18.そして孤高は旅立つ(終)
あれから一週間が経った。
カオス公子の誘拐に関わった連中は捕らえられ、それぞれ処罰された。
ほとんどジェルビが個人で集めた有象無象の集団で、アルノアの各神殿も、基本的には無関係だとわかった。
その神官長ジェルビは、事件の翌日には獄中死していた。死因は服毒自殺。
何らかの組織とつながりがあったのは間違いないが、それをたどる糸は切れてしまった。砦の地下で語っていた「転移魔術に詳しい知人」とやらも、誰のことだか分からず終いだ。
マルレーネ・グレイフォルンは拷問にかかることもなく、己が知り得る情報をすべて提供した。これも筋としてはジェルビと無関係であり、糸をたどる手がかりにはならなかった。
なんともすっきりしない話だが、リョウが思い悩んでも仕方がない。あとはヨルド公をはじめ、アルノアのお偉方が何とかするだろう。
マルレーネががねぐらにしていた砦と地下の大鉱脈は、アルノアに接収されて、この国の魔法技術の発展に寄与することとなった。
そもそも、アルノアは魔法に対して無防備すぎる。先進派はこの事件で勢い付き、保守派は急速に発言力を失った。
そんな中、クレイブ導師は優秀な魔術師として、宮廷に招聘される運びとなった。
エリシャの身分と自由の保証が条件である。ヨルド公はこれを快諾し、アルノア領主の名において、エリシャを奴隷の身分から解放した。
アルフレッド神父と弟子のアネットも、アルノアの大恩人として歓迎されたが、両者ともに目立つことを嫌ったため、知る人ぞ知る存在となり、いまはリースが暮らしていた館に滞在している。
リース・アガルタ・フォイレンは、カオス公子の婚約者として、正式にお披露目されることになった。
女装することも多くなった。コルセットがきついとよくぼやいているが、言葉使いはともかく、所作はずいぶん色っぽくなった。
耳元でこんな愚痴をこぼすこともあった。
「実は最近、妙に股がむず痒くて。変な病気でなければいいんだが」
(リース、それフラグ)
リョウは苦笑しつつも、完全に女となった友を想像し、ちょっと鼻血が出そうになった。
きっと。間違いなく。彼女は世界一美しい花嫁となるはずだ。
それで、カオス公子だ。
魔人の素体という事実については、厳重な箝口令が敷かれた。今後も彼の身の安全は、アルノア国事の最優先事項となったはずだが――。
当の本人は、今日も何喰わぬ顔で街に繰り出している。まだ離宮住まいだが、以前のように引きこもることはなくなった。
そしてよく笑うようになった。それは良いが、元が美少年なので、どうしても人目を惹く。護衛につく衛士たちも気苦労が絶えない。
「きさまの存在を全市民に明かしてやろうか」
と謎の脅しを受け、頻繁に連れ出されるリョウも同様だ。もっとも今日は目的地がはっきりしている分、いくらかマシだった。
なにせいつもは気の向くまま、無計画にあちこちを散策したうえ、おもむろに街の酒場に入ったりするから性質が悪い。昨日も――。
「何か不穏なことを考えているな?」
いきなり声をかけられ、リョウは少し焦る。この少年は異常にカンがいい。リースの教育の賜物だろうか。
「〝滅相もない。それよりほら、着きましたよ〟」
リョウの眼前には、本城の巨大な門構えが迫っていた。
暗い地下牢に、石床を打つ音が響く。
足音だ。5人分、か。
マルレーネ・グレイフォルンは寝台から身を起こした。
地下牢、と言っても状態は悪くない。床には絨毯が敷き詰められているし、寝床は柔らかい。食事を持ってくる牢番はいつも寒そうだが、マルレーネには関係ない。
