真実
手を握ると女が目を開けた。ぼんやりとした声を出した。
「あの男は?」
俺は頭を横に振った。白衣の男は何の処置もしなかった。あの出血量で助かるとは思えない。
「そう」
女は目を閉じた。安らかな顔していた。もう思い残すことはないと言わんばかりの平穏な表情だった。
「そして、私も間もなく死ぬわ」
「いや、輸血をすれば望みはあると言っていた。救急車もすぐ来るはずだ。大丈夫、助かる」
俺は女の手を強く握った。女は力なく首を振った。
「ううん、死んだ方がいいのよ。あなたも私も生きているなら、二人の立場は入れ替わる。あなたは自由になり、私は極刑囚になる。女の極刑囚がどれほど悲惨か、あなたには分かるでしょう」
女性の極刑囚は聞いたことがなかった。だが容易に想像はつく。それこそ死ぬよりも辛い屈辱を味わうことになるだろう。
頭の中に靄がかかったように、意識がぼやけてきた。気を抜けば眠ってしまいそうだ。その前に、どうしても訊いておきたいことがあった。
「ひとつ、答えてくれ。あの男の言葉は本当なのか」
女は弱々しく頷いた。それだけで十分だった。俺は女の手を離そうとした。が、今度は女が俺の手を握りしめてきた。
「待って。本当のことを話すわ。信じてもらわなくてもいいから聞いて」
真剣な眼差しで俺を見る女。それは死に臨んで告解をする信徒のように見えた。
「あの男と出会ったのは看護師になってすぐだった。優しかった。私は何も知らない子供だったから、その優しさに簡単に騙された。あの男が結婚しているのを知ったのは、深い付き合いになってから。必ず妻子と別れると言いながら、ずるずると関係は続いた。そんなある日、私も交えて家族と話し合いをしたいから、家へ来るように言われた。ようやく決着する、そう思って訪ねた私が見たのは、猿轡をされ縛られて血だらけになった四人の姿。これみよがしに床に突き刺されたナイフとメモ。『とどめはお前の仕事だ』メモにはそう書いてあった、あの男の字で……助けようとした。この人たちの命を奪ってまで幸せになりたいとは思わなかった。でも、同時に、死んでくれれば私は幸せになれると考える自分もいた。何も出来なかった。待っていれば、あの男が来るかも知れない、そう考えて、苦しそうな呻き声が聞こえるリビングで私は待った。でも来なかった。死にきれずに苦しむ四人が哀れだった、楽にしてあげたかった。そして、あの男の思惑通り、私はナイフを握り、とどめを刺した」
女の息が乱れていた。一気に話して疲れたのだろう。俺は声を掛けた。
「なら、君だけのせいじゃない。あの男もその責任を負うべきだ」
「ううん、悪いのは私。あそこで救命措置をすれば助けられた命だったのですもの。四人の命より自分の幸せを選んだのですもの。皮肉なものね。苦しむ人を助けたくて看護師になったのに、命を奪うことで苦しみから救うなんて。殺してしまってから私は事の重大さに気が付いた。逃げなきゃ、そう思った。幸い、冬の寒い日で、私はずっと手袋をはめたままだった。指紋の心配はなかったけれど、それでも触れた箇所は拭った。それからメモを掴み、玄関の靴を履いて逃げ出そうとした」
「俺が来たのは、その時だったのか」
「そう。てっきりあの男が戻って来たのかと思った。でも違った。あの男は別の人物を呼んでいた。そこでやっと男の企みが分かった。その人物に私を目撃させ、犯人に仕立て上げる。なんて姑息な手段。卑怯で臆病な男。あいつは自分で手をくださない。決して殺そうとしない。そしていつでも中途半端。あの四人も今の私も、絶命させずに半殺しのまま放置する。殺す勇気もない。それがあの男」
女の顔に一瞬、激しい嫌悪の色が浮かんだ。キャンプ場で感じた男への敵意、あれだけは俺に唯一見せてくれた真実だったのだろう。
