十月の出来事・序章
登場人物紹介
藤原 由美子(ふじわら ゆみこ):清隆学園高等部一年生。その剛腕をもって図書委員会を切り回している。最近見た映画は「西部戦線異状なし」
郷見 弘志(さとみ ひろし):一見女顔の美少年。実態は突拍子な非常識という由美子の天敵。最近見た映画は「ヒトラー最期の一二日間」
不破 空楽(ふわ うつら):アルコールと読書と居眠りをこよなく愛する弘志のクラスメイト。最近見た映画は「乱」
権藤 正美(ごんどう まさよし):中学時代は真面目な生徒であったが、弘志と空楽に出会ってしまったのが運の尽き。最近見た映画は「シン・ゴジラ」
佐々木 恵美子(ささき えみこ):由美子のクラスメイト。『学園のマドンナ』に選ばれるほどの美貌を誇る。最近見た映画は「プライベート・ライアン」
岡 花子(おか はなこ):副委員長として由美子の片腕を務める和風美人。最近見た映画は「風と共に去りぬ」
「それでは今年の清隆祭での、図書委員会の出し物を決めたいと思う」
図書室に置いた移動式ホワイトボードの前で、先週行われた二学期最初の委員会会議にて、満場一致で今年度後期委員長に就任した藤原由美子が、セミロングの黒髪を揺らして振り返った。
ホワイトボードには『議題:清隆祭』と書きつけられていた。
由美子は半分だけ振り返り、自らの手で書いた字を確認すると、満足そうにボードペンのキャップを閉めた。
図書室だというのに大きな声を出したが、本日は委員会会議のために休室日であったため、なんら問題はなかった。今日は一般利用者を締め出し、いつもは雑誌コーナとして利用されている一角に、全クラスの図書委員たちが座っている、はずだった。
がら~ん&ポツン
ちょうど真ん中の席に、女子生徒が一人だけ着席していた。
由美子より青い黒髪を頬の高さで切りそろえ、その色とは対照的な血の色が透けそうな白い肌をした、まるで日本人形のように美しい女子生徒であった。
彼女の名前は岡花子といい、一学期より副委員長職についていた。由美子が頼りにしている人物で、彼女の右腕と言って過言ではないだろう。
それ以外の並べられた椅子には子猫一匹座っていなかった。
「で? この出席状況は何よ」
「みんなクラスや部活の方で、手一杯なんじゃない?」
いちおう各クラスの委員から出された委任状を、役目上管理している花子が冷静に答えた。
委任状がなければ、学園創立以来の『武闘派』委員長として学内に有名な由美子が仕切る会議を欠席するなど、恐ろしくてできないであろう。
「マカゴは?」
据わった目つきになって由美子は訊いた。
「わかってるでしょ」
諦めた顔で花子。マカゴというのは由美子と同じ一年の真鹿児孝之のことである。各クラスから男女一名ずつ選出される図書委員で、由美子と同じ一組から選出された男子である。
立候補した由美子と違い、なかなか決まらなかった男子の分はクジ引きで決められた。よって孝之のやる気は非常に低く、持ち回りでやらなければいけない図書室の受付カウンタの当番すらサボりがちである。
彼が本気になるのは宇宙や天文に関することだけである。きっと昼間の現在も、望遠鏡を空に向けて何らかの天体観測を試みていると思われた。
「だろうね」
伏し目がちに頷いて、とりあえず納得する由美子。彼女だって彼の性癖は理解しているのだ。
「けど、昨日の生徒会で、各委員会も学園祭に必ず参加するようにって、取り決めがされちゃったのよ」
清隆学園高等部では月一で生徒会委員長定例会議が、週一で各委員会定例会議が行われることになっていた。もちろん今回のように学園祭などが迫って必要性が出てくると臨時会議も開催されることになる。由美子は頼りにならない三年生を置いておいて、一学期の頃から図書委員会委員長代理として定例会議に顔を出していた。
「他の委員会の出し物ってナニ?」
花子は当然の疑問を口にした。
「生徒会は『戦後の自由民権運動のあり方に対する疑問』っていう展示だって」
由美子は懐から生徒手帳を取り出して、会議の内容を走り書きしたらしい箇所を読み上げた。
「なんか新聞の切り抜きだけで済みそうな展示ね」
あくまでも冷静な花子。
「でしょうね。保健委員会は運動会系の部活と組んで体力測定」
