8.美人は何考えてるか分からない
自由気ままな一人旅は、高度な文明と治安があって初めて可能な贅沢だ。
例えば文明レベルが暗黒時代の欧州並、魔物まで出没するこの世界では、自殺行為にほかならない。
たった3日の道のりを、街道沿いに行くだけでも。
リョウの場合、襲撃を警戒する必要はない。それでも、3日分の水や食料を持ち歩くだけで骨だし、「街道」とやらは舗装がない場所が大半で、ともすれば獣道と見分けがつかず、分かれ道はあっても標識はない。あったところで読めない。
正確な地図が出回ってないのも大きい。先立ちのない一人旅など、どんな無謀な冒険者でもやらない。それが常識である。
なので、リョウは隊商に寄生していた。
「けっこうな規模だよね」
一団をぐるっと見渡す。
馬車7台、単馬十数頭の、百人近い集団。もっとも、大半は「寄生者」で、ほとんどが徒歩だ。馬車のスピードについていくのは辛そうだが、彼らはこの隊商になんら出資していないので、落伍しても自己責任である。
「大変だなー」
乗合馬車の荷台の上で、リョウは他人事のように漏らした。
馬車は二頭引きで、荷台には10人あまりが乗っている。屋根などなく、下は隙間だらけの継ぎ板だ。その上で、みな窮屈そうに縮こまっている。
ただ、陰気ではない。みな乗り合わせただけの他人だが、思い思いの話題に花を咲かせ、雰囲気は明るい。
宗派の違う二人の僧侶も乗り合わせている。片方が青炎教、もう片方は聖柱教という多神教の僧侶だ。宗教論争に火花を散らしているかと思いきや、意外にも論じているのは「どこの地酒が一番美味いか」だった。
(お坊さんって……)
別の場所からは少し下世話な話題も聞こえてくる。その隣では、小難しい政治経済が話題に上がっている。
「これこそ旅の醍醐味だな」
と語る男もいた。
その面々で、ひときわ目を引いたのは少女である。
せいぜい小学校高学年くらいの、幼い少女。リョウの好みというわけではない。目を引いた理由はふたつだ。
まず、黒い。
髪も肌も黒い。その色合いが、地球の黒色人種よりやたらと青みがかって見える。明らかに異質だ。
妖魔、という異種族だそうだ。
この地方では非常に珍しく、乗り合わせた皆も口々に驚嘆していた。
「成長した妖魔女の肌は天にも上る心地だとか。いやはや、あなたが羨ましい」
乗り合わせた男のひとりが、野卑た笑みで言った。羨望されたのは、線の細い男だ。
「この子を買い取るために親の遺産をすべて手放したんです。私の宝ですよ」
と、少女を撫でやる。少女はどう思っているのか、やや目を細めただけで、無言でそれを受け入れていた。
そう。
この少女は奴隷なのだ。しかも会話から察するに、いかがわしいことを目的とした。
(ほんとに反吐が出るけど。これにも慣れなきゃいけないんだろうな)
この世界において奴隷は一般的だ。町でも多くの奴隷が過酷な労働に従事している。そして誰も、それに疑問を持たない。一般的な日本の家庭で育ったリョウには、受け入れ難い現実だった。
実は町で、奴隷に鞭打つ監督者を殴り伏せたことがある。
確かに、私憤に駆られた無意味な行動だったし、直後に反省もした。
しかしその後の展開は予想外だった。
鞭打たれた奴隷が、倒れた監督者を見るなり、大慌てで助けを呼んだのだ。その後もしきりに監督者を心配していた。監督者は監督者で、いかにも申し訳なさそうに、奴隷に礼を述べたりした。
何が正しいのか分からなくなった。
以来、リョウは奴隷について深く考えないようにしている。
「そういえば」
ふと、聖柱教の僧侶が言った。
「最近このあたりに、小鬼が出るそうですよ」
それを皮切りに、荷台上がその話題一色に染まった。
