10.悪役は意外と身近にいる
鉱山都市アルノア。
この都市の実態は、連想されるイメージとまるで違う。
まず広い。
四方を山に囲まれているが、その面積が膨大だ。西の端から東の端まで、徒歩で一昼夜かかるらしい。
その街並みは洗練されている。
区画は整理され、道はすべて石畳が敷き詰められている。
建物はみな無骨さを感じさせないデザインで、清潔感と統一感がある。
趣向を凝らした噴水や、緑化した公園もあちこちにある。
領主直轄の農地も、かなりの面積確保されている。
しかもこの農地、地力が相当に高く、自給自足可能な収穫がある。
(鉱山都市とは何だったのか……)
とはいえ四方の山々からは、その名に恥じぬ良質な鉄が採れる。
それらがすべて、街で一番巨大な建造物――大工房に集まり、武具を含め様々な製品が作られている。
「アルノアの製鉄技術は世界でも指折りだ。皇国なんか足元にも及ばないよ」
ともかく、アルノアの実態は「非常に豊かなひとつの国」である。
それでも領主が「王」を名乗らないのは「周辺諸国からいちゃもんがつく」からだ。
「じゃあ別に、うち王国じゃなくていいよ。でも、どこにも税金とか払わないからね?」
そんな冗談のような建前で自治を維持してる。それがアルノアだ。
「おかげで、定期的にちょっかいをかけられるけどね。戦争までいかない、小競り合いみたいなものさ。一昨年も北方騎士団の進軍があってにらみ合いになったが、武力衝突には至らなかった」
(切迫してるんだかゆるいんだか、よくわかんない国だな)
ともあれ、町は平和そのものだ。
皇国などでは迫害を受ける岩巨人も、ここでは身なりがよく、堂々としている。
リースいわく、アルノアの岩巨人は2割が炭鉱夫で、6割が職人らしい。彼らは種族として鍛冶や彫金に適正がある。それらを重用することによって、アルノアは発展してきたわけだ。
岩巨人だけではない。
アルノアではあらゆる異種族が、ほぼ差別なく、能力に応じた職を得る。
稀人のリースもその一人だ。
「ここの領主がまだ子どものころ、誘拐されたことがあってね。たまたま居合わせて救出した。それ以来、何かと便宜を計ってもらっている……着いたぞ、ここが私の住まいだ」
(うは……)
まさに豪邸である。
狭い日本ではまずお目に書かれない敷地。色鮮やかな花が咲き乱れる庭園。2階建ての本宅には三十近い部屋、その尽くに豪奢な調度品が並ぶ。さらに、下手なアパートより大きい別棟がふたつ。使用人の宿舎と、物置らしい。
「「「お帰りなさいませ、リースさま」」」
出迎えたのは総勢十数人の、見目麗しい侍女たち。年齢は様々だが、おおむね若く、しかもみな「アネットが垢抜けた」レベルの容姿だ。
「やあ、ただいま。心配をかけたね」
侍女たちは「わっ」とかけより、それぞれリースと抱擁を交わした。
いまのリースは薄汚れていて、ボロ雑巾の如きリョウの制服を着ているわけだが、侍女たちは気にした様子もない。みな涙して、リースの無事を喜んでいる。
それが終わると、侍女の案内で屋敷の中を歩く。リースがなおも手を離さないため、リョウも着いていくしかない。
(てか、ここお風呂じゃん!)
