1.影が薄いにもほどがある
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴った。
閑散としていた教室には、すぐに生徒たちが集まってきて、慌ただしく、午後の授業の準備を始める。
その喧騒の中、日浦リョウはただ一人、机に突っ伏して寝息を立てていた。起きる気配はまったくない。
リョウにとって、この時間――昼食をとってから下校まで――は睡眠時間だった。
帰宅後は、適当に宿題やら予習復習を済ませ、あとは朝までネットゲームの廃人プレイ。剣と魔法が大活躍するオンラインRPGだ。トップランカーを維持するための、涙ぐましい努力だった。
ゆえにリョウはいま、睡眠を取る。午後の授業など気にしていたら、彼の一日は成り立たないのだ。
そんな目に余る生活態度だが、不思議と悪目立ちしない。幼少の頃より培った、存在感のなさが原因だ。
日浦リョウは、とにかく目立たない少年だった。
それも尋常なレベルではない。クラスの誰にも話しかけられたことはないし、教師も授業中、彼に設問を当てたことがない。担任は三者面談の折、彼の順番を忘れていた。
そして今日も、窓際最後尾という究極に目立たない席で、堂々と爆睡するリョウに、誰も関心を払わなかった。
そんな中での出来事だった。
ドンっ!
突然、突き上げるような振動があって、悲鳴とざわめきが起こった。
「電気が消えたぞ」
「何だ今の揺れ?」
「地震っぽくは無かったような……」
「おいおい見ろ、窓の外!」
さすがのリョウも眼が覚めた。寝ぼけ眼で窓の外を見やる。
見えたのは雲海だった。
雲の海だ。むかし、父とともに富士登山をした時に見たことがある。だがここは校舎の二階だ。それもごくふつうの平地にある、ごく普通の高校の。
だから、そんなものが見えるわけがない。
(なんだ夢か)
リョウは再び机に突っ伏し、睡眠の続きを取ることにした。何の逡巡もなかった。
すぐに意識は閉じていき、どよめきは遠くなっていった。
○
暑い。
そして眩しい。陽の光に照らされているのだと分かった。
リョウは「がばっ」と身を起こした。
見慣れた教室である。誰もいない。
日差しは、窓から差し込む夕日だったらしい。日の入りが近い。赤みを増した日差しが鋭く目に突き刺さった。
しかし、見慣れた光景はここまでだった。
「どこだ、ここ?」
リョウは思わず呻いた。ここは教室だ。それは間違いない。が、窓の外は違った。
景色に見覚えがないどころか、文明の面影もなかった。
どこかの山頂付近らしい。ごつごつとした岩肌に、ぽつぽつと木々が立つ。山裾にはもう少し立派な森が広がっているが、その向こうの平地はだだっ広い荒野だ。それが、もっと向こうの切り立った岩山まで続いている。
眼下に見える霧のようなものは雲らしい。かなり標高のある山だ。さっき見た雲海を思い出す。
「まだ夢を見ているのか……?」
訝しみながら、再度、教室を見渡す。
「誰かいないの?」
不安を押し出すように叫ぶ。返事はない。やはり誰もいないようだ。それどころか、風の音一つ聞こえない。
リョウは途方に暮れた。
途方に暮れながら、これは夢だ、と言い聞かせていた。意味が分からない。そうでなければ説明が付かない。窓から見える風景は、明らかに日本のものではない。なぜこんな場所に一人きりでいるのだろう?
