けてくるだろう。その時にピスとケスが乗ってるくるかはまだ少し分からないが。少なくとも次は直ぐそこにある。変に禍根を残すような事をすれば、倍以上の仕返しが待っているに違いない。……下手な命令は、自分の首を絞めかねない。
そう巡った思考が重石のように足元に渦巻いて可能性を沈めていく。
「あー……えっと…………。また後でいいか?」
「なに? ここじゃ言えない事でも言うつもり?」
「ちがっ……! その、まだ考えが纏まらなくて。決まったらその時に言うからっ」
「ふぅん……」
訝しげな幼馴染の視線に冷や汗が垂れる。もちろんいやらしい事を命令するつもりはない。そんな事をすれば、ばれた時に比喩ではなく首が跳びかねない。幾ら二人の事が好きでも、そんな冒険はしたくない。
それにシルヴィ相手に改まってと言うのも少し変な感じだ。これまでなら別に気取らなかったのに……二人の視線があるからだろうか?
まぁいい、期限は決めていない。じっくり悩んで納得出来る命令を行使するとしよう。
「ピスは? 何かして欲しい事とかある?」
「ある」
問いには即答した彼女。迷いなど似合わない彼女達にとっては当然の反応だが、だからこそ少しだけ緊張する。
それなりに会話をしてきた経験から、こういう時にこの双子が何を言い出すのか、全く想像がつかないという結論は得た。少し常識とずれている気がする二人。そんな片割れがシルヴィに求める物は何だと、こちらまで息を呑む。
「お店行きたい」
「お店……?」
「前に行ったところ」
前に訪れた事のある店……。その言葉で脳裏に閃いたのは一軒。
「もしかしてジルさんのところ?」
「うん」
店の名前は確か……『胡蝶の縁側』。シルヴィ共々幼い頃からよく通っている顔馴染みの店だ。
学園に入ってからは中々遊びに行けてないが、試験終わりも兼ねてあそこでお疲れ様会をやるのもいいかも知れない。ジルはいい顔をしないかもしれないが……。
「いいんじゃないか? 試験も終わった事だし。冷やかしに行こうぜっ」
「…………分かった。連絡とってみるから貸し切りにしてもらおう。それでいい?」
「お願い」
「楽しみ」
ケスからの期待も聞いてシルヴィが頷く。
思わぬところから楽しそうな予定が組みあがった。シルヴィと二人だけならきっとそんな想像はしなかっただろうと思うと、この二人と一緒のクラスターになれてよかったと思う。
彼女たちはどうかは分からないが、少なくともぼくはいい刺激を貰っているから。何かを返せる時が来たら、その時に全力で手を貸すのだと己に誓いつつ。
今は目の前に向けて一歩ずつ歩むだけだ。
「っと、そろそろ次の授業始まるな」
「それじゃあまた後で。お昼一緒に食べようね」
「うん」
「またね」
試験が終わっても勉強はいつも通り。今度は学期末に向けて精進しなければと席に着けば、先生が来るまでの間に考えを巡らせる。
ケスに対する命令……。いや、命令だと思うからいけないのかと、お願いとして考える。
ケスだけにするお願い。できればそこにピスが加わるのが理想だが、高望みはしない。そちらはいいものが思いつくまで保留だ。
ならばシルヴィ相手はどうだろうかと。これまでずっと隣で過ごしてきた幼馴染。偶然か、学園でも同じ教室で授業を受けている事を思えば、中々に数奇な巡り会わせだ。幾ら幼馴染だからってそんなところまで一緒でなくてもいいのに…………。
とは言え彼女がいて助かっているのも事実。もしピスとケスの二人を自分だけで相手していたらと言う想像は、既に出来ない。シルヴィと一緒だから……そう考えるといざという時もどうにかなると思えてしまう。
そんな相手に、けれどもこれまで数え切れないほどに競ってきた強敵として勝者の権利を振りかざせる。だと言うのに、これと言って明確な物がでてこないのは……もしかすると初めてかもしれない。
もちろん浮かびはするが、それがすべてこれまでの延長線上のなにかな気がするのだ。学園に入って心機一転と思っていたのに……今が悪いというわけではないのがそもそもなのかも知れない。
……だとすれば、これまでシルヴィに対して一切してこなかった何かが打開の手掛かりになるのかも知れない。
なんとなくなきっかけを見つけて脳裏に色々列挙していく。そんな中で、不意に過ぎった双子の顔。合わせて思考の端に答えのような何かを見つけた気がしてもう一つ思考に深く潜る。
…………そんな事をしてもいいのだろうか……。いや、命令は絶対。迷惑も、きっとかけない。だったらもう、これくらいしか思いつかない……。
あとはそれを行動に移せるかどうか……。そう自分に問いかけて逡巡。けれども、それさえ今までの延長線だと思えば特別意識するような事はなかった。
……よし、決めた。悪いがシルヴィを利用させてもらうとしよう。その先に、今は見えないもう一つの答えを見つけるのだ!
