12.一言で「ぼっち」と言っても……
血痕を追って、辿り着いた先は公園だった。
アルノアに点在する緑化された区域のひとつだ。といっても、季節は冬。紅葉の時期も終わり、木々は葉を飛ばして寒々としている。
「ここにいるのは間違いないんだけど……」
遊歩道をぐるっとまわる。管理小屋のようなものがあったが人気はなかった。
公園の入り口付近で、明らかに血痕を消そうとした跡と、何かを引きずったような跡があった。
血痕はなおも点々と、道の向こうに続いていたが、それがカモフラージュなのは明らかだ。賊は馬の怪我に気付き、アネットを連れてこの公園に身を潜めた。そして馬だけを走らせたのだ。
そこまでは分かるのだが――。
(誰か来た!)
背の高い男だ。フードを目深に被り、表情は見えない。あの賊とは別の人間だ。が、人攫いというのは単独では動かない。
(この人も関係者だったり……?)
どちにせよ、ほかに手がかりはない。
後をつけると、男は管理小屋の前で足を止め、さり気なくあたりを伺いながら中に入っていった。
(怪しすぎる)
後に続いて入っていくと、男は床板をひとつ外した。隠し階段だ。下のほうから明かりが漏れている。
(せまっ……一緒に入るのは無理かな)
リョウは大人しく待ってから、男にならって床板を外して降り、また床板をはめてから奥に入った。
そこには3人の男が居た。
そして、藁を積んで作った簡易寝台の上に、穏やかに寝息を立てる美少女の姿。
「アネット! 良かった」
リョウはすぐさま駆け寄った。どうもただ寝ているだけらしい。怪我も無さそうだ。
「追っ手は居ないみたいだぜ」
さっきの背の高い男が言った。ほかの二人が安堵の息をつく。うちの一人は、体格から察するにアネットをさらった賊だ。
「でも、油断はできない。何者かが馬に怪我を負わせたのは間違いないんだ」
「どっちにしろきさまの落ち度だろう。よりによって女をさらってくるとは」
「……返す言葉もない。ただの偵察のつもりが、好機と見て判断を誤った」
「で、この女はどうする?」
男たちは苦々しくアネットを見つめ、しばらく口をつぐんだ。
(間違ってさらったってこと?)
リョウは大人しく事態を見守る。もしそうなら、アネットをこのまま見逃してくれるかも知れない。
「こんな男装で、目標の部屋から出てきたのなら、無関係とも思えん」
「いったんアジトへ運んで指示を仰ぐべきでは?」
「それが良かろう」
「待て待て」
背の高い男が、呆れた口調で異論を唱えた。
「女をさらうのは無しだ。どうしてもやるってなら、おれはここで降りる」
「冗談だろう」
「はっ、てめらこそ冗談キツいぜ。黙ってこいつを解放するか、おれと喧嘩するか。ふたつにひとつだ」
さっきまでと違い、やたらとドスの効いた声だった。残りの二人は青ざめている。
(おー、仲間割れ? 何にせよいいぞ兄ちゃん、頑張れ!)
その時、上の方で物音がした。
それから、馬のいななきと、複数人の気配。男たちが一斉に殺気立つ。
「味方じゃないな」
「ちっ、仕方ない。娘は置いていくぞ。おいきさま、それなら協力してくれるのだろう?」
「約束は守ってやる。てめえらが守ってる限りはな」
背の高い男が吐き捨てて、真っ先に出口に向かう。直後に続いたのはアネットをさらった賊だ。右手に短杖を持っている。
(魔導具……魔法使いなのか?)
最後の一人も、アネットを一瞥しただけですぐ後に続いた。リョウも興味を惹かれて彼らに続く。
床板を外して地上に出ると、管理小屋はすっかり囲まれているようだった。
「目潰しを使う。あとは任せていいか?」
「おうよ。そのオッサンは任せたぜ。死ぬなよ」
(マジかこの人たち。外は十人以上いるぞ……)
窓から覗き見れる敵影はすべて武装した衛士だ。
やがて、小屋の扉が勢い良く開け放たれた。同時に魔法の発動。
「【精霊煌】」
小屋の周囲を周囲を強光が焼く。少し遅れて、背の高い男が拳を振るった。
「はあっ!?」
リョウは思わず叫んだ。耳をつんざく爆発音とともに、突入してきた衛士が吹っ飛んだのだ。
「いまだ、行け!」
それを引き起こしたらしい背の高い男は、素早い動きで小屋の外へ。
そして軽やかな動きで、斧槍を手にした衛士たちを次々になぎ倒していく。
武器は持っていない。素手だ。しかも、構えに見覚えがある。この世界では目にすることのなかった、ボクシングの構えである。
(えっ……えっ……っていうかこの人?)