「まあ保健室の器材が使えるなら無難よね」
「他の監査だの放送だの、文化委員会以外はだいたい展示で済ませるみたい」
学園祭を円滑に運営するだけが仕事の文化委員会が、学園祭参加を免除されるのは当然と言えた。
「ちなみに監査委員会って何の展示をするの?」
「『ゲシュタポ、特高警察からカーゲーベまで。秘密警察のすべて』」
花子の問いに意外な場所から答えが返ってきた。
今日はお休みのはずの図書室に図書委員以外はいないはずだが。しかしなぜだか十人弱の一般生徒が、会議が行われている雑誌コーナ脇の受付カウンタでたむろっていた。
その中から、一番身長が高くかつ胴囲も相撲取り並みという、体積と表面積の大きい男子が発言したのだ。
彼は十塚圭太郎。図書室常連であることを自他ともに認める一年生である。
「そっか、ツカチンは監査委員だったもんね」
その手前で、茶色がちな長めの髪をした生徒が声を上げた。その高い声や、つつきたくなるほど柔らかそうな頬など、特徴の全てがまるで女の子のようだが、着用しているのは男子用制服だ。
彼も図書室常連の一人である。しかも由美子にとって天敵のような存在だ。名前を郷見弘志といった。
外見は清純な少女のようだが騙されてはいけない。中身は科学実験と下ネタが大好きというとんでもない性格が隠れているのだ。
由美子はその野次馬の一団にキッと振り返った。
「今日は委員会だから閉室だって言ってンだろ」
「そんな固いことを言わないでよ、王子」
委員会の二人を除いて唯一の女子が、集団の中からウインクを飛ばした。
今日は長い黒髪を後ろで丁寧に一本の三つ編みにして、それを右肩から前に流している彼女は、あくまでも明るかった。
整った目鼻立ちに卵型をした顎のライン。どこから見ても美しい彼女は、高等部の全男子が憧れる『学園のマドンナ』佐々木恵美子である。
ちなみに『王子』とは女子の間で使われている由美子の愛称だ。だが周辺に有象無象の常連どもを従えるように、その中央の席で優雅に足を組んでいる様は、彼女の方がどこかの王侯貴族に見せた。
「じゃあせめて会議の邪魔をするな」
「邪魔なんてしてませんよ。ハナちゃんの疑問に答えただけですよ」
柔和な笑みを浮かべる圭太郎。ちょっと腰が引けて見えるのは、やはり由美子が『武闘派委員長』だからであろうか。
「じゃあ、どこも展示なんだ。だったら図書委員会も展示でいいんじゃない」
脇の銀縁眼鏡をかけて真面目そうな男子が発言した。ちょっと草食動物のように視線がオドオドしているのは、これまたやはり由美子の存在のせいだろうか?
他の男子がどことなく着崩している制服を、一分の隙もなく真面目に着用していた。毎夜寝押しでもしているのか、ズボンの折り目までピシリとしているのだ。
彼は権藤正美。もちろん常連組の一人だ。
「それじゃあ、つまらないじゃない」
弘志が流し目を彼にやった。
「つまらない?」
その言葉に由美子が眉を顰めた。そのまま一分間も表情を変えぬまま彼の顔を見つめ、何事かを考えていた。
もしかしたら天性の騒動屋である弘志の態度に呆れていたのかもしれない。
「王子。好きだからって、あんまり郷見くんと見つめあってると、周りの方が照れちゃうわ」
「誰がだ!」
悲鳴のような声を上げて恵美子に振り返る。由美子はボードペンを持ったまま彼女に詰め寄った。
「言っておくけど、郷見とあたしは…」
「んもう。照れちゃって」
微笑んで彼女の肩を気安くポンと叩き返した。
弘志の方もハダシで歩いていてタンスの角に足の小指だけをぶつけたような、とても渋い表情をしていた。
由美子にとって迷惑なことなのだが、恵美子は二人が恋仲になるべきだという幻想を抱いていて、事あるごとにこうして公言していた。当人たちがこうして嫌がっていてもお構いなしだ。
ちなみに『コジロー』というのは、恵美子が剣道部で都大会に顔を出すほどのエースで、その剣の腕前と苗字から、あの巌流島の戦いで有名な剣豪に由来してつけられた彼女の愛称だ。
「ビシッ」
口で効果音を出しながら、由美子は彼女にデコピンを炸裂させた。
「で? なにがつまらないだって?」
「だって…」
