十月の出来事・②
◆清隆祭初日
グリニッジ標準時(GMT)午前四時三〇分
清隆学園高等部C棟二階図書室
スクリーンが暗くなると同時に、主に関係者からの熱烈なスタンディングオベーションで、室内に喧噪が戻って来た。
その雨音のような拍手の中で、今回の映画撮影で監督を務めあげた藤原由美子は、大きく溜息をついた。
パッと見ただけでは普通の女子高生である。いや、どちらかというと地味かもしれない。しかし、その瞳を見れば内なるものが只ならぬ物であることが察せられる。そんな少女である。
今回の清隆祭において、彼女が率いる図書委員会(と図書室の常連たち)は、無謀なことに映画製作へ乗り出し、今その初回放映が終わったところなのだ。
「ごくろうさま」
肩でも回してリラックスしようとしたところで、その両肩が掴まれた。驚いて身を固くしてしまった。
「あ、コジロー。あンたもね」
由美子の労をねぎらうように、後ろから彼女の両肩をもみ始めたクラスメイトへ、首だけで振り返った。
彼女の両肩に手を置いているのは、まるで想像の世界から抜け出してきたような美少女だった。誰もがうやまう長い黒髪に、健康的な肌。顔のパーツ一つずつが精密技工士が設計したように黄金律で支配され、かつバランスどころか表情一つ取っても年相応の愛嬌があった。
『コジロー』と呼ばれたが、もちろん男ではない。その苗字と剣道部において一年生ながら実力ナンバーワンのエースという実績と、その苗字から名づけられた呼び名である。
名前を佐々木恵美子と言った。
「わ、私なんか、ただ言われた通り。脚本に書かれてた通りのことやっただけだもん」
いつもとは違い、長い髪で表情を隠しがちな態度と、声質が由美子に違和感を感じさせた。
「? もしかしてコジロー、泣いてンの?」
「そ、そんなことない」
今の映画でメインキャストを演じた者として感極まる物があったようだ。慌てて目のあたりに細い指先をやって、その真珠のような涙を拭ってみせた。
「おねえさん」
もうちょっと揉んでいて欲しかったなという思いで体ごと振り返ると、そこへもう一人の美少女が現れた。
「なにハナちゃん」
恵美子がモデルのような美少女とするならば、彼女は香しい和風の雰囲気を纏った美少女であった。
誰よりも白い肌を持ち、誰よりも青い黒髪を頬の高さで切りそろえている。由美子の片腕として四月から図書委員会で活躍してくれている副委員長の岡花子であった。
彼女もこの映画でサブキャラクターとして出演していた。その手にハンカチが握りしめられていることから、彼女もしばし泣いていたようだ。
彼女は図書委員会だけでなく華道部に所属していた。開会式の変わりに行われた『ミス清隆コンテスト』で準優勝をもぎ取った、青い和服姿のままであった。今日はこの後に部の展示会の案内人を務める予定なのだが、わざわざこの上映会のために時間を作って参加していた。よって本日はまだ制服に着替える予定は無かった。
「ねえ、おねえさん。郷見くん知らない?」
「あのバカなら、そこら辺にいるンじゃないの?」
由美子が言葉を汚くするのも仕方がないことだった。郷見弘志とは、この二人に並ぶほどの美少女に見える外見ながら、中身の方はと言えば下ネタと科学実験が好きという危険人物で、間違いなく彼女の天敵なのだから。あまりの危険人物ゆえ、由美子から半径一メートル以内の空間に立ち入りを禁じている程である。
三人してキョロキョロ見回しても、軽薄な笑顔を四六時中張り付けている姿は見つけられなかった。
「あれ? たしか始まった時は居たよ」
恵美子が不思議そうに呟いた。由美子はよっこいしょと立ち上がると、手近に発見した人物に近付いた。
椅子の上で腕を組み、若干うつむき気味なその人物は、今回の映画で主役を務めた少年だった。
想い深そうに伏せられた両瞼。引き締まった口元。年相応だが、男性的な魅力に満ちた肉体。
由美子はその引き締まった腹筋へ、問答無用にボディブロゥをめり込ませた。
「ぐふう」
その衝撃で、たまらず椅子の上から転げ落ちた。
「この俺に気配を察せさせずに攻撃を仕掛けてくるとは、なにやつ」
立ち上がりながら由美子を確認すると、つまらなそうに腹をさすった。
「なんだ藤原さんか」
「なンだじゃないわよ。あンた、自分が主役の映画で寝てるって、どおいう神経よ」
「寝てた?」
とても不思議そうに答えが返ってきた。
「ただ双眸を閉じて静かにしていただけだが」
「それを寝てるって言うンでしょ」
「仕方ないよ」
二人のやり取りに、横から銀縁眼鏡をかけた真面目そうな少年が口を挟んだ。
「それが空楽が、空楽たる所以じゃない」
