17.たまには祈りが届いたっていいじゃない
砦の地下牢が封印されていたのは、アルノアにとって幸いであった。
かつて地下水脈のあった場所は、何らかの地殻変動の影響か、ただの空洞になっている。
そこに魔石の鉱脈が出現していた。
大規模なものだ。空間の魔力濃度も非常に高く、視界がゆらめくほど。もしここが外界と通じたまま放置されていたら、さぞ大量の魔物を生み出し、アルノアに災厄をもたらしただろう。
マルレーネが悪名高い「死人の森」の一角に拠点をもうけたのは、この鉱脈を人知れず独占するためだった。
なにせ魔術の研究には金がかかる。大半の経費は魔石に消えるが、それが無限にあるのだ。
ここでの暮らしに不自由はなかった。
街への転移ルートはすぐに構築できたし、〝転移石〟の材料にも事欠かないから、物資の調達に不便はなかった。人足は奴隷で事足りた。雑事は彼らに任せ、己はただひたすら研究に没頭。
まさに理想の遁世生活と言えた。
ただ、この生活が長く続けられるとも思っていなかった。
地下の鉱脈がまたいつ水流に埋まるとも知れなかったし、権力に知られたら打ち捨てるほかない。
3年も続けられたのは奇跡、と言って良かったのかもしれない。
「もう充分よ。ユウトとカオスさまさえ居れば、どこでだってやっていけるわ」
美貌が知らず笑みを形作っていた。
マルレーネの人生はおおむね不幸だった。灼鬼に生まれついた瞬間に決まっていた。家族には疎んじられ、友人を得ることも叶わず、祖国を離れても、彼女に居場所はなかった。死に物狂いで入学を果たした皇国の魔術学院ですら、妥当に評価されなかった。
遁世を続け、研究に没頭してみても、どこか満たされぬ日々。
それが紫波雄人との出会いで一変した。
「ああ? おれの居た世界じゃ、もっとカラフルなやつが沢山いるぜ。あんたのは綺麗なだけまだマシじゃねえか」
あの言葉に自分がどれほどの衝撃を受けたのか、彼は毛ほども理解していないだろう。
この色は呪縛だ。この世界にいる限り、決して逃れられない呪縛。
「なら、私がこの世界から出て行ってやればいい」
理想郷はある。証人もいる。あとは行く方法を確立させるだけだ。
話を聞くに、ユウトたちをこの世に喚んだ力は、おそらくデルナにあった聖柱を源としたのだろう。彼らがやって来たのと同時期に消失した、無色透明の巨大な柱。ある魔術師の研究によれば、純粋な魔力が強固に結晶化したものだという。
その説を借りれば、ユウトたちの世界へ渡るために必要な魔力量が算出できる。膨大な量だ。いくら魔石をかき集めても足りない。
だが、魔人の力があれば不可能ではない。
「必ず成功させて見せる。誰にも邪魔はさせない」
地下道の奥で、すでに〝儀式〟の準備は整っていた。
鉱脈と集積型魔法陣を直結し、中央の寝台に横たわるカオスに膨大な魔力を注ぐ。上階に敷いたものなどほんの実験程度のものだ。この場所こそが本丸だった。
す、と。
マルレーネの指先が滑らかに動き、周囲を漂う魔力をつかむ。ただの魔法使いと魔術師の決定的な違いがここにある。彼らは己の魔力ばかりでなく、空間に漂う魔力をも利用できる。
呪文を詠唱し、印を切りながら、魔力の流れを形作っていく。
(本当に、これでいいの?)
ふと沸き起こる疑念。
マルレーネは集中して雑念をかき消した。術の構築は滞りなく進む。最後の回路を構築し、あとは起動命令を――。
――本当に、これでいいの?
また、雑念。今度は完全に手が止まった。集中。駄目。魔力の同調が維持できない。
(いいえ。これは歌――?)
「そこまでだ、魔女め!」
怒号が響いて、マルレーネ意識を完全に現実に引き下ろした。
見れば、油断なく槍や剣を構え、にじりよってくる兵士たち。
後方では、胸に手をあて、奇跡のような音色を歌い上げる麗人がいる。
(呪歌で集中力を撹乱しているのか、忌々しい稀人め!)
マルレーネはさっと手をふるって、高速で魔術の構築を始めた。世間が認めなくとも、彼女の腕前は確かだった。
「【焔陣】」
数秒もかけず、高々と燃え上がる赤壁が出現した。この程度の魔術を紡ぐのに、さした集中力も時間も要らない。
驚き足を止める兵士たちに、すぐさまトドメの魔術を用意する。
「【天滅煌】!」
これも、数秒とおかず完成。無数の光の矢が、侵入者たちを次々と穿って――。
いや、様子がおかしい。光の矢はどれも、敵に直撃する前に威力を消失している。
(これは【祝福】? あの神父の仕業か!)
