エピローグ
国境の戦闘は圧倒的なものだった。
ラグランス軍はネロク人騎兵を合わせ五千騎以上。歩兵一万の大軍だ。
対して、デルナ側はたった三百の神官戦士団だった。
勝敗はほぼ一瞬で決した。
ここで、冒頭の表現を訂正しておこう。正確には、戦闘など起きなかった。
起きたのは、布陣した五千もの騎兵が、突然地面に開いた巨大な穴にまとめて転落する、という理解し難い現象。
加えて、幾筋もの流星と雷光が降り注ぎ、ラグランス軍陣の周囲の地面を深く穿った。
これは何らかの魔法によるものと思われたが、同行した魔術師は、その痕跡すらつかめなかった。
あっというまに、ラグランス軍は瓦解し、大混乱に陥った。
もはや戦闘継続は不可能だった。いや、最初から始まっていなかったのだから、やはりこの表現は間違いだ。ラグランス軍はわざわざ膨大な戦費をかけ、国元から北へ2日の距離を一万五千で進軍し、そのまま何もできずに敗走した。
浪費されたのは時間と金だけではない。この時の混乱で、死者・行方不明者あわせて一千人にのぼる犠牲が生まれたが、これはデルナ側の戦果ではないだろう。完全にラグランス側の自滅である。
さて、行方不明者のひとりはデルナに居た。
元デルナ神官長のゼフという男だ。彼はラグランス軍本陣に従軍していたが、あの混乱のさなかに突然気を失い、気がついたら拘束されていた。
椅子に座らされ、後ろ手に縛られているようだ。いや、枷か。聖炎が熾せない。
視界は利かなかった。目隠しをされているらしい。空気は冷たく、室内にしては強い風が吹いてる。でも、それにしてはやけに静かだった。
口は封じられてないようだ。ゼフは意を決して口を開いた。
「誰かおらんのか!」
「居るとも。おはよう、元神官長猊下」
返事が即座に返ってきたので、ゼフは一瞬息を呑んだ。声に聞き覚えはない。なまりはなく、ごく綺麗なグラニア語だ。
「きさまは誰だ!」
溜め息が返ってくる。続いて、コンコン、という音と、わずかな振動。苛立ちに足を鳴らしているのだろうか?
「質問するのはこちらだ。全て正直に答えてもらう」
「ふざけるな、何様のつもりだ!」
「まずひとつめだ。大神官さまを殺したのは誰だ?」
ぎくりと、ゼフの心臓が跳ねた。こんなことを訊くとは、大神殿の関係者――クアランの手のものだろうか。
忌々しいことだ。異郷の悪魔を使って聖地を乗っ取ろうと目論む不届き者ども。やつらに告げる真実など何もない。適当に罵倒してやろうと、ゼフは口を開いた。
「はっ、わが手のものだ。薬に毒を混ぜて殺した」
――なんだと!?
