タイトル未定2026/07/10 14:05
別添で作成した原稿のシリーズ第二弾目。
毎回同じメンバーで、事件を解決していくストーリーです。
「BWK大賞1」
(タイトル)
「四角い水辺の風景
学校プール死体事件(仮)
――楽観主義の七福神 二―― 」
河原 俊太郎
(続きは執筆中)
1
下町宝船署捜査一課、寿財子のスマホがリビングのテーブルの上で、バイブ機能を自慢するようにブルブルと踊り出したのは午前8時、昨夜の深酒がたたり、着替えもせぬままソファで眠り込んでしまって迎えた朝だった。目蓋を開くのを諦め、手探りでなんとか逃げるスマホを捕まえると、途端に耳慣れた声が手元で弾けた。
「課長!起きてますう!?そんな所でそんな恰好で寝てたら、いくら夏だからって風邪ひいちゃいますよお!とりあえず起きて、顔洗ってくださいよお!」
電話の相手は、事件の捜査の際、最も行動を共にすることが多い、いわゆるコンビを組む部下の布袋刑事だ。
「…な、なんで、わかるの…?…」財子は声を絞り出した。
「だって、いつものことじゃないすか。ついそうしたって、じぶんでいつもいってんじゃないすか。とにかく起きて、すぐ来てくださいよお。四丁目の小学校で、男が一人、溺れちゃったんすよお!」
「…小学校で…溺れ…たあ…?…」
「プールっすよ、プール。小学校の校庭のプールで、25メートルプールで、なりの大きな男の死体、プカプカ浮いちゃってたんすよお」
2
「領収書、ちょうだい」
そういって財子が、当の小学校の前でタクシーを降りると、正面の前で、布袋が腕組みをして待っていた。
「タクシーで現場に来るって、どうなんすか?」
「だってしょうがないじゃない。一番早く駆け付ける方法だったんだから。車を取りに署に寄ったんじゃあ時間かかるし、それに――」「――それに、まだアルコール、残ってんでしょ。刑事が酒気帯び運転じゃ洒落になんないっすよ。だから飲み過ぎには気をつけて欲しいって、前からいってんすよ。そのうち体――」
「――ハイハイ、わかったわかった、お前、小姑みたいだねえ。その割には図体でかいけど。――で、ここが現場?ちゅうきち小学校…?」
門の片側に掲げられた学校名を財子が眺めた。
「それ、中吉と書いてなかよしって読むんすよ。ちなみに先日、事件のあった大吉幼稚園とは、全く関係ないらしいんで、念のため。さあ、プール、こっちすよ、校庭の奥――」
大男と小柄な女デコボココンビが小走りで、広い校庭を斜めに横切った先に、金網塀に囲われた小学校の専用プールがあった。プールの入口にはいきなり、子供たちが足を洗うための浅く水を溜めた場所があり、そこに靴ごと足を突っ込まないように気をつけながら、階段を6~7段登ると、プールサイドに辿り着く。四方のプールサイドはさして広くはないが、25メートルプールで子供たちが水泳の授業を行うには充分な施設で、入口とは反対側の奥の一角には、目を洗う専用の水道や、用具入れなのか更衣室なのか、屋根が傾斜した小ぶりな建物もあった。
子供の頃には水泳が得意で、プールにも慣れ親しんだ財子だったが、改めて小学校のプールを見ると、その小さなサイズ感に歳月の経過を覚えて、少しだけがっかりもした。とはいえ、人一人、溺れ死ぬには充分な大きさだったとでもいわんばかりなのか、校庭側から一番遠くのプールサイドに、大きな体を横たえた人の姿が見てとれた。規制線が張られる中、私服や制服の警官たち、鑑識係がせわしくなく動いていたが、そんな中でも際立つほど、敷かれたブルーシートの上のそれは存在感があった。
「ずいぶん、大きな土左衛門さんねえ…」
布袋に引率されてきた財子は、プールから引き上げられた遺体の傍らに立って呟いた。
「午前8時前、通報を受けた到着した警官たちがプールの中でうつ伏せに浮いている人を発見、その後、プールから引き上げて、死亡を確認しました。ポケットに入っていた所持品から、亡くなったのは、この小学校に勤務する田辺正夫さん、38歳ということです――」
財子の班では最も若手の大黒が、すぐさま彼女に近寄ってきて説明を始めた。
