表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
超絶に影の薄い僕は、異世界で誰にも気付かれない。  作者: 竜王零式
第一部:孤高の異世界冒険譚
21/44

17.たまには祈りが届いたっていいじゃない



 砦の地下牢が封印されていたのは、アルノアにとって幸いであった。

 かつて地下水脈のあった場所は、何らかの地殻変動の影響か、ただの空洞になっている。


 そこに魔石の鉱脈が出現していた。

 大規模なものだ。空間の魔力濃度も非常に高く、視界がゆらめくほど。もしここが外界と通じたまま放置されていたら、さぞ大量の魔物を生み出し、アルノアに災厄をもたらしただろう。


 マルレーネが悪名高い「死人の森」の一角に拠点をもうけたのは、この鉱脈を人知れず独占するためだった。

 なにせ魔術アルダーの研究には金がかかる。大半の経費は魔石に消えるが、それが無限にあるのだ。


 ここでの暮らしに不自由はなかった。

 街への転移ルートはすぐに構築できたし、〝転移石〟の材料にも事欠かないから、物資の調達に不便はなかった。人足は奴隷で事足りた。雑事は彼らに任せ、己はただひたすら研究に没頭。

 まさに理想の遁世とんせい生活と言えた。


 ただ、この生活が長く続けられるとも思っていなかった。

 地下の鉱脈がまたいつ水流に埋まるとも知れなかったし、権力に知られたら打ち捨てるほかない。

 3年も続けられたのは奇跡、と言って良かったのかもしれない。


「もう充分よ。ユウトとカオスさまさえ居れば、どこでだってやっていけるわ」


 美貌が知らず笑みを形作っていた。


 マルレーネの人生はおおむね不幸だった。灼鬼イーサに生まれついた瞬間に決まっていた。家族には疎んじられ、友人を得ることも叶わず、祖国を離れても、彼女に居場所はなかった。死に物狂いで入学を果たした皇国の魔術学院ですら、妥当に評価されなかった。

 遁世を続け、研究に没頭してみても、どこか満たされぬ日々。


 それが紫波雄人との出会いで一変した。


「ああ? おれの居た世界じゃ、もっとカラフルなやつが沢山いるぜ。あんたのは綺麗なだけまだマシじゃねえか」


 あの言葉に自分がどれほどの衝撃を受けたのか、彼は毛ほども理解していないだろう。

 この色は呪縛だ。この世界にいる限り、決して逃れられない呪縛。


「なら、私がこの世界から出て行ってやればいい」


 理想郷はある。証人もいる。あとは行く方法を確立させるだけだ。

 話を聞くに、ユウトたちをこの世にんだ力は、おそらくデルナにあった聖柱クティルを源としたのだろう。彼らがやって来たのと同時期に消失した、無色透明の巨大な柱。ある魔術師アルダールブの研究によれば、純粋な魔力が強固に結晶化したものだという。


 その説を借りれば、ユウトたちの世界へ渡るために必要な魔力量が算出できる。膨大な量だ。いくら魔石をかき集めても足りない。

 だが、魔人ガウリィの力があれば不可能ではない。


「必ず成功させて見せる。誰にも邪魔はさせない」


 地下道の奥で、すでに〝儀式〟の準備は整っていた。

 鉱脈と集積型魔法陣を直結し、中央の寝台に横たわるカオスに膨大な魔力を注ぐ。上階に敷いたものなどほんの実験程度のものだ。この場所こそが本丸だった。


 す、と。

 マルレーネの指先が滑らかに動き、周囲を漂う魔力をつかむ(・・・)。ただの魔法使いと魔術師アルダールブの決定的な違いがここにある。彼らは己の魔力ばかりでなく、空間に漂う魔力をも利用できる。

 呪文を詠唱し、印を切りながら、魔力の流れを形作っていく。


(本当に、これでいいの?)


 ふと沸き起こる疑念。

 マルレーネは集中して雑念をかき消した。術の構築は滞りなく進む。最後の回路を構築し、あとは起動命令を――。


 ――本当に、これでいいの?

