13.魔法業界はややこしい
魔術師、と呼ばれる人々がいる。
簡単に説明すると「すごい魔法使い」だ。
どのくらいすごいかというと、現在アルノア領内で確認されている魔術師は、クレイブを含めてたった4名。皇国の魔術学院にすら、50人もいない。
明確な基準はもちろんある。ただの魔法使いと魔術師の境界は、魔法を使うのに魔導具が必要か否か。
「じゃ、霊術が使える人も魔術師?」
「はは、そうとも言えるね。ただ魔法にも色々あって、我々――魔術師が専門とするのは、魔術という魔法だ」
(要するに黒魔法と白魔法、魔法使いの呪文と僧侶の呪文、みたいなもんなんだろうけど)
クレイブはかなり簡略化して説明してくれたが、それでもなお、リョウの頭にはほとんど入ってこなかった。一応の理解としたのは、日本のゲーム知識である。
「クレイブさんも魔術師なんでしょ? でも、さっきは使えなかったじゃない」
「耳が痛いね。魔導具というのは、魔術を簡略化するものなんだ。例えば……」
と、クレイブは短杖を掲げた。すぐさま先端に火が灯る。
「これを魔導具なしでやろうとすると……」
今度は短杖をしまって、両手の指先をあれこれと動かしながら、複雑な呪文を詠唱する。
5秒ほどを費やし、同じように火が灯った。
「やってられませんねー」
「ふふ、そうだね」
ほかにも、魔導具を使う利点はたくさんあるらしい。例えば「魔力切れ」なる状態に陥るのを防いだり、集中力があまりいらなかったり。
もっとも、熟練の魔術師は、その差も克服するそうだ。クレイブは魔導具に頼りすぎて鍛錬を怠っている、と反省混じりに語った。
さて、なぜふたりがこんな話をしているのか。
リョウが持つ黒塗りの筆記板の、真価を発揮させるためである。
「キミが持っている筆記板は、魔法陣や呪印を使って、簡単な魔術を熾すためのものだ。ためしにこれを描いてみてくれないか」
と、一枚の紙を取り出す。
なにやら禍々しい図形や文様が複雑に絡み合っている。
「……これ、上からなぞっても?」
「ああ、構わないよ」
トレースは得意だ。リョウはほんの数秒で文様を描き終え、クレイブを感心させた。
「では、それに魔力を込めよう。方法は――」
言われるまま、筆記板に念じる。心をなるべく空にして、気力を注ぎ込むようなイメージ――。
ぼっ!
筆記版の上に火が灯った。リョウは思わず驚き、それと共に火が消える。
「すごいなキミは」
クレイブが驚嘆した。
「筆記板で一日中でも筆談すると聞いていたから、魔力の高い子だろうとは思っていたけど。それにしたって、魔法陣をこうも簡単に起動させる人間はそう居ないぞ。よほど集中力と意志力が高いんだな……ひょっとしたら、霊術のほうが向いているかも知れない」
魔術と霊術は、適正に相反するものがあるという。簡単に言うと、理論派は魔術、感覚派は霊術が向いているらしいが……。
「クレイブさんは、霊術も使えるんですか?」
「使える……とは言わないだろうね。いちおう、こういうことはできるが」
と、両掌に聖炎を灯す。エリシャほどではないが、かなり明るい色だ。
「私にできるのはここまでさ。ここから具体的な術をイメージするのに、魔術の知識が邪魔をしてしまうんだ」
いわく、魔術と霊術を両方扱える人間はとても希少で、クレイブの祖国にもひとりしか居なかったそうだ。
「キミには余計なことを教えないほうがよさそうだ。いまは魔法陣を起動できれば充分だからね」
そうして、次にクレイブが用意したのは【暗視】の魔法陣だ。
これから敵地へ乗り込むために必要な魔術。しかし、リョウは能力のせいで、他人が魔術を直接かけることができない。「術式の対象指定に関する根本的な問題点で、解決策はない」とクレイブ導師は語る。
ならば自分で使うしかない、というわけだ。
「さっきと同じだ。結果をイメージせず、ただ魔力を注ぎ込むことだけを考えるんだ」
言われるまま、魔法陣を記した筆記版に魔力を注ぐ。
ぽうっ、と目頭が熱くなる。同時に視界に違和感。
だが、魔術が成功したかどうかは分からない。すでに日は昇っていて、もともと視界が明るいからだ。
「少し待ってくれ」
