3.冒険者ってカッコいいね
同心円の中心に突き立てた棒が、高い日差しに照らされ、短い影を投影する。
手元の時刻表示は15:12。
それらを交互に見比べて、リョウは深々とため息をついた。
「まさかの一日27時間……」
ごく簡単な方法で南中時刻を測定して二日目。昨日、同じ時間に12:00ちょうどに合わせたはずのデジタル表示は、大きくずれてしまっている。
彼の一番の宝物が、本来の役目を果たせないと知った瞬間だった。
「いや、でも、巻いてるとなんかカッコいいし」
負け惜しみよろしくつぶやく。
確かに、装飾品の代わりにはなる。見せる相手がいれば、だが。
「アネットもそう思うよね?」
と、小川で洗濯に勤しむ美少女に語りかける。
「~♪」
彼女は涼やかに鼻歌を漏らしている。もちろん、リョウの問いかけに返答はない。
「こんな可愛い子にまでシカトされるとか……いやまあ、元の世界でもそうだったけど」
リョウはぼやいて、手に持つナタをくるくると回した。
自宅で療養中の狩人さん――セヴランの持ち物だ。
「魔物が出るかも知れん」
と、やたら娘の身を案じていたので、リョウが自主的に警護を務めている。
「アネットのお父さんって心配性だね。分からなくもないけど」
「フンフンフ~ン、きれいきれ~い♪」
アネットはなぜかご機嫌である。
リョウが側にいるから、という理由では100%ない。彼女は、日浦リョウという存在そのものを知らないのだから。
アネットは「可憐」という言葉がよく似合う少女だ。
年は14になったばかりらしいが、一日27時間での14歳だから、地球年齢に換算すると16歳くらいだ。身体つきはしっかり大人で、それなりに色気もある。
父親があれこれ心配するのも無理はない。魔物が云々も建前だろう。なにせいま、この村には「冒険者」とかいうならず者が何人も滞在しているのだから。
「ようアネット、調子はどうだ?」
そのうちのひとり、斧戦士のベルナールがふらっと現れた。
――ように、アネットには見えただろう。実は違う。さっきからそこの木陰で、野卑た笑みを浮かべつつ出る機会を伺っていたのを、リョウは知っている。
「そりゃ悪い虫も付くよな。さて、しっかり務めを果たさないと」
リョウは果敢にもベルナールの前に立ちはだかる。
見上げるほどの巨漢だ。190cmくらいはある。強面で、迫力は十分。
しかし、ワイバーンや大熊ほどではない。それ以上だったとしても、リョウにとっては無意味である。
もっとも、リョウが立ちはだかるのも無意味である。あちらには見えてないのだから。
歩み寄る巨漢に、アネットは笑顔で応じた。
「こんにちは、ベルナールさん」
「洗濯物か。手伝ってやろうか?」
「いえ、もう終わりますから」
「なら、家まで運ぶぜ。その細腕じゃ大変だろう?」
食い下がる巨漢。どついてやろうかと思っていると、別の声がかかった。
「いい加減にしなさいベルナール。尻に火を付けるわよ」
そこにいたのは、陰気な黒ローブの女性だった。
魔法使いのロロットである。
手に持つ短剣は「魔導具」と言って、魔法を使うために必要なもの。
その切っ先には、拳大の火の玉が赤々と燃えている。先の台詞は比喩表現ではないらしい。
「ちょっと〝お話し〟してただけじゃねえか。何が気に入らねえ?」
「あえて言うならあなたの面構えよ。女漁りなら、町に戻って玄人相手にやりなさい」
「てめえにゃ関係ねえだろ。嫁かず後家の僻みか?」
途端、火球が高速で発射され、ベルナールの頬をかすめたあと、背後で炸裂した。「ごおん」という爆音とともに、熱風が吹き荒れる。
「二度は言わないわ。消えなさい」
「ちっ、調子に乗りやがって」
ベルナールは吐き捨て、肩を怒らせて去っていった。
