11.お姫様はさらわれるのが仕事
アネット。
忘れるわけがない。恩人の娘。尊敬する勇者の妹。
そして、初めてリョウを認識し、声援をくれた少女だ。
まだあれから半年もたっていない。
だが、アネットは記憶より数段美しくなっていて、衣装や化粧のせいもあって、どこぞの国のお姫様のようだった。
「この人に無理やり連れて来られたの、助けて!」
「黙らせろ」
カオス公子が告げると、従者たちはアネットに猿ぐつわを噛ませ、引きずるようにして退出させた。
「こらえろ!」
食堂にリースの怒声が轟いた。
この時、リョウはすでにアネットを助けるべく動き出していた。その背中に、さらに怒声が浴びせられる。
「その子は必ず私が救い出す、アガルタ・フォイレンの名にかけて誓う! だから今はこらえてくれ、頼むっ!」
振り返ると、席から立ち上がり、必死の形相で訴えるリースの姿がある。
「ほう、リース。きさまがあの女を救うだと?」
カオスはにやにや笑いながら言った。
「なにを勘違いしている、このオレがあの女を救ってやったのだ。しがない教会の貧乏暮らしから、アルノア公子の妃という、夢のような身分に引き立ててやるのだ。きさま、庶民の幸せを邪魔するつもりか?」
「こらえてくれ!」
リースは三度叫んだ。
リョウは深呼吸し、彼の隣に移動して肩を叩いた。
途端、リースは目に見えて安堵し、大きく息を吐いた。
カオスはそんなリースを訝しげに見つめている。
「なにをこらえろというのだ。わけの分からんやつめ」
「若。どうかお考え直しを。成人を前に、どこの者とも知れぬ市井の娘を妃に迎えるなど。お父上もお許しになりません」
「はっ。父上の許しなど居るものか。成人を前に奴隷の女を孕ませた男だ。いまさら文句は言うまいよ」
「若っ!」
「なんだリース、嫉妬しているのか? おまえがいつまでも女にならんから悪いのだぞ。だが安心しろ。いつでも席は開けておいてやる」
カオス公子はそんな台詞を残して去っていった。
その後、アネットについて説明すると、リースは苦々しく顔をしかめた。
「なるほど、あの少女が……。ともかく、ここは私に任せてくれ。キミが動くとややこしくなる」
「ぼくの方が簡単に救出できると思うんだけど」
「その後はどうする? あの少女を連れてどこまで逃げるつもりだ。小鬼の集落とはわけが違うんだぞ」
「わかった。リースに任せるよ。でもこれだけは憶えておいて欲しい」
そのあと、筆記版に記された文字を見て、リースは戦慄した。
「〝アネットに万が一のことがあったら〟」
「〝ぼくはカオス公子を殺す〟」
「〝あの世に連れて行って、あの子のお父さんとお兄さんに土下座させる〟」
「〝邪魔をするなら、この国だって滅ぼしてやる〟」
「〝ぼくならできる。何年かかっても必ずやる〟」
リョウの筆跡はこれまで何度も見てきた。いつもどこか適当で力なく、でも不思議と読みやすい字だった。
面影は確かにあった。だがいまはとても力強く、賢人の名書を思わせる迫力がある。
それがただ恐ろしい。
「……わかった。そうならないように全力を尽くす。だから決して早まった真似はするなよ?」
返事はなかった。リースは歯ぎしつつ踵を返した。
時間が惜しい。すぐにでも動かなくては。
万が一のこと。
それは少女の命の危機か、それとも貞操の危機か。
後者だとしたら、タイムリミットはあまりにも少なかった。
○
姿が見えない。
声も聞こえない。
気配も痕跡も何もなく、そのうえ確かな知性と武術を有する少年。
できるだろう。王侯の嫡子など、赤子の手をひねるように簡単に殺せるだろう。
