第二章
「うぅ……緊張する…………」
思わず呟いて浅い呼吸を一つ。それから意識して深呼吸をすれば、門扉に備えられた呼び鈴を押す。
家より二周りは大きな屋敷。それも初めてお邪魔する友人宅ともなれば緊張しないわけがないと。
そしてそれ以上の理由が目の前の屋敷の中にいるのだと思うと息が詰まる。やばい……何をどうしていいか忘れそうなほどだ……!
「いらっしゃいませ、アリオン様。どうぞ中へ。ご案内致します」
幾ら深呼吸をしても落ち着かないと。うるさいほどの心臓の音に更なる緊張を重ねていると、掛けられた声に顔が跳ね上がる。見ればいつの間にか目の前には使用人が一人立っていた。
皺一つ無い綺麗な仕着せに身を包んだ女性。すらりと伸びた立ち姿が潔癖さの中に包み込むような優しさを感じさせる人物。そんな彼女の導きに知らず足が出て、送れて挨拶を口にした。
「お、おはようございますっ。お久しぶりですジネットさん」
「お名前を覚えていただけていたとは恐縮です」
柔らかく笑って答えた彼女はジネット・シンストラさん。ここ、アルレシャ家に仕える使用人で、前に一度カリーナ城内でお世話になったことがある。
その時の、全くこちらの邪魔にならない気遣いとは裏腹に、確かに記憶に残った印象の強い人物だ。
陰ながら支え、けれども決して障碍にはならない。まるで暗殺者さえ思わせるような身の置き方に、彼女こそ使用人の極地ではないかと思ったほどだ。
「いや、そのっ……お城のときはありがとうございましたっ」
「こちらこそ、ありがとうございます。お嬢様とも仲良くしていただいて……これからもよろしくお願いいたしますね」
「はいっ……!」
大人の微笑みにどう返していいか分からず、思いついた先から口にする。そんな自分が少し恥ずかしくなる。
……けれどもしっかり礼は言えたと。最低限は出来た事に少しだけ自信を取り戻して今日の目的を思い出す。
今日はピスに呼ばれてアルレシャ家での勉強会だ。
数日後に迫った試験。妖精憑きの成長結果として筆記と実技を問われる、学園に入学して初めての明確な考査対策だ。今回は主に筆記……座学方面の勉強。忍ぶ恥もないくらいにぼくよりも賢いピスに教えを乞う為にこうして家を訪れたのだ。
彼女との勉強会はこれで四度目。最初の図書館の時以降、時間が合えばこうしてできる限りの対策を重ねているのだ。
「お嬢様。アリオン様をお連れ致しました」
「入って」
「失礼します」
考えているといつの間にかやってきていた扉の前。木製の、歴史を感じさせる色合いのそれに小さく叩く音。次いで返った声は、もう聞き慣れたクラスターの友の物。
ジネットさんが礼儀正しく断って扉を開けば部屋の中にはピスが椅子に座って待っていた。
「おはよう、ロベール」
「お、おはようっ。今日もいい天気だなっ!」
「…………? うん」
挨拶に続けて思わず脳裏に浮かんだ言葉を口にすれば、ピスが小首を傾げて頷いた。その仕草に、遅れて要らぬ事を言ったと顔が熱くなる。いや、空模様は確かに晴れているけれど、関係ないって!
「直ぐにお茶をご用意いたします」
「お願い」
響いたのはジネットさんの声。耳障りのいい芯のある音に、それから閉まった扉でようやく詰まった息が口から零れた。
「どうしたの?」
「あ、いや、なんでもない……。それより勉強始めようっ」
「うん」
気になった事は素直に言葉にする。それが彼女達の性格だと知れば深い意味はないともう分かるけれども。それにしたって答え辛い事を訊かれると咄嗟に慌てはすると思いながら。
次いで思考の中に過ぎった景色が目の前のそれを重なって違和感を描いた。これまでの勉強会でも幾度かあった感慨だが、今日この場所でまで……となると流石に拭い難い。意を決して問う。
「……今日は、ケスは?」
「知らない。話をしてない」
「そ、そうなんだ……」
返った言葉に、それから少し居心地を悪くする。
と言うのも、今回のこの勉強会はそもそもぼくの言い出した事に端を発するものだ。元は幼馴染であるシルヴィに向けた宣戦布告。今度の試験の結果で勝負をしようと言う、最早真新しさもない闘争心だ。が、それに反応を示したのがピスとケスの二人。そこから巡り巡った話でぼくとピス、シルヴィとケスが組んで競うと言う形になったのだ。
公平を期す為にと言う理由からすれば別に問題はない。そう思って頷いた提案だった。
だが思わぬ弊害がその後起きた。ピスとケスが面と向かって会話をしなくなったのだ。
何故と訊いてみた所、勝負だからと答えが返った。短い言葉だったが、その後の雰囲気で何となく察した。
どうやら双子の二人が互いを敵と定めて勝負する。その事にいつもの仲良しな空気に一線を引いて、会話をしなくなったらしいのだ。加えて、会話だけでなく学園内で一緒に行動する事も見かけなくなった。一緒にいるのは下校の時に四人肩を並べたときくらい。それ以外は互いに近付こうとせず、その距離を埋めるように互いの相方……ピスの場合はぼくと一緒にいる時間が増えたのだ。
これまでずっと鏡合わせに二人だけの世界を描いてきた双子。そんな彼女達が仲違いでもしたように口を利かない姿が奇異に映るのは当然で、そのことでよく質問をされた。
原因としては当然自分にあると分かっているから、どうすれば今の状況が元に戻るのかも当然理解してる。だから周りには一時的なものだと答えてどうにかそれ以上を抑えている現状だ。
そんな二人の距離感は、どうやら家の中でも継続中らしく。きっと試験が終わって結果が出るまではこのままを貫くのだろうと最早諦めている。
こんな事なら勝負なんて言い出さなければよかったと。片割れのいない目の前の不完全さに寂しささえ感じながら、どうにか勉強を開始した。
しばらくしてジネットさんがお茶を用意してくれた。香りのいい紅茶と共に果物の入ったルラードを出してくれる。
ルラードとはケーキと同じような生地で凝乳と果物を円柱状に巻き、食べ易いように切ったお菓子だ。今回は柔らかそうな黄色い生地だが、色々練り込んで味を変えたり、上に飾りをしたりと様々な変り種があり、誕生日などの祝い事でもよく食べられるお菓子だ。
