Rezume
第一章 Rezume ~桜の少女との再開~
『人は技術を発展させ、技術は人を衰退させる。』
それがぼくの中でのモットーだった。
技術者は常に技術を発展させ、他者と競争する。
その競争の恩恵を受け、今のぼくたちの生活がある。
しかし、人は技術の発展の代わりに、人だけに与えられた言語や人間にしか出来ないコミュニケーション能力といった『贈り物』を差し出しているんだと思う。
技術が飛び交う毎日を、ぼく達は無意識に過ごしている。
無意識に過ごすからこそ、技術は当たり前の存在になり、人としての機能が衰退する。
ぼくはそんな毎日を、どこか寂しげに感じていた。
結局のところ、ただ進化していく技術に嫉妬していただけかもしれない。
ぼくは去年の高校一年の夏、一時期的に世界に名をしらしめたことがあった。
それは、ぼくが所属している技術研究部で、ある研究をしていたときだった。
ぼくは実験として、タンポポからエネルギーを取り出す実験を行っていた。
タンポポはどこにでも咲いている植物だったので、新しいバイオテクノロジーが取り出せれば、今のエネルギー問題を解決できる気がしていた。
部員からは「時間の無駄だろ」と言われたが試さずにはいられなかった。奇跡は、突然にぼくに結果を与えた。
研究をはじめて二ヶ月後に世界の技術者が震えた。ぼくはタンポポからバイオテクノロジーを取り出すことに成功した。
そのエネルギー名は後に『妖精の涙』として世界に名をあげた。
妖精の涙が持つエネルギー量はサトウキビが出すエネルギー量の約7倍あるとして、今ではほとんどのエネルギーを妖精の涙が賄っている。
研究を行っていた期間、ぼくは人だけに与えられた『贈り物』を新たな技術の開発に代償として差し出した。
その影響で、ぼくは一時的に人としての生活がおくれなかった。
頭の中が数式などの科学的な情報で埋め尽くされ、コミュニケーション能力が低下し、しばらくは病院通いだった。
まともに話せるようになったのは、半年ほど前の事だ。
その研究のせいで忘れていた幼い頃の記憶もある程度思い出したのだが…
それでも、なにか大切なことを忘れている気がした。
幼い頃に起きたはずの『なにか』が、記憶からくり貫かれたかのように思い出せなかった。
それでも昔に…そう遠くない昔に、なにか大事な約束をしたことだけは、しっかりと覚えていた。
──そして時は遡り現在。
今日もまた学校が終わり、ぼくはいつも通り部室に向かう。ぼくの所属している『技術研究部』は部員は四人で構成されており、全員が何かを成し遂げてある。いわばエリートの巣窟だ。皆が自分の中に目標を持ち、その目標に毎日励んでいた。
そう。以前までは…
ぼくは部室のドアを開け中に入る。するといつも通りに一つ上の、同じ技術研究部の部員であり、部長の琴峰 綾乃先輩がこちらに全力疾走してくる。
彼女の右手には小ぶりのナイフ。恐らくプラスティック製だろう。彼女はそれをぼくの心臓に突きつけると、倒れこんだぼくを見て泣き真似をしながら叫ぶ。
「なんなの…なんなのさ! たけしはそんなにもあの娘の事が好きなのかい?」
「いきなりなにするんですか! ぼくはたけしでもないし、ましてや好きな人もいません! それにそのナイフ引っ込むとは言えども結構痛いんですからね!」
彼女は見ての通りの変人だが、かなり男子から人気があるらしい。黙っていればかわいいお人形さんなのに……もったいない。
彼女は去年に、ある発明をした。作ったものは犬のロボットなのだが、学習機能が備わっていて、それが評価され全国のおもちゃ屋さんにその商品を並べた謎の秀才だ。
「ほっホントに⁉ ツカサは好きな人とかいないの⁉」
「えっ? あーうん。いないけど…どうしたの? 顔赤いよ?」
そんなぼくたちの会話を聞いて顔を赤く染め上げている少女は幼なじみである岩崎 弥生。
黒色の髪をポニーテールでくくっていて、顔立ちもいい方だ。
彼女は去年の暮れに自作ゲームを出版し日本中で大ヒットを叩き出したことがある。シナリオに編集、どちらも凝っていて、実際にプレイして泣かされたものだ。
「ははは。お前達はいつも変わらないなあ。ツカサ~お前そろそろ刺されるぞ~」
そう言ってぼくに恐怖の未来予知を仕掛けてきたのは、綾乃先輩と同い年の三谷 拓磨先輩だ。
頭もよく、運動もでき、しまいにはイケメンというバケモノじみた先輩だ。
中学三年のときに発明した独自のプラグラムが絶賛され、今のオフィス用のパソコンに必ず入っているプログラムを開発し、名をあげたことのある天才プログラマーだ。
そしてここ、ぼくの所属するクラブ、『技術研究部』は数年前の活気を無くし、娯楽室へと変わり果てていた。
去年までは研究用として使われていたパソコンもゲームをするためのパソコンになり、ホワイトボードに書かれた目標も半年前に書いたまま、更新されていない。
そう。ここは『元秀才達』が集う、娯楽施設だ。
数か月前から皆が目標を無くし、今は自由に時を過ごすようになった。
そして今日も、いつも通りの時間を過ごすつもりだった。
しかし、それは顧問の登場と共に幕を閉じた。
暦は春、正式に言えば梅雨の時期。『ぼくに遅い春が訪れる』
そう感じたのは顧問の山城先生が、ある生徒と共に教室に入室した際だった。その『ある生徒』に目が奪われた。
繰り返すが暦は春、正式に言えば梅雨の時期。そんなじめじめした空気の中に、桜が咲いたような、華やかで、どこか安心するような錯覚に陥る。
山城先生と共に入室した女子生徒は、染めているのか、長く下ろされた髪が少し茶色がかった色をしていて、小顔で整った綺麗な顔の横辺りにシンプルな銀の髪留めをしている。
目は少し垂れていておとなしそうな印象を持たせ、少し淡い茶色をしていた。
彼女と目があったとき、何もかもが変わったような気がした。
永遠に色ずくはずのなかったぼくの心は桜が咲いたかのようにピンクに彩り、
『ぼくを取り巻く空気が、春になる。』
ぼくを含む全員が彼女に目を奪われていた。
その中でも特に、弥生の見せた横顔にぼくは驚く。
弥生の綺麗で整った横顔に一筋の涙がこぼれ落ちる。
幼い頃から見てきた、負の感情の混じったどこか濁った涙と違い、真珠のように澄んだ涙を見て、ぼくは息を飲んだ。
なにも喋ろうとしない僕たちを山城先生が手を二度叩き注目を集める。今度は桜の少女が一歩踏み出し、小さな口を開く。
「皆さん、こんにちは。はじめましてじゃない人も何人かいますが自己紹介をさせてもらいますね。私の名前は音無 奏。カナデ、と呼んでくださって結構です。」
音無奏と名乗った少女は、春風を思わせるような綺麗な声で自己紹介をした。恐らく弥生の旧友だったのだろう。そうならば弥生の涙にも納得がいく。
しかしどうしてだろう。彼女の顔に、声に、匂いに、そして何よりもシンプルな銀の髪止めにどこか懐かしさを感じた。昔、どこかで会ったかのような…そんな懐かしさを。
「ツカサに弥生…久しぶり…だね?」
不意に声をかけられ、ぼくの頭がパニック状態に陥る。
対する弥生はカナデと名乗る少女を抱きしめ、号泣していた。
「カナデ…カナデぇ…ずっと、ずーっと会いたかったよぉ。帰ってくるの…遅すぎるよぉ!」
「ふふ…弥生は相変わらず泣き虫ね。ごめんなさいね。約束の達成に時間がかかっちゃってね」
約束? その響きに引っ掛かりを感じたぼくは、その場で考え込んだが、関係がないのか、それとも覚えていないのか、全く思い出せなかった。
すると肩がぐいっと引かれ、拓磨先輩と目があった。
「なあなあ。俺ら、すごく気まずいんだけど? 感動の再開の邪魔物になっていないか?」
「そーだよそーだよ! なんか私たちくっそ気まずいんだけど!」
二人してぼくに講義をしてくる。だからといって、ぼくに出来ることなんて限られている。ひとつの打開策としては、この場から逃げることだった。
「じゃあ先輩方、ここから避難しましょう。ついでにお菓子でも買ってこれば、上手い言い訳も作れます。どうですか?」
「ナイス提案だ!よし行くぞ。」
そう言って避難を始めようとしたときだった。不意に袖を引っ張られ、後ろに重心が偏る。それほど強い力じゃなかったので体勢を崩さずに保ち、引っ張られた方向を見る。そこには音無奏がいた。
「ツカサ…私は帰ってきたよ。五年前の約束を果たしに来たよ?」
「え…五年前の約束? なに…それ?」
驚きのあまり声がでなかった。助けを要求しようと後ろを振り返るも先輩達は姿を消していた。どうやらぼくを囮に逃げたようだ。
それよりも今、ぼくの頭がパニックに陥っている。
五年前にこの子と約束したことも、ましてや会ったことすら無いはずなのに、彼女はぼくの事を知っていた。
しかし、それはただ、ぼくが忘れていただけなんだと思い知らされる。それは意外にも、弥生の口から知らされた。
「ツカサとカナデは幼い頃からの付き合いで、よく私と三人で一緒に遊んだのよ? それで小学六年の卒業式の日にお互いに約束をしたの。カナデは『ツカサのための曲を作り上げてパリ
から戻ってくる』
ツカサは『科学者になって世界を震えさせる』って、そのときにお互いを忘れないようにってツカサは銀の髪留めをプレゼントして、カナデはツカサに手紙をプレゼントしたんだけど、ツカサはその日の内に手紙をなくして泣いていたのよ?」
そう告げられた途端に記憶に穴が開いていた部分が修復を始め、五年前の記憶がよみがえる。
五年前の卒業式の日、ぼくは確かに音無奏と約束を交わした。
幼い頃からずっと一緒だったぼく達はあの日、突如別れを告げられた。あの日に見せた彼女の泣き顔を今でも覚えていた。
いつも笑顔しか見せなかった彼女の泣き顔は、胸を締め付け、枯れ葉の舞う秋の景色を感じさせた。
そう、弥生の言う通り、ぼくと彼女は校門付近の桜の木の下で、ある約束を交わしたんだ。
互いに目標を建て、それが叶ったら、また会おう。
『私はツカサのための曲を作り上げてパリから戻ってくる』
『ぼくは科学者になって世界を震えさせる』
それまで互いを忘れないように、贈り物をしたんだ。
『ぼくは、この銀の髪留めを』
『私はこの手紙を』
次にあったら、そのときは…その…ときは?
なにを…するんだっけ?