もしリョウがその気になれば……アルノアを滅ぼすつもりなら、それもまた可能だ。一年も必要ない。大工房の溶鉱炉を破壊し、政府要人の数人を抹殺し、国家機密を暴き出して諸国に触れ回ればいい。
それを危惧したからこそ、リースはリョウを保護した。
そして友誼を結び、アルノアという国に敵意をもたぬよう、時間をかけて誘導した。
惜しむらくは、リョウが理想郷の住人だったことだ。「個人の自由」だとか「民主主義」だとかいう理想が実現された社会。そこで生まれ育った少年。
この世界はさぞ野蛮に見えるだろう。
しかし、民衆をまとめるには力がいる。力を失った指導者に、人は従わない。あっという間にまとまりを失い、社会は崩壊する。
生じるのは地獄だ。恐怖と暴力が支配する、阿鼻叫喚の地獄絵図。
リースは実際に、そんな光景をいくつも目にしてきた。
だからこそ、権力者は力を誇示し続けねばならない。
逆らえる存在だと思われてはならない。
そしてどんな「うつけ」であろうと、周囲は祭り上げて支え、秩序を維持しなくてはならないのだ。
「もっと時間があれば、納得させられたかもしれないが……今更だな」
もちろんリースとて、リョウが本気でカオス公子を殺すとは考えていない。心優しい少年だ。小鬼ですらためらっていた。
だが、ぶん殴って気絶させるくらいはするだろう。厳重な警備をいとも簡単に突破し、公子を殴り伏せ、見事アネットを救い出すだろう。
そこでお終いだ。
リョウ自身が見えなくても、アネットは見える。アルノア中から追われる身となる。逃げ切れるわけがない。
もし逃げ切れるとしたら――そこには累々とした屍の山が残るだろう。
どちらにせよ悲劇にしかならない。そうなる前に、リースが何とかしなくてはならない。
まず向かったのは領主ヨルド公のもとだ。
「よく来たリース。急な用件とはなんだ?」
「ご子息のことでお耳に入れたいことがございます」
リースは挨拶もそこそこに本題に入った。
カオス公子が辺境の町で青炎教の修道女を見初め、連れ帰ったこと。
その娘が知人の知り合いで、婚姻を望んでいないこと。
そして万が一、その娘に何かがあれば、知人によって公子が殺されかねないということ。
聞き終えると、ヨルド公は深々とため息を吐いた。
「あれには困ったものだ。だがリースよ、その娘に万が一などあるまい。カオスはじき私の跡を継ぐ。市井の女には、むしろ過ぎた幸福ではないかね?」
「ヨルドっ!」
思わず、リースは立ち上がって叫んだ。衛士たちが戸惑いながらも、領主を守るべく動く。
リースは拳を握りしめ、再び片膝をついて畏まった。
「知人も娘も、それが幸福とは考えていません。だいいち、この城は領主の奥方が殺されかねない場所です」
「リース……っ!」
今度はヨルド公が立ち上がった。表情は血の気が失せ、険しく固まっている。
リースの表情も厳しい。ふたりはしばらく睨み合った。
「……あれには悪いことをしたと思っている」
ヨルド公がため息をつくように言った。力なく、崩れるように腰掛け、言葉を続ける。
「あんなに利発で優しかった子が、いまは見る影もない。だが、誰かに興味を示したというならむしろ喜ぶべきことだ。リース、おまえもしばらく見守ってやってくれんか」
リースは立ち上がり、丁寧に一礼した。
「もう時間が無いんだよ、ヨルド」
そして返事を待たず退出した。
歯がゆい想いだった。
リョウの脅威を詳しく語るわけには行かない。友情もあるが、そもそも理解させるのが難しいし、理解させても混乱が大きくなるだけだ。