たどり着いた浴場で思わず立ち止まると、リースがこちらを振り返ってにやりと笑った。
「何を遠慮しているんだ。キミにも当然入ってもらうぞ。姿が見えないとはいえ、うす汚れたまま屋敷をうろついてもらっては困るからね。はやく服を脱ぎなさい。それとも私が脱がせてやろうか?」
観念して衣服を脱ぎ捨てていくと、リースは眉根を寄せた。
「キミってやつは……そんな軽装で人を助けに来たのか」
(ほんとはちゃんと鎧着てたんだけど)
走りながら脱ぎ捨てたと言ったら、どうせまた怒られるだろう。ちなみに、カバンだけは戻ってきた。討伐隊が回収したものを、リースに引き取ってもらったのだ。
「さ、入るぞ」
なんのためらいもなく全裸になったリースが、こちらに手を差し出してくる。
リョウは多少の葛藤を乗り越えてその手を取った。
(いや、まあ。リースだし)
多少の照れはあるものの、欲情の余地がないからか、罪悪感はない。別に自分が見られるわけでもないし、問題はないだろう。
と思ったのもつかの間だった。
「さあ、リースさま。そちらのお手を」
「うん」
「リースさま。もう少しおみ足をこちらへ」
「ああ、たのむ」
侍女が二人、ほぼ全裸に近い姿で一緒に入ってきたのだ。微笑みつつ、熱心にリースの身体を洗っている。
(なにこれ。ぼくは夢を見ているのか……)
リョウはしばらく呆然と眺めていたが、ふと我に返り、猛然と背を向けた。
息子が情けないことに……いや、とても立派になっている。それをなるべく意識しないように、自分も身体を洗い始めた。
(この世界にも石鹸ってあったんだな。町で見かけないから諦めてたけど……さすがに泡立ち悪いなあ)
「相変わらずお綺麗です、リースさま」
「ありがとう、キミも素敵だよ」
「まあ。リースさまったら……」
背後のキャッキャウフフ空間から、容赦なく桃色の空気が襲ってくる。
リョウは円周率を暗唱し始めた。
わりかし地獄に近い時間だった。
○
剣士リース・アガルタ・フォイレンは、アルノア領主ヨルド公の無二の友人として、市民に知れ渡っている。
その身分は羨ましいの一言に尽きる。
公的な役職はない。課せられた義務は何ひとつない。
が、領主の別宅――迎賓館のようなものらしいが、そこを自由に使う権利と、領内を好き勝手に歩き回れる権利を有している。
リースはそれを最大限活用し、気の向くままあちこちを旅し、領主に土産話を語って聞かせる。
屋敷に居る間は、国賓のために集められという美女が、あれこれと世話を焼いてくれる。
「男の夢だよな。いや、リースは男じゃないけど」
それがなぜ小鬼に捕らえられていたのか。
「南の山里で魔石の鉱脈が発見されたというから、視察団の護衛で着いていったんだ。そうしたら奴等に襲われた」
どうやらリョウも無関係では無かったらしい。
囚われていたのは「ほんの一週間ほどだった」とのことだが、リョウなら一日だって耐えられない。
リースはからからと笑っていた。
「貴重な経験だったよ。あの首魁――魔物化した小鬼なんか見たのも初めてだったしね。何よりキミに会えた。私は幸運だったと思っているよ」
ちなみにあの後、討伐隊がたどり着いた時、集落はもぬけの殻になっていたらしい。危険を感じてどこかへ逃げたのだろう。
リョウは正直「ほっ」とした。偽善だと分かっているが、彼らがまた安住の地を見つけるのを願って止まない。
問題は魔物化した小鬼だ。
話によると過去数百年、人が魔物化した例はない。
だが前例がまったくないわけでもない。
魔物化した人間――それは魔人と呼ばれ、忌むべき存在として語り継がれている。
伝説ゆえ眉唾だが、一人で一軍に匹敵する戦闘力を持ち、ひとたび現れれば数限りない災厄を撒き散らしたという。
「魔人が生まれるには特別な条件――というより、特殊な手段が必要だったそうだね。でも、それはとっくに失われていて、皇国の魔術学院にすら伝わっていない」
(ぼくはそんなの倒したのか。でも延髄突いて一撃だったしなー)
実感はないが、あれも恐ろしい敵だったのだろう。事実、リースは手も足も出なかったそうだ。
「ともかく、伝説が事実なら、魔人は決して自然発生するようなものじゃない。誰かが、何らかの目的で作り出したんだ。そのどちらも、いまは見当もつかないがね」