覚悟を固めた直後、先生が入ってきて慌てて椅子から立ち上がったのだった。
* * *
「で? 理由を聞かせてくれる?」
腰に手を当てて威圧するように尋ねる。声に、視線を逸らした幼馴染が言い訳の様に口を開いた。
「だから、その…………シルヴィと、二人で遊びに……」
普段ならきっと、その言葉に舞い上がってしまうのだろうけれども。生憎と今日はそんな気分にはなれない。
と、何か別の弁解でも見つけたのか、こちらに向いた視線が真っ直ぐに告げる。
「ほ、ほらっ。学園に入ってから二人だけで遊ぶ時間もなかったしっ! そういうのもたまにはいいかなって……!」
そんなので納得すると思ってる事に呆れてしまう。嘘ならせめてそうだとわからないようにして欲しい。
「…………で?」
「うっ……」
半眼で睨めば、言葉に詰まったロベール。そんな彼に仕方ないと溜息を吐く。
二人きりで遊びたい。彼がそう言ってきたのは、昨日の下校時にピスとケスと別れた後の事だった。いきなりの事にその時は二つ返事で頷いてしまったが、今日になって待ち合わせ場所に来てみれば、その言葉がただの嘘だった事を知った。
それはずっと隣で彼の事を見てきたから知っている、癖。ロベールは、目的と手段が別の場所にあると時間の管理が疎かになるのだ。例えば待ち合わせだったり……時間を指定して何かをする際に、遅刻をしたり予定の時間を超過したりするのだ。
今日も先に着いたのはあたし。鐘の音が鳴ってしばらくの後に姿を現した彼に、あたしは確信をしたのだ。
彼が何か隠し事をしていると。だからこうして詰問しているのだ。
「本当のこと言わないと帰るよ?」
「……………………」
ただ、その思いまでもが嘘だとは思わない。何か理由があってあたしとこうして会っているのだ。だからきっと、あたしに話なり相談なりがあっての事なのだろうが……それを理由に折角の時間を振り回されたらたまったものではないと。
何かあるなら正面切って相談して欲しい。それならまだ、頼られている事を理由に許せはするのだから。
じっと見つめて白状を待てば、やがてロベールが観念したように口を開いた。
「…………ケスのことで、相談がしたくて……」
彼の口から零れた名前に、そんなことだろうと安堵さえする。彼が自分のことで悩むなんてのは少ない。基本は誰か他人の為だ。その純粋さは彼のよいところだとは思う。
加えて、これは昔からなのだが……これまで実らなかった片想いの裏には基本あたしが協力していた。だから今回もそれだと、彼が時間に遅れてきたときに頭のどこかで気付いたのだ。
もちろん恋が実らないように根回しをしてきたつもりはない。そんなことで彼に嫌われたくないから、相談には出来るだけ真摯に答えてきた。それでも彼の想いが結実しなかったのは、良くも悪くもあたしの存在なのだろうと思いつつ。それを言わない自分に少しだけ嫌気が差しながら。
「勝負の、命令で……ケスに何を言ったらいいか分からなくて」
「どうせピスのことも同時に考えて馬鹿みたいに博愛でも気取ったんでしょ?」
「ぅぐっ!」
誠実で不誠実な彼の想いに、一体これで何度目の恋愛相談なのかと過去を振り返る。……まぁ二人同時に思いを寄せるなんてこれまでなかったから、初めてと言えばそうなのだろうが。
恋多き幼馴染に自分の気持ちを押し殺して友人として尋ねる。
「……で、結局どっちなの?」
「え……?」
「ピスとケス。どっちが好きなの?」
「それは…………」
言葉に詰まるロベール。これはどうやら本気で重症らしい。
彼女たちは、良くも悪くも鏡写しだ。もちろんあたしが知らないだけで二人にも違いはあるのかもしれないが、傍から見て分かる差異といえば、纏めている髪が右か左かと言う程度でしかない。そんな双子にいつもの如く……今回は分不相応にも一目惚れしたロベールは、当然のように二人を同列に見て同じように想いを募らせた。
そんな相反する気持ちの上で揺れる幼馴染が、見ていてしょうがなくなったのだ。
「ふ、二人とも……って言ったらシルヴィは怒るだろ?」
「当然でしょっ。そんな不誠実な話があっていいって思ってるのっ?」
全く、最低な幼馴染だ。幾ら惚れ易くて流され易い彼でも、その時々の一途さだけはまだ尊敬できていたのに。それさえ見失って自分の心が分からないなんて、女の敵以上に信用ならない。
「例え似ててもあの二人はそれぞれ別人なんだよっ? それをどっちもなんて……ありえないからっ」
「だって本当に分からないんだってば! 似すぎてるから違いなんて見つからないし、二人一緒にいる方が見ていてどきどきするし……」
後半についてはまぁ分からないではない。あの二人は二人で一つな部分がある。先の試験勉強でそれぞれに分かれて競っていた彼女たちは、あたしから見てもどこか欠けているように思えた。試験が終わっていつも通りに戻ったときに、安堵をしたのも覚えている。
けれどだからって、二人同時になんてそんなことが罷り通っていいはずがない。
「だから選べなくて……シルヴィに相談しようって思って…………」
「……………………あぁ、そう。へぇ……」
物心ついてから一緒に過ごしてきたけれども、これほどまでに彼に落胆したのは初めてだ。
自分の気持ちを他人に預けて、剰えその相談相手があたし……? ねぇ、何で? 馬鹿じゃないの?
怒るという感情を通り越して平坦に凪いで行く自分にさえ恐怖する。彼にこんな感情を抱く自分がいるとは思わなかった。それくらいに初めてのことで、これ以上ないくらいに軽蔑するのだ。
そんなあたしの態度にようやく反省したのか、小さくなった声で頭を下げるロベール。
「……その、甘えたのは悪かった。でも考えた上でのことだったし、何よりシルヴィを信じてもいたから」
「だからってそんな不誠実な気持ちに協力する事は出来ない。ましてやあの二人なんだから。気持ちが固まってるなら別だけど」
もちろん協力する気持ちとあたし個人の彼への感情は別問題だ。だが、一所懸命なその姿を否定したくはないから。彼が本気で、相手が望んでいるのならばあたしはそれを邪魔しようとは思わない。
達観……ではないけれども。どうせ学生の恋愛事情だ。ロベールの性格から考えても長続きするとは思えない。