「手作り?」
「はい。ご友人がいらっしゃるとのことでしたので」
「えっと、ありがとうございます」
「お口に合うといいのですが」
ピスの声に答えたジネットさん。どうやらぼくが来るからと用意してくれたらしい。ならば食べないわけにはいかないと。
既に甘い香りのするそれを一欠片口に運ぶ。すると広がった優しい味に、思わず声が漏れた。
「美味しいですっ」
「ありがとうございます」
ケーキ類は基本祝いの菓子だ。記憶に新しいものだとこの前の誕生祭でジル・モサラーが売っていた王様の焼き菓子だろうが、あれと比べられないくらいに美味しい。
一応喫茶店の主として、彼が商品として提供する物は殆どが自作であると前にシルヴィに聞いた。だからあの焼き菓子もそうだったのだろうが、それと同等と言うのは最早専門の粋だ。
名家に陰ながら仕え、給仕をし、美味しい菓子まで作る事が出来る……。駄目押しのように優しくて、そんな人物がジネット・シンストラという使用人だと言えば、家にも欲しいと強請ってしまうほどだ。流石はこの国を支える家、アルレシャ家の使用人ということだろう。
こんな美味しい物を毎日食べられるという贅沢な環境に、ピスのことが少し羨ましくなる。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
思わず見つめていたらしく、視線に気付いた彼女が小さく首をかしげる。慌てて視線を逸らせば、それから逃げるように手元に集中を落とした。
そうして当初の目的通り試験に向けての勉強を詰めていく。これでも一応それなりの成績は修める身。目の前のピスには届かなくとも、上から数えた方が早いくらいには優秀なつもりだ。それくらいの自負はある。
それでも届かない頂が、今回の相方なのだろうと。いつもと変わらない表情の薄い瞳で手元に意識を注ぐピスの姿に、気付けば視線を奪われる。
人形のように精緻なつくりの整った顔立ち。頭の横からカライトソウのように垂れる亜麻色の髪。透き通った白い肌と、小さく上下した肩が華奢で、瞬きに長い睫毛が揺れる。触れたら壊れてしまいそうな繊細さに、細い喉が小さく動いて、思わず自分まで息を呑む。
まるで絵画の中の深窓の令嬢のように。窓から差し込む日差しが程よく世界を彩って息苦しささえ感じる。
そんな彼女が不意に顔を上げて、言葉も無く交わった視線から天色の瞳がじっとこちらを見つめた。
「わからない所ある?」
「え、あ……その…………」
馬鹿正直に見蕩れていただけだなんて、そんな気障な事を言えるはずもなく。濁した言葉で頷けば、ピスがこちらの手元を覗きこむように身を乗り出してくる。
刹那に、鼻先を掠めた女の子の香り。特別香水のような感じもしないそれは、多分彼女の匂いなのだろう。落ち着きよりも戸惑いが胸の中を掻き乱す接近に顔が熱くなるのを自覚する。
そんなぼくの狼狽を気にも留めない様子で小さく頭を揺らしたピスは、それから呟くように零す。
「74だよ」
「……え?」
「74」
「あ、うん」
一瞬何を言われているのか分からなかった彼女の声に。それから手元の問題の答えを言っているのだと気付けば、更なる疑問が頭の中に渦巻いた。
ピスが呟いたのは数式の答え。それなりにややこしい……途中式を書けばどうにか解けるという問題。それを、どうやら彼女は少し見ただけで暗算で解いてしまったのだと気付く。
……いや、ちょっと待って。
「え、今の一瞬でこれ解いたの?」
「…………?」
何を当然な事を、とでも言いたげに首を傾げるピス。その事実に戦慄する。
咄嗟に巡った思考で、次の問題をピスに見せる。
「じゃあこれは……?」
「359」
直ぐに返った答え。慌てて自分で解けば、一分ほど掛かってようやく同じ答えにたどり着いた。
……どうやら間違い無いらしい。彼女は本物だ。
いや、だからこそよかったと。彼女に教えを乞えばいい成績を残す事に間違いはない……!
そう確信してピスに尋ねる。
「えっと、どうやってそんなに早く解いたの?」
「だってそれが答えだから」
「へ……?」
「……?」
ん……? …………あ、なるほど。
疑問が、変に巡った頭で自己解決する。ピスにとって答えは答えでしかない。それだけの事らしい。
多分今ぼくがそうしたように、彼女の中で自己完結しているのだ。だから理由や根拠が返らない。
そんなピスの規格外に渇いた笑みを零す。これでは彼女に教えてもらうという作戦が台無しだ。……いや、答えだけなら直ぐに彼女は教えてくれるのだろうが、解き方の説明まではしてくれないだろう。そもそも説明できるほどの過程を彼女が持っているのかすら怪しい所だ。
そんな事実に気付いてしまうから、目の前の少女がこちらの思惑の斜め上を悠然と歩いて行く事実には諦観しか湧いて来ない。
やはりピスは常識では語れないと。娯楽でも楽しむように少しだけ面白くなってくる。
だからこそ、いつも予想外な彼女に気持ちが動いてしまうのかも知れないが。
「…………すごいね、ピスは」
「? ありがと」
納得のいっていない様子で呟くピス。彼女を理解するなんて一生出来ないかもしれないと、無謀に蛮行を重ねるような想像は、それが潰えない事にこそ自分をおかしく思いながら。
「ん。勉強、頑張ろうか」
「うん」
自分に言い聞かせるように音にして、それから不必要な事を切り捨て集中していく。
当初の予定とは随分と離れた結果だが、大丈夫。普通にやってシルヴィに勝てばいいのだ。
いつも通りでいい。その事に今一度気付かされて、きっかけをくれたピスに感謝をしながら気持ちを切り替えたのだった。
* * *
「じゃあ喧嘩とかした事無いんだ」
「うん」
衝突など一切ない。そう澄んだ真っ直ぐな瞳で頷くケスに羨ましくなる。
生まれた時からずっと傍で見つめてきた顔。自分と同じ、鏡写しの……ともすれば中身まで一緒の片割れ。そんな人生の伴侶とも言うべき姉妹に、隣のケスは憤りを感じた事がないという。