カウンター当番用の椅子に腰掛けたままの弘志は、先程までの表情を消して微笑んで見せた。由美子が両腰に軽く握った拳をあてて仁王立ちしているため、自然と見上げる形となった。
他の常連組男子が、無意識だろうがなんとなく彼女から身をそらせている中で、一人平然としていた。
「このまま何かの展示に決定しても、おそらく姐さんとハナちゃんだけで、模造紙に向かってサインペンと格闘する事になるだけだよ」
「それもそうね」
彼女の即答にニヤリとする弘志。その表情で由美子の顔がまた険しくなった。
「また何かたくらんでやがンな。正直に話さないと殴るよ」
「な、なぐってからいわないでほしい…」
手加減なしに由美子の左拳がめりこんだ自分の鳩尾を押さえて、弘志は力無く座っていた椅子から床へ滑り落ちていった。
「でも、弘志の言う通りじゃない?」
横の正美に指摘され、ちょっと寄り目になって考えた由美子は、ホワイトボードの方へ振り返った。
「まあ、それもそうね。じゃあ、どうすればいっか?」
唯一の会議参加者に訊いた。
「さあ」
彼女が小首を傾げた。白い肌に黒髪が重なり、そのコントラストがきれいだった。
花子の髪は頬の高さで切りそろえられているために、毛先が四六時中触れているはずである。ニキビなどのお肌のトラブルになりやすいお年頃であるが、花子に限ってはそうではないらしい。微塵もそのような気配はなかった。
その白い肌を見て、どうやってその肌を維持しているのか本気で訊きたくなった。
「それは毎日の丁寧な洗顔じゃないの」
いつの間にか横に立っていた弘志の声に、彼女は首をすくめた。
「あ、あたしだって毎朝かかさずちゃんとしてるもン」
「本当ぉ? 姐さんはガサツだから、猫みたいにバシャッとやって終わりにしているんじゃないの? こう円を描くようにゆっくりとマッサージしつつ、力を入れないようにして…」
実際に自分の顔でシミュレーションをやってみせる弘志。
「こう?」
彼の手先を真似てから気が付いた。
「なんでオマエに洗顔を教わンなきゃいけないンだよ!」
「だって見るからに姐さんが、オデコの吹き出物がやだな~って顔をしてるから。それに女の子が洗顔を朝だけなんていけません」
「いや、そうじゃなく。なンでオマエがそンなこと知っているかと」
「あら?」
まるで女の子のような表情になって言い返してきた。
「こんなことは『常識』よね~」
突然口調まで女言葉に変えて他の女子に同意を求め始めるしまつ。
「まあ女の子ならね」
慣れた調子で恵美子がこたえた。
学外でみんなと遊びに行こうとすると、しばしば女物の服で現れる弘志に、いいかげん慣れたようだ。
「ああ!」
突然背の高い男子が声を上げると立ち上がった。
何事かと全員の視線が集まる。彼は左右田優、いつもはマイペースを守っている少年だ。
どのくらいマイペースかというと、紺色のブレザーが制服である清隆学園高等部において、彼は黒い学ランを着用していることでも理解していただけると思う。実は学ラン着用は校則違反ではない。清隆学園高等部では、創立時は男子学ラン女子セーラ服という当時当たり前の制服だったのだ。それが時代とともに環境が変化していった。バブル時代に制服を変えることが決まり、今の紺色ブレザーと制服は変更されることになった。しかし古い卒業生たちから昔の制服を廃止することに反対意見が多数寄せられた。愛校精神深い彼ら卒業生たちの集まり、清隆学園同窓会は今も清隆学園がより良くなるようにと、多額の寄付金を収めていたので、この声を無視することは難しかった。よって解決策として第二種制服として旧来の制服着用も制度として認められることになったのだ。ただ入学式や終業式などの学園の式典では正装として紺色ブレザーを着用が義務づけられており、普段第二種制服を着用の者も紺色ブレザーの方の制服を身につけなければならなかった。
よって学内で学ランを着ている者は、最低でももう一揃え制服を用意しなければならず、よっぽどの酔狂な者ということになった。
優は学ランの第三ボタンまで留めずに開襟していた。そのせいで下に着た黒いワイシャツが丸見えであり、そこに白いネクタイを締めているのが見て取れた。
ネクタイにはインテロゲーションマークを逆さにしたようなマークが黄色で染められていた。