それに、あたしだって何もしていない訳ではないから。少なくともこうして相談してもらえる関係は続けている。
傍から言わせれば少し恐ろしい話なのかもしれないが、いつかは絶対こちらに振り向かせて見せるのだ。そのための地盤を、今も尚踏み固めているに過ぎない。ロベールの事を理解してずっと傍にいるなんて、あたし以外に出来ないんだから……。
「それとも今からどっちかに絞る? 出来るならしていいよ?」
「……………………」
「できないなら……とりあえず今のままでいいんじゃない?」
彼があたしを信用してくれているように、あたしも彼を信頼しているのだ。結果は何となく見えている。
…………なんて、そんな大人の駆け引きは受け売りだ。あたしの母親が、何かにつけてそういう事を吹き込んでくる人だから、変に染まっているだけだ。あたしはまだ、普通だから。大丈夫だから。
そんな風に自分に言い聞かせつつ視線で尋ねれば、ロベールは頷いて納得したようだった。全く、あたしの気持ちにも気付かないで何で他に意識が向くかなぁ…………。あたしだってそれなりにアピールしてるつもりなのに。幼馴染って厄介だ。
「……で、どこか遊びに行くの?」
「へ?」
「折角時間割いたんだから、何もないってのはやめてよね?」
「あ、あぁ、そうだな……」
まぁいいや。とりあえず今ロベールが片想い止まりなのは確認できた。ならば明確に邪魔する訳ではないけれども、地道な刷り込みを今日もするとしよう。そうして、いつかここがロベールにとっての一番になれば、あたしはそれで満足だ。
「その、こんな話をした後で言っても信用してもらえないかもだけど、シルヴィと遊びたいってのは本心だからっ。ここのところあの二人がいたからいつも通りに過ごす事が出来なかったけど、シルヴィと遊ぶのも楽しいって思ってるから!」
「…………そう」
…………あぁ、嫌になる。こんなので嬉しさを感じる自分が馬鹿に思えてくる。惚れた者の負けって、あれはきっと世界の真理の一つだ。
けれどそんな顔を今の彼には見せたくないと。逃げるように足を出して彼を呼ぶ。
「ほら、いくよっ。何処つれてってくれるの?」
「えっと、じゃあ…………何か食べに行こうっ。それから商業区で店を見て回って────」
慌てたように予定を立てる幼馴染にくすりと笑う。だからさ、好きな子がいるのにそういうことしちゃ駄目だって。何で分かんないかなぁ、このお坊ちゃまは。……まぁでも、そうやって何事にも真剣だからこそ、本気で嫌いになれないあたしがいるんだろうけれどもね。あーやだやだっ。
それから彼が口にした通り、喫茶店で軽食を一緒に食べて。いつもの調子を取り戻したらしいロベールが男らしく支払いを請け負った事にまた一つ嬉しくなりつつ。だったら一体どれだけの懐の深さがあるのだろうかと、からかう様に服飾店で少しだけ気になっていた服の相談をすれば、本気で払いそうになった彼に慌てて止めたりもした。買ってくれるならせめて贈り物にしてよ。そのほうが嬉しいからさっ。
幼馴染だからこその遠慮のなさでいつも通りを紡ぎつつ。しばらくロベールを振り回したお礼にと今度は彼のしたいことに付き合えば、足が向いた先は三つある区画のうち一番下……カリーナの玄関口である、海原広がる沿岸部へとやってきた。
あたし達にとっては手伝いなどでよく訪れていて見慣れた場所。けれども、だからこそのいつも通りに安堵を覚える。
特別な事などなく、ただそこにある今。代わり映えのしない日常を、当然のように享受できる幸せに彼がいることが何よりも嬉しくなる。何もないからこそ、それがいいのだ。あたしはきっと、そういう平穏が好みなのだろう。
「今日もよく晴れてるな」
「これからの時期は降りそうだけどね」
ロベールの声に答えつつ青く抜ける空を眺める。
カリーナはフェルクレールトの大地でも南に位置する国だ。一年を通して気候は温暖で、夏は少し鬱陶しいほどの日差しが降り注ぐ。そんな暖かい地域では、よく雨が降る。しかもこれからの時期、昼夜の寒暖差が大きくなるとそれに伴って突発的な雨が降る事が多くなるのだ。
一応妖精術を駆使した天気予報のようなものもあるが、万全ではない。これからの時期傘が手放せなくなってしまう。
そんな気候の変化は主にここカリーナと、そして北の台地であるスハイル帝国が顕著だ。
スハイルはカリーナと間逆で、一年を通して気温が低く冬には毎年豪雪となる。年間で十日も雪が降れば珍しいと言うカリーナとは対照的に、景色一面が白銀の化粧をする町並みと言うのは個人的に憧れだ。もちろん、その辺りはお互い様の部分もあるのだろうが。一度でいいから観光をしてみたいと言うのが幾つかある夢の一つ。雪の降る町を好きな人と共に歩けたらどれだけ楽しいだろうか。
とは言えそれはきっと叶わぬ望み。学生の身であるあたしにとって国外は遠い幻想だ。そもそもこのカリーナ城下町からすら出たことがない世間知らず。一つあるとすれば学園の修学旅行だろうが、あれはトゥレイスに行くのが恒例だ。望みを叶えるなら自力でどうにかするほかないだろう。
「それで、ここに来て何がしたかったの?」
「…………いや、特には」
そんなことだろうと思ったけれども。しかし同時に思う。
ロベールが考え無しに起こす行動には基本裏がある。裏といっても彼の目的と言う話ではなく、例えばそこに何かの思い入れがあったり、悩みの原因があったり……。そう言った彼の心の奥にある、彼自身でも気付いていない何かが根差しているのだ。その思いがこうして表に出る。
分かり易い幼馴染だ。
「ここで何かあったの?」
「…………何も?」
「それって必要な隠し事?」
「……………………」
少しだけ詰め寄るように問いかければ、ロベールは考えるように口を閉ざした。もしそれが彼の悩みなら、あたしは力になってあげたいのだ。ロベールの元気がないのはあたしも嫌だから。追いかける背中として、ロベールにはいつも元気でいてもらいたい。
考えているとこちらを伺うような視線を送ってきたロベールが、それからおずおずと呟く。
「…………シルヴィは、その……ぼくの気持ちの事知ってたんだよな」
「気持ち?」
「ピスとケスの……」