あたしなんかは、気付いた時には幼馴染として一緒に歩いて来たロベールと、最早数え切れないほどに衝突を繰り返してきたというのに……。少しだけ不公平を感じてしまう。
「それってやっぱり自分と似てるからなの?」
「たぶん?」
疑問には、惚けたような返答。どうやらケス自身も分かっていないらしい。
そもそも彼女達に怒ると言う感情があるのかと問いたい所ではあるのだが。なんにせよピスとケスが仲違いをした事はこれまで一度もないと言うことのようだ。
「だったら今回のこれって二人にとって何?」
「勝負」
そこはしっかりと断言したケス。あぁ、だからあたしのように執着せずに、あたし以上に固執しているのだろうと納得する。
あたしとロベールの間にあるのは、勝負以上の目に見えない衝突だ。幼馴染として負けられないから。あたしとしては、彼に置いていかれたくないから。
そんなわがままで必死な思いが、今回の勝負を作り出してピスとケスを巻き込んでしまった。
けれども二人はそれに満たない……別の土俵で勝負しているのだろう。
これまでなかった二人の間での競い合い。実際は、あたしとロベールに委ねられた代理戦争。他人に依存するその結果に、彼女たちは自分達では及ばない未来を望んでいるのだ。
なんと責任重大で、なんと茶番染みているのだろうか。そんな二人を知ると、本気になっている自分が馬鹿に思えてくる。
「……勝ちたい?」
「勝てる?」
「どうだろ。負けたらごめんね」
「大丈夫」
曖昧で不明瞭な未来予想図に卑怯な先周りをすれば、それでも特別拘泥しないケスがいつもの無表情でこちらを見つめた。
責任転嫁はしていない。これは多分、単純に楽しんでいるだけなのだ。
そこまで達観と無関心を貫ける面持ちは、あたしには理解できないけれど。それでも少しだけ気が楽になったのは確かだ。
「シルヴィはどうするの?」
「え……?」
「お願い」
一つほど跳んだ気がする話題。相変わらずな呼吸にどうにか付いていけば、脳裏を巡るのは幾つかの想像。
今回の勝負、勝った方には相手を好きにできる権利が与えられる。あたし個人としては、その殆どがロベールに係わる事だと言えばとても即物的で感情的なことだと呆れられるけれども。そう問うケスはどうなのだろうかと逆に疑問が湧く。
「あたしは沢山ありすぎてまだ決まってないかな。ケスは?」
「多分ピスと同じ」
「……そっか」
それが、既に確かなものを持っているが故の答えなのか。それともまだ答えを持たないという答えの迂遠な回答なのかは分かりかねるけれども。ケスがピスと同じだというのはなんとも当たり前すぎて安心する話だ。
「じゃあまずは勝たないとねっ」
「うん」
あたしは自分本位に。ケスはきっと、ほぼ無関心に。目の前の勝負に意欲を燃やしてケスについて部屋に入る。と────
「え…………?」
「あ…………?」
交わった視線で、似たような音が喉の奥から絞り出た。
視界の中でこちらを見つめるのは、ともすれば自分の顔よりも見た気のする……幼馴染のもの。
何で彼がここに────アルレシャ家に…………と巡った思考が疑問の解消を求めて音にする。
「なんで、いるの……?」
「そっちこそ…………」
返った言葉に、どうやら彼は狙ってこの景色を作り出した様子ではないと頭の片隅が気付く。と言う事は、これは偶然と言うことだろう。
…………あぁ、いや。うん。多分そういうことだよね。流石は幼馴染、とでも言えば少しは嬉しいって思えるかな……? ……いやいや。競い合ってる状況下でそんなに甘えられるほどあたしも馬鹿じゃないか。
「……一応訊くけど、何してるの?」
「シルヴィだって」
「訊いてるのはあたし。いいから答えて」
詰問でもするように少し強く問いを重ねれば、仕方ないと言った風にロベールが呟く。
「……ピスに、勉強を教えてもらおうと思って…………」
「やっぱり…………」
全く。幾ら気付いた時から一緒に過ごしてきた……それこそきょうだいのような関係だからって、考えることまで一緒だなんて呆れる話だ。ここまでくると最早気持ち悪い。
「っ! まさかシルヴィも……!」
「気付くの遅すぎ。はぁぁ……」
色々なものが崩れて溜め息しか出てこない。と、ロベールの向かいに腰をおろしたままのピスがじっとこちらを見つめている事がようやく頭の中に入ってきて。次いで隣に立つケスがロベールを見つめている事になんとなくの最終確認をする。
「ねぇケス。この事知ってた?」
「知らない」
うん、そうだよね。家でも話をしてないって言ってたもんね。
と言う事は、だ。恐らくその始まりから全く一緒なのだろう。
今回の勉強会、あたしはロベールに勝つ為にケスに頼んでこの場を設けてもらった。多分あたしが言わなければケスの方から言ってくることはなかっただろうと想像出来る。
そしてそれはロベールの方も同じで、きっと彼の方から言い出したのだろう。結果、ピスも頷き、場所としてこの場を提供したと……簡単に纏めればそんなところか。
今更、どっちが早くに約束を取り付けたかなんて醜い争い。流石にそこまでして相手を蹴落とそうとはあたしは思わない。……ロベールはどうかは分からないけど。
「…………さて、どうしよっか……」
最早言い逃れできない現状。あたしもロベールも、恥など捨てて仲間に頼ったという決断は、これ以上踏み込むべきではない暗黙の了解として悟っている。大概鈍臭いロベールも、驚きで固まった思考は既にいつも通りに戻ってきていて、次を探し始めているだろう。
もちろん、この場をどうするかと言うもの。そしてそれ以上に、次の一手を、だ。
相手に隠れて勉強しようとしていた。それが露見した以上、更なる手段を講じなければ勝負の結末を左右はしない。けれど選択肢は多くなくて……だったら多分あたしもロベールも考える事は一緒のはずだと。
そう至れば、小さく息を吐いたロベールが口を開く。
「シルヴィ」
「ん、分かってる」
