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ミラーマン

作者: 青井けい

 鏡があると、疑わずにはいられない。

 映っている世界は裏側の板で終わりなのか、終わりなく延々と続いているのか。

 僕を見つめているのは鏡像なのか、いやそれよりも。


「ギギギ、ギギ……」


 ひと、であるのか。




 ひとの世界の下地には、オカルトがある。

 これでも控えめな言い方かもしれないから、言い直そう。

 この世も、あの世も関係なく、そこに人間が存在する全ての次元の、もっとも重要な構成材料こそ――オカルトでる。


 甘美な幻想や、奇怪な空想などのファンタジーじゃない。

 世界の根底に、事実は厳然と存在している。

 だからこその、超自然的な現実オカルトだ。


 それは全く関係がないような顔をしているけれど、全く関係がないようにも思われているけれど、でも違う。日常で意識することがない影みたいに、べったりと表層の現実に張り付いている。


 オカルトもまた、逃れようがなく、偽りのない現実だからだ。


 僕が何を言っているのかわからないのなら、宇宙の果てを想像して欲しい。


 宇宙の果てのその外には、何がある?

 何もない。そう言うのなら、何もない空間が〝ある〟はずだ。


 何もない空間の外には何がある?

 何もない空間はドーナツのように、永遠に続いている。そう言うのなら、永遠の空間はどこにしまってある? あるいは置いてある?


 この世は神が創造した世界だ。そう言うのなら、神様がいる世界はどこにあって、どこまで続いている? その外には何がある?


 問いと答えのイタチゴッコは、それこそ永遠に続く。 

 どこまでも在り続ける矛盾の世界。

 それが、僕たちのいる場所だ。


 答えは誰にもわからない。

 果てしない現実を掘り進んでいくには、人間はひどくちっぽけだ。

 現象の仕組みを解き明かし、優れた科学に浸り、今見える現実にしか目をむけない。


 ありとあらゆる突飛な空想ファンタジー――運気はあるのかとか、死後の魂がもたらすものとか――を、現存する科学が迎撃する。それは、ほとんどの場合撃ち落とされる。この世において科学がひとに与える影響はあまりにも大きい。


 空想は空想、中身が空っぽの想像の産物でしかない。

 証明はできず。されど完全に否定もできない。

 悪魔の証明と一緒で、空想は在り続ける。


 超自然的な現実オカルトにはついぞ至れずとも、その存在を漠然と示唆する。


 考えてもみて欲しい。

 科学が現象を決定づけるのではなく、現象が科学に追随する可能性を、どうして否定できる? たとえば神がいたとして、人間が発見したように思っている『科学』に、『現象』の方を合わせてくれているだけだとは、どうして思えない? 


 無論、思う価値がないからだ。

 無理をしてオカルトの存在を証明する必要はないし、彼らの思っている物理現象という名の神様は、それほど気まぐれではないらしいのだ。指を一つ振り、ひょいと現象の仕組みを変えてしまうことはない。


 世界は依然として訳のわからない場所であるけども、ひとは生き、安寧を得ている。

 それでいい。間違ってはいないのだ。

 ただし、これだけはどうしても言っておきたい。

 ひとがオカルトをあえて取りざたにしないのは、ありえないから、じゃない。


 考えたところで、決してわからないからだ。


 ああ。

 僕はどうしても、疑わずにはいられない。

 こうなってしまう前からそうだった。

 こうなってしまった今となっては、疑惑は尚更に、募るばかりだ。




 僕の前には、視界の果てまで廊下が伸びている。

 元は四メートルもない、見慣れた自宅の廊下だ。それがどこまでも続いているというのは、全く見慣れない光景だった。

 僕は後ろを振り返る。やつとの距離がまた縮まっている。

 やつ。僕と同じ背格好な癖に、頭だけはまるで塗り潰したかのように、真っ黒な塊が据えてある奇妙な存在。


 やつの顔には目と鼻がない。

 口から覗いた赤黒い歯と歯茎だけが、それが顔であることを示している。

 やつは、


「ギギ、ギ」


 ぎこちない動きで頭を傾げた。

 流石の僕も、これには肝が冷えた。

 いっそ、頭のおかしいやつが家に入り込んだというのなら良かったのだけど。仮にそうだとしても問題は解決しないし、もう一つの謎が残ってしまう。

 この長い長い廊下の謎が、だ。

 いくら走っても終らない廊下なんて、七不思議だとしても、今どき古臭い。


 時代錯誤な怪異に悩まされるなんて、なんて滑稽なんだろう! 