クレイブが呪文を詠唱し、宙にあれこれと印を描く。
「【深影】」
その魔術が完成すると、リョウの視界が一斉にモノクロに変わった。
「わかるかい? 私たちの周囲はいま、真っ暗闇になっている。一切の光を寄せ付けない、真の暗闇だ」
(へえ……赤外線カメラの映像みたい)
感動しつつ、筆記版に返事を書く。
「見えます。白黒ですけど」
「大成功だ。キミは本当にすごいな」
クレイブが魔法を解き、破顔する。世辞なのだろうが、手放しに褒められ、リョウも悪い気はしない。
「役に立ちそうな魔法陣をいくつか渡しておこう」
数枚の用紙を受け取る。むかしのゲームに登場した「魔法のスクロール」というのも、こういったものだったのだろうか。
「この魔法陣、そのままじゃ使えないんですか?」
「ああ。ただの紙にただのインクで書いたものだからね」
いわく、特殊な加工を施した紙に、これまた特殊なインクを使って記せば、使い捨ての魔法陣を作ることができるらしい。
だが、コストも馬鹿にならないし、そもそも魔法陣を起動できるような人間は、すぐに何らかの魔法を修得してしまう。魔導具が発明された今では、廃れた技術だという。
「前もって書いておけるという利点はあるんだが……アルノアでは材料も揃わない。不便だと思うが、それで我慢してくれ」
「とんでもない。これで充分ですよ」
言葉どおり、リョウは満足……というより、わくわくしていた。やはりファンタジーな世界に来た以上は、魔法を使って活躍したいものである。
「この筆記版で、【灼弾】っての使えます?」
「いいや。あれはちょっと複雑でね。平面の魔法陣では熾せない」
筆記版で使えるのはあくまで初級の魔術のみらしい。
リョウはがっかりした。やはりそう甘くはない。魔法を使って活躍するには、本腰を入れて、魔術なり霊術なりを学ぶ必要があるだろう。
だが。
それはひとまず後回しだ。リョウにはやるべきことがある。
アネットのことはリースに任せてある。彼女はリョウのことをとても心配していて、お守り代わりにとペンダントを預けてくれた。
でも、リョウのほうは特に心配してない。リースにまかせておけば大丈夫だし、アネットは案外しっかりものだ。まさかまたさらわれたりはしないだろう。
だからあとは、もうひとりのお姫さまを救い出すだけ。
可能なのは、おそらくリョウしかない。
「では、行こうか」
「はい」
クレイブに促され、リョウは強く頷き返した。
○
やってきたのは街の西外れ。
山裾の廃坑である。人影はなく、坑道の入り口はすべて塞がれている。
「賊に悪用されるのを防ぐためだろうね。無駄だったようだが」
クレイブが皮肉げに笑い、とある岩肌の前で立ち止まった。
「幻術だ。ここが入り口になっている。そのまま着いてきてくれ。あとは、会話禁止で行こう。キミの筆記版に浮かぶ文字は、傍からみると異様だからね」
リョウが筆記版に字を書くと、他人にはそこだけ浮かび上がって見えるらしい。筆記版を持ったまま筆談できるのは楽だが、こういうところで仇になる。
(了解です、と)
返事代わりにクレイブの肩を叩くと、岩肌の中に何の演出もなく「すっ」と入って行く。多少「ぎょっ」としたが、リョウもすぐ後に続く。
(ゲームの隠し通路ってこんな感じなんだろうな)
中はモノクロの坑道だ。なんでも、さっきクレイブが使ったような暗闇の魔法が、永続的に掛かっているらしい。道順を憶えているか、暗視でも使えなければ抜けられない迷路だ。
(こういうエリアもダンジョンRPGだと定番だよね)
緊張感のないことを考えているリョウだが、足場はかなり悪い。【暗視】がなければ転げ回ってしまうだろう。
坑道は複雑に入り組んでいる。いちおう、道順は前もって聞いているし、地図にも記してあるが、気を抜けばすぐ迷いそうだ。
「ようやく着いた」
独り言のように、クレイブが言った。だだっ広いホールのような空間で、来た道以外にも、たくさんの分かれ道が伸びている。
うちのひとつに扉がついていた。
クレイブがリズムカルにノックする。
コンコンコン。
コンコンコン。
コンコンコンコン、コンコンコン――。
(――三三七拍子!)