「なんでも、先月に公設の隊商が被害を出したそうです」
「それならアルノアが討伐隊を出したと聞いていますが」
「その噂なら聞いたな。でも、討伐したという話は聞かない」
話を聞くに、小鬼とはゴブリンとかコボルトの類だ。
人間の子どもくらいの背丈で、耳が大きく、獣じみた顔つきをしている。集団で人や獣を襲って喰らい、皮を剥いで身につけるという。知能は低いが、簡単な道具なら扱えるらしく、人から奪った武具を使うものまでいるらしい。
「公設に被害が出たなら、かなり大きな群れに違いない。出くわさないといいんだが」
「まあ、この規模の隊商です。護衛もいますし、襲われることはないでしょう」
(おっちゃんたち、それフラグ……)
リョウは陰鬱な気分で聞いていたが、半分は他人事だ。何があっても彼だけは襲われることがない。
(まあ、無賃乗車してる負い目もあるし。もしもの時は働かないと)
腰の小剣を確かめ、肩に立てかけた槍を握る。曲がりなりにも〝竜殺し〟だ。いまさらゴブリンごとき敵じゃないと、リョウはたかをくくっていた。
○
隊商の宿営は、さながら宴会のようなものだ。
みなで焚き木を囲み、思い思いに騒ぐ。
楽士が同行していた。リュートに似た弦楽器をかき鳴らしつつ、思わずため息が漏れるような美声で、かつて世界を救った勇者の物語を歌い上げている。
リョウが乗っていた馬車の面々には、主催者側から酒が振る舞われた。その影響か、昼間よりも下世話な話題が増えたようだ。
(騒々しいなあ)
リョウは辟易していたが、人々の話にはなるべく耳を傾ける。どこで役に立つか分からないからだ。
ただ、初期のように片っ端からメモすることはしない。ノートの空白も底が見えてきた。無駄使いはできない。
「ん?」
ふと、妖魔の少女に目が止まった。
楽士の演奏に聞き入っているのだろうか。目を閉じ、うっすらと頭を揺らしている。表情は、昼間は見せなかった笑顔だ。
(可愛いな)
子どもらしい様子にほっこりし、思わず少女をスケッチした。デフォルメの効きすぎた、写実的とは程遠い絵柄だが、それなりに少女の特徴を掴んでいる。
(最近はネトゲばっかりだったから、絵を描くの久しぶりだけど。あんまり衰えてないかも)
中学生の頃は、下手な漫画ばかり書いていた。漫画家になりたい、と志したわけでもなく、単なる手慰みだったが。
こういう状況だと、ヒマつぶしにはちょうどいい。
(って、さっそくノート無駄使いしちゃったよ……)
自己嫌悪に項垂れるうち、夜もふけ、宴もたけなわとなった。
野宿は初めてだ。
人々は地面にゴザのようなものを敷き、その上で無造作に横になっている。テントを立てる者もいるようだが、ほんの一握りだ。
リョウはテントの中に入ろうとしたが、狭すぎて寝るスペースがない。諦めて、馬車の荷台の上で寝ることにした。
(うう……背中が痛い)
これは眠れそうにないな、と思ったのもつかの間。
一日中馬車に揺られて思ったより疲れていたのか、リョウはすぐに眠りの淵に落ちていった。
――それからどれくらい経ったのか。
妙な気配を感じて、リョウは跳ね起きた。
近くで人の息遣いがある。それと、聞きなれない音。
(この音……?)
あたりを見渡す。この世界に来てから、だいぶ夜目も聞くようになった。
すぐに、異変の正体を見つけた。
「上手だよ、エリシャ……」
妖魔の少女と、その主だった。主の男はうっとりと、自分の股間に顔を埋めた少女の頭を撫でている。
少女が「じゅぽじゅぽ」と音を立て、それを吸い上げていた。
「――っ!」
リョウは一瞬凍りつき、それから俄然、全身が熱くなるのを感じた。怒りと羞恥が織り交ざって心の中を吹き荒れる。
(何やってんの!? 馬鹿なの!? 死ぬの!?)