今この瞬間で言えば、あたしとロベールはピスとケスにも劣らない意思疎通が出来ていた事だろう。幼馴染って厄介だね。
胸の内で小さくそう吐き出して、それから踵を返す。
「ケス、他の場所ってある? そっちで勉強しよう」
「……分かった」
何かを考えていたのか、遅れて頷いたケス。反応が一拍空くなんて珍しい事もあるものだと小さく驚けば、足を出した背中に声が響いた。
「シルヴィっ。負けてやるつもりは無いからなっ!」
「じゃ、頑張って勝ったときのことでも考えてれば?」
突きつけられた言葉に、真っ向から声を返す。そんな一言で今のロベールが動揺するとは思えないけれど。少しでも浮ついて集中できなくなればそれでいいと精一杯の抵抗をして。
喧嘩をするわけでもなく溝を横たえ部屋を後にした。
僅かに遅れたケスが隣に並んで歩き出す。
「で、どこで勉強しよっか?」
「ここじゃない方がいい?」
「そこはお任せ……あ、いや。うん、そうだね。別がいいかも」
更に重ねる企み。ロベールにはあたしがここにいることがばれてしまった。似たような環境で勉強をしようとしていると知られてしまった。だからこそ彼だって意識せずにはいられないはずだ。
だったらあたしは、彼がそうしてるうちに集中出来る場所で少しでも準備をすればいいだけの事。
仕える状況は全て使う。だから今ここにいる。ロベールだってそうしているんだから、今更遠慮なんて要らない。
「でも家じゃないとなるとどこがあるかな……?」
全てを賭して勝つ。知ってしまったからこそ、ロベールには負けられないと。胸の内で意欲を燃やして呟けば、廊下の先からジネットさんが姿を現した。
「おや、どうかなさいましたか?」
「なんでもない」
問いかけは、どうやらケスの顔色を見ての事。ちらりと伺ったがいつもと殆ど変わらない表情の彼女。ジネットさんは一体何に気付いたのだろうかと少しだけ疑問が募る。
ずっと傍で見ていると些細な変化にも気付くようになるのだろうか。なんとなくの疑問を募らせていると、ケスが続けて口を開いた。
「ジネット。静かな場所知ってる?」
質問には、少しだけ思案したようなジネットさん。それから彼女は特に何も訊かずに恭しく答える。
「……でしたら国立図書館などはいかがでしょうか?」
「ありがと。シルヴィ、いこ」
「あ、うん。失礼します」
「はい。どうぞお気をつけて」
国立図書館。そう言えばそんな施設も近くにあった。ジネットさんの声にその建物の事を思い出す。
カリーナの象徴と言えば当然、この国の中心であるカリーナ城だ。けれども観光名所と言うならば地元民としては国立図書館を推したいと言う意見が意外と多い。
カリーナは国を挙げて勉学に力を注いでいる。だからこそ世界でも有数の教育機関がカリーナには集中しているのだろうけれども。勉強とは即ち過去からの積み重ねを糧にし、未来へと想像の翼を広げる土台。その叡智の保管庫として、国立図書館は城に次ぐ大きな建造物として存在感を示しているのだ。
そして、これはカリーナだからこそなのかもしれないが。カリーナの図書館は随分と賑やかだ。
もちろん不必要な会話は無く音としては静かなのだが、人の出入りが多いというか……この国で最も一般に利用されている施設が図書館なのだ。この盛況さは、他の国ではあまり見られないものだと母親に聞いた。
逆に、あたし達からすればどうして図書館を頻繁に利用しないのかと言う疑念こそ募るほどに、あの場所には様々なものが眠っている。知識の宝庫を利用しないだなんて、損をしているとしか思えないくらいだ。
そんな、国の……世界の知識が詰まった建物に、ケスと二人でやってくる。
当然入館料は無料。本を読む事も自由で、禁帯出の本以外は借りて行く事も出来る。妖精に関する本も沢山納められていて、あたしたち妖精憑きにとって宝の山なのだ。
ともすれば迎賓館や宿泊施設と間違われかねないほどに大きな建物。その玄関口には、大きく訓示のようなものが掲げられている。
知識は知恵と交わりて新たなる真実を探求する。
発見はいつだって思いつきや偶然から。けれどその全てには土台として確かな知識ありきの結果論なのだ。だからこそ、学ぶ事は新たなる発見の開始点であり、そのものを形作る第一歩。ならばこそ学べよ向上心在りし者よ────
そんな思いを束ねた言葉を仰ぎ見て、確かな目的の為に図書館を利用する。
館内には研究職らしい人が沢山歩きまわっている。世界を支える彼らはあたし達が目指すべき未来の一端だと尊敬しながら、邪魔にならないように勉強に使えそうな本をいくつか選んで机へ。
ケスと向かい合って腰を下ろせば、勉強に入る前のちょっとした休憩に館内を見渡す。と、同じ事を考える同年代の生徒らしき姿がいくつか散見できた。
誰だって馬鹿になりたくて生きているわけではないのだと。静かに手元へ没頭する彼らから視線を外し、小さく深呼吸して目の前のケスへと焦点を結ぶ。
「……よし。じゃあ始めよっか」
「うん、がんばる」
心なしかいつもより真剣な気のする向かいからの声に、あたしも一層集中して。そうしてあたしたちは……主にあたしが教えてもらいながらだけれども、二人で勝つ為に勉強へと意識を傾けたのだった。
* * *
「…………始めっ」
合図と共に試験用紙を裏返す音が教室内に響く。一拍の空白の後、回答を書き込む心地よい音が波のように広がっていくのを聞いて、椅子に座り教卓に向かう。
試験の開始を合図すれば、教員がやるべき事は限られる。試験に慣れれば、生徒が不正をしないか気に掛けつつ、他の教室の採点も出来る。それくらいには、この学園の生徒は優良児ばかりだ。
今年入ったばかりの新入生たちも、緊張こそしているようだがいい子達で。真剣に試験に取り組む様子は何度見ても素晴らしいものだ。
試験が始まってしまえば私達教師に出来る事は何も無い。少しだけむず痒く、生徒を信じて見守るだけだ。
と、緊張からか文具を落としてしまったらしい音が教室内に響く。直ぐに拾って戻してあげれば、再び教卓に戻った。