真面目そうな彼、権藤正美と、居眠りと読書そしてアルコールをこよなく愛する未成年不破空楽と、この二人は同じクラスのよしみという奴だろうか、弘志と三人でいつもつるんでおり、周囲には『正義の三戦士』と認知されていた。
「権藤もいいところにいた。あンたら、郷見しンない?」
弘志と仲のいい二人ならば、彼の行く先もわかるだろう。
「なんだか忙しいって、エンドロールも見ずに抜け出して行ったぞ」
そう空楽が答えられたところを見ると、ちゃんと本編上映中は起きていられたようだ。
「忙しい?」
由美子は眉を顰めた。また何かしらロクでもない事を企んでいるのかもしれなかった。
「なんでも講堂に用事があるとか」
「今の時間に?」
「たしか被服部のファッションショーのはずよ?」
由美子の横にやって来た花子が確認した。
「奴のことだから、モデルをやっている女子のパンチラでも盗撮に行ったんじゃないのか?」
「はぁ? なにそれ」
空楽のセリフに目を丸くし、由美子はそれ以上二人には構わず、出入り口に振り返った。
「どうするの?」
「つかまえンの。だって用事あンでしょ」
「私も行く」
「コジローは?」
「私はこれから校庭で当番の時間なの」
拝むように両手をあわせた恵美子は、口元にトレードマークの八重歯を覗かせて微笑みながら誤った。
たしか剣道部は他の運動会系の部活や保健委員会と一緒に体力測定を校庭でやっているはずである。
「じゃ、しょうがないか」
由美子と花子は連れだって図書室を後にした。
◆GMT 午前五時 高等部講堂特設ステージ脇
講堂の照明は落とされ、スポットライトと、舞台中央に用意されたミラーボールでショーアップされていた。
巨大スピーカから派手なロックナンバーが流れ、舞台には衣装を纏ったモデル役の女子が、次々と現れていた。
彼女たちは本物のように、舞台中央まで来ると決めポーズでアピールし、さっと照明の輪から外れて捌けていた。
「うわあ、すごい人ね」
客席には午前中のミスコンに劣らないほどの客が集まっていた。その中で花子が感心した声を上げていた。
「そりゃそうよ。毎回、被服部の『学園コレクション』は評判高いもの。あたしだって中等部の時に見に来たよ」
「へえ~。まさか、おねえさんがねえ」
いつもガサツな振る舞いが目立つ由美子である。意外なところで自分の乙女性が明らかになってしまって、柄にもなく赤くなってしまった。
「ハナちゃんだって中等部からの進学組でしょ」
「そうだけど、あまり高等部には来なかったから」
清隆学園は幼年部(幼稚園)から始まって、初等部(付属小学校)中等部、高等部そして大学から大学院まで揃った、いまどき珍しい教育機関であった。もちろん全ての学び舎が一つの敷地に入っているわけではないが、中等部と高等部は隣り合って建っていた。今も講堂の客席には中等部の黒い制服姿がチラホラと混じっていることが見て取れた。
「おねえさん、おとめ」
「そ、そンなことより、いまは郷見でしょ。あいつ、どこにいンのよ」
誰かに聞こうにも(当たり前だが)客の全員が舞台を見ていて、たまに出会った見知った顔に訊いてもそっけない返事しかもらえなかった。
二人が右往左往していると、突然講堂内が暗転した。
「きゃ」
突然のことに悲鳴を上げてしまった。
演出が変わって、今までうるさいぐらいだったロックは止められ、静かなクラシック音楽が流れ始めた。
「うわあ」
周りにいた女性客から感嘆の声が漏れた。
「?」
誰もがそうであったから、由美子もつい人探しを中断して、舞台の方を見てしまった。
そこに妖精がいた。
女の子の永遠の夢。白いウエディングドレスを着た美少女が、白い薔薇のブーケを持ってしずしずと登場したところであった。
「きれい」
すぐ隣で声がしたので振り向くと、花子までもが舞台に見入っているではないか。
金髪碧眼のその美少女は、高い身長を感じさせない身のこなしで舞台中央までやって来た。
おそらく長い髪はウィグで瞳もカラーコンタクトであろうが、由美子の記憶では、あのような透き通る肌を持った美少女は、学園に在籍していなかったと記憶していた。
そうしたところで由美子はトンでもない結論に至った。
「ハナちゃん、行くわよ」
「え? なんで?」
「あのバカを見つけたからに決まってンじゃない」
「どこに?」
「あそこ」
由美子の指がまっすぐ舞台に向けられた。花子は不思議そうにその先へ視線を走らせた。
「?」
まだ分からないようなので、由美子は彼女の手を引いて舞台へ近づいた。
その花嫁衣裳のモデルは、彼女たちの接近を舞台上から見つけたのだろう。明らかに由美子ヘ向けて微笑むと、持っていたブーケを放り投げた。
花束は見事な放物線を描いて、彼女のところまで飛んできた。
「きゃああああああ」
「わたしのものよお」
「よこしなさいいい」