リョウが思わず吹き出していると、カチャリと音がして扉が開いた。特定のリズムで外れる魔法の鍵が掛かっているらしい。
(日本人なら大抵の人が外しちゃうだろうなー)
呆れつつ中に入ると、これまでと違って壁が煉瓦になった。床もモザイク模樣のタイルが敷き詰められている。かつての鉱夫たちの憩いの場だろうか。
「遅かったな」
声をかけてきたのは、神経質に眉目を歪めた壮年男。見覚えがある。昨晩、公園の管理小屋にいた男だ。
「すまない、アジェルド。ほかのみなは?」
「もう集まっているぞ。急ごう」
移動した先は広間だった。中心に円卓があって、十数人の人物が席に着く。
周りには、ぽつぽつと護衛らしき屈強な男たちが立つ。中には、紫波雄人の姿もある。
(紫波先輩……!)
ごくり、と喉が鳴る。クレイブの話では、武器だけなく、ファイアー・ボールの魔法すら拳で粉砕してしまうらしい。間違いなく一番の要注意人物だ。
(気付かれてない……よね?)
恐る恐る、側を通り過ぎる。紫波はリョウに何の感心も払わなかった。やはり見えてないらしい。リョウは安堵のあまり、少しだけ漏らしそうになった。
そんな中、クレイブとアジェルドは、円卓の空席に並んで座った。
「そろいましたな」
しゃがれた声で、恰幅の良い老齢の男が告げた。着ているのは聖柱教の法衣。
(こいつがボスか)
リョウは法衣の男を睨みつけた。前もってクレイブから聞いている。名前はジェルビ。デルナで「神官長」という職にあった男で、カオス公子の身柄を盾に、ヨルド公に聖地奪還を迫ろうとしているらしい。
エリシャをさらった張本人でもある。
「では、マルレーネ師。説明をお願いする」
ジェルビが促すと、隣席の人物が立ち上がった。上質な光沢を放つ、デザインの凝ったローブを身にまとう赤毛の美女。これも聞いている。クレイブと同じく魔術師で、この一味の参謀的役割を担う女性。
「……昨晩はちょっとした不手際があったようですが」
マルレーネはクレイブとアジェルドを一瞥し、やや口唇を尖らせた。そうしていると、最初の印象よりだいぶ若く見える。
「計画に変更はありません。予定通り、本日決行いたします。僭越ながら、確認のためもう一度、概要をご説明いたしますので、どうかご確認ください」
と、よく通る声で語りだした。
円卓の中心にあるのはアルノア市街地の詳細な地図だ。それと、マルレーネの説明を聞きつつ、リョウは表情を険しくした。
(おとりから連携の合図から……かなり凝ってるな。これ、たぶん成功する)
計画の一部は前もって聞いていたし、すでにリースが手を回しているはずだが、それはクレイブが担当する部分だけで、全体像は予想以上に規模が大きかった。
阻止するには、衛士たちを引き入れ、この場を抑えるのが理想だったのだろう。
しかし、それではエリシャが助けられない。
(早く見つけてあげないと。決行まであまり時間もないし)
リョウは計画の詳細を余すところなくメモした。あとでリースに渡すつもりだが、間に合うかどうか。
それから、参加者の細かい質問にマルレーネが答えるかたちで会議が進み、話がまとまったようだ。
「では、おのおの方。よろしく頼みましたぞ」
ジェルビが宣言し、円卓は散開した。
リョウの仕事はここからである。
「頼んだぞ」
ごく小さな声で、クレイブがつぶやく。リョウは彼の肩を叩いて返事をし、広間を後にするジェルビを追った。
なんのことはない。発想はアネットの時と同じである。
(ぼくにステータス欄があったら、職業は絶対ストーカーだな)