「第一発見者は同じくこの学校に勤める男性体育教師の中野先生。夏休み中ですが、今日はプールの自由開放日だったため、その準備をしようと早めに登校して発見したそうです。同僚の事態に相当ショックを受けたようですが、話を少し聞いたところ、亡くなった田辺さんも、体育の先生だったそうです――」
「…土左衛門さんの正体は、大きな体の体育の田辺先生……」
大黒の話に、財子がまた独り言のように呟いた。
「それにしても、土左衛門とは、まさに言い得て妙ですねえ」
いつの間にか財子の隣に立っていたベテラン刑事、温厚な性格の福田がやんわりいった。「どういうことなんです?」大黒が反応した。「若い人が知らないのも無理はないですねえ。そもそも土左衛門というのは、江戸時代のお相撲さんの成瀬川土左衛門のことなんですよ。彼の体がとても肥大だったので、世間の人が溺死した人の膨れあがった死体のことを〝土左衛門のようだ〟と、いったのが始まりで、溺れた人のご遺体を土左衛門と呼ぶようになったというのですよ」
「へええ、福田さん、物知りなんすねえ」感心したのは布袋だった。
「だてに長いこと、生きてませんよ。東大では、そういうこと、教わんないんですか?」
布袋はめずらしい高学歴刑事だった。官僚を目指すのではなく、現場の刑事に身を投じたところに、彼の人間としての味があった。
「でもほんとに、相撲取りのように大きな体すねえ、仏さん。それにただ大きいだけじゃなくて、ちゃんと鍛えてるってのがご遺体になってもわかるって感じっすよ」学歴のことはスルーして布袋がいった。そんなやり取りを傍らに、財子は目の前にあおむけに横たわる体育教師を眺めながら思案していた。
「屈強な肉体の体育の先生がつ、小学校の児童用のプールで、溺れる……?」
そんな彼女の言葉を聞いてか聞かずか、遅れて現場に来た、班で一番の長老の老川が、いつもの調子で口を開いた。
「こりゃあ、殺しに違えねえなあ。だってこんな大男が、この寸法の水溜りで溺れるはずぁねえだろう。立っちまえば、せいぜい胸辺りまでの深さだろうよ。なあ、そう思わねえか」
老川が振り返った先には、同じく少し遅れて駆けつけた中堅の二人の刑事、蛯沢と沙門がいた。そのうち理論派の沙門の方が先輩の老川をたしなめた。
「そう決めつけるのは早計ですよ。よく調べてからじゃないとわかりませんよ」
「そうですよ。この状況だと、事故と他殺の両面で探りを入れなきゃなんないですよ」蛯沢も沙門に同調した。
「んなこたあ、あるもんかい。仏さん、見て見ろよ。ガッチリした体格に、よく陽に焼けた浅黒い肌、成瀬川がどうだったかは知らねえが、頑丈で健康そう、見るからに丈夫そうなご様子だあ。ちっとのことじゃおっちんだりはしなさそうだ。だとすりゃあ、殺し、そうさなあ、また組織の仕業ってなもんだろな」
「また、そういう突飛なことをいう。いつもそうやって、現場を茶化すの、やめてくださいよお」
調子付いて話す老川に、思わず布袋が突っ込み、蛯沢と沙門が大きく頷いた。
「しゃああんめいよ。それが俺の最近の当たり役なんだからよお」
後輩刑事たちが、間髪入れず声を揃えた。
「なんなんすか、ソレ?意味わかんないすよ!」
3
亡くなった田辺氏を囲み、七人全員が状況を共有した寿財子班の刑事たちは、その後、遺体が検死に回るのを見送って、それこそ各々の役割へと身を投じた。
財子と布袋は校内の職員室で、第一発見者を初め、居合わせた学校関係者たちの話を聞くことにし、福田と沙門は亡くなった田辺氏の自宅を調査、老川と蛯沢は現場であるプールを念入りに調べた後、学校周辺の聞き込みに回ることになった。新人の大黒は、署に戻り、現場の状況や、鑑識や検死から上がってくる情報を取りまとめるように、財子から任じられた。
「この雰囲気、なんだか懐かしいわね――」
校舎の正面、学年ごとの下駄箱が整然と並ぶ入口を通り抜け、履き替えたスリッパでパタパタと音をさせながら、職員室へと向かう廊下を歩く途中で財子がいった。
「課長にも、子供の頃があったんすね」
布袋が相変わらずの憎まれ口をたたく。
「当たり前じゃないの。最初から大人のわけがないじゃない」
「課長、子供の頃は、どんなんだったんすか?」
「そうねえ、今よりもっと小さくて、でも男の子たちをよくからかって――それに――きっと、お酒も今ほど飲まなかったわ」