首魁の死体は、討伐隊が持ち帰った。あれこれ調べているらしいが、アルノアは魔法後進国なので、詳しいことは分からないだろう、とリースは語った。
さて、リョウはしばらく、屋敷に留まることを決めた。リースから文字を習うためだ。
リースは快諾した。それから、ほぼ一日中リョウに付き添い、文字だけでなく様々なことを教えてくれる。
リョウも習得した文字を駆使し、日本のことなどを語った。
リースがもっとも興味を示したのは、リョウが異世界から来たことでも、そこに空を飛ぶ乗り物や、大量破壊兵器があることでもない。
義務教育という制度である。
「権力者はふつう、庶民が知識を得るのを嫌うんだ。無学なほうが、言うことを聞かせやすいからね」
「でも、学があったほうが生産性も上がるし、治安も良くならない?」
「そういう環境が、キミの故郷では整っていた、ということだろうね。ともかく、アルノアで一足飛びに実現できる制度ではないな。だが、とても魅力的な制度だ」
そんな会話をかわしつつ、日々は過ぎていく。
ある日、リースが奇妙なものを持ってきた。黒塗りの、30cm×20cmほどの板と、ペンのようなもののセットだ。
(なんかペンタブみたいだな)
「知り合いの魔術師に譲ってもらった。これなら、紙もインクも気にせず使えるぞ」
ペンで板をなぞって見ると、白い軌跡が浮かび上がった。板に手を当てて念じると、元に戻る。
魔力を使用するアイテムらしい。
(ぼくに魔力なんてあったのか)
感動したが、魔力はふつうの人間なら誰にでもあるそうだ。稀人だけは例外とのことで、リースはこの類のアイテムが一切使えない。羨ましがられてしまった。
ある時は、大工房の試作品とやらを持ってきた。柄の部分まで金属を用いた、鋭い槍だ。
振るってみると、ほど良い重量で扱いやすい。穂先の切れ味も抜群だった。
「気に入ったのならもらってくれ。なに、遠慮は要らない。キミは命の恩人だからな」
ありがたく頂戴することにした。
屋敷での暮らしはおおむね平穏である。
食事も美味。温かい寝床もあり、風呂まで入れる。
もっとも、風呂に入るときは必ずリースが一緒で、ということは半裸の侍女が一緒である。
何とかできないかとリースに申し出ると、
「私が入る時以外は閉めてしまうからね。開き直って楽しみたまえよ。男の夢だろう?」
にやけられてしまった。
そのせいかどうかは知らないが、生まれて初めて夢精をした。
死にたくなったが、汚れた下着をそのままにもして置けず、リースに相談したら大笑いされた。
そしてあろうことか汚した下着の臭いを嗅いで「うん、何の臭いもないな。このまま洗濯に出しても気付かれまい」とほざいた。
リョウは猛然と下着を奪い取り、自分で洗濯した。
以来、適当に自分で処理しているが、リースは心配しているのか面白がっているのか、
「宿舎の風呂でも覗いてきたらどうだ。手出しするのはマズいが、見るだけなら構わんだろう」
という。リョウはやらなかった。もはや良心ではない。意地だ。
リースとふたりで、ちょっとした冒険に出ることもあった。
街道沿いに出没する魔物を退治しに行ったのだが、正体は金牙虎という、このあたりには生息しない猛獣で、それを操って人攫いをしていた一味を捕らえ、事件は解決した。
「キミの呪いを解く方法が分かったぞ」
リースの口車に乗せられ、火竜山というダンジョンへ行ったこともあった。
最深部で待ち構えていたのはドラゴンだ。
この世界では魔竜というらしい。一言で説明するなら、獰猛なブラキオサウルスに翼を付けたような怪獣だ。
つまりデカすぎる。
あんなものをどうやって倒せというのだろう。飛竜ごときで得意になっていた自分が恥ずかしくなった。
だが、伝説では倒した人間が居たらしい。それも二人も。
(確かにイカれた馬鹿野郎だよ。無理ゲーだろこれ)
「なに、倒す必要はない。噂ではやつの背後に宝物庫の入り口があるらしい。そこにあらゆる呪いを解くという神器があるんだ。さあ、行って来い!」
「無理無理無理!」
あれに近づくとかあり得ない。リョウは涙ながらに拒否したが、リースが許してくれなかったので、恐る恐る、時間をかけ、魔竜の背後に回った。
確かに、岩肌に扉がある。それに手をかけた時、背後から恐るべき気配がした。
とっさに飛び退いたリョウの目に映ったのは、扉に向かって放たれた炎だ。魔竜のブレス攻撃だった。
(死ぬってこれぇええ!)