「私は物陰に身を隠した。誰かが入ってきて照明が点いた。見知らぬ男。こちらに背を向けた。テーブルの上にクリスタルの灰皿がある。私は飛び出してそれを手にした。それからはあなたも覚えているでしょう。頭を殴り、ナイフを握らせた。その時、ナイフで私は切られた。怪我はかすり傷程度だったけど、証拠になるから刃を拭おうとした。けれども誰かの声がしたので、そのままにして裏口から逃げた。それが命取りになったわね。見て」
女はカーディガンの下に着たブラウスをめくって腹を見せた。白衣の男が巻いた包帯の下に、薄っすらと傷の跡がある。
「あなたに切られた傷よ。もちろん警察は私を調べた。あなたの供述に基づいて手や足を見せてくれと言った。でも服をめくって腹を見せてくれとは言わなかった。そうよね、あの状況じゃナイフが切ったのは手か足だと思うでしょうからね」
「だが、それでは君のアリバイがない」
「言ったはずよ、首を吊って死んだ男。彼が偽証したのは男のアリバイじゃない。私のアリバイなのよ。あれは私の父。私が幼い頃に亡くした母の分まで愛情を注ぎ、男手ひとつで私たち姉妹を育ててくれた私の父。丁度あの日、海外に嫁いでいた姉が帰国して、父と二人で外食をしていた。歳が一つしか離れていない姉と私はよく似ていた。だから父は私と食事をしていたと証言したのよ。姉は次の日には帰国したし、日本を何年も離れていたから、アリバイがなくても疑われなかった。きっと今でもこの事件と私は無関係だと思っているでしょうね。でも父は違った。私が犯人だと分かっていた。だから、新証拠が出たと知るや、自らの命を絶ったのよ。父の血液型もRH-だった。自分が死んで真犯人を装うことで、私を助けようとしたんだわ。愚かな父。今はDNA鑑定もあるから、すぐに私だと分かるのにね」
偽善者であり続けた男。俺にとってだけではなく、自分の娘に対してもまたそうだったのだ。あの男は善でありたかった。偽りを述べ、己の命を捨ててまでも、善を装っていたかったのだ。
「事件の後、私はあの男と一切の関わりを絶った。警察に疑われるのは嫌だったし、なによりあの男の本性が分かったから。でも突然あの男から連絡があった。新聞報道よりも早く、新証拠が見つかったという情報を手に入れたと言われた。これで再審請求されれば私の有罪は間違いない、この機会に協力してあなたを消そう、そう言われたわ。その時、私は決心した。あの男にあなたを殺させて、その後、あの男を殺してしまおうと」
やはり俺の死を望んでいたのか。助けるという言葉も、あの優しさも全ては嘘だったのか……だが、その身勝手な願望を責める気にはなれなかった。もし女の立場なら、俺も同じ行動を取ったかも知れないのだから。
「けれども、君は俺を殺させなかった。あの男から俺を守ってくれた」
「このまま死んでしまうのは嫌だったからよ。あの男の死を見届けてから死にたい。だから殺した。それがあなたを助けることになっただけ。あなたの死を願っていたのは事実だもの」
女は大きく息を吐いた。穏やかな表情をしている。話したいことは全て話してしまったのだろう。
俺は手を握ったまま、女と並んで体を横たえた。眠気が襲い掛かってくる。深い谷底に落ちていくようだ。
「私はあなたに罪をなすりつけた。犯罪者に仕立て上げた。だから赦してくれとは言わない。憎むなら憎んだままでいい。だけど、最後にこれだけは聞いて欲しい。私はずっと苦しかった。私が殺した人、私が騙した人、私を騙した人。様々な想いが私の中に去来して、いつも私を苦しめ続けた。あなたの体は痣や傷だらけだった。でも、私の心も同じくらい痣や傷にまみれていた。私の痛みを分かってくれる人も癒してくれる人もいなかった。あなたと同じように痛みに耐えて、ずっと一人で歩いてきた。あなたがあなたの極刑を生きてきたように、私も私の極刑を生きてきたのよ。それだけは分かって欲しい……」
