犬の餌(食堂にて)
島は魔気に溢れている。
島は魔気に充ち満ちている。
豊かな魔気は森を茂らせ、豊かな魔気は草花を育てる。
木々は数年にして巨木となり、麦は二ヶ月を待たず頭を垂れる。
島の名はマグナ。世界で最も豊かな島。
◇◆◇
「パピー様! 私この『本日おすすめ!口臭はフェロモンだ!漢の活力!山盛りガーリックとオニオンニラ炒め定食(大盛り無料)』っていうのを食べてみたいです!」
「……やめとけ。色んな意味で腹壊すぞ」
小首を傾げる少女に、男は呆れ顔で尋ねる。
「お前さ、ネギとか食って平気なわけ?」
「はい大好きです! 生で良し、煮て良し、焼いて良し! 素晴らしいお野菜だと思います!」
男は「犬のくせに」という言葉を呑み込んで、代わりに「へぇ」とだけ呟いた。
自警団を後にした二人は、早めの夕食をとるべく食堂に居た。
大通りに面した大衆食堂『燃え滾る情熱亭』。
味とボリューム、そして手頃な値段からマグナの街の若い男達から絶大な支持を得ている飯屋である。夜の営業を始めたばかりの店内はまだ客もまばらだが、あと一時間もすれば仕事を終えた者達で溢れかえることだろう。
注文を聞きに来た看板娘に「煮魚定食を二つ」と告げてから、パピーはビーズを睨み付ける。幾人もの子供に泣かれてきた悪人面だが、ビーズは平然としたものだ。むしろ「パピー様」に見られて悦んでいる節すらある。
その反応も予測済みのこと。パピーはずっと溜め込んでいた話を切り出す。
「一週間だ」
「はい?」
「てめえが俺の家に来てからだよ」
夕暮れ時の衝撃の出会いから今日でちょうど一週間。ビーズから打ち明けて来るのを待っていたが、この様子では今後もそれは望めまい。
「事情があるんだろうと今まで泊めておいてやったが、いい加減、話を聞かせてもらおうか」
それは本来、出会ったその場で訊くべきだった問い。
「何が目的だ」
怪しい素振りを見せれば即座に叩き出すつもりでいた。が、この一週間、ビーズがしたことと言えばパピーの後をついて回るだけだった。ただひたすらに、従順な『飼い犬』の様に、パピーの後をどこまでもついて回った。家の中でも家の外でも。まるで見えないリードで繋がれているかのように。街を歩けばその後ろを、家に居れば同じ部屋に。風呂でも寝室でも。禁止しなければ便所にすらついてきただろう。
それはまだよい。
パピーは薬師である。
薬の材料を求めるため森に入る。豊かなマグナが生み出す、深い深い森に。
獣道を突き進み藪に分け入る、樹に登り崖を下る、川を渡り沼に潜る、森を侵し、森を犯す。
ビーズは変わらずついてきた。深い深い森に。荒々しい獣道を侵入を拒む藪を、聳え立つ樹を切り立った崖を、暴れ狂う川を澱み濁る沼を、豊かな森を、豊か過ぎる“マグナの森”を。
濃密な魔気は人の体を蝕む。常人では入ることすら適わぬマグナの森。しかし少女は男に付き従った。幼い体で。苦もなく。笑いながら。その異常性を少女は理解しているのだろうか。
パピーは確信している。
少女は『人』ではない。無論、少女自身が言う『犬』であるはずもない。
パピーは知っている。
人のカタチをした獣の存在を。顔に刻まれた爪痕。幼き日に出逢い、別れた、孤独な獣のことを。
少女の姿形も性格も、記憶のそれとは異なるため、別人の可能性も考えていた。だがその可能性も先程消えた。
「ジョアンナも、てめえのことなんざ知らなかった。あのジョアンナが、だ」
自警団の団長。そんな肩書きを名乗っているが、彼女の本来の地位は、はるか上にある。
ジョアンナ・ディア・ビスチエッタ。
この街でビスチエッタの名を冠することが、どれだけの意味を持つか。絶大な影響力を持つ大商会。島に出入りする船は全て商会の管理下にある。そして余所者が街に入れば、彼女の耳に入らぬはずがない。
街の住人でもなく、新たに島に来た者でもない。消去法が少女の正体を洗い出す。
少女は追及に動じた様子もなく、黙ってパピーを見詰めている。
その姿はパピーが記憶する『獣』とは異なる。しかしその赤い両目だけは、十年前と変わらない。
「何が目的だ」
パピーは確信している。少女は『獣』だ。
故にパピーは繰り返し問う。十年もの歳月を経て、なぜ再び自分の前に現れたのかを――
「はいはーい、煮魚定食を二つ、お待ちどー様っと」
話の腰を折る陽気な声。
真面目な顔のまま停止したパピーを尻目に、皿を並べ終えた看板娘は「ごゆっくりー」などと言いながら別のテーブルへと移っていった。
気まずい沈黙。
咳払いをひとつ。