「ひえええええええ」
とたんに由美子は、それを手に入れようと押し寄せた観客によって押しつぶされることになった。
それを確認した花嫁衣裳のモデルは、まるで春の野原を飛び跳ねる子鹿のような足取りで舞台裏へ消えていった。
「ま、まちなさい」
それでもしっかりとブーケトスを受け取った由美子は、折り重なる女子たちを潜り抜け、舞台へと這い上がった。
こんなパニック状態では普通に楽屋へ行くことはできない。このまま舞台に上がってしまい、そこを駆け抜けた方が早いと判断したのだ。
「ひい、はあ」
目を回した花子が追い付いてきたのを確認し、彼女の手を取って駆け出した。
観客席に張り出すように設けられた特設ステージから舞台裏まですぐだ。
「ちょ、ちょっと」
飛び込んできた二人の行く手を阻むように、被服部部長が現れた。細い青色のフレームをした眼鏡が似合う二年女子である。
「郷見弘志いますか?」
問答無用とばかりに訊ねた。
「は?」
横でマヌケな声を漏らす花子には構わず、由美子は語気鋭く訊いた。
「いまの花嫁、郷見でしょ。あたし、あいつに用があンですよ」
「ええ~っ!!!」
花子が驚くのとは対照的に、部長は冷静に聞き返した。
「郷見くん?」
部長は半分振り返って、楽屋状態になっている舞台裏を見回した。
そこにオカッパ頭にド近眼眼鏡といういけてない容姿の一年生が通りかかった。
「ああ、新井さん。郷見くん知らない?」
「郷見くんですか?」
眼鏡の向こうでパチクリと大きく瞬いてみせた。その視線が由美子をとらえて変化した。彼女も図書室利用率が高い生徒だったので、由美子も顔を見知っていた。新井尚美といって彼と同じ一年三組であるはずだ。
「クラスのオバケ屋敷を手伝うとかで、もう行っちゃいましたケド」
彼女が一つの椅子を振り返った。そこには先程まで美しい様子だった白い衣装と、その上に散らかされた金色のカツラが、乱暴に脱ぎ捨ててあった。
◆GMT 午前五時三〇分 高等部B棟三階一年三組教室
絹を引き裂くような悲鳴が上がった。
ここは不気味な墓石が立ち並ぶ陰鬱な墓場…に模したオバケ屋敷である。
廊下側の壁にはおどろおどろしい絵が描かれており、入口には安直な『恐怖の墓場』という看板が、血まみれをイメージしたかのような字体で書かれていた。
入口には暗幕で余分な光が入らないようにしていて、その脇に一揃えの机が出してあった。
「平井さん」
そこに座って受付をしている女子生徒に、由美子は面識があった。
「あら藤原さん、暇そうね。一回いかが?」
制服をだらしなく身に着け、脱色したような赤色気味の髪をしたような女子である。彼女は平井優花といって、今年度前期、一年三組の図書委員を務めた娘である。現在は帰宅部のはずだ。
「あたしのどこが暇そうに見えるンじゃ」
「花束を抱えているトコ」
「それは別件で。ええと、郷見いる?」
「あら」
大型肉食獣を連想させる吊り目がちな瞳がギョロリと動いた。
「これからデート? うらやましいわあ」
…。
「どうしたの?」
突然、人通りの多い廊下であるにも関わらず、床で悶絶を始めた由美子を、心配そうに優花は机越しに見おろした。
「平井さんが、急にンな事言うからでしょお」
「急に?」
不思議そうに優花は、彼女の横で微妙な笑みをしてみせる花子を見た。
「だって委員長と郷見くんって、つきあってるんでしょ?」
「ンなこと、誰が言ったああああああああああああっっっ」
いまの由美子ならば放射能ブレスを吐ける自信があった。
「え? 一組の佐々木さん」
「コジローっっっっっっっ」
血を吐く勢いで思い立った人物の呼び名を口にする。想像の中で彼女は、トレードマークの八重歯を唇の端にはみ出させて艶っぽいウインクをしてみせた。
由美子は優花との距離を詰めた。
「言っておくけど、アレとは敵同士。つきあうなンて考えられません!」
「え? じゃあ、あの話しって…」
「デマ!」
「なんだ。面白そうな話しだったのに」
「で?」
話しが進みそうもなかったので、横から花子が訊いた。
「郷見くんは?」
「いま当番で雪女やってるはずよ。終わったら体育館だって言ってたから、話しがあるなら中で捕まえて」
「体育館?」
「なんでも用事があるとか」
「ふ~ん」
興味なさそうにこたえた由美子に、優花は手を出した。
「なに?」
「入るなら入場料」
「ツケといて」
その手をパチンと叩いて、彼女は花子の手を取った。
「え、ちょっと、おねえさん」
「行くよ」
「『行くよ』って、待って」
「待てない」
「だって、あっちに」
「あっちもそっちもない」
そのまま入ることを渋るかのような様子の花子は、由美子の剛腕でズルズルと引きずられていった。
