男
ウウー!
サイレト同時にラインも止まる。終業だ。不景気のせいか残業はほとんどない。
一般人は直ぐにロッカーに向かうが、俺には作業後の部品拾いと清掃がある。
遺族代表の脅しに近い要求により、この時間の労働に対してだけは残業手当が支払われるようになった。時間給換算の一割という微々たる支給額ではあるが。
「お、今日もお残業ですか。キョッケイさんは働き者ですね」
「残業手当を貰っているのはキョッケイさんだけですからね。私も極刑囚になりたいですわん」
からかいの言葉だが半分は本音だ。三十分程度の残業時間でも、彼らにとっては羨ましいのだろう。仕事の後は口も軽い。彼らは笑いながらロッカーに歩いて行く。返事はしない。俺は俺の仕事をするだけだ。
作業後の清掃を終えて工場を出た。
静まり返った工場とは逆に、事務所はまだ灯りが点いている。中で働く社員にも残業はない。皆、退社のタイムカードを押して働いているのだ。
残業代を支給される会社で唯一の存在、その役目を極刑囚の俺に担わせるとは、なんて皮肉で歪んだ社会なのだろう。
全ての窓から明かりが漏れる事務所に憐みを感じながら、俺は労働場を後にした。
帰宅途中から雨が降ってきた。傘は無い。極刑囚に傘は無意味だ。差して歩いていても必ず奪い取られるか、壊されるだけなのだから。
「丁度いい」
雨に濡れて歩いて行けば、油に汚れた囚人服を墓場の水道で洗う手間が省ける。俺はそのまま歩き続けた。
酷い降りではないが傷だらけの体には堪える。風邪をひくかも知れない、そんな予感を抱かせる冷たい雨だ。
「むっ」
俺は立ち止まった。まただ。最近感じる視線。やはり誰かが俺を見ている。
俺は線の上に立ったまま周りを見回した。それらしい人物はいない。再び歩き始める。
やはり気のせいなのか。あるいは俺の精神は、居もしない人影に怯えるほど、変調をきたし始めているのだろうか。
「おや?」
不意に雨が止んだ。俺は見上げた。頭の上に傘がある。
「初めまして」
背後から声が掛かった。俺は無視して歩き続けた。
物好きな一般人が気紛れに俺に傘を差し出したのだろう。把握出来ない存在は気になるが、把握出来る存在に興味はない。
「あなた、……ですよね」
俺は立ち止まった。それは俺の名前だった。極刑囚になって一般人に俺の名前を呼ばれるのは初めてだった。
「失礼とは思いながらも、ずっと見ておりました」
では、これまで俺が感じていた気配の正体はこの男か。
俺は振り返って声の主を見た。人の良さそうな中年男が左手に鞄、右手に傘を持って立っていた。俺は言った。
「ずっと?」
「そうです。ずっと」
なぜ……そう言いかけて俺はやめた。そんな問いは意味がない。一般人には俺の問いに答える義務はないし、真実を述べる義務もない。たとえ俺を毎日見ていたとしても、それは日常、俺に加えられている暴力と同じ次元の行為に過ぎない。なぜ俺に暴力を振るう――そんな問いに意味がないのと同じことだ。俺は前を向くと再び歩き始めた。
「あ、あの、もしよろしければ少しお話がしたいのですが」
男は傘を差したまま俺の後を付いて来る。俺は構わず歩き続けた。俺に一般人の願いを叶えてやる義務はない。それに迂闊に一般人と会話をすれば、俺にそのつもりはなくても、俺の言葉が不穏な単語であると監視センターが判断し、監禁装置のスイッチが入る危険性もある。無用な苦痛を味わうような真似はしたくない。
「あなたは違う、違い過ぎるのです」
俺の背後で男が必死になって叫んでいる。
「極刑囚は必ず死刑囚に格下げされるか、自ら命を絶ちます。それも数ヶ月も経たないうちに。それなのにあなたはまだ生きている」
俺は足を速めた。鬱陶しかった。男の目的が分からないだけに一層気味が悪い。殴られて去って行く男たちの方がよっぽどマシだ。
「どうしてですか? これほどの屈辱に耐えながら、どうしてそこまで生にしがみつくのですか?」
俺は駆け出した。そんな質問に対する明瞭な答えを、どれだけの人間が持ち合わせているというのだ。やがて男は諦めたのか、もう付いては来なかった。俺は走りながら空を見上げた。まだ雨は止まない。大きなくしゃみがひとつ出た。
小屋に帰り着いた俺は、乾かすために外に置いていた生木と草を小屋の中に入れた。それほど濡れてはいなかった。安心すると同時に眩暈と寒気が襲ってくる。俺は土間にうずくまった。明らかに風邪をひきかけていた。
俺は服を脱いで素っ裸になると、干してある唯一の着替えに手を伸ばした。しかし昨日の朝に洗ったばかりの服はまだ生乾きだった。
迷った末、ボロボロのタオルを腹に巻き、素っ裸で新聞紙の中に身を埋めた。他に着替えは無い。着替えの支給は監視センターからの指令に基づいて行われる。監視カメラで着替えの状態を判断し、不定期に支給するのだ。その時古い服は没収される。ゆえに着替えは常に一着なのだ。
新聞紙にくるまって夜の分の握り飯を齧った。喉が詰まりそうだ。出来れば熱い湯が飲みたかった。だがそれは贅沢だ。備蓄した燃料が減りつつある現在、節約を心がけねば、生の米を齧る日は、予想以上に早くやって来ることになるだろう。
俺は土間に降りて水を飲み、鍋に米と水を入れた。明日の食料の準備だ。それが終わるとまた新聞紙の中に潜り込み、体を丸める。
「ゴホッ、ゴホゴホ」
咳き込むだけで体力が削られる気がする。風邪は滅多にひいたことがなかった。頑強だった俺の肉体はすっかり衰弱してしまった。粗食、痛め付けられる肉体、冷たい雨……それは極刑を生きる俺の力ではどうしようもない事柄だ。つまり風邪をひくこともまた極刑の一環なのだ。これも俺に与えられたひとつの罰。ならば耐えるしかない。
「どうして生きる、これほどの屈辱に耐えながら……」
ふと、口から出たのはあの男の言葉だ。どうして……その理由を考えたことはなかった。死なないから生きている、そうとしか答えられない。自ら死を選ぶ必要もないだろう。嫌でも死なねばならぬ時が確実に来るのだから。
俺は目を閉じた。医者にもかかれない俺には眠るしかない。熱っぽい顔。寒気がする背中。矛盾する肉体を抱かえたまま俺は眠った。




