第二十五話 敦君と梓の過去
夕食の後、梓は絵里さんが急いで用意した(この家は元々二人で住むのには広すぎて、普段使わない部屋は殆ど掃除をしていなかった)自分の部屋に戻って行った。
今がチャンスだ。
梓の部屋をノックする。
「どうぞ」
中から梓の声が聞こえる。
扉を開けると、眼鏡をかけた梓がベッドの上に座って本を読んでいた。
「梓、目悪いのか?」
「そうですよ、普段はコンタクトなんです。言ってませんでしたっけ?」
「うん。聞いてない」
確かに、机の上にコンタクトレンズのケースがある。
「敦さん、もしかして眼鏡フェチなんですか?」
「いや、別にそんな事はないけど、初めて見たから新鮮だとは思う」
「ドキドキします?」
梓が顔を近づけてくる。
「いや、別にそんな事は」
「そうですか‥‥」
なぜか梓は残念そうな顔をする。
「ところで、どうかしたんですか? 昨日のお返しですか?」
梓が挑発するように胸元をパタパタさせる。
「違う!」
「あら、そうですか‥‥」
梓はわざとらしくがっかりしたような顔をする。
「そういう事じゃなくて、梓の事を、聞こうと思って」
「私の事?」
「そう。俺、梓の事‥‥何も知らないから。その‥‥婚約者の事知らないのは、問題だろ?」
未だに直接出すのはちょっと照れくさいフレーズ。
だけど、いいかげん慣れなきゃいけない。
「今まで何してたとか、どこから来たのかとか、そういう事」
「何をしてたか、ですか」
梓の顔が険しくなる。
「もしかして、言いにくい事?」
「言いにくいっていうか、言うまでもない事っていうか。普通の女の子だったので、特に面白い事は」
「面白いとか面白くないとかじゃなくて、知りたいんだ、梓の事を」
「‥‥分かりました。お話しします。と言っても‥‥何から話していいのか‥‥」
梓は少し悩んだ後、立ち上がり、机の引き出しの奥から何冊かアルバムを取り出した。
「これが、中学の時のアルバムです」
そこには、俺の知らない梓がいた。
見た目は、あまり変わらない。
ただ、何かが決定的に欠けているような、そんな違和感がある。
「こっちが、小学生の時ので、これがそれ以前のやつです」
梓は次々にアルバムを渡してくる。
一枚一枚見ていくうちに、違和感の正体に気がついた。
「なんか‥‥笑顔の写真が増えてきてる気がするんだけど」
最初に見た中学時代の梓は、あまり笑っていなかった。
それが、小学校、幼稚園と年を遡るごとに、どんどん笑顔が増えていった。
いや、それ以前に、写真そのものが増えている。
中学のものは、卒業アルバムと薄いアルバム一冊しかないのに、小学校の時の物は卒業アルバムに加え何冊か、幼稚園の時のアルバムは、ちょっとした辞書くらいの厚さになっている。
そして、もう一つ気になる事がある。
「前の高校の写真はないの?」
当然、卒業してないのだから、卒業アルバムはない。
でも、女子なら友達と一緒にとったプリクラとか、そういうものの一枚や二枚あってもいいはずだ。
でも、梓の手元にはそういう物すらなさそうだった。
梓の表情が曇った。
「‥‥ありません」
どうして、と訊きたい。
だけど、今の梓の表情を見ると、その一言は喉元で押しとどまる。
「別に、大した理由じゃないですよ。写真、嫌いなんですよ。撮るのも撮られるのも」
梓の言う事は、本当かもしれない。
でも、きっとそれが一番の理由じゃない。
「前の学校って、どんな所だったの?」
「どうって言われても‥‥普通ですよ。ごくごく普通の学校です」
「友達とかは‥‥」
「あまりいなかったですね。一人で本を読んだりとか、そういう事が好きなので」
梓は笑っている。
イジメとか、そういう事はなさそうだ。
そして、もう一つ引っかかる事がある。
「これ‥‥日本じゃないよね?」
写真の背景は、日本では見覚えのないものばかりだ。
その中のいくつかは、ジジィに無理やり連れて行かれた外国で見た気がする。
