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極刑  作者: 沢田和早
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記事

 

 夜中だった。何かが揺れている、俺はそう感じて目が覚めた。

 監視用のサーチライトは一晩中俺の小屋を照らしている。その照明が小屋の壁に何かの影を映し出していた。小さい振幅で揺れている黒い影。

 俺は古新聞紙の中から這い出ると、鉄格子の嵌った窓の外を眺めた。強烈な光が寝起きの目を射る。その光を背景にして何か細長いものが揺れていた。木の枝にぶら下げられているようだが、逆光が激しくてそれが何かは分からなかった。


「いたずらか」


 誰かの仕業であることは間違いない。数時間前まで何もなかった木の枝に、純粋な自然現象だけであんな大きさの物が勝手にぶら下がるとは思えなかった。誰かが故意にぶら下げたのだ。いったい誰が?

 最初に思い付いたのはあの男だった。俺が小屋の中に消えた時、入るのを躊躇した男。中に入りたいのに入れなかった男。入れない自分の代わりに何かの影をこの小屋の中に投影して、自分の代役に仕立てたのかも知れない。とすればこの影は大切なお客様だ。丁重に持て成さなくては。


「ふふ」


 下らない考えに笑いが漏れた。同時に被害妄想気味の自分に嫌気が差した。俺に対して成された悪戯ではないのかも知れないのに、勝手に俺への悪意と解釈している。それは常時、悪意を受け続けている俺の心の腐敗のようにも感じられた。

 俺は立ち上がると土間へ降りた。あの影の正体を突き止めたくなったのだ。小屋の戸を開ける。サーチライトは左側から差している。その光の中に浮かび上がった木、大きな木だ。その木の枝にぶら下がっているのは……


「馬鹿な!」


 人間だった。背広を着た人間。目が脳に送って来たこの情報を俺は即座に疑った。あり得ない。木の下に人間がぶら下がっていることなど余りに非現実的すぎる。以前、幹と脚を見間違えたように、今回も別の何かを人間に見立ててしまっているのではないか。

 俺は外に出るとその木のそばに近付いた。白銀の線から離れられるぎりぎりの地点まで近付く。やはり人間だ。しかもそれは……あの男だ。

 いつも俺を見ていた男。ここに握り飯を持って来た男。崖へ行く途中で、忘れていた感情を俺の心に呼び覚ました男。その男が首を吊って死んでいるのだった。


 情況は明らかに自殺である。無論、速断は出来ない。殺されて自殺を偽装された可能性もあるからだ。

 だが、俺はすぐにこの考えを打ち消した。自殺の偽装なら、こんな場所を選ぶはずがない。あの木は明らかに監視カメラの視野に入っている。誰かがあの木に吊るしたのなら、それは直ちに当局の知るところとなるだろう。自ら犯行を名乗り出るようなものだ。


 やはり、あの男は自分の意志でここを選び、自分の意志で首を吊ったのだ。


 それは少なくとも驚きには違いなかった。しかし、俺の中にはそれほどの意外性はなかった。この男は死にたがっていた。死にたがっていた男が死んだ。それだけのことだ。驚きは、むしろ死を選んだ男の勇気に対してだ。あれほど死を恐れていた男が、なぜ、今、この場所で……


「あれは」


 恐らく踏み台にしたのだろう、男の足元に水桶が転がっていた。墓参人の為に用意されている墓地の備品だ。その水桶の下に何かある。俺は目を凝らした。紙のようだ。

 俺は小屋に戻った。ゴミの山から長めの木の枝を取り出すと、もう一度、白銀の線から離れられるギリギリの位置まで近付き、手にした枝を伸ばした。

 水桶を転がし、その下の紙を手元に引き寄せる。新聞紙だ。俺は思い出した。一昨日、「よかったですね」と言ったこの男が、その手に持っていたのも、確か新聞紙だった……

 俺は新聞紙を手繰り寄せた。俺にとって新聞紙は情報を与えてくれるものではなく、ただの燃料と保温材料に過ぎなかった。社会から閉め出された俺に、社会の情報など無意味だったのだから。

 しかし、今は違っていた。俺は監視用サーチライトを背にして立つと、その新聞を開いた。


『……年前の一家四人惨殺事件に新たな証拠。冤罪の可能性?……犯人とされた極刑囚はこれまで最長の服役期間……重要参考人、現在行方不明……』


 俺は新聞を閉じると男を見た。男のつま先は地面から数センチ上を漂っている。この空間がなければ男は死ななかった。こんな小さな空間が男の命を奪ったのだ。

 俺は新聞紙を持ったまま小屋に戻ると、そのまま隅の古新聞紙の山の中に潜り込んだ。新たな新聞紙が加わったので、いつもよりは暖かく眠れるはずだ。


『あの、よかったですね』


 男が最後につぶやいた言葉。その意味がようやく分かった。労働場での一般人の態度も、遺族代表の男の態度も、全てが理解出来た。

 薄っぺらい紙切れに書かれた僅かな文字の羅列。そんなものが、これだけ多くの人の心を、こんなにも豹変させてしまうのだ。それが事実かどうかに関わらず、ただ新聞紙に書かれている、それだけの理由で。

 それはまたあの男の命を奪った、僅か数センチの空間と同じ力を持っているのかも知れなかった。あの男の体が占有していた空間よりも、つま先と地面の間の僅少な間隙の方が大きな力を持っていた、だから男は死んだ。数センチの隙間が数十年続いた男の時間と空間を奪ったのだ。


 そして、今、僅かな文字の羅列が、俺の極刑囚としての生活を奪おうとしている。俺がこれまで何百回も叫び続けた言葉よりも、こんな汚い紙の上の、真っ黒な活字の羅列の方が、遥かに大きな力を持っているのだ。

 だが、それも今となっては手遅れだ。俺はすでに極刑を味わった。母親は一審の判決の直後に亡くなり、父親は刑が確定した時に死んだ。家も財産も全て処分して、被害者の遺族の補償に充てた。今頃、冤罪だったと言われても、これらを取り戻すことは出来ない。


 俺は壁を見た。男の影はまだ揺れている。死んだ男。男を死に追いやったのは何だったのだろう。あの記事? あるいは別の理由? 重要参考人とはあの男のこと? 実はあの男が真犯人? そう考えて俺は可笑しくなった。無意味だ。俺があの男の死の理由を考えてどうなるのだ。

 毎日百人近い自殺者を生み出しているこの国で、たった一人の自殺者の死因を考えても仕方あるまい。たとえ、それが俺に関わりのある人間だったとしても、所詮は他人だ。俺には無関係だ。俺は俺自身の死に対してさえ無関心でいられるのだから。


 小屋の壁で揺れ続けている男の影。影となってようやくこの小屋に入ることの出来た男。あるいは命を代償にしても、小屋の中に自分を存在させたかったのかも知れない。それが自殺の動機なら、少しは賞賛してやろうか。




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