そんな風に、特別変わった事が無ければ手のかからない子達の様子を見つつ。間違いなく手元の採点をこなせば、やがて試験の終了を知らせる鐘が鳴って、教室内に緊張の弛緩する雰囲気と様々な感情が溢れる。
「はい。それじゃあ後ろから解答用紙を集めてくれるかしら」
廊下の外からも、別の教室の雰囲気が伝わってくる。試験が終わる度に味わう何とも言えないこの客観的な空気は、教師の特権かもしれない。
そんな事を考えていると集められた用紙を順番にまとめて受け取り、ざわつく生徒を宥める。
「はい、静かにして。…………それじゃあ午後からは実技の試験を行うから、服を着替えて運動場に集合ね」
気を引き締めなおすように告げれば、返った声に頷いて教室を後にする。
この後は昼食を挟んで実技の試験。とは言ってもこちらは試験勉強で溜まった鬱憤を晴らすのが半分目的な、それほど重要ではないものだ。実技でしっかり実力を測るのは、学期末に行われる試験の時。それもまた楽しみだが、今回はとりあえず初めての試験を労うとしよう。
運動場に集まった生徒達に説明を終えて準備に移る。実技試験の名目で催されるのは妖精術を用いた仮想訓練だ。
結界で区切った中にクラスターが二組入り、先に相手の旗を取った方が勝ちとなる。大きな危害を加える目的の妖精術の使用は禁止。壁などの妨害はあり。拘束された者は失格となり参加資格を失うという、仲間内での協力が不可欠な勝負だ。
普段はその授業毎に決まった妖精術の勉強しかしていないが、今回はその制限がない、各々の実力が問われる場。加えて春に組んだクラスターの連携の呼吸が試される。
仲間と協力する事を忘れず、守って勝つ。策を巡らせ、咄嗟の状況判断を下し、勝利まで諦めない仲間と共に歩む戦い。得られるものは大きく、こちらとしても生徒の潜在能力を見極められるいい機会だ。
「準備はいいかしら? …………では始めっ!」
合図と共にそれぞれの試合が動き始める。クラスターによって様々な展開は、目まぐるしく騒がしい。当人達からすれば一所懸命なのだろうが、どこか微笑ましささえ感じる光景だ。
と言うのも、まだ入学したてのメゾン級である彼らは共に歩む妖精が傍には居ない。その為、大きな妖精術が使えず、そこまで派手な様相は呈さないのだ。精々が壁を作ったり妖精力で牽制したりと言う程度。中には属性妖精術を使いこなす者もいるが、それは個人の資質だ。得意不得意を比べた所で意味は無い。単純な実力で劣るならば、それを覆す策が光るだけだ。
そこかしこで虹色が煌めく景色の中、早くも幾つかの試合が終わっていく。それは単なる実力差であったり、奇策であったり、人数差であったり。状況を揺るがす何かが作用して勝敗を分けていく。
と、そんな中で一際激しい攻防が繰り広げられている結界を見つける。微かに広がった土煙に、危険であれば止めようと意識を向けたところで、その中にいる生徒に納得のような何かを見つけた。
クラスターの片方はかの双子の属するところ。彼女達の組は、前にシルヴィ・クラズとロベール・アリオンを据え、旗を守る後衛にピス・アルレシャとケス・アルレシャの二人を配している。
双子の得意とする属性は私と同じ地。そんな彼女たちは、メゾン級の中でも頭一つ抜き出て妖精術の行使が巧みだ。前に課外授業をした時にもその片鱗を垣間見る事が出来た。
鏡写しの彼女たちは、視線を合わせる事無く同時に妖精術を使い、土の壁で相手の行く手を阻む。地の属性は基本的に場所に左右されない強さを持つ。空中にでもいなければ大地の助けを借りて大規模な妖精術を使いやすいのだ。また、土や岩を作り出す事に長けたその分野は、他の属性と比べて比較的物理寄りな結果を手繰り寄せる。
厳然たる壁、迫り来る腕。宛ら大地と言う母から生み出された生命のように。想像の翼を実体化させ、阻み捉える鉄壁を描き出す。
彼女達の前では、同年代の突破は厳しいかもしれない。属性の乗算でも行えば話は別だろうが……。
そんな二人の防衛を背に、相手の旗を狙うのは幼馴染だと言う二人。水を得意とするロベール・アリオンと、風に秀でたシルヴィ・クラズ。座学ではロベールの方に軍配が上がりそうだが、妖精術の扱いに関してはシルヴィの方が上と言うのが、入学に際して得た情報を精査しての私の見立てだ。
個別にもそれぞれ見込みのある二人。そんな彼女達が足並みを揃えれば、幼少の頃からの呼吸が他の追随を許さず、目を見張る連携を紡ぎ出す。
駆けたシルヴィの後ろから、波濤の進攻が相手を襲う。そのままではシルヴィまで巻き込むと言う奔流を、けれども一瞥さえくれずに小さく跳んだ彼女が次いで押し寄せた水面を跳ねて移動する。微かに見えたのは、着地の際に放射状に飛び散った飛沫。その露骨なまでに綺麗な同心円状の波紋は、恐らく足の裏に作り出した風の足場の結果だろう。
水に風を重ねて一瞬の足場を作り出し、水面を走る彼女。もちろんそれはシルヴィの繊細な技術だけでなく、歩調に合わせるロベールの水を操る呼吸あってのものだ。
飛沫の羽根を疾脚の残滓にして。瞬く間に距離を詰めた彼女が相手の生徒と接触する。地と風を得意とするらしい二人は、それぞれに水の侵略を防ぎながら、旗を狙おうとするシルヴィに応戦する。
彼女を拘束しようと伸びた土の腕と、進行を阻む風の刃。数的不利な抵抗に、けれども属性で有利な土の拘束は跳ね除け、逆に術者を風で拘束する。次いで対峙した同じ属性の相手には…………しかし仕掛けることは無く何かを待つように距離を保った。
するとその睨み合いの陰から這い寄るように、足元を流れていた水が生徒の後ろの旗を巻き上げて確保した。
シルヴィが敵の注意を引きつけ、その間にロベールが旗を奪取する。どうやら最初からそんな策で挑んでいたらしい。流石の連携だ。