排泄物はこまめに回収されるし、毎日、身体を拭くための湯も提供される。
だが、それも今日までだろう。
足音が鉄格子の前で止まった。
4人の衛士に囲まれているのは、どうやら少年であるらしかった。
「――カオスさま!」
マルレーネは驚き、思わず声を上げる。
「久しいな。元気そうで何よりだ」
カオスは無警戒に牢に踏み入り、マルレーネに近づいてきた。おつきの衛士は止めようともしない。
といっても、いまのマルレーネには何もできない。彼女の手枷は特別製だ。魔力の働きを封じるもの。
「……どういった御用でしょうか?」
恐る恐る、尋ねる。カオスは「ふっ」と笑った。
「聞いているだろう。おまえの刑を執行する。ついてくるがいい」
カオスは踵を返した。マルレーネは無言で付き従う。
もちろん知っていた。
今日この日。マルレーネの処刑が執行される。カオス公子が直々にやってきたのに驚いただけだ。
「すまんな」
ふとカオスが言った。
「オレとしては、おまえに恨みなど無いのだが。王侯を誘拐したのだ。けじめは付けねばならんし、そんな真っ当な意見をはねのけられるほど、オレの身分は盤石ではない」
「カオスさまが詫びることなどありません。当然の報いです」
マルレーネはごく平坦な声で返答した。
公子をさらった上、魔人に貶めようとした。この聡明な少年を、恐るべき悪鬼に変えようとした。
もちろん意図してやったことではない。マルレーネはカオスが本当に力の誘惑に打ち勝ち、偉大な覇王となると信じていた。
何の根拠もなく。
思い込みだけで、この少年を殺そうとしたのだ。断じて許されるべきではない。
やがて、一行は城を出て、中央大路を脇にそれる。
そして広場を抜け、薄暗い陸橋の下をくぐり、人気のない冬場の公園で足を止めた。
(ここで? 衆目がないはありがたいけれど)
怪訝に目を細めるマルレーネの前で、カオス公子が腰元の剣を抜き放った。
「ひざまずいてこうべを垂れろ」
衛士たちに取り押さえられるまでもなく、マルレーネは従った。
公子直々に引導を渡してくれるというのだ。むしろ名誉な結末だった。
ずっと不幸だと思っていた。
灼鬼に生まれついたのが元凶だと。そのせいで、誰も自分を省みてくれなかったのだと。
だが気づいてしまった。マルレーネは昔から、これと決めたら頑として譲らない、思い込みの激しい性分だった。
「おまえはもう少し、周りを見たほうがいい」
兄が良く言っていたものだ。武芸、特に弓に秀で、それを鼻にもかけない優しい兄で、マルレーネにとっても誇りだった。自分を置いて行方をくらました時は、恨みもしたものだ。
が、兄の言葉の意味など、囚われの身となるまで省みることもなかった。
ただ己のみを信じ、周囲の人間など歯牙にもかけなかった。そんな人間が、自分は愛されるべきだと主張していたのだ。なんと滑稽なことか。
どんな髪の色で生まれようと、マルレーネの人生にさほどの違いはなかったはずだ。
ただ――。
「綺麗な色だな。染めてんのか?」
紫波雄人に出会うことだけはなかっただろう。
あの傍若無人な異世界人と過ごした、マルレーネの人生でもっとも輝かしい、温かな日々は、きっと無かっただろう。
(なら、私は灼鬼に生まれてよかった。幸せな人生だった――)
いつしか、マルレーネの真紅の瞳が、大粒の涙を流していた。
自分でもわけが分からなかった。もうとっくに、覚悟を決めたはずなのに。こんなにも温かに、胸が満たされているのに。
いやだ、死にたくない。もう一度ユウトに会いたい!