だが事情は違った。花子は決してオバケ屋敷が怖かったから入るのを嫌がったのではなかった。丁度教室の反対側の出入口から、雪女の格好をした誰かが、室内へ別れの挨拶をしながら出てきたのを目撃していたのであった。
◆GMT 午前六時 高等部体育館
隣の講堂とは違い、ガラガラな客席には客層まで違う客が集まっていた。
入場する時にすれ違ったのは年配の大人ばかりで、あまりの場違いに恐る恐る入っていくと、そこに見知った顔が一つあった。
「よーう」
妙なイントネーションで向こうから手を挙げて挨拶してくれたのは、御門明実であった。
「めずらしいところで会うね~」
日本語がちょっとだけ変な理由は、自称『道産子とスロバキアのハーフでチャキチャキの江戸っ子』という出自にあるのかもしれない。今日も仲がいい女子二人を引き連れていた。彼女らはクラスで由美子と同じ班であり、なぜか知らないが明実が率いる科学部に出入りしていた。
その二人に手で挨拶をしようとしたところで、明実が感心したような声で割り込んできた。
「二人が『外国語弁論大会』に興味があるとは、知らなかったな~」
普通の日本人より遥かに髪も肌も色素の薄い彼は、清隆学園当日だというのに、トレードマークの白衣を纏ったままだった。
「がいこくごべんろんたいかい?」
「あれえ? ちがうのかい?」
舞台に掲げられた看板にも、確かにそう書いてあった。
もうそろそろ新しい弁士の番になるのか、進行役の女子生徒が「めくり」と呼ばれる演目が書かれる紙を次の物へと変えていた。
「なンで、おまえはいンだよ」
「オイラはあれだよ。弘志が発表した『流体コンデンサの量子コンピュータへの応用と、その場に見られる量子もつれ理論についての一考察』を聞きにきてたんだよ。この後の六分半の演説にも参加したいし」
タイトルを聞いているだけでも眩暈がしそうな科学的発表であった。そういえば弘志には変な発明をするという、使えそうで使えない特技があった。
「さっき出ていった大人たちは役所や研究所の人だーよ。その理論が新型スパコン『穣』に使えそうだからだーよ」
「本当かよ」
怪しそうに見回してから、次の弁舌が始まりそうな気配を察して、早口の小声で訊いた。
「で? あのバカどこよ」
「映研で『犬の生活』の活弁をやんなきゃいけないって言ってたゾイ」
「『犬の生活』?」
「知らんか? 『犬の生活』。チャーリ・チャップリンの白黒映画」
「ああ~」
ポンと手を打つ由美子。
「あれってトーキでしょ?」
「それは再編集されたヤツだ。映研が上映するのはオリジナル版」
「へえ~」
感心した声を漏らした由美子は、ずっと黙っていた花子の手を引っ張った。
「まだ追いかける?」
「う~ん」
まるで悪夢に悩まされているような唸り声を上げていた花子は、そこで一〇〇年の眠りから覚めたように、何度も瞬きをした。
「あれ? ここはドコ? いまはイツ? 私は花子」
「どうやら正気に戻ったようね」
「あれ、おねえさん」
「郷見は映研だって」
「また映画?」
花子も深いため息をついた。
「そろそろ私、華道部の当番が…」
「じゃあ捕まえたらそっちに連れていくでいい?」
「う、うーん」
眉を顰める花子。彼が来たら華道部の静かな雰囲気を壊されかねないと心配しているようだ。
「で、次が始まるが、参加して行くかい?」
明実の誘いに小さく手を振りながら、二人は断った。
「急いでいるから…」
その小さな声が、突然体育館を揺るがすような大音声にかき消された。
「Achtung!」
首を竦めて演台の方を見ると、なぜか独逸国防軍陸軍の野戦服を身に着けた男が、目を血走らせて立っていた。
「Inspiration von Sturmbannfuehrer」
「???」
その呼び込みで一人の男子生徒が上手より現れた。誰かと思えば図書室常連の左右田優である。いつも第二種制服と規定されている学ラン姿の彼は、今日はその上から白いコートを羽織っていた。
カツカツと演台に彼が歩み寄ると、パイプ椅子に座っていた聴衆が一斉に立ち上がり、欧州じゃ絶対に認められない方式の敬礼を彼に向けた。そいつらも普通じゃ見られない軍服だったり戦闘服だったりした。しかも陸軍だけでなく空軍や海軍、武装親衛隊まで混じっていた。
優は、通常とは違い演台の前に立ち睥睨するように会場内を見回した。小さく胸元に手を挙げて答礼とする。一斉に聴衆が手を下ろした。
そんな会場に場違いな由美子たち二人を見つけると、熱病に浮かされたような笑みを浮かべた。
その狂気を感じさせる笑みで背筋にゾッとしたものを感じた二人は、明実や取り巻きの女子にろくに挨拶をせずに、体育館の出口に向かった。
「Ich mag Krieg」
彼の声を背中に後にした。