そこだけ記憶が飛んでいた。どうしても、そこだけ思い出せなかった。記憶に、穴が空いてしまったかのように。
ふと我に戻ると、肌を伝う一筋の涙が流れていることに気がついた。泣いたのなんて何年ぶりだろうか。
無意識にかすれたような、そんな小さな声で、呟いていた。
「かな…で?」
それでも、忘れていた記憶のピースが次々に埋まっていくのを感じた。
初めて出会った公園の砂場。
初めて見せてくれた桜のように美しかった笑顔。
初めて見た花火に感動するカナデの横顔。
初めて聴いたカナデが演奏する、シャボン玉のように儚いモーツァルトのメヌエット。
そして別れの際に見せた彼女の泣き顔。
すべてが鮮明によみがえった。気がつくと顔は涙で溢れて、目が少し痛んだ。
そんなぼくに、カナデが優しく微笑みかける。
「まったく、ツカサまで泣いちゃうの? 私の事、少しは思い出してくれた?」
「ああ。全部…とはいかないけど、ある程度は思い出したよ。
ちょっと遅れちゃったけど…おかえり、カナデ。ごめんな、泣き顔でお出迎えなんて」
「ううん。気にしてないわ。ただいまツカサ。目標…達成してきたよ。胸を張って、帰ってこれたよ?」
「ああ。ぼくも、堂々と君に顔向けできるだけの事は全力でしたぞ」
いつの間にか止まっていた涙の残りを指で軽く拭いて、笑顔でカナデを見る。久しぶりで懐かしい光景に浸っていると、後ろで綾乃先輩の声がした。
「ただいまだよーん! ツカサっちにやよいん! 宴の時間が始まるぞ~!」
「よう、久しぶりだなツカサ。お前…フラグ管理一つ間違えると腹に包丁を植えられるぞ?」
教室の入り口を見ると両手にスーパーの袋を提げた裏切り者の姿が見える。今日二度目の未来予知を仕掛けられ、浅いため息が出る。
「えーっと、音無さんだっけ? 入部は歓迎するけど、ここがどんな場所かわかった上で入部を希望するのかい?」
「あー。それについてなんだけどねー三谷くん。こう見えても彼女はピアニストとして、世界で名を挙げてる一流っ子なんだよ?」
「しかし山城先生。それなら音楽系の部活動にいれた方が良いのでは?」
「えーっと、そのー色々あるでしょ? 例えば…」
「待つんだしろりん! そこから先は私が話そうじゃないか! しろりんはさっさと職員室に戻って職務を全うするんだ! ここから先は私に任せろ!」
映画の役者みたいな口調で山城先生の退室を促す綾乃先輩。これは先輩なりの考慮だったんだろう。転入の手続きやら入部届の作成やらで忙しい先生への思いやりなのだろう。
この人は謎に空気を詠む才能がある。実際にその才能に救われたぼくが保証しよう。
山城先生が退室し、静かな空気が訪れる。
綾乃先輩の言いたいことは大体分かる。
今から入部しても、周りの空気についていけないどころか、プロとしての建前がある以上、同じ関連の部活では色々な問題が起こるのだろう。
それを拓磨先輩が理解したのか、その話題に触れることは無かった。
山城先生退室からおよそ十秒。綾乃先輩が両手に提げていたビニール袋を工作用の大きな机におろし、再び明るい空気を作り上げようとする。
「さあ皆の衆! かなっちの宴を始めるぞ~!」
「「おぉー!」」
少しの間が空き、皆の表情を確認すると、その場にいたカナデを除く全員が大声を出し、綾乃先輩に続く。
その空気に負けたのか、カナデも可愛らしい小さな手を顔の隣くらいまで挙げ、カナデ歓迎会が始まる。
カナデ歓迎会と言っても、行っていることは普段とあまり変わらずに、楽しく談笑しながら時を過ごす。
時折綾乃先輩のコントに付き合わされ、その度にカナデは小さく笑い、この場の雰囲気を楽しんでいるように見えた。
カナデ歓迎会が終わる頃には夜の七時になっており、最後のビンゴ大会を終え、みんなで片付けを始めた。
ごみをまとめ、ごみ捨て場で一人ごみの処分を行っていた最中にカナデに声をかけられる。
「その…今日はありがとね。とっても楽しかった。向こうではあんなに祝ってくれなかったから、その…とっても嬉しかった。」
「そっか。カナデが楽しんでくれたなら、それはよかったよ。
それよりも、こうやって二人きりで話すのって久しぶりだね。五年前の卒業式以来かな?」
「そうね。なんだかツカサが目の前にいるのが未だに信じられないわ。そうね…夢でも見てるみたいな感じね」
「そうだね。ぼくもカナデの事、弥生から聞くまで忘れてたんだ。カナデとの思い出を……言ってしまえば技術の開発に一時的に差し出したんだ」
「そう…なんだ。もし私にそんなことが出来たのなら、どんだけ楽だったんでしょうね。パリに留学して一年目は、ツカサの事が頭から離れなくてピアノどころじゃなかったから。でも、去年の夏にツカサが目標を達成しているのを見て、私も頑張らなくちゃって、それからはピアノに集中出来たの。」
それって…もしかしてぼくの事を…
そんな、あるはずもない『もしも』の考えが頭をよぎったが、ぼくはそれを脳内で否定した。
あるはずの無い妄想をしても、喪失感しか生まないことを知っているからだ。
それでもやまない心のドキドキを、深呼吸を繰り返し落ち着ける。
現実を見るために、深く目を閉じ、開く。
最初に映ったカナデの顔は、どこか可哀想な子を見るような顔だっった。
未だ止まない動揺を隠し、気になっていたことを尋ねる。
「そっか。それはよかったよ。ところでカナデ、聞きたいことがあるんだけど…いいかな?」
「私の答えられる範囲でなら、かまわないわ」
「その…五年前の約束でさ? 『ぼくのための歌を作る』って言ったよね? その曲ってもう出来上がってるの?」
「もちろんよ。出来上がっているから日本に帰ってきたのよ?」
「まあ、そうなんだけどさ…その…聞かせてくれないかな? その歌を」
「うん。いいわ。ただ、あの教室にはピアノがなかったの。だからまた今度ね」
「そっか。楽しみに待っているよ」
「うん。楽しみに待ってて。きっと泣かせてみせるから」
そう言って少し微笑みかけたその笑顔に、ぼくは見入ってしまった。教室で見た桜のような笑顔が、ごみ捨て場の近くにある街灯に照らされ、夜桜のように、優雅で美しい笑顔になる。
梅雨の時期特有の湿った風が、カナデの茶色で長い髪を揺らし、より、幻想的な風景になる。
数分後に片付けが終わり、解散した。
綾乃先輩と拓磨先輩は先に帰ってしまい、教室には、ぼくと弥生とカナデの三人になった。
「ところでカナデ? 今日からどこに住むの?」
そう弥生が尋ねる。確かに今日帰国した訳だが泊まるあてはあるのだろうか、前の家は既に売却住みだし、この近くには宿泊施設も存在しない。
数秒の間があいて、カナデは胸を張って答える。
「それに関しては問題ないわ。今日からツカサの家に居候するから」
また、数秒の沈黙が訪れる。数秒後、弥生の方から、なにか視線を感じる。殺気のこもった、そんな視線。
ヤバイ…刺される。
数時間前の拓磨先輩発言を思い出し、身震いをする。
黙ったままだと本当に殺されそうなので、とりあえずありのままに感じたことを尋ねる。
「なに言ってるのカナデさん? ぼく、そんなの聞いてないんだけど?」
「だって言ってないもの。でもパパとママには伝えてあるわ。もちろん、ツカサの両親にもお墓に行って伝えてきたわ」
「ちょっ…ダメよそんなの! だって、二人きりなのよ? そんなのダメに決まってるじゃない!」
無言でうなずくぼくを見て、カナデは負けじと弥生に反論する。
「大丈夫よ弥生。私はツカサを信用しているわ。それに、あなたが嫌がるようなことは決してしないから」
「そんなにぼくを高く買い被らないでくれますかねえ⁉ カナデにもしもの事があったら、ぼくはなにも出来ないからね⁉」
「もしもの事って…大丈夫よ。病院には自分で行ってるし、階段から落下したりして死んだりしないから。それよりもツカサ?」
カナデが指を指す方向には、教室の隅っこでバタバタと悶える弥生がいた。落ち着けようと肩に触れると一瞬ビクッとなり、頭から湯気を出して気絶してしまった。
ぼくがあれこれ考えている姿をカナデは「やれやれ」といった表情でこちらを見ている。とりあえず弥生を救急車で病院に送り、カナデと二人きりになる。
「あのさカナデ……本当にうちに来るの?」
「うん。そのつもりだったのだけれど…ツカサは迷惑だった?」
「いや…迷惑とかじゃないけどさ、その…色々問題があるでしょ?」
「私はかまわないわ。でもツカサが嫌なら無理は言わない。決めるのはツカサよ?」
「カナデがいいんなら、ぼくは別に構わないけどさ。」
弥生がオーバーヒートしてしまった今、カナデの事を知っているやつは、ぼく以外この学校にいない。宿泊施設も無いため、カナデは野宿を行う事になるだろう。
もうすぐ雨が降りそうなので、しばらくはうちにかくまうことにする。
しばらくして家に到着し、カナデを家に入れる。昔はよく家に来ていたが、こうやってお互い高校生になるとどこか気恥ずかしさがあった。
ちなみにうちに入った事のある女の子はカナデと弥生だけだ。
弥生は今もよくうちに来るから違和感がないが、カナデに関してはここ数年会ったこともなかったので、少し抵抗があった。
カナデの荷物をまとめ、夕飯に手頃なカレーを作った。カナデが「隠し味」と言って板チョコを一枚丸々いれ、すごく甘いカレーが誕生した。
それを三十分かけて完食し、カナデを風呂に入れた。
その間、ぼくは食器を洗い、固定電話のとなりにある写真を手に取る。そこには幼い頃のぼくと、両親の姿が写っている。
今さらだが、ぼくは一人暮しをしていて、親がいない。
正確には『いない』のではなく『死んでいる』と言うべきだろうか。両親共々研究者で、多くの研究者から『天才』と謳われていた。
夫婦共同で十年ほど前日本に上陸し、感染率の低いとされてきた新型ウイルス『マグネットウイルス』の治療薬を作っていた。
マグネットウイルスは感染者の体の中で磁気を発生させ、視力や聴力、運動能力を奪い、最終的に『死』に至らせる病気とされている。
しかし、感染速度は極めて遅く、感染してから死に至るまでに
約五~十年かかるらしい。
ぼくの両親はマグネットウイルスに感染した。
正確にはわざと感染したのだ。マウスにはマグネットウイルスが感染しなかったため、両親は自分にウイルスを投与した。
──結果両親は二人とも息絶えた。
実験は失敗に終わり、研究も途中まで行われたものの、中止され、その事件以降、誰もマグネットウイルスの研究を行わなくなった。
しかしぼくは、研究に人生を差し出した両親を誇りに思っている。
感染率の低いウイルスの研究に文字通り人生を差し出した事も、そのせいで、ずっと一人だったことも恨んではいない。
ぼくも両親のような立派な科学者になると決めた。
──ぼくは、甘い考えをしていた。
両親が理由もなく感染率の低いウイルスの研究に人生を差し出したんだと、そう思っていた。そこが甘かったのだ。ぼくはこの時、気づくことが出来なかった。
『ぼくを含む、両親に近かった誰かがウイルスに感染している』事に。
第二章 ReSound ~雨風に響く桜の音色~
今朝はいつもと違う天井を見上げ起床する。
どうやらリビングの床で寝てしまったようで、少し体が痛い。
昨日は突然のカナデの来訪で自室では寝られず、リビングで時間を潰しているところ、いつの間にか寝てしまったのだ。
現在の時刻は七時十五分。そろそろ用意を始めないと学校に間に合わない時間だ。
ぼくはカナデの居る部屋の前まで来て軽くノックをする。
「カナデ~朝だぞ~そろそろ起きないと遅刻するぞ~」
「……」
「カナデさーん? 朝ですよ~? 返事しないなら勝手に入るぞ~?」
「………」
返事がないので恐る恐るドアノブを軽く握る。
昨日までは普通に入れたはずなのに、女子が居るだけでこんなにもドアノブの重さが違うことに驚く。
一度深呼吸をし、決意を固めて扉を開く。
そこには、この世のものとは思えないような悲惨な景色が広がっていた。
部屋一面に広がる紙切れ。それに着替えなどがしまわれていた段ボール箱などは無造作に部屋のあちこちに散乱している。
それらさえどけてしまえば綺麗な部屋に戻りそうなレベルだったので、とりあえず部屋の主を探そうと部屋に足を踏み入れる。
世の中の人々はこれを『カオス』と一言で片付けるだろう。