「……まずは飯だな」
「はい、いただきます!」
『テーブルに並ぶ料理。メインの煮魚――野菜や香草と一緒に煮込んだ大きな切り身が、深めの皿に豪快に盛られている。付け合わせは野菜の酢漬け。籠に山盛りになったパンは驚くことに食べ放題。
程良く煮込まれた魚は、木匙で突くと、ほろりと崩れ、熱々のそれを噛み締めればスープと脂がじゅわりと溢れ出す。野菜の旨味が淡泊な白身魚に深みを与え、香草が味と見た目に彩りを添える。口いっぱいに広がる力強い味わい。たっぷりとした汁気がパンに良く合い、気が付けば二個三個と籠からパンが消えていく。心憎いのが酢漬けの存在。シャキシャキとした食感、酢とスパイスの刺激が口の中をリセットし、再び新鮮な気持ちで煮魚を口にすることが出来る。こうなるともはや手は止まらない。あれよあれよと言う間に大きな煮魚は胃の中へと消え、皿に残った汁の一滴までパンで拭き取って完食してしまった。
いやはや満腹、大満足。この量、この味、この値段。人気店なのも頷けようものだ』
(アントニー著『マグナを食べ尽くす』より)
「犬は群れるものです」
前置きのない少女の言葉に、パピーは頬張っていたパンを無理矢理呑み込んだ。
「……なんだよそれ」
「質問の答えですよ。私は犬です。だから群れるのです。目的なんてありません」
「俺は犬じゃねえよ」
「もちろんパピー様は人間です。だから私は犬なんです」
笑いながら話す少女。パピーはその真意を探ろうとするが、赤い瞳からは何も見出せない。
「そういうことなんです」
何故か得意げに締めくくる少女をしばらく見詰めてから、パピーは大きな溜息を吐いた。
人間、腹が膨れれば大抵の悩みは吹き飛ぶ。
少女の正体とか目的とか、そんなことが急に馬鹿馬鹿しく思えたのだろう。
「あー……もういい。勝手にしろ」
少なくとも少女が害を与えてくる様子はない。どこにでも付いてくるのは鬱陶しいが、徐々に慣れつつある。煩い外野の声もその内に沈静化するだろう。何より森に一緒に入れる戦力は貴重である。厄介な弟子が一人増えたと思えば安いものだ。
どういう風の吹き回しで会いに来たのかは知らないが、少女がしたいようにやらせようとパピーは結論付ける。
「いいえ、勝手にするだなんてとんでもない! 犬は主人に従うものです!」
「てめえは俺に従った事なんてねえだろ!」
訂正。この馬鹿犬を飼うのなら、ある程度の「しつけ」が必要そうだ。
顔を顰めるパピーとは対照的に、ビーズはやはり笑顔だった。
「あの……私からもひとつ訊いていいですか?」
食事を再開してしばらくして、ビーズがおずおずと口を開いた。彼女にしては歯切れが悪い。
「なんだ?」
「先ほど会った女性ですが……」
「ん? ああジョアンナか。あいつがどうかしたか」
パピーは食事の手を休めぬまま問い返す。
少女は珍しく逡巡している。よほど訊きづらい事なのだろうか。興味を湧かせた男が「怒らねえから言ってみろ」と促すと、ようやく重い口を割った。
「あの方はパピー様の“つがい”ですか?」
「…………は?」
煮魚をつつく手が止まった。
「えーっと、ですからつまり、ジョアンナさんという方は、パピー様と交尾をする相手なのかと……痛っ! 何をするんですかパピー様!」
「しつけだ馬鹿!」
「怒らないって言ったのに……」
おでこを押さえながら文句を言うビーズに、どこか慌てた顔で怒鳴り返すパピー。
「でもあの方から雌の匂いがしてましたよ?」
「だから黙れっての!」
再び頭を叩かれるが、ビーズはむしろ嬉しそうに笑う。体罰は逆効果だ。
「……つうかお前、交尾がなんなのか分かって言ってるのか?」
どうやらパピーは色々と動揺していたらしい。軽い気持ちで漏らした言葉を、彼は後々まで後悔することとなる。
問われたビーズは、混み始めた店内に響き渡る声で、元気よく答えた。
「はい、交尾っていうのは、男の体を女の体に入れることです!」
喧噪がぴたりと止んだ。
固まるパピー。褒めて下さいとばかりに胸を張るビーズ。
やがてひそひそと、次第にざわざわと、店内に喧噪が湧き戻る。漏れ聞こえて来るのは「変態」「ロリコン」「羨ましい」等々、パピーの社会的地位を最底辺まで失墜させるものばかりだ。
記憶を飛ばす薬……いや、いっそ「死人に口なし」とするべきか。
貯蔵室の奥に眠る薬を思い浮かべながら、パピーは天を仰ぐ。
「どうですか? 正解ですよね?」
無邪気に尋ねるビーズ。
「…………大間違いだよ馬鹿野郎」
その言葉はパピー自身に向けたものだろう。