ちょうど職員室に点いたので、布袋は財子を取り合わずスルーしたが、財子も別に、取りあって欲しいわけではなかった。
職員室の扉を布袋が開けると、想像通りの職員室の風景が、刑事二人の目の前に広がった。部屋は意外なほどに広くて、先生たちの机が規則正しく並び、教室二つ三つ分はあるような空間を、校庭側に面した、いくつもの大きな窓から差し込む、夏の陽の光が照らしていた。その窓からはちょうど、さっきまでいたプールが、校庭越しの向こう側に眺めることができた。
「お待たせしてすいません。改めてもう少し、お話、聞かせてもらいますけど、大丈夫ですか?」
布袋が声をかけたのが、第一発見者の中野先生だろうことは、財子にもすぐわかった。夏休み中のことなので、広い職員室にある人の姿は三~四人ほどだったが、一様に動揺の気配を見せる中、彼は一際、怯えた表情を浮かべているようだった。不安そうに身を縮めながら机の前の椅子に腰かけている。体育の先生だからなのかジャージ姿で身軽そうだったが、今朝、彼が目撃した出来事は、決して身軽に受け止められるようなことではないはずだった。
「――で今朝は、プールの準備のために登校したんですね?」
側の机の前にあった椅子を勝手に二客引き寄せ、相手と向かい合うように財子と並んで腰かけた布袋が、その心中を察するでも間をもつでもなく質問を始めた。中野先生は小柄で華奢に見えたが、緊張で委縮しているからというわけではなく、もともとそういう体格の持ち主のようだった。
「…は、はい、きょ、今日は、プールの日なもんですから。夏休みの間の週に二日ほど、子供たちのために、その、プールを開放するんです。それで、安全のために、体育教師が付き添うんですが、今日は、ぼ、僕が当番だったものですから…それで、プールの状態を確かめようと…水の汚れをチェックしたり、プールサイドを掃除したり、オープンの前に、そういう準備をしようと、そのために早めに来たら…そしたら、あの、プールを見たら――」
ジャージ姿の脅えた体育教師は、布袋の問いかけをきっかけに、まるで語ることで抱えた不安が軽減するとでもいうように、事の件を口にし始めた。
「プールのオープンは何時なんですか?」
布袋が話の流れに差し障りがない程度に合いの手を入れた。
「く、9時からです。で、ですから、8時に、い、いや7時半に来たら、そしたら、あの、ふと、プールを見たら、な、何かが浮いてて、最初は、何だか、わかんなくて――」
「――それが、田辺先生だった――?」
「あ、ええ、ただ、本当に最初は、何だかわかんなくて、人かどうかさえもわかんなくて、何か大きくて、黒いものが、浮いてるなという感じで、人だなんて、田辺先生だなんて――思いもしなくて――」
「――で、人だと気づいてすぐに通報なさったんですね?」
「は、はい。ほ、本当は、人だと気がついた時に、す、すぐに飛び込んで、引き上げて、救助を、人工呼吸をしなきゃならないんでしょうが、その、実はその、人だとわかった時に、こ、腰が抜けてしまって、プールサイドにへたり込んでしまって、で、電話をするのが、精一杯でして、も、申し訳ないのですが……」
「ご遺体の様子からすると、亡くなってからずいぶん時間が立っていたようです。先生が人工呼吸をしても、残念ながら、手遅れでした。どうか、お気になさらないように。むしろ、現場保全の観点では、それでよかったのかも――」
それまで黙っていた財子が、委縮した相手に、ささやかな助け舟を出した。だが相手の心情的に置かれた境地は、思った以上に不安が勝っていて、気分をいくらか楽にするはずのそんな助け舟は、さざ波にさえも耐えられずにすぐに沈んでしまうほどの小舟にしかなりえないほどの不安に満ちていた。
4
校庭の向こう側のプールでは、引き続き鑑識係や警官たちによる現場検証が行われていた。その中に交ざって老川と蛯沢も、周辺の状況確認に余念がなかった。
「小学校のプールって、こんなに小さかったんですねえ」
紺の制服、帽子姿の鑑識係たちが、腰を屈めて、プールサイドの地面の残留物の有無を確かめる様子を眺めながら、財子と同じような印象を目の前のプールに持った蛯沢がいった。