まさにその通りだ。この部屋の様子と、女子の部屋に勝手に入っているという罪悪感が混じり、脳は悲鳴をあげ、ほぼ機能停止状態に陥っている。
それでも、一度この部屋から出てしまうと二度と入れなさそうだったので、歩を進める。
カナデが寝ているであろうベッドの端まで到着し、布団をめくる。
しかし、そこには彼女の姿がなかった。
部屋を見渡すが、彼女の姿はなく気配もしないため、この部屋に居ないと結論付けた。
部屋から避難する際に、散乱していた紙の一枚を拾い上げる。
それは昔見た事のあるモーツァルトのメヌエットの楽譜だった。
懐かしさを感じ、目で音符を追っていると、あることに気づいた。
「これ…メヌエットじゃない…」
そう口にした途端、自分の手が震えていることに気づいた。
昔聞いたメヌエットは、こんなにも楽しげな音階ではなかったはずだ。もっと儚げな、シャボン玉のような曲のはずだった。
ぼくは情報をかき集めるために、他の紙にも手を伸ばした。
どれもこれも、メヌエットに似た、全く違う曲だった。
そしてふと、昨日の会話が脳裏をよぎる。
「パリに留学して一年目は、ツカサの事が頭から離れなくてピアノどころじゃなかったから…」
きっと彼女は、『約束の曲』を作るために、ぼくとの思い出を探っていたのではないだろうか。そして行き着いた答えが『メヌエット』だったのではないだろうか。
ぼくが聞いた始めての曲をアレンジして、きっとカナデはメヌエットを思い出させる歌を作りたかったのだろう。
ぼく達が過ごした子供の頃の思い出をカナデは伝えたかったんだろう。
その結果がこれだけの紙の量なんだろう。
カナデは約束の曲の製作のためにこれだけの思い出を…曲を書き綴ったのだろう。
ケンカをしたときの乱雑なメヌエット。
一緒に笑いあったときの弾むようなメヌエット
一緒に泣いたときの切ないメヌエット。
他にもたくさんあった。
数えきれないほどの思い出が、メヌエットになって書き綴られていた。
気づけば時刻は七時三十分。ここから学校まで急いでも二十分なので、もう時間がない。
ぼくは一階に降りて、急いで支度をこなす。
家を出る頃には七時四十分。まだ余裕で間に合う時間帯だ。
玄関にはカナデの靴がなく、どうやら先に行ってしまったようだ。
ぼくも急いで出発し、学校に向かう。
今だ咲く、桃と緑が混ざる桜が通学中の生徒をアーチのように構えて迎える。空気は少し湿っており、梅雨の到来を知らせるかのようだ。
道行く生徒達に紛れ、唯一のピンク一色桜を見上げる少女がいた。
「おはようカナデ。今日は早かったんだね」
「うん。桜が見られるのは今日までだって言ってたから。そういえば、今日はなにも言わずに出ていってしまってごめんなさい。ツカサの寝顔が安らかそうで起こし辛かったの」
「あはは…冗談よしてよ。今日の夢は怖かったからさ…どんな夢か忘れちゃったんだけどね」
「そうなんだ。ところでツカサ? 今日、私の部屋に入った?」
その質問の声音が妙に真剣だったので、ぼくはごまかさずに首を縦に振った。
「そう……と、言うことはアレも見てしまったの?」
「アレって、もしかしてエヌエットの楽譜のこと?」
「え? ………えぇそうよ。その楽譜のことよ」
ぼくの回答にカナデはキョトンとした表情になる。そして数秒後、なにか誤魔化すように返事をする。
なにか、あのカオスな部屋のなかになにかあっただろうか。
ぼくの見る限りでは、気になるものはなかった。
特に追求する必要が無いと思い、この話を終わりにさせる。
☆
未だきれいに咲く一本の桜の木をカナデと見上げながら、今朝疑問に思ったことを口にする。
「そういや、どうしてカナデの部屋、あんなに散らかってたの?」
「え?」
「だから、大量の楽譜のことだよ?」
「えーっとね? その、探し物をしていたの。」
「探し物? なにを探してたの?」
「ツカサとの『約束の歌』の楽譜」
カナデはしょんぼりとした面持ちで膝に顔を押し付ける。
カナデの五年間の意味を無くしてしまったのだから、相当心に来ているはずだ。
ぼくは「一緒に探そう」とカナデに声を掛けようとした途端、
キーンコーンカーンコーン
……ホームルームが始まる知らせを伝える始業のチャイムが鳴り響く。スマホの時計で時間を確認すると八時三十分を示している。
ここから学校までおよそ十五分。どう足掻いても十分、といったところだろう。
ぼくは、ひきつらせた顔でカナデを見つめる。対するカナデは目尻に涙を浮かべたまま、苦笑いで見つめてくる。
そしてそのまま数十秒が経ち、カナデが重い口を開く。
「そのーツカサ? 探し物は自分でするから、学校行ってきて?」
「そんなこと出来るわけないよ! 早くカナデも行くよ?」
「え? いや、そうじゃなくてね? 今日は元々学校行かないつもりだったのだけれど……今日はやること多くて……学校は明日から行くわ」
………結局一人で学校まで全力疾走し、学校に到着する頃には既に、一限目の授業が始まっていた。
そして休み時間、机に顔を埋めてぐったりしていると、不意に頭に軽い衝撃を感じた。
顔を上げて状況を確認しようとすると弥生が不機嫌そうな目でこちらを見下ろしていた。
「お、おはようございます弥生さん。どうされましたか? そんな物騒な顔して」
「うーん? 何でもございませんわよツカサさん? それよりも遅刻とは珍しいですわね? カナデさんと何かされてたんですか?」
互いに普段使わない口調で話ながら朝の挨拶を交える。弥生のお嬢様口調に妙な殺気を感じたので寒気がした。
本当殺されてしまいそうなので、本当の事を説明した。
「だれがそんな妄言信じろって言うのよ!昨日はカレー作ってそのまま寝て、朝に桜見てたら遅れました⁉ 嘘が下手くそなのは昔から変わらないわね!」
「いや…全部本当の事なんだけど…」
「うるさい! だまりなさい!」
「…なんかすいません」
実際に客観的に見てみると、下手くそな言い訳にしか聞こえない。
でも実際に起こったことなので、そこのところが難しい。
そこから 放課後まで、弥生に声をかけても「うるさい!近づくな変態!」と怒鳴られてしまい、一回もまともに話すことが出来なかった。
そして放課後になり、重い足取りで部室に向かう。
ああなってしまった弥生は、何かしらイベント的な事を起こさないと機嫌が直らない。
最近までは駅前のシュークリームで買収することが出来たが、彼女曰くダイエット中らしいので、その作戦を実行することができない。
廊下を歩きながら試行錯誤しているうちにポケットに入れておいた携帯が振動する。カナデからの初メールだ。文面はとてもシンプルで
『今日何時に帰ってくる?』
だった。どこかに出掛けるのか、それとも気まぐれなのか、どちらにせよ、一応返事をしておく。
『七時には帰るよ』
とだけ送って部室に入る。実は最近、毎回見せられる綾乃先輩の歓迎コントをみるのが密かな楽しみになっている。
今日はどんなものが飛んでくるか予想を立てながら扉を開けると、
頭に何かが落ちてくるのを感じた。それが黒板消しだと気づく頃には次のステップに移っている。拓磨先輩がぼくの髪を無言で整え、鏡の前に立たされる。
これが今日の歓迎コントなんだと覚悟を決め目を開く。
鏡に映った自分の姿を見て思わず笑ってしまう。自分の髪に触れると少しベタベタしていた。おそらく黒板消しにワックスを仕込まれたのだろう。
「じゃーん! ツカサっちのワックス七三分け定食でーす!」
「だれが定食ですか! ていうかなんで拓磨先輩まで手を組んでるんですか!」
「うーん楽しそうだったから?」
「楽しそうで済まさないでくださいよ」
拓磨先輩から目線をそらし弥生の方を見る。
意外にも弥生はクスクスとこちらを見ながら笑っていた。
しかし、ぼくと目が合うと慌ててめを反らす。
それを見た拓磨先輩が耳打ちで
「もしかしてツカサ、弥生ちゃんと喧嘩した?」
「そんな大袈裟なものじゃないんですけど…実は色々あって…」
「お、なんだ? なんでも聞いてやるぞ?」
昨日から今日にかけてあった事を事細かく説明する。
拓磨先輩はぼくの話を最後まで茶化すことなく聞いてくれた。
普段は悪のりしやすいタイプだが、こんなときだけ先輩らしい。
一連の流れを説明し終えて、考え込む素振りを見せ、爽やかすぎる笑顔でこう言った。
「それはアレだな…やきもちだな! うん、そうに違いない。」
「ちょっ、からかわないでくださいよ! そんなこと、あるわけ無いじゃないですか!」
「うん? …あー悪い悪い。ツカサに限ってそんな事あるわけないよなー」
拓磨先輩は弥生の方を横目で見た後、言葉を濁すようにそういった。弥生に関しては、顔を真っ赤にして机に顔を埋めている。
その姿を見た拓磨先輩は悪ふざけをするときに見せる妙な笑顔で、ぼくにこう言った。
「もうお前ら、付き合っちゃえば? お似合いだと思うぞ、俺は」
「私もそう思うよ~! ツカサっちもやよいんもとってもお似合いだと思うよ!」
「なにバカなこと言ってんですか。気が合うのも幼馴染みっていうだけで、付き合うとかそんなのは今のところないですよ。弥生からもなんか言ってやってよ」
「………え? あっそうだね。私とツカサが付き合うとかあり得ませんよ…ははは…」
弥生は心ここにあらず。といった感じで、ぼーっとしたまま返答する。その横顔が、どこかに寂しげに見えて声をかけようと、弥生に近づく。
弥生の肩に触れようとした途端、右の頬鋭い痛みが走る。
「近づかないでよ!」
そう叫ばれて、ビンタを食らう。
ぼくを叩くと、弥生は我に戻ったように、目を丸くさせ、ぼくから距離をとる。
「ごめんツカサ…私、そんなつもりじゃなくて…その…ごめんなさい!」
そう言うと、弥生は走って教室から飛び出した。
その背中をぼくたち三人は、黙って見送ることしか出来なかった。
☆☆
梅雨の生ぬるい風が、部室から飛び出した私を容赦なく吹き付ける。所々で桜の花びらが散り、雨の気配が近づいてくるのを感じる。
私は堤防に腰を下ろし、深いため息をつく。
「はあ…私、どんな顔してツカサに会えばいいのよ。ツカサの事だから、誤解だってのは分かってるのに、なんであんなにイライラしたんだろう。カナデが帰ってきて、嬉しいはずなのに、どうしてこんなにカナデに怯えるんだろう。」
理由は分かっていた。なぜ自分がこんなにイライラしているのか、
なぜ、彼女を怯える必要があるのか、本当は分かっていた。
わかっていながら、その答えを認めようとしなかった。
──自分がツカサの事を愛していて、その恋が叶わないことを、
生ぬるい風が吹き付ける堤防で、私は一通の手紙を握りしめる。
☆☆☆
結局、弥生が帰ってしまったせいで、本日の部活動が終了する。
先輩達もそれ以上の追求はしてこなかったし、なんだか救われた気分になる。
それでも、近日中には仲直りをしておかないと、余計に気まずくなるし、だからといって、どう話をすればいいのかも分からなかった。
カナデに相談すると、色々ややこしくなりそうなので控えておくとする。
帰りが早くなったことを、一応カナデに伝えようと電話を掛ける。
しかし、カナデからの応答はなく、電話を閉じる。
意外にも早く部活が終わったので、近くのショッピングセンターに立ち寄る。
特に欲しいものがあるわけではないが、暇潰し程度にはなると踏んで足を運んだのだが、思わぬ収穫を得た。
食事コーナーがずらりと並ぶ通りの一角の喫茶店で、弥生の姿を目撃する。落ち込んだ表情をしていたが、このチャンスを逃すわけにはいかない。
店内に入り、弥生のいる席の後ろまで歩を進める。
彼女がこちらに気づく様子がなかったので、照れ隠し程度に頭に軽く手刀をいれる。
それでようやくこちらに気づいた弥生が、気まずそうにこちらを見つめる。
彼女の元までやって来るまでは良かったが、なにを話すか決めていなかったため、思わず口ごもってしまう。
数秒の時が経ち、一度深呼吸をしてから真っ直ぐと弥生を見る。
涙をで淡くした黒色の大きな目が、くりくりと動く。
そんな動揺した瞳から目を反らし、反対側の席に座る。
「ここ、座るよ?」
「う、うん」
またしても沈黙が訪れる。その場しのぎにコーヒーを注文し、それが届くまでの間、お互い何一つ喋らなかった。
やがて届いたコーヒーを一口すすってから、もう一度、思い口を開く。
「うまい! ……じゃなくて、弥生、どうして今日は帰ったりしたんだ?先輩達、多分心配してたよ?」
「えっと…」