全員の注目が集まったと見るや、優はニヤリと口元を歪めた。
「では小話を一つ。『我が神は偉大なんだぞ。古代都市カルコサも、セラエノも、倍悪兵も持っているんだ。でも無いものが一つあるんだ』『名付け親でしょ』『もはやオチにもならないね』」
一同があっけにとられている中で優は両手で大きな輪を作ってみせた。
「ぎゃふん」
なんとコメントもしようがない雰囲気の中、それで気が済んだのか優は着席し読みかけの科学雑誌へ戻った。
彼に高等部の生徒たちがつけた呼び名は『ブラック・プリースト』であった。いつもは瞑想しているような落ち着いた様子だが、時々こうして突拍子のない行動をとるのだ。
「いい加減にしろよオマエなあ」
由美子は優を睨みつけた。優はちょっと視線を上げると、まるで熱病に罹った人間のような表情でニタリとまた嗤った。
「それより学園祭はいいの?」
正美の指摘に由美子は我を取り戻した」
「そうだな、どーしよっか」
由美子は花子と困った顔を見合わせた。すると弘志が由美子の手からボードペンを優しく取り上げた。
「?」
そしてあたりに微笑みをまき散らしてから、ホワイトボードに向いた。
にら
その場にいた全員が脱力する。
キッと由美子に睨まれて、慌てて弘志はそれを手で消すと、ホワイトボード全面を使うような文字でこう書いた。
演劇:出演・高等部図書委員会
「ほほう。それで『王子』があたしで『シンデレラ』はコジローとかいう話しを考えてンじゃないだろうな」
由美子は弘志を睨みつけたままだ。
「シンデレラをやるならば、藤原さんは意地悪な継母役であろう」
それまで正美の横で居眠りをしていた男子が発言した。それは、まわりのみんながビックリしたぐらい突然だった。
彼は居眠りと読書、そしてなによりアルコールを愛する一年生で、名前を不破空楽という。彼も図書室常連の内の一人であった。
上背があり肩幅も体格もガッシリしていて顔全体もそれなりのものだ。特に(眠たげな表情をしていない時は)キリリとした目元に魅力があった。
いつもは無口な少年だが、口を開けば一言多いとまわりから陰で言われている。おかげで女子からは『黙っていればいい男』だの『ファラオ』(その眠りを妨げる者には災いがある)だの、あまりいい評判は聞かれなかった。
由美子の天敵そのものである弘志と、なぜか真面目そうな正美と、同じクラスで意気投合したのか『正義の三戦士』として、いつも行動を共にしていた。
「だれがイジワルバアサンだ」
由美子はホワイトボードに磁石式のキャップで張り付いていた赤いボードペンを取ると、村田兆治のような豪快なフォームで遠慮なしに彼へそれを投げつけた。
「む」
空楽は尻の方から飛んできたソレを空中で自分の左手の人差し指と中指で挟み止めた。
しかし無情にも、その指の間にはキャップだけが残り、ペン本体は勢いを殺さずに、そのまま彼の眉間に食い込んでいた。
「を」
空楽は血しぶき(いや赤インク)をあげて椅子に倒れこんだ。
「乱暴だなあ」
飛沫を手で防いで正美が眉を寄せた声をあげた。
「たった二人で劇なんて、できやしないわよ」
由美子は正美の言葉をまったく無視して弘志を睨んだ。
たしかに由美子の言うとおりであった。
「じゃあ…」
ニマニマと笑った弘志がホワイトボードの字を消し、再び一面を使ってデカデカと新たな文章を書いた。
映画上映会:配給・高等部図書委員会
これならどうだとばかりに書き終えた弘志は自慢げに由美子に振り返った。
だが由美子の顔は微妙に暗いものだった。
「映画上映会って、なにすンだよ」
「え?」
瞳がちな目をパチクリさせて弘志が意表を突かれた顔になった。
「簡単に言えば無料の映画館ってことかな」
「映画館って…」
由美子は図書室内を見回した。
場所はここにするとしても、会場設置やフィルム管理など、手間暇がかかることに変わりがないことが、そういったことに素人の由美子にも想像がついた。
「やっぱり二人じゃ無理だろ」
「わかった。だったら映画をするならば、常連のみんなも手伝うというのはどうだろう」
弘志の提案にカウンターまわりから賛否両論の色々な声があがった。
「めんどくさい」
「おもしろそう」
「科学部は全面的に協力しよう」
「佐々木さんはどうなのさ?」