 また、雑念。今度は完全に手が止まった。集中。駄目。魔力の同調が維持できない。


(いいえ。これは歌――?)


「そこまでだ、魔女め!」


 怒号が響いて、マルレーネ意識を完全に現実に引き下ろした。


 見れば、油断なく槍や剣を構え、にじりよってくる兵士たち。

 後方では、胸に手をあて、奇跡のような音色を歌い上げる麗人がいる。


呪歌マニトーで集中力を撹乱しているのか、忌々しい稀人レウリィめ!)


 マルレーネはさっと手をふるって、高速で魔術アルダーの構築を始めた。世間が認めなくとも、彼女の腕前は確かだった。


「【焔陣ゾーラ】」


 数秒もかけず、高々と燃え上がる赤壁が出現した。この程度の魔術アルダーを紡ぐのに、さした集中力も時間も要らない。


 驚き足を止める兵士たちに、すぐさまトドメの魔術アルダーを用意する。


「【天滅煌エルン・ラー】!」


 これも、数秒とおかず完成。無数の光の矢が、侵入者たちを次々と穿って――。

 いや、様子がおかしい。光の矢はどれも、敵に直撃する前に威力を消失している。


(これは【祝福】? あの神父の仕業か!)


 マルレーネは舌打ちしつつも、別の魔術アルダーを紡ぐ。

 今度は少し時間をかけ、頭上に、煌々と燃え盛る火の玉が出現した。全部で5つ。


「【灼弾ラグド】」


 狙い違わず、次々に炸裂する。人間ひとりを殺すには過ぎた威力のはずだ。しかし【祝福】の加護か、兵士たちはなお息がある。


 ならばもう一度――。

 再び魔術アルダーを用意した瞬間、ずぶり、と。胸に衝撃と熱。


 気がつけば、あの稀人レウリィが焼け焦げた顔で眼前にいて、マルレーネの胸に長剣を突き立てていた。


(馬鹿な)


 稀人レウリィはマルレーネを蹴飛ばし、その勢いで一気に長剣を抜きとって、高々と振り上げた。


「もはや慈悲はない。さらばだ、灼鬼イーサの魔女」


 返事もできなかった。口惜しいと思う暇も。

 次の瞬間には、稀人レウリィの華奢な身体が、玩具の人形のように吹き飛ばされていたからだった。


(――え?)


 うめくことすらできず、マルレーネはただ呆然とした。


「危ないところでしたな」


 背後から(・・・・)声がした。

 そこに居たのは、獣相を持つ二人の巨漢と。

 余裕の笑みを浮かべる恰幅の良い僧侶――神官長ジェルビであった。



 極めて強い衝撃だった。

 リースは幾度も地面を跳ね返り、転げ回りながら、なお意識を繋いだ。


 【祝福】のおかげだろうか。あちこちの骨が粉砕したようだが、一撃で肉塊となるのは回避できたようだ。

 無理をすれば動けるかも知れない。だが、リースは身じろぎもせず、事態を見守ることにした。


 突如現れた一団は、神官長ジェルビと、ほか十数人の僧兵たち。

 ふたり、異質な男が混じっている。

 獣相の巨躯。そして赤黒い眼光を放つあれは、たしかに見覚えがある。


小鬼アズール魔人ガウリィ……いや、なりそこないだったか)