「はい。ニューヨークです。私、向こうの日本人学校に通っていたので」
そういえば、英語の授業でスラスラ答えていた。
「帰国子女なんだ」
「そうですよ。意外ですか?」
梓がこちらに身を寄せる。
いつの間にか、梓はこちらに体を預けていた。
「意外じゃないけど‥‥梓、普通に日本人顔だから」
「両親はどっちも日本人ですから。親の仕事に向こうにいただけで」
「仕事は何してたの?」
「父はTOWAのグループ企業の社員でした」
梓はさらりと言い放つ。
「言ってませんでしたっけ?」
聞いてない。
聞いていないが、全く想像していなかったわけではない。
ジジィが見ず知らず人間を婚約者に選ぶとは思えない
ふざけたジジイだが、自分や他人の立場を考える事くらいは出来る。
自分の会社を継いで欲しいと願ってる(俺にはいたく不満な事だが)孫に、見ず知らずの人間を選ぶようなことはしない。
しっかりと相手を調べ、社長夫人にふさわしい人間を選ぶ。
そして、グループ会社とはいえ、自分の会社の人間なら、どういう人間であるかを調べることは容易だろう。
「いつまでアメリカに?」
「つい最近まで‥‥」
梓の顔が曇る。
明らかに、地雷を踏んだのが丸わかりだった。
「あっ‥‥ごめん」
思い出した。
初めて梓がここに来た時のことを。
梓の言葉を。
『私の母が‥‥亡くなったんです』
そして、梓の表情を。
「いえ‥‥」
梓は俯き、俺の腕にさらに強くしがみついた。
しばらく沈黙が続いた。
「私はずっと母と二人きりでした」
しばらくして、梓が俯いたまま話を始めた。
「父は仕事人間で‥‥ほとんど家に帰って来なくて‥‥私と母はいつも、二人きりでした」
そういえば、あれだけ分厚いアルバムなのに、ほとんどが梓一人で写っている写真で、家族での写真はほとんどなかった。
「‥‥一緒にいなくて、寂しくなかった?」
何を聞けばいいのか分からなくて、そんなことを聞いてしまう。
「寂しくなかった‥‥と言ったら嘘になります。両親と一緒に遊んでいる子達を見て‥‥羨ましくも思いました。でも、母はもともと病気がちで‥‥父は母と私のために働いてくれていると‥‥知っていましたから」
だからと、簡単に割り切れるものではないと思う。
少なくとも、俺はそうだった。
両親が亡くなって、周囲にいるのは家政婦さんだけだった。
周りの子とは違う事はすぐに分かる。
唯一の肉親であるジジイも、仕事で家に帰ってくることは稀だった。
だから、自分の持っていない、生涯持つことのできない絆を、他の子が持っているのが羨ましくてたまらなかった。
絵里さんが来てからも、今も、ずっと羨ましい。
きっと梓も、そういう思いを持って、それでも受け入れている。
それは虚勢かもしれないけれど、それは単純に凄いことだと思う。
「周りに助けてくれる知り合いもいませんでしたし、母が調子を崩した時に世話をするのは私の役目でした。だから私は、いつも家に母と二人でいました。正直言って母の事を、恨んだこともあります。『もしお母さんが元気だったら』‥‥と。でも、優しくて温かかった母の事も、努力家で、どんな苦しい時も弱音を吐かない父の事も、嫌いにはなれなかった‥‥」
梓が言葉に詰まる。
「母と父と三人で、ずっと一緒にいたいと、そう思ってたんです」
それがどんな思いを込めて発せられた言葉かは、俺の腕をつかむ力の強さで簡単に分かった。
「そのためなら、私もなんでも頑張ろうと思ってました。実際に、母と父のために頑張りました。母も父も、それぞれ懸命に‥‥でも‥‥頑張りすぎたんです。母の病気より先に‥‥父の体がパンクしました。過労で倒れて‥‥そして、そのまま‥‥」
梓は無表情で淡々と、事務的に説明するように話す。
「‥‥お母さんは、どうしたの?」
「父が倒れてからすぐ、急に病状が悪化して‥‥」
梓は上を向いた。
その姿は涙が流れるのを防いでいるようだった。