マルレーネは舌打ちしつつも、別の魔術を紡ぐ。
今度は少し時間をかけ、頭上に、煌々と燃え盛る火の玉が出現した。全部で5つ。
「【灼弾】」
狙い違わず、次々に炸裂する。人間ひとりを殺すには過ぎた威力のはずだ。しかし【祝福】の加護か、兵士たちはなお息がある。
ならばもう一度――。
再び魔術を用意した瞬間、ずぶり、と。胸に衝撃と熱。
気がつけば、あの稀人が焼け焦げた顔で眼前にいて、マルレーネの胸に長剣を突き立てていた。
(馬鹿な)
稀人はマルレーネを蹴飛ばし、その勢いで一気に長剣を抜きとって、高々と振り上げた。
「もはや慈悲はない。さらばだ、灼鬼の魔女」
返事もできなかった。口惜しいと思う暇も。
次の瞬間には、稀人の華奢な身体が、玩具の人形のように吹き飛ばされていたからだった。
(――え?)
うめくことすらできず、マルレーネはただ呆然とした。
「危ないところでしたな」
背後から声がした。
そこに居たのは、獣相を持つ二人の巨漢と。
余裕の笑みを浮かべる恰幅の良い僧侶――神官長ジェルビであった。
○
極めて強い衝撃だった。
リースは幾度も地面を跳ね返り、転げ回りながら、なお意識を繋いだ。
【祝福】のおかげだろうか。あちこちの骨が粉砕したようだが、一撃で肉塊となるのは回避できたようだ。
無理をすれば動けるかも知れない。だが、リースは身じろぎもせず、事態を見守ることにした。
突如現れた一団は、神官長ジェルビと、ほか十数人の僧兵たち。
ふたり、異質な男が混じっている。
獣相の巨躯。そして赤黒い眼光を放つあれは、たしかに見覚えがある。
(小鬼の魔人……いや、なりそこないだったか)
マルレーネはすぐに治癒魔術を使い、リースが与えた傷を癒したらしい。凍りついた表情のまま、当然の疑問を口にする。
「どうやってここへ?」
ジェルビは愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
「なに、あなたと同じ手段です。知り合いに転移魔術に詳しいものがおりましてね」
手を広げて見せたのは転移石だ。純度の高い魔石を精錬して転移魔術を刻み、ごく少量の魔力と起動命令だけで発動できるようにしたもの。
紛れもなく、マルレーネが精錬したものだった。つまり、内通者がいたということだ。
「いけませんな。このような宝の山を独り占めとは。これは我々も有効利用させて頂きます。もちろん、公子もね」
マルレーネの眉目が歪んだ。そしてほんの少し、指先が動く。
「おっと」
ジェルビが目ざとくその手を掴み上げた。見た目を裏切る俊敏さ。驚く間もなく、ジェルビの手に聖炎が灯る。
途端、マルレーネは全身を激しく痙攣させ、その場に倒れ伏せた。
「失礼、マルレーネ師。これほど魔力濃度の濃い場所で、魔術師を自由にさせておくわけにもいかんのでな」
「殺したほうが良いのでは」
「ならん。彼女は役に立つ。場所を変えてじっくり説得するとしよう」
ジェルビとその一団は、カオスとマルレーネ、そして精錬済みの魔石を手早く確保し、撤退の準備を始めた。
「急げ。地上の連中に気付かれる前に脱出するのだ」
リースは覚悟を決め、四肢に力を入れた。
激痛。だが動く。起き上がることは可能だ。それでどうなるとも思えないが、時間稼ぎにはなるだろう。
「だめ」
すぐ傍で声がした。エリシャだ。可愛らしい眉目でVの字を作り、口唇に人差し指をあてている。
「すぐ治すからじっとしてて。あとはご主人たちが――」
