第1章 第1節 すべてのはじまり 後編
<1>
空は青一色で、そこに交じっているのはギラギラと夏の色気を感じさせるような真っ赤な太陽だけ。気温は30度を超えているのではないかと思わせるくらいに暑く、できれば外になんて出たくないと思わせるほどじめじめとしている。これも夜中に雨が降った影響なのだろうか。
時計は午前8時半を指していた。東京の新宿区ということもあって、朝からサラリーマンやら学生やらで道路は大渋滞だ。そんな俺、織田信鷹も大学に行くために、見慣れた早朝ハイキングコースをのんびりと歩いているわけなのだが。それにしてもやる気が起こらない。
「今日は1限から3限までだから、3時には帰れるか。家に帰ったらなにすっかなー」
こんな感じで全くやる気を見いだせないでいるのがこの頃の俺だ。とにかく同じような毎日を繰り返し、同じようなルートを進んで生きていくことがたまらなく嫌だった。平穏な日常ってやつだ。とにかく毎日毎日、この世には起こり得ないようなイベントやらハプニングやらを求めて、この人生を生きている。俺みたいにやさぐれた考えをもっているやつも少なからず存在しているのだろうが、そこに至るまでの過程が他の奴らとは違う。
とにかく俺は、なんでも感覚でこなしてしまう。勉強も自分なりの考察で知識を頭に入れて、結果的にテストでは満点。スポーツにおいても、例えばテニスなんかだとラケットの打点やら振り抜き方やらを感覚的にとらえて、結果的にテニス歴10年のテニス馬鹿を完膚なきまでに叩きのめしたこともある。自分ではそうも思わないが容姿もいいらしく、大抵女たちが自分に寄ってきた。その女たちが自分の側面だけに惹かれて寄ってきてるんだということも、今までの経験から感じることもできる。今までの女たちはみんなそうだった。
俺は自分の内面を知ったうえで自分によくしてくれる人間をほとんど知らない。その一人が安藤弘毅という人間なのであって、俺も信頼を寄せている。
「安藤以外に頼まれたらぜってー断ってたな。 」
そんな愚痴を心の中でつぶやいていると、誰かがこちらに近づいてくる。身長は160くらいで、長い黒髪をポニーテールでまとめている。容姿はどこかあどけなさが残るものの整っていて、どこか清楚な雰囲気を身にまとっている。日本の女性からするとかなり可愛い部類に入るのだろう。周りの男たちの目が釘付けになっているのがわかる。
そうこう考えているうちにこちらにやってきた。
「おはよう信鷹君、一緒に学校に行こうよ」
彼女の名は北條由香里。俺と同じ白豪大学の1年で、弓道部のエース。高校では全国大会ベスト4の実績があり、この大学にも推薦で入ったらしい。何においてもまっすぐで、全力で人生を生きているような子だ。まさに、俺とは正反対で、この日常を楽しんでいる。
そんな彼女が、実は俺の彼女だったりする。付き合い始めたのはちょうど2か月前。きっかけなどは面倒なので省くが、告白は彼女からだった。なぜ付き合い始めたのかは、また話す機会もあるだろう。
「おはよう由香里。弓道着を着てるってことは、これから部活か?」
「そうなんだよねー。来週大会があってさ、毎日朝練やるぞって先輩たちはりきっちゃってるんだよ。まぁ、気持ちはわかるんだけどね」
ほんと困ったよと言いながら笑う由香里の顔を見つめると、本当に毎日を楽しんでるんだという充実感に溢れた顔をしている。毎日だらだらと生きている俺なんかとは、きっと見る世界が違って見えているのだろう。
「あの、信鷹君?そんなに見つめられると恥ずかしいんだけど・・・」
真っ赤な顔をして由香里は答えた。俺はどんな顔で由香里のことを見つめていたんだろうか。
「悪い悪い。けど、ほんとお前は毎日楽しそうだよな。今、そんな顔をしてたぞ」
「え、そんな顔してた?だとしたら、それは今信鷹くんと一緒にいるからだよ。最近部活が忙しくて会える時間が減っちゃってるし、この登校の間だけでも話せることが嬉しいんだ」
そんなことよく自然に言えるものだと感心してしまう。俗にいうツンのない、純真少女だ。俺自身、彼女のことは嫌いじゃない。でもそれは人間としてであって、彼女が女の子として好きなのかといわれるとそうではない。
実は彼女からは3度の告白を受けていた。察しの通り、前の2回は断った。
世の中には三顧の礼という言葉が存在する。中国に伝わる、三国時代にのちに蜀の皇帝となる劉備が諸葛亮公明を軍師として招くため、3度も彼のもとを訪れたという話だ。今なら、その諸葛亮の気持ちが分かる。3度もストレートに気持ちを伝えられれば、おのずと心にも変化が出てくる。
しかしそれだけではない。由香里からは、今まで群がってきた女たちとは違う何かを感じたというのも事実である。裏のない、ストレートな思いのたけをぶつけられたからなのかもしれないが。
