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飼い主の過去

 それは男がまだ少年と呼ばれていた頃の話。

 ある出逢いと別れの話。

 誰もが一つや二つは持っている、子供時代のありふれたエピソード。


「パピー、これを飼いなさい」

 気の強そうな赤髪の少女が命令を下す。

「え……や、嫌だよ」

 気の弱そうな少年が、それでも健気に自分の意志を主張する。

「そうですか。嫌ですか。分かりました。これを飼いなさい」

「うう、ジョアンナはいつもそうやって……」

「分かりましたね?」

「……はい」

 二人の力関係は明らかだった。

 少女は既に十五の成人を迎えていてもおかしくない年頃、対して少年はまだ十歳に満たない程。口でも腕力でも敵うはずがない。いや、それ以前の問題だろうか。

「よろしい。聞き分けの良い子は好きですよ」

 表情を和らげた少女は、少年の前髪を掻き上げて、おでこに唇を落とす。

 少年の顔が赤く染まる。どこかそれを期待していたような、それを認めたくないような、しかし隠し切れない諸々の感情。不満と気恥ずかしさと喜びが混ざり合ったそれを、それでもどうにか表に出すまいとする。少年は、幼いながらもやはり男だった。

 口を引き結んで、上目遣いに少女を睨み付ける。ずるい。少年の目がそう語っていた。

 一方、少年の視線を受け止めて満足そうに微笑む少女は、どこまでも女だった。

 つまり結局の所、どうあっても男は女に勝てないのである。


「さあ、今日からこの子が貴女のご主人様よ」

 少女は足下で大人しく控えていた灰色のそれを抱え上げ、少年へと手渡した。おっかなびっくり受け取った少年は、そのふわふわとした毛並みと温かさに驚いたか、両目を大きく見開いて、それから嬉しそうに顔を綻ばせた。幼い両腕でやっと抱え上げられる程のそれは、居心地が悪いのかしばらくもぞもぞと動いていたが、やがて満足行く体勢に収まったらしく、大人しく少年の腕の中に収まった。

 一部始終を眺め、どこか不満げな顔の少女。

「言っておきますけど『貴女のご主人様』は『私のモノ』ですからね。くれぐれも思い違いをなさらぬよう」

 繰り返しになるが、少女はやはり、どこまでも女だった。

 そんな少女の言葉に答えるかのように、灰色のそれは少年の腕の中で小さく鳴いた。

「あ、でもジョアンナ……僕、犬の飼い方なんて分からないよ?」

 思い出したかのように少年が口にする。

 腕の中のそれは人に慣れているかのようだったが、それでも幼い少年が飼うには色々と問題があるだろう。しかし少女は気にした様子もない。

「毎日餌をやれば大丈夫でしょう。餌代でしたら心配なさらず。私が出しますわ」

 そういうものなのか。どこか納得がいかなそうな少年であったが、少女の勢いに押されてか反論はしなかった。あるいは反論しても無駄だと思ったのかもしれない。

「それとパピー。それは犬ではないわ」

 少年は腕の中の「それ」を見下ろす。「それ」は会話には興味ないかのように、目を閉じている。

「……犬じゃないの?」

「ええ、犬ではないわね」

 不安げに問う少年に、少女は事も無げに答える。

「それはオオカミよ」


 それからのことは多くは語るまい。

 少年は初めは恐る恐る、だが献身的にオオカミの世話をした。やがて世話に慣れてからも、その献身振りは変わらなかった。少女も忙しい時間の合間を縫って、オオカミに会いに来た。もっともオオカミはついでで、少年に会いに来たというのが本当の所だろうが。

 少女も無責任にオオカミを少年に押し付けたわけではない。傍若無人な振る舞いこそ目立つが、賢い少女だ。少年にならば任せても大丈夫だという確信があったからこそ委ねたのである。少年は期待に応え、飼い主としての役割を全うした。いや、期待以上であったろう。

 一人と一匹は仲良く暮らした。

 それはもはや飼う者と飼われるモノの関係を越え、より深い関係へ。


 一人と一匹、ずっと続くかと思えた平和な生活は、ある時、唐突に終わりを迎える。


 賢い少女は見落としていた。

 優しい少年は気付いていなかった。

 少年が住むのが“マグナの森”のすぐ近くであったことに。

 濃密な魔気は人を蝕む。

 濃密な魔気は獣を蝕む。

 魔気に犯された生き物はやがて――


 出逢いからおよそ二年が経った、ある満月の晩。

 オオカミは当然、少年に襲い掛かり、深い森の中へと消えていった。

 その日、少年は左目と友達を失った。


   ◇◆◇


 男はベッドの上で目を覚ました。

 何かを思い出そうとするかのように、暗闇の中で右目を彷徨わせていたが、やがて諦めたかのように瞳を閉じた。

 男の横で、もぞりと何かが動く。

 一瞬、男の脳裏に懐かしい何かが浮かぼうとした。だがそれは「パピー様……」という曖昧な寝言とともに霧散する。

 苦笑する男。小さな少女がベッドから落ちないよう、そっと自分の傍へと引き寄せる。

 男の胸に顔を埋めた少女は、一度だけ甘い吐息を漏らすと、再び静かな寝息を立て始めた。

 腕の中の温かさは、男に再び何かを思い出させようとした。が、それが何かが分からぬままに、窓から這入り込む森の魔気が、男を再び深い眠りへと誘う。


 夜明けはまだ遠い。

 勝手にベッドに入ってきたことを叱るのは、次の目覚めの後で良いだろう。

 その思考を最後に、男も静かな寝息を立て始めた。

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