ふと、スマートフォンを取り出す。「圏外」という表示が絶望を煽った。インターネットも通話機能も沈黙している。
「なんだよこれ。誰か、何とか言えよ!」
にわかに沸き起こった恐怖が、悲鳴を上げさせた。誰かに説明を求めたかった。しかし、答えが得られそうにないのは明らかだった。
気がつけば、強い動悸が絶えず耳を打っている。落ち着け。落ち着け――。
ひとまず、リョウは深呼吸をした。
何の効果もなく、息苦しさが増しただけのように思えた。だから何となく、空気を入れ替えようとして――。
「――開かない!」
今度こそ、発狂しそうになった。窓はぴくりとも動かない。思わず殴りつける。拳に鈍い痛みが走った。が、窓ガラスはヒビ一つ入らない。
拳の痛みと、腕の痺れとが、次第に熱を帯びていく。それはまるで「夢なんかじゃないぞ」と嘲笑っているかのよう。
「……どういうこと?」
少しすっきりした頭で訝しむ。もう一度、今度は軽く「こつん」と叩く。感触があまりにもおかしい。窓ガラスは振動すらしない。
まるで分厚い壁に描いた精巧な絵のようだ。
でも違うのは分かる。外の景色は明らかに動いている。リョウは意を決し、今度は椅子を振り上げ、力いっぱい叩きつけた。
結果は変わらない。窓はびくともしなかった。
しばし考え込む。
「まさかとは思うけど……」
この状況に心当たりがあった。
一般的な日本人なら思いもつかない発想だ。
しかし、サブカルチャーにどっぷり浸かった中高生ならば、一瞬で思いつく状況。
リョウは頭を振り、馬鹿馬鹿しい可能性を頭の隅に追いやった。
そうして、次に視線を向けたのは黒板である。
さっきから目についてはいた。そこには、チョークを横にした太い字で、大きく「右矢印」が記してあった。
その方向にあるのは教室の出入り口だ。
引き戸は開けっ放しだった。向こう側は暗がりでよく見えないが、見知ったリノウム床でないのは明らかだ。窓から見える景色と同じく、ごつごつとした岩肌のようだ。ただし、窓側のような急斜面ではなく、歩ける余地がありそうだった。
「とりあえず出ろってこと?」
リョウは吐き捨て、ひとまず教室内を探索した。
馬鹿げた心当たりが正解なら、使えそうなものは持っていくべきだ。
まず、清掃用具を取り出す。ほうきの「ヘッド」部分を取り外せば、槍代わりには使える。
クラスメートの机を総当りで調べると、ごつい裁断鋏、彫刻刀のセット、スチール定規。そしてペンライトが見つかった。先の3つは役に立つか微妙だが、ペンライトがあったのは僥倖だった。
「こんなところかな」
小物をカバンにしまって肩にかけ、即席の槍――というよりもただの棒――を手に持ち、リョウは外に踏み出した。
「――っ!」
一歩目から、そこが地獄だと分かった。
あたりに死体が散乱していたからだ。それもただの死体ではない。ぐちゃぐちゃに食い散らかされたような、バラバラの死体。
こともあろうに、それらはみな、リョウの高校の制服を着ていた。
「……」
言葉もなく、リョウはその場に跪いた。全身から力が抜けた。頭は空っぽだった。嗅ぎ慣れない悪臭が鼻をついても、気にする余裕もない。
それでも、時と共に思考は動き出していく。
死体の数は10人分ほどあった。
なにせバラバラなので、正確な人数は不明だ。頭がないどころか、腰から上がない死体もあった。腕や脚がちぎれ飛んでもいたし、個人が特定できたのは3人だけだった。
工藤あかり。
陸上部のエース。明るく良く笑い、いつも喧騒の中心にいた美少女。スタイル抜群の、誰もが羨む「くびれ」は見る影もない。胴体は明らかに、何者かに食い破られていた。腸は見当たらなかった。
三島澄人。
サッカー部のいけすかないイケメン。自校で練習試合をすれば、他校の女子が集団で応援に駆けつけるような男子だった。だが、多くの観客を魅了したであろう彼の脚はどこにも見当たらない。まるで胸像のような有様で、下半身がなかったからだ。
平松真司。
学年トップクラスの成績を維持する生徒。いつも周囲を見下したような態度が鼻についた。それでも、根は善人だった。面倒見が良かったし、何だかんだでみな彼を頼りにしていた。
平松の遺体は切り刻まれていて、両足の膝から下と、左腕がなかった。でも、死因はおそらく圧死だ。胴体がぺしゃんこに潰されていた。
「――うぷっ」
酷い光景と悪臭に、リョウの胃袋が限界を訴えた。撒き散らした吐瀉物は確かに、学食で食べたナポリタンらしい。そう言えば夢で吐いたのは生まれて初めてだなと、リョウは虚しく思った。
あまりにも虚しい現実逃避だった。
「もしかしてクラス全員がここに? ほかのみんなは?」
リョウは周囲を見渡した。やはりここは、山の頂きらしい。西側はさっき教室の窓から見た通りだ。荒野しかない。
東側は山陰で視界が悪かった。日はまだ沈んでいないが、相当に傾いている。
そんな中、山の裾野に街並みが見えた。もしかしたら、生き延びたみんなはあそこを目指したかも知れない。
「とにかく、ぼくもここを離れないと」
この地獄を作り出した何かが、いつ戻ってくるか分からない。
だが、日のあるうちに街にたどり着くのは難しそうだ。
ここは一度、教室に戻るべきか?