弥生は小さく縮こまり、小動物のように、しゅんとしてしまった。
こうなってしまうと、もうなにを言っても無駄なのは昔からの付き合いで分かっていた。
それでも、無駄だとわかっていても引き下がるわけにはいかなかった。彼女が、何か大きなものを抱え込んでいる気がしたからだ。
そして数分が経ち、彼女の重い口が開く。
「その…ごめんなさい。私、ちょっとストレス溜まってたみたいで、ツカサにぶつけちゃった。本当にごめんなさい」
話終えると、彼女は深々と頭を下げた。
今までそんな姿を見たことがなかったために、対処に困った。
「なによ? そんな町中でワニを見つけたような顔して、私、何かおかしな事した?」
いつもの彼女の顔に戻り、睨むようにこちらを見据える。
例えが大袈裟だったが、実際それに近い既視感を覚えた。
それでもいつもの弥生に戻ってくれたことが、何よりの収穫だった。
「いや、なにもしてないよ。それにしても弥生から謝るなんて珍しい事もあるんだね」
「そんな、人を頑固者扱いしないでくれる? 私だって悪いと思えば謝るわよ。それよりもその…ありがとね? 私に話しかけてくれて。正直後悔してたの。もうツカサとまともに話せないんじゃないかって。」
「そんな事考えてたんだね。幼馴染みなんだし、このくらいじゃ絶縁したりしないよ」
「そっか、そうだよね。ツカサは底無しのお人好しだもんね。」
……私はそんなツカサの事が大好きだった。昔から、ずっと。
「ん? なにか言った? 昨日から、なんだかぼーっとしちゃって」
「な、なにも言ってないわよ! この…バカ!」
「なんで急にバカ呼ばわりされなきゃいけないんだよ。ぼく…何かしたっけ?」
「乙女の純情を踏みにじる鈍感お猿さんは死んでしまえばいいと思うの。ツカサもそう思わない?」
「その鈍感お猿さんがぼくの事を指しているのなら、そうは思いません。考え直してください」
それからは普通の、今まで通りの会話をした。
それから適当に買い物を済ませ、店から出ようとしたとき、ポケットに入れてあったスマホが鳴り響く。
カナデからの着信だった。ぼくは通話ボタンを押し、カナデと会話を始める。
「もしもしカナデ? どうしたの? なにか買ってきて欲しいものとかあるの?」
「いや、そうじゃないけれど。さっき電話かけてきたでしょ? 私、病院に行ってて出られなかったの。それで?何か用かしら?」
「いや、用って程でもないけど、部活が早く終わったから帰りが早くなるよって伝えようと思って。」
「そう。じゃあ待ってるから早く帰ってきてね?」
「なるべく早く帰るよ」
そう言い残し、電話を切る。
スマホをポケットに入れ、弥生の方に向き直ると、まじまじとこちらを見つめたまま、動こうとしなかった。
「弥生? どうしたの? 帰るよ?」
「え? あーうん。帰ろっか」
帰り道に弥生と話すことは無かった。互いに黙り混んでしまい、一向に口を聞こうとしなかった。気まずい雰囲気のまま別れを告げ、数十メートル先にある我が家に到着する。
家の前を横切るとき、微かにいい匂いがした。その鼻孔くすぐる匂いにつられ、お腹がなった。
今日の夕飯について考えながらドアを開けると、先程とは異なる、別の匂いが玄関を占領していた。
空腹でぐったりとしながらリビングのドアを開けると、そこには色とりどりの食事がおしゃれに並べられていた。
しばらく待つと、満面の笑みでカナデが入室してくる。
彼女の片手には小さく、黄ばんだ紙切れが握られていた。
その紙切れを胸の前に差し出し、小さく笑いながら問いかける。
「その…ツカサ? 約束…覚えてくれてるよね?」
彼女の口から『約束』の文字が出ると、心の中で暗雲が差し掛かったようなモワモワとした、言葉では表せない不快感に陥る。
先日感じた記憶がぽっかりと穴が空いたような感覚とよく似ていた。
今になっても思い出せない、五年前の約束の内容。
とても大事な約束をしたのは覚えている。
しかし、それがなんなのか、全く思い出すことが出来なかった。
──結局ぼくは、その答えを見つけ出すことができなかった。
カナデが急に倒れ込んでしまったからだ。
もやもやした気持ちを押し殺してぼくは救急車を呼んだ。
☆☆☆☆
あのあと駆けつけた救急隊員によるとカナデは軽い貧血を起こしたらしいが念の為ということで薬を提供してくれた。
その後、カナデをベッドに寝かし、ぼくもカナデが作った料理にラップをして早めに寝ることにした。
今日は色々なことが起きたせいか、身体がどことなく重く感じた。
ぼくは眠りに着くまでの間、カナデが口にした、『約束』のワードが心のどこかに引っかかってムズムズしていた。
──翌日、いつもより早く起床し、カナデの部屋へと向かった。
昨日のような戸惑いは無く、軽くノックをして室内に入る。
室内には昨日のようにカナデの気配はなく、メヌエットの楽譜も片付けられていた。
昨日にカナデを運び込んだ時にはまだ散乱していたため、恐らくカナデが早く起きて部屋を片付けたのだろう。
ぼくは早足に階段を降り、リビングの扉をやや強引に開いた。
ダイニングチェアに腰を下ろしていたカナデが驚いた様子でこちらを見つめる。
「お、おはようツカサ。どうしたの?こんな朝早くに、それにそんなに慌てて」
「どうしたのって……昨日急に倒れたから心配で……体はもう大丈夫なの?」
「ええ、心配かけたわね。私、昔から体が弱くて、たまにあんな風になっちゃうの」
「そう……だったね」
そういえば、カナデは昔から体が弱くて入退院を繰り返していたことを思い出した。
生まれつき難病を抱えていたらしく、詳しくは聞かされていないが、当時はその病気の対策もされていなかったらしく、それこそ『天才』と謳われた両親ですら、お手上げだったらしい。
「そんな事よりさ」
過去のことを振り返っていると、カナデはモジモジとしながら話題を切り替えた。
ぼくは言葉を促すようにこくりと頷く。
「今日から一緒の学校だね?」
「あーそうだったね」
言われて初めて気がついた。昨日までに色々起こり過ぎて、転校云々の話はすっかり忘れてしまっていた。
部屋に入ったときには気が付かなかったけれど、もうちゃっかりぼく達の学校の制服を着ている。
まだ馴染みきっていない制服が初々しく見えた。それでも違和感はなく、特徴的な銀の髪留めが茶色のブレザーと見事にマッチしており、よく似合っていた。
白色の肌をわずかに朱色に染め、上目遣いで覗き込みながら小さな口を開く。
「どう……かな? 似合わない……よね。あはは」
「そんな事……」
それまで意識いていなかったため気にならなかったが、こうして見ると言葉が出てこなかった。
彼女にあしらえるための言葉が見つからなかった。
何を言ってもからぶる気がして、言葉がつまる。
弥生と着ている服が同じなのに、受ける印象がまるで違う。弥生が似合っていないわけでは無い。
ただ、それ以上に幻想的で初々しさの中にある儚げさに心を引かれてしまった。
暫く無言を貫き続け、にらめっこにも飽きたのか、カナデが浅い溜息をつき、目線をダイニングテーブルに移す。
「まったく……乙女心が分からないのは昔からのままね。朝ごはんの用意はしてあるから早く食べましょ」
弥生といいカナデといい、二人とも僕に何を求めているんだろう。
「乙女心……か」
そう呟いてリビングに向かう。
カナデが昨日作った料理を雑談を混じえながら食した。
ピザにカルパッチョといったイタリア料理からきんぴらごぼうにお味噌汁、ご飯と言った和食まで、良く言えば和洋折衷。悪くいえば水と油。そういった組み合わせだった。
それでも味付けの方は完璧でお店で出しても文句なしのレベル帯だった。
それから学校に行く用意を済ませ、二人で家を出る。
外はじめっとした梅雨特有の空気で、太陽の面影は見当たらない。いつ降り出してもおかしくない気候だった。
部活に入っている生徒はとっくに登校しているようで、通学路に生徒の姿はあまり見受けられなかった。
桜の木々もすっかり夏色の葉桜になり、春の気配を感じさせなかった。それが少し寂しくて喪失感を覚えた。
カナデとは現地であった事など、他愛のない話で盛り上がり、道中の時間を潰した。
校門をくぐるとカナデは「わあー」と校内を見渡し情に浸っていた。
ホームルームでのカナデの自己紹介も無事に終わり、一息つくことが出来た。
一部の男子生徒からは歓喜の声が、それを見た女子は冷たい目を向けていたが、カナデが壇上に立つと、男女問わず全員の目を釘付けにした。
男子からは好機の目に晒され、女子からは憧れと戒めの目線に晒された。
見ていて気の毒だったが、それでも皆、カナデに見惚れていた。
お昼休みになり、ぼくはカナデと弥生と共にお昼を取ることにした。学食に辿り着くまでに、多くの生徒から敵意と殺意がこもった真心たっぷりの目線を頂き、心はボロボロだった。
二人とも自覚はないようだが、弥生は普通に顔立ちもよく美人だし、カナデに関しては、『美少女転校生』というレッテルと、もとから兼ね備えた顔立ちの良さとスタイルの良さから、現在全男子の憧れの的である。
そんな二人を両脇に置いているぼくは一体何様だ、という話である。
学食に着き、ぼくと弥生は日替わり定食を、カナデは和風定食を注文した。
適当に空いている席を確保し、三人で腰を下ろす。
こうしていると昔のことを思い出す。
数年前までの休日のお昼は三人集まってこうしてよくお昼を食べたものだ。
「そういやカナデ?」
「なに?」
弥生が少し気難しそうにカナデに話しかける。
カナデは卵焼きを口に運びながら答える。
弥生とはクラスが違うので色々カナデに聞きたいことがあるのだろう。
「昨日の夜大丈夫だった? ツカサのことだから大丈夫だとは思うけど、変なことされてない?」
思いもよらぬ方向からの質問だった。
確かに年頃の男女が同じ家にいると色々問題はあるだろうけれど、生憎昨日はバタバタしていてあまり話すらできない始末だったのでその辺の心配はいらない。
「昨日……ね」
カナデが気まずそうな顔を作る。すると、弥生の方からとんでもない威圧を感じる。
あー恒例の誤解タイムか……
案の定、ぼくの隣から地の底から湧いたようなこえが響く。
「つーかーさー?」
「いや……まって! 誤解だよ、ぼくは何もしてないって! とりあえず落ち着こう? 話せばわかるって!」
「問答無用よ! あの世で後悔するといいわ!」
弥生の回し蹴りがぼくの額を捉え、重い衝撃とともにこれまで何度か味わったことのある浮遊感に苛まれる。
三メートルほど吹き飛ばされたあとなにかに後頭部をぶつけ、意識がもがれる。
☆☆☆☆☆
いまや、第二の自室となりつつある保健室。
そのベッドの上で重い体を起こす。頭痛はすっかり無くなり、ビックリするくらいピンピンしていた。
これまで、なにか誤解する度に弥生にしばかれ、自然と身体が鍛えられたのかもしれない。
「おはようツカサ、体の方は大丈夫なの?」
「おはよう愚民、もうちょっと強くした方が良かったかしら?」
ベッドの側で座っていた二人が対象的な挨拶を交わしてくる。
正直な話、こういうやり取りは何度も繰り返しているのでそこまで驚きはしない。それでも慣れないものは仕方ない。
「だから誤解だって言ってるよね? カナデからの説明は無かったの?」
「いや、あったけど……それでも問題が無いわけじゃ無いでしょ? 疑わしきは滅せよって言葉があるでしょ? 私はそれに従っただけ」
「いや、ないよ? ないからね!?そんな物騒な名言なんて」
少なくともぼくは初めて聞いた。
そんな僕のツッコミも虚しく、話題を変換される。
「そういえばツカサ、このあとカナデの演奏を部室でするけど、もちろんツカサも来るわよね?」
「あぁ……もうそんな時間なんだね。うん、もちろん行くよ」
時計を確認すると午後の4時を回っていた。
最後に意識があったのはお昼休みのことだったので、どうにもしっくり来ないが過ぎた時間は戻らない。今という時間を精一杯生きよう。
ぼく達三人は 保健室から出て行き、部室へと足を運ぶ。部室に着くまでのカナデの顔は、どこか緊張しているように見えた。
部室のドアを開けると、昨日までは無かったグランドピアノが一台、端の方に設置されていた。
先に来ていた拓磨先輩と綾乃先輩が笑顔で出迎えてくれた。
カナデは何かを決心したように頷き、強貼った表情を浮べながらピアノに向かう。