ジェルビが行くのは、クレイブから聞いていた道順ではない。ただ、来た道のように暗闇の魔法はかかってないようだ。地図に記しながら後を追う。
やがて、地下水路に出た。臭いが酷い。下水道だろうか。
(アルノアってこんな場所もあったんだな)
鼻が曲がりそうな臭いだ。我慢しながら、二時間ほど歩いただろうか。
はしごがあった。
そこを上ると、大きな建物の敷地内に出た。裏庭のようだ。
そびえ立つ白亜の建造物には見覚えがある。たしか、聖柱教の施設だ。
「お帰りなさいませ、ジェルビさま」
若い僧侶が出迎え、ジェルビの上衣を受け取った。そして、新しい上衣を手渡す。
それを着込みながら、ジェルビは早足で歩く。
「参城する。風呂の用意をしろ」
「ご用意はできています。ただその前に、聖女さまにお会いいただけますか」
「何かあったのか?」
「まだ食事を採られていないのです。水も……このままでは衰弱してしまいます」
「……仕方がない」
ジェルビは吐き捨てる。どうやら「聖女さま」とやらのところへ向かうようだ。
(どうする? ほっといて神殿を探索するか?)
逡巡し、結局ジェルビをつけることにする。時間も惜しいが、ここにエリシャが居ると決まったわけじゃない。どちらにせよ、ジェルビの近くにいるのが一番、情報も集まりやすいはず。
「聖女さま。ジェルビです」
とある部屋の扉をノックしたジェルビは、やけに慇懃な態度だった。聖女さまというのは、よほど位の高い人物らしい。
「失礼。入らせていただきます」
返事のないのに業を煮やし、ジェルビが扉を開ける。
部屋の中には誰も居なかった。
――いや。
部屋の隅で、膝を抱えてうずくまる小さな人影があった。
よく見覚えのある少女だった。
「エリシャ!」
「聖女さま。そのようなところに……」
ジェルビが苦渋の表情で告げ、エリシャに歩み寄った。
(聖女さま? エリシャが?)
混乱し、事態を見守る。
ジェルビはごく自然な、温かい笑みでエリシャの手をとり、諭すようにこう言った。
「ああ、聖女さま。このように震えて……まだ食事をされてないと聞きましたよ。このままではお体に障ります」
「……放って置いて」
かすれた声で、エリシャは言った。それはリョウの記憶からかけ離れた、力のないものだった。
衰弱している、という話は本当らしい。
「そうはいきません。御身はまさしく希望。いずれ人々を導く偉大なお方です。どうかご自重を――」
「わたしじゃなくて、わたしの力でしょ? そんなの知らない、生まれつきだもの。好きでこんな身体に生まれたわけじゃない」
「……それが神々の意志なのです。苦しむ人々を救うべく、神々が地上に遣わしたのが、〝癒やしの御手〟たるあなたなのです」
「どうでもいい。それより、ご主人に会わせて」
ジェルビの笑みが歪んだ。
「まだ、あのような男のことを考えておられるのですか。忌々しい幼児性愛者め――!」
どんっ、と。エリシャはジェルビを突き飛ばした。
「ご主人の悪口は許さない」
「ああ、お可哀そうに」
ジェルビは憐憫の眼差しで漏らした。おそらく本心だろう。本心からエリシャを憐れんでいるのが、リョウには何となくわかった。
ジェルビは、睨むエリシャに怯むことなく、再び彼女の手を取った。
「仕方がない。わたくしごときの聖炎を御身に注ぐこと、どうかお許しあれ」
ぽうっ、とジェルビの手に光が灯る。なかなか明るい色だ。
ともなって、エリシャの血色が多少よくなった。体力を回復させたのだろう。
「お邪魔をしました。ジェルビはこれで失礼いたします。ですが、どうかお食事を。霊術ばかりでは、もういくらももちません」