「さらばだ、マルレーネ」
カオスが告げ、そっとマルレーネの首筋に触れた。
マルレーネは溢れる想いを押し殺し、必死に身体を押さえつけた。これでも貴族の出だ。せめて、死に様は潔く――。
ふぁさ、と。
急に頭が軽くなった気がした。
いや、はらりと頬を伝う感触で、それが錯覚じゃないことを知った。
「髪は女の命、というからな」
思わず顔を上げると、公子の手に、一房の赤毛が握られている。
「さて。抜け殻の処分は任せたぞ」
カオスは吐き捨てて踵を返した。衛士たちも後に続く。呆然と見送るマルレーネの頭に「ぽん」と誰かの手が乗った。
「ボケっとしてんじゃねえ。さっさと逃げるぞ」
振り返らなくてもわかった。マルレーネはそのまま、倒れ込むようにして、愛しい男の胸に身を預けた。
○
「何を笑っている、気持ち悪いやつだ」
ふと、カオスは言った。自分に向けられた言葉だと気づくのに、リョウは少し時間がかかった。
「〝たしかに笑ってましたけど。どうして分かったんです?〟」
「それくらい分かる。いつも外野からニヤニヤと人を盗み見るようなやつだ、きさまは」
「ひどくないですか? ぼくの心は傷つきやすいんですよ」
「ならばもう少し悲しそうな顔をしてみせろ」
「だからどうしてわかるんですか」
他愛のない会話をかわしつつ、並んで歩く。実はクレイブ導師から、思念で筆記版に文字を浮かべる方法を教えてもらったので、最近は筆談にもまったくストレスがない。
振り返れば、もうふたりの姿はない。用意された馬車ですぐにでも発ったはずだ。
紫波はひとまずシャガールに潜伏すると言っていたが……あの二人なら、どこへ行ってもやっていけるだろう。
リョウもついていこうか悩んだが、やはりデルナのことが気になった。
聞けば、周辺の動きがさらにきな臭くなっている。西方の軍事国家ヴァレンスは領土拡大を続け、ついに北方騎士団に因縁をつけはじめたらしいし、それがすぐ東隣のデルナに飛び火する可能性も高い。
デルナでNAISEIチートに励むクラスメートたちが、素直に大国の支配をうけるとは思えない。対応をあやまれば、悲惨な戦争が幕を開けてしまうだろう。
ただ、明るいニュースもある。
「彼女は天才だよ。これは本当に、異界に渡れるかも知れない」
マルレーネの研究成果を整理したクレイブによると、彼女は紫波の思念から、元の世界の大まかな座標を割り出していたらしい。
とはいえ、それは一人分の思念。確実を期すために、より多くの異世界人の思念が必要とのこと。
「そうだな。この説に基づけば、10人も居れば座標が特定できるよ。あとは必要魔力だが……これはまあ、アルノアの協力があればなんとかなるはずさ」
つまり生き残ったみんなで力を合わせれば、元の世界に帰れるかも知れないのだ!
こうなれば居てもたっても居られない。リョウは春を待たず、デルナへ出立する決意を固めていた。
「でも、東周りの街道は積雪で大変らしいし。うーん」
思わずぶつぶつと呟いていると、ふとカオスが言った。
「何を悩んでいるか知らんが。旅立つつもりならアネットのことはちゃんとしておけよ」
びくっ、とリョウの肩が跳ねる。本当にこの少年はカンが良すぎる。
「〝アネットは連れていきませんよ。危険なので〟」
「そうか。まあ、頑張って説得するんだな」
カオスは投げやりに答えた。リョウは少し憂鬱な気分になった。
決定的な一言を聞いたわけではないが、さすがにこの一週間でリョウも気付いている。
でも、どうにも信じられない。あんな美少女が、自分の何を気に入ってしまったのか。
見えない姿に、完璧な理想像でも重ねてしまっているのだろうか。ありえる話だが、それならそれで、彼女が夢から覚めるまで付き合い続けるのも良い。なにせあんな超弩級の美少女だ。今後の人生で二度と出会えまい。
(でもやっぱり、アネットの無事が第一だから)
リョウはひとつ頷き、今後の計画をあれこれ思案し始めた。
その大半が、アネットをどう説得するか、という内容だったが、妙案はついぞ思い浮かばなかった。
なので、二日後。
リョウは意を決し、アネットに旅立ちを伝えた。正確には、書いた文字をアルフレッドに読み上げてもらったわけだが。
「私も着いていく」
アネットは力強く宣言した。
リョウは困り果ててアルフレッドを見やったが、気のいい神父はあからさまに視線をそらした。
「私はアネットの意思を尊重しますよ」
数日前に語った通り、この件については我関せずを貫くつもりらしい。いっそ彼も着いてくるのなら助かるのだが、彼はカオス公子を見守るためアルノアに残ることを決めている。
リョウは深々と溜め息をついた。やはりどうしても、アネットは連れて行けない。
なにせリョウとふたりで旅をするということは、傍目からはアネットが一人旅をしているように見えるということだ。
こんな宇宙レベルの美少女が一人旅。
どうなるかは火を見るより明らかだし、情けないことに、リョウは彼女を守りきれる自信がない。無用な争いを呼び込むことにもなるだろう。
「〝アネットは連れていけない〟」
「どうして? 私、ちゃんと役に立つよ」
(役に立つとか立たないとかじゃないんだよなあ)
リョウは口下手な自分を呪った。そりゃあ、山育ちでサバイバルもどんとこいの、回復魔法と弓術にも通じた美少女だ。気立ては良いわ頼りになるわで、創作物の諸先輩も喜んで連れて行くだろう。
でも違う。そもそもリョウ一人なら危険などないに等しい。10の危険を二人で5・5に分ける、という話ではないのだ。その例で言えば、リョウ一人なら10の危険を0にできるからだ。
「〝アネットに万が一のことがあったら、ぼくも生きていけないから〟」
仕方なく、リョウはたったひとつの策を実行に移した。筆記版を持つ手ががくがくと震える。それはみっともなく、アネットにも気付かれているだろう。
「あなたに万が一のことがあったら、彼は生きていけないそうですよ」
アルフレッドが伝えると、アネットは両手で口を押さえて固まった。
(分かってくれたかな?)