 マルレーネはすぐに治癒魔術を使い、リースが与えた傷を癒したらしい。凍りついた表情のまま、当然の疑問を口にする。


「どうやってここへ?」


 ジェルビは愉悦に満ちた笑みを浮かべた。


「なに、あなたと同じ手段です。知り合いに転移魔術に詳しいものがおりましてね」


 手を広げて見せたのは転移石だ。純度の高い魔石を精錬して転移魔術を刻み、ごく少量の魔力と起動命令だけで発動できるようにしたもの。

 紛れもなく、マルレーネが精錬したものだった。つまり、内通者がいたということだ。


「いけませんな。このような宝の山を独り占めとは。これは我々も有効利用させて頂きます。もちろん、公子もね」


 マルレーネの眉目が歪んだ。そしてほんの少し、指先が動く。


「おっと」


 ジェルビが目ざとくその手を掴み上げた。見た目を裏切る俊敏さ。驚く間もなく、ジェルビの手に聖炎アピトルが灯る。

 途端、マルレーネは全身を激しく痙攣させ、その場に倒れ伏せた。


「失礼、マルレーネ師。これほど魔力濃度の濃い場所で、魔術師アルダールブを自由にさせておくわけにもいかんのでな」


「殺したほうが良いのでは」

「ならん。彼女は役に立つ。場所を変えてじっくり説得するとしよう」


 ジェルビとその一団は、カオスとマルレーネ、そして精錬済みの魔石を手早く確保し、撤退の準備を始めた。


「急げ。地上の連中に気付かれる前に脱出するのだ」


 リースは覚悟を決め、四肢に力を入れた。

 激痛。だが動く。起き上がることは可能だ。それでどうなるとも思えないが、時間稼ぎにはなるだろう。


「だめ」


 すぐ傍で声がした。エリシャだ。可愛らしい眉目でVの字を作り、口唇に人差し指をあてている。


「すぐ治すからじっとしてて。あとはご主人たちが――」


 ブォン。

 不穏な空気の振動。そしてリースはかつてない光景を見た。金色の瞳に映る魔力の流れが、一斉に、後方に向け収束する。


 次の瞬間、視界がまばゆい光に包まれた。


 極太の光の筋が、水平に照射されたのだ。おそるべき威力だった。熱線によって膨張した空気が衝撃波を撒き散らし、ジェルビたちをめちゃくちゃに吹き飛ばした。地面はどろどろに溶け、冷えたカ所からガラスのような輝きを放ち始める。

 そして直撃を受けた「なりそこない」の身体の大半が、無残に蒸発していた。残ったのは、まるで胸像のような肉塊である。


「動くな」


 現れたのはクレイブ導師。彼の隣には、なぜか紫波雄人の姿もある。


「大丈夫、味方だよ」


 リースの疑念を察し、エリシャが笑顔で言う。

 いっぽう、ジェルビたちは恐るべき新手の出現に戦慄していた。


「な、何をした?」


「【天穿煌エルナーク】――ご存知ないかな? まあ、こんな場所でもない限り使えない破壊魔術だからね。今のは警告だよ。本当に動かない方がいい。私はあなたがた全員を消し飛ばすことができる」