アルノアが全精力を注いだところで、彼を止めることなどできないのだから。
「いや。私に限れば手立てはあるか」
最悪の手段だ。頭の片隅にも置いておきたくない。
その後、何人か有力者に接触したが、なしのつぶてだった。
あとはもう、カオス本人と対決するしかない。
「あの子がいまさら私の言葉を聞くとは思えないが……」
あれこれと説得の言葉を考えつつ、カオスが住む離宮へ向かう。
ヨルドが妻子のために建てた離宮だ。彼の生涯ただ一人の妻は奴隷出身で、本城では何かと風当たりが強かった。
母親が死んだ今でも、カオスはここで暮らしている。本城には滅多によりつかない。
カオス公子はにべもなかった。
「もう決めたことだ。あの女はオレが娶る。きさまの意見など知った事か」
「せめて娘の意見は尊重なさいませ。若のなさりようは、人攫いと同じです」
「違うな。人攫いは女を不幸にするが、オレはあれを幸せにできる」
「華やかな暮らしばかりが女の幸せとは限りません。お母上をお忘れか」
「リース!」
カオスは拳を振り上げ、リースの横っ面に叩きつけた。
リースは顔をそらすことなく受け止め、言葉を続ける。
「リーファは少なくともヨルドを愛していた。あの少女がキミを愛しているように見えるか、カオス」
「だまれ、きさまごときが母さまを語るな!」
「キミより長い付き合いだ、よく知っているさ。キミはリーファの何を知っている?」
「黙れ黙れ、無礼者めが! 誰か、この痴れ者を追い出せ!」
半狂乱に騒ぎ立てるカオスに、それ以上なにを言うこともできず、リースは離宮を追い出された。
「……焦りすぎたか。あんなことを言う必要はなかった」
閉ざされた門を前に、リースはうめいたが、後悔しても遅い。これで当分、カオスには近づけまい。
彼に偉そうなことを言う資格はない。
リースはリーファを――カオスの母を救えなかった。
隣国の使者を招いての晩餐のおり、食事に毒を仕込まれた。
毒を食らったのは母子だけではない。ほかにも数人が犠牲になり、みな懸命な治療を受けた。
が、助かったのはカオスだけだった。天運か生命力か、生死を分けた理由は分からない。
だが、カオスにとって真実はひとつだ。母親が殺された。誰も助けてくれなかった。奴隷出身だから見捨てられた、と。
今でも強く、そう信じ続けている。哀れな少年なのだ。
「そんな理由で、彼が納得するはずもないか」
だが説得しなければならない。こうなったら、リョウを押しとどめるしかないのだ。
聞き入れられなければ、しばらく拘束するしかない。
リースになら可能だ。彼の――稀人の目は魔力の残滓を見ることができる。リョウが発する魔力は見えないが、リョウの身体にまとわりついた他人の魔力なら見える。
最初に気付いたのは彼がエリシャの治療を受けた時だ。
以来、リョウに用意した衣類にはすべて、魔石の破片が織り込まれている。
彼に与えた槍も同じ処理がされている。ゆえに、リースは彼の動きを捉えることができる。
このことは話していない。知られたら二度と友と呼んでもらえないだろう。
だが、最悪の事態を避けるためだ。止む終えまい。
「リョウ。戻ったぞ」
待機を命じた部屋に入り、リースは愕然とした。
誰も居ない。何も見えない。
いや。
床に槍と、丁寧にたたんだ衣服が置いてあった。
もうひとつ。黒塗りの筆記版。
そこにはこう記されていた。
「〝ありがとう〟」
そして、
「〝さよなら〟」
「リョウ――っ!」
リースは絶叫した。すでに、何もかも手遅れだった。
○
そのころ、リョウはカオス公子のすぐそばに居た。