なぜ今まで気づかなかったのか。取り払われたフードから現れたのは野放図の金髪。根本が黒い。
そして、不敵な笑みを浮かべつつ衛士たちを殴り伏せる横顔は――。
(紫波先輩!?)
二つ年上の同級生。リョウのクラスメイトにしてもうひとりのぼっち。
紫波雄人に間違いなかった。
○
紫波雄人。
いわく、齢14にして関東を制覇した喧嘩魔王。
いわく、少年院に行っていたせいで、高校入学が二年遅れた札付きのワル。
190cm近い長身にがっちりした体格。坊主頭に近い短髪をつねに真っ金々に染め上げ、耳には無数のピアス。授業をサボるのは日常茶飯事、生徒はおろか教師ですら恐れて近寄らないという、リョウの対極に居るぼっちだ。
(なんで紫波先輩がここに? ほかのみんなも来てるのか?)
リョウはあたりを見渡すが、衛士たちと紫波のほかに人影はない。あの二人も、この混乱に乗じて逃げ出したようだ。
「何者なんだきさまは」
衛士たちの上役と思しき男が、難を逃れた衛士たちを集めて紫波を囲んだ。なおも十人ほどが残っている。
だが、同数以上の衛士たちが倒れ伏せている。息はあるようだが、鎧兜と斧槍で武装していながら、たった一人の男に素手で殴り倒されたのだ。さぞ信じがたいことだろう。
紫波は嘲笑した。
「ああ? おしゃべりの時間か?」
「アルノアの人間ではないな。どちらにせよ、衛士相手にここまでやったんだ。覚悟はできているな?」
「なんで雑魚相手に覚悟しなきゃなんねえ?」
「舐めるな!」
鋭い突きが紫波を襲った。間違いなく達人の域にある攻撃。
だが、まるで意味がなかった。紫波が「シュッ」と左のジャブを放つと、斧槍がおもちゃのように砕け散ってしまったからだ。
「なにそれ!?」
リョウが驚愕の声を上げる間に、紫波は間合いを詰めている。
そして上役の額に「ちょん」とデコピンを見舞った。それだけで、上役は白目を向いて倒れてしまった。
紫波は残りの衛士たちをざっと睨む。
「運が悪かったな。ま、殺す気はねえ。しばらく寝てろ」
それから、十秒もかからなかった。
残るすべての衛士が倒れ伏すまで、である。
「あー、人間は力入れるとすぐ死ぬからな。逆に疲れるぜ」
紫波はそんな愚痴を漏らしつつ、左右の肩を交互に回した。
リョウはひたすら戦慄していた。
(やっぱ紫波先輩もチート持ちか。打撃か肉体の超強化だと思うけど、とんでもない強さだな……)
それもどうやら、アルノアに敵対しているらしい。彼らの話から判断するに、目的はカオス公子の身柄だ。
紫波だけでなく、ほかのチート持ちのクラスメイトも来ているとしたら……。
(……ともかく、いまのうちにアネットを連れて逃げよう)
リョウはそろりと抜け出し、地下でアネットを確保すると、彼女を背負って公園を後にした。
実は、公園の管理小屋はしばらく身を潜める場所として目星を付けていた。
でもあんな騒ぎの後だ。別の公園も調べられるだろう。
(厄介だなー。しばらく山に籠もるしかないか)
だが、まずは一息ついてからだ。せめてアネットを起こして事情を説明しなければ。
リョウは人気のない裏通りでアネットを降ろし、ノートとペンを取り出して筆談の準備をした。
「あっちゃー。もうほとんど余白がないよ……」
呟いた瞬間。
がしっと頭を掴まれた。
「おいおい、マジか」
背後から声が聞こえた。
「なんだこの感触は。おもしれえ。で、てめえは誰だよ、透明人間さんよ?」
振り返るまでもなかった。
リョウはあっさりと、最悪の相手に確保されてしまった。
「女がふわふわ浮いてると思ったら案の定だぜ。魔法か?」
がっちりと頭を掴んだまま、紫波は言った。
リョウは混乱の極みにある。というか失禁しそうだった。この世界に来た直後、飛竜を前にしてもこれほどの恐怖はなかった。
「おい、なんで黙ってやがる。それとも喋れねえのか?」
リョウはとっさにノートの余白に文字を書いた。日本語だ。
「〝殺さないで〟」
その部分にペンライトを当てる。
紫波が驚きの声を漏らした。
「……ってことは、てめえも日本人か。もしかしてうちのクラス以外にも……いや、その字は見覚えがあるな。あー、なんつったっけ、ほら、あの……日陰が涼しい、って感じのやつ」
「〝日浦涼、です!〟」
「そうそう、それそれ」
(それそれ、ぢゃねーよ!)