ブォン。
不穏な空気の振動。そしてリースはかつてない光景を見た。金色の瞳に映る魔力の流れが、一斉に、後方に向け収束する。
次の瞬間、視界がまばゆい光に包まれた。
極太の光の筋が、水平に照射されたのだ。おそるべき威力だった。熱線によって膨張した空気が衝撃波を撒き散らし、ジェルビたちをめちゃくちゃに吹き飛ばした。地面はどろどろに溶け、冷えたカ所からガラスのような輝きを放ち始める。
そして直撃を受けた「なりそこない」の身体の大半が、無残に蒸発していた。残ったのは、まるで胸像のような肉塊である。
「動くな」
現れたのはクレイブ導師。彼の隣には、なぜか紫波雄人の姿もある。
「大丈夫、味方だよ」
リースの疑念を察し、エリシャが笑顔で言う。
いっぽう、ジェルビたちは恐るべき新手の出現に戦慄していた。
「な、何をした?」
「【天穿煌】――ご存知ないかな? まあ、こんな場所でもない限り使えない破壊魔術だからね。今のは警告だよ。本当に動かない方がいい。私はあなたがた全員を消し飛ばすことができる」
この間に、エリシャは倒れ伏せる兵士たちを癒して回った。幸い全員命があったらしい。死んでさえいなければ、「癒やしの御手」たるエリシャに治せぬ怪我はない。
リースは兵士たちをまとめ、ジェルビたちを包囲していった。
「勝負あったなジェルビ。大人しくカオス公子を引き渡せ」
「ついでに、その赤いのもな」
紫波がマルレーネを指差した。
ジェルビは答えず、「す」と両掌を上に向けて黙祷した。
「……ここが魔術師だけの場所だと思うな!」
ぽう、とジェルビたちの身体が光る。【祝福】。同時に、半壊していた「なりそこない」の身体が、急速に再生を始めた。
その背中――ほとんど脊髄に近い場所が、大量の魔力を集めている。何らかの魔術が施されていたのか――。
「【回生呪】か! まるで禁呪の大安売りだ!」
クレイブは吐き捨て、大量の光の矢を敵陣に照射。だが【祝福】に阻まれて痛打にならない。
「ユウト!」
紫波はすでに駆け出していた。雑兵を蹴散らし、たちはだかる「なりそこない」に渾身の拳を見舞う。
だが、相手は「ひょい」と身をかわし、逆に紫波を蹴り飛ばした。
続けざま、もう一体の「なりそこない」が追撃する。紫波は十メートル以上吹っ飛び、石壁にめり込んだ。
「あれで〝なりそこない〟だと?」
うめくようにリース。
「全身に永続呪印を刻んで強化している」
クレイブは忌々しく吐き捨てた。
「生命を弄ぶ最悪の魔術だ。狂人め!」
「黙れ、穢らわしい幼児性愛者め! きさまのような輩がいるから、正義の執行に力が必要なのだ!」
ジェルビの両手がまばゆいばかりに光り輝く。恐るべき魔力の波動が、すぐに現象となって発現した。
【青炎】。
最上位の霊術。青白い破壊の炎が、変幻自在にかたちを変えて襲い掛かってくる。
さらに、二体の「なりそこない」が迫る。【青炎】を対抗魔術で打ち消していたクレイブは、とっさに反応することができなかった。
直撃――。
する直前、「なりそこない」の首が「ぽーん」とはね飛んだ。
続いて、宙に文字が浮かぶ。リースもクレイブも知らない文字だ。
それを読める人間は、すでにもう一体の「なりそこない」に向け駆け出している。
「〝頭です〟」
「おうよ!」
紫波は数発のフェイントで「なりそこない」の動きを誘導し、一撃で頭部を撃ち抜いた。
哀れな、もともと小鬼であったものは、ようやく外法の呪縛から解放された。
(馬鹿な!)
