7.王子と乞食
ロロットは、両親の顔も名も知らない。
物心ついた時には孤児院にいた。そこに至る経緯も、今では知る由もない。
5つのときだった。伯爵位を持つ貴族に引き取られた。
大きなお屋敷で、それまでとまったく違う、お姫様のような生活を送った。いま思い返しても夢のような日々だ。寝床はいつも温かく、食事は美味しく、家人はみな優しい。自由に外に出られないのは不満だったが、屋敷には沢山の書物があり、退屈はしなかった。
たまに、孤児院のことを思い返した。
ほかの子どもたちはまだ、あのひもじくて寒い、冷たい日々を送っているのだろうか。
そう思うと、彼らに対する同情と、こみ上げる優越感があった。
――きっと自分は選ばれたのだ。幸福な人生を送る権利を得たのだ、と。
とんだ思い違いだった。最初から間違っていた。
十歳の誕生日を迎えた日、初めて養父に犯された。
いまだ幼い身体である。耐え難い激痛と、おびただしい出血。ロロットは激しく泣き喚いたが、養父は気にもとめなかった。それから毎日、昼夜を問わず蹂躙された。
はじめから、ロロットはそのために「買われた」のだった。養父は養父ではなく主人で、ロロットはお姫様ではなく奴隷だった。これまでの温かな日々はすべて、単なる「おもちゃ」の手入れだったのだ。
ただ、そんな日々も長く続かなかった。
ほどなくして、主人が国家反逆罪で捕らえられ、処刑されたからだ。
当時世間を騒がせていた、第一皇子暗殺事件の首謀者だったらしい。
伯爵位のお家は取り潰され、財産のほとんどが没収された。本来なら、ロロットも性玩具として、奴隷市場に上る運命だった。
そうならなかったのは、元の主人の実兄が、ロロットを引き取ってくれたからである。
変わり者で、伯爵家の長子に生まれながら、出奔して魔術学院に入り、そのまま導師として独立していた。
独身男の悪い見本のような男だった。住処も身なりもみすぼらしく、食事にも頓着しない。ほとんど他人と関わりを持たず、ロロットとすら滅多に口を利かない。
自分がしっかりしなければ、とロロットは思った。家事などしたこともない十歳の少女が、あれこれと苦心しつつ、何とか人並みの暮らしが送れるようになったころ、男はようやく、ぽつぽつと語りかけてるようになった。
と言っても、魔法の話しかできない男だ。気がつけば、ロロットもそれなりの魔法知識を得ていた。
十五の誕生日には、成人祝いにと魔導具までもらった。
男が亡くなったのは、その一ヶ月後だった。
今際の際に、自分がもう奴隷でないことを知った。ロロットを引き取るために、彼は全財産を投げ売っていた。
「おまえは自由だ。これからは好きに生きなさい」
男――師の遺言どおり、ロロットは好きに生きることにした。
冒険者になりたい、と密かに思っていた。
幼いころに読んだ物語の影響だ。自分もいつか、血沸き肉踊る冒険に身を投じ、人々に語り継がれるようになってみたい、と。
念願かなって冒険者になったあとも、いろんなことがあった。
確かに、幸せな人生ではなかったかもしれない。
だが、不幸一辺倒でもなかった。むしろ思い返せば、充実した人生だったのではないか。波乱万丈と言えば、聞こえもいいだろう。
それこそ、本に記す時間がないのが惜しいくらいだ。
(まさかこんな終わり方をするとは、思ってなかったけどね)
ロロットは自嘲しつつ、呪文を完成させる。
「【剛發】」
肉体強化の魔法。魔法の力が全身にみなぎって、身体能力が一時的に向上する。
そうして俊敏に短剣を拾い上げ、黒装束の喉をかっ裂いた。
「かはっ」
血しぶきを上げ、「どう」と地面に倒れる。
(一人目。さて、何人道連れにできるかしら?)