「あぁ、うん。それはだって、幼馴染だから。見てれば分かるよ。一体何年付き合ってると思ってるの?」
そうでなくとも彼の事はずっと見ている。その視線の意味にはまだ気付いていないのが、少し腹立たしくもあるけれど。
「そうだよな…………」
何かを確かめるように呟くロベール。その横顔を見つめれば、彼は決心したように顔を上げて告げる。
「ぼくさ、ここで二人に告白したんだよ」
「…………は?」
いきなりの言葉に少しだけ思考が止まってしまった。それから直ぐに追いついた頭がたった一言の情報の奥を深く追い始める。
「し、したの……? 告白……?」
「うん」
「で、二人はなん…………え? 二人にしたのっ?」
「…………うん」
重ねようとした質問で、更なる疑問が湧いた。それは不誠実だろうと。ありえないと。糾弾さえ含んだ声には、反省しているのか少し歯切れの悪い返事。
「シルヴィに言われて、だから酷い話だよなって反省はした。けど、知ってるなら今更嘘も吐きたくないから」
「そ、そう…………」
まさか既に行動に移した後だったとは思わなかった。それでいてまだ二人に想いを募らせていると言う事実に、これまでなかったことだと驚く。
ロベールの一方的な恋はこれまで何度も見てきた。けれどもその結末はいつも一緒で、男らしく想いを告げては断られてそれっきりと言うのが最早演劇の台本の如き定番だったのだ。
けれどもどうやら、今回はその前例から既に逸脱しているようだ。いや、と言うか…………。
「それで、その……二人はなんて?」
「それが、なんていうか……。上手く伝わらなかったみたいで」
「え……?」
「多分だけど、友達としての気持ちとしか受け取ってもらえなかったんだと思う」
落胆したような、肩透かしを食らったような、そんな声音のロベール。その姿に、紡がれた言葉に、どうにか思考が追いついて理解する。
どうやら告白が告白の体をなさなかったらしい。だから振られてもいなければ、ましてや恋人関係にもなっていない。そもそもの前提から成り立たなかったのだろう。
だからロベールも、その想いを持ち続けられた。持ち続けられたから、勝負の結果に掴んだ権利を行使しようとして、けれど迷いの末に今ここにいると。話はそういうことらしい。
「それで今回の事があって、分からなくなってシルヴィに相談しようとして……。誰よりも馬鹿だったのは自分だって気付いたんだ」
全てを話し終えて消沈したように口を閉ざしたロベール。その横顔に、なんて言えばいいのか分からなくて、小さく息を吐いた。
「…………大丈夫だよ。結局それって次があるって事なんだから。二人同時にって言うのはやっぱりいけないと思うけど、そこをしっかりしてもう一度改めて告白すればいいんじゃない?」
「決めるったって、一体どうやって…………」
「そんなのあたしが知るわけないじゃん」
協力したいと言う思いと、したくないと言う願い。その二つが鬩ぎ合って、他人事な物言いになる。
「決めるのも選ぶのも、全部ロベールがすること。あたしが決めていいことじゃない。……もちろん、少しくらいは一緒に考えてあげる。でも最後に決断するのはロベールだから。いいっ?」
幼馴染としても心配なのだ。これまでずっと流されてきた彼。あたし相手には自分を出せるのに、それが他の誰かになると尻込みをしてしまう優しさ。
けれどもそれは、アリオン家を背負って立つ未来の党首にとって邪魔なものだ。彼は決断を迫られる。その時に優柔不断を振りかざしていては駄目なのだ。……あたしが傍で支えられればいいけれど、今のままだとそれも遠い。
だから前に進む為に、選ぶのだ。
「ロベールはロベールのまま、信じた物を貫けばいいんだよ。あたしはそれを、隣で見ててあげるから。自分を信じられない時は、あたしを信じて」
「……………………ん。……ありがと、シルヴィ」
らくしくなく弱く頷いた彼は、それから小さく鼻を鳴らしてこちらを向いた。
大丈夫、どんな選択をして、どんな結末になっても。あたしだけはずっとロベールの味方だから。
だから……だから、いつか────あたしの話も、ちゃんと聞いてね。
* * *
「ごわごわする」
「着なきゃ駄目?」
「一応慣例だからな。すまないが我慢してくれ」
「ん」
「分かった」
陛下の言葉に頷いた双子がくるりとこちらに向き直る。
鏡映しな姿。違うのはただ、頭の横で括った亜麻色の長い髪が右か左かと言うだけ。それ以外はきっとすべて、全く同じな双玉。
ピス・アルレシャとケス・アルレシャ。この国の主であるグンター・コルヴァズ大統領の孫娘……系譜的には王孫と呼ばれるべき、わたしも敬う相手だ。
年齢など関係ない。目の前の相手が自分より名家の出ならば、当然の事。それがここ、カリーナでの空気にさえ滲む掟だ。
「ではヴァネッサ、行こうか」
「はい。どうぞこちらへ」
ヴァネッサ。そう呼ばれて返事をすれば、そこに並ぶ三人を案内して歩き出す。
ヴァネッサ・アルカルロプス。その名がこの身を示す記号で、わたしにとってはそれ以上でも以下でもない音の羅列だ。
ハーフィーとして生を受けたわたしは、子供の頃より傍にいた妖精という種が不可解で。自分にも半分流れている血が、未だ殆ど日の目を見ていないという不安は、幼心に好奇心の坩堝となった。解明に解明を重ねても進展しているのかさえ分からない研究に業を煮やして、ならば自分が真実を突き止めるのだと意気込んで進んだ道。その末に手に入れた研究者と言う仕事は、何故か巡り巡って随分な大役を任される立場になってしまった。
別にそれほど特別な事をしてきたつもりでも、ましてや無為に時間を浪費して周りから気遣われるほどに年を重ねたわけでもない。……まぁ35歳既婚と言えば、どこにでもいるただの女性と言う認識だが、個人的にそれほど固執するものでもないように思う。
私にとっての恋人は妖精で、伴侶は仕事だ。もちろん愛した相手はいるけれど、比べればきっと興味が勝ってしまうくらいには未知の虫で。どうやらそれほどに一心不乱な姿に惚れたらしい人生の伴侶は、同じように研究者としてカリーナで働いている。
傍から見れば愛と仕事に恵まれた、順風満帆そのもの。強いて言うならば子供がいない事をこの頃よく母親に突っつかれているが、今はまだそちらにそれほど意欲が湧かない。年齢も年齢だからもう諦めていると言う方が大きいだろうけれども。
