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極刑  作者: 沢田和早
21/23

安息

 

 キャンプ場を後にした俺たちは、鉄道の駅のある街に着いた。女が車を大型スーパーの駐車場に入れる。


「まずは物資調達ね」


 そう言って買い物袋を手に持ち、中へ入って行く。ほどなく戻って来た女が買ってきたのは、当面の食料とズボンや靴、それらに加えて、はさみとカミソリ。何に使うつもりだと訊くと、同行者の見た目を少しでもマシにしたいからと言う。

 女にとって今の俺は、一緒に歩きたくないほど見苦しい格好をしているようだ。そのまま公園のトイレまで連れて行かれ、着替えとカミソリとタオルを渡された。


「鏡を見てきちんと髭を剃って。あ、それから洗うのは髪の毛だけじゃなく、手や顔や足や、洗えるところは全て洗うように」


 やはり臭うか。当然だろう。昨日、モールのトイレで手と顔は石鹸で洗ったが、それ以外は十ヶ月近く水洗いしかしていない。こんな男を助手席に乗せて、よく耐えてくれたものだ。

 幸い利用者は俺だけだった。備え付けの石鹸で洗えそうな部分はしっかり洗う。髪を洗う時は額が見られないよう気を付けた。髭を念入りに剃る。個室に行き、濡らしたタオルで体を拭き、下着とズボンと靴を身に着け、女の元へ戻った。


「まあ、なんとか連れて歩けるかな」


 満足そうな顔。まるで女のペットにでもなったような気分だ。

 それからベンチに腰掛けて散髪してもらった。人通りはほとんどなかったが、額は終始手の平で隠し続けた。用心するに越したことはない。

 晩秋、昼の陽射しが暖かく感じられた。不思議と気分が安らぐ。

 頭に触れる女の手……これまで俺の体に触れる手には常に悪意があった。痛めつけ、傷つける、そんな意志に満ちた手だけを、極刑囚の俺は受け止めてきた。

 しかし、今触れている手は違う。そこには温もりがあった。穏やかに照らしてくれる陽射しのように、心の奥底にまで届く温もりを俺は感じた。


「はい、終了」


 女が軽く頭を叩いた。今度は子供にでもなったような気分だ。

 飛び散った髪を払い、古くなって汚れた荷物を捨てると、心まで新しく生まれ変わった気がした。


 スーパーの駐車場に戻り車に乗り込む。しばらく走った後、駅の近くに一日五百円のコインパーキングを見付けたので、そこに駐める。出発前に決めたとおり、車を捨てるのだ。

 女は後部座席に移り、救急箱の中から幾つかの備蓄品をバックパックに移し替えた。全て持って行くには多すぎるので、役立ちそうな物だけを選んでいるのだろう。支度が出来ると手に持って外に出た。俺は食料を詰めた買い物袋を持たされた。


「このパーキング、二十四時間を過ぎると大変なことになるのよ。絶対に今日明日中には戻って来るわ」


 戻って来る時は女一人のはずだ。俺とこの車とはこれでお別れだ。ここまで連れて来てくれた頼もしい相棒に、心の中で礼を言った。


「お昼は、せっかくだからどこかで外食しましょう」


 女は機嫌がよさそうだ。無理もない。執拗に追って来た男の呪縛から解き放たれ、目指す目的地は目前に迫っているのだから。実際、俺自身、自分が極刑囚であることを忘れるくらい、開放的な気分になっていた。

 女はバックパックを背負い、俺は食料を入れた女物の買い物袋を提げて、繁華街を歩いた。どこから見ても単なる二人連れ。ありふれた平凡な男女。そんな日常の単純な一コマになれたことが素直に嬉しかった。

 そしてその日常は、もうあと少しで確実に自分のものになる。奈落のように深かった絶望は反転し、山の峰のように天を衝く希望となって俺の前にそそり立っていた。


 女が選んだのは焼肉バイキングの店だった。煙を上げる肉を最後に見たのはいつだったろう。その匂いを嗅いだだけで、俺の食欲は凶暴になった。餓鬼のように肉を貪る俺を尻目に、女は地図と時刻表を眺めていた。目的地への行き方を探しているらしい。


「ここからなら電車とバスだけで行けそうだわ。でもバス停からは四キロほど歩かないといけないみたい」


 うんざりだと言わんばかりの口調。四キロを徒歩で行くことなど、普段の生活ではあり得ないのだろう。かつては俺もそうだった。しかし毎日それ以上の苦行を強いられているうちに、その程度の距離を歩くのは当たり前になっていた。慣れは人を怠惰にも勤勉にもする。囚人生活も悪い点ばかりではなかったわけだ。