「くそ、そいつに構うな、追え!」
「させない、【風撃】!」
風のハンマーが、一人を打ちつけてふっ飛ばした。そして、さらに呪文を詠唱する。
「【宙域】」
窒息の呪文だ。詠唱も短い、優秀な殺人魔術。
が、自ら息を止めるだけで対処できる。対象はそれを知っていたようだ。
(ち――)
舌打ちする間も無く、横合いから斬撃が飛ぶ。
キィン!
間一髪、短剣で受け止める。それなりに心得はある。魔法を使う際にいつもこれみよがしに振りかざしていたのも、ただの魔導具だと錯覚させ、近接戦で意表を突くため。
だが、相手は双剣使いだった。続けざまに二の太刀がとんできて、胸元が裂ける。
「くっ……【風撃】!」
膝を打ちつけ、体制を崩す。そうして、喉元を突き刺して致命傷を与えた。
(二人目)
ざっと状況を確認する。
まだ動いているのは三人。こちらに弓を構えるクレスと、ベルナールたちを追おうとする小剣の男。
あの岩巨人はもう、魔法の範囲外だ。
最初に【風撃】を受けた男はまだ倒れ伏せているが、直に起き上がるだろう。
状況は良くない。いや、はっきりと悪い。
しかし、ロロットは覚悟を決めていた。彼らはアネットの正体を知っている。その利用価値を知っている。どうせロクな目的ではあるまい。いまは流浪の身だが、祖国の平穏を脅かす輩は捨て置けない。
そしてなによりも――。
(〝恩人〟のためだもの。まだまだ働かなきゃ)
ロロットは次の呪文を唱えるべく、魔石を握る手に力を込めた。
○
ベルナールはただひた走る。アネットの手を引いて。
町はもう、目的地はもう目の前だ。
振り返る気はなかった。このまま町まで一気に走る抜けるつもりだった。
しかし――。
「ベルナールさん、ロロットさんが!」
アネットの悲鳴に、思わず足が止まる。
振り返ればロロットの姿がない。
かと思えば、走りもせずに、最初の位置で独り戦っている。
そのおかげなのだろう、こちらを追いすがる人影はあまりに少ない。
「ロロット、何やってる!?」
ベルナールは怒鳴り、続いてアネットの尻を叩いた。
「走れアネット!」
そうして、着た道を駆け戻る。力の限り全力で走る。
だがあまりに遅い。脇腹を貫いた矢傷が原因だ。痛みを我慢したところで、どうしても体幹に不都合が生じる。
――冗談じゃねえ、いまさらさよならなんて無しだぜロロット!
焦燥が募る。自分の不甲斐なさに腹が立った。あのバカ真面目が、妙な使命感を持っているのは気付いていた。
だがまさかここまでとは。彼女が残ると知っていたら、自分も一緒に戦っていた。
――いや、だからか。
ベルナールは歯ぎしりし、余計な思考を捨てた。いまはとにかく走る。ロロットの元へ。一直線に。
しかし、立ちはだかる者があった。
「そこを退け、こぞう」
岩巨人の剣士だ。ベルナールより一回り大きい。腕まわりは二回りか、三回りか。構えた肉切り包丁は、冗談のような大きさだ。
「はっ、岩巨人ごときが人間の言葉しゃべってんじゃねえよ。死にたくなかったら回れ右しろ」
「くだらん辞世の句だな」
岩巨人は吐き捨て、大剣を無造作に薙ぎ払った。
(うお……っ!)