リョウは転げながら脱し、九死に一生を得た。
「いまのは惜しかった。もう一度だ」
「完全に気付かれてるじゃん! 絶対ヤだよ!」
結局、リースに散々罵られながら、何の収穫もなく逃げ帰った。
リョウの存在は誰にも明かされていない。
一度、領主に紹介されそうになったが、断固拒否した。単純に「目立ちたくない」と思ったからだが、リースは別の可能性に思い至ったようだ。
「確かに、見えない者がそこに居るというのは、不安を掻き立てるものだからね。キミもこれまで色々あったのだろう」
最初あまりピンとこなかったが、確かにそんなものかもしれない。
目に見えない。声もしないし物音も立てない。気配も痕跡も何も無く、だが確かにそこにいる。
そんな存在は、大多数の人間にとって不気味でしかないのだろう。
そう考えると、リースがいかに貴重な人間か分かる。
(ぼくは運が良かったな)
いきなり異世界に飛ばされ、運が良いもないのだが、死んでしまったクラスメートもいる。
リョウはまだ生きているし、何よりリースのような友も得られた。
(ん? 友?)
そこで、全身が打ち震えるのを感じた。
友。友だち。
もしかしたら、物心ついて初めてできた友だちかも知れない。
「ぼくらは友だちなんだろうか」
リースにたずねたら怒られた。
「信じられん。キミは今まで、私を何だと思っていたんだ」
その後、あれこれと罵詈雑言を浴びせられた。リョウはそれを、涙ながらに聞いていた。
嬉し泣きだった。
はじめて、この世界に来て良かったと思った。
○
そうして、三ヶ月あまりが過ぎた。
文字にも熟達し、ちょっと難しい書物からも知識を得られるようになった。
日々鍛錬を積んでいたおかげで、槍術もかなり上達した。小剣を使った受け流しも、リースの手ほどきで習得した。
毎日が充実していた。
ただ、目的を忘れたわけではない。
スタート地点の「デルナ」を目指す、という目的である。
そこへ行けば、クラスメートとも合流できるだろうし、元の世界に帰るヒントが見つかるかもしれない。
(でも、ねえ……)
リョウはデルナ出立に二の足を踏んでいる。
ここが居心地が良い、というのもある。
しかし些細な理由だ。一番大きな理由は、デルナ方面がキナ臭くなっているからだった。
「もともと、あそこは聖柱教の聖地なんだ」
と、リース。
「それが、キミがこの世界にやって来たという時期を境に、政変を起こしている。政治の中心にあった神官たちが軒並み放逐されてしまったんだ。一部はアルノアにも流れて来ているよ。ヨルド――領主に聖地の奪還を要請している」
「みんなは無事なのかな?」
「それが……新たに政治の中心に座ったのが、どこから来たとも知れぬ異人の集団だそうだ。おそらく、キミの〝くらすめいと〟だろうね」
(NAISEIやってるのかよ……)
リョウはこの時点で頭を抱えていたのだが、ごく最近、もっと嫌になる噂が聞こえてきた。
「国境の軍集団と戦闘になったらしい。5千の騎兵を落とし穴にはめて一網打尽にしたとか。あり得ない話だ」
リースは呆れ顔で語ったが、創作物ではよくある話だ。
クラスメートの誰かが、それを可能にするチート能力を有しているのかもしれない。
(何してんだか……世界征服でもするつもりか?)
それとも、誰かに利用されているか。
どちらせよ、あまり関わりたくないというのが本音だ。
「まだ情報が錯綜している。領主も事を構える気は無いようだし、当分は安心していい。だが、この街にも聖柱教の信者は多い。情勢が悪化するようなら、キミに仲裁を頼むかも知れない」
(仲裁ねえ)
正直、彼らがリョウの言葉に耳を貸すとは思えない。というか、存在を忘れられている自信がある。
それでも、クラスメートたちがアルノアの脅威となるなら、自分が何とかしなければ、という想いもある。
「ぼくはどうするべきかな?」
「キミが自分で決めるべきだ。どちらにせよ、自分のためになる決断をしなさい。誰かのためではなく、キミ自身のためになる決断を」
「それが分かんないから困ってるんだけどなー」
「ふふ、存分に悩むといい。それが人の人たる所以だよ」
「リースはたまにジジくさいよね」
「キミの三倍は生きているからね」
美人はそう言って、得意げに笑うのだった。
そんなある日のことだ。
屋敷に来客があった。
それは先触れもなくいきなりやってきた。侍女から客人の名を告げられたリースは顔を青くし、あれこれと指示を飛ばし始めた。
「誰が来たの?」
「カオス公子――領主の息子だ。厄介な相手だよ」
リースにしてはやけに簡潔な返答だったので、興味をひかれて様子を伺っていると、リースは大真面目な顔でこんなことを言った。
「どうせ何を言っても立ち会うつもりだろうから、これだけは言っておく。決して下手な真似をするな。どんなに腹が立っても、歯を食いしばって堪えるんだ。いいね?」
物騒な忠告に頷く間もなく、慌ただしく駆け込んできたものがいる。
「リース、ここにいたか!」
それは少年だった。せいぜい小学生か中学生くらいの、だがやけに横柄な少年。
彼はリースを見るなりあからさまに顔を歪めた。
「なんだおまえ。まだ女になってないのか」
「お久しぶりです、若」
リースは片膝をついて頭を垂れた。カオス公子はつまらなそうに手を振り、ふいにしゃがみこんでリースの顔を覗き込んだ。
「せめて化粧なりすれば可愛げがあるものを。そのままではいつまで経っても妃にしてやれんぞ」
(なっ……!)