震える拳を押さえつけ、逃げるようにその場を離れる。
(あんな小さい子に、あんなことさせて……っ!)
怒りに任せて地団駄を踏む。いますぐ引き返し、あの男をぶん殴ってやりたかった。だがそれが何になる? 町での一件が、リョウの心に楔を打ち込んでいた。
リョウは何度か深呼吸し、頭をかきむしった。
その時、視界に何かが飛び込んできた。
「ぎぎぎ……」
耳障りな唸り声と共に、異形の一団が現れたのだ。3、4……続々と、闇の中から。
大きな耳に、子どものような背丈。暗闇のなか不気味に光る双眸。
聞いていた特徴と一致する。小鬼の一団だった。
リョウは思わず舌打ちした。槍は馬車の荷台に置きっぱなしだ。
(早くみんなに知らせないと)
きびすを返し、急いで馬車の荷台に戻る。
そこではまだ、少女と男が行為を続けていた。
「何やってんだよ、こんな時に!」
今度こそ怒りを抑えきれず、リョウは男を突き飛ばした。二人ともびっくりしていたが、男のほうはすぐに、這い寄る複数の気配に気付き、大声で叫んだ。
「小鬼だ! 小鬼が出たぞおっ!」
途端、宿営地は蜂の巣を突っついたような騒ぎになった。護衛の戦士たちはいち早く飛び起き、迎撃を開始した。焚き木に再び火を入れる者もいる。
人々の悲鳴が、すぐにあちこちから聞こえてきた。
「ちっ、何匹いやがるんだ」
「おい、どデカイのが居るぞ!」
「みんな散るな、焚き木の近くに集まれ、囲まれるぞ!」
「多すぎる、戦える者は手伝ってくれ!」
リョウもすぐ、槍を握って参戦した。
目につく小柄な人影を、片っ端から突き刺していく。棍棒のようなものを持つのが大半だが、中には剣や槍を持つものがいる。
だが、リョウには関係ない。どれも同じように、急所を一突きして仕留める。
そうしているうち、小鬼の集団の中に、並の成人男性より体格のいい影を見つけた。
(デカいのってあれか。さてはボスキャラだな?)
あれを倒せば雑魚は撤退するに違いない。リョウは目標を定め、向かっていく。だが雑魚の肉壁が厚い。業を煮やし、小鬼から奪った武器を片っ端から投げつける。
いくつかが命中したようだ。ボスは目に見えて焦りはじめ、そのうち耳障りな雄叫びを上げた。
「ぎぃりゃああああ!」
すると、小鬼の群れは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「ふう、何とかなったな」
ひときわ返り血にまみれた剣士が、戦いの終わりを告げた。
宿営地は散々たる有様だった。
荷台は倒れて荷物は散らかり、あちこちでうめき声がする。負傷者が多い。だが幸い、死者はなかったようだ。
魔法の使い手が何人か居たらしく、各々けが人の手当てを始めた。リョウと同じ馬車に乗り合わせた僧侶も、霊術を使って精力的に動いていた。
小鬼の死体は、十体以上転がっていた。
「こんなに仕留めたのに……いったい何匹いたんだ?」
「さあね。こんな大所帯は噂にも聞かない。やつら、ひょっとして国でも興したのか?」
「笑えない冗談だな。すると、あのデカブツが王様か」
「あんなのも始めて見る。明日以降が思いやられるな」
戦士たちが話し合っている中、リョウはひとり青ざめていた。
焚き木の炎に照らされた、小鬼たちの死体が問題だった。
(なんだよコレ……人、じゃないのか?)
そう。灯りの中で見る彼らは、思ったより人間らしかったのだ。
確かに耳は大きい。野性味溢れる異貌かもしれない。でも、ゴブリンだなんてとんでもない。少なくとも、人の枠から外せるほど異質ではない。
――もしかして、ぼくは人を殺したのか?