戦斧で受け止めるが、重すぎる一撃だ。ベルナールの巨体が「ふわっ」と宙に浮いた。
驚愕する間もなく次の一撃が飛んでくる。
これを踏み込みつつ躱し、ベルナールは果敢に突進した。
「む……!」
意表を付かれたのか、岩巨人の顔が驚愕に見開く。
が、振るった斧は「つか」で受け止められ、ベルナールはそのまま押し飛ばされた。
開いた間合いに、鉄塊が飛んでくる。それを、斧で叩き落とす。
凄まじい打ち合いが始まった。
(この野郎、でかいくせになんて反応してやがる)
見かけ倒しの長物など、懐に入れば終わりだと思っていたが、この岩巨人は手練れのようだ。この鉄塊で剣術を使う。
この分厚さでは、ふつうの剣のようにへし折ることもできない。なのに手数は、並の剣士をはるかに越える。
正直言って分が悪い。
「こぞう、諦めろ。貴様に勝ち目はない」
「うるせえ、てめえこそさっさとそこを退きやがれ!」
ベルナールは咆哮し、全力で斧を振るった。
びゅっ、と風を切る音。
クレスの一射だ。ようやく視力が回復したか。正確無比な彼の腕を信頼し、ロロットは心臓をかばうように半身を向けた。
ずぶり。
肩口に衝撃と激痛。こらえて、唱えていた呪文を完成させる。
「【灼弾】!」
飛ばした火球が、駆け出していた小剣男の背に命中する。炎はまたたく間に燃え上がり、男を丸焦げにした。
倒れた男はまだ生きているようだが、治癒魔術を施さない限り立ち上がれまい。
だが、ロロットの傷も深い。
(三人目。でも、ここまでかしらね)
内心ぼやきつつも、敵に向き直る。
矢をつがえるクレスと、もう一人、曲刀を構えた男がにじり寄ってくる。
「ここはいい。おまえは娘を追え」
クレスの言葉に従い、曲刀の男が駆け出した。止めようと動くと、脚に矢が突き刺さる。
「ぐっ!」
ロロットは地面に膝を付いた。
「随分と手こずらせてくれたな」
矢をつがえつつ、クレスは言った。矢尻は、ロロットの眉間をまっすぐ狙っていた。
(さすがにスキがないわね。でもここまでやれば、〝恩返し〟には十分かしら?)
ロロットは微かに笑みを浮かべた。
そうして、あることを思い出していた――。
――あなたはどうするの?
セヴラン宅で、ロロットがその質問したあと。
ベルナールは手紙を差し出したまま、しばらく無言だった。ロロットはそれに手を伸ばそうともしない。
蝋封に付いた家紋が問題だった。
「こんないわくありげな物、おいそれと受け取れない」
ベルナールは自嘲的な笑みを浮かべて手を下げた。
「なあ、ロロット姐さん。ちょいと昔話をきいてくれねえか」
「……手短にお願いするわ」
「ははっ、手間は取らせねえ。なに、馬鹿なガキんちょの話さ。そいつはちょっとした屋敷の跡取りだった。だが聞かん坊でちっとも落ち着きがねえ。いつも抜け出して町へ繰り出してた」
ある日のことだ。
町で自分とそっくりのガキに出会った。
まったく、鏡で映したようにうり二つだった。
自分と似たやつは憎たらしいって言うが、ふたりは違った。妙に気があって、すぐに仲良くなった。
違ったのは生まれだけだ。
片方は金持ちで、自由な暮らしに憧れてた。
もう片方は貧乏で、贅沢な暮らしに憧れていた。
どっちが言い出したかは憶えてねえ。ちょいとした出来心さ。
入れ替わってみよう、ってことになった。
すると、お互い結構うまくいくじゃねえか。調子に乗っちまって、そんなことを何度も繰り返していた。
……そのうち、貧乏な方のガキが、金持ちの屋敷で殺されちまった。くだらねえお家騒動の巻き添えさ。
残った方は復讐を誓った。そしてそれを遂行した。
だが心残りがあった。
身重の女が一人、復讐の巻き添えをくって追い出される羽目になったんだ。
それだけがずっと気がかりだった。
記憶の面影だけを頼りに、ずっと探し続けて――。
「ようやく見つけた。この村でな」
「……」