それを見送ったあと、アネットは目を輝かせてロロットに駆け寄った。
「魔法って凄いですね、初めて見ました!」
ちなみにリョウは二度目なので、初見ほどの感動はない。
今回はむしろ、ベルナールのふてぶてしさに感服している。喩えるなら、銃を突きつけられて脅されるようなものだ。その上であの態度が取れるのは、単純にすごいと思う。
「あんな男にまで、愛想良くしなくてもいいのよ」
「いえ、村のために来てくださってるわけですから」
「とんでもない。冒険者が動くのは、いつだってお金や名声のためよ。好きでやってるんだから、恩に感じなくていいわ」
ロロットはさらりと言い切った。
(さすが姉御。言うことが違う)
リョウは内心でロロットを讃えた。実はすっかり彼女の人柄に惚れ込んでいる。今回の件が終わったら、彼女について回るのもいいかな、と思っていた。魔法以外にも色んなことを知っているし、学べることも多いだろう。
今回の件――。
ロロットたち冒険者の一行が、ワイバーンを退治するまで、である。
○
大熊を撃退したあの晩から。
つまり、日浦リョウが異世界にやって来てから、3日が経過している。
この間、リョウは狩人セヴランの家で勝手に寝泊まりし、アネットの手料理をつまみ食いしつつ、村で情報収集に勤しんでいた。
村は人口3百人ほどの小さな山里だ。
昔から狩りで生計を立てる村だったらしい。山の鳥獣を狩り、肉を食べるだけでなく、毛皮や骨から服や工芸品を作り、ふもとの町で売って糧とするのだ。
いちおうジャガイモの栽培もしている。
畑はすべて、名目上は村人の共有財産で、村長のアルマンが管理している。女子供は畑を耕しつつ村を守り、男は森に出る、というのが村人たちの生活だ。
「異世界ファンタジーらしい文明レベルで涙が出るなあ」
リョウは嘆いたが、自分でも不思議と、インターネットやテレビのない生活に順応していた。
新しい情報が山ほどあるからだろう。すでにノートは一冊、異世界の情報でびっしり埋め尽くされている。
ワイバーンはずっと昔から、あの場所をねぐらとしていたようだ。
しかし、村が被害を受けることはなかった。
なぜかというと、地形が関係しているという。
狩人の村は山間の盆地にあって、周囲は高い木々に囲まれている。飛び立つのに十分な滑空距離を必要とするワイバーンは、こういう場所には滅多に降りてこないのだ。
「それじゃ、退治する必要なくない?」
と、リョウも最初は思ったが、昨年あたりから事情が変わった。
近年の大寒波が原因だ。
寒さを凌ぐため、燃料――薪の消費が激増したのだ。農作物の収穫量も激減し、それを補うため、村は伐採と開梱を余儀なくされた。
平地の土地はすぐになくなり、山肌や高台をも切り開いた。ワイバーンにとって格好の餌場となる場所だ。
実はすでに、今年に入ってから女子供ばかり四人も失踪している。目撃者はないものの、全員、高所の畑で作業していたらしい。
そこで、村の皆で意見を整え、町の冒険者ギルドに依頼をかけた。そうしてやって来たのがロロットたちだ。
冒険者――どうやらテンプレどおりの職業である。
「金と名誉のためなら、どんな危険も厭わない」
そんなならず者たちが、ワイバーン退治にやって来た田舎の村外れで、「魔物」に遭遇するとどうなるか。
つまりこうなる。
「魔物がいるってことは、魔石の鉱脈でもあるに違いねえ。探し当てれば大金持ちだぜ!」
セヴランたちの報告を受け、真っ先にそんな声を上げたのはベルナールだった。
「もしそうなら、早急にギルドか領主に報告すべきね。私たちの仕事は飛竜退治よ」
ロロットはすぐさま異を唱えていた。
飛竜というのはワイバーンのことらしい。
