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極刑  作者: 沢田和早
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記憶

 

 ドアを開けた。俺の部下の家のドア。真っ暗だ。


「おい、いるのか」


 声を掛けた。返事はない。耳を澄ます。何の物音もしない。しかし、ドアが開いているのだから、留守とは思えない。勝手に上がり込む。

 廊下を抜けリビングに入る。異臭がする。壁に手を這わせて照明のスイッチを探す。


「うわっ!」


 天井の灯りが照らし出した部屋の惨状に息を飲んだ。あちこちにこびり付いた赤い模様。血だ。そして床に倒れた人、人。いや、それは人間ではなく、まるで人形のように見えた。赤い絵の具に染まったマネキン人形。

 ポケットから携帯を取り出す。キーを押そうと頭を下げた時、後頭部に衝撃が走った。眩暈がする。ドサリという音。俺の体が床に倒れたのだ。

 暗くなった。照明が消えたのか意識が遠のいているのか、どちらかわからない。

 右手に感触。何かを握らされているようだ。無意識のうちにそれを振る。手ごたえ。が、もう一度後頭部に衝撃。


「何かありましたか、こんな夜中に」


 遠くで誰かの声がする。遠ざかっていく足音。薄れていく記憶……

 


 俺は目を覚ました。珍しい夢だった。かつては何度も見ていたのに、諦めと共に俺の眠りから去って行った夢。

 小屋の中は暗い。まだ夜明け前のようだ。喉の渇きを感じた俺は土間に降り、両手を使って水甕から水を飲んだ。

 ――俺は無実だ――昨日、男に向かって俺はそう言った。俺の無実……だが、それを証明するものは何もない。無理に何か探そうとするなら、この夢だった。

 それは俺の記憶だ。俺の見た、俺の聞いた、俺の感じた記憶。弁護士と両親以外の全員がそれを否定した記憶。そして、俺が捨て去り闇に葬ろうとした記憶。当時の情景がまざまざと脳裏に浮かび始める。



『今、この部屋に男は何人いる? お前も含めてだ』


 警察の取調室で刑事がそう訊いた。目の前にひとり、左で記録している者がひとり、ドアの前にひとり。俺は四人と答えた。刑事がニヤリと笑った。


『外れだ。男は三人しかいない。ペンを握っているのは女だ。背広を着てはいるがな』

 刑事の顔が怒気に染まり、口調が荒くなった。

『人間なんていい加減なもんなんだよ。実際に見て聞いていることですら、正確に判断できない。そうだろ。ましてや、記憶なんてどこまで信用できる? お前は自分の罪を認めたくないがために、幻想を生み出しているんだよ。床に倒れていたのは本当に人間だったのか。ぬいぐるみや人形じゃなかったのか。赤いのは本当に血だったのか。単なる模様じゃなかったのか。衝撃は打撃じゃなく、精神的なショックをそう勘違いしただけじゃないのか。自分の都合のいいように解釈して、自分の記憶を捻じ曲げ、それをあたかも真実として自分に信じ込ませようとしているだけなんじゃないのか。おい、いい加減に目を覚ませ。お前がやったんだよ。犯人はお前しかいないんだよ』


 俺の記憶は否定され続けた。朝から晩までそれは続いた。記憶の正当性を裏付けるものは何もない。俺の頭の中にしか存在しない証拠。

 やがて俺自身が俺の記憶を疑い始めた。迷い始めた俺の頭に刑事の刷り込みが始まった。

 リビングに入った時、四人は生きていた。目当ての部下はおらず、家族から罵倒され、灰皿で頭を殴られ、逆上したお前は刃物で脅して全員を縛り上げ、書類の在処を聞いた。何も言おうとしない四人に腹を立て、お前は全員を手に掛けた。逃げる間もなく隣人がやって来た。被害者の振りをして床に転がり、隙を見付けて逃げ出そうとしたが、その前に発見者の隣人に取り押さえられた……


 心身ともに衰弱していた俺の心は、時にそのストーリーを受け入れそうになることがあった。だが、俺は最後の一歩で踏みとどまり続けた。何十回も、何百回も、検察庁でも、裁判所でも、俺は俺の頭の中で、俺自身の記憶を再生し続けた。信じ続けた。極楽から地獄に垂らされた細い糸に必死にしがみ続けた。

 しかし、極刑が確定した時、その糸は切れた。俺の記憶は消滅した。同時に俺の希望も消えた。以来、この夢を見ることは一度もなかった。


「なのに、なぜ、今日」


 とっくに忘れていたはずだった。忘れていなければならないのだ。希望を持ち続けても苦しいだけ、諦めればその苦しみからは解放される。記憶も夢も捨てた方が安らかに暮らしていける。忘れよう。

 俺は鍋をかまどの上に置いた。そろそろ夜が明ける。飯の支度だ。

 

 火を引いて米を蒸らしにかかると、俺は外に出た。今朝も晴れている。線に沿って歩きながら今使った分の燃料を確保する。拾えるのはほとんどが枯葉。墓地の近くに林があったのは幸運だ。しかし、手に届く範囲の枯葉は、やがて取りつくしてしまうだろう。手に届く立木の枝もほとんどない。

 秋が終わり本格的な冬になれば、本当に米を生で齧る日が来るかも知れない。消化不良と寒さによって、体力は衰え、気力も萎え、その先にあるには……いや、やめよう。先のことを考えても仕方がない。


 ガサッ!


 草むらで音がした。同時にいつも感じていたあの視線。俺は目を凝らした。まさか、こんな朝早くにあの男が来たのか。一体、何の為に?


「あれは……脚か」


 草むらには白っぽく長い、そこに存在するのがいかにも不釣り合いな物が転がっていた。くの字に折れ、その先端は指のように分かれた足の甲。人の脚? いや見えているのが脚なだけで、人間そのものが草むらに倒れている可能性もある。

 俺は監禁装置が作動すると思われるギリギリの場所まで線から離れて草むらに近付き、それを凝視した。脚、人間の脚……


「ふっ」


 笑い声が漏れた。笑い……まだそんな芸当が俺には残っていたのか。

 それはただの幹だった。折れた太い生木。いつも目の端で捕らえていたはずなのに、今日に限ってそれを脚に見間違えたのだ。

 俺の見た光景、俺の記憶。本当に勘違いだったのかも知れない。今でさえ幹と脚を見間違えた俺なのだ。尋常ではない精神状態に置かれれば、自分の目と耳で捕らえた情報でさえ、脳は正常に処理出来なくなってしまうのだろう。

 あの刑事の言ったように、ありもしない現実を現実として記憶してしまっただけなのだ。でなければ、こうして極刑の身に落ちている今の状態が理不尽すぎるではないか。

 俺は頭を振って小屋に戻った。飯を腹に詰め込んだら、頭をカラッポにして仕事に行こう。



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