勝負の着いた結界が次々に解けていく。そんな景色の中で、掴んだ勝ちを掲げる四人はとても嬉しそうで。旗を守る双子への信頼と、旗を取りに行く前衛の勢いがあるからこそ、互いが作用して確かな勝利に繋がる。あの四人は、独特な空気の二人とよく口論をしている二人と言う、協調性があまり感じられない集まりだが、しかしいざという時は仲間として動ける優秀な組と言う事だろう。これで勉強を重ね、相棒との契約を果たした彼女達が一体どこまで成長するのかと言う期待が膨らむが……先生としては普段からもう少し仲良くしていて欲しいかな。
そうこうしていると全ての試合が終わって様々な感情が辺りに入り乱れる。
「怪我をしている人は居ないかしら? いたら手を上げてね」
一応安全に配慮した上で行ってはいるが、絶対はありえない。何より彼女達の未来を支える大人として、無茶だけはさせられないのだ。
ゆっくりとでも、確実に成長できるように学園の授業は組まれている。もちろんその全てに従う事を強制しているわけではない。最終的な判断は彼女達自身に。自分で考え決断する事が出来る自立と自律は、彼女達が自ずから見つけるべき答えだ。我々は、その手伝いをしているに過ぎない。
けれどだからこそ、責任を持って生徒の模範たれと確かな道を示すのだ。
「少し休憩したら次の試合を開始するわ。もし可能であれば、次はそれぞれ別の策で試合を組み立ててみてね」
子供の発想力は侮れない。そこからこちらが学ぶ事だってあるのだと、共に歩む事を意識しながら助言をしつつ。自分の足でも生徒の様子を見て回る。
時折向こうから話し掛けてくれる生徒との距離感は、彼女達の教師として信頼されている証だと嬉しくなる。
個人的な矜持のような何かとして、代わり映えのしない座学で最も必要なのは、生徒達の自主的な意欲だと思っている。勉強が苦手な子、得意不得意がはっきりしている子。どんな学び舎にもそういう生徒は存在する。そんな子達と、勉強が出来る子達の違いは、個人的な資質では無いと考えるのだ。
それは単純に、勉強に興味が持てるかどうかと言うだけの事。学校と言う場に限れば、その教科を、勉強を教える人物を好きになれるかと言う話だ。
好きな事には興味が湧き、集中して取り組むようになる。その極個人的なやる気の始まりを、いかにして刺激し耳を傾け目を向けさせるか……。それが教師である我々に必要な力だと思うのだ。
彼女達が楽しめる授業を。興味の湧く話し方を。覚え易い教え方を。
そんなことよりもまず、彼女達に私と言う一人を好きになってもらう事から全ては始まると思うのだ。
必要な事は当然こなす。その上で、少しでも生徒に寄り添い、仲のいい先生として共に過ごす時間が楽しいと思ってもらえれば、授業だって苦にはならないはずなのだ。
最終的には生徒達の自主性に頼ってしまうのかも知れない。けれどそこまでの支えとして、こちらから歩み寄り共に学んでいくのが勉強だ。その姿勢は、テトラフィラの教育理念でもある。
一人を否定する事無く、仲間と一緒に前に進む。助け合わなければ生きていけない世界で、協力すると言う事を学ぶのも立派な勉強の一つなのだから。
「お疲れ様。どう、楽しんでるかしら?」
「うん」
「楽しい」
いつしかやってきていた例の双子の属するクラスター。皆にそうしていたように話しかければ、いつも通りの鏡写しは表に疲労を出す事無く平然と答える。
と、彼女達が肩を並べている事に気付いて、少しだけ安堵した。
試験準備期間に入った頃から、彼女達が学園内で一緒にいるところを殆ど見かけなかった。それは教員側でも話題になっていた事だが、どうやらまた前の距離感に戻ったらしい。
喧嘩をしていたのかは、詳しく訊いたりしていないため分からないが。とりあえずまた二人で一緒の所を見られるのは、彼女達を担当する教師としても嬉しい話だ。これで職員室で肩身の狭い思いをしなくて済む。
「二人も、さっきの試合はいい連携だったわね」
「あ、ありがとうございます」
「ぼくがシルヴィに合わせてやったんだけどなっ」
「……これでも幼馴染ですから」
ロベールの言葉に一瞥をしつつ、言葉を飲み込んで笑顔を浮かべ当然の事だと胸を張るシルヴィ。
相変わらずな微笑ましいやり取りにくすりと笑えば、「次も頑張って」と激励した後、対戦相手で負けてしまったクラスターにも平等に声を掛ける。
入学に際して大統領陛下からもお達しがあったが、あの二人が国王のお孫さんだからといって特別扱いはしない。学ぶ機会と成長の伸び代はどんな生徒にも公平に存在するのだ。そんな一人一人に真摯に向き合って、立派な妖精従きになって卒業できるように手助けをするのが私の役目。
できることなら全員欠ける事無く進級して、大人の世界に旅立って行って欲しいのだ。
その為にも、今できることから少しずつ……。
「さて、それじゃあそろそろ次の試合を始めましょうかっ。組み分けは次の通りよ。確認したら相手を見つけて結界へ移動して開始を待ってね」
そう告げてしばらく待つと、それぞれのクラスターが相手を見つけて準備を終える。問題も起きる事無く真面目に取り組んでくれる彼女たちは、こちらとしてもとても助かる生徒達だ。
それから始まった試合を、再び危険が無いかだけ確認しながら静観。それぞれが出来る限りを駆使して未知の扉を叩き、高みを目指そうとする。
この様子ならば学期末の実技試験も問題なさそうだと安堵する。少なくとも誰かがいきなり欠けるような学級にはならなさそうだ。
考えている間にも、早い対決が決着していく。そんな中で視線が向いてしまうのは、やはり件の双子が属するクラスターだ。
もちろん贔屓をするつもりは無い。その一線はしっかりと自分に厳命している。だが、こうして何も出来ないながらに個人的な興味という物が疼いてしまうのは性格なのだろう。
教師としては誰もが皆愛しい未来の種だが、私個人としては彼女達の行く末が特別気になる所。表には出さないが、大人としてやはり少し心配は付き纏う。
一通りの試合を眺めて、注意は片隅に置きつつ。そうして視線を向けた先では、先ほどとは違い双子が前線を張って、幼馴染組が後ろで控えていた。