この怪物を退治するため、村にやってきた冒険者は全部で6名。
だがそのうち、ロロットの意見に賛同したのはわずかに一人。ほかの3名は明確にベルナールを支持した。
ともに大熊と戦った(とリョウが一人で思っている)あの傭兵さん――剣士のヴィクターも、ベルナールに賛同し、こんな意見を述べていた。
「最初っからおかしいと思ってたんだ。村人の失踪も飛竜の仕業じゃないぜ。魔物の仕業だ。無意味な仕事に命を賭けるより、さっさと鉱脈を抑えて、魔物の出現を抑制すべきだ。もちろん、ギルドに報告する前に、一塊か二塊くらいはもらっておこうぜ」
魔石というのは、魔法の源になる鉱物で、同質量の金塊など比較にならないほど高値がつくらしい。つねに青白い光を放っていて、超時間晒された生き物は段階を経て凶暴化し、最後には「魔物化」する。
ゆえに、既知の鉱脈は権力の管理下に置かれる。それが法である。
セヴランが「この山に魔物はいない」と言っていたのが気にかかったが、何かの拍子に、埋もれていた鉱脈が地上に出ることはままあるらしい。この村では、それがたまたま最近だったのだろう。
「ギルドの情報網を侮らないことね。一度受けた依頼を破棄した冒険者が、どこかで魔石を換金する。足がついたら信用を失うどころか、下手したら賞金首よ。私はそんなのごめんだわ」
理路整然と揺るがないロロットの意見に、ついには他の5人も降参し、ひとまず依頼通りに飛竜退治をすることになった。
飛竜という怪物は、魔法使いを有するパーティにとっても難敵らしい。
一行は周到な情報収集を行い、綿密な計画を立て、ようやく今日、「竜のねぐら」へ出立する。
もちろん、リョウもついていく。
「あんなのどうやって倒すんだろ。ワクワクしちゃうな」
大作映画でも見に行く気分である。
いちおう、セヴランのナタと、村長邸から勝手に拝借した立派な槍を装備している。万が一の時は戦うつもりだった。
「あんたらだけが頼りだ。でも、一人も欠けずに帰ってくるんだよ」
見送る村人たちを代表し、長老のイオナ婆さんが温かい言葉を贈った。ほかのみなも口々に、勇敢な冒険者たちを称える。ちなみに、魔石と魔物の話は伏せてある。余計な混乱を避けるためだ。
「あの化け物は必ず始末する。約束するわ」
一行を代表してロロットが宣言すると、「わっ」と歓声が上がった。
まさに、村の為に死地に赴く勇者たち。
彼らに向けられるエールに、リョウも手を振って答えた。
――見えてないけど。誰にも見えてないけどね!
さて、道中。
険しい山道だが、冒険者たちの足取りは軽い。紅一点のロロットですら、涼しい顔ですいすい歩く。時々、談笑する余裕すらある。
リョウは彼らに着いていくので必死である。
「体力も少しは上がってるかと思ったけど、やっぱりプロには勝てないか」
悔しくもあるが、本来のリョウならとっくにへばっているはずだ。転移特典様々である。
おかげで、目的地まで2時間ほどを、何とかついていくことができた。
「到着だ。ここでやつの帰りを待つ」
傭兵さん――剣士ヴィクターが宣言し、各々キャンプの準備に取り掛かる。
そうしてひとまず腰を落ち着けると、6人はぽつぽつと雑談を始めた。
ほとんど、この依頼で初顔合わせとなったメンバーだそうだが、そうは思えないほど馴染んでいる。
険悪な仲だと思っていたロロットとベルナールですら、下世話な冗談で笑いあっていた。
(これがリア充のコミュ力だってのか……ぼくには辿り着けない境地だな)
などと思っていると、不意にロロットがこんなことを言った。
「そういえばヴィクター。あなた、今日はやけに小奇麗じゃない?」
「分かるか? アネットにシャツを洗濯してもらったんだ」
(なんですとー!?)