母親としてよりも、一人の人間として今を生きていたいのだ。お父さん、お母さん……ごめんなさい。
それくらいには没入して、ただ興味の赴くままに突き進んだ結果。何の因果か任された仕事は、このカリーナ共和国でも一二を争うほどに重要な案件だと後に知った。当時はただ妖精に触れられる機会だと言う認識しかなかった。若いって怖い。
その案件。これから会いに行く相手は、カリーナに限らず、世界中が注目するその一端だ。
かの者の名を、カドゥケウス。世界に四人しかいない歴史の証明であり、人が普段崇めるほどに忌避している────英雄的妖精だ。
先の第二次妖精大戦でその終結を齎した一因。同じ妖精でありながら他と一線を画すその全ては、今平穏の世で安らかな時を謳歌している。
ともすれば歴史を動かしかねない鍵。わたしがそう踏んでいるかの者は、けれども中々に厄介らしく。前任者が半月でその役割を放り投げたくらいには理解の及ばない相手だ。その相手を、なぜわたしがしているのかと問われれば、明確な答えが一つだけある。
わたしにも分からないからだ。分からないから、興味があるのだ。
「いつ振りだろうな」
「わたしの記憶では、二年と半年前ですね」
「もうそんなに経つか」
グンターの声に答えれば、どこか感傷に耽るような音。
陛下にしてみれば同じ時を生きた戦友とも言うべき存在がカドゥケウスだ。そんな人物であっても中々に接触できない相手に、わたしはほぼ毎日会っているのだと言えばどれくらいこの仕事が特別か伝わるだろうか。
前に陛下が仰っていた言葉を借りるのであれば、カリーナの妖精との歴史はわたしの双肩に掛かっているらしい。…………怖かったから、あれ以降その事について考えるのはやめている。わたしだって生きている。無闇に馬鹿を見たくないのだ。
「6」
「4」
「え…………あ、はい。そうですね」
馬車に揺られながら唐突に耳に飛び込んできた声に答える。陛下のお孫さん、ピスとケス。今回カドゥケウスに会うに辺り、話があるとのことで彼女達の同行をカドゥケウス本人から言われて、一緒に来てもらったのだ。
そんな二人が、わたしを見つめて呟く。その音に、意味に……。わたしの半分の部分とこれまでで積み重ねてきた知識が重なって頷く。
「そう言えばお二人は見えて聞こえるんでしたね」
「あぁ。わしも理解してやりたいのだがな、中々に複雑で全てとはいかん」
「わたしも全てを理解しているとまでは言いません。ですが基本的な部分だけなら簡単ですよ」
6で4。
それはわたしも含め、この世界では常識の一欠片。もちろんそれを理解している人など一握りなのだろうが、きっと妖精の側にとっては知っていて当然の知識だ。
その世界の理の片鱗を、専攻して追い求めているわけでもない彼女達が見聞きできると言うのはやはり特別な事なのだろう。だからこそ、時折彼女達の力を借りる事もあるし、妖精の側も彼女達に興味を示すのかも知れない。
語らなくとも理解をしてくれる相手。語られずに言葉を交わすことの出来る相手。自らを明かす事を好まない妖精にしてみれば、何はなくとも理解してくれる存在と言うのが傍にいても安心するのだろう。
「予め申しておきますと、これから会うカドゥケウスも6で4なので、きっとお二方とも仲良くなれると思いますよ」
「ん」
「楽しみ」
多くを語らず、けれどもきっと気にしているだろう事を口にすれば、変わらない表情でこくりと頷いた双子。わたしにはその薄い表情の奥にある本心まで理解する事は出来ないが、彼女達が嘘を吐かないと言うのはよく聞く話。ならばきっと、楽しみと言う言葉に偽りなどなく、妖精がそう求め生き甲斐にするように彼女達も期待してくれている事を願いながら。
しばらくそうして話をしながら揺られていると、やがて馬車が目的地にて止まる。手綱を預かっていた女中が恭しく戸を開けてくれるのを慣れないながらも受け取りながら馬車を降りれば、目の前の森の奥には天を貫くほどの大樹が聳え立ち、奥に続く道の入り口らしき場所には警備の為の妖精騎士が二人構えていた。
辺りを見渡せばそこは自然の庭。先ほどまでいた建物の並ぶ町並みとは違い自然が溢れ空気の澄んだその場所は、少し目を凝らせば幾つかの野良の妖精も目に出来る。
場所こそ明かせない秘密の空間。カリーナ城近くの大地のどこかにある、緑豊かな森の中だ。
わたし個人はもう何度も訪れている第二の仕事場に小さく息を整えて陛下たちを先導するように歩き出せば、擦れ違い様騎士の二人が軽く礼をしてくれた。今日はこの二人かと。既に顔馴染みの姿に安堵さえ覚えつつ細い自然の道を視界の先の大樹に向けて進む。
と、珍しく木の陰から妖精が姿を現した。
「今日は珍しいお客さんだね」
「そういうご指名だからね。カドゥケウスはいる?」
「さっきまで寝てたよ」
「そう、ありがとう」
ピスとケスが視線を向けていたが特別干渉することはなく。情報提供のお礼にいつも持ち歩いている飴玉を差し出せば、彼は嬉しそうに小さな体で抱えて森の中へと姿を消した。
「親しいようだな」
「あの子には昔……この仕事を任された時に悪戯をされた事がありまして。それ以降仲良くなって時折こうして話をしているんです。今日は陛下達が同行なさっていたので気になったのかと」
「確かに珍客ではあるか。……ふむ。二人とも、あまり迷惑を掛けないようにな」
「うん」
「だいじょうぶ」
小さく頷く二人は、最早人の形をした妖精だと。少ない知見でそう判断しながら前を向けば、直ぐそこに目的地が聳え立っていた。
その木は周りのそれらとは一線を画す大木で、一目見れば樹齢幾つの自然の神秘だと誤解しかねない代物だ。が、実際には数多ものリンデンバウム……菩提樹の近種で、木が寄り、縒り合って上に伸びた集合体。捩れ絡まったその威容は自然界の共生と競争を体現して天高く伸びている。
そんな複数の木が絡まりあった根元には、それぞれの木が巨木な根のように這い回る中にぽっかりと一つだけ虚のような空間ができている。その、まるで大地の傘のような大樹の根元に居座るのが、今回わたし達が会いに来た相手──カドゥケウスだ。