リョウは内心だけでツッコミを入れたが、とりあえず分かってもらえたことに安堵した。
それから大急ぎで、自分の状況を説明する。
チート能力のせいで、己の意志に関わらず、誰からも認識されない、声すら聞こえないという状況だ。
紫波は大笑いした。
「おいおい何だよそりゃ、〝窓際の幽霊〟らしい素敵な能力じゃねえか。大変だったんだなおまえ……ぷっ」
(喜んで貰えて何よりですよ……)
憮然としつつ、アネットについても説明する。恩人の娘で、カオス公子のわがままで連れ去られ、無理やり嫁にされそうになっていたところを、自力で逃げ出してきた可哀想な女の子なのだと。
(んー。んー? なんか違う?)
自分の説明に少し疑問が沸いたが、紫波には伝わったようだ。
「なるほどな。で、おまえはそいつを助けに来たってわけだ」
「〝イエス〟」
リースとの会話でも使った首肯の絵を見せ、続いて文章を書く。
「クラスのみんなも来てるんですか?」
「いや、おれだけだ。ほかの連中はデルナってとこで好き勝手やってるぜ」
紫波いわく、ほかのクラスメイトたちはデルナで祭り上げられ、いい気になっているらしい。さながら修学旅行気分で、元の世界に帰ろうとする意志も薄弱、空気に馴染めない紫波はひとり離反したという。
その後、情報を求めてシャガールという町に行った。リョウも名前くらいは聞いたことがある。西のほうにある大きな交易都市だ。
「そこでいまの雇い主に拾われた。いくつか仕事を手伝う代わりに、元の世界に帰る方法を探してくれるってよ」
リョウは頭を抱えた。テンプレ通りなら完全に利用されている。だが、バカ正直に指摘したら紫波の怒りを買うかもしれない。
「お仕事の邪魔はしませんから、このまま見逃して下さい」
「ふぅん……」
紫波は何事か考え込んだ。その手はまだリョウの頭をがっちり掴んで離さない。
一瞬、この手を振り払って逃げようかと考える。
(いや、無理だろうな)
自分一人ならまだしも、アネットがいる。それに紫波の能力が未知数だ。初撃で触れもせず衛士をふっ飛ばしていたし、斧槍を木っ端微塵に砕いていた。単純な肉弾強化じゃないかもしれない。
「リョウくんよ。おれの仕事を手伝わねえか?」
リョウは眉根を寄せた。
「カオス公子を誘拐する、ってことですか?」
「話が早えな。おまえの能力がありゃあ楽に終わる。それに、その女抱えて逃げるのも骨だろ。仲間に頼んで、保護してやってもいい」
リョウは考え込んだ。魅力的なお誘いに見える。
だが、公子を誘拐しようなどという連中がまともだとは思えない。場合によっては、アネットを人質にされ、いいようにこき使われるかも知れない。
それに、カオス公子に情も移っていた。誘拐するなどもってのほかだ。
「お断りします」
返答と同時に、すぐ動ける準備をする。紫波が何かしようとしても、すぐに対処できるように。
「どうしてもか?」
「はい。いくら他所の世界だからって、誘拐の片棒なんて担ぎたくないので」
ぴく、と。紫波の手に少しだけ力がこもった。
リョウは小剣の柄に手をかけた。こうなったら正面突破だ。何があってもアネットだけは――。
「そうか、なら仕方ねえ」
紫波はそう言って、リョウから手を離した。
「今回は見逃してやる。だがおれの邪魔したらぶっ殺す。よく憶えとけ」
そしてひらひらと手を振って去っていった。
引き止める間もなく、リョウはしばらく「ぽかん」としていた。あまりにも呆気ないというか。拍子抜けしたというか。
「実はそんなに悪い人じゃないのかな、紫波先輩」
そう言えば、紫波はなぜリョウの字を知っていたのだろう?