手を出すつもりはない。今はまだ。
なにせこの離宮は広い。ここにアネットがいるかどうかも分からない。
だが、カオスがいずれアネットのところに行くのは間違いない。
(リース、いまごろ怒ってるよね)
リースから貰ったものはすべて屋敷に置いてきた。いま着ているのはボロボロの制服だ。いちおう洗濯したあと、どうしても捨てられずに取っておいたが、まさか再び身につけることになるとは思わなかった。
そうして、今日一日、リースのあとを付け回していた。彼を見守るためではない。カオスのところへ案内してくれると思ったからだ。
(我ながら勝手な人間だよ。だからぼっちなんだろうな)
カオス公子の複雑な事情は、リースたちの話ぶりから何となくわかった。
憎むべき悪役ではなく、同情すべき少年かも知れない。
アネットは、たしかにカオスの妻になったほうが幸せかもしれない。
なにせ相手は領主の息子だ。何不自由ない、きらきらした暮らしができるだろう。
だからリョウがやろうとしていることは、きっと悪いことだ。
でも。
アネットは「助けて」と言った。
「なら助けるしかないでしょ。妖精さんとしてはさ」
カオス公子は、自室からなかなか動こうとしなかった。
基本的に机を向いて読書している。難しそうな本だ。政治、経済、地理、魔法、文学と分野も幅広い。時折うんうんうなりながら単語をメモし、辞書を取り出している。なかなかの勉強家のようだ。
ふいに席を立ち、小剣を振り回したりもする。堂に入った剣さばきだ。どこかリースの面影がある。彼の手ほどきをうけたのかもしれない。
かと思えば、床に「どか」とあぐらをかいて瞑想を始めたりする。
不思議な少年だった。
確かなのは、ずっと一人だったこと。
護衛役も部屋に入れない。お茶も自分で淹れる。
(思ってたのと違うな。なんかずっと張り詰めてるし……疲れないのかな?)
立場を忘れ、少年を心配していると、彼がついに部屋を動いた。
(アネットのとこかな?)
ついていく。部屋を出ると、廊下で待ち構えていた護衛役が三人、ぴたりとカオスの両脇と背後についた。カオスはそれを歯牙にもかけずに歩く。
嫌な予感がした。前にも似たようなことがあった気がする。
(やっぱり……)
たどり着いたのは浴室だった。リョウは悩んだが、入ることにした。中でアネットが待たされている可能性も0ではない。
(いや待てよ。アネットがいるとしたら――)
もちろん裸だろう。DT力がにわかに暴走し始めたので、カオス公子の脱衣を眺めて雑念と戦った。効果は抜群だった。
幸か不幸か、中にアネットは居なかった。
水をかぶらないように気をつけながら、カオスの入浴を見守る。
侍女に洗わせたりはしないらしい。広い浴室でただひとり、黙々と身体を洗う中学生くらいの少年。
をじっと眺めるリョウ。
(何してんだろ自分……)
魂がごっそり削られていく気がする。地獄のような時間だった。
入浴が終わると、カオスはごく簡素な衣服に着替え、自室と真逆の方向に向かった。
窓から外の景色が見える。いつの間にか日はどっぷり暮れている。
そんな中、武装した兵士の影がちらほらと見える。
(外の警備が厳重だな。救出した後は慎重に行かないと)
カオスがとある部屋の前で立ち止まった。
無造作に扉を開ける。
中は真っ暗だ。従者が先に入り、薄明かりを灯した。
浮かび上がったのは、ベッドの上でシーツにくるまり、こちらを睨みつける美少女の姿。
「アネット!」
ついに見つけた。駆け寄ろうとして、リョウは立ち止まった。
アネットの白い肩がむき出しだ。シーツの下は何を着ている?