騒ぎの中で圭太郎が訊いた。恵美子はちょっと首を傾げてからこたえた。
「いちおう清隆祭当日は、クラスの方が模擬店で、当番の時だけ店番する予定。剣道部はさっきの保健委員会の体力測定に協力するんだけど、これも当番制だから、手伝えないことはないわよ」
「じゃあ俺、上映会に賛成」
「そのココロは?」
由美子は圭太郎に訊いた。
「だって『図書室の三女神』が手伝うんだったら、それが例えモギリだとしても、客入りが良さそうじゃないか」
「なるほど。十塚はんも考えますなあ」
やわらかい方言で常連組から賛成の声があがった。彼は松田有紀といってSFが好きな少年であった。
私立である清隆学園高等部には、彼のような『留学生』と呼ばれる他の道府県から入学してきた生徒もいた。
手先が器用で図書委員会の会報を編集中に紙面が開いてしまった時など、ちょちょいと挿絵を描いてくれたりするので、会報の責任者でもある由美子にとしては重宝している常連であった。
「その『図書室の三女神』って何よ?」
「あれ? 高等部の中で最近流行ってんだよ。図書室には三人の女神がいるって言うこと」
由美子の質問に圭太郎が答えた。
「三女神? ギリシア神話か?」
読書家の空楽が訊いた。
「さあ、それにひっかけているのかどうか」
「三女神というなら、美の女神アフロディーテはコジローかな?」
空楽は『学園のマドンナ』である恵美子を眩しそうに見た。
「いや、コジローはどちらかというと、武の女神アテネじゃない?」
弘志が訂正した。たしかに剣道部のエースでもある彼女にはそちらの肩書の方が似合うと言えよう。
「だからアフロディーテはハナちゃんで」
その横でつまらなそうに由美子は半目になって訊いた。
「じゃあ、あたしは?」
「藤原さんは…」
ギリシャ神話でいう三女神残りの一柱は、大神ゼウスの妻ヘラとされている。が、嫉妬深いことで有名な女神であった。そのためにいくつもの神々や英雄が辛酸を嘗めるという話しがギリシャ神話には多い。
言いかけて空楽は硬直してしまった。すでに由美子は彼を張り倒そうとポキポキと指を鳴らし始めていた。
「姐さんはレトでしょ」
それを弘志が口を挟んで助けた。
「レト?」
聞きなれない名前に、ほとんどの者が目を点にした。そんな中で空楽は腕組みをし直すと、感心したように言った。
「そうかレトか。なるほどなるほど」
「レトなんて女神、ギリシャ神話に出てきたっけ?」
花子に訊かれて弘志はもったいぶらずに答えた。
「太陽神アポロンと月の女神アルテミスのお母さん」
「そのこころは?」
ちょっと考えて。
「安産型ということかな」
ちなみに神話の中では、その難産が有名である。
「安産型って、いつオマエはあたしのナイスバデーを見たンだよ」
由美子が心持ち赤くなって訊いた。
「見たじゃない。一緒に海に行ったから水着姿だってさ。それにお祭りで浴衣も見せてくれたじゃない」
やんわりと弘志が微笑んだ。
「姐さん綺麗だったよ」
「ば、ばかいってンじゃないわよ」
動揺を押し殺そうとして失敗しながら、彼女は完全に赤面した。
そんな彼女に空楽は遠慮無しに言った。
「そうだな、藤原さんは和服の似合う体型なのかも」
和服が似合う体型 → 寸胴。
由美子は二つあったボードイレイサの一つを彼に命中させた。
「で? 上映会をやるとして、本当に手伝ってくれるの?」
疑わしげに由美子は常連組を見ながら、話しを本題に戻した。
「あ、オレが信じられないんだ!」
「オマエが一番、信用できないンだろーが」
両方の眉を額に上げる弘志を一刀両断にした。
「でも、なんで藤原さんは上映会反対なの?」
正美が至極もっともな質問をした。
「オマエらで流す映画を決めたら、思いっきり趣味に走るだろ」
厳しい目線に顔を見合わせる一同。
「そうかなあ」
「ちなみに権藤、オマエならナニ選ぶんだ?」
腕組みした由美子に(心情的に)見おろされながらも正美は答えた。
「ええと『AKIRA』が『GHOST IN THE SHELL』かな」
「ほら、やっぱり偏ってる」
「そうかなあ」
後ろ頭を掻く正美に、残念そうに空楽が首を横に振った。
「映画ならば『Blade Runner』もしくは『Black Rain』であろう」
