犬に噛まれる
『見知らぬ少女が、小便を撒き散らしながら男に抱き付いた』
……およそ男女の出会い方としては最悪の部類だろう。
抱き付かれた男は、あまりの出来事に思考が停止し、立ち尽くすままだった。
少女は男が無抵抗なのをいいことに、お腹のあたりに顔を押し付け、心ゆくまで男の匂いを堪能した。
抱き付く少女と、棒立ちの男。
どれだけの時間が経っただろうか。
ぶるり、と震えた少女が、恍惚の表情で男を見上げ、宣言をする。
「私はパピー様の『犬』でございます!」
今から一週間程前の、夕暮れの出来事である。
◇◆◇
夜は近い。
太陽は沈みかけ、代わりに丸い月が昇ろうとしていた。
街には灯りが灯り始め、森は既に闇に呑まれている。
街と森、人の世界と獣の世界。二つを繋ぐ細い小道を歩く男の姿があった。
男は長身で、顔の左半面には古い爪痕が刻まれている。
そして右半面には真新しい苦悩が刻まれていた。
薬の売り歩きを終えたパピーは、街外れにある自宅へと向かっていた。
道すがら、彼は軽くなった背中の箱に不安を抱いていた。今日はやけに熱冷ましの薬の売れ行きが良かった。元々売れ筋ではあるが、子供や年寄りを抱える家を中心に買う者が続出した。どうやら風邪の流行の兆しがあるようだ。
薬が売れるのは商売人として喜ぶべき事である。が、薬師としては複雑な思いがある。薬が売れると言うことは、薬を必要とする怪我人や病人が居るということである。『最豊の街』と称されるマグナの街であるが、それでも人々は怪我や病気といった苦しみから逃れることは出来ない。彼に薬学を教えた師匠は、事あるごとに「薬師は他人の不幸で飯を食う」と口にした。全面的な肯定はしないが、確かに薬師の一面を表してはいる。
――薬師で良いのだろうか。
彼は迷う。
――はたして薬師は「人を救う」ことが出来るのか。
彼が薬師の道に入り十年になろうとしている。その間に、何度自身に問い掛けただろうか。
彼の薬で治った怪我がある。彼の薬で治った病気がある。彼の薬で、救われた命がある。
それも事実だ。彼の誇りでもある。
幾度となく感謝された。頼りにされている自覚がある。こんな男を街の人々が受け入れてくれるのは、彼が築いてきた実績があるからだ。
力が及ばなかったこともある。何度となく。罵られて、殴られて、泣かれ嘆かれ縋られ……頭を下げた。書を紐解き、調合を変え、新たな素材を探し、時には自分の体に施し、腕を磨いてきた。次こそは救えるように。いつかは、誰をも救えるように。
しかし、彼は悩む。
俺は人を救えるのだろうか。
……良くない兆候だ。
気持ちが泥沼に沈み込みそうなことを感じたパピーは、思考を切り替えるために右目を閉じた。
閉じた右目と閉ざされた左目。
両目を閉じたまま、彼は足場の悪い小道を迷い無く進んでいく。
迷いは敵だ。「薬師は誰よりも健康であらねばならない」というのも彼の師匠の教えである。こちらはパピーも全面的に同意する。薬師たるもの心身共に健康であらねばならない。健康でない者が、どうして他者を健康にすることが出来ようか。病は気から――不健康な思考は肉体を蝕む。必要なのは「これからどうすべきか」という前向きな思考だ。
熱冷ましのストックはまだ充分にあるが、念のために今夜にでも追加で調合をしておこう。他に急ぎの仕事もないし、主材料となるベーリジの根はまだ残っていたはずである。もうじき自宅だ。帰ったらまず干しておいた薬草を取り込もう。そしたら風呂、それから晩飯だ。薬の調合はそれからでいい。焦らずとも今夜中には出来上がるはずだ。
所詮は薬師、神ではない。出来ることは限られている。ならば出来ることをやればいい。
方針が定まったことに満足をして、パピーはようやく右目を開けた。
既に小道を抜け、視界に住み慣れた我が家が映る。
しかしパピーの表情は再び険しいものとなる。
自宅の戸の前には、見知らぬ少女が立っていた。
立てたばかりの方針はすぐさま変更となった。薬草の取り込みは後回し。それ以降の予定も一旦白紙に戻す。辺鄙な場所に建つ家であるが、時々こうして訪ねてくる者がいる。彼等は大抵、急な怪我人や病人の報告を手土産にやって来る。手遅れでないことを願いながら、パピーは少女に駆け寄った。
――そして、話は冒頭へと戻る。
『見知らぬ少女が、小便を撒き散らしながら男に抱き付いた』
パピーが駆け出すのと同時に、少女もパピーへ向かって駆け出していた。
少女が羽織っていた外套が肌蹴て、痩せこけた幼い裸身が露わになった。
少女が通った後には、点々と飛沫が散っていた。
少女は笑顔だった。満面の笑顔だった。真っ赤な両目にはパピーの姿しか映っていなかった。それはこれまでパピーが何度も目にしてきた「薬師に助けを求める者の顔」とは明らかに違っていた。
ここにきてようやくパピーは足を止める。おかしな話だが、彼は自分の身の丈の半分しかない小さな少女に恐怖を覚えていた。
しかし少女は止まらない。既に二人の距離はあと僅か。最後の跳躍、裸足で地を蹴り、少女はパピーの腹へと飛び込んだ。
衝撃は軽かった。
飛び込んだ勢いこそ強かったが、小さな体はパピーが受け止めるには十分であった。
衝撃は重かった。
腰に手を回し、腹の顔を埋める見知らぬ少女。パピーの思考は真っ白に染まる。
パピーの脚が温かい液体で濡れていく。それが少女の股から流れ出るものだと気付くのには、まだしばらくの時間が必要だった。
抱き付く少女と、棒立ちの男。
ぶるり、と震えた少女が、恍惚の表情で男を見上げ、宣言をする。
「私はパピー様の『犬』でございます!」
陽は完全に沈みきり、満月が東の空に輝いていた。
森から流れてくる魔気が、二人を優しく包み込む。
「……誰だよ、てめえ」
男がようやく絞り出した問いは、果たして本当に聞きたかったことだろうか。
「犬です!」
間髪入れずに答える少女は、どこまでも笑顔だった。