(もしかしてはだ――)
全力で目をそらした。高速で円周率の暗唱を開始する。
「待たせたな」
にやりと笑ってカオス。それから、従者たちを振り返って申し付ける。
「おい、もういいぞ。出て行け」
「は……しかしこの女が何をしでかすか――」
「くどいぞ。出て行けと言った。それともきさま死にたいのか?」
従者は言葉を呑み、一礼して退出した。
部屋にカオスとアネットだけが取り残される。
「近寄らないで」
「ふん……まずは聞こう。オレの何が気に入らん?」
「全部よっ。いくら領主の息子だからって、人攫いと結婚なんて死んでも嫌」
「ほう。ならば死んでみるか」
カオスは小剣を抜き放った。「ひっ」と小さな悲鳴。リョウはすぐさま取り押さえようと動いた。
だがそれより早く、カオスは小剣を部屋の隅に投げ捨てた。
「おまえの覚悟などその程度だ。死ぬなどと簡単にほざくな」
カオスはごく平坦な口調で告げ、ベッドの端に腰掛けた。
「おまえは可憐だ」
そしていきなり言った。
「アルノア中探しても並び立つ女はそういまい。だが、見てくれならオレもなかなかのものだぞ。何より力がある。自信もある。おまえを幸せにしてやる自信だ」
(なにこれ……まともに口説きに行ってる?)
リョウは固唾を飲んで見守った。なぜか邪魔する気が起きなかった。
「ひと目見て、おまえ以外にないと思った。あの笑顔に心洗われた。あれをいつも拝めるなら、オレももう少し幸せな毎日を送れると思ったのだ」
カオスはアネットを正面から見据えた。
「だから、オレのものになれ、アネット。代わりに世界一幸せな女にしてやる」
(言ったああ! カオスくん男だああああ!)
リョウは自分の目的も忘れ、いつの間にかカオスを応援していた。手に汗握るとはこのことだろう。無言の中、祈るような気持ちで、アネットの返答を待つ。
しかし――。
「ごめんなさい」
アネットはぺこりと頭を下げた。
(ごめんなさいだああ……)
「なぜだ?」
カオスはすぐさま聞き返す。声は震えてなかったし、表情も態度も堂々としていた。リョウは何というか「この子絶対大物になる」と思った。
アネットの返答は、リョウにはよく分からないものだった。
「だって公子さま。それ、私のことじゃないでしょ? 全然私を見て言ってないもん。いまの台詞、本当に言いたい人に言ってあげたら?」
「……何のことだか分からんな」
「ふふっ、お節介だね。でも、私も心に決めた人がいるの。顔も名前も知らないけど、あなたじゃないことだけは確かよ」
そう言って、アネットはもう一度「ぺこり」と頭を下げた。
「だから、ごめんなさい。あなたとは結婚できません……きゃっ!」
いきなり、アネットがくるまっていたシーツが取り払われた。カオスの仕業だ。
現れたのは「すけすけ」の薄衣をまとった神々しい肢体。
素っ裸よりよほど艶めかしかった。
(ちょまっ――!)
リョウの脳はあっさり臨界を越えた。思考はすべて吹っ飛び、身体が硬直する。
その間に、カオスはアネットに掴みかかっている。
「いやっ、離して!」
「おとなしくしろ。口でダメなら身体で教えてやる」
「やめてっ!」
どん、とカオスを突き飛ばす。アネットはすばやく部屋の隅に逃げた。
だが、カオスもすぐ後を追い、再び掴みかかる。
ここでようやく、リョウが正気に返った。
「何してんだよっ!」
吠えて、カオスに飛びかかろうとした瞬間。
「えいっ!」
可愛らしい掛け声とともに、カオスが吹っ飛んできた。
「ぐえっ!」
リョウは巻き添えをくって地面に倒れた。わけが分からない。何とか身体を起こすと、カオスは白目を向いて気絶していた。
そしてアネットの手には、青白い光――。
(聖炎!?)
どうやら霊術でふっ飛ばしたらしい。アルフレッド神父が実演していたのを見たことがある。打撃に魔力の衝撃を載せる初歩の霊術らしいが、まさかアネットがすでに習得していたとは――。
(――っていうか。ぼくって何のために来たわけ?)