誰にもノートなんて見せたことはないし、黒板にも字など書いたことはない。
可能性があるとしたらテストの回答欄くらいだが……紫波がどういう経緯で目にしたのか見当もつかない。
(というか、早まったかな)
のらりくらりと返答を先延ばし、もう少し情報を引き出すべきだったかもしれない。もしくは、仲間になったふりをして内情を探り、計画を内部から破綻させるべきだったか。
いや、どちらにせよリスクがある。いまはアネットの無事を確保するのが最優先だ。
「アネット、起きて」
リョウはノートの余白を確かめ、アネットを揺り起こす。
不安はあった。
真実を知ったアネットはどうするだろう?
妖精さんの正体が、訳の分からない能力を持った、不気味な人間だと知ったら。
裏切られた、と思うだろうか。この可憐な美貌が恐怖に歪んでしまうのだろうか。
それだけならまだいい。狂乱して騒ぎ立て、リョウを拒否してひとりで逃げ回るようなことになったら――。
「ん……誰?」
アネットの目が開き、寝ぼけ眼が徐々に焦点を合わせていく。
リョウはペンライトのスイッチを入れ、ノートの切れ端に書いた文字を照らした。
「〝久しぶり。妖精さんです〟」
アネットは目を見開き、ペンライトの灯りをじっと見つめる。
リョウはそれを、固唾を呑んで見守っていた。
○
アルノアの街が、にわかに騒がしくなっていた。
日はとっくに暮れているが、通りのあちこちを衛士たちが走り回っている。
その中を、人混みに紛れるように、ひとりの男が歩いていた。
このあたりでは珍しい、金髪碧眼の優男だ。歳は三十路前後か。体格はやや細身だが上背があり、身体の運びを見るに、運動神経に不自由はない。
やがて、男はある宿の前で止まった。そして訝しげに目を細める。
灯りが付いていた。
いつもならとっくに寝静まっている時間だ。不思議に思いつつも、当初の予定通り裏口から失礼すると、すぐに中から声がかかった。
「やあ先生。遅かったね」
びくり、と肩が震える。しかし良く聞き覚えのある声だ。
男は声の主に笑みを返した。
「やあ、ご主人。すまなかったね、急用ができてしまって」
「いやあ、いいんだよ。でも今度からは一声かけておくれよ」
「ああ、そうするよ。では……」
「待ってくれ先生」
宿の主人はなおも男を呼び止め、それからひとつあくびをした。
男は冷や汗をかきつつ応答する。
「なんだい?」
「実はお客さんが来てるんだ」
「お客さん? 私にかい?」
「ああ。まったく、先生も隅に置けないね。部屋へお通ししたから、あとはよろしく頼むよ」
主人は妙な笑みを浮かべつつ、早々に奥へ引っ込んでいった。
男はごくりと喉を鳴らす。
(こんな時間に客だと? 誰だ?)