ジェルビはとっさに転移石を握り込んだ。が、その手が鋭い衝撃をうける。矢だ。
「ご観念ください、猊下」
いつの間に回り込んでいたのか。後方からアルフレッドと、弓を構えたアネットがにじり寄ってきていた。
「いまは青炎教の神父ですが、聖柱教にもそれなりに通じております。あなたの行いはとても神々の御心に叶うものではありませんよ」
「邪教徒が知ったふうなことを!」
「そう言われるのも随分久しぶりですね。懐かしいものです」
アルフレッドは飄々と答え、手早くジェルビを拘束した。
すでに一味は全て取り押さえられていた。上階から応援の兵士たちも駆けつけていて、場は次第に落ち着いていった。
向こうでは、意識を取り戻したマルレーネが、紫波に手を取られ、「リア充爆発しろ!」とでも叫びたくなるような距離で話し込んでいる。
(ふたりはそんな仲だったのか。大人だなー)
リョウはそれを注視していた。断じてデバガメではない。紫波の説得がうまく行かなければ、マルレーネが暴走する恐れもある。
結果だけ言うと、無用な心配だった。
マルレーネが紫波の胸にすがりつき、嗚咽を漏らし始めたのだ。紫波は彼女の背を優しく撫でてやっている。
「一件落着かな」
ふ、と笑って視線を移す。
そこで異変が起きていた。
「カオス、しっかりするんだ!」
リースが取り乱したようにカオス公子を揺り動かしていた。駆けつけたクレイブとアルフレッド神父も、すっかり青ざめている。
「魔人が目覚めようとしている。この場所の魔力濃度のせいだ」
クレイブいわく、このような場所では、空間魔力による外圧だけで、魔力の回復が異常に早まる。それが、魔人の卵たるカオスの器を急速に満たしたのだ。
「すぐに外へお運びするんだ!」
リースが叫んだ。が、アルフレッドが首を横に振り、みなの動きを制した。
「もう間に合いません。すぐにでも処置をしなければ」
ぽう、と神父の手が光り、カオスの額にあてられた。
みな驚愕に息を呑んだ。
それは金色の聖炎。伝説にすら聞いたこともない色だった。
「危険ですから、みなさんは早く退避してください。マルレーネ師、みなさんをまとめて転移魔術を。お願いできますね?」
「……分かったわ」
得も言われぬアルフレッドの迫力に、誰も異を唱えることができない。
マルレーネはすぐさま大規模転移魔術の構築を開始する。リースが撤退の指示を行い、みながそれに従う中、リョウとアネット、そしてエリシャがアルフレッドに呼ばれた。
「みなさんの力を貸してください。いや、生命を、ですか。さほど分の悪い賭けではありません。どちらにせよ、魔人が目覚めたらアルノアは消し飛びます」
「エリシャを巻き添えにするつもりか!」
クレイブが激高し、素早く何かの魔術を用意した。が、発動する前に、紫波の一撃がクレイブを昏倒させる。
「おい、坊さん。本当にあんたなら何とかできるんだろうな?」
「少なくとも実績はありますよ。お三方は、よろしいですね?」
「ご主人のためなら」
真っ先に答えたのはエリシャ。
アネットはおどおどとこう言った。
「あの、私で役に立つんですか?」
「できればみなと一緒に逃げなさい。でも、リョウは置いていってもらいますよ」
「そんなの嫌です!」
アルフレッドはふっと笑って、リョウに視線を送った。
「〝やります〟」
短い返事。だが、とても力強い書体。
望むところだった。
カオス公子はこんなところで死ぬべきじゃない。そしてアルノアという国――出会った人々も、みな。彼らを救えるというなら、命くらいは賭けてみせよう。
アルフレッドの指示に従い、三人はカオス公子の胸に手をあてた。
そして祈る。
「カオス公子は魔力の奔流に呑み込まれ、精神を蝕まれています。でも健気に戦っている。我々はそれをお助けするのです。霧散する魂をつなぎ留める秘法をもって――」
それは声だったのか。それとも思念だったのか。
みなの心がひとつに混ざり合っていくのを、リョウは感じた。
四人の祈りが大きな聖炎となって、カオスの身体を包み込んだ。
ふと、歌が聞こえる。
リースだった。ほかに人の気配はない。稀人のみに許された奇跡の歌声が、四人の集中力を増強させ、祈りを確固たるものにしていく。
(ありがたい。本当に何とかなりそうです)
アルフレッドは微笑み、さらに意識を集中させた。
○
カオスは佇んでいた。
いや、ひょっとしたらふわふわと漂っているのかもしれない。落下しているかもしれないし、上昇しているかもしれない。
わかるのは何もないということ。
光も音も空気の流れも、痛みどころか四肢の感覚さえなかった。耳鳴りすらない。完全な闇。完全な無音。
そんな中、自分が何者かに「喰われている」ということだけは分かった。
次々と沸き起こる恐怖。すがりつこうと思い浮かべる現世の記憶。それが片っ端から喰らい尽くされていくのだ。
(はっ。実にオレらしい最後だ)