椅子の高さを調整し、楽譜を開く。カナデは一度深呼吸をし、ぼく達の方に向き直り、さっきとはまるで違う、柔らかい笑みを浮かべ口を開く。
「ツカサ、私はこの日の演奏のためにすべての時間を差し出したの。私の魂を込めた曲を聴いてください。曲名は『約束の歌』」
カナデはピアノに向き直り鍵盤の上に手を乗せる。
部室に響く音の粒。ぼくはそっとその場で目を閉じた。
出だしはメヌエットのような淡く儚げな音調で始まった。ピアノの音越しで伝わってくる幼い頃の記憶、初めてであった日のことを思い出す。
幼いころからその美貌とピアノのセンスで多くの人に期待されていたカナデは、当時何も無かったぼくと奇妙な切れない縁で結ばれた。
昔のことを思い出している間に、カナデの演奏は次のパートへと移行した。
先程と違い、低くなったトーン、そこから伝わる寂しさには心当たりがあった。
小学校の卒業式だ。卒業証書を手にし、桜の木の下でぼくとカナデは再開の約束をした。
思い出せない昔の記憶の宝箱は、カナデの演奏とともに開き出す。
カナデの演奏が進むにつれ、思い出す記憶。
そういえば弥生の言っていた通り、手紙をもらったんだ。
ぼくはその手紙をどこかで無くし、内容を知ることが出来なかった。
きっとカナデの演奏にヒントがあるはずだ、と耳を澄ませていると、ある異変に気づいた。
カナデの演奏が止まってしまったのだ。
その場にいた奏を除く全員が異変に気づき、グランドピアノに視線を向けた。
その直後、重くて大きい何かが視界を横切り、ゴン、と床に低い音が鳴った。
「……カナデ!」
真っ先に動いた弥生がカナデの元に駆け寄る。
その光景を見て、先輩達もカナデの元に駆け寄る。
「カナデちゃん!しっかり!」
「カナデっち! 大丈夫!?」
先輩達が必死にカナデのを呼び覚ます中、ぼくはただその光景を眺めることしか出来なかった。
結局その後、カナデが目を覚ますことは無かった。
第三章 Remove 〜動き出す天才〜
カナデが倒れてから数日間、ぼく達は誰もカナデと顔を合わせることがなかった。
正確には、合わせることが出来なかった。
しばらくの間、カナデは集中治療を受けていて、面会謝絶状態だったのだ。
そして今日、ようやくカナデの病室を訪れることができるようになったのだ。
先輩達は「大人数で行くと迷惑」と言って、カナデと元々面識のあるぼくと弥生が行くことになった。
授業が終わると、ぼくと弥生は部活を休んで学校の最寄り駅から三駅先にある国立病院へと足を運んだ。
受付を終えたぼく達は指名された病室へと足を運ぶ。
806号室、それがカナデの病室番号だった。
見たところ個人部屋らしくて、806の病室番号の下に『音無 奏』とネームプレートが差し込まれている。
ぼくは一度深呼吸をしてからスライド式のトビラをノックした。
中から「どうぞ」と簡潔な返事が返ってきてぼく達は病室に足を踏み入れた。
──いくつか疑問に思うことがあった。まず、なぜカナデのベッドの周りに医療器具が存在しないのか。仮に貧血で倒れたとしても点滴くらいの処置はしてくれるはずだ。
それにカナデは何日間も治療を受けているのに医療器具が存在しないのはどう考えてもおかしい。
次に、なぜカナデは泣いているんだろうか。
ベッドのシーツはびしょびしょに濡れ、目元は真っ赤に腫れている。
今尚流れている涙をカナデは拭おうとしなかった。
涙を流したまま驚きの表情を浮かべ、僕達の方を見つめている。
しばしの沈黙の後、カナデが重い口を開く。
「情けない所を見せてしまったわね。それで、あなた達は何をしに来たの?」
「私達はカナデのお見舞いに来たの。ごめん、タイミング悪かったね」
「気にしないでいいわ。わざわざ悪いわね。その辺に座ってちょうだい」
ぼくと弥生は来客用の丸椅子に腰をかける。
ぼくは、今最悪のケースを想像して、まともに口を開くことが出来なかった。
なぜ、この病室には医療器具が存在しないのか、なぜ、カナデは涙に濡れた瞳を今尚、拭おうとしないのか、ある程度想像は付いていた。
単純に言えばデジャブだったのかもしれない。
ぼくは数年前、同じ光景を目にしたことがある。
「……カナデ」
無意識に言葉が漏れていた。カナデは不思議そうに首を傾げ続きを促すように頷いた。
「感染……したの? その……『マグネットウイルス』に」
信じたくはなかった。しかし、それしか説明が付かなかった。
今のカナデを取り巻く環境は恐ろしい程に数年前と似すぎている。
ぼくの両親が意図的にマグネットウイルスに感染し、ワクチン開発に失敗し、身体が動かなくなり入院した時と同じ光景だった。
医療は発展せず、打つ手なしとして大した処置もされず、一日中ベッドで横たわり、自分たちの研究が失敗してぼくに迷惑をかけたと涙して謝った両親の姿と、同じだった。
「ええ……その通りよ。ごめんなさい黙ってて」
声色を震わせながら小さくつぶやく。
「そんな、
本当に……いつから感染してたの?」
弥生は必死の作り笑顔をしながら問いかける。
「六年前よ」
カナデは顔色一つ変えず何事もないかのようにして言い除けた。
「てっきりツカサは知っているのかと思ったわ。ツカサにはそれなりに知る機会も多かったはずだから」
──それとも……とカナデは窮屈そうに首を傾け、弥生の方へと視線を向ける。
カナデは弥生を視線に捉えると、すぐにまた、ぼくの方へと視線を向ける。
「何でもないわ。それよりツカサ、購買で何か買ってきてくれない? お腹が空いたの」
「いいけど……弥生も一緒に行くかい?」
ぼくの問いかけに数秒が経ち、弥生は辛そうな……しかしどこか覚悟を決めたかのような険しい表情を浮かべ、首を横に振る。
「私はカナデと少し話がしたいから……私の代わりにここの駅前にあったケーキ屋さんのシュークリームを買ってきてくれない?」
「あそこって結構遠いんだよ?」
確かこの病院の最寄り駅から徒歩で20分はかかった気がする。まあ実際は弥生が寄り道をした分もあるので少なく見積もって10分と言ったところだろう。
それでも往復で20分は少し苦にも思えた。
結局ぼくは、結局女性陣から感じる威圧に負けて病室を後にするのだった。
☆
ツカサが病室を出て数秒、私はカナデと向かい合っていた。
しばしの沈黙の後カナデは深いため息をし、私の方に向き直り重い口を開いた。
「……で?」
「え?」
「私になにか言いたいことがあるんでしょ? その為にわざわざツカサを遠くまで行かせた事くらい分かるわよ。部屋に入ってからずっと挙動不審だし」
「……やっぱりカナデは鋭いわね。その調子だと私の要件も分かったりするんじゃないの?」
「はぁ……あらかた小学校の時に私がツカサにあげた手紙のことでしょ?」
ため息混じりにカナデはそう言った。
カナデには昔から鋭い洞察力があった。私はもちろんのこと、ツカサだってカナデには隠し事は何一つできない。
しかしカナデはそれに驕ったり、突きつけた真実をネタに人を馬鹿にするようなことはしなかった。
そんな鋭利の刃物のような洞察力と目付き、でもその裏にある優しさや決意の塊なようなものを感じ取れた気がして、私は自然と口を開いていた。
「私……五年前の卒業式の日にね? カナデとツカサが話してるのを見ちゃってたんだ」
「うん。それで?」
「最初は……隠れて見るつもりなんて無くて、声をかけようとしたら、そしたらカナデ顔真っ赤にしてさ、ツカサに手紙をあげてるのを見ちゃったの」
カナデは何も答えない。ただ、当時を思い出すかのように目を瞑って続きを促すようにこくりと頷いた。
私は言葉を詰まらせる。これから先は確実にカナデを傷つける。……いや、実際のところは自分の汚さを見せたくなかっただけなのかもしれない。
私は深呼吸をし、心を落ち着かせ心の内側……ずっと隠し通してきた汚れをさらけ出すことにした。
「私ね? ツカサのことがあの時からずっと好きだったの」
不思議と恥ずかしさや背徳感は感じなかった。カナデも一瞬眉をピクリと動かした後、いつもの淡白で、少し暖かい声色で会話をつなげる。
「そうだったの……まあ、薄々気づいてはいたけれど……それで? 続きを聞かせてもらえる?」
「カナデは自覚がないだけで結構……すごく可愛いからさ、私……妬いちゃったんだよね」
カナデは頬を桜の色に近いピンクに染めてぱちぱちと目を開いたり閉じたりしていた。
その表情が少し滑稽で、それでいて綺麗で私は少し微笑んだ。
私はすぐに緩んだ頬を元に戻し、話を続けた。
「そんなカナデがツカサに手紙を渡しててさ、私……思っちゃったんだ。「あの手紙はラブレターなのかな? あれを読んだらツカサはカナデと付き合っちゃうのかな? それだったら手紙の内容をツカサに見せなきゃいいんじゃないか」ってね。」
──突如、私の頬に一筋の温かい涙が流れた。
長年しまい込んだままだった負の感情が涙とともに体内からこぼれでる。
そんなもの一度でも出してしまえば、後は決壊したダムのように次々と流れ出る。
私は無言で頷き、優しい笑みを見せてくれているカナデの隣で、その後も十分ほど懺悔の言葉と涙を流し続けた。
長年溜まったものをひとしきり出し終えたところでカナデが口を開く。
「そうだったのね……どうりでツカサが私の病気のことを知らなかったわけね。」
「ごめん……ほんとにごめんなさい……」
「いいのよ、ツカサが知ったことでどうにかなる問題でもなかったし……」
それに、とカナデは儚げて、触れると壊れそうな程にもろい作り笑顔で口を開く。
「私も……その弥生の気持ちに気づいてあげられなかったから、おあいこね」
カナデは気楽な様子でそう言った。決して笑い飛ばせる内容ではなかったというのに。
それでも……たとえ強がりでも、自分から逃げずにカナデにすべてを告白することが出来たことが嬉しくて、私はカナデに笑みを返した。
──その後十数分、私とカナデは先程までの話題とは全く関係の無い、世間話で盛り上がっていた。
カナデはパリで、一度告白されたらしい。
カナデは容姿端麗で人付き合いもよく、運動も勉強もそこそこ出来るため、かなりモテる。
女の私ですらドキッとするような仕草もするし、私にない魅力をたくさん兼ね備えている。
……なんというか妬ましい。
その後も私の作ったゲームの話やカナデのピアノの話、ツカサの話などで盛り上がった。
というよりも、ツカサの話で主に盛り上がった。
いつも部室で綾乃先輩や拓真先輩にいじり倒されていること、ツカサが国語のテストだけ毎回赤点な事、それなのに数学、理科に関しては学年一位の座に君臨していること、拓磨先輩と私に研究の論文を書かせたこと。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、私たちはあることに気づいた。
「そーいえば……ツカサは?」
ツカサが病室を出たのは確か一時三十分。現在の時刻は三時前。いくら何でも時間が掛かりすぎている。
「私ちょっと近くを見てくるね。すぐ戻るからちょっと待ってて」
私はカナデにそう言い残し、病室の扉を開く。
私は短く「あっ」と呟く。それに続いてカナデが「どうしたの?」と問いかける。
決してそこにツカサがいたわけではない。私の視線に映ったのは病室のドアの端に置かれた私が頼んだ店のロゴが入った紙袋だった。
☆☆
病室を抜けたあと、ぼくは真っ直ぐに弥生に頼まれたお使いに出かけていた。
正直に言うと、助かった。あの空気に耐えられる気がしなかったから。
ここ最近、色々なことが起こりすぎて何が現実なのか分からなくなってきている。
五年ぶりのカナデとの再開 、しかも宿泊先がぼくの家。同じ部活の入部。
……そして、『マグネットウイルス 』の感染。
約百万人に一人の確率で感染するマグネットウイルス。治癒率はゼロパーセント、不治の病である。
ぼくから両親をも奪ったその病気は、今回のカナデの感染によって完全にトラウマと化した。
両親は意図的にマグネットウイルスに感染し、その病気の治癒法を見つけようとした。
──結果、両親は死んだ。
今になって後悔している。今更後悔しているんだ。
あの時に何故、ぼくの、もしくは両親の知り合いに感染している人がいるかもしれないと気が付かなかったんだ。
何故、両親の研究を引き継がなかったんだ……と。
そんなの気づけるわけが無い? 自分は両親より頭が悪かったから?