「アネットは俺の妹だ。あの子の母親は俺のせいで死んだ。俺のわがままのせいでおっ死ぬ羽目になった。アネットだけは幸せにしてやりてえ。頼む、力を貸してくれ」
とても真摯な、澄んだ眼差し。
それに対するロロットの答えは、あまりに突拍子もないものだった。
「私を皇妃さまにしてくれるなら、考えてもいいわ」
ベルナールは目を丸くして唖然とした。そのまま、しばらく口を利かなかった。
「どうしたの。そのくらい、あなたなら簡単でしょう?」
ベルナールは心底困ったように、頭をかきむしった。
「そいつぁ無茶だぜロロット。俺はもう死んだことになってる。いまさら城に戻ったって、誰が相手にするっつーんだ」
「誰でも相手をするわ。皇都を揺るがす大ニュースになるわね。15年前に死んだはずの第一皇子が、実は生きていて、諸国漫遊の旅に出ていた――」
「やめろやめろ。俺はもうごめんなんだ、そういうごたごたは」
「そう。どちらにせよ、その手紙は受け取れないわ。自分で渡したらどう?」
「待て、これならどうだ?」
と、ベルナールが見せたのは指輪である。彼のごつい指には少し小さな……そう、まるで子どもがするような指輪。
手紙に封印を押したものだ。
「いくらでも悪事が思いつく魔法の品だぜ。あんたなら、いい換金先を知ってるんじゃねえのか?」
「私を何だと思っているのかしら。そんなもの要らないし、報酬ならもう頂いたわ」
「へ?」
「何してるの、早く。一緒に探しましょう、あなたの妹を」
きょとん、とするベルナールを捨て置き、ロロットは出口へ向かう。
その背に声がかかった。
「なあ、皇妃じゃなきゃダメか?」
ベルナールは破顔して、後ろ頭をかきながらこう言った。
「適度な屋敷の奥方になら、してやれると思うんだが」
今度はロロットが「ぽかん」と口を開けて固まって。
それから笑った。腹を抱えて笑い続けた。
笑い過ぎて、涙まで出てきて――。
(あの時の、あいつの顔ったら)
知らず、ロロットは満面の笑みを浮かべていた。
自由になってからも、何人もの男に組み敷かれてきた。望んだ夜もあれば、望まぬ夜もあった。女が一人で生きて行くには辛い世の中だ。自分が不幸だとは思わなかったし、それが当然だと思っていた。
だがまさか、人生ただ一度のプロポーズが、あんなかたちになるとは思いもしなかった。
「魔導具がフェイクだったとはな」
クレスが不意に、感心したように言った。
「参考までに教えてくれるか? 本当の魔導具はどこに隠し持っている?」
「ふふ、答えたら見逃してくれるの?」
「あんたは思ったより腕が立つし、見てくれも上等だ。仲間になってくれるなら歓迎するぞ。いい仕事を紹介できる」
「美人局でもやらせるつもり?」
「もっと実のある仕事だ。危険はあるがな」
クレスは油断なく弓を構えている。
ロロットはにっこりと笑って答えた。
「お断りするわ。もっと条件の良いお勤め先があるの」
クレスの眉間に皺が寄った。
「天国か、それとも地獄か。現世より良い場所とは思えんが」
「あなたには分からないわ。女には、命より大事なものが結構あるのよ」
「そうか、残念だ」
告げて、クレスは弓を引き絞った。
ロロットは柔らかに微笑んだまま、静かに目を閉じる。
本来なら、ただ使い潰されるだけだった人生に、誰かが光を当ててくれた。
ひとりは、成長したロロットの姿を満足げに眺め、穏やかに旅立った。
もうひとりは、ロロットを救うきっかけになった行動を悔やみ、その罪を背負い続けている。
ならば、それを救うのはロロットの役目だ。
(私はもう充分。好き勝手生きて、やるべきことはやった。あとはどうか――)
――どうか、神よ。あの兄妹に幸せな結末を。
「さよならだ、ロロット」
ぎりり、と弓が音を立てる。
闇に抱かれ、その時をひたすら待つ。
ぷつっ。
ロロットは、何か糸が切れるような音を聞いた。
○
――ガキンッ!
