犬の餌(自宅にて)
結論から言えば、男は大きな思い違いをしていた。
それに気付くのは、まだ少し先のこと。
気付いたところで何も変わらない。
これまでも、これからも、その先も。
◇◆◇
「変態が居るというのは、この家ですわね!」
突如、勝手口を開け放って現れた赤髪の女性。
予期せぬ闖入者に驚き、男は粥を口に運ぶ手を止めた。
一方、動じぬ少女。闖入者に対し、にっこりと笑って挨拶をする。
「おはようございます、ジョアンナ様」
その態度が気に入ったのか、女性は険しかった表情を和らげ、優雅に挨拶を返した。
「ええ。ご機嫌よう、ビーズさん」
本日の朝食、潰した燕麦に薬草を加えて煮込んだ粥なり。
「相変わらず貧乏くさい食事ですわね。お肉を入れなさい、お肉を」
勝手知ったる他人の家。ジョアンナは家主の許可も得ずに上がり込むと、これまた勝手に鍋に残っていた粥を器に盛って食卓に加わった。我が物顔の振る舞いだが、彼女が行うと不思議と不快ではない。そうした振る舞いに慣れているのだろう。未だ呆けている家主よりも、よっぽど主らしい。
「……うるせえな。体にはこの方が良いんだよ」
ようやく復帰したパピーが、憮然とした声で反論する。
「私もジョアンナ様に同意見です! 犬にはお肉を食べさせてあげるべきです!」
「うるせえ穀潰し」
要求と言うよりも、構って欲しかっただけなのだろう。却下されたにも関わらずビーズは嬉しそうだ。もっと構って下さいとオーラを出すビーズを無視して、パピーはジョアンナに向き直る。
「で、朝っぱらから何しに来た。つうか何だよ変態って」
「しらばくれるのは感心しませんわ。それとも昨夕の情熱亭での話が、私の耳に入っていないとでも?」
「…………」
経緯はどうあれ、ビーズが食堂で「交尾」について大声で発したのは事実である。反論のしようがないので、しらばくれて食事を再開するパピー。願わくばせめて話に尾ヒレが付いていないことを。
「なんでも大衆の面前で言い放ったそうですわね。『ぐへへ~、ビーズちゃん。キミのちっちゃなお花に、俺様の太くて堅くて熱々の世界樹をねじ込んであげまちゅね~』などと」
パピーの口から粥が噴き出る。
「尾ヒレが付きまくってるじゃねえか!」
「『大丈夫でちゅよ~、痛くないでちゅよ~。スムーズに挿入るよう、お花から蜜がいーっぱい溢れ出てくるエッチなお薬を付けてあげまちゅからね~。そ~れ、とろっとろ~♪』……貴方は薬師として、いえ、人として恥ずかしくはございませんの?」
「聞いてるこっちが恥ずかしいわ!」
「きゃう~ん! パピー様がそんなセリフを言って下さっただなんて! とろけちゃいます!」
「言ってねえよ馬鹿! つうか、てめえもその場に居ただろうが!」
冷めた視線を送るジョアンナを怒鳴り付け、「くねくねいやんいやん♪」しているビーズを叱り付け。右に左に振り回されて、息も絶え絶えになるパピー。口元に付いた粥を拭う余裕すらない。果たしてこの怒りの矛先、どこにぶつけるべきか。
「おかしいですわね。ニールさんが嬉々として吹聴しておりましたのに」
「あのクソ野郎ッ!」
どうやら矛を刺すべき的は決まったようだ。
その後、ビーズがパピーの口元の粥を舐め取ろうとするなど一悶着があったものの、食卓は一応の落ち着きを取り戻した。もっとも落ち着いたからと言って、話が終わったわけではない。早くも粥を食べ終えたジョアンナが、ハンカチで口元を拭いながら尋ねる。
「それで、本当の所はどうなのですの?」
パピーは冷めてしまった粥を掻き込んでから答える。
「……どうもこうもねえよ。そこの馬鹿が馬鹿なことを言ったのが脚色されただけだ」
「ただの馬鹿ではございません、馬鹿犬です!」
再び構って下さいオーラを出すビーズを無視して席を立つパピー。食後のお茶でも淹れるのだろう。代わりにジョアンナが尋ねる。
「ビーズさんは何をおっしゃいましたの?」
「交尾についてです!」
胸を張って答えるビーズ。昨夕の発言で何に問題があったのか理解しているあたり、案外食わせ者なのかもしれない。
「パピー様に問われたので答えました。『交尾とは男の体を女の体に入れることである』と!」
食堂を震撼させた答え。しかしジョアンナはどこか興味深そうな笑みを浮かべる。
「変わった言い回しをしますのね。男の体ですとか、女の体ですとか」
確かにビーズにしては婉曲的な表現である。普段の彼女なら、もっと直接的な表現をしそうなものだ。
小首を傾げるビーズ。彼女の癖のような仕草だが、いつもと違い、その瞳は不安そうに揺れている。
「あの……間違えていましたか? ですが以前ジョアンナ様が交尾とはその様な行為だと……」
弱々しい声。尻窄みになる語尾。
お茶を淹れていたパピーの手が止まる。そして……何事もなかったかのように作業を再開した。
聞き流すことにしたパピーに対し、ジョアンナは更に踏み込む。元より、彼女はそれを確かめるために来たのだから。
「いいえ、合ってますわ。交尾とはそういうものであると……以前、私が、教えましたわね」
見据える先には赤い瞳。
姿こそ違え、小首を傾げる仕草はあの頃のままだ。
――かつて若き日の少女が拾い、幼き少年に託した獣。
彼女は覚えている。膝の上に乗せた獣に戯れで語った、子を為す行為についての言葉を。それは獣にとって意味のない言葉。なぜならその獣は子を為すことなど出来ないのだから。
孤独な獣。
この島にただ一匹だけ取り残された、最後のオオカミ。
彼女の名は――
「ああ……やはり貴女は、『サリス』なのね」
「え? 違いますけど?」
「「は?」」
万感の想いを込めた言葉は、あっけらかんとした否定の言葉で打ち砕かれる。
呆然となる男。カップから溢れ出るお茶にも気付いた様子はない。
呆然となる女。決して他所では見せられない、間抜けな顔を晒す。
少女は二人の反応を眺めてから、「あれ?」と不思議そうに小首を傾げた。