「俺は基本的には暇だし、由香里が言えばいつだって会えるだろ。弓道の大会だって見に行く予定なんだし、心配することなんてなにもねーよ」
「信鷹くんは無防備すぎるから心配なの!ほかの女の子たちが信鷹くんに変なことしないかって毎日気にしてるんだから。自分が有名人だってちょっとは自覚しなよ」
由香里が言うには、俺は学校内では有名らしい。大学の裏ではファンクラブなるものもあるらしいが、詳しくは知らない。
「前から言ってるが、俺はもう女には飽きてるし、由香里以外の女には興味のかけらもない。今はお前以外の女を女として見ようとは思ってないから。だからあんまり気にすんなよ」
我ながら最低なこと言っているとは思うが、思ったことが口に出てしまうのだから仕方がない。今となってはそんな自分に数少ない誇りでもある。
「じゃあ、大会が終わったら海に連れてってよ。前から信鷹くんと行ってみたいと思ってたんだ。最近全然デートできてなかったからいいでしょ?」
「わかったわかった、連れて行ってやるから。だから腕に手を絡めるのはやめろ。周りの目もあるんだからよ」
由香里は満足そうな顔で少し離れる。
「約束だよ。絶対にだからね」
<2>
そんなこんなで話し込んでいるうちに学校に到着していた。由香里は学校から少し離れた弓道場で毎日練習している。弓道場へは大学内を往復しているバスに乗って向かうため、他にも弓道着を着た人たちがバス停でそのバスを待っているのが見える。
「じゃあ信鷹くん、わたしあっちだから。大学の講義頑張ってね!」
「ああ、互いにな」
校舎へ向かおうとしたとき、由香里は思い出したように言った。」
「あと、近頃騒音による事故が多発してるでしょ?この辺も危ないって噂だから、気を付けてね」
「俺的には由香里のほうが心配だけどな。ま、気を付けるよ」
ありがたい助言をいただき、一応由香里にも釘を刺しておいた。由香里は自分の優先順位を下にする傾向があるためだ。それが彼女に長所でもあるわけなのだが。
「ありがと、大好きだよ信鷹くん!」
手を振りながら由香里はバス停へと向かっていった。あいかわらず、人前でよくあんなことができるものだと思いながら、学校の校舎に向かう。
時刻は午前9時。1限の講義は30分からなので少し余裕があった。のどが渇いたので、中庭でコーヒーでも飲もうかと思った瞬間、変な違和感が体中を襲った。このあたりすべての空気が冷たくなったような、そんな感じだ。昔から五感が研ぎ澄まされていたため、こういうところにも敏感なのだ。
「なんか、嫌な予感がする。雷雨でもくるのか。」
その時、大きな音が鳴り響いた。雷の落ちる音の比じゃないくらいの大きな音で、近くから車が衝突したような音や、他の生徒たちの悲鳴なども聞き取れる。
しかし、自分にはとても心地よい音色のように聞こえていた。言葉が矛盾しているのはわかっている。でも、大きな音のはずなのに、自分には思わず心を奪われそうなほどに美しい音色に聞こえてくる。
「なんて美しい音色なんだ。もしかして、これが騒音の正体なのか。」
しかし、他の人たちは耳を抑えて前かがみになっていて、とてもつらそうな表情を浮かべている。とてもきれいな音色を聞いているようには見えない。もしかして、俺の耳がおかしくなったのだろうか。
その光景を見つめていると、遠くで笛を吹いている一人の女の姿があった。
「もしかして、あいつが事件の主犯者なのか。だとしたら、早く止めないと」
その女に近づこうとしたとき、体中を激しい痛みが襲った。目はくらくらとめまいがして、体中はまるで電気ショックでも受けているのではないかというくらいのびりびりと身体中を何かが流れ込んでくるような感覚だ。
「ぐ、ぐああああああああー。」
周りの人間たちは起き上がって現状を確認するかのような姿勢をとっているため、おそらくこの痛みを感じているのは俺だけなのだろう。近くの人たちが、心配そうにこちらを見つめている。
(いったい何が起きている、こんな痛みは生まれてはじめてだ。)
だんだん痛みにも耐えられず、意識が遠くなっていくのを感じる。自分の身体に何が起こっているのか全くわからない。死ぬのではないかというくらいの痛みだ。
(もう、だめだ、限、界・・・。)
気絶するその瞬間、目の前にその女が現れた。思わず、その姿に心を奪われる。
目鼻立ちは整っていて、きれいな金髪の髪がその容姿をより一層際立たせている。その、見る人すべてを魅了するような可憐な美少女がそこにはあった。
「お、お前は一体・・・」
思わず口に出した後、目の前が真っ暗になる。その後どうなったのかは覚えていないが、彼女がその時発した言葉だけは覚えている。
「わたくしはアテナ。やっと巡り合えましたね、マスター。」