「そうかあ?俺らのこらあ、プールがあるってだけでありがたくて、大きさなんてあんまり覚えちゃいねえなあ。うちの山の手の小学校にゃプールあったから、隣町の小学校が借りに来てたりもしたもんだよ。貸してもらう側と貸す側、なんとなく引け目や優越感が子供心にも芽生えたもんだよ。今みたいに端から端までみんなが豊かって時代じゃなかったからなあ、あの頃は。人や、家によって、差ってなもんがずいぶんあったもんさ」
しゃがみ込んで、プールの水面の浮遊物でも探している風の老川が答えた。
「へええ、おやっさんにしちゃ、繊細な子供時代を過ごしてたんですねえ。それにしたって、山の手って――?」
「何いってやがんでえ。俺がぁ、繊細で品のいい、山の手のお坊ちゃんでえなくて、誰がそうだっていうんでぇ」
「――はああ、そういうとこですよ、そういうとこ――」蛯沢がため息混じりの言葉を吐いた。
「まあ、とにかく、こんくらいのもんだろうよ。小学生のちびっこいのがピチャピチャ泳ぐにゃ、充分な水溜りだあ。泳ぎ、覚えたてがぁ、がんばって泳ぐにゃ、25メートル?充分な寸法だぁ。プールサイドも走り回れるくらいにゃあるし、そこにゃ、目を洗う水道もある。更衣室らしいのもあるし、ほら、ゴムボートで遊ぶことだって、できらあ」
立ち上がった老川が、周辺を見渡しながら、そこここを指差した。
「――ゴムボート――?」
老川の指先につられていた蛯沢の視線が、景色の一角に引っかかった。
「このゴムボートって、何なんですかね?」
プールサイドの一番奥、更衣室らしき四角い建物の前に、小さくもない黄色のゴムボートが二艇、重ねて置いてある。それが蛯沢の目に留まった。
「このゴムボートはゴムボートだろうよ。水に浮かべて使うんだよ。んなことも知らねえのかぁ」
「でもこのプールには、このゴムボート、違和感がありませんか。これ標準的なサイズのやつで、救助用にも使うような、救命ボートとして使うような、大きくて丈夫なものですよ。小学校の25メートルプールで使うには大仰過ぎますよ」
「水にゴムボート浮かべるのに、大きい小さいってなことあんのかい?まあ、なあ、確かに、このプール用にしちゃあ、コイツはナリが大き過ぎるかもな。水場で使う物ってことで、たまたま置いてあったってことなんじゃねえのかい」
「…たまたまねえ…」
何となく釈然としないまま、蛯沢は空気がはち切れんばかりのゴムボートが鏡餅のように重なった姿を眺めた後、奥の建物の様子を探ることにした。壁が白く塗られたコンクリート造りのそこには、プール側に面してスライド式の扉があり、傍まで来て見てみると、鍵をかけるための金具が取り付けてあった。かといって鍵がかかっているわけではなかったので蛯沢は躊躇なく扉に手をかけ、建物の中を覗き込んだ。一歩足を踏み入れると、さして広くない空間の中に、通路スペースがありその両側に大ぶりな棚が設えられ、ビーチ板やらホースやらバケツやら、プール関係の各種備品が収納されていた。
「おやっさん、ここ、更衣室じゃないみたいですよ。こころいろんな道具を入れておく用具室みたいですね。プールの掃除道具とかコースロープとか、そういうのいろいろ、仕舞ってあるみたいですよ。さしずめ、そこのゴムボートも――」
「ははーん、なるほどな。そういうことかい」
老川が蛯沢の背後にまでいつの間にか近づいて来ていて、用具室の入口で、中の様子をうかがいながら、納得気な顔を浮かべた。
「何が、そういうことなんですか?」
蛯沢が老川の方へ振り返った。
「ゴムボートだよ、ゴムボート。こいつら、この狭っちい部屋の押し込まれて、窮屈な思いをしてたんだろうさ。だからもう我慢できなくなって、本分の通り、水の上に乗っかりたくて、夜中の内に自分で外へ出てきたんじゃねえのかい?水に浮かぶまであとちょっとってことだったんだろうな」
「――???ど、どういうことです?――」
「あんな、物にはな、どんな物にも、心ってものが宿ってるんだよ。ゴムボートだからってバカにしちゃいけねえ。こいつらだって、自分の居心地のいい場所を選ぶ権利だってあらあな。あのよお、世の中にゃ、説明のつかない不思議なことってのが、時たまあんだろ。そういうのは大抵、人以外の、目に見えない、何がしかの思いが作用してってのが多いのさ」