リョウは安堵の息を漏らしかけたが、アネットは引き下がらなかった。
「私だって、リョウがいないと心配だもの。きっとどこかで無茶してるかもって――もしかしたら今度こそ、二度と会えなくなるかも、って!」
そうだろう、と思う。
その気持はリョウにも分かる。彼女がカオスに連れ去られた後、離宮でその姿を見つけるまで、リョウも気が気でなかった。
今こうして旅立とうと思えるのは、アネットが安全だという確信があるからだ。そうじゃなければ、彼女の安全が確保できるまで、片時も傍から離れないだろう。
だから。
リョウは責任を持って、アネットを安心させなければならない。
「約束するよ。きっとアネットのところに戻ってくる。だからここで待っていて欲しい」
「でも、でも――」
(手強いな。さすがベルちゃんの妹)
内心でおどけた独白をしながら、心を落ち着ける。
大丈夫。この賭けは分のいい賭けだ。どう転んでもアネットは傷つかない。せいぜい、自分がひどく惨めな想いをするだけ。
だから大丈夫だ。リョウはトドメの言葉を、筆記版に刻んだ。
「〝戻ったら結婚しよう、アネット。そして一緒に、ぼくらの世界で暮らそう〟」
その台詞を、一字一句そのまま、アルフレッドが朗読する。リョウは恥ずかしさで悶死しそうになった。
でも後悔はない。まさか求婚を退けた相手に着いてはこれまい。
ほとんど本心からの告白なので、断られたらもちろん傷つくだろう。しばらく立ち直れないかもしれない。
でも、アネットの命には変えられない。
アネットはあんぐりと口を開け、しばらく呆然としていた。
まるでギロチンに首をかけられているような気分だった。早く。裁きを下すなら、さくっと一思いに――。
「……きっ」
ぱくぱくと口だけを動かし、アネットが何かを言った。どうやら途中で、呼吸してないのに気付いたらしい。大きく息を吸って、半ば叫ぶようにこう言った。
「私、あなたが大好き! だから結婚するぅ、リョウと一緒に暮らすうう!」
涙でぐちゃぐちゃになりながら、アネットはその場にへたり込んだ。今度はリョウが呆然とする番だった。
ただし、アネットほど長い時間ではなかった。
アルフレッドが「とん」と背中を押した。さほど強い力ではない。が、リョウはゆっくりと、アネットの前に膝を付いて、恐る恐る、彼女の背に手を回した。
途端、アネットが胸にすがりついてきて、わんわんと号泣した。リョウの手に力がこもる。とても温かかった。知らず、リョウも涙を流していた。
まるでわけが分からなかったが、とても幸せなのは間違いなかった。
○
旅立ちの日は、それからわずか三日後だった。
冬場は雪原となる北方の荒れ地を、ソリで行く行商人がつかまったからだった。
リョウの旅装は、もともと準備を進めていたこともあって完璧である。
アルノアで新調した、非常に軽い皮鎧に、暖かい毛皮の防寒具。
腰元には名匠の作だという小剣を佩いている。使い慣れたクレスの小剣より若干大きいが、切れ味も扱いやすさも数段上だった。
そしてメインウェポンはアルノアでも最上級の矛――ふつうの槍より穂先の大きいもので、リョウの特性を考慮し、アルフレッドが選んだものだ。
「斧槍のように重さで叩き切る武器は、あなたにとって蛇足ですからね。なるべく軽くて、しっかり切り裂くこともできる武器がいいでしょう」
リョウは【斬撃強化】とかいうレア霊術を持っているそうだが、いまいち実感がわかない。結局、訓練では一度も発動できなかったからだ。
「焦ることはありません。実戦を積めば、あなたは必ずものにしますよ」
笑顔で語るアルフレッドには、この二週間ほど、みっちりと霊術の手ほどきを受けている。おかげで聖炎もけっこう自由に操れるようになった。ただし、まだ起動に時間がかかる。ここも訓練あるのみだ。