「……」
返事のないエリシャを悲しげに見つめ、ジェルビは退室した。
リョウもあとに続く。窓は打ちつけられ、完全に塞がれていた。神殿内をよく探索し、脱出路を確保せねばなるまい。
部屋を出ると、ジェルビは見張りと思しき男に声をかけた。
「このままでは一日も保つまい。何としてでも食事をして頂くのだ」
「ですが、毒見役をつけてもお口に入れていただけないのです」
「多少強引な手段でも構わん。あの御方は、デルナで失墜した我々の権威を立て直すためにも必要なのだ。くれぐれも死なせるようなことがあってはならん」
早口で吐き捨て、ジェルビは去っていった。リョウはそれを白けた目で見送った。
(結局そういう方向? ほんと大人って汚いよね)
迷いは消えた。確かにクレイブは鬼畜な幼児性愛者かもしれないが、エリシャを幸せにできる男だ。少なくとも、ここに居るよりは。
それにこの様子では、クレイブが目的を達してもエリシャを返すつもりはないようだ。むしろ、口封じにクレイブを殺してしまうかもしれない。
(させますかって)
リョウはひとまず最短のルートを定め、エリシャの部屋に戻った。
この神殿は、幸いリースの屋敷にもほど近い。
エリシャの速力なら半時間もかからないだろう。一旦外に出てしまえばこっちのものだ。
もっとも、エリシャが万全の状態なら、だが……。
(まずは食事してもらって。体力を回復しないと)
だが部屋に戻ると、付き人の僧侶がいた。何とか食事をさせようと頑張っているらしい。
さじから顔をそむけ続けるエリシャに、僧侶が肩を落とした一瞬を見計らい、リョウはエリシャにしか見えない角度で筆記版を掲げた。
描いたのはごく簡単な漫画である。エリシャに見立てた人型が、リョウに見立てた人型を治癒している絵。
次のコマでは、自分が「任せて」とばかりに胸を叩いている絵。
最後のコマで、エリシャに食事をするよう促した。
(同じ轍は踏まないよ。でもこの絵で分かってくれるかな)
不安に思う間もなく、エリシャの表情が「ぱあ」と明るくなるのがわかった。
そしてエリシャは、僧侶から皿とさじをふんだくり、かき込むように食事を始めた。
「おお、天上の神々よ……!」
僧侶が大げさに感嘆し、胸元で印を切った。
お行儀悪く食事をする少女の前で、身なりのいい僧侶が、恍惚と祈りを捧げている光景は、かなりシュールだった。
やがて、食事をすべて平らげたエリシャは、僧侶に皿を突き返してこう告げた。
「足りない。もっと持ってきて」
「は、はい。ただいま!」
僧侶はすぐに部屋を飛び出していった。
それを見て、にんまりと笑うエリシャ。
「天使のお兄さん、助けにきてくれてありがとう」
リョウも「にへら」とだらしなく笑った。天使はこの子だと思うのだが、どうやって伝えようか。
「でも、いい加減に文字を勉強したほうがいいよ。わたしだって読み書きできるのに」
がくり、と肩が落ちた。
それから、脱出ルートを地図に示し、計画を話し合いながら、エリシャの胃腸と体調が安定するのを待った。
気になっていたので、彼女の高待遇の理由も訪ねた。
エリシャの力は、どうもただの霊術ではないらしい。
なんでも「上級霊術」という、ふつうの人間には修得できない霊術のひとつで、一般の治癒魔法と違い、欠損部位や損傷臓器の完全再生が可能だそうだ。
(○ディとかベ○マじゃん。最強だな)
リョウが日本のゲーム知識を持ち出して感心していると、エリシャは表情を曇らせた。
「わたしはそれしかできないの。霊術なんて習ったこともないのに。でも、聖柱教では特別みたい」