そんなの、違う。全部ぼくの怠慢だ、欺瞞だ、決めつけだ。
自分のことばっかりで気付こうとしなかった。
両親のことを超える努力もしないで勝手に決めつけて諦めた。
──結果がこれだ。ぼくが自分勝手で怠惰で、ぼくの視野が狭かったから、カナデが今、苦しんでるんだ。
ぼくは目当ての店につき、シュークリームを二つ、ケーキを二つ、カナデと弥生の分を購入した。
帰り道はなんだか足取りが重くて、駅前のベンチに腰を下ろした。
自分はどうするべきなんだろう。どうあるべきなんだろう。気付くとぼくは拓磨先輩に電話をかけていた。
「おう、ツカサか。どうしたんだ? 」
「ちょっと相談がありまして」
「なんだ? あらかたカナデちゃんの事か弥生ちゃんのことなんだろ?」
「はは……流石ですね先輩」
「ツカサが悩む理由なんてそんくらいしかないだろ?」
「あの二人がトラブルメーカーみたいに言わないでやってくださいよ。弥生に殺されますよ?」
「大丈夫だ。殺されるのはツカサだから。それはそうとツカサ、お前弥生ちゃんの事どう思ってる?」
「幼い頃からの付き合いですしね。少なくとも他人とは思ってませんよ。そうですね、兄妹みたいな感じかな?」
「そうじゃなくてだな……そうだなツカサ、弥生ちゃんの事好きか?」
「もちろん、好きに決まってるでしょ。長い付き合いですしね」
拓磨先輩から「え?」という驚きに満ち溢れたような返事が返ってくる。
数秒が経ち、拓磨先輩は一度咳払いをし、僕に問いかける。
「それはラブか? それともライクか?」
「ライクに決まってるじゃないですか! 冗談はよしてくださいよ」
「そっかそっか。そうだよなぁ。まったく、弥生ちゃんも苦労したもんだ」
「苦労してるのはこっちの方ですよ……毎日毎日しばかれまくって……」
「そうだな。俺もツカサの忍耐力と耐久力は認めてるよ。……ところで話は戻すが、カナデちゃんのことはどう思ってる?」
「どうも何も……弥生と同じで幼い頃からの付き合いですよ? 今更恋愛対象として見られるわけが……見られる……わけが……」
なんで言葉が詰まるんだろう。気のせいか体中が熱い。心拍数が上がってる気がする。
時折、拓磨先輩から呼びかけがあったがそれどころじゃなかった。
今まで味わったことのなかったこの感情が一体何なのか分からなかった。
心拍数は収まることもなく、全身に帯びた熱は下がることもなく、それでも嫌ではない、むしろ心地よいこの感情はなんなのか、知りたかった。
「おーいツカサー? 聞こえてるかー?」
「すいません、少し考え事を……」
「ほほう、考え事かー? タイミング的にカナデちゃんが絡んでるだろ?」
「まぁ、絡んでるといえば絡んでますけど……」
「なんだよー煮え切らないなー」
「分からないんです、自分の感情が。カナデはただの幼馴染で、それは弥生と変わりないはずなのに、どうしてかカナデの名前を聞くだけで笑顔を、声を仕草を思い出して、身体が熱くなるんです。今までは……そんなこと無かったのに」
「ふむふむ……なるほどな。ツカサ、俺、実はツカサに黙ってたことがあるんだ」
「なんですか? 今、それどころじゃないんですが……」
「俺、カナデちゃんの事が好きなんだよ。一目惚れだった」
「…………え?」
ぼくの言葉に載せて拓磨先輩はそう言った。
ぼくはあまりにも突拍子すぎて曖昧な返事しか返せなかった。
ただそれよりも、先輩の放った一言がぼくの胸を深く貫いた。
先程まで帯びていた熱は、今の一言で一気に冷め、足元に悪寒が走った。
今まで感じたことのないモヤモヤがぼくの心を占拠した。
「おーいツカサ? 本当にカナデちゃんの事、なんとも思ってないんだな? それなら俺が貰うぞ?」
「……先輩には綾乃先輩がいるじゃないですか」
ぼくは震えた声でそう呟いた。原因不明、正体不明の感情が波打つ心音とともに増加した。
「ははは。そうだな、でもまあ……今はそんな場合じゃないよな」
「どういうことですか?」
「いや……なんでもねーよ。それよりツカサ、お前はどうしたいんだ?」
どうしたいかと聞かれても、自分がどうしたいのか、まるで分からなかった。それでも、マグネットウイルスの侵食によって苦しむカナデを見るのは嫌だった。
……なら答えは決まってる。ぼくにしか出来ないこと、ぼくがやらなくちゃいけない事はもう決まってる。
「ぼくは……カナデの病気を治したいです。カナデにずっと笑ってほしいから」
「なら決まりだな! ツカサ、お前ならできるよ。俺のお墨付きだ」
「はい、ありがとうございます先輩。とりあえず今やるべき事は分かりました」
「そっか、じゃあカナデちゃんの事、しっかりな? いろんな意味で」
拓磨先輩は子供のようにイタズラっぽく笑って電話を切った。
ぼくもスマートフォンをカバンにしまい、病院へと足を向けた。
走り出したその足は、羽のように軽かった。
病院へと向かう途中、ふとカナデの顔が脳裏をよぎった。
あの、桜を彷彿させる笑顔をもう一度見たい。
儚げな粒子をまとった笑顔をもう一度見たい。
叶うなら、ずっと一緒にいたかった。
自分でもその理由がわからなかった。バカらしいとも思った。今までこんなことを思った事がなかったからだ。
気持ちは浮かれていた。けれどもぼくは一つの強い決心をしていた。
不治の病、ぼくの両親を殺した『 マグネットウイルス』の治療法を探し出すことだ。
☆☆☆
人間、決意してから行動に移るのは早いもので、ぼくは猛ダッシュで病院へと向かっていた。
息を切らしながらカナデの病室の前に着くと、中から弥生とカナデの話し声が聞こえてきた。
普通に入室すれば良いのだが、僕はあえてそうしなかった。と言うよりもできなかった。
今、カナデに会うのに微妙な抵抗があった。気恥しさがぼくの足を停止させた。何より今は他にやるべき事がある。
そのための時間はあまり削りたくなかった。
先程、拓磨先輩との電話の後にある人物に電話をかけていたのだ。
そう、ぼくが今から出会う人物は、この病院の院長でカナデの特別配属医師の椎名 豊氏だ。
普通であれば、話すことも、ましてや直接会うことなど出来るわけがないのだが、椎名先生がどうやらぼくに興味があったらしく、特別に会ってもらえることになった。
ぼくは紙袋を病室の前に置き、弥生にメールで『用事ができたから先に帰る』とだけ残して病室を去った。
きっと弥生はマナーモードにしていて気づかないだろうが、だからと言って何も残さずに帰ると後日、回し蹴りを食らわされるハメになるので一応……と。
そしてぼくが向かったのは椎名先生が待っているという一階にある会議室だ。
ぼくは一階の『 院長 使用中』と書かれたプレートの貼ってある会議室のドアをノックし、入室した。
まず見えたのは四十代後半、院長にしては若い、胸元に椎名 豊と書かれたネームプレートをつけている人物。
椎名先生はぼくが入室してきたのを確認し、笑顔で出迎えてくれた。
「おお、ようこそいらしてくれた。君が望月 ツカサ先生ですね? 前々からお会いしたかったのですが、いやぁ感激ですな」
「いえいえそんな……恐縮です。ぼくの方こそ急におよびしてしまって申し訳ございませんでした。
……あと、『先生』はやめてください。なんだかしっくりこないので……」
「そうですかそうですか。それじゃあツカサ君……いきなりで申し訳ないんだが、今日、私を呼んだ理由をお聞きしても?」
「はい。単刀直入に言いますと『マグネットウイルス』 についてです」
椎名先生は眉をピクリと動かせ、興味を持ったのか目で続きを促した。
「未だ不治の病とされているこの病気の治療法を探したいんです。」
「しかしツカサ君、他にもたくさん不治の病はある。どうして感染者数の少ないとされているこの病気の解明をしようとするのだ?」
椎名先生の言うことはもっともだった。名を挙げたいなら他の病気を、多くの人を助けたいと願う場合も他の病気を選ぶのが普通だ。
──そう、ここからの話は完全に私情なのだ。私情で大人を動かせるほど子供は強くない。
だからここからは拒絶されても仕方の無い話だった。
「ぼくの両親は科学者でした。彼らは当時はまだ、名前も知られていない『マグネットウイルス』の研究を行っていました。結果は失敗。二人ともこの世をさりました。ぼくは一応、死んだ両親のことは誇りに思っていました。その命を賭してでも研究を続けたことは素直に評価します。」
「それで、そのご両親の跡を継ぎたい……と?」
「いいえ、そんなのは建前です。僕の本心はそこじゃないんです。」
「ほほう、では君の本心はなんだね?」
椎名先生は興味を持って質問を投げかける。
「二番ぜんじだと言われても構わない。両親の劣化版と言われようが知ったこっちゃない。周りの評価なんて、ましてやもう一度有名になろうだなんて広い事は考えてないんです。ぼくの視野は先生が思っている以上に狭いんです。ぼくは、自分のために彼女を……音無 奏を救いたいんです」
椎名先生は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに興味を示した瞳をぼくに向け、こう言った。
「……それは、音無さんの事を一人の女性として恋いている……という事かな?」
「……分かりません。これが恋情なのか、それとも別のなにかなのかも、それでもぼくは、彼女のためにやれる事をやりたいんです!」
「ふむ……それで、うちの病院のラボを提供してほしい……と」
「はい」
そう、ここに来た理由はそれだ。まず、研究をすることの出来る場所。次に、カナデに極力近い場所。
このふたつの条件が揃うのはここしかない。
いくらぼくが世界に認められた天才だからといえ、初戦は子供、しかもぼくの成した研究とは全く違う分野での研究。
だから、断られても何も言い返せない。
恐る恐る椎名先生の顔を見ると……
「……素晴らしい! 利益や地位、プライドまで捨て、一人の人間のために事を成そうとするか! ……うん、私は感動したぞ。この病院のラボを君に貸し出そう。……しかし、一つ条件がある」
「条件……ですか?」
「そう、条件だ。大きくわけて二つだな。一つ目は研究を成した暁には、ぜひ、この病院を宣伝してもらいたい。頼めるかな?」
「もちろんです。……それで、二つ目は?」
「君はあくまで学生だ。最低でも午前中は学校に行きなさい。これが条件だ」
「……分かりました」
それだけの条件でラボを貸し出してくれるのは幸運だった。
人は利益を求め、利益のために行動する種族だ。そこを否定したりはしない。
さらにぼくは学生だ。いくら義務教育でないとはいえ、授業に参加しないとまずいものはある。
だから、ぼくはこの条件を受け入れた。
椎名先生はぼくの返答に満足したのか、嬉しそうに頷いた。
「それでは準備がありますので二日後にまた、来てくれるかな?」
「はい。今日は本当にありがとうございました」
そんな形で、ぼくらの話し合いは終了した。
椎名先生との話し合いの後、ぼくは真っ直ぐに家に帰った。
もう時計の針が八時を示していた。きっと弥生も帰っただろうし、面会時間もすぎている。
ぼくは家に帰ると部屋着にも着替えず、長年使われていなかった父の部屋に向かった。
両親が死んでから一度しか掃除をしていなかったため、部屋がカビ臭く、ほこりっぽい。
ぼくは目当てのものを見つけるために部屋中を探索し始めた。
目当てのそれは無造作に両親の机の上に散らかっていた。
緑色のファイルに『マグネットウイルス 』とシンプルに書かれたそれを見て、ぼくはファイルに目を通していく。
そこに並ぶ数列や計算式に頭痛を覚えながらも中身に目を通していく。
全てに目を通し終わり、一息つく頃にはもう時計の針は十二時三十分を示していた。
もうかれこれ四時間近くファイルチェックをしていたことになる。
これでもまだ、半分ほどしか読み終えていない。
ぼくは夕食をとらず、シャワーを浴びて自室のベッドに倒れ込み、いつもよりいっそう濃かった一日を振り返った。
カナデがマグネットウイルスに感染したこと、ごく稀に見せる拓磨先輩の先輩らしい話、ラボの貸出許可が降りたこと。
今になってもこれらが一日に起きたこととは思えなかった。毎日無気力に過ごす青春処理機とも言えるぼくなら尚更だ。
ぼくはそれらを整理しようと脳内で奮闘している際に眠りに落ちていた。
音無 奏 マグネットウイルス完全感染まであと 一ヶ月
☆☆☆☆
ぼくの家の一階、そこにぼくと弥生は向かい合う形で座っていた。
こうなった経緯は分からない。だが、起床して朝食をとろうと一階のダイニングに向かったところ、そこにいるのが当たり前だと言わんばかりの素面でダイニングテーブルのそばにあるイスに腰を下ろしていた。
弥生は目で「座れ」と合図を送ってきたので、仕方なく弥生の反対側に腰を下ろした。
「……で、ツカサはどう思う?」
弥生はぼくが座るのと同時に、そう話題を振ってきた。