確かに違う策を試してみよう、とは言ったけれども……。流石にそれはあからさま過ぎると。それこそ、この試験期間中に仲違いの如く距離を置いていたあの組み分けで行動すれば、更に相手の虚を突ける筈だ。
いつも一緒な二人。だからこそその息の合い方は当然周りの知るところだ。それがいつだって通用するとは限らない。何かの拍子に分断されたりすれば、本来の力が発揮できなくなる。そんな状況下で打開する算段が立たなければ命にだって係わるかもしれない。
その為のこういった練習の場だ。仲間と共に歩む学びの道。一つに縛られずに、どんな可能性も考慮して挑戦できる甘えは、訓練だからこそまだ許される。その中で、確かなものに繋いでいけばいいのだ。
生徒の実力にはまだ余裕が見える。次の授業の時にでも少し考えてみるとしよう。
そんな事を思いながら勝負の行く末を見守る。旗を守るシルヴィとロベールは、少しだけ慣れない様子。恐らく守るより攻める方が性に合っているのだろう。が、いい機会だ。それも練習。
対してピスとケスの二人の方は安定している。……が、傍から見るに安定しすぎている感はある。
二人はきっと、視線さえ交わさずに連携を取ることだって出来るだろう。そう言う呼吸が、彼女達には存在する。だからこそ、その行動は基本的に息が合いすぎているのだ。
同時に他方向から攻めるのは間違っていない。順当な策だ。けれどそれが全く狂いなく繰り出される技であれば、受ける方も対処がしやすくなる。その呼吸を既に捉え始めているのか、相手の生徒も応戦に迷いが無い。
完璧な連携だからこそ、型に嵌りすぎて効果が薄いのだ。
彼女達だからこそな思わぬ落とし穴に、さて……私は彼女達をどう導いてあげればいいだろうかと思案する。
と、次いで起こった景色の変化は双子の方向から。指示を飛ばしたのはシルヴィで、彼女は敵の攻撃を一瞬だけ一人で受け、自由になったロベールを双子の援護へと向かわせる。
柔軟な判断。どうやら戦いながらも状況が見えているらしく、その冷静さは目を引くものがある。彼女にはそちらの才能があるのかもしれない。
ロベールが加勢したことで変わった攻撃の調子に対応がし切れず、相手の防御に隙が出来た。その僅かな勝機を見逃さず、当然のように鏡合わせな行動が確かな道を描いて勝利をもぎ取った。
今回は仲間に助けられた形。勝ちは勝ちでも色々と考えるところがある結果だ。
結界が解け勝利を分かち合う三人を、少し疲れたように眺めるシルヴィ。不意に彼女がこちらに気付いて視線が交われば、小さく笑みを浮かべた。
あの中ではまとめ役っぽい立ち位置の彼女。そんな少女に、とりあえずは任せてみようと決断する。必要であれば私の方から助言なりをすればいい。自主性と向上心は何物にも替え難い唯一無二だ。大人は大人として、子供を見守り陰から支えるとしよう。
それからしばらくして、全ての試合が終わり生徒を労う。
「お疲れ様。この後もう一戦。今度はもう少し大規模な試合をして見ましょうか。今回はそれで終わりね。いいかしら?」
問い掛けには少しばらついた返事。休憩を多めに取って、少し早く終わるとしよう。
次いでは複数のクラスター同士での団体戦。今まで以上に大変な試合だが、経験は何よりの力になると信じて。私は怪我をしたり体調が悪い子がいないかを確認する作業に足を出したのだった。
* * *
学園よりお戻りになられたお嬢様は、仲良く肩を並べてのご帰宅でした。どうやらここ数日のお二人の間の関係が元に戻られたようです。
学園の試験に関する部分で生まれていた距離は、その原因の収束によってまたいつもの日常へと戻ってまいりました。試験より前と全く同じ、こちらを向いた天色の双眸。澄んだまっすぐな瞳に、わたくしも安堵します。
「試験の程はどうでしたか?」
紅茶を注いで差し出せば、返ったのは当然とも言うべき声。
「いつも通り」
「同じ」
「それは結果が楽しみですね」
小さくこくりと頷いたお二人に笑みを浮かべます。
いつもとは違う数日を過ごしていたお二人でしたが、本人としては新鮮ながらも特別影響を与えるような事ではなかったご様子で。きっとどんな事があってもお嬢様の芯の部分が変わることは無いのでしょう。
「でも今回は勝負」
「負けないけど、負けたくない」
「そうでございましたね。アリオン様とクラズ様のご様子はいかがでしたか?」
勝つことより負ける事に重きを置くようなお言葉に、お二人の思いを垣間見ます。
お嬢様は、勝負の先に明確な勝ち負けを望んではおられません。競う必要を感じない……勝った先にその次を想像しておられないのです。
だからこそ、勝つことよりも負ける事の方が先に思い至るのでございましょう。
そんな勝負事として、今回の試験結果にてお二方は別々に勝負をなさっていました。ピスお嬢様がアリオン様と。ケスお嬢様がクラズ様と。お嬢様同士では着かない決を、お二人のご友人に委ねての闘いでございます。
勝った方が負けた方に一つ命令が出来る。とても子供らしい約束ですが、これまで競ってこなかったお二人にしてみればそれが新鮮だったのでしょう。
同じクラスターとして共に歩むご友人には、お嬢様の相方としての責任を背負わせてしまった事を使用人の身ながら少しばかり申し訳なさを感じてしまうのですが。けれどもそうしてお嬢様が他人に自分を預けられるほどに信頼していると言うのはとても珍しい事で。だからわたくしもとても個人的に行く末が気になっているのでございます。
アルレシャ家に仕える使用人としては、仕事に私欲を持ち込むなんて不義なる事だとは思います。ですがわたくしも、お傍付きでありながら一人の人間でございますからして。切っても切り離せない物が存在すると言うのはご容赦願いたいお話でございます。
「ロベールは頑張ってた」
「シルヴィも一所懸命だった」
「では試験の答案返却までしばしの辛抱でございますね」
お嬢様がクラスターを組まれた時に一応の身辺調査として集めた情報によれば、座学での成績はクラズ様よりアリオン様の方が少しばかり勝っているように感じました。