 食べ終わった俺たちは電車に乗った。これまでの無口が嘘のように女はよく喋った。初めて訪れる土地ということで、観光旅行気分になっているようだった。

 それはバスに乗っても続いた。菓子を食べながら窓外の景色を眺めている女の顔は、遠足の子供のように無邪気に見えた。


「さあ、ここから歩くわよ」


 バスを降りると、バックパックを背負って女が気合いを入れた。ここに来るまで思ったよりも時間がかかっていた。西の空は既に赤く焼けている。


「急げば、終バスに間に合うわ。頑張って行きましょう」


 朝と夕方以外は二時間に一本しかバスがない田舎だった。鉱山が閉じる前はそれなりに活気があったのだろうが、今では人影もほとんどない。バス停で降りたのも俺たちだけだった。

 すぐに山道に入った。上り坂だ。女が無口になる。荒い息遣いが聞こえてくる。バックパックを貸せと言ったが断られた。大事な物でも入っているのだろう。疲れを紛らわそうと俺は話し掛けた。


「すまないな、時間も金も体力も使わせてしまった」

「いいわよ。必要経費として、あなたの弁護士さんからたっぷりふんだくってあげるから」

「俺の弁護士は今日来るのか?」

「そのはずよ。もしかしたらもう来て待っているかもね」

「俺はしばらくの間、その廃坑跡で暮らすことになるのか」

「裁判所への手続きなんか何日もかかりゃしないわ。それにこれまでの小屋暮らしに比べれば、よっぽど居心地いいんじゃない」


 その意見には俺も賛成だった。地中にあるのなら隙間風が入ってくることもないだろう。寒さに妨害されることなく安眠出来そうだ。

 ただし手続きが終わればすぐにあの小屋に逆戻りだ。再審が開始されなければ刑の執行は止まらない。極刑囚としての義務を果たし続けなくては、死刑囚に減刑となり、再審への道は永遠に閉ざされるからだ。


「着いたわ、あそこよ」


 女が指差した建物は、思ったよりも大きくなかった。社屋ではなく単なる坑道への入り口なのだろう。

 薄暮の中に浮かぶ錆びた金属の扉の前で、女はバックパックから鍵を取り出した。軋んだ音を立てて扉が開く。内側のスイッチを押すと照明が灯った。まだ電気が使えるのを見ると、完全に放置されているわけではないようだ。

 短い廊下の先は直ぐに下へ続く階段。俺たちは足元に気を付けて降りて行った。かび臭い匂い。生暖かく湿った空気が体にまとわりつく。少なくとも寒さの心配はせずに済みそうだ。

 階段を降り切った所は廊下になっていた。幾つかある扉のうち、一番奥の扉の前に女は立った。入り口と同じ金属の扉。女が手に持った鍵でそれを開ける。中は暗い。弁護士はまだ来ていないようだ。壁のスイッチが押され明かりが点いた。


「広いな」


 想像とは違っていた。室内は体育館のように奥行きも高さもある空間だった。机、椅子、電気器具、コード、そして大型の装置などが残されたままになっている。


「こんな所で何をしていたんだ」

「民間企業の研究施設だったらしいわ。電波も音も完全に遮断されているし、温度変化もほとんどないので、実験場としては最適だったと弁護士さんが言っていたわよ」


 俺は手に下げていた買い物袋を近くの机の上に置いた。生活するには不向きだが、退屈はせずに済みそうだ。


「さっ、私は行くわ。今日中に町に戻ってホテルのベッドで休みたいから」

「あ、ああ。世話を掛けたな」


 女の言葉を聞いて急に別れが名残り惜しくなった。共に行動したのは一日だけだが、その中身は一か月に相当する密度だったと言ってもいいだろう。


「また、会えるかな」

「再審が開始されれば、いつでも会えるわ」


 女はこちらを見ている。バックパックは机の上に置いたまま、両手を背中に隠して近付いてくる。女の顔が徐々に大きくなり、俺の視界にはそれしか入らなくなった。


「お別れのプレゼントをあげる」


 聞いたこともない甘ったるい声。俺の唇に女の唇が触れるほどに、その顔は迫ってきた。吐息が感じられる。条件反射のように俺は目を閉じた。


 ガチャ!


 音がした。金属音。そして首に違和感。何かが嵌められたのだ、俺の首に。


「これは……何の真似だ」


 女は無表情だった。まるで能面のように、その顔からは人間らしい感情が一切消失していた。



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