その姿は……一言で言えばドラゴン。朽ちた倒木のようにひび割れた鱗で長いとぐろを巻き、蛇のような頭を尻尾の先にもつけた双頭の翼竜。他のドラゴンには見られないその双頭はそれぞれに意志を持ち、考え、喋る存在で、特別な異質さを放つ。そのドラゴンとしての姿。カドゥケウス自身は前に一度だけアンフィスバエナと語った事があり、あとから調べた所どうやらそれが彼の竜としての姿らしい。
アンフィスバエナ。幾つかの書物に登場する伝説上の生物。カドゥケウスと同じく双頭を持つ存在だ。伝説の存在だと謳われていたが、確かに彼が言った通りその形容がしっくり来る。ともすれば本当に彼はアンフィスバエナなのかもしれない。
そんなカドゥケウスだが、その本質はドラゴンではない。彼は────英雄的妖精。そしてその名称の通り、妖精だ。
彼を彼足らしめる妖精の……妖性の名前は、トロール。森の番人、大地の巨人であるトロールは立ち並ぶ木々より頭一つ抜けた巨体を持つ存在で、その異様は文献では複数の頭を持つと書かれる事もある。
大地に属する巨躯で、多頭。そんな要因が妖精としてのトロールと、ドラゴンとしてのアンフィスバエナを繋げるのだろう。
少しだけ視野を広げれば、大地に属する概念としてエルフたちが語る精霊と言う物も存在する。火、水、風、大地の四要素の内、大地を司る存在を総じてノームと言うらしい。
ここで一度カドゥケウスのほかの二つ、ドラゴンと妖精の性質に目を向ければ面白い共通点が見つかる。それは、ドラゴンもトロールも、大地を……恵を守護し破壊する力を持つということだ。物語の中で勇者の敵として登場するドラゴンたち。その殆どは金銀財宝や土地を守護する悪として描かれる。同時に、トロールの逸話の中には富と幸運と共に語られるものも存在し、それらを簒奪せんと集る悪党どもから庇護する番人としての側面を持つ。
その大地の守り手と言う立場で考えれば、ノームにも似たような事を語る事ができ、カドゥケウスと精霊の繋がりさえ仄めかすのだ。
もちろん妖精と精霊とドラゴン。三つの顔を持つからと言ってそれが明確に繋がっている確証はわたしにもない。けれども今している研究はその解明に力を注いだ物で、いつかは根拠を揃えてカドゥケウスの正体を明かしたいと考えているのだ。それが巡り巡って、妖精全体を解き明かす鍵になると信じて。
そんな大地の管理人、カドゥケウスが今回の話の中心。彼が陛下やそのお孫さんであるピスとケスの二人に話があるということで、こうして眼前までご足労願ったのだ。
「カドゥ、来たわよっ」
呼びなれた名……彼に許された愛称でそう呼べば、巻いていたとぐろがゆっくりと動いて二つの頭と四つの目をこちらに向ける。
ドラゴンと言うよりは蛇のような顔立ちは、縦長の瞳孔と鋭い眼光と共にこちらを射抜く。そうでなくとも人の身を優に越える体躯の持ち主だ。慣れているか、よほどの度胸がない限り身が竦んでしまうだろう。
宝石のように怪しく光る瞳がぎょろりと動いて瞬き一つ。次いで開かれた口から生物としての鼓動を感じる息吹が低く零れた。
「定刻通りだな、人の子」
「ほれほれさっさと本題に入ろうぞ」
体の形からして生物としての本来の頭から零れたのは堅苦しく仰々しい言葉遣いの低い声。続いた砕けたような口調は尾の方に付いた顔から。
二つの頭を持つ彼は、それぞれに思考し音にする。これまで接してきた中でわかっている事と言えば、二つの頭は別々の事を考える事も、同じ事を考え並列で作業する事も出来るようで。ともすればどこか陛下のお孫さんである双子に似たような感慨を覚える。彼女達が体を共有しているような感覚だ。
だから今のように言葉を次ぐ事もあれば、別々の声を零したりもするという少し厄介にも感じる事がある。
けれども慣れてしまえばどうと言うことはなく。似ているようで似ていないカドゥケウスと言う存在は、傍にいて見ているだけでも楽しい妖精だ。
「それでは早速。……今日はお二人からお話があるそうで。聞かせて貰えますか?」
「うむ」
どんな用があって双子を呼んだのか。その詳しい所を聞いていない為、わたしも耳を傾ける。と、声に頷くようなしぐさをしたカドゥケウスが、徐に体を動かしてピスとケスの前に二つの顔を近づける。
「おぬしらがピスとケスだな?」
「はじめましてだ、双子殿っ。この身は総じてカドゥケウス。長ければカドゥと呼んでくれ」
「うん」
「よろしく、カドゥ」
そのやり取りに思わず息を呑む。まずもって彼らが人に人である以上の興味を示すのは珍しく、しかもそれが今日出会ったばかりの初対面相手と言うのは……もしかすると初めてのことかもしれない。
加えて愛称。カドゥと言う短い名は、よほど気を許した相手にしか許可しない呼び名だ。わたしだって数年掛けてようやく心を開いてもらえた証だと言うのに……やっぱりこの二人は特別なのだろうか。
別の可能性として、妖精としては長く生きる彼が孫のような若い人の子に優しく接しようとした、なんていう心優しい一面も無きにしも非ずか。……いや、幾らなんでもそれはないか。
「して、話だったな。おぬしらに伝えたい事柄と、伝えるべき事柄があるのだが、さて、どちらからが好みだ?」
「気軽に好きな方を選んでくれ。結果話すことには変わりないからなっ。因みに伝えるべき事の方が少し重要に思うぞ」
「言いたいことからでいい」
「ケスたちはお客さん」
「ふむ、ならば順序立てて語るとしようか」
考えている間にも無駄なく進んでいく会話。風変わりに見えるようで実直な双子と、落差の激しい双頭の寄り道のない声は、気を抜けば置いていかれそうな速さで紡がれていく。
「まずは伝えたい事からだ。おぬしら、この前の宴で人と妖精の関係を取り持ってくれたようだな」
「うたげ?」
「誕生祭のこと?」
「そこの、人の主の誕生を祝うものだな。あの賑やかさは嫌いではなかったぞ? 強いて言うなら様子を見に行きたかったがな」
陛下を一瞥して紡がれる陽気な声。
妖精は楽しい事を本能で追いかける。それは英雄的妖精でありドラゴンの姿を持つカドゥケウスも同じ事で、どうやら随分と我慢をさせてしまったらしい。彼の担当として、次の機会にはそれとなく進言してみるとしようか。