槍を持つ手を震わせ、リョウは呆然と立ち尽くした。
「誰か、誰かエリシャを助けれてくれ!」
ふいに悲痛な叫び声があがった。妖魔の少女の主だった。
「やつらにさらわれたんだ。頼む、誰か力を貸してくれ!」
人々は彼に同情を向けた。少女ではなく、彼に。少女は奴隷で、彼の所有物だからだ。
「運が悪かったと思って諦めな。命があるだけマシだろ」
「エリシャは私の命も同じだ。失ったら生きて行けない。なあ、あんた冒険者なんだろ? 報酬はいくらでも出す、頼むからエリシャを……」
「無茶言うなよ旦那。俺たちは仕事の真っ最中だ。依頼をかけたいなら、アルノアについてからギルドに言ってくれ」
必死に助けを求める男の声に、周囲は冷淡だった。当然である。小鬼の群れがどこに去ったか分からないし、何匹いるかも分からないのだ。
(でも、ぼくなら)
リョウは血痕を見つけていた。街道から外れ、山林に消えてく血痕を。
草むらは明らかに、何かが分け入った跡がある。
「なあ、頼むよだれか……誰か、エリシャを……」
涙声で、男は訴え続ける。
リョウは無言でそれに背を向け、小鬼の痕跡を追った。
男のためではなく、少女のため。
――否。
おそらく自分自身のため。言い知れぬ罪悪感から逃れるように、リョウは足を早めた。
○
痕跡は思ったより辿りやすかった。
ペンライトで照らされた獣道――小鬼が通った跡は、見失いようもない。大集団によって草木が踏み均されているからだ。ぽつぽつと、複数の血痕もある。
(そう遠くないと良いけど)
不安はあるが、楽観視もしていた。大集団を率いて一昼夜以上もかけ、襲撃のために山道を行くわけがない。
拠点は近くにある。そう信じるしかない。
そのうち、ほんのりと空が白ずんできた。
(明け方近かったのか。ラッキーかも知れない)
リョウはペンライトを消し、まだ薄暗い中を行く。電池には限りがある。無駄使いはできない。
宿営地を発ってから三時間ほど。
山林が開け、まるで原始時代のような集落が見えてきた。
朝日はまだ顔を出していないが、もう視界に不自由はない。集落の様子は良くわかった。
枯れ木や草をつんだようなテントがいくつもある。竪穴式住居というやつだろうか?
ひとつ覗いてみると、複数の小鬼が寝息を立てていた。乳房がある個体もいる。そして、子どもの個体も。家族、だろうか。
外で活動している小鬼もいる。何やら草を打ちつけているもの、獣の肉らしきものを干し、火で炙っているもの。向こうでは、子どもの小鬼がふたり、何か白いボールのようなものを転がしあって遊んでいる。
「のどか、だな」
ぼそり、と呟いて、リョウはふらふらと集落を歩いた。文明レベルが低いにもほどがあるが、彼らは確かに人の暮らしをしている。
それを殺した。
「うっ」
リョウは喉まででかかった吐瀉物を、気合で押し戻した。ここで吐く訳にはいかない。リョウの血痕は誰にも見えないようだが、吐瀉物は違うかもしれない。こんな敵地のド真ん中で確かめるわけにもいかない。
何よりも、吐くとものすごく疲れる。リョウにはやるべきことがあるのだ。そのためにここに来た。
「エリシャはどこ、だ?」
フラフラとおぼつかない足取りで、片っ端からテントをあたる。どこにもいない。
そのうち、テントの中で信じられないものを目撃した。
「これなんだ……人間、なのか?」
人の身体が干してあった。
首と手足を切断され、皮を綺麗さっぱり剥がされている。内蔵を取り出したのか、腹は空いていた。あばら周りの肉がところどころ削がれ、白い骨が覗いていた。
(――っ!)