5
「最近の老川のおやっさん、何だかヘンテコリンなことをいう機会が、増えてきているような気がするんですよねぇ」
遺体が所持していた免許証の現住所を、念のため学校の教員名簿で照合した後、福田と沙門の二人は車で、亡くなった田辺氏の自宅へと向かっていた。その途中、運転しながら
沙門が口にしたことに福田が答えた。
「ご老人が変なこというの、今に始まったことじゃないじゃないですか。妙なことばっかりいってて、たまにまともなことをいう。珍しいことじゃないですよ」
福田は助手席の窓の外を何気なく眺め、沙門は信号待ちの間、ハンドルを両腕で覆うようにして身を預けている。
「そうなんですけどねえ。それにしてもこの頃、特にひどくなったような…。話のヘンテコぶりも度を増してきたような…」
「まあねえ、長い間、こんな仕事をしていたら、いつもまともでいるなんて、だんだんできなくなるのかもしれませんねえ。それにご老人、もうすぐ定年でしょう。箍が外れかけてるのかもしれませんねえ。まあ、皆さんは、彼のいうことに、せいぜい付き合ってあげてくださいな。あ、沙門君、ここですよ」
正面の入口に広くはないが車寄せがある建物に、沙門は車をすべり込ませた。二人が車を降りて見上げた建物は、いかにもワンルームマンションという佇まいだった。
「聞いたところでは、田辺さんは独身ということなんでしょう?だとすれば、不幸な事態をたとえば奥さんや子供に伝えないで済むだけもささやかな救いですね。さあ、管理人さんに一声かけて、お部屋を拝見しましょうか」
福田に促されて、沙門も気を取り直した。田辺氏の部屋は、3階建てのマンションの2 階の端に位置し、入口の1階にあった名入りの集合ポストと同様に201の表記がドアの上部に張り付けてあった。鍵は彼の携帯品の中から見つけ出し、持参してきていたので、管理人の手を煩わせることはなかったし、鍵穴とも無論合致した。そこはまさに、亡くなった田辺正夫氏の部屋に間違いなかった。マンションの入口に居合わせた管理人には、詳細は伏せて、警察の権威と職務だけをちらつかせておいた。
「田辺さん、独身の一人暮らしで間違いないようですね――」
部屋に足を踏み入れた途端、沙門がいった。その言葉に違わず、典型的なワンルームの造りの部屋には、男性体育教師の暮らしぶりが溢れていた。玄関には大きなサイズのスニーカーが何足も脱ぎ散らかされ、奥の部屋につながる廊下途中の洗濯機置場には、ジャージやTシャツが山積みになっていた。簡易な台所には洗ってくれる主を失った使われたままの食器や、コンビニ食品が置かれっぱなしで、ビールの空缶も数個、転がっていた。
「――いかにも体育会系の部屋って感じですよ」
「そうですねえ。確かに住んでいる人の素性を想像しやすいお部屋ですねえ。とにかく沙門君、今回の事態につながるような原因が何かないか、念入りに調べさせてもらうことにしましょうか」
このタイプならではの、リビングと寝室を兼ねた部屋には、ベッド、机と椅子、本棚、専用の台に乗せられたテレビ、その正面の部屋の真ん中に、横長のローテーブルと、暮らしに必要と思われるものが一通り置かれ、単身者向けにしてはどちらかというと広めのはずの空間を、所狭しという印象に変えていた。
男二人で部屋にいるとやや窮屈な感じもしたが、大柄そうだったこの部屋の主にとっても、同様に、決して広さにゆとりがあったわけではないような気がした。その分、調査をするには、それほど手こずることもなさそうだった。
「田辺さん、ここにもう、帰って来れなくなってしまったんですね。福田さん、今回の件、どう思います?やっぱり殺しですかね」
机の上にある物や引き出しの中を探りながら沙門が聞いた。
「ええ、確かに、ご老人のいう通り、大柄な体育の先生が、小学校のプールで事故に合うとは考えにくいですよね。だとすればやはり、第三者の力が加わったと思うのも無理のない発想ですよ。そういう事情につながる何かが、この部屋で見つかるのかもしれませんよ」
福田はそんなふうに答えながら、ベッドの傍の壁に備え付けられたクローゼットを覗き込んでいた。何着かのスーツがぶら下がっていたので、もちろんポケットの隅々に至るまで、手を突っ込んで何かの手がかりがないかを確かめた。