正直なところ、なんて返せばいいのかわからなかった。恐らくカナデのことを指していると思われるが、何に対しての質問かまでは分からなかった。
「なんのこと?」
結局ぼくはとぼけることにした。すると弥生は浅くため息をついてダメな子を見るような目線で話し始めた。
「なんのことって……カナデのことに決まってるでしょ? あの子がマグネットウイルスに感染してるってツカサはどう思ったの?」
「驚いた……と言うよりもショックだった。自分とは縁のない存在だと思ってたから。」
「そうよねぇ……あ、そう言えばツカサ? 病室前にシュークリーム置いてってくれてたけど、あの後どこに行ってたの? 帰ったとかじゃないわよね? もしそうならここで殴るわよ?」
「まって! ちがうんだよ! とりあえず話を聞いてくれないかな?」
このまま殴られてしまっては精神的にも肉体的にも限界を迎える。ぼくは必死の思いで弁護をすると弥生は硬く握った手をテーブルの上に置いた。
「で? なんで帰ったの?」
ぼくはそれから昨日の椎名先生とのやり取りを弥生に話した。あえて拓磨先輩との話はしなかった。妙な気恥しさが喋らせてくれなかったからだ。
一通りの説明を終え、しばしの沈黙が二人の間に続く。
ぼくはいつの間にか外していた視線を弥生に向けると、弥生は驚いたような表情でこちらを見つめていた。
「ツカサ……まさかあんた、本気で言ってるんじゃないでしょうね?」
「本気だよ。ぼくはカナデが苦しんでいるのを黙って見てるだけなんて嫌なんだよ」
ぼくは可能な限りの目力で訴えた。対する弥生は涙目になりながら必死に訴えかけてきた。
「それはそうかもしれないわよ! 私だってツカサと同じ気持ちだから……それでもツカサ、あんた忘れたの!?前にツカサが研究を成功させた時の反動の重さを……どれだけ私が心配したのかも……」
「覚えてるよ、あの時は本当に迷惑もかけたし今でも感謝してる。それでも今やらなきゃ絶対に後悔する。そんな気がするんだよ」
「……ツカサは分かってない。私がどれだけ心配したのかも。それに今、どんな気持ちでここにいるのかも……なにも分かっちゃいない」
「ああ本当だよ、ぼくはなにも理解しちゃいないんだ。いや、理解する努力をしなかったんだ……だから今、カナデの問題に取り組もうとしてる。勝手だけど、これは分かってほしい」
「そうだよね、ツカサって普段はなよなよしてるけど、覚悟を決めると急にキリッとなるんだよね。……そういう所、カナデとよく似てる」
「ぼくとカナデは違うよ。カナデは普段からきっちりしてるし……それに大人っぽく感じる時もたまにあるしね」
「それはそうだけど、私からしたらツカサ達はよく似てるわよ。変に頑固な所とかたまに子供っぽい所とかね」
弥生はこぼれそうになった涙を人差し指で拭いながら微笑を浮かべた。ぼくもそれにつられて微笑んだ。
そこからぼくと弥生は学校に行く準備を済ませ、玄関の扉を開き、外へ出る。
梅雨真っ只中のこの時期にしては珍しいほどの快晴で、今のぼくの心情を写しているかのようだった。
しばらくしてから学校に到着し、自分の席に着席する。そこからぼくは、家から持ち出したマグネットウイルスの研究ファイルを取り出し、ひたすらにそれを黙読していた。
一時間目前のショートホームルームが終了し、クラスは休み時間特有のゆるふわ空気に包まれていた。
そんな中孤立して一人で黙々とファイルとにらめっこをしているぼくは、微妙に周りから浮いていた。
一時間目の予鈴が鳴り響き、生徒達は各々の席へと腰を下ろす。
一時間目の現国は教師不在のため、自習となっていた。監督の教師は存在するものの、一部の生徒の質問攻めにあっており、クラスは半無法地帯と化していた。
相変わらずファイルとにらめっこをしているぼくに何者かが声をかけてきたとき、僕の沈黙は破られた。
決して声の主に対する返事をした訳ではない。
簡単に言えば、ぼくは教室のど真ん中で机を思い切り拳で叩きつけ、短く、しかし大きく叫んだ。
辺りは先程までのざわめきを失い、マグネット視線をぼくに集めてきたのが雰囲気でわかった。
しかし今はそんな事がどうでもいいと思えるほどの発見をしていた。
先程からにらめっこを続けていたファイルの一部分、そこにぼくは目を奪われていた。
『今回の研究で、これまでウイルスに建てられた仮説を全て切り捨てる結果が出た。
それは、マグネットウイルスは強力な磁気のようなものを発生させ、臓器を破壊するのではなく、臓器や肉体自体が硬化し、人体から自由と命を奪う病気だということが判明した。
今回私が立てたこの説は疑いようのない真実であるが、治療薬が開発するまでは公にはしないでおこうと思う』
気づけばぼくは、スクールバッグの中に今朝持ってきたものを詰め込み、帰宅の準備を進めていた。
そしてぼくは監督の先生の前まで来て一言「今日は帰らせてもらいます」とだけ言い残し、教室を後にした。
普通の人なら止められてしまう自体だが、ぼく達『技術研究部』にはいくつか特権がある。授業をストライキして、部室で自身の研究をする権利や、学校で寝泊まりすることの出来る権利、そして帰宅自由の権利だ。
今回は部室で自身の研究をする権利を使って授業をストライキした。後にレポートを提出しなければいけないが、進級に必要な単位も揃えてあるので心置き無く学校を後にした。
☆☆☆
ツカサが教室を後にしたあと、クラス中はツカサの話題で持ち切りになった。
いきなり理由もつけずに帰ってしまっては無理もないが、私は周りの憶説に少々腹を立てていた。
「ねーねー望月くんが帰ったのって、最近転校してきた音無さんとできてて二人で遊びにでも行くからなんでしょー? 羨ましいなあ技術研究部って〜。入部したら遊び呆けれるしさ」
「望月の奴、いきなり帰るとかずりーよなぁ。俺も帰ってゲーセンでも行きてぇわ」
「てか、さっき見てたファイルってなんだろー? やっぱあれかな、妖精の涙だっけ? の論文見て秀才ですよアピールとかしてたのかなー?」
そんなツカサの悪口だけが私の耳に入ってきた。本気で言ってる奴らなんて半分もいないって分かってるのに、どうしても腹を立ててしまう。
限界状態の私に、とある男子生徒がトドメをさした。
「せんせー! 俺も大事な用があるんで帰ってもいいっすかー? 望月だけズルいじゃあないっすかー?」
見るからに頭の軽そうな男子生徒は周りの生徒の興味を煽るように教師に語りかけた。
周りの生徒も彼につられてくすくすと笑い始め、完全にツカサがダシに使われてしまった。
私は我慢の限界を迎え、頭の軽そうな男子生徒の胸ぐらを掴んだ。
教室の空気は一気に変わり、今度は私が皆の視線の的になった。
掴まれた途端は驚愕の表情を浮かべていた男子生徒は時間経過とともに表情に余裕ができるようになり、私の怒りを煽るような微笑で口を開いた。
「えっ! なぁに? 弥生ちゃん。もしかして望月をバカにしたから怒っちゃった? そう言えば弥生ちゃんって望月と仲良かったよねぇー? もしかして惚れてたりするの?」
私は耐えきれず、ツカサの代わりに……自分のためにそいつの顔を殴りつけた。
たまらずその場に倒れ込んだ彼を見下ろして、私は感情のままに吐き付けた。
「あなたみたいな頭の軽そうなやつにツカサの何がわかるっていうの!? ツカサがどんな気持ちでここにいたのかをあなたの空っぽの頭で想像できるの? できるわけないわよね!? ツカサはね? 自分のためじゃなくてカナデのために時間と知識、睡眠時間を削ってるのよ? その間あなたは何をしてたっていうの? なんの生産性もない無機質な時間を過ごしたんでしょうね!? そんなツカサをあなたみたいな輩がバカにする資格なんてない。私じゃない、ツカサに謝罪をしなさい! 今すぐにでも」
教室内の室温が一気に低下したように感じた。
それでも全身から汗がにじみ出て、私は彼を睨みつけることしかできなかった。
私に睨みつけられている男子生徒は私に殴られたところを抑えながら唇と膝を震わせていた。
しばらくの沈黙が続き、彼は不服そうな表情を滲みださせ、私に向き直り「悪かったよ」と呟いた。
その後、監督の教師がその後無法地帯に収集をつけ、一時間目が終了した。
☆☆☆☆
ぼくは教室を出た後、家に帰るでもなく、まっすぐと部室へと向かった。
家に帰っても落ち着かないし、何となく部室の方が落ち着くためだ。
ぼくはパイプ椅子に腰をかけ、ファイルを開き先程の続きを読み始める。
ファイルを読み終わり時計を見ると時刻は下校時間を指していた。
お昼も食べずに黙々と読み続けていたがあれから特になにか見つけるでもなく作業が終わり、部室のドアが開く音がした。
「よぉツカサ〜元気やってるかー?」
「拓磨先輩でしたか、元気ですよ」
「やっほーツカサっちー! 今日は教室で乱闘したってマジっすかー?」
続いて綾乃先輩が入室してきた。それに続いて弥生も一緒に入室した。
「先輩、乱闘を起こしたのは私ですよ。まあ、原因はツカサにありますけどね」
弥生が横目で睨んでくる。一体ぼくが帰ってから何があったんだろう。……考えるだけでおぞましい。
「まあ、この話題はさておいて、ツカサ明日から部室来ないのよね?」
「えぇー!?なんで来ないの? まさか……退部?」
「違いますよ彩乃先輩。カナデの病気の研究で病院に通うんですよ」
「あー、なるほどねー。でもそうなると私の遊び相手がいなくなるんだよねえ」
「遊び相手って……ぼくからすれば一方的に遊ばれてるだけなんですけどね」
「細かいことは気にするなよツカサ。それよりも明日からの作業に備えて今日は楽しんどけよ」
「それもそうですね。今日はめいっぱい楽しみましょうか」
それからぼく達はいつも通りにふざけ、笑い合いながら時間を過ごした。
そして帰りは弥生と二人で帰宅し、弥生を家に送った後にぼくは明日からの研究に使う道具を整理し始めた。
一通りの作業が終わり、ぼくはお風呂に入り、軽くインスタントのラーメンを口にし、疲れを取るためにベッドに横たわり、一日を終えた。
次の日は研究に使う道具を入れたキャリーケースを学校に持参し、いつも通りに授業を終わらせ、キャリーケースを転がしながら学校を後にした。
妙に目立った気がするが、それもまた、仕方の無いことだ。キャリーケースを持ち運ぶ学生なんて日本中探しても、恐らくぼくしかいないだろう。
そしてその足で電車に乗りこみ、椎名先生とカナデがいる病院に到着した。
「まだ時間もあるし……ちょっとカナデの様子でも見に行こうかな」
カナデのいる806号室のドアをノックし、中からカナデの声が聞こえてきたので入室した。
カナデはこちらを見つめたまま動かずにベットに横たわっている。
かなり病気の進行が進んでいるのが見てわかった。腕には点滴が刺されており、それを除けば何も無い殺風景な部屋だった。
「どうしたの? 私に何か用でもあった?」
「いや、用って訳じゃないんだけど、しばらくここに泊まり込みで作業をするから挨拶にね」
「なんでこんな所で作業なんてするの? しかも泊まり込みで」
カナデが不思議そうに首をかしげる。少し気が引けたけど、ぼくは正直にここに来た理由を話した。
「そんな、なんで私のためにそこまでする必要があるの? ツカサのご両親も奪ってしまった私の為なんかに、なんでそこまでしてくれるの?」
「父さんと母さんが死んだのはカナデのせいじゃないしカナデが大切だから、それに聞きたいんだ、カナデの演奏を、もう一度最後まで」
「……ツカサ、やっぱり弥生の言ってた通りだね。」
そこからカナデは泣き始めた。ぼくはカナデの代わりにハンカチで優しく涙を拭き取り、カナデに向かって口を開いた。
「ぼくが絶対にカナデを救ってみせる。約束だ」
カナデは「……うん」と短く頷き、ぼくはカナデの右手の小指を自分の小指と絡めつけた。
そしてぼくは病室を後にし、用意されたラボへと向かった。
いざラボへ入ってみると、想像していたものよりも壮大な空間が広がっていた。
大きな机に大量の資料や実験器具、医薬品などが存在した。
そんな驚いたぼくの顔を見て椎名先生は
「どうですか、ツカサ君? 君のために最高のラボを用意しておきましたよ」
「ありがとうございます! 場所だけでもありがたかったのにすみません……こんな事をしてもらって」
「いや、いいんだよ。それより気に入ってもらえて何よりだ。休憩室は奥のドアの向こう側にあ
るからね」
示された部屋は生活するには問題ないくらいの広さがあり、キッチンやトイレ、お風呂までもが完備されており、普通に暮らしていけそうなほどの生活感が漂っていた。
ぼくはそこにキャリーケースを置き、中から資料だけを持ち出してラボへと戻った。
持ってきた資料の内容は一応は記憶したけれど、念の為持参しておいた。
もたもたしている時間はない。早速作業に取り掛かろうと、ノートパソコンを開いた。