心当たりはない。いや、あるにはあるが、ろくでもない心当たりだ。
男は腰元の短剣と、懐の短杖を確かめ、注意深く歩を進める。
そして自室の扉の前で立ち止まり、魔法の呪文を詠唱した。
「【剛發】」
肉体強化の魔法。魔力が四肢に満ちていくのを感じながら、男は意を決して扉を開いた。
「やあ、クレイブ導師」
待っていたのは見知った人物だった。男――魔法使いクレイブは、安堵の息とともに返答した。
「あなただったか、リース。驚かせないでくれ」
稀人の剣士、リース。
クレイブの最愛の少女を助け出してくれた恩人だ。アルノアに居着くようになってからも、何かと便宜を計ってもらっている。
(ははあ、それで……)
宿の主人の妙な笑みが意味するところに思い当たり、クレイブは苦笑した。リースは確かに絶世の美人だが、女ではない。残念ながら、主人の期待には添えられない。
「お邪魔だったかな?」
「まさか。あなたは恩人だ。いつでも歓迎するよ」
「なに、私のほうも世話になっている。今日もお願いがあって来たんだ」
「お願い? いいとも、私にできることならなんでも言ってくれ」
「では、お茶でも飲みながら話そうか。いい葉を持ってきたんだ」
リースは輝かんばかりの笑みで告げ、準備を始める。
客に茶の用意をさせることに遠慮が無いわけではないが、リースの紅茶は魔法がかかったように美味だ。あの味の片鱗でも出せるようにならなければ、でしゃばる資格もないだろう。
(ん?)
鼻歌交じりのリースの所作を見守りつつ、クレイブは違和感を覚えた。
「少し雰囲気が変わったね、リース?」
「気のせいだろう。私はいつもどおりだよ」
「いや、物腰が柔らかくなったというか……何か貴婦人のような気配を感じるよ」
「はは、貴婦人か。いや、実は知人に苦言を呈されてしまってね」
「苦言?」
「私はもう少し〝お淑やか〟にすべきだそうだ。いままで散々言われてきたことなのだが、なぜかその子に言われると心に響いた。さあできたぞ」
リースはティーカップを差し出し、まず自分が口をつけた。
「なら、あなたは女性になるつもりなのか?」
「さあね。そもそも、稀人の分化には謎が多い。私がなぜ未分化のままなのか、思い通りの性別になれるのかどうか、まったく分からない。それでも、ひとまず他人の気を惹いておくのに必要な所作は、身につけるべきだと思ったのさ」
「なるほど。今日はその話をしにきたのかい?」
「いいや。全然別の話さ」
不意に。
空気が変わった。リースの笑みに変わりはない。が、彼から放たれる威圧感のようなものが、クレイブの全身を捕らえた気がした。
「そう言えば」
リースが「ふっ」と視線をそらした。
「エリシャはどうしたんだい? 彼女にも会いたかったのだが」
「あの子は知り合いに預かってもらっているんだ。最近すこし忙しくて、あまり構ってやれないからね」
「へえ。おかしいな。キミの交友関係は熟知しているつもりなのだが」
リースはとぼけた調子でティーカップに口を着けた。
「……どういう意味だ?」
「お茶が冷めてしまうぞ。飲みたまえ」
「まず、お願いというのを聞かせてくれないか」
リースは「ふう」と溜め息をつき、にわかに真剣な表情でクレイブを睨んだ。
「なに、教えて欲しいことがあるだけさ。キミの雇い主は誰だ? エリシャはそいつのところか?」
途端、クレイブが立ち上がった。熱々の紅茶が入ったままのティーカップをリースに投げつけ、出口に向かって一直線に駆ける。
「ぐっ!」
しかし、何かに足を取られて転がった。
すぐさま起き上がり、短杖を掲げる。
すでにリースが眼前まで迫っていたが、クレイブの魔法の方が早い。
「【風撃】!」
風のハンマーが、リースの胸を打ちつける。
そのはずだった。
だが、魔法は発動しなかった。見れば、たしかに掲げたはずの短杖が手元にない。驚愕にうめく間もなく、クレイブはリースに取り押さえられた。
「観念したまえ、導師。私に協力するなら悪いようにはしない」
クレイブはなんとか脱出を計るが、肉体を強化しただけでは、リースの束縛に抗えない。体術の素地が違うのだ。
「くっ、私は……」
しかし諦めるわけにはいかなかった。国元を捨て、こんな辺境の地までやって来たのも、すべてエリシャのためだ。彼女と平穏な日々を送るため。
それがいま、脅かされている。エリシャの命を盾に、不本意な陰謀に加担させられている。
それでも、エリシャを守るため、ここで自分が終わってしまうわけにはいかない。
