第二十六話 敦君と決断
夜が明けた。
あまりに衝撃的な梓の過去を聞いて、未だに気持ちの整理がついていない。
母親が亡くなった事は聞いていた。
でも、最近まで海外にいた事も、お母さんが病気だった事も、両親がいない事も‥‥想定してなかった。
その悲しみを背負いながら、笑顔で振る舞う事が、どれだけの事か。
俺には、想像もつかない‥‥わけでもない。
自分も、かつてそうだったから。
父親と母親がいなくなった人間の気持ちは、分かる。
それでも俺は、ひとりぼっちになったわけではない。
俺には、ジジイがいた。
他にも家政婦の人たちがいた。
誰も、俺を一人にしようとはしなかった。
梓は、違う。
本当に、一人だ。
俺の目の前では、明るく振る舞っていたけれど、本当は心細かったはずだ。
現実的でなかった『婚約者』という存在。
俺は、どこかで、いつものジジィの悪ふざけだと、そう感じていたのかもしれない。
でも、梓にとっては、それは冗談でもなんでもなく、両親がいなくなった彼女の唯一の救いの手だったのだろう。
もし、俺がその手を払いのけさせたら、彼女はどうなるんだろう。
ジジィは、自分の利益にならない人間を手元に置いておくほど優しい人間じゃない。
もし、梓が「音羽敦の婚約者」という立場を失えば、ジジイは彼女を見捨てる。
なら、俺はどうするべきなのか。
初日の梓の反応を見れば、彼女と俺は過去に会った事があるのは分かる。
けど、それは俺の記憶の隅に追いやられて未だに出てこないくらいの、そんな記憶だ。
その程度の結びつきでしかない。
梓を助ける義理は‥‥ない、かもしれない。
でも俺は、彼女を知ってしまった。
小さな、でも確かに繋がりを持ってしまった。
そんな人間を切り捨てられるほど俺は―――冷酷にはなれない。
「敦さん、起きていますか?」
ドアのノックと共に、梓の声がした。
昨日と何一つ変わる事のない声だ。
「あ、はい。起きてますよ」
俺が返事すると、すぐに扉が開けられた。
「朝ごはん、出来てますよ」
梓は笑顔だ。
まるで昨日の事なんてなかったかのようだ。
でも、俺はその笑顔の裏にある過去を、感情をすでに知ってしまっている。
やっぱり俺は――
「先に着替えますか? なんなら、お手伝いしますけど」
「‥‥いえ」
いたずらっぽい笑顔で冗談を言う梓を、真顔で止めると、梓は空気をすぐに読んで真面目な表情になった。
「加瀬部さん」
「‥‥何でしょう」
前の呼び方をあえてした俺に、梓はその話の内容をうっすらと分かったようだった。
「婚約についてです」
俺が敬語でそう答えると、梓の口元がほんのわずかに引きつった。
当たり前だ。
今の梓には、それが全てなんだから。
「昨日から、考えていたんです」
だからこそ、言わなきゃいけない。
「でも、やっぱり、今の俺にはその言葉は現実的でなくて‥‥重すぎるんです」
梓の表情が一瞬で悲しみに変わり、悲壮さが伝わってくる。
でも、僕は言わなきゃいけない。
臆せずに、しっかりと。
「そんなっ」
「だから」
そう、だから。
「婚約者じゃなくて‥‥友達から始めませんか?」
「‥‥えっ?」
梓の表情がまた変わる。
喜びでも悲しみでもなく‥‥困惑という色に。
「加瀬部さんは僕の事を知っているみたいですけど‥‥僕はどうしても思い出せないんです。だから、僕は何もあなたを知らない。だから‥‥これからもっと知っていくために、友達になりたいと、そう思うんですけど‥‥どうですか?」
梓の困惑の表情は変わらない。
その複雑そうな表情は変わらない。
ただ、その複雑そうな表情のまま、言葉を発さない。
しばらく、思い沈黙は続いた。
僕は、ずっと梓の答えを待った。
「それが、敦さんの答えですか?」
梓が、射るように俺を見つめる。
「‥‥ええ、そうです」
簡単な決断ではない他人の、そして俺の人生を左右しかねない大きな決断だ。
だから、俺一人で決める事が出来ない。
梓に判断を委ねる。
「それなら、私の答えは一つです」
梓は、しっかりとした口調で言う。
その次に出てくる言葉を、俺は待った。
するt、梓は表情を崩して笑った。
張り詰めていた空気が、一気に和らぐ。
「敦さんが私の為に一生懸命に考えてくれた事なら、私は喜んで受け入れますよ」
梓が、右手を出す。
「よろしくお願いします、敦さん」
俺はその手をとり―――かけて、やめる。
「敦さん?」
「敬語はなし」
「え?」
「友達なんだから、敬語はなし。同い年だし」
婚約者、という関係ではなく、友達、という関係だからこそ、近づきたい。
梓の事を、もっと知りたい。
「分かりまし‥‥分かった、わ」
梓はぎこちない言葉で、もう一度右手を出した。
「これからよろしく、梓」
俺がその手をとると、梓が、もう一度笑みを浮かべる。
それは自然な、笑顔だった。