笑顔が消えた日
新聞部がお休みの木曜日の放課後、私は電車に乗って帰路に就いていた。普段は電車に乗ると読書をしているが、生憎いま読んでいる途中の本を自宅に忘れてしまった。
私は今、とても爽やかな気分である。心の中のモヤモヤしたものが晴れて平穏な日常を取り戻したのみでなく、音威子府くんと接することで、態度は相変わらず無愛想でぎこちないけれど、それでも少し積極的な自分になれた。彼にはとても感謝しています。ありがとう。彼さえ良ければ、友達になりたいな。なんて。
だって彼は、ついこぼれてしまった私の笑顔を受け入れてくれたのだから。
でも私、学校では愛想良く振る舞いたいとは思っていても、笑いたくはないの。そう思って日々を過ごしていたら、いつの間にか両親の前でさえ笑えなくなっちゃった。
だからね、雪まつりの時はとても嬉しかった。でも、心が舞い上がって音威子府にバレンタインのチョコバナナを買ってきて、思わず笑顔をこぼしてしまってから、少し怖かった。
私から笑顔が消えた日の事と、同じ事が起きてしまうのではないかと思って。
◇◇◇
私から笑顔が消えたのは、中学一年生の授業中だった。季節は初雪が降る11月頃だったと思う。
「いってきまーす!!」
「いってらっしゃ~い!!」
「麗ぁ、俺を置いて行かないでくれ~」
「バカな事言ってないで、アンタも出掛け支度しなさい!」
いつも通り、私が元気に『行ってきます』の挨拶をすると、お母さんは元気に、お父さんは寂しそうに私を見送ってくれた。この日の朝まで、引っ込み思案で大人しい私でも、両親や仲の良い友達の前では普通にお喋りしたり、笑い合ったりできたのだ。
◇◇◇
学校に着いて、授業が始まって、どの教科だったか覚えていないが、教室は騒がしくて、授業崩壊していた。その中心には、いつも面白い事を言ってみんなを笑わせる男の子が居た。
あの時も、彼は何か面白い事を言ったのだ。
「「ははははははっ!!」」
教室に響き渡るクラスメイトたちの笑い声。殆どの子が笑っていたと思う。
「はははははっ!」
いつもなら、授業崩壊した時は彼に構う事なく自習や読書をしていて、話を聞いていないので笑う事もなかったが、自習の準備をしようとカバンの中を手探りしているタイミング、つまり、書籍などの別の世界にのめり込んでいないタイミングで面白い事を言われたものだから、私も釣られて笑ってしまった。
その時だった。
「ねぇねぇ、留萌さんが笑ってるよ!」
不意に、笑いの中心人物とは別の、お調子者で明るいけれど、自己中心的で意地悪が好きな男の子が私を見て言った。チャラついた子には人気だけど、陰で彼を嫌っている子は何人か居た。私もその一人。
ザザッ!
瞬間、一斉に人が振り返ったり、椅子の脚が床に擦れる音がした。
彼の一声でクラス中の視線が私に集中した。みんな、まるでツチノコや宇宙人でも見たかのようにぽかんと口を少し開けて、目を丸くし、教室は静まり返った。
私はどうすれば良いか分からずに、笑顔混じりで顔を引き攣らせた。
怖かった。とても怖くて、全身がぞくぞくして、金縛りのように身動きが取れなくなり、固まってしまった。
確かに、私が笑うのは珍しい。でも、だからって、そんなに目をギロッと見開かなくたって…。
私は、感情を表に出しちゃいけないんだ。出したら見世物にされて、とても怖い目に遭うんだ。
これが、私から笑顔が消えた瞬間だった。
傍から見れば些細な出来事かもしれない。でも、私から笑顔を消し去るには、十分過ぎるくらい大きな出来事だった。
それから私は、公衆の面前どころか、両親の前でさえも笑えなくなった。笑おうと思っても、身体が拒絶するのだ。誰かと会話をする時は、感情を押し殺して、努めて冷静に、淡泊に。
両親は笑わなくなった私をとても心配して、笑わせようと駄洒落やオヤジギャグをよく言ってくれたが、私は勉強に疲れて笑う余裕がないとか、笑えない年頃だとか言って、誤魔化した。
お父さんは大声で何度も泣い喚いて、イジメられてるのかとか、嫌なことがあったのかとか訊いてくれたけど、言い出せなかった。
◇◇◇
それから約二年が過ぎ、もうじき中学を卒業する一月の事だった。
大手企業に勤めるお父さんが、地元の旭川支社から札幌支社への転勤を命じられたのだ。それに伴い、私が中学校を卒業してすぐ、留萌家は家族揃って札幌へ引っ越したのだ。
高校は現在通っている札幌市内の学校に入学し、誰も私を知らないこの土地でなら、気持ちを切り換えて新しい生活が始められる。
高校に進学して、私は同じ事を繰り返さぬよう引き続き、感情を表に出すのを控えた。知っている人は誰も居ないし、高校デビューと銘打って、はっちゃけてみようとか考えた事もあったけれど、もともと人見知りが激しくて、あまり笑ったり騒いだりする性格ではないから、無理に笑顔を作るのも疲れそうで、抵抗があった。
そのため周囲から暗いとか感じ悪いとか噂される事もあったけれど、その程度で済むなら構わない。
願わくば、みんなと仲良くしたいけれど、それは贅沢と割り切っていた。
でも新聞部に入って、愛想の悪い私に顧問の先生や先輩方が気さくに話しかけてくれたり、構ったりしてくれる。
同じクラス、部活なのにあまり話した事のなかった音威子府くんは、雪まつりで私に三年ぶりに笑顔を取り戻させてくれた。私が笑ったら、気まずそうだった彼も笑って喜んでくれた。こんなに嬉しい事は、今までなかった。
彼と二人きりでも、まだ笑顔に慣れない私はぎこちない態度を取ってしまうけれど、いつか自然に笑い合えたらって思う。
◇◇◇
電車を降りてバスに乗り換え、もうすぐ我が家。今夜のおかずは何にしようかな~。
ズルッ!
「きゃっ!」
ドテッ!
落ちていたバナナの皮を踏んでコケてしまった。
こんな所にバナナ捨てちゃだめだよ。
「アホ~アホ~」
目の前の塀の上に留まっているカラスが私を見て鳴いている。犯人はこの子なのかな。
そう思っていると、カラスは嘴を大きく開けて、両翼で『べろべろばぁ~っ!』をした。
間違いない。この子がバナナを仕掛けたんだ。きっと、この前の朝、私のパンを奪って行ったのもこの子と愉快な仲間たちだ。
私、心の中でだけど言ったよね?
あんまりアホとか言うと焼き鳥にしちゃうよって。
今回は麗がの過去のお話でした。全体的に暗くならないよう気を付けながら執筆しましたが、いかがでしょうか。
この後、麗がカラスをどうしたかは皆さまのご想像にお任せします。