大きな火花がとんだ。
大剣を受けたベルナールの斧が上げた悲鳴だ。刃はぼろぼろに欠け、いくつも亀裂が走っている。
(まずいな……もうあと一撃も保たねえ)
「いつまで続けるつもりだ。このままでは死ぬぞ」
「そっちこそ何のつもりだ。俺を殺すのが怖いのか? お遊びなら他所でやってろ」
「それはこちらの台詞だ。早くそこを退け、もとより貴様の命など興味はない」
「そうは行くかってんだ。アネットは俺の宝だ。てめえなんぞに指一本触れさせねえ」
「強情なやつだ」
岩巨人の大剣が、初めて突きを放った。
(しめた!)
鉄塊の側すり抜け、巨人の小手に向け斧を振り上げる。
が、巨人は向こうからも間合いを詰め、ベルナールの腹に蹴りを放った。
「ぐふっ!?」
完全に意表をつかれ、ベルナールは吹っ飛んだ。しかも、取り落とした斧を、巨人が容赦なく粉々に叩き割った。
「ちっ……」
うめきつつ身を起こすと、後方から別の敵が現れている。曲刀を構えた男だ。
(万事休す、か……)
内心で諦観しつつも、拳を構えて起き上がる。
(すまねえな、ロロット。バカなことに巻き込んじまって。あの世で会ったら、またよろしく頼むぜ)
ふと笑う。
満足だ。きっと時間は十分に稼いだろう。アネットは無事逃げ切り、町で第二の、幸せな人生を始めるはずだ。
だから、あとは消化試合のようなもの。
ベルナールは歩み寄ってくる曲刀の男に狙いを定め、渾身の拳を振り抜いた。
「おっと」
だが難なく避けられ、反撃がくる。
それを右手の小手で受け止め、無理やり距離を詰めてつかみかかる。
すると、男はひょいと身をかがめてベルナールを腰にのせ、そのまま投げ飛ばしてしまった。
「元気なやつだな。そろそろ寝ろ」
曲刀を振り上げる。ベルナールはうまく身体を抑えられて動けない。
「やめて!」
制止の声があがった。
信じがたい声だった。神に祈りつつそちらを見やると、やはり立っていたのは――。
「ありがたい、そっちから来てくれるとは」
アネットだった。
「何してんだアネット!」
ベルナールは怒鳴った。しかし、さらに言葉を続けようとして、逆に怒鳴り返された。
「約束したもん!」
(約束だ?)
ベルナールは唖然とした。何の話だ? 記憶にない……いや、確か。
「最初の日! 一緒に町を案内してくれるって、約束したもん!」
(ああ……)
「だから一緒じゃなきゃダメなの! あなたたちを犠牲にして生き残っても、私はちっとも嬉しくない!」
(ああ、そうだよなあ。あんたの娘だもんなあ、アネット)
ベルナールはかすかに笑った。狩人の村についた初日、彼女を見てもしやと思った。どうしても話がしたくて、まるで初心な小僧のような会話をしてしまったかもしれない。
だが、そんなことはどうでもいいのだ。アネットにとっても、ベルナールにとっても。
ベルナールは彼女に生きていて欲しいし、彼女は自分を死なせたくないという。
なら、とるべき道は一つしかない。
アネットは男をにらみつけ、怒鳴った。
「着いていくから! 言うこと聞くから、これ以上、彼に酷いことしないで!」
「いい子だ。さあ、こっちへ」
曲刀の男が手を差し出す。
きゅっと口唇を結び、アネットは手を取った。
「くそ……」
ベルナールは歯噛みして、己の無力を呪う。
アネットは柔らかに破顔して言った。
「私は大丈夫だよ。だって生きてればきっと、良いことがあるから」
「……いや。ここでおしまいだ」
不穏な気配で空気が震える。
「何?」
「あぶねえっ!」
ベルナールはとっさにアネットを引き倒す。
ごお、と鉄塊が通り過ぎた。
「あ?」
その途中にいた曲刀の男は、間抜けな顔のまま、身体をふたつに割られて死んだ。
岩巨人は味方の男ごと、アネットを叩き切ろうとしたのだ。
「まだだ」
再び鉄塊が振るわれる。
ベルナールはアネットをかばった。
そして肩口から、大きく切り裂かれた。
「ベルナールさん!?」
アネットの悲鳴。幸い彼女は無事なようだ。
だがベルナールはついに、致命傷を負ってしまった。
「てめえ……どういうつもりだ?」
力なく地面に崩れ落ち、ベルナールはうめく。アネットの身柄が狙いではなかったのか?