今度こそ、リョウはその場で嘔吐した。最悪の気分だった。頭も胸もぐるぐると渦巻いているようで、まともな思考ができない。
はいずるように、そのテントから出た。
「こいつら、人間を喰って……!」
話には聞いていた。小鬼は人を襲って喰らう、邪悪な生き物だと。だがまるで実感がなかった。だからこそ、これを人だなどと勘違いした。
ふと、さっきの子どもたちが目に入った。もう日は昇り、周囲はずっと明るくなっている。ゆえに、白いボールのようなものの正体がわかった。
人の頭蓋骨だった。
「ああああああああああ!」
絶叫。リョウは力の限り叫び続けた。心にたまったものを吐き出すように。
成功したかは分からない。叫び終えても、頭はまだぐちゃぐちゃだった。
ひとまず、荒い息を整える。長い時間をかけて。
気がつけば、日はすっかり登っていて。
微かに声が聞こえた。誰かの悲鳴。ほんの小さな女の子のもの。
「エリシャ?」
ぼそり、とつぶやき、リョウは立ち上がる。
「また、聞こえた」
身体は自然に、声の方向を探している。
「こっちだ」
その先には洞穴があった。
岩山にいくつか開いた洞穴。その中のひとつから、確かに少女の悲鳴が聞こえる。
(無事、なのか?)
リョウはペンライトに火を入れ、中に入っていった。それほど深くはない。
すぐ、奥から灯りが見えてきた。ペンライトを消す。
松明が灯っている。そのすぐ近くで、大きな人影が揺れている。
それに組み敷かれて、エリシャは横たわっていた。
もう声は上げていない。白目を向いている。生きているかどうか分からない。その股ぐらを押し開き、大きな人影が――あのボスが、猛然と腰を打ちつけている。
その眼光は、禍々しく赤黒い。
(こいつ――!)
躊躇は無かった。
リョウはすぐさま槍を構え、延髄めがけて突き出した。
ドシュっ。
血煙が舞う。穂先に力を込めてひねると、大きな身体が力なく地面を転がる。
瞳はすぐさま光を失い、ボスは絶命した。
「魔物化した小鬼、なのか……?」
つぶやきつつ、血の海からエリシャを救出する。息はある。大きな怪我はなさそうだ。
「よかった。本当に」
リョウは嗚咽を漏らしかけたが、ぐっとこらえて表情を引き締めた。まだ外には沢山の小鬼がいる。気付かれたら、エリシャを守りきれないだろう。
「いそいで連れ帰らないと」
裸のエリシャを、マントにくるんで抱きかかえる。随分と軽い。強化特典の影響だろうか。これなら、ある程度は走れそうだ。
「待て」
その時、奥から声がした。
松明の影に隠れた奥。そこから、綺麗に済んだ女性の声が。
目を向けると、そこには絶世の美人が居た。
どんなに薄汚れていても、泥に浮かぶ蓮華のように、それは美しかった。
淡いシルバーブロンドの髪に、世にも珍しい金色の瞳。肌は珠のように白く、奇跡の芸術品のように整った眉目が、いまは警戒に歪んでいる。
――いや。
違うのはすぐわかった。目を凝らしているのだ。
「そこに誰か居るな? 何者だ? どうして見えない?」
美人は確信を持って質問したようだった。
(うーん。どうしよう)
どうやら、エリシャと同じく、食用外の目的で捕らえられたらしい。歳は、リョウよりわずかに下だろうか。
よく見れば、手足の腱が切断されているようだ。這いずるようにしてリョウに――というより、リョウが抱えたエリシャに近づいてきた。
(――っ!)