物心ついたときから、そのせいで色んな人に利用され、ひどい目に合ってきたらしい。小鬼の集落で「秘密にして」と言っていたのもそのためだ。
しかし、アルノアで暮らすようになってから、仲良くなった近所の子どもが事故で大怪我をした。
その子どもを救うために力を使ったのだが、ジェルビはどこからかそれを聞きつけたようだ。
「あの人は同じ目をしてる。わたしを利用しようとする人の目。ご主人は違うの。わたしの力を知っても、そんなの無いみたいに接してくれた」
そればかりか、エリシャのために財産と故郷を捨てたらしい。だから一生かけて恩返しをするのだと、エリシャは力説した。
「じゃ、早く元気な顔を見せて安心させないとね」
「うん!」
まばゆいばかりの笑みを見て、リョウは少し考え改めた。この歳の差カップルが再会したあかつきには、必ず例のテンプレを叫んでやろう、と。
(いや、ここに教会を建てよう、のほうがいいか……)
どうでもいいことを考えていると、さっきの僧侶が食事を持って戻って来た。
再び食事を始めるエリシャを見守る僧侶の、すぐ後ろで、リョウは筆記版に魔力を込めた。
描かれていたのは【宙域】の魔法陣。クレイブの説明から察するに、範囲内の空気から酸素を排斥する魔術だ。
酸素のまったく無い空気で呼吸するとどうなるか。
小学校の理科の時間に、教師が雑談交じりに語ったのを憶えていた。
(違和感を感じる前に、脳が活動を停止して昏倒するはず。上手くいってくれよ……)
自分はしっかりと息を止めつつ見守る。
ほんの数秒で、僧侶は意識を失った。すぐに魔術を切る。このまま続けると死んでしまう。
僧侶が息をしているのを確かめ、リョウは安堵の息をついた。
そして、胸元のペンダントを握りしめて祈った。
「力を貸して、アネット」
それから、部屋の外にいた見張りを同様に気絶させ、相変わらず足音も立てずに機敏に動くエリシャを、頼もしく思いながら、次々とルートをクリアしていく。
思った以上に簡単に、入り口の礼拝堂にたどり着いた。
あとは全速力で駆け抜けるだけだ。
「何があっても立ち止まらないで。道に出たら左に走って」
その方向に、リースの屋敷がある。
「うん」
頷くエリシャを、先に走らせる。それから、リョウも周囲を伺いながら走る。
入り口に差し掛かった時だった。
ぼおっ!
いきなり、眼前に炎の壁が出現した。
(ぬわっ!?)
リョウはたたらを踏んで立ち止まった。危うく丸焦げになるところだった。
だが、回り込もうとして、四方が完全に炎に囲まれているのがわかった。
「天使のお兄さん!」
炎の向こうから、エリシャの声。リョウは筆記版に文字を書き、その方向に投げ飛ばした。
「〝ぼくに構うな、走れ!〟」
それを見てくれたのかどうか。エリシャの気配が遠ざかっていくのが、何となくわかった。
(あんな台詞、真面目に吐く日がくるとはなー)
周囲をごうごうと囲む炎を見つつ、ぼけっとそんなことを思う。おそらくエリシャを捕らえようとして使った魔術だろう。だが、彼女の足が早すぎて失敗した。
たしか【焔陣】と言ったか。銀狼の時にロロットが使った魔術だ。時間が立てば自然と消えるはず。それを待って逃げればいい。
が、それはあまりにも甘い考えだった。
なぜかどんどん、呼吸が苦しくなっていく。意識が朦朧としていく。
(あ、これやばい。一酸化炭素中毒――)
思い至ったのとほぼ同時に、リョウは地面に倒れ伏せた。
「ようやく運が向いてきたのかしら、私にも」
遠のく意識の中、そんな声が聞こえた気がした。