岩巨人は鼻を鳴らした。
「どうもこうもない。オレは最初からそのつもりだ。こやつらはくだらんことを考えていたがな……だからこそ、その娘はこの世にいてはいかんのだ」
「勝手なこと言ってんじゃねえ。この子には何の罪もねえ」
「同感だな。だが周りが放っておかん。哀れなことだ」
岩巨人は大剣を振り上げた。
そして、一瞬だけ黙祷したようだ。
「これは正義だ。迷わず旅立て。さらばだ」
大剣が、勢い良く振り下ろされ――。
――なかった。
ぼきぼきぃっ!
いきなり爽快な異音とともに、岩巨人の身体が「く」の字に折れ曲がった。
途方もない衝撃が、彼の横合いから肋骨に突き刺さったのが分かる。その衝撃のまま、岩巨人はもんぞりうって地面を転がった。
「――!?」
驚愕に凍りつく空気の中、誰の耳にも届かない、ごく陽気な声が、空気を震わせた。
「あー、いまのめっちゃスッキリした」
もちろんリョウだった。
全速力の助走のまま、何の遠慮もなく放ったドロップキックだった。間違いなく、リョウにできる最高威力の攻撃だ。
それでも、岩巨人は身を起こし、立ち上がろうとしている。敵ながらあっぱれだった。
「でも……」
ちらり、と横を見る。
ベルナールはヒドい怪我だ。もうじきやってくるロロットの魔法で何とかなるだろうか?
そしてアネットだ。
アネットが泣き叫んでいる。顔を涙と鼻水でびしょびしょにして、悲しんでいる。
リョウは怒りをみなぎらせて岩巨人を睨んだ。
「これがあんたの正義? ぼくの知ってる全次元共通の常識と大分違うよ」
そしてくるりと槍を回し「ピタ」と石づきを向けて構えた。
「知らないならいま覚えろ。『可愛いが正義』だっ!」
突進。
岩巨人にくらべてあまりにも小さい、それこそ小人のような身体が、全力で大地を踏みしめ、全体重を石突きに乗せて、胸の中心を打ち据える。
どんっ!
凄まじい手応え。全身があまねく喝采する反動。リョウは確信した。これまでで最高の一撃だ。
岩巨人は雷に打たれたように全身を震わせ、仰向けに倒れた。
リョウの勝利だった。
(いや、完全不意打ちで勝負も何もないけどさ)
天を仰いで、リョウはしばらく荒い息をついた。
(っていうか「は」を「が」に変えるだけで物凄い暴論になるな。でも「力こそが正義!」とか厨二病っぽいのよりは共感できるか)
正義とは言葉だ。
ただの抽象名詞である。実態のない、千差万別、変幻自在の言葉。その定義を論じるのに意味はない。
でも、時に人は言葉にすがりたくなる。例えば、自分の言動に疑問を持った時などに。
この巨人はどうだったのだろう?