「その中で恋語らいの悪戯を諌めてくれたと聞いている。その事に感謝をしているのでな」
「恋語らい……ガンコナーですね」
幾ら学園生と言えどその名前では分からないだろうと補足する。ガンコナーは女性を口説き、魅了してしまう。その生き様を指して幾つかの通り名があり、その一つが恋語らいだ。あまり口にすべきではない名前として言い寄り魔なんて言葉があるが、これには魔が付いている事から悪魔を連想させガンコナーを中傷する時の悪口となる。
この世界における悪魔とは理由の要らない結果の象徴。過程も再現性も語れない事象は確かな結果とする事を憚られ、異界の理……悪魔の法、魔法と呼ばれ忌み嫌われる。その為悪魔や魔法と言う言葉を口にする事は忌避され、転じて嫌悪の対象として誹謗や冒涜の言葉として用いられる事が時折ある。
大抵は子供の悪口であったり、陰口といった表になるような事のない悪態だ。だからこそ、人目に付く場ではその言葉を避けるという暗黙の了解がある。
一応の話として、妖精の見えない者達が純血主義を掲げて妖精憑きや妖精従き、はたまた妖精やその混血、果てはエルフを相手取って悪魔憑きなどと呼んでいた過去もあるが、今は悪口止まりで殆どない。また、そんな呼び名に対し妖精の見える者達が見えない者に言い返して出来上がった言葉が妖精尽きだ。
この辺りの事は、もしかすると学園でも教えない話かもしれない。先生によってはそこまで触れたりもするだろうが……まぁ現状、彼女達には縁遠い話か。
「しばらく前にそいつから直接話を聞いたところによると、何でも気分が高揚して少しやりすぎたらしいと反省していたからな。止めてくれた事に感謝しているとも言っていたぞ」
妖精は楽しい事を生き甲斐にしている。だからこそ先の祭りのように歓喜に溢れた空気の中では妖精も時折箍が外れた悪戯を行うことがある。だからこそ国仕えの騎士や学園の生徒の力を借りて見て周り、問題の解決や未然の防止に努めていたのだ。
その中で陛下のお孫さんたちがガンコナーの一件に関わったという話はわたしも聞いた。若いながらも賢い彼女たちは、相手の特性を逆手にとって女性だけで応対する事により大きな問題に発展する前に解決したとのことだ。
そんな話を聞くと、優秀な人材として引き抜きをしたくなる性が疼いてしまうが……今は我慢。一番は彼女達の決断。そこに、願わくば少しばかり道を示してあげる事が大人の役目だろうと戒める。
どうにもわたしは妖精の事となると興奮するきらいがあるらしいから。可能な限りはこうして自分を諌めているのだ。だからこそ、こうしてカドゥのお相手を仰せつかっているのだろうけれども。
「改めて礼を言わせてくれ。ありがとう、ピス、ケス」
「だいじょうぶ」
「楽しかったから」
「ふははっ、そうか! それはいいな!」
偽りなどない素直な返答に大笑した尾の頭。この快活さは妖精そのものな分かり易さだ。
「それで、もう一つとは? そっちの方が重要らしいが」
「うむ、人の考え方に習って今のが私的な用事ならば、次のが公的な話だ」
陛下の一言に低く唸る声で答えたカドゥケウス。その言い回しに、ここからが本題だと気を引き締めて一層身を入れる。
「先の恋語らいの話にも通ずるのだがな。どうにもこの頃妖精達の間で不可解なことが起きているようなのだ」
「不可解?」
「恋語らいが人里で少し騒いだだろ? どうやらそれが場の雰囲気以外にも別の要因があってのことらしい」
語られたのは、どうにも一筋縄ではいかなさそうな話。迂遠な言い回しだが、どうやら妖精の身に何かこれまでにない事が起こっているようだ。
「明確に自覚している訳ではないようだったが、どうやら本能の部分が疼く事があると言っていた。時々歯止めが利かなくなると。それもあって先の宴であんな事が起きたのだそうだ」
「今は落ち着いているのか?」
「あぁ。だが、いつ来るかも想像のつかない波のようなものとのことだ。一度で終わる事でもないらしく、ここ数日で別の者にもその兆候が確認できている」
「妖精の本能が暴走…………」
可能性を探すように呟けば幾つかの目がこちらに向くのを感じる。……そんなに期待をされても怖いのだけれども。しかし想像だけでなら語れる。
「……それって妖性が何らかの干渉を受けているってこと?」
「妖性……ふむ、そうやもしれんな」
曖昧な物言いは、彼自身もまだ明確に把握できていないからなのだろう。それくらいには過去に例のない経験らしい。
妖精自身に分からないのであれば、人の身でなど到底届くはずもなく。幾らこの身がハーフィーであろうともそれは半分に過ぎないのだ。妖精にまつわる全ては半分しかこの身に及ばない。
妖精の存在を解き明かしたいと願い止まないほどに人の世界にとってはまだまだ謎多き隣人。そこに降って湧いた曖昧な問題に胸の内がざわつく。
「つまりはその忠告と、可能であれば人の世界からの解決策の模索、と言うのがそちらの言い分か?」
「こっちとしても不必要な迷惑は掛けたくない。折角の関係だからな。このまま悠々自適に過ごしていたいのだ」
自分の地盤が揺らいで今ある環境が壊されてしまう事を嫌っているのだろう。
総やかに蓄えた顎髭を一撫でして思案した陛下がこちらに視線を向けてくる。
「頼む余裕はあるか?」
「差し迫っての問題はないので。ご用命とあれば最優先の職責として取り計らっていただければ」
「ふむ。ならばそうするとしよう。カドゥケウス、それで構わないか?」
「あぁ、人の事は人に任せよう。また何かあればこちらから声を掛けるとする」
「頼む」
決断は一瞬で。国を預かる身としての英断は彼の特権。だからこそその責任と共に、彼は椅子に座っているのだ。
ともすれば世界を傾かせかねない問題と言うのがわたし個人の今現在の見解。それに逸早く取り掛かれるというのならば、妖精の尻尾を追い駆ける身としては願ってもない話だ。
そんな事を思いつつ必要なやり取りを終えて帰路につく。その間際に双子姫が彼を見つめていた視線が気になって、帰りの馬車の中で尋ねる。
「お二人は何か気になる事でも?」
「6だった」
「4だった」
「え……あ、そうですね」