ゼフは驚愕した。己の意思に関わらず口が動いている。止めようとしてもとまらない。
「証拠など出るまい、呪術の使い手が調合したものだ」
「そうか。そいつは今どこにいる?」
「もう死んだよ。悪魔をひとり道連れにして自決した。高潔な最後だ、きっと神々の元に召されるだろう」
「なるほど。悪魔というのは異人ことを言っているのか?」
「当然だ! あの忌々しい悪魔どものことだ! すこし風変わりな魔法が使えるだけで調子にのりおって!」
「おまえか、もしくはおまえの指示で死んだ異人は何人だ?」
「二体だ、二体も退治してやった。何が新しき神々だ、邪教の悪魔め! 決して我らに倒せぬ相手ではないのだ、それを、クアランの臆病者めが――!」
その後も、ゼフの口は勝手に真実を喋り続けた。
一人目の悪魔を、ならず者を使って拉致させたこと。それを人質に悪魔どもを一網打尽にする計画を立てていたが、雇った男がその娘をあやまって殺したので、足が付かぬようラグランスに逃亡させたこと。その男は、いまもラグランスで暮らしていること。
まんまと悪魔に騙されて耄碌した大神官を、己がいかに苦労して救ったかについても、改めて詳細に語った。まるで自慢しているかのようだった。
自分で聞いてもわかる。まるきり気狂いの弁舌だ。だが紛れもなく本心だった。そしてゼフの意思にかかわらず、それを勝手に喋り続けている。
ああ、これは夢だと。ゼフは思った。なぜなら、こんな馬鹿なことが現実にあるはずがないからだ。自分はきっと眠っているのだろう。あの国境の敗走も、己の恐怖心が見せた悪夢に違いない。まったく、まだまだ修行が足りない。
そんなことを考えているうち、地面が激しく揺れているのがわかった。音もなく、ただ地面だけが振動している。
「――聞きたいことは以上だ。ほかに何か言いたいことはあるか?」
「いますぐ開放しろ! 私の行動は全て聖地のためにしたことだ、大神官さまの栄光を汚さぬ為にしたことだ! きさまらにもきっと分かる時が来る、その時に後悔しても遅いのだぞ!」
突然。
周囲が騒音にまみれた。凄まじい罵声。それも、途方もなく大勢のもの。それが地鳴りとなって地面を揺るがせている。
「聞いたか、諸君! この男はおのれのくだらぬ妄想のために、われらが敬愛する大神官さまを卑劣に殺害した。その上、街を救った勇気ある若者たちの同胞を、それもか弱い乙女をふたりも手にかけていた! この罪は許されるものか!?」
別の声。これは聞き覚えがある。たしか、上級神官の若い――何という名前だったか。
そんなことを考えているうちに、周囲の怒声が意味をもって統一されていく。
「死刑!」「死刑!」「死刑!」
「よろしい! ならば諸君らの手をもって、この男の罪を清めるがいい!」
大歓声があがった。その直後、何かが頭にぶつかった。
一度ではない。二度、いや何度も。頭だけでなく全身に。無数の石をぶつけられているのだと理解した時には、ゼフはすでに意識を手放しかけていた。
おかしな夢だ。
それが、この男が最後に思考した言葉だった。
○
ぴくりとも動かぬゼフに、なおも石を投げ続ける群衆をかき分け、佐藤英二はようやく友のもとに戻ってきた。
「おつかれさま、英二。見事な手際だったよ」
出迎えたのは菊池秀虎。英二の親友。そして彼らのリーダーだ。
英二はふう、と一息ついてから、ゼフがくくりつけられた壇上を見上げ、思わず眉をひそめた。
「えげつない方法を思いつく。おまえだけは敵に回したくないな」
「そうか? おまえが提案したやつのほうが酷いと思うけど」
「俺のはただの拷問だ。あいつの尊厳は叩き潰せると思うが、死後の評判をここまで見事には落とせない」
衆人環視の壇上を、周囲からの音だけを遮断する特殊な魔法結界で包む。中からの音は、逆に増大させる。
そんな魔法はないかと蓮川清彦に尋ねたのは秀虎だ。「やろうと思えばできる」と、たった一日でオリジナル魔法を作り上げた【魔王】の手腕も褒めるべきなのだろうが。
ともかくこれで、彼らの立場は盤石になるだろう。なおもゼフを信望していた勢力は完全に沈黙するはずだ。少なくとも、この街で大っぴらにその思想を口にはできない。
あの群衆の、喜々として死者を痛めつける様子を見たあとで、同じ目にあいたいとは思わないだろうから。
英二は何とも言えぬ想いで息を吐いた。
「それで、委員長はどこに?」
「もう行ったよ」
「……止めなかったのか?」
「なぜ? 俺は正義の味方じゃない」
さらっとした答え。英二は顔をしかめ、ラグランスの方角を見上げた。
もちろん空に何が飛んでいようと、英二に見えるはずがなかった。