それすらあざ笑う自分がいる。無数の自分が消えていく。これもじきに消える。そして魔人とやらが生まれ、世界に破壊と混沌をもたらすだろう。
それはかつて、たしかに自分が願った末路だった。くだらない常識と迷信に溢れ、それがために平然と他者を踏みにじる世界。善人ぶった悪人が被害者の皮を被り、善意という名の悪意を撒き散らして得意げになる世界。
滅びてしまえばいいと思っていた。この世に救いがあるとすればそれしかない。
己の抜け殻が、それを成し遂げるのだ。誇らしいことであるはずだった。
――しかし。
カオスは抗っていた。無数の恐怖を乗り越え、無限の暗闇をかき分け、それでもなお。
やがて、歌が聞こえた。
なつかしい歌声。突如として闇が開け、視界に飛び込んできたのは、若き母の幸せそうな笑顔だった。
そして、そのとなりに。
好奇に目を輝かせる稀人が居た。
それはカオスの人生の様々な場面に登場した。
初めて二本の足で歩いた時も。剣を握った時も、城を抜け出した時も、女神だと思っていた母に悪鬼の如き形相で叱りつけられた時も。
あれはいつでもカオスの傍にいた。いつまでも変わらぬ姿で。
だからいつまでも、変わらず傍にいてくれると信じていたのだ。
(面白いことを考えているな)
カオスは笑った。
いつまでも子どもではない。人の心がままならぬことは、何よりも自分が痛感している。善悪を越えた愛情が他者を救い得ることも、身をもって知っている。
地獄の世の営みにも、救いはあるのだ。それは紡ぎ紡がれ、はるか伝説の彼方に消えゆくまで、語り継がれていくべきものだ。
ここで終わらせてはならない。断じて。
歌声は止まない。
だから、カオスも抵抗を止めない。
浮かんだ記憶が、想いが次々に闇に飲まれていく。
しかし、最後のひとかけらが飲まれようとも、カオスは何度でも自分を思い起こして抗った。
ふと、大きなうねりがおこった。
突然の激流。カオスの意識はめちゃくちゃにかき回され、闇に溶けこんだ。
ついに、歌声が止んだ。
急速に消え行く意識。闇が押し寄せ、最後の一点が塗りつぶされる瞬間。
眼前に手が見えた。
無我夢中でそれをつかむ。ぐおん、と引き抜かれる感覚。
視界が白く塗りつぶされた。もやが晴れるように、誰かの顔が浮かび上がる。
見たこともない少年だ。艶やかな黒髪の、やや華奢で、それでいて確かなたくましさを感じさせる少年。
天使の如きまばゆい笑みを浮かべ、それは言った。
「助けに来たよ、殿下」
「馬鹿め。どうせなら美女でもよこさんか」
そして、意識が急速に覚醒してく――。
目覚めたカオスは、リースの熱い抱擁を受けて困惑しているようだった。
「カオス、ほんとうによかった……!」
リースは顔面をぐちゃぐちゃに濡らし、鼻をすすりつつ、カオスを胸に掻き抱いている。
「よかったね、公子さま」
アネット。カオスは不思議そうにそれを眺め――。
不意に視線をそらし、その隣のリョウの目をまっすぐ見つめ、にやりと笑った。
(ん?)
その笑みに既視感を覚える。ついさっき、祈りのさなか、そんな笑みで何かを言われたような気がしたのだ。
が、おそらく気のせいだろう。リョウはひたすらカオスの無事を祈っていただけで、その間カオスはずっと意識がなかったのだから。
「お疲れ様でした」
アルフレッドが言った。彼の腕の中ではエリシャが寝息を立てている。大魔法の行使で疲れ果ててしまったのだ。実はリョウもかなり疲労している。すでに聖炎も消え失せていた。さっきからアネットがリョウに寄りかかって離れないも、疲労のためだろう。
アルフレッドが三人の祈りの力を束ねて使ったのは〝呼魂の秘法〟というものらしい。
世間ではおとぎ話の産物とされている、いわゆる蘇生魔法である。失った精神と記憶すら再生する、究極の霊術だ。
「死者を生き返らせる、というほどのものではありませんが。それでも、魔人に堕ち行く人間に効果があるのは経験済みでしたからね。とはいえ、みなさんの助けが無かったら成功しなかったでしょう」
ほんとうに。
この人は何者なんだろう。リョウは駄目もとで尋ねてみたが、返ってきた答えはこんなものだった。
「ただの神父ですよ。ちょっと長生きしているだけのね」
せめてその「ちょっと」がどのくらいなのか知りたい、と思ったが、筆記版に文字を記す前に、アルフレッドが口元で人差し指を立てた。
視線の先に、妙な雰囲気で見つめ合うカオスとリースがいる。
と。
カオスがおもむろにリースを引き寄せ、口づけをした。
正真正銘のマウス・トゥ・マウスだ。隣のアネットが息を呑んだのがわかった。リョウも思わず口元を押さえた。
リースはよくわからない顔をしていた。でも驚いているのは間違いない。
そんな空気の中、カオス公子は何を恐れることもなく、堂々と言い放った。
「おまえを世界一幸せな女にしてやる。オレの妃になれ、リース」
「は、はい!」
裏返った声で、リースは返事をした。
あとはアネットの、やかましいくらいの歓声が響き渡っていた。