「う……ぐぐ……」
視線を向けると、どうやらまだ意識があるようだ。呆れた体力である。さて、どうしようか――。
「【灼弾】」
背後からトドメが飛んでくる。火球はすぐさま燃え上がり、敵の命を終わらせた。
「ロロット……」
やってくる女魔法使いを、リョウは悲しく見やった。結局クレスにトドメをさしたのもロロットで、リョウは弓の弦をハサミで切り、腰の小剣を奪いつつ殴り倒しただけだった。ロロットは躊躇なく、彼の喉をかっさいていた。
「ベルナールさん! ベルナールさん!」
アネットは叫び続けている。もうさっきからずっと。おそらく、岩巨人が倒されたのも気付いていない。
「……」
ロロットはベルナールの容態を見るなり、悲痛に表情を歪めたが、すぐに治癒魔術の詠唱を開始した。
(治るかな。治るよね。ここまで来たんだし。主人公補正あるでしょ)
リョウもただ祈る。
名も知らぬこの世界の神に。故郷の神と仏に。全時空のあまねく高次元存在に。
どうか、この勇者を助けてあげてください――。
「アネット……アネット、か?」
不意にベルナールが、何か熱にうなされたようにうめいた。
「そうだよ。私、アネットだよ」
アネットが涙声で答える。ベルナールの大きな手が、彼女の頬を優しく撫でた。その目は、まるで焦点が合っていない。
「はは……ちっとも変わってねえ。あんたは相変わらず綺麗だ」
「ベルナールさん? ベルナールさん!」
がくん、と。
ベルナールの手が落ちた。アネットは慌ててその手を抱きしめ、ロロットを見やる。
「……」
ロロットは首を横に振った。彼女はすでに呪文の詠唱を止め、反対の手を握りしめていた。
「そんな……あんまりよ……こんなのってないよ!」
アネットは叫ぶ。
その時、ベルナールの目に光が戻ったように見えた。
穏やかに破顔して、彼はこう言った。
「いいんだ、アネット。俺はひでえことをした。決して許されねえことだ。これは報いだ。だから、気に病むことはねえ。それよりどうか、どうか幸せに……うぐっ!」
「ベルナールさんっ!」
抱きしめた手が力が失うのが分かる。アネットは必死でつなぎとめる。頬に押し当てたまま、呼びかけ続ける。
ふっ、と。彼の目が再び焦点を失った。
「……許してくれ、アネット。許してくれ、ベルナール……ああ、なんだ。迎えに来てくれたのか。おまえは相変わらず心配性だなあ……」
そして事切れた。
アネットが泣きわめく中、ロロットは沈痛な表情で、天を仰いで黙祷した。
それから、ベルナールの目元にそっと手を当ててまぶたを閉じ、泣きじゃくるアネットの背を撫でやりながら、嗚咽混じりにこう言う。
「テオドール。それが彼の――あなたのお兄さんの本当の名前よ。よく憶えておきなさい」
「テオドール……兄さん」
アネットはしばらく呆然としていたが、不意に何かを悟ったように、口元を「きゅっ」と引き締め、ベルナールの遺体を背負って立ち上がった。
「アネット、何を……」
「町へ行くんです。兄さんと一緒に。約束、したから」
巨漢の身体は、華奢なアネットにはあまりにも大きすぎた。
何度も転びそうになりながら、それでも一歩一歩、大地を踏みしめて歩く。
「……」
ロロットが無言で、それに手を貸した。うなずき合い、両脇に身体を潜り込ませ、ふたりで背負って歩く。
その歩みを、リョウはただ見守っていた。
ベルナールはきっと、己の役目を全うした。命を燃やし尽くして成し遂げた。
共に戦うこともできなかった自分が、この英傑に触れるのは冒涜だと思った。
だから歯を食いしばって、手に持つ槍に力を込める。
彼らの歩みを邪魔するものがまだいるというなら、何に変えても排除する。排除して見せる。
視界の向こうでは、ようやく上った朝日に照らされ、町の影が急速に縮まっていく。
そこまでの距離はもう、いくばくもなかった。




