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極刑  作者: 沢田和早
16/23

 

 行く当てはないが、いつまでもここに留まっているわけにもいかない。差し当たってこの白衣をなんとかしたい。

 もし月曜がこの辺りのゴミ収集日なら、日曜の今日は、既にゴミが出ている可能性がある。取り敢えずゴミ捨て場を探してみるか。見つからなければ民家に干されている洗濯物を失敬する方法もあるが、それは出来れば避けたい。

 トイレのドアを開けた。瞬間、俺の体は硬直した。

 目の前に女が立っていた。あり得ない光景だ。ここは男子便所だ。用を足すなら女子の方へ行くはずだ。つまり、この女の目的は用を足すことではなく、俺自身……


「くそっ!」


 俺は女の横をすり抜けようとした。一カ所に長居し過ぎた。早くも警察が居所を嗅ぎ付けたのか、あるいはあの男の関係者か、どちらにしてもここで捕まりたくはない。


「待ちなさい」


 女が俺の左腕を掴んだ。同時に俺の右首筋目掛けて、女の手刀が打ち込まれた。


「ううっ」


 激痛が走った。忘れていた皮膚の痛みが蘇る。血は止まっているようだが、皮膚が剥がれているのだ。早急に治療を要する怪我であるはず、そこに手刀を打ち込むとは……

 俺はうずくまって首筋を手で押さえた。その隙に、俺が床に落とした医療用メスを女が拾い上げた。


「ごめんなさい、手荒な真似をして。後で手当てしてあげるわ」


 一転して優しい声。男の関係者とは思えない。となれば私服の警官か。掴んだままの腕が引っ張り上げられる。立てということらしい。素直に立ち上がり女の顔を見る。


「俺をどうする気だ」

「一緒に来て」

「どこへ行くんだ」

「詳しくは後で話すわ。早くして。ぐずぐずしてはいられない」


 俺は動かなかった。首筋に怪我を負っているとはいえ、相手は女ひとり。腕力で負けるはずがない。逃げようと思えば逃げられるはずだ。だが、俺は迷っていた。

 もしこの女が公安の関係者なら、あなたを連行すると即答するだろう。男の関係者なら男の元に連れ戻すと言えばよい。なのに女の返事は違っていた。どちらでもないのか。俺の想定の範囲外から来た人物なのか。


「早く! あなたを助けたいのよ」


 助ける……この一言が俺の迷いを吹き払った。嘘かも知れないがその嘘に乗るのも一興だ。この女と別れても、俺には向かうべき目的地はないのだから。

「わかった」と言って女に従う。公衆便所を出て、児童公園を後にして、空き地に停めてある車に乗り込み、エンジンを始動させる女の同乗者となった。


「首の手当ては待って。ここに長く居過ぎたから移動するわ」

 車が動く。俺は一番知りたいことを訊いた。

「君は何者だ。なぜ俺を助ける」

「私は遺族よ。あの事件の被害者の親族」


 では、男の関係者か。しくじったと思った。当局に連行されても、すぐに死ぬようなことはない。だが男の元に連れて行かれれば、即座に殺される。最悪だ。俺を車に乗せるための方便だったのか。


「安心して。あの男の家に戻るつもりはない。言ったでしょ、助けるって」


 どこまで信用していいのか分からなかった。俺は黙った。女の答えが信用出来ないのなら質問をしても無意味だ。むしろ、余計に疑心暗鬼が深まる。それなら何も訊かない方がいい。

 俺が何も言わないので、女は勝手に喋りだした。


「疑っているのね。無理もないわ。今まであなたに親切にする人なんていなかったのでしょうから。でも事情が変わった。これであの男を追い詰めることが出来る。私たちの反対を押し切って、無理に代表になったあの男を」


 女が言うあの男とは、俺を苦しめてきた遺族代表の男に違いなかった。そして女は奴を憎んでいるようだった。俺は黙って聞いていた。


「あの男は私の義理の兄。殺された妻は私の実の姉。私たち家族は、いいえ、姉自身もあの男との結婚は反対だった。でも強姦に近い形で妊娠させられ、姉は仕方なく一緒になったのよ。婿養子という形でね。反発した私は家を出てしまったから詳しくは知らないけれど、あの男は暴君のように振る舞っていたらしいわ。父も母も優しい人だったから、余計に気の毒だった。恐喝まがいに金を巻き上げ、使い果たし、借金まみれになり、最後には家族を手に掛けた。保険金を得るためにね」


「ま、待ってくれ」

 俺は女の言葉を遮った。聞き間違えたのかと思ったのだ。

「今、家族に手を掛けた、と言ったな。それはつまり」

「そうよ。あの男が殺したのよ。犯人はあなたじゃない。首を吊った男でもない。あの遺族代表の男なのよ」


 俺の頭は混乱し始めた。男が借金まみれだったのは知っていた。俺が勤務していた会社の部下だったのだから。金にも困っていた。だから会社の粉飾決算の書類を持ち出し、金を要求するような行為にも走ったのだ。

 家族仲が悪く、保険金まで掛けていたのなら動機は十分だ。実際、俺自身、逮捕当初はあの男を疑っていた。警察だって同じだろう。

 だが、有罪になったのは奴ではない、俺だ。いくらなんでも警察がそこまでマヌケだとは思えない。


「それが本当なら、なぜあいつは有罪にならなかったんだ。そこまで状況証拠が揃っていれば、警察も詳しく調べただろう。君の説明には無理があり過ぎる。あの男への憎しみが生んだ、ただの妄想に過ぎないんじゃないのか」

「あの男が有罪にならなかったのは、アリバイを崩せなかったからなのよ。死亡推定時刻に、あの男は会員制のクラブにいた。同席していたのは中年の男。二人で深夜まで飲んでいたと店員も証言している。もちろん、それは嘘。似たような人物を探してあの男に仕立て上げ、クラブに連れて行ったのよ。店内は照明を落としているから、店員だってはっきりと顔を覚えているはずないわ」

「じゃあ、その同席した中年の男が嘘をついたと?」

「そうよ。何か弱みを握られていたか、金を貰う約束をしたか、そんな所じゃない。殺人事件のアリバイ作りとは夢にも思わず協力してしまったのでしょうね。馬鹿な男よ」

「偽証した男、今はどうしているか知っているか」

「死んだわ。あなたも知っているはずよ。昨晩、極刑小屋のある墓地で、首を吊って死んだのよ」


 軽い衝撃が俺を襲った。いかにも親切そうな顔をして俺に近付いて来た男。あからさまに偽善者を装い、俺の怒りに火を点けた男。命を絶って影となり、ようやく俺の小屋に入り込んだ男。思い出すだけで虫酸が走る。偽善者を装っていたのは俺に対してだけではなかったのだ。

 けれども今の俺に怒りの感情はなかった。「よかったですね」と最後に言ったあの男の哀れな笑顔が、矮小な憐憫と共に湧き上がってくるばかりだった。




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