そうして一晩待って、朝になってから出立すべきかも知れない。考えてみれば、この惨劇が繰り広げられている間、リョウは教室で爆睡していたことになる。それでも無事だったことを考えれば、下手に動くよりは安全だろう。
――ところが。
教室の入り口は無くなっていた。
それはもう、跡形もなく、綺麗さっぱりと。さっき確かに通ったはずの出入り口は、ただの岩肌に変わっている。再び思考が混乱の渦に呑まれる直前――。
ドスンっ。
背後で地響き。何か巨大なものが地面に降り立ったような振動。
恐る恐る、リョウは振り返った。
そして見た。
体高は3m近く、体長5、6mはあろうかという巨大なトカゲ。前足の代わりに大きな翼。頭も顎も、人間など一飲みできる大きさだ。
一般的な日本人は知りもしないだろう。だが、サブカルチャーにどっぷり浸かったリョウなら、この怪物の名前を知っている。
「ワイバーン……?」
その問いかけに呼応するように、怪物は大顎を開き、咆哮した。心臓が直接震えるような重低音だった。
――これは夢だ。
リョウは全身を硬直させ、頭の中でそればかり呟いていた。
これは夢だ。夢だ、夢だ、夢だ。
夢じゃなかったら何だって言うんだ?
ファンタジー?
異世界転移?
冗談じゃない。そんなものは画面の向こう側にあるべきだ。こっち側にあっちゃいけないんだ。
何よりも。
――ぼくはまだ死にたくない!
「うわああああああああああ!」
リョウはありったけの大声で叫んだ。なぜそうしたかは分からない。きっと、そうしていないと心が潰されてしまうと、本能が判断したのかもしれない。
まったくの無駄では無かったらしい。雄叫びは全身の硬直を解いた。身体の自由を取り戻し、リョウがまずしたことは、手に持つ棒に力を込めること。
そして。
(何やってるんだ、ぼくは)
すぐに正気に返った。こんな、ただの棒きれが、眼前の怪物に通じる訳がない。
リョウは慌てて飛び退き、怪物と距離を取った。何となく、こういう時、背を向けて一目散に逃げるのは下策だと思った。
だから、棒きれを構えたまま、観察する。
ワイバーンはきょろきょろと首を回し、鼻を鳴らしている。リョウには注意を払っていないように見えた。
(ぼくが見えてないのか?)
訝しみながら、じりじりと後退する。
逃げるなら今、かも知れなかった。
だがなぜか、リョウの足は逃走に動かない。この怪物が、クラスメートたちを惨殺したのは間違いないだろう。逃げなければ、自分も同じ末路をたどるはずなのに。
(もしかしてカタキを討ちたいのか、ぼくは?)