 この間に、エリシャは倒れ伏せる兵士たちを癒して回った。幸い全員命があったらしい。死んでさえいなければ、「癒やしの御手」たるエリシャに治せぬ怪我はない。


 リースは兵士たちをまとめ、ジェルビたちを包囲していった。


「勝負あったなジェルビ。大人しくカオス公子を引き渡せ」

「ついでに、その赤いのもな」


 紫波がマルレーネを指差した。

 ジェルビは答えず、「す」と両掌を上に向けて黙祷した。


「……ここが魔術師アルダールブだけの場所だと思うな!」


 ぽう、とジェルビたちの身体が光る。【祝福】。同時に、半壊していた「なりそこない」の身体が、急速に再生を始めた。

 その背中――ほとんど脊髄に近い場所が、大量の魔力を集めている。何らかの魔術アルダーが施されていたのか――。


「【回生呪】か! まるで禁呪の大安売りだ!」


 クレイブは吐き捨て、大量の光の矢を敵陣に照射。だが【祝福】に阻まれて痛打にならない。


「ユウト!」


 紫波はすでに駆け出していた。雑兵を蹴散らし、たちはだかる「なりそこない」に渾身の拳を見舞う。


 だが、相手は「ひょい」と身をかわし、逆に紫波を蹴り飛ばした。

 続けざま、もう一体の「なりそこない」が追撃する。紫波は十メートル以上吹っ飛び、石壁にめり込んだ。


「あれで〝なりそこない〟だと?」


 うめくようにリース。


「全身に永続呪印を刻んで強化している」


 クレイブは忌々しく吐き捨てた。


「生命を弄ぶ最悪の魔術アルダーだ。狂人め!」

「黙れ、穢らわしい幼児性愛者め! きさまのような輩がいるから、正義の執行に力が必要なのだ!」


 ジェルビの両手がまばゆいばかりに光り輝く。恐るべき魔力の波動が、すぐに現象となって発現した。


 【青炎】。


 最上位の霊術エレジー。青白い破壊の炎が、変幻自在にかたちを変えて襲い掛かってくる。


 さらに、二体の「なりそこない」が迫る。【青炎】を対抗魔術で打ち消していたクレイブは、とっさに反応することができなかった。


 直撃――。

 する直前、「なりそこない」の首が「ぽーん」とはね飛んだ。


 続いて、宙に文字が浮かぶ。リースもクレイブも知らない文字だ。

 それを読める人間は、すでにもう一体の「なりそこない」に向け駆け出している。


「〝頭です〟」

「おうよ!」


 紫波は数発のフェイントで「なりそこない」の動きを誘導し、一撃で頭部を撃ち抜いた。

 哀れな、もともと小鬼アズールであったものは、ようやく外法の呪縛から解放された。


(馬鹿な!)


 ジェルビはとっさに転移石を握り込んだ。が、その手が鋭い衝撃をうける。矢だ。


「ご観念ください、猊下」


 いつの間に回り込んでいたのか。後方からアルフレッドと、弓を構えたアネットがにじり寄ってきていた。


「いまは青炎教カピストリアの神父ですが、聖柱教セラ・クティルにもそれなりに通じております。あなたの行いはとても神々の御心に叶うものではありませんよ」

「邪教徒が知ったふうなことを!」

「そう言われるのも随分久しぶりですね。懐かしいものです」


 アルフレッドは飄々と答え、手早くジェルビを拘束した。


 すでに一味は全て取り押さえられていた。上階から応援の兵士たちも駆けつけていて、場は次第に落ち着いていった。


 向こうでは、意識を取り戻したマルレーネが、紫波に手を取られ、「リア充爆発しろ!」とでも叫びたくなるような距離で話し込んでいる。


(ふたりはそんな仲だったのか。大人だなー)