体育館を出た後に、内部から「Krieg!」と唱和する声が聞こえてきた。
◆GMT 午前六時四五分 高等部B棟二階視聴覚室
なぜか肩で息をした由美子が視聴覚室に辿り着くと、そこにはほとんど人がいなかった。
入口脇に貼られた上映スケジュールによると、すでに『犬の生活』は終わり、今は次の準備をするための時間のようだ。
「あれ? 藤原さん」
がっくりと膝をつきそうになる由美子に、呑気な声で正美が声をかけた。
「あンで、おまえがいンだよ」
だいぶぐれた声で由美子は正美に訊いた。
「僕は次の『愛・おぼえてますか』が目当てなんだけど」
「おまえが映画好きとは知ンなかったよ」
「そんな普通だよ。で? 弘志には会えたの?」
由美子の表情で正美は言葉の調子を変えた。
「その分だと、まだみたいだね」
「あのバカのせいで、オバケ屋敷の中で無駄に道に迷うわ、怪しい秘密結社の集会に出くわすやら」
「色々あったんだねえ」
気の毒そうに正美は頬へ落ちてきた眼鏡をずり上げた。
「で? あのバカはドコよ」
「さっきまで映研の人と何か話してたけど『時間だ』って飛び出して行っちゃったよ」
「はあ」
由美子は疲労を隠そうとしない溜息をついた。
「行先は聞いてンの?」
「なんでも吹奏楽部の助っ人だって」
「吹奏楽?」
「うん。よく分からないけど、ケッヘル三一五のソロだとかなんだとか」
「なンじゃそりゃ」
音楽の知識はそこまで詳しくない由美子であった。
「見つけたら僕からも言っておこうか?」
「ああ頼む。ハナちゃんは華道部だから」
由美子は気の毒そうな顔のままの正美と顔を見合わせた。
◆GMT午前七時三〇分 清隆大学野外ホール
高等部の体育館に吹奏楽の演奏時間と思って行ってみれば、そこでは合唱部が歌声で聴衆を魅了していた。どうやら先程の怪しい集会の方は終わったようだ。
まさか校庭で演奏しているのかと回ってみれば、そこが体育会系の部活と保健委員会が合同で体力測定で使われていることを再確認しただけであった。
短距離走からハンマー投げまで、校庭の端から端まで使われており、吹奏楽など演奏するスペースなどどこにもなかった。
音楽室にも首を突っ込んでみたが、清隆祭の間は体育館で演奏するグループの練習室として利用されているらしく、合唱部部員の荷物と、これから出番があるらしい和太鼓同好会がリハーサルを行っているところにでくわした。
そうして演奏している場所が分からずに、しばし校内を彷徨ってしまった。
演奏の生中継をやっていることを。生徒会が設けた案内所で聞きつけ、それが放送部が校内放送でやっていることを知った。由美子は迷わずA棟にある放送部の根城である放送室へ押しかけた。
そこでやっと吹奏楽部の演奏会が大学の敷地内にある野外ホールで行われていると知った。
可能な限りの全速力で野外ホールに着くと、やはりというべきか演奏は終了し、弘志の姿はもう無かった。
険しい顔で演奏後の感動で泣いている部員の集団へ突入した由美子に、コンマス役の女先輩が応対してくれた。
「ん? 郷見くん? 彼ならお願いしたソロ以外に『愛の挨拶』までやってくれて、もう校舎にもどったわよ」
振り出しに戻る。
◆GMT 午前七時四五分 高等部B棟二階パソコンルーム
「郷見? ああ、彼ならフラッとやって来て、ウチの誰も出せなかった『超兄貴』のエンディングをさらっと出してたぞ。もう行っちゃったけど」
ゲーム研究会に顔を出していたという下っ端図書委員の情報は正しかったようだ。応対に出てくれたゲーム研究会会長は事も無げに言った。
「だああ」
また捕まえそこなった由美子はアントニオ猪木みたいな声を上げてしまった。
「で? 行先聞いてますか?」
顔に浮かんでくる疲れを隠す努力はもう諦めた。
「なんでもD棟に用事があるとか」
◆GMT 午前八時 高等部D棟中央廊下
「郷見くんだって? 今までいたが、ナローパイクのセッティングをして、集合レイアウトの方で〇系を三周ほどさせてから、行っちゃったぞ」
異常に痩せている鉄道研究部部長はあっさりと言った。
D棟二階の中央廊下という直線が使える環境にNゲージの集合レイアウトを展開させた鉄道研究部に、弘志がいたという目撃情報は間違いなかったようだ。
中会議室というなかなかのスペースにはHOゲージの運転盤やらナローゲージの小さなレイアウトが並んでいるようだ。それらを操作しているのは、どう見ても生徒というより先生の方に年齢が近い人物たち。どうやら日頃自宅で走らせることができないOBたちが、その鬱憤をここで晴らしているようだ。
壁際には小さな一つの鉱山を模した模型たちが並べられていた。その中の一つが弘志作らしいが、見ている余裕は無かった。
「どこに行ったか聞いていませンか?」
