断章3.はるかゆめみるつるぎ
3日ぶりに晴れ上がった空の下、少女が遠方に目を細めている。
デルナ大神殿の屋上だ。強い日差しの中、時折ふわりと動く空気は冷たい。
旗も揺らせぬそよ風である。
それを受け、長い髪が軽やかに舞う。黒絹のごとく艶やかだ。対照的に、新雪よりもなお白い頬が、冷気に晒されてほんのりと赤みを帯びている。
片時も目が離せぬ美貌だった。華奢な身体に一本芯を通したような姿勢が、神秘的な雰囲気すら醸し出している。
ふいに少女が振り返った。宵闇の輝きが怪訝に揺れ、来訪者の心を射抜いた。
「何か用?」
少女は言った。鈴が鳴くような声。
来訪者――菊池秀虎は我に返り、わたわたと手を振った。
「いや、用ってほどじゃないんだけど。いつまでもこんな場所にいたら風邪引くよ、鶴来」
「大丈夫」
少女――鶴来ハルカは短く答え、再び遠方を見やった。
「何か見えるの?」
秀虎は興味を惹かれ、ハルカの視線を追う。
答えはない。秀虎の目に映ったのは、宗教都市デルナの町並みと、南に広がる森だけだ。その全てが、昨日までの吹雪に晒され、白い雪をかぶっている。
「……」
しばらく無言の時が過ぎた。
【神の眼】を持つ霧島優美でもあるまいし、ハルカに千里眼などないはずだ。だが、たしかに彼女の眼は何かを捕らえているように思える。ありきたりな雪景色ではなく、この少女の興味を惹くほどの何かだ。
「俺にも教えてくれないかな。けっこう視力はいい方なんだけど」
ハルカはかすかに首を左右に振った。そしてまた無言。
秀虎は内心で溜め息を吐く。こういう少女だ。接するには根気強くなければ。少なくとも、嫌われていない自信はある。
初めて会ったのは入学式の日。桜並木の通学路で、舞い落ちる花びらに目を輝かせながら、くるくると踊っていたのがハルカだった。
結局、彼女の笑顔を見たのはあれ一度きりだった。時たますれ違うハルカは、つねに無表情で、いつも孤独であり、誰かと会話している場面に出くわしたこともない。
二年に上って同じクラスになってからも変わらなかった。
それどころか、この世界にやって来た後でさえ。
鶴来ハルカはひたすら孤高を好んだ。
そんな態度がクラスメートたちに受け入れられるはずもなく、当初はトラブルを招きもした。彼女の異能も災いした。
でも、いまではしっかりとみなの信頼を勝ち取っている。この世界の人間に聖女と崇められているのも、異能のせいばかりではない。
鶴来ハルカは心優しく、誠実な少女だ。
高潔と言っていいと、秀虎は思っている。
だからたとえ求められていなくても、ハルカのために身を砕くのにためらいはない。
ただ、あとほんのちょっと。
彼女に近づきたいと思うのは、邪心でもないだろう。
「わたしに触らないほうがいい」
ぴくっ、と秀虎の肩が跳ねた。
半ば無意識にハルカの手を取ろうとしていたのだ。気がつけばハルカがこちらを向いていた。澄んだ大きな瞳が、まっすぐ秀虎を射抜いている。
「ど、どうして……」
どうしてわかったの?
そう問うつもりだった。でも喉が詰まって言葉が続かない。
ハルカは小首をかしげた。
「あなたの力が途切れるとみんなが困るから。違う?」
「あ、ああ……そうだね。ごめん」
「別に怒ってない」
ふい、と再び遠方に視線を移すハルカ。
その顔が。
明らかな歓喜に花開いた。桜の記憶よりもなお輝く、艶やかな女の笑顔。
ハルカはその表情のまま踵を返し、早足で二、三歩進み、思い返したように立ち止まった。
そして満面の笑みのまま、秀虎を振り返った。
「ちょっと行ってくる」
「え? どこへ?」
「わたしの王子さまのところ」
弾んだ声が耳に届いた時、すでにハルカは駆け出していた。
びゅう、と強い風が吹く。
身震いして、ハルカが見ていた方向を見やる。
やはり、秀虎の目は雪景色しか映し出してくれなかった。