近くで見て、リョウは思わず顔を歪めた。
股ぐらが血にまみれているのだ。もう乾ききっているが、彼女がどんな目に合わされたのかは良くわかった。
「この子も助けたいけど……」
さすがに無理だろう。ふたりも抱えて逃げ切れるとは思えない。
何より、あまりぐずぐずしてはいられない。いつ外の連中に気付かれるか分からないのだ。
「なぜ黙っている? ははあ、外の連中を気にしているのか? それなら心配いらない。キミが殺したそれは連中の首魁で、この洞穴はこいつの〝憩いの場〟さ。邪魔すると怒りを買って殺されるからね。決して入ってこない」
美人は悪戯じみた笑みで言う。
「それより、聞かせてくれ。キミは何者だ? 人間か? それとも神か」
(神って)
リョウは思わず吹き出し、観念してエリシャを降ろした。
この美人の言うことが本当なら、それほど慌てる必要もなさそうだ。それこそ、ここで夜まで待って、闇に乗じて逃げ出しても良い。
それなら、彼女も助けられるだろう。
「もしかして、喋れないのか?」
美人が不安げに質問を続けている。何か反応したほうがいいのだろうか。
とりあえず、ペンライトを取り出してチカチカさせた。
「うおっ!」
美人は驚いて身を引いた。
「光霊か? いや、あれはこんな強烈に光らない。魔法でもないようだし……キミはやはり神か、それに近しい存在なのだろうか?」
(ペンライトじゃ限界があるなー)
何とかして、この美人と対話できないものか。
あれこれと思案し、ほどなく思いついたのは「絵」だ。
(やってみる価値はあるか)
漫画を描いた。表情をつけた丸っこい人型を自分に見立て、この面倒くさい状況を説明する漫画を。
できあがったものを美人の前に置くと、彼女はそれを見るなり吹き出した。
「ぶふっ。これはキミか? ずいぶん可愛いな」
それから、真剣な面持ちで漫画をじっと見つめ、こう言った。
「つまりキミは、何かタチの悪い呪いにあって、ある日突然誰からも認識されなくなった……ということだね?」
「すげー、だいたいあってる!」
リョウは歓喜の声を上げ、一枚の絵を描いた。さっきの人型がウンウンと頷いている絵だ。
「〝イエス〟」
「なるほど、これはややこしい状況だ。でも、キミの身体は確かに存在していて、物に触れたり、武器を使って敵を倒したりできるわけだ」
美人の視線は、地面に置いた槍に注がれている。
「〝イエス〟」
リョウは美人の察しの良さに感動していた。ものすごく頭の切れる人物かも知れない。
「キミは人間なのか?」
「〝イエス〟」
「もしかして、女の子かい?」
もう一枚の絵を描く。激しく首を横に振っている絵。
「〝ノー〟」
美人はとても残念そうな顔をした。
「そうか……まあ男でも構わない。こんな面白い――失礼、興味深い人間に会ったのは初めてだよ」
(こっちの台詞なんだけど)
苦笑していると、美人はいきなり姿勢を正し、眩いばかりの笑みで自己紹介した。
「わが姓はアガルタ、名はフォイレン。字はリースだ。どうかリースと呼んでくれ」
(三国武将みたいな名乗りきたー)
「キミの名は……ああそうか、文字が書けるならわざわざ絵など描かないな。私が勝手に名付けていいかい?」
「〝ノー〟」
「そうだな、オーレット、なんかどうだ。母がむかし世話していた銀狼の名前なのだが」
「〝ノー〟」
「じゃあリンスベル」
「〝ノー〟」
「ならヴィシュナスだ。世界を救った勇者の名前だぞ」
「〝ノー〟」
「わがままなやつだな。どちらにせよ呼び名がないと不便だろう。観念して、いまの3つから選びなさい」
(うわ、めっちゃ強引……)
リョウは仕方なく、指を一本立てた絵を描いた。
「一番目、ということだね。じゃあオーレット、私の頼みをひとつ聞いてくれないか?」
何だろう、と思っていると、美人――リースはとても綺麗な笑みを浮かべた。
そしてこう言った。
「私を見捨ててその子と逃げてくれ」
ずん、と全身が振動した気がした。
リョウは凍りつき、ただ目の前の美人を見つめることしかできなかった。
とても美しい、嘘みたいな美貌だ。見れば見るほど、この世のものとは思えない。
「お願いだ。どうか、私を見捨ててくれ」
リースはもう一度言った。
表情は変わらず、満面の笑みだった。