「てめえヴィクター、なに抜け駆けしてやがる!」
「諦めなさいベルナール。もともと、あなたに脈なんてないわ」
リョウは物凄いショックを受けた。
(そっかー……それでアネット、あんなに嬉しそうに……)
口惜しいが仕方ない。アネットは素直だから、自らも怪我を負いながら父を背負って帰ってきた剣士さまに、コロリとやられてしまったのだろう。
――実際助けたのはぼくだけどね!
「いやまあ、一過性のもんだろ。俺みたいな流れ者、アネットには釣り合わねえよ」
「あら。モテる男は言うことが違うわね」
「ちっ、スカしやがって!」
「ほんとだよ。死ねばいいのに」
最後の台詞はリョウである。血を吐く思いで絞り出したが、当然、誰の耳にも届かなかった。
だいたい、リョウは知っているのだ。
このヴィクターとかいう鬼畜が、実はロロットと大人の関係にあるのを。
なぜ知っているかと言えば、最初の晩にロロットに充てがわれた村長邸の一室に泊まろうとしたら、ヴィクターが訪ねてきて、そのままギシギシアンアン始めてしまったのを、目の前で見ていたからだ。
絶賛DT中のリョウには、あまりにも刺激が強すぎた。
ゆえに二日目以降はセヴラン宅でご厄介になっていたのだった。
と、虚ろな目で回想していると、いつの間にやら雑談が止んでいる。
(この感じ――!)
「現れたぞ」
す、と立ち上がったのは長身痩躯の男。槍戦士のシモンだ。
ほぼ間をおかず全員が立ち上がって構えた。
出現したのは最初の晩と同じく、赤い瞳の褐色ヒグマ。
それが3体。
「まとめて燃やすわ」
「却下だロロット。あんたの魔力は温存しておけ」
大盾を構えた重戦士のセルジュが、剣を振り回しつつ中央に突進する。
「シモン、ヴィクター、周りこめ! 右のやつから仕留めるぞ!」
「おう!」
ベルナールが斧を振り回して牽制し、そのスキに二人の軽戦士が敵の背後に回り込んだ。
圧巻なのは最初に突っ込んだセルジュ。大盾をほとんど熊の巨体にぶつけるようにして注意を引いている。
ベルナールも負けていない。こちらはほぼ生身のショルダーチャージをぶちかまし、全身を浴びせるように戦斧を振り回している。
そして背後から、シモンとヴィクターが連撃を叩き込む。
またたく間に一体が血の海に沈んだ。
「ちっ、抜けるぞ!」
セルジュが怒鳴る。左側から様子を伺っていた個体が、背後のロロットを狙って飛び出す。
ビィンッ、と音がして、それを阻止した。
長大な戦弓を構えたクレスの一射だ。見事に眼球に突き刺さっている。
「スゲェ!」
リョウが感嘆の声を上げる頃には、二体目が沈んでいた。
最後の一体には、ベルナールがトドメをさした。戦斧の強烈な一撃で、頭をかち割ったのだ。
「ふー、前哨戦にしちゃ呆気なかったな」
「また大熊か。鉱脈はこいつらの巣穴じゃないのか?」
「まあ、この辺りにあるのは間違いないな」
「気を抜くのは飛竜を倒してからよ。魔石のことを考えるのもね」
ロロットの言葉に、みな肩をすくめた。
リョウは感動のしっぱなしである。
(みんな凄すぎるな……これなら飛竜も一瞬で終わるんじゃ?)