さすがに相手が面識の薄い上級生では、喋る言葉も変わっていた。
「なんか演劇部の助っ人って聞いたけど」
「それは…」
「D棟の一階のはずだけど」
「ありがとうございます」
◆GMT 午前八時三〇分 高等部D棟一階学生ホール
「ぼくは行かなければならない!」
主役の男子生徒は、奇妙奇天烈な衣装で言い切った。ライダースーツに意味不明のヤカンの蓋やらペットボトルのキャップ、それにジャバラのホースなどが貼り付けてあるのだ。どうやら宇宙服のような物をイメージして用意したようだ。
「あたしも行く!」
その背中に、赤い髪をショ-トカットにした少女が抱き着いて止めた。こちらの衣装も奇天烈な物だった。上半身は主役の服と共通性が見られたが、下半身は大きく広がったフレアスカートにタイツである。嫌でも女優の脚線美が目に飛び込んでくるのだ。ただスカートには壊れた傘で作ったらしい骨が入っているので、中を覗くとなると舞台上で仰向けにでもならないと無理だ。
「帰ってくるさ、必ず」
高校の学園祭なんだから、古典なり現代劇なりを演じればいいものを、今年の演劇部が演目に選んだものは『クレオパトラに投げキスを』というSF劇であった。
客の入りはまあまあ良い方だった。開幕後、観客がスマホなどで演者の様子をネットなどで流したようで、段々と人の入りが多くなっていた。
「その間、待っていてくれるかい?」
少女を引き離した主役は、彼女の肩に両手を置いて訊いた。話題になっているのは彼の方ではなく彼女の方であった。少々頬骨が突き出して痩せすぎており、二重の瞼に澄んだ茶色い瞳。こう訊くと残念な容姿ではないかと思われるが、なかなかどうして生徒会(裏)投票で選ばれる『学園のマドンナ』程ではないかもしれないが、今日の午前に行われた『ミス清隆学園コンテスト』に出場してもおかしくない位の美人であった。ただ残念ながら神は完璧を彼女に与えなかったようで、左の頬に醜い青痣が、縮尺一万分の一の青森県地図での十和田湖ほどの大きさで、浮き上がっていた。
「何年、待てばいいの?」
ヒロインは俯いて顔を上げなかった。声は男声に近いアルトの響きで、淀みがなかった。
「二年? 三年? それとも百年? 時の彼方にいってしまうあなたを、どうやって待てばいいの?」
「どこからでも、必ず君のところへ戻ってくる」
全学年女子から人気ナンバーワンのバスケ部三年生の小林当麻程ではないとしても、学園内でイケメンを上げていけば十指に入るはずの演劇部部長片岡雄太であったが、どこから見てもこのヒロイン役の少女の方が演技力があった。この素面では笑い出しそうなクサイ台詞も難なく口にしていた。
「たとえ百万年前の原始時代からでも、最終戦争の後からだって、ぼくは君を目指して帰ってくるさ」
ヒロインは色っぽい瞳で主役を見つめ上げた。艶やかな視線というのはこういう物なのだろうか。
「あいあい愛しているよ」
その本物の潤んだ瞳に気おされたのか、悠馬は台詞を噛んでしまった。
「だから待っていておくれ」
「みつけたあ!」
せっかくの良いシーンなのに、それをぶち壊して学生ホールに由美子の大声が響いた。
「確保!」
由美子の命令で、彼女に動員された図書室常連の面々が、ホールの一端に設けられた舞台に殺到した。
「え? え? え?」
意味が分からず動揺する演劇部一同。そして話しが分からず棒立ちになった悠馬の横で、彼よりも高い身長を誤魔化すために屈んでいた赤毛の少女がすっくと背を伸ばした。
「ちょっと、なにを考えてるのよ」
ガタイの大きな連中に(混血の明実や、相撲取りのような十塚圭太郎など、図書室常連はみんな高身長だった)踏み込まれても、堂々と胸を張って、舞台上から彼女を睨み返すヒロイン。
「舞台が台無しじゃない」
「何を考えてるは、こっちのセリフだよ。サトミ」
動員した全員で赤毛の少女を包囲してから、真打登場とばかりに由美子は歩み出た。
この赤い髪をした美少女なヒロインが弘志の扮装だということは、他の人間では分からないかもしれないが、由美子には一目瞭然だった。
こういう時の弘志は、サトミと呼んで女の子のように扱わないと、非常に不機嫌になる。それを充分に知っている由美子は、サトミの耳たぶに手をのばした。
「なによ」
講堂のファッションショーの時とは別の女性に見えるサトミの耳を摘まむと、そのまま容赦なく引っ張り始めた。
「いたい、いたい、いたい! 姐さん! いたいよ!」
「話しがあンのよ。来なさい」
◆GMT 午前八時五〇分 高等部C棟二階司書室
「なんだ、なんだ?」
校内に今日の活動終了を告げる『蛍の光』が流れ始める中、私物をクラスにでなくココに置いていた正美は、突然ドヤドヤと複数の生徒が入って来て、驚きの声を上げた。