「……私は、私はエリシャを助けなければならないんだ!」
「〝大丈夫〟」
いきなり、グレイブの眼前に文字が浮かんだ。
「〝エリシャは必ず助ける。だから居場所を教えて〟」
「ほら、彼もそう言っている。信じてくれないか。なに、私たちには実績がある。今度も助けてみせるさ」
リースがにやりと笑った。
クレイブはわけが分からず、しばらく呆然とするばかりだった。
○
リョウとリースがクレイブにたどり着くまでに要した時間は、ほんの数時間である。
だがそれまでには紆余曲折があった。
まず説明せねばならないのは、どうしてこの二人が一緒に行動しているのか、という点だが、これに複雑な事情はない。
「ねえ妖精さん? これ、文字だよね? 私、読めないんだけど」
というアネットの発言に端を発する。
(その可能性は考えてなかったよ……)
リョウはしばらく地面に両手をついて項垂れた。
それで、なんとかアネットをリースの屋敷まで誘導した。あんな手酷い裏切りをしておいてまたリースを頼るのは気が引けたが、カオス公子の危機もある。四の五の言ってられなかった。
それでも、どんな罵倒が待っているのか、と戦々恐々していたが、出迎えたリースの態度は予想の斜め上だった。
「何だ。幻か? 〝ぺんらいと〟の灯りが見えるぞ」
リースはぐでんぐでんに酔っ払っていた。
「〝しっかりして〟」
文字を書いてみせると、リースはあからさまな自嘲を浮かべてこう言った。
「くだらん夢を見ているな、アガルタ・フォイレン。リョウはもう戻ってこない。人間はみなそうだ。結局、私との友情より、番との絆を選ぶんだ。どうせ私は一生ひとりぼっちなんだー!」
わりとガチで正気を失っているリースをなだめるのは一苦労だった。
それから、心からの謝罪と、カオス公子の危機について説明した。
正気を取り戻したリースはさすがと言うか、怖いくらい察しが良くて助かった。
「ふむ。短杖を持った魔法使いがいると言ったな? そいつの特徴を詳しく教えてくれ」
説明すると、リースはすぐにその人物にあたりをつけた。
「クレイブ導師だよ。憶えてないかい? エリシャのご主人さまだ」
リョウはすっかり忘れていたが、言われてみれば背格好が良く似ている。だがリースも確信はないようだった。なにせ、公子誘拐に加担するような人物ではない。
「もしかして、エリシャを人質にでも取られてるんじゃない?」
それは単なる思いつきだ。似たような危惧を抱いたばかりだった、というのもある。
リースは「その可能性が高いな」と断じ、すぐに計画をねった。
そうして今に至る。
もちろん、ちょっとしたごたごたはあった。
例えば、リョウの正体を知ったアネットが「それは別に……何となく気付いてたし……」と何故か目をそらして答えたこととか。
リョウを罵倒し続けるリースに辟易したアネットが、「これ以上彼に酷いこと言うなら、私が相手になるから!」と啖呵を切ってみせたり。
その後なんやかんやであっという間に仲良くなったふたりが、「いかにして意中の男性の気を引くか」という話題で盛り上がり、アネットがロロットから直伝されたという手練手管を自慢げに語ったり。
(姉御、アネットになに吹き込んでるの……)
とリョウが女の子という生き物に若干の恐怖を憶えたり。
さらに、侍女服に着替えたアネットに見惚れていたら、「リースも着てみたら?」という驚愕の提案がなされ、リョウのDT力が暴発の危機にさらされたり。
リースからは懺悔があった。
なんでも、リョウの衣類や装備には特殊な加工がしてあって、リースにだけは動きが分かるようになっていたらしい。
リョウは正直、なんでそんなことで謝られるのか分からなかったが、とりあえず「別に気にしてないよ」と伝えておいた。
それから、新たな装備を支給された。今度は、妙な加工のないものらしい。
「〝魔力視〟は、魔術師なら誰でもできるからね。キミの弱点になりうる」
「なら、教えない方が良かったんじゃない?」
「キミと敵対しなきゃいけない世の中なら、さっさと見切りをつけてやるさ」
リースはそういって、実に清々しく笑ったのだった。
さて、そういうわけで。
クレイブ導師とも話をつけたリョウは、彼に連れられて敵の本拠地へ向かう。
今度の目的はエリシャの救出。そして、カオス公子の誘拐を未然に防ぐこと。
「いっちょ気張っていきますか!」
誰の耳にも届かない雄叫びが、夜明けの街に轟いた。