「オマエは黙ってろ」
しかし由美子の一言で、かえって室内にいたギャラリたちが口々に好き勝手なことを言い出してしまった。
「やっぱり『STAR WARS』シリーズだよ。特に板チョコになったハン・ソロは外せない」
「おぬしら洋物ばっかり。『ナウシカ』とか『天空の城ラピュタ』はどうした」
「『サスペリア』に『IT』『十三日の金曜日』」
「『リヨン伝説フレア』とか『ドリームハンター麗華』は?」
「病気持ちめ。そんなものが流せるわけないだろ」
「やっぱり映画って本当にいいものですね」
「『シベ超』っすか?」
「『燃えよドラゴン』を見ずに映画を語るな」
「平成ガメラシリーズがあるぞ」
「私だったら『オズの魔法使い』か『不思議な国のアリス』かなあ」
「『True Lies』のハリヤーがな…」
「それなら『Terminator』がおま」
「いっそ自主製作は?」
「ヒロイン恵美子はもういるから、芹沢はオタクな」
「誰がマッドサイエンチストだ」
「うるさーい!!」
由美子がバーンと拳でホワイトボードを叩いて全員を黙らせた。
ギロリと穏やかでない目つきで右から左へ視線を移動させただけで、ほとんどの常連組が首をすくめた。
たった一回の睥睨により静けさを取り戻した図書室で、由美子はホワイトボードに向き直った。
「じゃあ…」
由美子は、弘志がそこに書いた『上映会』という文字以外を手元に残ったボードイレイサで消して、同じくらいの大きさで『展示』と書いた。
「多数決で決めます。まずは展示のひとー」
自分で言って自分で手を挙げる。展示に一票。
「じゃあ次に、上映会のひとー」
由美子以外の全員が手を挙げた。
「ということで、今年の図書委員会は清隆祭で展示を行うことに決まりました。えー、内容ですが…」
由美子の断言に正美が慌てた声を出した。
「ちょっと待ってよ藤原さん。みんなの挙手が目に入らなかったの?」
「だってオマエら図書委員じゃないから投票権ないし」
「ああっ! たしかに!」
頭を抱える常連組の中から圭太郎が冷静に言った。
「委員長。ここに投票権がある人がいます」
わざわざ立ち上がり花子の両肩に手をかけて強調した。
「あら? ハナちゃんは映画なンだ」
「だってクラスはクイズ大会の受付当番だし、クラブはそれこそ展示だけなんだもの」
花子は華道部に所属していた。いちおう華道教室や、生け花の実演などを先輩方が考えていたようだが、それもいつの間にか冷めてしまって、学園祭前日に活けた花を展示するという無難な路線で行くことになっていた。
「もうちょっと何かやってみたいから」
「じゃあハナちゃんは映画派か。得票数が同じになっちゃったわね」
「ここはやはり勝負で決めよう」
真っ赤に(インクで)染まった空楽が提案した。
「しょうぶ?」
校則に決闘条項がある清隆学園高等部である。生徒間で何か揉め事が起こるたびに、生徒会主催で『決闘』と呼ばれるスポーツ勝負で解決をはかるのが学園の伝統であった。その際、非公然にトトカルチョが行われるのも伝統であった。
一学期に行われた『ある勝負』のせいで、決闘条項に良い印象がない由美子は眉を顰めた。
「藤原さんは展示がやりたい。そして映画を提案したのは弘志。二人で何かしらの勝負を行い、勝った方の意見を採用ということにすればいい」
監査委員会の本来の任務は、生徒会や各部活の収支決算を監視することである。だがいつからか生徒会主催の非公然トトカルチョならびに、同じく非公然活動である(裏)投票の監視することが主な仕事となっていた。
今度の展示内容ではないが、秘密警察的な暗躍が噂される監査委員会。しかしてその実態は、圭太郎の発言で分かるように、お祭り騒ぎが好きな連中の集まりであった。
一見のんびりとした清隆学園だが、教職員会議と生徒会、そして監査委員会の三団体が権力を掌握して、お互いを監視しあって微妙なバランスを取っており、三権分立の下に学園は厳密な学生自治にて運営されていることになっていたが、実態はそんなものだ。
「ほお」
由美子は気のない返事をした。
「勝負ったってどうするのさ」
正美が心配そうに訊いた。
「力の勝負じゃ勝ち負けがわかりきっているじゃないか」
「そうだな。まず間違いなく藤原さんの勝ちだ」