その中央に、見たことの無い少女の耳を摘まんだ由美子を発見して、正美は説明を求めることにした。
「な、なんかあったの?」
そんな正美を無視して、司書室の応接セットで疲れ果てている花子の前で、その赤毛の少女を解放した。
「まったく、痛いなあ」
その声を聞いて、花子と正美は目を見開くこととなった。
「え? まさかサトミなの?」
「そうよ? わからなかった?」
「化けたな~」
寄って来た正美は遠慮なしに言った。
「その顔は? 藤原さんに殴られた?」
「失礼ね!」
脊髄反射で声を上げる由美子を無視して、サトミは化粧ポーチを衣装のポケットから取り出した。
「ふふ。痛そうでしょ」
小さなコットンに化粧落としを含ませるとサッと頬を撫でた。すると、あれほど痩せて突き出ているように見えた頬骨と一緒に、唯一の汚点に見えた青痣すら消えて無くなった。
「こうしたメイクしておくと、こっちに視線を取られて、全体の印象すら変わって見えるものなの」
言いながら小さな手鏡だけで頬の化粧を手早く落としてしまった。髪は赤いままだが、そこにはいつも見慣れた横顔が現れた。
「すごい」
さかんに目をしばたたかせる花子は、先程までの疲れた様子をどこかへ吹き飛ばした。
「化け物だな」
「あれだ怪物くん」
「変装の名人と言えばルパン三世じゃないの?」
「最近では月下の奇術師じゃないん?」
由美子と一緒にサトミを連れてきた図書室常連組が感想を口々に浮かべた。
そんな中、それを賞賛ととらえたサトミは鼻高々で花子に訊いた。
「で? ハナちゃんは、何の用なのかな?」
「実はね、サトミにお願いがあるのよ」
「私に?」
不思議そうに聞き返した。その言葉のニュアンスに「弘志ではなくサトミの方に用があるの?」という意味が含まれていた。
花子は着物の裾を直して応接セットのソファに座り直すと、コホンと一つ咳をした。
「私、バンドをやろうと思っているの」
「ばんど?」
純和風で、どちらかというと由美子や恵美子の背中に隠れて微笑んでいるだけの印象しかない彼女から、まったく似合わない単語が出てきて、サトミは目を点にした。
「そうバンドよ!」
「というと帯状で物を留める時になんか使う?」
「ンのバンドじゃない」
サトミの腹に由美子の拳がめりこんだ。
「いったーい。女の子に腹パンなんて、子供が産めなくなったらどうするのよ」
「どの口が言う?」
今度はギリギリと頬をつねりあげてやった。
「かほはひゃめて~」(顔はやめてー)
その調子で二人でじゃれている間に、正美が眼鏡の高さを直しつつ訊いた。
「音楽グループとしてのバンド? このメンバーで?」
「一度だけでもいいから、やってみたいんだもの」
「全員で?」
正美が司書室を見回した。高いのやらでかいのやら個性たっぷりのメンバーが揃っていた。
「ううん」
正美の問いに花子は首を横に振った。
「私とおねえさんとコジロー。それにサトミを加えて四人で」
「男二人に女二人とは、良くないんじゃないか?」
腕を組んで胸を張った空楽に、由美子の鉄拳が炸裂した。
「だれも、だれがおとこなんていってないじゃないか」
平板な調子で床に崩れ落ちた空楽が言い返した。床に倒れた彼を確認してから由美子は不思議そうに訊ねた。
「そういえば、おまえはいつ現れたンだよ」
「ふ」
一動作で立ち上がると、無駄にかっこつけて空楽。
「事件の香りに引き寄せられて、ついさっき」
「バンドってたって、みんな楽器できるの?」
その空楽へ憐れむ視線を送ってから、正美はもっともな問いかけをした。
それに由美子が答えた。
「ハナちゃんは楽器習ってたンだって」
「楽器?」
当然の反応に、花子は指折り数え始めた。
「ピアノにギターそれとお琴と三味線。あ、大正琴もだ」
「他は?」
「おねえさんはアレ」
花子が指差す方向を見ると、由美子が背中を向けていた。蔵書整理用の大テーブルで何やら黒いケースを開いて中身を組み立てているようだ。
見ている間に組みあがったそれを肩から提げてこちらを振り向いた。
見事なアルトサックスだった。
「藤原さんサックス吹けるんだ」
由美子の意外な特技に、空楽と正美は感心した顔をした。
すぐに空楽が我に返った。
「これはアレじゃないか? 形だけ立派で実力が伴っていないという…」
その失礼な言葉にムッとした顔をして見せた由美子は、そっぽを向くとサックスに唇を当てた。
充分な音量で擦れもなく、しかも見事なストリングスをみせつける。曲目は懐かしの名曲『ブルームーンストーン』であった。
「おばさまがこの曲が好きで、おねえさんに小さい頃から習わせてたんだって」
「コジローは?」
正美の問いに花子はちょっと残念そうな顔をしてみせて