己の存在意義に疑問を抱いていると、アネットは恐る恐るカオスに近づき、ほっぺをちょんちょんとつついた後、二度三度深呼吸し、彼の服を脱がせ始めた。
「アネット何してんの!?」
驚愕に固まる中、アネットは「ごめんね、これは仕方のないことなの」とか「うあー、男の子なのに肌きれー」とか、好き勝手言いながら、やや鼻息荒めにカオスをひん剥き、脱がせた服を身に付け始めた。
(あんなエッチ衣装じゃ外出れないもんな……)
どっと肩を落とし、リョウは脱出経路の確認をすることにした。
部屋の外は4人の警護がいる。ちょっと離れた場所にも数人が立っていて、ここから出るのは難しそうだ。
窓の外はというと、それほどの高さはない。リョウなら飛び降りても平気だが、アネットはどうだろう。
「あー、もうっ。胸元全然締まらないじゃない!」
背後から蠱惑的な台詞が聞こえてきた。
(見ないぞ。ぼくは振り返らない)
固く決意しつつ、再び外を注視する。
今日は月齢がやや高い。外は明るく、行動はしやすそうだが、こちらも見つかりやすい。
慎重にルートをシミュレートしていると、いきなり真横から「よし!」と声がした。
目を向けた先には、髪を結い上げた凛々しいアネットの横顔。
そして「むにゅ」と押し上げられた豊かな胸元があった。
「ぶっ!」
反射的に顔をそむけた一瞬で、アネットは何のためらいもなく宙に躍り出た。止める間もなかったが、アネットは危なげなく着地し、リョウは安堵の息を漏らした。
(ふおー、さすが。アネットって意外と野生児だよなー)
そう言えば、山道を平然と走り回るような女の子だった。
感心しつつ、ふと裸で倒れたままのカオス公子を見やった。
「カオス……いえ、殿下。最後はちょっとアレだったけど、あなたの勇姿はしかと見届けましたよ」
びしっ、と敬礼を送り、リョウも窓から飛び降りた。
外に出てからも、アネットの動きは洗練されていた。
物陰に隠れて見張りの動きを注視し、一瞬のスキを逃さず次の物陰まで走る。その姿勢も堂に入っている。セヴランから狩りの手ほどきでも受けていたのだろうか。
塀の前まで来ると、いきなり側の木によじ登り、その枝を伝って塀の上に飛び乗った。
そのまま、姿勢を低くして塀を駆ける。
「僧侶よりレンジャー系のが向いてるんじゃ……」
本当に自分は何しに来たんだろう、と思いながら、リョウも壁を蹴って塀の上に上がり、アネットに続く。
このまま行けば何の苦労もなさそうだ。
あとはアネットが一息つくタイミングで、正体を明かし、街の脱出計画を話し合おう。
そんなことを考え、ほんの一瞬、アネットから目を離した。
「えっ!?」
いきなり、アネットが目の前から消えていた。
かと思えば、下で「どさどさっ」と物音がした。
見れば、アネットらしき人影が、頭から袋を被せられ、馬に乗せられている最中だった。
ぐったりしている。気絶させられたようだ。
「フザけんなって!」
リョウは飛び降り、小剣を抜きつつ、賊に駆け寄った。
だが一歩遅かった。
馬が嘶いて駆け出す。悪あがきに振るった小剣の先に、ほんの少し手応えがあった。
だが、馬は止まらなかった。見る見るうちに距離を開けられ、やがて街影に見えなくなった。
リョウは呆然とした。
「……もうっ、アネットって何なの? ピー○姫なの? 定期的にさらわれないと死ぬ病にでもかかってんの!?」
苛立ちにまかせて叫ぶ。が、すぐにそれに気がついた。
道に点々と、血痕が残っていたのだ。さっきの馬のもので間違いない。
「ええ、行きますよ。もちろん助けにいきますとも。妖精さんだからね!」
リョウは歯を食いしばって駆けた。
天に浮かぶ月だけが、彼の勇姿を見守っていた。