唾棄すべきプランだった。丸めてゴミ箱に捨てるだけでは足りず、シュレッダーにかけたあと、燃やして消し炭にすべき、危険な危険な思考だ。そんなこと、生粋のインドア派であるリョウにできるわけがないし、そもそも、カタキを討つほど仲の良いクラスメートなどいない。ほとんど口を聞いたこともない連中なのだ。
それでも。
リョウはいつも教室の片隅から見ていた。みながみな青春を謳歌していたわけではなかろうが、それでも、みなそれぞれに生きていた。
女子の下世話な噂話は聞くに耐えなかった。
リア充どもの自慢話には内心でテンプレを返していた。
オタク連中の嫁自慢はいつも気持ち悪かった。
調子の外れたボケとツッコミをお笑いだと言い切る寒いやつもいた。
空気も読まずいきなり哲学を語りだす痛いやつもいた。
いつも外野から、それを眺めていた。
みんな楽しそうだった。だから、リョウも心の底では、悪い気はしていなかった。彼らに存在を認識されていなくても、リョウにとって彼らはクラスメートだったのだ。
ふとワイバーンが、切り刻まれた平松の遺体の前に立った。
そして大口を開けてくわえ込んだ。
顎を上げて咀嚼する。パキ、パキ、と妙な音を鳴らし、大顎から切りこぼした足が、何かの棒きれのように地面に落ちる。
それに伴い、ワイバーンの喉が脈動した。「ごくり」という不気味な音を立てて。
「そいつを返せ、化け物おおおお!」
リョウは吠えて、突進した。
妙に身体が軽かった。そして妙に、時間が遅く感じる。
すべてがスローモーションに動く中、リョウはただ見ていた。
こちらを見向きもしないワイバーンに向け、自分が棒切れを振り上げるのを。
勢いのまま、それを叩きつけるのを。
勢い余ってそのまま体当たりしてしまい、それで怪物がぐらついたのを。
そして、にわかに暴れたワイバーンの、尾の一撃を受け、自分の身体が弾き飛ばされるのを。
ただ見ていた。呆然としたまま。
気がつけば、リョウは岩肌に叩きつけられていた。全身に走った激痛で我に反る。
「なん……いまの……なん、で……」
うめきつつ、立ち上がる。
なんであんな自殺行為をしてしまったのか、自分でも分からない。しかし、おかげでいくつか分かったことがあった。
例えば、いまの一撃は確実に死んだ、と思った。まだ痛いし、全身がきしむ。だが、四肢は自由に動く。折れたところも無さそうだ。
その代わり、とっさに尾撃を受けた棒きれは、真っ二つに折れてしまっている。これが衝撃を緩和したのだろうか。
(いや、それにしたって……人間ってこんな丈夫なもんなのか?)
まだ痛みはあるが、それ以上に身体が軽い。機敏に動けそうな気がする。いや、さっきは実際に動けていた。自分の身体とは思えないくらいに。
――もしかしたら。
異世界転移なら、何かしらのボーナスが付いているかも知れない。例えば、身体能力向上、というような。
(あまりあてにしないほうが良さそうだけど)
再び、ワイバーンに注目。
きょろきょろと周囲を探っているようだ。まだこちらに気づいた様子はない。これもおかしい。距離は5mも離れていない。
目が見えていないはずがない。鼻が利かないはずもない。ではなぜ――。
「もしかして……」
リョウはふと思い立ち、石を投げつけてみた。「カン」と硬質な音を立て、額に命中。ワイバーンは周囲を探った。
さらにもう一発。今度は全力で投擲。これは翼の付け根あたりに命中。
ワイバーンは全身を「ぶるる」と震わせ、大口を開けて咆哮した。
まったく明後日の方向に向かって。
リョウは恐る恐る歩み寄った。距離は1mもない。
そこで確信した。
「ぼくが……ぼくだけが、見えてないのか?」
ワイバーンはリョウの声に答えるふうもなく、ただきょろきょろと周囲を探っていた。