ヴィクターの動きも、最初の晩とは全然違った。盾役が他にいることを前提としたアタッカーの動き……剣筋はまったく見えなかった。
シモンの衝きも見事だった。腕だけじゃなく全身を使って――。
「こうかな?」
リョウはさっきのイメージをなぞって素振りする。何度か繰り返すが全然上手くいかない。
でもきっと、あんなに鋭く衝けたら気持ちいいに違いない。
「要練習だなあ」
そうするうちに日は暮れ、あたりは薄暗くなっていった。
逢魔が刻。
妖しいコントラストが浮かぶ空を、不意に巨大な翼影が横切る。
見紛うはずもない。
「飛竜のお帰りだぞ。仕事の時間だ」
セルジュが告げた。
当時に、みなが一斉に気を引き締めたのが分かった。その音すら聞こえた気がした。
緊張と興奮、恐怖と歓喜。
圧倒的な現実感に、リョウもまた身を打ち震わせていた。
○
高台にはロープがかかっていた。
ねぐらに強襲をかけるのは二名。ヴィクターとロロットだ。
ヴィクターが注意を引き付け、ロロットが魔法で飛竜の翼を損傷させる。
そのあと崖下に突き落とし、ほか4人の一斉攻撃でトドメを刺す、という算段らしい。
「思った以上に重労働ね……」
「無理するな。休み休み行こう」
先を登るヴィクターが、後に続くロロットを気遣っている。
そのすぐ後に続くリョウは、自分でも驚くほど余裕があった。
(転移特典バンザイだな。もうちょっと明るければ最高なのに)
上を行くロロットの、魅惑的な尻をちら見しつつ思った。そう言えば、この世界の女子はどんな下着を――。
ガンガンガンッ!
リョウはおもむろに、山肌に頭突きした。こんな時に何考えてんの自分、という自己嫌悪である。
(まって違うし。べつに、ロロットのお尻が見たくて後ろ登ってるわけじゃないし!)
内心で激しく言い訳しつつも、脳内ではあの晩の光景がフラッシュバックしている。
月明かりに照らされ、シーツとヴィクターに埋もれて、艶かしく揺れるロロットの肢体が――。
ガンガンガンッ!
(だから、違うだろって!)
リョウが思春期のDT力を持て余していると、ヴィクターが怪訝に呟いた。
「ちっ、やけにロープが揺れるな……ロロット、大丈夫か?」
「ええ、問題ないわ。急ぎましょう」
真面目モードのやり取りが耳に痛い。恥ずかし過ぎて、このまま消えてしまいたかった。
しかし、最低でも彼らの勇姿を目に焼き付けてからだ。
無事に高台にたどり着いたふたりは、息を潜め、眼前に横たわる怪物を睨みつける。
「……よく寝ているわね」
「ああ。だが気をつけろ。寝起きはすこぶる良いらしいからな」
「どちらにせよ起きてもらうわ。ああもしっかり翼をたたまれると、魔法が通らないかも知れない」
飛竜の翼は一見すると薄い膜のように見えるが、その実は強度と柔軟性に優れた細かい鱗の集まりである。炎にも強く、生半可な斬撃では切り裂くことも困難。
もっとも、そのぐらいで無ければ、あの巨体を支えて空を飛ぶことなどできない。
「私の知る最高の破壊魔術を使う」
震える声で、ロロットは囁く。
「それで魔力が底をついて、私はただの女になる。チャンスは一度きり。良いわね?」
ヴィクターはにやりと笑って答えた。
「ただの女じゃなくて、最高の女だろ。しっかり守ってやるから、安心してぶっ放せ」
途端、ロロットは破顔した。緊張が解けたようだ。
(かーっ、リア充爆発しろ!)