ですが一回限りの緊張の上で行われる試験。その時の問題によって、勝敗は未だ定まっては居ないのでございましょう。
後はただ、全力を賭したその結果を待つのみ。勝利がどちらに転んでも不思議ではございません。
「しかしお嬢様。勝負と言う事は恐らくそこに結果がございます。前にお話をお聴きした際には、勝った方が負けた方に一つだけご命令を出来るとのことでしたが。お嬢様はご自身が勝利された時の権利の行使をどのようにお考えですか?」
少しだけ踏み込んだ疑問に、けれどもお嬢様は特に気に掛ける様子もなくこちらを見つめてきます。
次いで少しばかり横たわった沈黙に、それから互いの視線を交わらせたお二人は、再びこちらを向いていつもの呼吸で小さな唇を開きます。
「まだ決めてない」
「どうしたらいい?」
「おや、これは少し困りましたね」
どうやらお二人の中で勝者の権限に対する考えはまとまっていないご様子……。いえ、これはそもそも考えていなかった、と言う方が正しいでしょうか。そんな雰囲気を感じます。
意外と欲の無いお嬢様に、小さく笑みを零して少ない知見から僅かながらの助言を致します。
「ですが勝負はお嬢様のものです。その勝敗に起因する結果も同じでございます。でしたらやはり、どうするかと言う決断は、お嬢様がなさるべきだと、わたくし個人は思います」
とても現実的な事を言えば、一時の戯れでございます。その結果に大きな禍根を残さないのであれば、度を過ぎない互いに納得した要求はそれほど大きな問題にはなり得ないでしょう。
「もしお嬢様がお互いに望む事が思いつかないのであれば、その相手を今回一緒に手を取った相方や、勝負した相手について考えてみてはいかがでしょうか?」
お嬢様の間に諍いはございません。だからこそ望む物は全てあり、それ以上の望みは生まれないのでございます。でしたらやはり、新たなる兆しは外からの影響に他なりません。
学園に入学してから、その日の出来事をほぼ毎日お話してくださるお嬢様。それが新たなる風に由来するのであれば、望みもまたお二人の中以外のどこかにあるのかもしれません。
「分かった」
「考えてみる」
「お嬢様にとってよき経験になる事を願っておりますね」
「うん」
「ありがと、ジネット」
「はい」
お力になれたのでしたら幸いと。笑みを浮かべて答えれば、お嬢様の成長に嬉しくなるのでございますっ。
* * *
「ほう、そんなことが……」
「ご報告が遅れてしまい申し訳ございません」
「いや、君が大丈夫だと判断しての事だろう。ならば何も問題ない」
「ありがとうございます、旦那様」
書斎で雑務の傍ら、本日の報告として娘に付けた使用人からの話に耳を傾ける。彼女の口から語られたのは、ここ数日の愛娘達の身の上のこと。
学園での試験に起因した様々な出来事は、けれどもこうして聞く分には賑やかな話だったと安堵も出来る。
それくらいには他に類を見ない物語であった。
いつも肩を並べて一緒に過ごしてきたあの二人が、他人に結論を委ねてまで向かい合った。そんな事はこれまで一度もなかったからこそ、驚きと共に嬉しさがこみ上げてくる。
人は一人では生きていけない。例え世界が完結しているあの二人だとしても、それは平等に当たり前のことだ。
そんな彼女達に、どうやら何かを預けられる相手が出来たと言うのは親としても嬉しい話。それが一年を共に過ごす級友だと言うのならば尚更だ。
「入学し立ての頃は少し不安もあったのだが、どうやら杞憂になったらしいな。よき友人に恵まれたようで何よりだ」
「お嬢様が選ばれたご友人ですからね」
信頼の篭ったジネットの声に、親ながら負けてしまいそうだと肩を竦めて最後の書類を片付ける。
すると話をしながら用意をしてくれていた紅茶が丁度目の前に差し出された。
「いつもありがとう」
「いいえ」
そこで「仕事ですから」と続けない辺りできた使用人だと一人ごちながら。少し深く椅子に腰掛け長い息を吐き出す。
「……それで、どちらが勝ちそうなんだ?」
「勝負は時の運ですから。ですがきっと、どのように転んでもお嬢様にとっては貴重な経験になる事でしょう」
口振りから察するに、彼女は今後同じようなことが起こり辛いと考えているのだろう。まぁあの二人も特別結果に固執はしたりしないだろうし、当然と言えば当然か。
まぁジネットの言う通り今回の事がいい経験になって、あの娘達が成長する糧になればと思う。二人だけでいるといつまでも停滞をしかねない鏡写しだ。外からの影響でいい方向に変化が生まれる事を期待するとしよう。親にだって教えられない事は存在するのだ。
「お話は変わりますが、旦那様。陛下からのご用命はお嬢様には」
「あぁ、そう言えばそれがあったな。何か忘れてると思ってた……」
言われて思い出した重要案件。丁度昼間、城に出向いた時に父親であるグンターから言われた話が脳裏に蘇る。
何でもカドゥケウスのことで二人に協力して欲しいとのこと。
カリーナにとって大きな存在であるカドゥケウス。かの者が双子に用とは少しばかり気になるが……話題に挙がらないわたしが顔を覗かせて面倒でも起こしてしまうと事だ。そちらに関してはヴァネッサが同行すると言っていたから彼女に任せるとしよう。
「明日にでもわたしの方から伝えておくよ」
「畏まりました」
いつも一歩引いたジネット。いつも揺るがないその姿勢に、だからこそ生き抜きも必要だろうとこちらから提案。
「ジネット、この後は?」
「急ぎの仕事は特にございません」
「ふむ、ならばまた少し付き合ってくれるか?」
「……分かりました。では直ぐに準備をしましょうか」
何かを切り替えるような間を空けて。それからいつもより少しだけ口調を崩したジネットが微笑む。
今宵もまた、大人の楽しみを。さて、今日のお供は一体なんだろうか。
礼儀正しく腰を折って用意に向かった彼女を見送り、椅子を半回転させて窓から外を眺める。どうやら今日は、綺麗な月夜らしかった。