 僕は怪異を起こすために、特別に何かをしたわけではなかった。

 寝る前に洗面所で歯を磨き、その間の必要な時間だけ、ぼんやりと鏡を見ていただけ。

 で。洗面所を出て二階の自室へ戻ろうとしたら、これだ。


 廊下の迷宮に捕まり、変てこな存在と追いかけっこをする羽目に。

 やつは猛然と追ってきたりはしなかった。

 覚束ない足取りで一歩。また一歩。

 近づいてくる。


 足を踏み出す度に、傾げた頭をガクン、と揺りながら。

 廊下の途中に立てかけられた鏡――全て同じ鏡――を通過する度に、やつとの距離が狭まる。

 振り向く度に、やつが近くなる。

 夢じゃない。空想の方が、遥かに上等に思える現実。


(オカルトだ)


 唇の端がゆるりと持ち上がり、知らず、微笑を作っていた。

 無数にいる悪魔のうちの一体が現れたのだ。

 オカルトは僕の眼前でたった今証明され、世界で初めてのリアルとなった。

 と。


「ギ、ギギ」


 吐息が感じられるほど近くから、それが聞こえた。

 振り向くと、黒。薄汚れた歯の列が開く。ぬちゃりと音と立てて舌を蠢かせる。

 全身の肌が粟立った。だけじゃない。何やらもぞもぞして、かゆい。


(……ははは)


 そいつは笑っていた。笑みだけは、僕にそっくりだった。

 とっさに体が動いたのは、生存本能の賜物と言うほかない。

 僕はやつから離れ、何を思ったか、壁に立てかけてあった鏡に向かって突進した。

 頭から飛び込む。ガラスが割れる衝撃と痛みは、果たして、なかった。



 気がつくと、僕は洗面所に立っていた。

 歯ブラシはコップに入っている。鏡の中からこちらを見返す鏡像と一緒に、目をぱちくり。

 数瞬前までの記憶を思い出せない。はて、何をしていたっけ。

 まあ、どうせ益体ない考え事でもしていたのだ。こんなことも珍しくはない。


 部屋に戻ろうと踵を返しかけ、ふと鏡を見つめた。

 同じような姿勢で、鏡像の僕が見返してくる。


(鏡像? いいや、あるいは)


 また始まった。いつもの癖で、僕は疑わずにはいられない。

 見間違えだろうけど、部屋を出る間際に、鏡に映った鏡像が首を傾げたような気がした。


 廊下を通って階段を昇る。大分寝ぼけているらしい。自分の部屋を間違えかけた。

 廊下の奥の妹の部屋から、金属を引っ掻くみたいな耳障りな音楽が聞こえてくる。


(どういう趣味してんだか)


 呆れ半分で廊下を引き返す。自室に戻り、ようやくベッドに腰掛けて、

 そこで、はたと気づいた。


 僕の部屋と妹の部屋は横並びで、僕の部屋の方が奥になる。

 慌てて部屋中を見渡したが、見間違えようもない。

(そうだろうか?)

 多分、恐らくは僕の部屋だ。


 けれど、ありえないのだ。

 手前にあるはずの妹の部屋が、廊下の奥側にあるなんてことは。

 にわかに汗が噴き出してくる。

 高くなったり低くなったりする音楽が、壁際に聞こえる。そんな中で、 


 ぎいぃ


 と部屋の扉が開いた。

 その瞬間だった。夢からさめたように、僕は現実を思い出した。

 開いたドアの隙間から、やつが覗いていた。

 口元に浮かぶのは、狂ったような微笑。


「あは」


 やっぱり、そこだけは一緒なんだな。


「ギギ、ギギギギギ」

 やつの顔が傾き――ぐりん、と百八十度ひっくり返った。

「はは、ははははは」


 耳障りな音楽は、今や耳に張り付いて離れない。二度と離れない気がする。

 僕は疑わずにはいられない。


 果たして〝やつ〟は、ひとであるのか。

 そうでないのか。


 善良であるのか。はたまた、


 そうではないのか。


 判然としなかったけれど、また、身体が勝手に動いた。

(……ろされて……まるか)

 手に持っていたナイフを高く掲げ、僕は、背を向けたやつのうなじに突き立てた。

 

                      

                 おわり

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