「ありがたいお言葉ですが、若。そのお話はお断りしたはずです」
「おまえの意志など知ったことか。オレが妃にすると言っている。さっさと女にならんか」
カオス公子は呆れ顔で立ち上がった。まるで「そんなことも分からないのか」と言いたげな顔だった。
リョウは早くも「イラッ」とした。
「それはともかく、お戻りになっていたとは存じませんでした」
「当然だ。今日戻ったばかりだぞ」
「それで、本日はどういったご用件で?」
「用などあるか。強いて言うなら、おまえが女になったかどうか確認しにきたのだ」
「では、まずお城へお戻りなさいませ。お父上もお待ちかねでしょう」
「リースきさま、このオレに指図するつもりか?」
カオスは腰元の小剣を抜き放った。「ひっ」と、周囲から悲鳴があがる。
リョウはそれほど動じなかった。この距離でカオスが何をしようと、剣士リースが傷つくことはない。リョウが何の手出しをしなくても、だ。
(でも胸糞悪いな。ぶん殴ったらダメなんだろうか)
「申し訳ございません」
リースは深々と頭を下げた。
カオスはしばらくそれをじっと眺め、憮然とした顔で剣をおさめた。
「まあいい、今日のところは許してやる」
「寛大なご配慮、感謝致します」
場はひとまず収まったが、リョウの怒りはふつふつと高まっていた。この少年が領主の息子だというなら、リースのお陰でこの世に生まれてきたようなものだ。
その恩人に、どんな名分で、こんな仕打ちができるのというのか。
(王侯貴族ってこんなもんなのかな。でも領主さまはふつうに良い人だったしなあ……)
城にはリースにくっついて何度か行ったことがある。そこでは領主をはじめみな、リースに礼を尽くしていた。
やはりこの少年が特別なのだろうか。
「リース、オレは少し疲れた。慰労の席を用意しろ」
「はい。ただいま準備させております」
「ふん、手回しのいいやつめ。気に入らん」
(ほんと何なのこいつ……)
場所を食堂に移し、普段は見かけない豪奢なメニューが並べられた。
カオス公子はそれを食い散らかし、横柄に文句を垂れながら、一方的に語りだした。
彼は約一年の間、各地を巡っていたらしい。
一昨年あったという北方騎士団とのいざこざの顛末を、近隣諸国に報告するためだ。もっとも、きちんと物が分かる使者は同行していて、公子は「お飾り」だったのだが、本人は旅を満喫したようだ。
「そうだ、忘れていた。帰り道で良い拾い物をした。おまえにも見せてやる。おい、あれを連れてこい!」
カオスが従者に申し付けると、ほどなくして着飾った少女がやって来た。
おどおどして落ち着きがないが、この屋敷の侍女たちを凌ぐほどの美貌だ。まるでリョウの理想をそのままかたちにしたような美少女――。
(ん? っていうかこの子――!)
「紹介しよう。オレの妃となる女だ。さあ、おまえも挨拶しろ」
カオスが呼びかけると、少女は「きゅっ」と口唇を結び、意を決したように叫んだ。
「そんなの嫌よ、誰か助けて! 私は結婚なんて望んでない!」
よく知っている声だった。
というか、アネットだった。