意識が薄れていく。
途切れるような女の声。
遠くからやって来る木々のざわめきのように、
頼りなく、ぼんやりと聞こえてくる。
それはキャビンで聞いたざわめき……
女と二人だけで聞いた、子守唄のような葉擦れの音……
いつまでも聞いていたい、
こうして寄り添い合ったまま、
いつまでも、いつまでもずっと……
* * *
目を開けると天井が見えた。久しく味わったことのない寝心地の良さ。身を起こす。俺がいるのは粗末な簡易ベッドの上。見回せば四畳ほどの小部屋。見覚えのない場所だ。
「どこだ、ここは」
首に手をやる。監禁装置は装着されていない。包帯も新しく巻かれたようだ。何が起こったのだ。
「目を覚まされましたか」
ドアを開けて入って来た男を見て、俺が誰に保護されたのか分かった。俺の担当弁護士だった男だ。
「ここは、あんたの事務所か」
「いえ、私の知り合いの弁護士の事務所です。昨晩、見知らぬ男から電話がありまして、あなたの居場所を教えてくれたのです。すぐ飛行機とタクシーを乗り継いで病院に駆けつけました。丁度、私の所属する極刑制度に反対するグループの事務所が近くにあったので、そこに運ばせていただきました」
「なぜ俺に首輪を嵌めない。なぜここに居ることが許される。俺の刑は続いているのだろう」
「わしの希望だからですわ」
弁護士の後ろから老齢の男が姿を現した。初めて見る男だった。
「こちらは新しく選ばれた遺族代表の方です。代表候補は予め五人まで選んでおけますからね。次の順位の方が繰り上がりました。急いでここに駆けつけてもらったのです」
老人は軽く頭を下げると、ベッドの横の椅子に座った。続いて弁護士も椅子に座る。
改めて新しい遺族代表の男を見る。あの男とは似ても似つかぬ人の好さそうな人物だ。男の親族ではなく、殺された側の親族なのだろう。
「本当はお前さんを病院に置いて、医者に診せたかったんですが、極刑囚には保険は効きませんもんでな、医療費が高くなりすぎるのですわ。しょうがなく入院もさせず、市販の薬で間に合わせました。お前さんにはすまんことでしたな」
それは加害者への態度ではなかった。俺が無実であることは、この二人にとって既定の事実になっているようだ。しかし、今の俺は自分のことも、新しい遺族代表にも興味はなかった。
「あの女はどうなった」
「残念ですが助かりませんでした。彼女の血液型はRH-AB型でした。最寄りの血液センターに十分な量がなく、他のセンターに問い合わせているうちに手遅れになったようです」
「そうか」
落胆したのは確かだった。しかし、あの女は死ぬことを望んでいた。たとえ助かったとしても、自ら死を選んだに違いない。俺の小屋の前で首を吊った彼女の父のように。
「それで、目覚めたすぐで恐縮なのですが、用件に入らせてください。新聞報道されているように新しい証拠が出たのです。ご存知ですか」
弁護士の問いに俺は頷いた。何の話をしたいのかは想像がつく。
「でしたら話が早い。単刀直入に言いましょう。再審請求をしてください。私は極刑が制定された時から反対運動をしてきました。こんな非人道的な刑罰は明らかに憲法違反です。あなたは一度私の申し出を断った。再審請求に何の関心も示さなかった。けれども私はどうしても諦め切れず、これまで真犯人を探し続けてきたのです。そして新証拠が見つかりました。請求すれば再審は必ず開始されます。そして今度は必ず勝てます。たとえ真犯人が既にいないとしても、あなたが犯人ではない証明は出来るはずです。そのために新しい遺族代表の方にもご足労願ったのです。あなたが無実であることを信じていただくために、あなたが刑を受ける人物ではないと確信していただくために、わざわざこうして来ていただいたのです。遺族代表の方に認めていただければ、身を隠す必要もないのですからね」