空楽が言ったとたんに、黒いボードペンまで彼に命中した。
「ここは、前回も佐々木さんが勝負方法を決めたんだから、彼女に決めてもらおうよ」
圭太郎の意見に全員の視線が彼女へ集まった。
「ニヤリ」
恵美子は口でそう言いつつ本当にニヤリと笑った。口元から彼女のトレードマークの八重歯が覗いた。
「ほんとーに、私が決めていい?」
「姐さんは?」
すでに覚悟を決めている様子の弘志。由美子は彼を睨み返した。
「しかたないわね、そうするわ」
「じゃあ…」恵美子は自分の鞄の中を探った。「…ここにポッ▽ーがあります」
とてつもなく嫌な予感がした。
「まさか…」
正美が訊いた。
「〇ッキーゲームとか」
「ピンポーン。そうですポッ▽ーゲームで勝負して下さい。二人で両端から食べていって、より多くを食べたほうが勝ちとします」
「ちょっと待てやコラ」
一瞬だが脳内が真っ白になっていた由美子は慌てた声をあげた。
「王子、言葉遣い悪いよ」
「あ、ゴメ…。そうじゃなくて、なンでよりによって」
「だって、私が楽しめるから」
悪びれずに小さく舌を出した。その口元にはかわいい八重歯が覗いたままだ。
二人をくっつけたがっている恵美子にとって、それは間違いなく最高の娯楽であろう。
「ある意味、究極のチキンレースだな」
赤と黒のインクだらけとなった空楽が、うんうんと自分で自分の言葉に納得してうなずいていたりした。
「空楽、他人事だと思って~」
弘志が迫るのを受け流すように、彼は恵美子の方を向いた。
「審判長、質問があるのだが」
「なにかね」
審判長と呼ばれ、微妙に偉そうな声で恵美子が訊き返した。
「途中で折れた場合は?」
「それは、咥えていたポッ▽ーの長い方が勝ちです」
「同じ長さだった場合は?」
「勝負をやりなおします。棄権した場合は、もちろんそちらの敗北とします」
「がんばれ~」
「それとも、始める前から棄権する?」
「そ、それは…」
「ふーん、逃げるんだ」
天敵である弘志の勝ち誇ったような生意気な言葉に、由美子はカチンときた。
こうなったらやるしかない。
「まず厳密に長さを計測しておかなければ」
唯一制服の上から白衣を着た男子生徒が、その白衣のポケットからメジャを取り出した。
彼は御門明実。一年生にして科学部総帥という地位を自分で創設した人物である。彼はこの齢にして数々の発明パテントを持っている天才であり、学園内では「明日のノーベル賞受賞者のその候補」と考えられていた。
普段は化学部、地学部、天文部、生物部などを統べる上部組織である科学部で各種実験を行っているが、よく参考書籍を訊ねるために図書室常連に名を連ねていた。
「うむ。一三センチだな」
明実が計測を終えたオカシの端と端とで二人は向き合うことになった。
身長差から自然と由美子が彼を見上げる形となる。
「弘志。みんなのためだ、絶対に勝つのだぞ」
「がんばれがんばれ、ひ・ろ・し!」
「私は最後までいっちゃうのが希望」
「そしたら、どっちの勝ちよ?」
「やっぱり、あの藤原さんのドアップに耐えたということで、弘志か?」
「女の子の唇を奪って、さらに勝ちなんて。ちょっとズルい気がする」
「最初に言ったでしょ。その場合でも、より多くのポッ▽ーを食べた人の勝ちよ」
「期待しているから」
「そんな殺生な。弘志はん、棄権しはってもえーよ」
「真ん中がわかるように、ここのチョコだけ削っておくね」
やんややんやの歓声の中、二人の勝負は始まった。
まず、同時に〇ッキーを向き合って咥える。
お互いが相手の顔色を窺っていた。
由美子は負けるのが嫌いだし、弘志は騒動屋の血が騒ぐのか楽しそうであった。
ポリポリ。
それぞれが一センチ齧った。
残り一一センチ。
ポリポリ。
お気楽にまわりが声をかけていた。
「フレーフレー」
「そろそろ折れるんじゃないかな」
「まだ早いよ」
「だから、最後までいけるって」
「がんばれー」
「ねえさんも多難ね」
「…土は土に還りたまえ」
「それって葬式の時のお祈りじゃないの?」
ポリポリ。
「あ、俺は藤原さんが勝つ方に千円」
「ほな、自分は弘志はんに」
勝負事には賭け事。この学園では常識であった。次々に男子たちは無責任な声で双方へベットした。