この日は結局何も進まなかった。原因もわからないし整備されていた資料に目を通すだけの日になってしまった。
それからぼくの病院と学校を往復する日々が始まった。
日中は授業を受け、夕方から研究を行う日々、それが何日か続いた。
今日はカナデの血液検査とX線による身体の検査の結果が出る日だ。
早速ぼくはラボへと向かい、検査結果に目を通していく。
そこでぼくは驚きの事実を知ってしまった。
その検査結果がマグネットウイルスの全貌を語っていた。
全身の筋肉が固くなり、自由が効かないまま最後に死ぬ。それ自体は間違っていない。
間違いは病名と仮説の方だった。
体内で磁気を発生させて臓器を破壊するんじゃない。正しくは
『全身に血が回らなくなる』だ。
全身に血が回らなくなるから筋肉が動かない。そして筋肉が固くなる。たったそれだけの理屈だったんだ。
ぼくはこんな事にすら気がつけなかったんだ。
ぼくは猛ダッシュで椎名先生のいる院長室へと向かった。
「椎名先生、いますか!」
「あ、あぁ……ここにいるよ」
椎名先生は驚きの表情を浮かべていた。しかしすぐに何かあったんだと気づき、真剣な表情に切り替わった。
「何か……分かったことでもあったのかい?」
「はい、マグネットウイルスの全貌です」
「本当か!? 詳しく聞かせてくれないか?」
「はい、まず、今までマグネットウイルスは体内で強力な磁気のようなものを発生させて臓器を破壊する……とされてきましたが、実は違ったんです。」
「ほう、続きを」
「今回、カナデには血液検査と特殊なX線を受けてもらいました。その結果からカナデの四肢に血液が流れていない事、そしてX線の結果により体の中央部、つまり心臓付近に血が溜まっていることが判明しました。これらの結果から、マグネットウイルスは強力な磁気のようなものを発生させるのではなく、全身に血が回らないため、四肢が動かなくなり、血の循環が狂ってしまい、死亡する。という結論になりました」
「つまり、血の巡りを良くしてしまえばいい……と?」
「簡潔に言うとそうなります」
「マグネットウイルスの仕組みについては理解出来たがその原因と解決方法についてはどう述べる?」
「原因は脈の小ささや血液の詰まりなどと思われます、X線にも遺物らしきものも詰まっていましたし。しかし解決策についてはまだ何も」
「ならもうひとつ、なぜ血が回らないのに患者の四肢は腐敗せんのだね?」
「それに関してはまだ何も分かっていません」
椎名先生はため息をつき、しばらく考え込んだ後、こう言い放った。
「それでは一度、専門医に相談してみるよ。その間、音無さんのところに行ってあげたらどうかな?」
そういえばここ最近、カナデに顔を合わせていない気がする。ぼくは椎名先生にお礼を言った後に部屋を退出して、カナデの病室へと足を向けた。
カナデの病室に入ると、一人でベッドに座って外を眺めていた。
その横顔を見て、ふと気づいてしまった。
──あぁ、ぼくはカナデが好きなんだと
理屈なんかじゃなかった。なんとなくそう感じてしまった。でもそれは思いすごしなんかじゃなく、きちんとした感情なんだと。
あの日拓磨先輩の発言にもやもやしたのもきっと嫉妬だったんだろう。
きっとぼくが頑張っていたのも全部彼女のためだったのかもしれない。
元々カナデのためにやってた事だけどそれとは違う、言葉では表せない何かがあった。
しばらくの間、ぼくがカナデを見つめていると視線に気づいたカナデが首だけをぼくの方に向けた。
「あらツカサ、久しぶりね。今日はどうしたの?」
カナデの質問にぼくは答えずにずっと、カナデを見つめていた。
カナデが不思議そうに何度も「ツカサ、大丈夫?」と話しかけてきて、ようやく我に返った
「あぁ、ごめんぼーっとしてた。今日は多分カナデにとっていい知らせを伝えに来たんだ」
カナデはキョトンとした顔でこちらを見つめてくる。そして次を促すように首を縦に振った。
「マグネットウイルスの仕組みがわかったんだ」
「嘘!? じゃあ私、助かるの?」
「それはまだ分からない。けれど絶対に救ってみせるよ。約束したからね」
「ありがとうツカサ、私のためにそこまでしてくれて。昔からずっと、そんなツカサが大好きだったよ」
そう言われて体内の温度が上がっていくのを感じた。ついさっきカナデのことを好きだと自覚したばかりのぼくにとってはかなりヘビーなセリフだった。
……でもきっと、カナデの好きはライクの好きであって、ぼくのラブとしての好きとは違うんだろうな。
そう考えると胸が痛くなるのを感じた。
そこからはずっと談笑ばかりしていた。
昨日までずっとぼくを除く技術研究部の皆がお見舞いに来てくれたことや、普段のぼく達の生活の事などでその場は盛り上がった。
それからしばらくして、院内放送が流れた。
「望月 ツカサ様 居られましたら院長室まで起こし下さい」
ぼくはドキッとした。きっと結果が出たんだろう。もし悪い結果だったら? このままカナデが死んでしまったら? そんな事を考えていると体温がガクッと下がるのを感じた。
ぼくはカナデに「行ってくるね」と言い残し、その場をあとにした。
音無 奏 マグネットウイルス完全感染まであと
十四日
☆☆☆☆☆
院長室に入ると数人の白衣を着た男性が高級そうなソファーに腰をかけている。
椎名先生は目で「座ってください」と訴えかけてきたので、男性たちと反対の方向に腰を下ろした。
するとぼくと反対側に座っている白衣の男性が小さく咳払いをし、口を開いた。
「望月くん。君の研究結果に目を通させてもらったよ。結論から言うと、素晴らしいとしか言いようがないね。彼女……音無さんに起きている事実と全てが結びつく。専門知識もないのに素晴らしいものだ」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
正直、大の大人にここまで褒めちぎられると嬉しい反面くすぐっくなるような感じがする。
とりあえず悲報では無さそうだったので安堵の気持ちで胸をなでおろした。
「それで……だ、私からこのようなプランがあるのだが、目を通してもらえないか?」
ぼくは差し出された一枚の紙を手に取り、目を通した。
それはカナデのマグネットウイルスの完治するための手術のプランだった。
四肢を切り開き、詰まりとなっている物体を取り出し、血の巡りを活性化させるとのものだった。
専門知識のないぼくにはリスクやレベルの高さがわからないので質問をすることにした。
「この手術における専門医の技術力の高さとリスクはどのくらいですか?」
「正直にいうと分からない。見た感じだとレベルもリスクも高くはないのだが、初めてやる手術なので、その辺りはまだなんとも言えないな」
「そうですか。でしたら一度、カナデに聞いてみます。彼女が承諾した場合、大至急よろしくお願いします」
ぼくは急いでカナデの元に戻り先程の話をした。
すると意外なもすんなりと承諾してくれたのでぼくは院長室へと引き返した。
手術は明後日に行われることになった。
ぼくも荷造りを終え自宅へと帰る準備をしていた。
短い間だったけど、なんだか感慨深いものがあった。
ぼくは次の日に技術研究部の皆にかなでの手術の件を話した。
すると皆が自分のことのように喜び、カナデおかえりパーティを行うことを決めた。
そしてカナデの手術が行われる日、ぼく達は学校を早退して病院へと向かった。
手術前の面会時間でカナデが皆と打ち解けていたのがわかった。
それがなんだか嬉しくて、カナデを送り出すその瞬間までずっとぼく達は五人で笑いあっていた。
そしてカナデの手術が始まった。
ぼく達は控え室でカナデの帰りを待った。
なんだか落ち着かなかった。こんな事って映画やドラマだけだと思っていたからだ。
「カナデ……本当に大丈夫かな?」
「心配なのは分かるよ弥生ちゃん。でも信じて待つしかないんだよ」
「そうだよ、カナデなら大丈夫。きっと手術は成功する」
「おぉー! ツカサっち、いいこと言うねー。後でご褒美にキスしてあげるよ! 弥生っちが!」
「しませんよ! ツカサも真に受けないでよね!?」
「受けてないよ……あ、手術終わったみたいだよ!」
手術室から担架に乗せられたカナデと何人かの医者が出てきた。
ぼくはそのうちの一人に問い詰めた。
「カナデは無事なんですか? 手術は成功したんですか!?」
「あぁ君が噂の……うん。手術は成功だ。これからリハビリを行えば普通の生活を送れるようになるだろう」
その場にいた全員が喜びに喜んだ。
ぼくもまた、皆と一緒に抱き合いながら喜んだ。
ぼくはそんな泣き崩れた弥生をあやしてから院長室へと向かった。
第四章 Restart 〜桜の少女と日常〜
あとから教えて貰ったのだが、カナデの四肢につっかえていた物は脂肪だったらしい。
脂肪が何らかの理由で血管内に侵入し、血流を妨げていたらしい。
そして今日、ぼくはあることを伝えに椎名先生の元へと向かった。
「椎名先生、お話があります」
「あぁツカサ君か、カナデちゃんの手術成功おめでとう。君のおかげだよ」
「ありがとうございます。それでお話なんですけど」
「あぁなんだい? 君の願いなら可能な限り叶えてあげるよ」
ぼくは大きく深呼吸をし、真っ直ぐ椎名先生を見つめ、口を開いた。
「この研究の手柄をこの病院に差し上げます」
椎名先生はポカンとした顔でぼくを見つめる。
「どうしてそうなるんだい? これは紛れもなく、君の研究だ。それをどうして?」
「機材も人員もラボも貸し出してくださったのにぼくの研究だと言うのは気が引けるんですよ。それに結果的にカナデを救ってくれたのはこの病院です」
それだけ言うとぼくは論文を書いた紙束を椎名先生に差し出し、院長室をあとにした。
後日、ぼくの論文が世間に知れ渡った。不治の病だったマグネットウイルスを治療したとされた椎名先生は業界を虜にしたらしい。
カナデのリハビリも昨日で終了し、今日からまた学校に通えるようになった。
その日の授業が終わり、カナデおかえりパーティが始まった。いつもの四人にカナデも混ざって五人でパーティを楽しんだ。
数時間後、パーティが終了し、各自ごみ捨てなどにあたった。
ぼくとカナデは部室内の掃除を任され、他のみんなは外へゴミ出しに行った。
二人きりになった空間でカナデは凛とした声色で話しかけてきた。
「ありがとうツカサ。約束通り私を助けてくれて……本当に感謝してる」
「ぼくがやったことなんてちっぽけなものだよ。椎名先生がいなかったら危なかったかもしれなかったしね」
「それでも私はツカサに感謝してるの。ありがとうツカサ」
そう言ってはにかんだカナデの笑顔にドキッとしながら、ぼくはずっと言おうと思ってた言葉を口にする。
「ぼく、カナデのことが好きだ」
「え?」
カナデの白くて綺麗な顔がみるみる赤色に染まっていく。それでも構わずぼくは言葉を紡いだ。
「気付いたのはつい最近だったけどずっと前から……多分初めて出会った時には君に恋をしていたんだと思う」
カナデは涙を浮かべ、ぼくをじっと見つめる。
「ごめんカナデ! 泣かすつもりはなかったんだけど、その……いきなりごめんね」
「ううん……違うの、私嬉しくって……私もずっとツカサのことが好きだったから、子供の頃からずっと……ずっと好きだったから」
カナデは涙を拭うと目を閉じたまま背伸びをしてぼくの方を両手で掴んだ。
そのままぼくとカナデはそっと唇を重ねた。
柔らかい唇とカナデの髪から匂う桜の香りが鼻孔をくすぐった。
ぼくはもう一度存在を確かめようと、唇を離し、カナデの手を握り、もう一度口付けをしようとすると……
ガタン!
突如部室のドアが勢いよく開いた。
慌てて距離をとったカナデと音のした方向へ視線を向けると、ごみ捨てに行ったはずの三人がドミノ倒しの状態で倒れ込んでいた。
「い、いつからいたんですか!?」
ぼくは叫ぶように問いかけた。
すると一番下に位置する拓磨先輩がにやけ顔で
「ぼく、カナデのことが好きだ。……の辺りから?」
「全部じゃないですか! じゃあ見たんですか!? 」
「見たって何をかなー?」
拓磨先輩はしたり顔でぼくを見つめてくる。
「な、なんでもありませんよ!! ほら、さっさとごみ捨て行ってきてください!」
そう言うと三人は部室から出ていき、ごみ捨てに向かった。
彩乃先輩はカメラを片手に出てき行き、弥生は真っ赤に顔を染めて先輩達とゴミ捨て場へと向かった。
五年前にカナデと桜の木の下でした約束、
『お互いに目標を達成できたら恋人になろう』
ぼくは俯いて顔を朱色に染めているカナデに向かってもう一度、
「ぼく、カナデのことが好きだ」
Rezume〜完〜
半年ほど前から温め続けた作品です。
後半はざっくりになりましたが4万字で収めたいという願望が裏目に出た結果ですね。
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それではまた