リョウは血の涙を流しつつ地団駄を踏んだ。
そんな中、ヴィクターは剣を抜き放ち、忍び足で飛竜に歩み寄っている。
ぴたり、と途中で止まった。
剣は両手で中段にかまえている。切っ先が向かうのは、飛竜の左目だろうか。
(最初に目を潰す? でも突き刺しちゃったら抜くの大変なんじゃ――)
――突然。
飛竜が音もなく首を起こした。
「ちっ!」
ヴィクターは不意打ちを諦め、大きく後ろに飛び退く。
間一髪、怪物の大顎が、彼がいた空間で打ち鳴らされる。
「こっちだ、化け物!」
ヴィクターは両手を広げて叫ぶ。離れた場所で呪文を詠唱するロロットに、注意を向かせないためだ。
飛竜は咆哮し、ヴィクターに頭から突進する。
ヴィクターは素早く、足元をくぐり抜けた。
がくん、と飛竜の巨体が傾く。
くぐり抜ける際に片足の腱を切り裂いたらしい。
「ナイス!」
リョウの歓声に引き続き、飛竜が翼を広げて咆哮した。
「今だロロット!」
「【天滅煌】!」
ヴィクターの怒鳴り声と、魔法の発動は同時だった。
ロロットの頭上に沢山の光が灯ったかと思うと、瞬時に幾筋もの矢となって打ち出される。
それは飛竜の全身に降り注ぎ、翼を蜂の巣のごとく穿っていった。
(マジック・ミサイルってやつ? カッコいい!)
リョウははしゃいだが、致命傷には程遠い。
飛竜はロロットを見定め、まっすぐに突っ込んでいった。
「ロロット!?」
悲鳴を上げるヴィクターを尻目に、リョウは動き出している。
(行かせるかって!)
身体に芯を通して槍を構え、全身をぶつけるように突き出す。
槍は横っ腹に深々と突き刺さり、飛竜は奇声をあげて横倒しになった。
「いまのうちに逃げて!」
リョウは叫んだが、ロロットが聞き届けることはない。腰を抜かしたのか、それとも大魔法の詠唱で力を使い果たしたのか、その場にへたり込んで動かない。
「何してる、早く逃げろ!」
今度はヴィクターが叫んだ。剣を振り上げてこちらに駆けてくる。
「ダメだ、いま近づいたら――」
リョウの警告は届かず、飛竜が薙ぎ払った尾の一撃が、ヴィクターの身体をまともに捉える。
人の身体は軽々と吹っ飛び、宙に投げ出された。
「いやああああ!」
ロロットが悲鳴。そして弾かれたように崖の淵に駆け寄る。
だが幸い、ヴィクターは脇の斜面にひっかかっていた。こちらに手を振って無事を伝えている。
「ああ。良かった。ヴィクター……」
ロロットは明らかに安堵して、肩の力を抜いた。
「安心するの早すぎでしょ!」
怒鳴りつつ、リョウは飛竜を注視している。暗がりの中、恐るべき形相でロロットを睨んでいるのが分かる。
そして不安定ながらも、しっかりと両足で大地を踏みしめている。
まだまだ健在だ。そしてこちらに、動ける者はいない。
――ただひとりを除いては。
(ぼくがやるしかない、ってわけ?)
リョウは歯を食いしばった。
槍はまだ飛竜の脇腹に刺さっている。やつが行動を停止するまで、抜くのは不可能だろう。
リョウに残された武器は、怪物の巨体に比べてあまりにも小さいナタひとつ。
(下から首筋を切り裂いてやる)
決心し、そろりと近寄る。おあつらえ向きに、あちらも低い姿勢のまま、ゆっくりと近づいてきた。ロロットの逃げ場を塞ごうというのだろう。
「いい子だ。そのままでいろよ?」
リョウが真下に潜り込もうとしたその時、背後でロロットが怒鳴った。
「どうしたの、化け物! 私はこっちよ!」
そして、石ころを投げつけた。それは飛竜の目元に命中し、憤怒の咆哮を上げさせた。
(何してくれちゃってるの姉御~!)