「コジローは全然ダメで、なんとかドラムをやってもらうことになっているんだけど」
「大丈夫であろう」
自分の事でもないのに、妙に自信ありそうに空楽が言い切った。
「剣術に関わらず、武術というのはリズム感が必要だ。都大会に出場するぐらいのコジローならば、初歩的な物ならこなすこともできよう」
「じゃあ私の楽器は?」
サトミの問いに、花子は明るい笑顔で言った。
「サトミはボーカル」
「ちなみにサトミができる楽器というのは?」
空楽が訪ねると、舞台衣装のままのサトミはまるでそれが当たり前のように、関数電卓を入れるような大きさのケースをどこからか取り出した。
「それは?」
「フルートよ」
テーブルの上で蓋を開くと、確かに三つに分解された銀色の筒状の物が入っていた。
サトミらしからぬ楽器に、空楽の声が硬くなった。
「吹けるのかよ」
もっともな質問にニヤリとしてみせた。
「まあプロフェッサーギル程度には」
「だーめ。サトミにはボーカルを頼むの」
花子が睨みつけた。その様子にサトミは首をすくめてみせた。
「じゃあ中間を採って、ボーカル&フルートということで」
「演奏しながら歌うとしたら、もはや人間業ではないぞ」
「で、バンドを組んでどうするの?」
正美がもっともな疑問を口にした。それを聞いて花子の表情が、陽が差したように明るくなった。
「二月の音楽祭に出ようと思うの」
「音楽祭に?」
空楽と正美の声が重なった。
聞き返しておいて空楽が正美に訊いた。
「音楽祭とは何ぞや?」
「なんだ知らなかったの? そうか空楽は僕らと違って『進学組』じゃないもんね」
正美は音楽祭の説明を始めた。
それによるとこうだ。毎年二月、高等部では卒業を迎えた三年生を追い出す…、いや送り出すために生徒会主催の音楽祭を行っていた。
始まった頃はクラスの合唱などが主演目だった音楽祭だったが、いつの頃か有志による演目の方が多くなり、今では演奏したグループの中で、どこが一番良かったのか投票で決めるお祭り色が強い物になっていた。
「ほら〇〇のボーカルとか、××のDJは、この学園出身だろ」
芸能界でそこそこ活躍している二人を上げられても、居眠り読書アルコールが趣味な空楽にピンと来なかったが、とりあえずうなずいた。
「あの二人も音楽祭を見に来ていたプロデューサにスカウトされたらしいよ」
正美の説明では、去年の音楽祭もスカウトが隠れて見に来ていたと噂されているようだ。
それほど最近のレベルは高い水準に達していた。
そのために清隆学園中等部から高等部へ進学する生徒の中で、音楽祭に参加する事を大きな楽しみにしている者は、結構な割合でいた。
花子も、そういった者の一人だったというわけだ。
もちろん清隆学園において大きなイベントに付き物の、生徒会による(裏)投票という名のトトカルチョも行われるはずだ。
「それで音楽祭に出場する前に、後夜祭のステージで名前を売っておけば、エントリーしやすいから」
花子は清隆祭終了後に行われる後夜祭のパンフレットを差し出した。
それによると複数の有志バンドが校庭裏のテニスコート脇にある駐車場へ特設される会場で歌うことになっているようだ。
パッと見て上級生のグループで埋められているようだったが、一年生だけのグループもチラチラ混じっていた。
その中の一つに蛍光ペンでラインが引いてあった。グループ名はまだ未定とされているが、どうやらそれが花子が確保した出番のようだ。
「でも…」
サトミはそれを覗き込んで眉を顰めた。
「私、後夜祭の時間には色々と忙しいのよ」
その表情を見て、正美があっと口に手を当てた。目の前で今見せているように、女装をすると本物の女の子に見える弘志であるが、他人から頼まれると絶対にやらないというヘソ曲がりであった。彼がサトミになるときは、それがイタズラとして面白いと自分が判断したときである。それを正美も、それと空楽だって知っていた。
強制しようとすると、最悪の場合、いつもの変な発明品を使って暴れ出す可能性だってあった。
そんな男二人の緊張を余所に、由美子はサトミの前に立った。
「おまえが忙しいのは、今日だけで思い知ったけどさあ」
由美子はサックスを抱えたままシミジミと言った。
「おまえ、ハナちゃんに貸しがあったろ」
「え? あったっけ?」
軽い調子で聞き返したサトミに、花子がとても静かに微笑んだ。そして囁くような音量で、ただし瀬上芙有のようなドスの効いた声で、一言だけポツリと言った。
「ミスコン」
「すいませんでした」
その場に土下座をしたサトミに、話しが分からない空楽と正美は戸惑った。
「じゃ、やってくれる?」
上機嫌になった花子に、疲れたような微笑みを返して、サトミははっきりとうなずいた。