 リョウはそれを注視していた。断じてデバガメではない。紫波の説得がうまく行かなければ、マルレーネが暴走する恐れもある。


 結果だけ言うと、無用な心配だった。

 マルレーネが紫波の胸にすがりつき、嗚咽を漏らし始めたのだ。紫波は彼女の背を優しく撫でてやっている。


「一件落着かな」


 ふ、と笑って視線を移す。

 そこで異変が起きていた。


「カオス、しっかりするんだ!」


 リースが取り乱したようにカオス公子を揺り動かしていた。駆けつけたクレイブとアルフレッド神父も、すっかり青ざめている。


魔人ガウリィが目覚めようとしている。この場所の魔力濃度のせいだ」


 クレイブいわく、このような場所では、空間魔力による外圧だけで、魔力の回復が異常に早まる。それが、魔人ガウリィの卵たるカオスの器を急速に満たしたのだ。


「すぐに外へお運びするんだ!」


 リースが叫んだ。が、アルフレッドが首を横に振り、みなの動きを制した。


「もう間に合いません。すぐにでも処置をしなければ」


 ぽう、と神父の手が光り、カオスの額にあてられた。

 みな驚愕に息を呑んだ。

 それは金色の聖炎アピトル。伝説にすら聞いたこともない色だった。


「危険ですから、みなさんは早く退避してください。マルレーネ師、みなさんをまとめて転移魔術を。お願いできますね?」

「……分かったわ」


 得も言われぬアルフレッドの迫力に、誰も異を唱えることができない。

 マルレーネはすぐさま大規模転移魔術の構築を開始する。リースが撤退の指示を行い、みながそれに従う中、リョウとアネット、そしてエリシャがアルフレッドに呼ばれた。


「みなさんの力を貸してください。いや、生命いのちを、ですか。さほど分の悪い賭けではありません。どちらにせよ、魔人ガウリィが目覚めたらアルノアは消し飛びます」

「エリシャを巻き添えにするつもりか!」


 クレイブが激高し、素早く何かの魔術アルダーを用意した。が、発動する前に、紫波の一撃がクレイブを昏倒させる。


「おい、坊さん。本当にあんたなら何とかできるんだろうな?」

「少なくとも実績はありますよ。お三方は、よろしいですね?」

「ご主人のためなら」


 真っ先に答えたのはエリシャ。

 アネットはおどおどとこう言った。


「あの、私で役に立つんですか?」

「できればみなと一緒に逃げなさい。でも、リョウは置いていってもらいますよ」

「そんなの嫌です!」


 アルフレッドはふっと笑って、リョウに視線を送った。


「〝やります〟」


 短い返事。だが、とても力強い書体。

 望むところだった。

 カオス公子はこんなところで死ぬべきじゃない。そしてアルノアという国――出会った人々も、みな。彼らを救えるというなら、命くらいは賭けてみせよう。


 アルフレッドの指示に従い、三人はカオス公子の胸に手をあてた。

 そして祈る。


「カオス公子は魔力の奔流に呑み込まれ、精神を蝕まれています。でも健気に戦っている。我々はそれをお助けするのです。霧散する魂をつなぎ留める秘法をもって――」


 それは声だったのか。それとも思念だったのか。

 みなの心がひとつに混ざり合っていくのを、リョウは感じた。

 四人の祈りが大きな聖炎アピトルとなって、カオスの身体を包み込んだ。


 ふと、歌が聞こえる。

 リースだった。ほかに人の気配はない。稀人レウリィのみに許された奇跡の歌声が、四人の集中力を増強させ、祈りを確固たるものにしていく。


(ありがたい。本当に何とかなりそうです)


 アルフレッドは微笑み、さらに意識を集中させた。



 カオスは佇んでいた。


 いや、ひょっとしたらふわふわと漂っているのかもしれない。落下しているかもしれないし、上昇しているかもしれない。


 わかるのは何もないということ。


 光も音も空気の流れも、痛みどころか四肢の感覚さえなかった。耳鳴りすらない。完全な闇。完全な無音。


 そんな中、自分が何者かに「喰われている」ということだけは分かった。


 次々と沸き起こる恐怖。すがりつこうと思い浮かべる現世の記憶。それが片っ端から喰らい尽くされていくのだ。


(はっ。実にオレらしい最後だ)


 それすらあざ笑う自分がいる。無数の自分が消えていく。これもじきに消える。そして魔人ガウリィとやらが生まれ、世界に破壊と混沌をもたらすだろう。


 それはかつて、たしかに自分が願った末路だった。くだらない常識と迷信に溢れ、それがために平然と他者を踏みにじる世界。善人ぶった悪人が被害者の皮を被り、善意という名の悪意を撒き散らして得意げになる世界。


 滅びてしまえばいいと思っていた。この世に救いがあるとすればそれしかない。

 己の抜け殻が、それを成し遂げるのだ。誇らしいことであるはずだった。


 ――しかし。


 カオスはあらがっていた。無数の恐怖を乗り越え、無限の暗闇をかき分け、それでもなお。


 やがて、歌が聞こえた。

 なつかしい歌声。突如として闇が開け、視界に飛び込んできたのは、若き母の幸せそうな笑顔だった。


 そして、そのとなりに。

 好奇に目を輝かせる稀人レウリィが居た。


 それはカオスの人生の様々な場面に登場した。

 初めて二本の足で歩いた時も。剣を握った時も、城を抜け出した時も、女神だと思っていた母に悪鬼の如き形相で叱りつけられた時も。


 あれはいつでもカオスの傍にいた。いつまでも変わらぬ姿で。

 だからいつまでも、変わらず傍にいてくれると信じていたのだ。


(面白いことを考えているな)


