狼の過去
「ねぇサリス」
「わふん?」
「あのね……その……えっと……」
「どうしたの、言ってご覧なさい。子供は遠慮なんてするもんじゃないわ」
「う、うん……サリスって、オオカミだよね?」
「ええ、見ての通り狼よ」
「なら何でしゃべれるの?」
「だって私、魔獣だもの」
「……オオカミじゃないの?」
「狼よ」
「……どっちなの?」
「魔獣になっても狼は狼よ。私は狼だし魔獣なの。そういうものでしょう?」
「そういうものなの?」
「そういうものなのよ。それよりも小さな主様、そろそろ私の餌の時間じゃない?」
◇◆◇
「どういうことですの! 説明なさいパピー!」
赤髪の女性が詰問する。
「いやいや、俺の方が聞きてえよ!」
傷顔の男が狼狽える。
女が詰る。男が慌てる。女が詰め寄る。男が下がる。女が叫び、男が怒鳴る。女が掴み掛かり、男が応戦する。そして始まる取っ組み合い。もはやお互いに興奮の極みにいる。なぜ争っているのかも分からないまま相手に襲い掛かる。それはどこか犬同士がじゃれ合っているようで。
「わふん? わふん?」
その間ずっと、少女は首を右に左に傾けていた。
「はっ、私は何を!」
ようやくジョアンナが我に返る。
遅れてパピーも正気に戻る。そう、今必要なのことは争いではない。それなのに何だこの状況は。
「いけませんわ。まずは落ち着きませんと……」
「あ、ああ、そうだな……」
互いにまだ動揺から立ち直れてはいない。それ程にビーズの言葉は衝撃的だったのだろう。
二人とも信じ切っていた。突然現れた少女は、かつて彼等と共に居た『サリス』という名の狼であると。
しかし少女は否定した。あっさりと否定した。
単純に嘘を吐いている可能性もある。だが小首を傾げて二人を見詰めている少女からは、後ろ暗い所は一切感じ取れない。信じるにしろ、問い詰めるにしろ、まずはこちらが冷静にならなければなるまい。判断を下したジョアンナの行動は早い。
「ティーブレイク! そう、ティーブレイクに致しましょう!」
それは有無を言わさぬ宣言だった。
パピーも一旦間を置きたい気持ちは同じだったらしく、すぐさま同意する。
方針が決まったためか、ジョアンナはようやく調子を取り戻す。
「そうと決まればパピー、すぐにお茶の用意をなさい!」
「さっき淹れた。冷めていても文句言うなよ。それよりジョアンナ……」
「よろしい。ところでパピー、貴方いつまで床に這い蹲っておりますの?」
「さっきからお前が踏み付けてるせいで立てねえんだよ!」
「あら、ごめんあそばせ」
さほど悪びれた様子も見せずにパピーの拘束を解くジョアンナ。大の男を片足で床に縫い付けていたのは、さすが自警団と褒めるべきであろうか。捕縛術はお手の物。マグナの街は安泰であろう。
拘束が解け、ようやく立ち上がるパピー。踏まれていたのに、さほど怒った様子が無いのは、彼にそういう趣味があるから……ではなく、ジョアンナからのこういった扱いに慣れているからであろう。
ともあれ、これでようやく冷静に……
「あれ、もうお終いですか? てっきりお二人で今から交尾の実演をしてくれるのかと」
「するか!」「しません!」
ホウルマヌ・ビビ。
島の至る所に自生している、言ってしまえば雑草である。街の人々は単純にホールと呼ぶ。
この葉を乾燥させた物を煮立ったお湯に放り込めば、ホール茶の完成である。マグナで単に「お茶」と言えば、まずこれのことと言って間違いない。味や香りが良いのはもちろん、体内の魔気の巡りを良くする効能があるため、街の人々は好んでこれを飲む。
生のホールは潰せば傷薬になる他、様々な薬にも転用できる。ホールの別名は「薬要らず」。パピーの商売敵である。油汚れが良く落ちるなどと言った理由で洗濯や食器洗いにすら使われる。便利な反面、抜いても刈ってもすぐに生えてくるため、畑仕事をする農家や、庭の草毟りをさせられる子供達からは不評だったりもする。
なお、島ではぞんざいな扱われ方をする雑草だが、魔気が濃い場所でしか育たないため、島外では高級品である。ホール茶一杯で一般家庭の月収が飛ぶ。
「相変わらず淹れ方が雑ですわね。温度に気を使いなさい。香りが飛んでますわよ」
「こんなものは飲めれば良いんだよ。嫌なら飲むな」
「パピー様の淹れて下さるお茶は最高だと思います!」
「さて」
文句を言うだけ言って、反論は無視。「いつもの自分」が戻ってきたことを確認して、ジョアンナは安心をする。
姿勢を改め、優雅に微笑む。
そこに居るのは先程までの慌てふためいていた女性ではなく、ビスチエッタの名を持つ商会の大幹部。
「お待たせして申し訳ございませんビーズさん。いくつか質問をしたいのですが、よろしいですか?」
言葉面こそ許可を求めるそれだが、実質は宣戦布告。ビーズの答えを待たずに一気に攻め込む。
「貴女、人ではございませんよね?」
人ならば商会が知らぬはずがない。それは昨日、食堂でパピーも指摘したこと。
ビスチエッタ商会。
国家を相手に「平和」を商う、世界最大の魔術師集団。
マグナの街の管理者代行として、商会は住人全てを把握している。そして密航者を許すほど商会は甘くない。
「ええ、私は犬です」
ビーズは引かない。
国家すら震え上がらすビスチエッタ商会の大幹部を前にして、平然と答える。
「亜人というわけでもないわよね?」
「犬ですよ?」
「ひょっとして魔人かしら?」
「犬なのです。わふん!」
変わらない。ぶれない。平然と、当然のように、ビーズは答える。
ジョアンナは、そのやりとりが楽しいかのように笑う。そして尋ねる。
それは質問ではなく確認行為。
「そうなると残るはやはり、魔獣ですわよね?」
「ええ、魔獣です」
初めて、ビーズの答えが変わった。
――魔獣。
魔気に蝕まれ、新世界に渡った獣。
旧世界の生物の檻を破り、不可能を可能にしたモノ。
「私は犬です。そして魔獣です」
「……そういうものなのか?」
ずっと黙っていたパピーが、何かを恐れるかのように口を開いた。
変わらない。ぶれない。平然と、当然のように、ビーズは答える。
十年前のサリスとと同じように。
「ええ、そういうものなのです」