「お話を伺い、お顔を伺って、お前さんを信じることが出来ましたわ。安心して請求されるがいいです。わしも一筆書かせてもらいますわ」
「こちらもこう仰っておられるのです。直ちに再審請求の手続きに入らせてください。そして自由を手に入れるのです」
「自由……」
二人の言葉は俺の中に入ってこなかった。まるで電車の中で他人の会話を聞いているように、俺には無関係な事柄に思われた。ただ弁護士の言った自由という言葉だけが、俺の心を捕らえた。
自由……俺以外の人間は本当に自由なのだろうか。目の前にいる弁護士、新しい遺族代表、殺された以前の遺族代表、首を吊った男、労働場の一般人、そして、あの女。彼らは本当に自由だったと言えるのか。そして俺は自由ではないのか。
「いや」
俺はゆっくりと首を振った。
「再審請求はしない」
俺の言葉に弁護士は目を見開いた。
「な、なぜ……無実を晴らさなくてもいいのですか」
「いい」
「そ、そんな。もう一度考え直してください。あなたはどうかしている」
「どうもしていない。再審請求はしない」
「理由を、理由を教えてください」
狼狽する弁護士。無理もないだろう。だが俺の決意は変わらない。
「お前たちに自由はないからだ。そうだろう。なぜ自由だと言える。確かに、どこへでも行ける。好きな職に就ける。思うように時間を使える。表向きはそうだ。だが、実際はそうではない。毎日時間に追われ、家を出て同じ道を歩き、辞めたくても辞められない仕事をこなし、空腹を満たすだけの飯を食い、また同じ道を歩いて帰る。理不尽に罵倒を浴び、良心に背く行為を強要され、心を病み、体を壊し、それでも自分の生活を守るために必死に耐えて、今日も明日も同じことを繰り返す。今の俺と何が違うのだ。世界に目を向ければもっと酷い。無差別に傷つけられ、人権を無視して殺される人間がどれだけいる。弱者というだけで虐げられている人間の苦しみを、理解している者がどれだけいる。彼らに比べれば俺の苦しみなど取るに足りない。そうだろう、一般人に殺されないように俺は守られているのだから」
「それは、そうですが。しかし、それでも極刑囚の生活よりは元の生活の方が遥かにマシなのではないですか」
「いいや、そうは思わない。俺の方が遥かに恵まれている。お前たちは見捨てられている。お前たちの苦しみや行動を見続けてくれる者などいない。だが、俺にはいる。常に俺を監視し、俺を守ってくれる首輪と監視カメラ。俺が道を踏み外そうとすれば、痛みを以って教えてくれる存在が俺にはあるのだ」
「分からない。私にはあなたが分かりません」
「そう、分からないだろう。自分たちが極刑を生きていることさえ分かってはいないお前たちには」
俺は弁護士の足元に白銀の線を見た。弁護士として生きるためには決して外れることの出来ない線。誰もがこの線を持っている。首を吊った男の線は小屋の前で途切れていた。だからあそこで死んだ。遺族代表だった男も、あの女も、自分の線に従って生き、途切れた場所で死んだのだ。誰もこの線から逃れることは出来ない。自分の極刑を免れることは出来ない。
これから俺は全ての一般人の足元にこの線を見るに違いない。俺に暴力を加える一般人も、労働場の従業員も、ただこの線に従って行動しているに過ぎないのだから。
「首輪を嵌めてくれ。極刑囚としての責務を果たしたい」
俺はベッドを降りて二人の前に立った。言葉を失ったままの弁護士と遺族代表の男。不可解な顔をして見上げる二人に向かって、俺は自分の刑を宣言した。
「俺は俺の極刑を生きる。お前たちがお前たちの極刑を生きているように」