 カオスは笑った。


 いつまでも子どもではない。人の心がままならぬことは、何よりも自分が痛感している。善悪を越えた愛情が他者を救い得ることも、身をもって知っている。

 地獄の世の営みにも、救いはあるのだ。それは紡ぎ紡がれ、はるか伝説の彼方に消えゆくまで、語り継がれていくべきものだ。


 ここで終わらせてはならない。断じて。


 歌声は止まない。

 だから、カオスも抵抗を止めない。

 浮かんだ記憶が、想いが次々に闇に飲まれていく。

 しかし、最後のひとかけらが飲まれようとも、カオスは何度でも自分を思い起こしてあらがった。


 ふと、大きなうねりがおこった。

 突然の激流。カオスの意識はめちゃくちゃにかき回され、闇に溶けこんだ。


 ついに、歌声が止んだ。

 急速に消え行く意識。闇が押し寄せ、最後の一点が塗りつぶされる瞬間。


 眼前に手が見えた。

 無我夢中でそれをつかむ。ぐおん、と引き抜かれる感覚。

 視界が白く塗りつぶされた。もやが晴れるように、誰かの顔が浮かび上がる。


 見たこともない少年だ。艶やかな黒髪の、やや華奢で、それでいて確かなたくましさを感じさせる少年。

 天使の如きまばゆい笑みを浮かべ、それは言った。


「助けに来たよ、殿下」


「馬鹿め。どうせなら美女でもよこさんか」


 そして、意識が急速に覚醒してく――。



 目覚めたカオスは、リースの熱い抱擁を受けて困惑しているようだった。


「カオス、ほんとうによかった……!」


 リースは顔面をぐちゃぐちゃに濡らし、鼻をすすりつつ、カオスを胸に掻き抱いている。


「よかったね、公子さま」


 アネット。カオスは不思議そうにそれを眺め――。

 不意に視線をそらし、その隣のリョウの目をまっすぐ見つめ、にやりと笑った。


(ん?)


 その笑みに既視感を覚える。ついさっき、祈りのさなか、そんな笑みで何かを言われたような気がしたのだ。

 が、おそらく気のせいだろう。リョウはひたすらカオスの無事を祈っていただけで、その間カオスはずっと意識がなかったのだから。


「お疲れ様でした」


 アルフレッドが言った。彼の腕の中ではエリシャが寝息を立てている。大魔法の行使で疲れ果ててしまったのだ。実はリョウもかなり疲労している。すでに聖炎アピトルも消え失せていた。さっきからアネットがリョウに寄りかかって離れないも、疲労のためだろう。


 アルフレッドが三人の祈りの力を束ねて使ったのは〝呼魂の秘法〟というものらしい。

 世間ではおとぎ話の産物とされている、いわゆる蘇生魔法である。失った精神と記憶すら再生する、究極の霊術エレジーだ。


「死者を生き返らせる、というほどのものではありませんが。それでも、魔人ガウリィに堕ち行く人間に効果があるのは経験済みでしたからね。とはいえ、みなさんの助けが無かったら成功しなかったでしょう」


 ほんとうに。

 この人は何者なんだろう。リョウは駄目もとで尋ねてみたが、返ってきた答えはこんなものだった。


「ただの神父ですよ。ちょっと長生きしているだけのね」


 せめてその「ちょっと」がどのくらいなのか知りたい、と思ったが、筆記版に文字を記す前に、アルフレッドが口元で人差し指を立てた。

 視線の先に、妙な雰囲気で見つめ合うカオスとリースがいる。


 と。

 カオスがおもむろにリースを引き寄せ、口づけをした。

 正真正銘のマウス・トゥ・マウスだ。隣のアネットが息を呑んだのがわかった。リョウも思わず口元を押さえた。


 リースはよくわからない顔をしていた。でも驚いているのは間違いない。


 そんな空気の中、カオス公子は何を恐れることもなく、堂々と言い放った。


「おまえを世界一幸せな女にしてやる。オレの妃になれ、リース」

「は、はい!」


 裏返った声で、リースは返事をした。

 あとはアネットの、やかましいくらいの歓声が響き渡っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