「真剣勝負にそれは…」
眉を顰める恵美子に、赤黒インクまみれの空楽が腕を組んで悟ったような声を出した。
「真剣勝負だからこそ賭けになると思うが」
ポリポリ。
さらに一センチずつ。
残り九センチ。
ポリポリ。
視界に大きくなった相手の顔に戸惑いつつも、二人は前進を止めなかった。
実を言うとみんなには内緒だが、一学期の事件において二人はお互いの鼻先が触れ合うほど急接近したことがあった。経験があるからこそ、まだこの程度の距離ではギブアップできない。
「王子。棄権していいからね」
自分が言い出した勝負なのに、恵美子が心配そうな声を上げた。
横から正美が無責任に口を挟んだ。
「大丈夫だって、もう折れるから」
ポリポリ。
二人は前進をさらに続けて一センチずつ齧った。
残りは七センチ。
ポリポリ。
もうそろそろ相手の息が肌に感じられる距離であった。
ふと由美子は弘志の香りに気が付いた。
茶色がちな長めの髪からは、女の子のようにシャンプーの香りが、やわらかく適度に脂肪に包まれて張りのある肌からは、淡いオーデコロンの香りがした。
(私の匂いは、いまどんなだろう)
しばし彼女はこの異常事態を忘れた。
「をいをい」
「二人とも、ごーじょーなんだから」
ポリポリ。
見ているみんなが一人黙り、二人黙り、だんだんと図書室が静かになってきた。
そんな中で二人の前進は止まらず、さらに一センチずつ進んだ。
残り五センチ。
ポリポリ。
もう鼻先が触れそうだ。
「お、おうじ」
「ふじわらさん」
「ひろし」
「危険ゾーンい突入」
ポリポリ。
沈黙の中でたまに周りから声がかけられるが、まるで齧歯類が物を齧るような音が、室内にあいかわらず続いていた。
残り三センチ。
ポリポリ。
鼻同士がぶつからないように、お互いが右へ首を傾けた。
(いいかげん降参しろよコンチクショー)
勝負事に勝たなきゃ気が済まない由美子は、心の中でそう大声を上げていた。
だが〇ッキーは折れず、弘志も棄権する様子はなかった。
ポリポリ。
残り一センチ。
ぽりぽり。
もう相手の息が自分の頬に当たるほどだ。
(本気なのかよ)
由美子は問うように弘志の目を見つめた。その目は少し艶っぽく潤んでおり、その中に自分の切れ長の瞳が映っているのが見えた。
二人の動きが止まった。
固まってしまった二人。
見ている全員ですら息を詰まらせた。
校庭から体育会系の部活をやっているのか、声を合わせてランニングしている様子が、静寂に包まれた室内に響いてきた。
「わかったわ。ノーゲーム! ノーゲームにしましょう!」
恵美子が悲鳴のような大声を上げ、椅子を蹴って立ち上がった。
まるでそれが合図だったかのように、弘志はニヤリと目尻を下げた。
(ちょっと、待っ…)
彼は彼女の背中に手をまわして抱きしめると、残り一センチだった距離をいっきにゼロにした。
ちょっと触れ合ってしまったなんてものじゃない。まるで恋人たちのように、熱く唇を重ねた。
由美子の切れ長の目が大きく見開かれ、反対に弘志の瞼が閉じられた。
彼女は茫然と自分に起きた事態を、まるで他人事のように知覚していた。
バラ色の視界がぼやけ、そして血の気が落ちて意識が遠のいた。
図書室から十人ぐらいで同時にあげた悲鳴のようなものが轟いた。
「オレの勝ちね」
弘志は由美子を左手で抱いたまま、右手で口の中から〇ッキーの欠片を取り出した。それには真ん中につけた印がついていた。
それを見て真っ青な顔になった恵美子が、機械的に何度もうなずいた。
「どうしたの? みんな?」
一様に顔色を変えて黙り込んだみんなに、弘志は不思議そうに訊いた。
「弘志はんには、さかわらんとしとこ」
有紀の独り言のようなセリフに、なんとなく脱力したままうなずきあう一同。
「ん? 姐さん? 大丈夫?」
顔色が戻らない由美子はブツブツと何かをつぶやいていた。
「?」
全員が耳をすませると、こんなことをつぶやいていた。
「…あたしのファーストキスが、あたしのファーストキスが…」
「安心して姐さん」
腕の中の彼女に微笑んで弘志。
「わたしも初めてだったの」
こんな時だけは女言葉を使う確信犯。彼の言葉で彼女の瞳に強い光が戻った。
図書室から巨大な悲鳴が轟いた。今度は一人分だったようだ。