リョウのカバンも手元に戻ってきている。
ペンライトは寒さのためか、それとも単純に電池切れか、もう光を放てなくなっていた。ほどよい頃に役目を終えたと言える。いわば妖精さんの本体だ。必ず戻る、という約束も込め、アネットに預けることにした。
裁断ハサミはサビが浮いてきて、若干切れ味が落ちていたが、大工房の職人が見事に蘇らせてくれた。その際、このハサミのデキに非常に感銘を受けたそうで、量産を検討しているそうだ。異世界に伝わる日本のモノ作り。リョウは胸が熱くなった。
その他の小物と、大量の情報がつまったノートなどは引き続き持っていく。もちろん、左手には今なお、24時間周期で時を刻む腕時計がはまっている。
「どうして私を連れて行ってくれない?」
リースは少し憮然としていた。三ヶ月も一緒に暮らしてきたのだ。本気で言っているのはよく分かる。彼はもともと自由気ままに冒険するのが好きなのだ。
でも、さすがに未来の領主の妃を連れ回すわけにも行かない。カオスの睨みも利いているので、丁重にお断りしておいた。
「元気でね、お兄さん」
ちょっと心配そうに、それでも笑顔で送り出してくれるエリシャはやっぱり天使だ。
「異界転移については任せてくれ。最優先で研究を進めておく」
クレイブは力強く約束してくれた。彼からは初級魔術の魔法陣を多数譲り受けた。これも、いくつかは訓練し、念じるだけで筆記版に浮かび上がるようになっている。擬似的なものだが、魔術と霊術を両方使える状態だ。
「馬鹿にしたものじゃないぞ。なにせ霊術の使い手で、ここまで詳細に魔法陣を複写できる人間はほとんどいないからね」
相変わらず、彼は人を乗せるのが上手い。きっと優秀な教師なのだと思った。
「ふん、やっと出ていく気になったか」
カオスは鼻を鳴らして言った。というか、こんなところまで見送りに来るとは。そんなに暇な身分じゃないはずなのだが。
「〝すぐに戻ってきますけどね。それまで、殿下もお元気で〟」
「はっ。きさまこそ余計な面倒に巻き込まれて、足をすくわれないように気をつけるんだな」
「〝はい、ありがとうございます〟」
思わず微笑むと、カオスは小さく舌打ちしてそっぽを向いた。リョウはまた笑った。可愛い弟ができたような気分だった。
「リョウ、必ず帰ってきてね。じゃないと私、追いかけるからね?」
ごく殊勝な態度で、ちょっぴり怖いことをいうアネット。思わず渇いた笑い声が漏れる。
「〝絶対に帰ってくるよ。アネットも、それまで読み書き頑張ってね〟」
これをいつものように、アルフレッドが朗読。今のままだと、二人きりで会話することができない。だからか、アネットは自分から、残って文字の勉強をすると言い出したのだが――。
(っていうか。最初からそれを理由に置いていけたんじゃね?)
気付いた時には後の祭りである。ふたりはすでに神前で誓いを立ててしまった。この婚約は青炎教において、滅多なことでは取り消せないらしい。
(いや別に、破棄する気なんかないけどね)
こんな可憐で優しい少女が婚約者。深く考えると鼻血を吹きそうなので、リョウはここ最近で培った抗DT力を発揮し、如何わしい妄想を打ち払った。
まったく。ぼっちを嘆いた日々が、いまでは逆に夢のようだった。
「旦那。そろそろ出発しますぜ」
行商人のフェルナンだ。リョウの同行を承諾してくれた、まだ若者といっていい男。身元は確かで、ソリを操る腕も一級品だそうだ。
「〝よろしくお願いします〟」
乗り込んだソリが、四頭の雪鹿に引かれて走り出す。
前方には見渡すかぎりの銀世界。後方に、みるみる小さくなっていく仲間たち。
見えもしないリョウのために、みな一生懸命に手を振って見送ってくれている。
「みんな、お元気で!」
リョウも手を振りながら叫んだ。力いっぱい。
かすかに、応える声が聞こえたような気がした。