プロローグ③
その古風な出で立ち。緋の袴に、あさぎ色の上衣。まるで明治のころからぬけだしてきたかのような様は、薄幸な儚さ漂う美貌に良く合っていた。
猿轡を噛まされ、白く変色したくちびるが、恐怖に抗えなくなッたかのように開き、言葉にならぬ声が、室内に響いた。戸渡は部屋の壁に手を付きその光景から目を反らした。
ありとあらゆる命脈が絶たれた今、彼はヨシキを止める道理を思い付かなかったのだ。なりふりかまわずとめてもよかった。その程度の義侠心ならあってもよかった。
しかしどちらにせよ先は暗闇だ。そんなことをしてもなんになる?
「この幸せもんがよォー。え? なんの苦労も知らないで育って来たんだろォ。ちっせえ頃からよぉー。お嬢様お嬢様って猫可愛がりされてよォ」
あゆみより、髪の毛をわしづかむ。つり上げられた勢いに、背中のお下げが揺れ、苦しそうにしかめられた顔は、八つ当たりの炎に油を注いだだけだった。
一撃が入った。無造作に見えて妙に鋭い蹴りである。爪先が柔い皮膚の向こう側にある胃袋を捉え、しかしながら縛り付けられた少女は踏ん張ることも出来ずに、腹につきささった足の脛に額を起き、二度震えた。
粥のような吐瀉物が、ヨシキのジーパンを濡らした。醜い呻き声と共に、猿轡の間から、少女は吐いた。
「きったねェなゴラァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッッ!!! ンだよ、育ちは良いくせにゲロはトイレでしましょうってのも知らねえのかあ!?」
朦朧としたその顔に、今度は拳が入る。
「オラッ!! オラッ! ボケが! クソッタレ!!! おおァ!!!」
椅子ごと突き倒された少女の無防備な上半身へ、なんども踏みつけが落ちる。あばらが折れるような音がして、ひときわ悲痛な絶叫が室内に木霊した。
ひい、と。引き絞るような泣き声が、響き始めた。足が止まる。それは本当に、なんの変哲もない年若い少女の悲しみの発露だった。
よもやそれが胸をうち、暴力を押し留めたのかと思われたがそれは違った。ベルトのバックルに手を当てたヨシキはそれを不器用に揺すぶりながら弛め始めた。
吐瀉物を口から垂らしながら、骨折の痛みに身をよじる、少女の、滝のように流れる涙は、悪の権化と成り果てた彼からすれば、単に薄汚い興奮を催させる物でしか無かったのだ。
「おい、口開けろよ。おとなしくすりゃ命だけは助けてやるからよ、な?」
くつわを乱暴に下にずらし、荒く泡立った息と共にそう呼び掛ける。
「……ひっ……ひ……やめ、やめて……」
「やめねンだよ。また折るぞ、テメェ。声出すのもつれえだろ? もう一回踏んだら肺に刺さっちまうかもなあ!? オオオッ!?」
唇を殴り付けられ、嫌な音と共に前歯が跳んだ。
うぎぅ、と、呻いた少女の心は屈してしまったのか、震える鳴き声を犬のように吐きながら、頷いた。
「ったんならあくすんだよオラァ!!」
おそるおそると、きれた唇が開き、吐瀉物の残滓と、血の混ざった唾液に濡れた口が、欠けた前歯の向こうに露になった。ベルトの留め具が外れ、少女が目をつぶったその刹那。
彼女は後に述懐している。
その刹那、まるで檻から逃げ出した猛獣の様な殺気が、室内を飲んだ。
と。
疾風。
飛び上がった影の、空中での回し蹴りが、屈もうとしていたヨシキの側頭部を打ち据えた。