止める間もなく、飛竜が顎を鳴らして突進した。リョウは危うく踏み潰されそうになって、慌てて地面を転がった。
「ロロット!」
返り見て叫ぶ。祈るような気持ちだ。
その祈りは通じたのかどうか。
ロロットは予想外の俊敏さで怪物の突進をかわすと、「たたら」を踏む怪物に向かって、右手に持つ短剣を指し示した。
同時に、いつの間にか左手に握っていた何かが、強く青白い光を放った。
「【風撃】!」
次の一瞬、飛竜の胴体が不自然に凹んだ。まるで、巨大なハンマーで殴りつけたかのような衝撃。
崖淵でたたらを踏んでいた飛竜は、それで宙に投げ出された。
ばたばたと翼をはためかせるのが一瞬だけ見えたが、穴だらけの翼は何の役にも立たなかった。ほどなく、水しぶきと地響きと、戦士たちの雄叫びが聞こえてきた。
「ふう。みんなに折半してもらわないと赤字ね」
ロロットは涼やかな顔で、左手に持っていたものを落とした。さっきは強烈に光っていたが、いまはただの石ころに見える。
(なるほど。これが魔石ってやつなのか)
察するに消費魔力を肩代わりするものだ。拾い上げてしげしげと眺めていると、ロロットが呪文を唱え始めた。
そして、いきなり宙に身を投げだした。
「ちょっ!?」
リョウは慌てて崖下を見やった。
そして安堵した。
ふわふわと、緩やかなスピードで落ちていくのが見えたからだった。
(浮遊落下ってやつか。ぼくには使っていただけないんですねー……)
どっと肩が落ちるが、すぐに気を取り直し、ロープを伝って下に向かう。
降りきる頃には、戦闘は終わっていた。
飛竜は頭をかち割られて、仰向けに血の海に沈んでいる。だが、実際にはどれが致命傷だったのかは分からない。胸も腹も大きく切り裂かれているし、至る所に矢が突き刺さっている。いかに激しい戦いだったかが分かる。
(クライマックスを見逃しちゃったな)
内心で愚痴りつつ、怪物の腹に突き刺さった槍を回収した。抜く際に勢い余って腰を打ち付け、ひとりで悶え苦しんだが、誰も気に留めなかった。リョウは痛みではなく、寂しさで泣いた。
「これで俺たちも晴れて〝竜殺し〟ってわけだ」
「知ってるか? 竜殺しにも階級があるんだぜ。一番上は魔竜を倒したやつだ」
「ははは。そんなイカれた馬鹿野郎は、アルドリアとヴィシュナスだけで十分だぜ」
一仕事終えた戦士たちは、リョウには理解できない冗談で笑いあっている。
みなそれなりに負傷しているが、行動に支障のある者はないらしい。そういう意味では、若干足を引きずっているヴィクターが最も重傷か。だが、治療を要するほどでもないようだ。
「ギルドに戻って報告するまでが仕事よ。魔物もいるようだし、まだまだ気は抜けないわ」
「ロロット姐さんは相変わらず優等生だな」
釘を刺すロロットに誰かが茶々をいれ、どっと笑いが起こる。
それに混じって、何かが聞こえた。
異質な音。だがつい最近も聞いた音だ。いつだったか。
この世界に来た後?
そう、その直後。
飛竜の背に乗って空を飛び、翼が風を切って――。
「上だみんな、来るぞおおおおお!」
力の限り、リョウは叫んだ。
見上げた彼の視界には、降ってくる新たな飛竜が、しっかりと映っていて。
叫び続けても、誰も気付いてくれなくて。
まるでスローモーションのような光景の中、駆け寄っても間に合わなくて。
ぐしゃり。
「あ?」
重戦士のセルジュが、無残に目の前で押し潰された。何が起こったのか分からないのだろう。地面に踏みつけられたまま、怪訝に顔を上げて。
ぱくりと、頭を食いちぎられた。
「うあああああああ!」
冒険者たちの悲鳴が木霊した。一斉に飛び退き、おのおの戦闘態勢を取る。
「くそっ、二体目がいるなんて聞いてねえぞ!」
「落ち着け、距離をとって囲め!」
喧騒の中、またあの音が聞こえた。
(そんな……嘘だろ?)
リョウは再び夜空を仰ぎ見て、絶望した。
新たに二体の飛竜が、旋回しつつ降りてくるのが見えたからだった。