予想外の返答に少しだけ拍子抜けする。何かにつけて特別な彼女達のことだからわたしには見えていない何かを感じての事かと思っていたが、どうやらカドゥケウスの属するところについての興味だったらしい。それは行きの馬車の中でも少し話題にした部分だ。
彼女達の言う通りカドゥケウスは6で4……地に属する妖精だ。ドラゴンの姿でいる事が多い彼を一目見て妖精だと見抜き、剰えその属性まで聞き届けたらしい。見て聞く彼女達の特別な感覚は、きっとどんな研鑽ですら及ばない幻妖なものだ。今回はその一端が、彼女達と同じ属性を秘めている事に気になったのだろう。
「あのお二人は英雄的妖精……先の大戦の幕引きを導いた存在ですから。ここカリーナに現れた彼は、大戦の終結間際に妖精従きを失って以降、不思議と妖精力の満ちるあの場所であのように時を過ごしているのです」
彼は今契約相手を持たない野良の妖精という扱いだ。が、英雄的妖精という肩書きが付くほどに強大なその力を自由にしておけるほど戦後の時間は優しくなかったために、わたしの様な存在が彼の管理を任されていたのだ。
運よくカリーナの近くにあった妖精力の溜まる場所。その木の洞を寝床にする自然動物のように居場所を求めた彼は居つき、共に歩んできて今に至る。
その戒めも、ようやく国同士の関係が落ち着いてきた今日この頃。そろそろ押し付けがましい肩書きなど不必要だという声も上がってきていて、彼の自由を人が奪うのも酷な話だと言う意見も時折耳にしている。
わたし個人としては自由を尊重したい気持ち半分。まだ彼と共に過ごして色々な事を学びたいという思い半分のどっちつかずな感じだ。英雄的妖精の処遇については近々開催される四大国会談にて話題に挙がることだと一人考えていたのだが……どうやら今回の話でそれも少し先送りになりそうだと曖昧な色の未来に小さく息を吐く。
「英雄的妖精についてはお二人が通われる学園でも学ばれる事と思いますのでそのときをお楽しみに。もし気になる事があればわたしに声を掛けていただければ、出来る限りの疑問にお答えさせていただきますよ」
「うん」
「わかった」
こくりと頷いた二人に笑みを浮かべる。学園の入試試験では頭一つ抜けた高得点を叩き出したと聞く才女だ。そんなお二人が妖精のそのあり方などに興味を持つというならばこれ以上に嬉しい話はない。
と、そんな向上心の欠片に優しい笑みを浮かべた陛下が、それからこちらに向けて零す。
「英雄的妖精と言えば、ブランデンブルクの話は聞いているか?」
「はい。今年一人の少年と契約を交わしたとか」
「どうやらあのグライドの弟らしい」
グライド。その家名には聞き覚えがある。確か現ブランデンブルク国王、ヒルデベルト・アスタロスに仕える優秀な騎士の一人だ。どうやらその弟がブランデンブルクの英雄的妖精、ヘルフリートと契約を交わしたらしい。
カリーナは国境を接するブランデンブルク王国と仲がいい。国の主同士が先の大戦時よりの旧知の間柄らしく、大戦中にも遺恨を残すような衝突がなかった為に今では友好的な関係が築けているとか。国境であるスアロキン峡谷では互いの国土の安全を守る為に日夜緊張が巡らされているが、大きな問題が起きた例はない。それどころか協力さえして国家間の勢力均衡を保っているとも聞くほどだ。彼らのお陰で今日の平穏があると思えば感謝しかない。
「あやつめ、英雄的妖精の扱いには固執しておったくせに。自由を建前に随分な事をしでかしおってからに……」
「話では既にヘルフリートは国の管轄を離れたとか……?」
「完全にとはいかんだろうがな。間接的なそれへ移行して、順に軛を壊していく腹積もりなのだろう。しかもその学徒が通う学び舎があの北の純血が任された学院だというのだから中々に強かな奴よのぉ」
どこか悔しそうに、はたまた嬉しそうに呟くグンター。そんな彼の言葉に思考を追い駆ける。
まだ学生でありながら、その者にヘルフリートの契約を任せた。それだけでも大概にして大胆な話だが、その彼が通う学び舎が遠回しにスハイル帝国と繋がってるというのだから随分な博打だ。
学院を任されているのは純血のエルフ……研究者の端くれとしては見過ごせない話として、エルフと妖精の関係性について言及した事もあるエルゼ・アルケス女史。彼女は英雄的妖精と並び大戦の終結を手繰り寄せたもう一つの要因……四大国による人質交換、その当人だ。だからその気になれば彼女経由でスハイル側とのやり取りが可能で、ブランデンブルクの国王陛下はそこまで見越してエルゼ女史が任された学院の生徒との契約を許したのだろう。
もう一つ加えるならば、これまではフェルクレールトの大地で英雄的妖精というと西のトゥレイス騎士団国にいる彼女が、唯一契約をする存在だった。だからもし何かがあれば国の垣根を越えて協力すると言う関係を結んでいたのだが、その頼るべき相手がブランデンブルクにも増えて問題の分散と国の均衡を図ることができるようにもなったと言う事だ。
ヘルフリートの契約は、それ一つで世界に大きな波を齎す。それを上手く利用して今以上の平穏を実現しようとしているのだろう。
少し面倒な大人の、政のお話。だがそんな地盤の上に世界がまた少し動いたというのは、人の世より妖精を追い駆ける身としても中々に無視出来ない話なのだ。
個人的にはやはり、ヘルフリートとエルゼ女史に関わりが出来たというのが興味の中心だが。
「まぁそれも含めて今年の会談でしっかり話し合うとしようぞ。それまでに、こちらからも手土産を準備せねばな?」
「……微力ながらお力にならせていただきます」
「謙遜はいい。期待しているぞ」
「お任せください」
陛下の見立てでは、先ほどのカドゥケウスの話は簡単に片が付く話だとは考えていないらしい。それこそ、今年の秋に開催される四大国会談にまで縺れ込むとの予想だ。
当然それまでに解決できればよし。そうでなければきっとそれは国ではなく世界の案件。歴史の行く末を左右しかねない決断は、各国の長が寄り合っての決断だ。ならばその場の力になれる結果を今から見据えて準備するのが託された役目。
そう考えて恭しく頭を下げれば、畏まったやり取りに仕方ないと笑うグンター。と、それを不思議そうに眺めるピスとケスの視線が馬車の中に入り混じったのだった。