「どうやら田辺さん、釣りをする人だったようですね。専門誌、定期購読してるみたいですよ。本棚にずらりと並んでますもん」
沙門の観察は、机の周りから、その並びの本棚へと移っていた。規則正しく収納された雑誌の背表紙には〝フィッシング〟や〝釣り〟の誌名が並んでいた。
「テーブルの上には最新号、それにボートや船の専門誌もありますよ。どうも海に馴染みの深い人だったんですね」
「そのようですね。クローゼットの中にも釣りの道具がたくさん詰め込んでありますよ。海に絶えず出かけていた人ならば、よく陽に焼けていたことも頷けますね。ただ、そうして水に親しんでいた人ならばなおのこと、監視役を努める側の立場でありながら、プールで自らが溺れるなんてことは合点がいきませんよねえ」
6
「――で、でも、人が浮いているなんて、思いもしなくて、ましてや、それが、た、田辺先生だなんて、信じられなくて――」
第一発見者である中野先生の動揺は依然続いていた。その心中を察しながらも、職務を全うしようと二人の刑事は相変わらず事情聴取に余念がなかった。
「――け、警察の人たちが来て、か、彼を引き上げて、それでも、まだ、それが田辺先生だとは、気がつかなくて、へたり込んでいる僕に、警察の人が声をかけてきて、それで、寝かされたその人を見て、その時初めて、やっとそれが、田辺先生だとわかって……」
「引き上げられた姿を見て、田辺先生だとわかったんすね。さぞかし、驚かれたでしょう」
布袋が話の腰を折らないよう、言葉を添えた。
「ええ、そりゃあもう。だ、だって、田辺先生ですよ。いつも元気いっぱいで、誰よりも丈夫そうで、体も大きくて、運動神経もよくて、身体も鍛えて……そんな田辺先生が、まさかって、田辺先生に限って――」
「健康的な方だったんすね。お人柄はどんな方だったんすか?中野先生にとっては、どういう存在でした?先生とのご関係は?どうでした?」
相手からの言葉をさらに引き出すように、
布袋が仕向けた。
「…やさしい、よき先輩でした。同じ体育教師として、いろいろ教えてもらい、影響も受けました。でも、まあ、こんな軟弱な僕と、田辺先生とでは、同じ教科でも、まったくタイプが違うので、田辺先生にとって、僕は、いたらない所がずいぶんあったと思いますが……」
中野先生にとって田辺先生は、同じ体育大学で三学年上の先輩であったらしい。学生時代は知り合いではなかったが、同じ小学校の教師同士として出会い、母校が同じということで何かと目にかけてくれたということだ。
「田辺先生が、何か問題を抱えていたという可能性はありませんか?」
それまで布袋任せにしていた財子が、ようやく口を開いた。
「も、問題ですか?さ、さあ、ぼ、僕にはわかりかねますが…」
「では最近、今までと変わった様子はありませんでしたか」
「さ、さあ、特には…。あ、でも、最近といえば、田辺先生、大きい買い物をする予定になっていたと思います」
「大きい買い物?」布袋がすぐに喰いついた。「え、ええ、たぶん、ボートを、船を買うつもりだったんだと思います。田辺先生、釣り好きで、海によく行ってましたし、自分の船も欲しいっていってて、近いうちに――」
「近いうちに、船を買うつもりだったと。なるほど、でも、安い買い物ではないすよね、船って。維持費も何かとかかるだろうし。そういう準備をしてたってことですかね」
「そうだと思います。休憩時間に、専門誌を見て、調べてたみたいですから。中古の船を探していたんだと思います。ほら、そこに雑誌、置いてあるでしょ」
中野先生が自分と机と背中合わせ、偶然布袋が腰かけている席の机の上を指差した。布袋はそちらの方へ振り向くついでに、財子に顔を近づけ、小声で呟いた。
(――お金の流れ、調べてみる必要が、ありそうっすね――)
財子は黙って、軽くそれに頷いた。するとちょうどそこへ、おどおどとしながら二人の女性が近づいてきた。
「あのお、警察の方でいらっしゃいますか?今、聞いたんですけど、そのお、田辺先生、亡くなったって、ほ、本当なんですか?」
二人のうち、長い髪を後ろで一つにまとめた美人が口を開いた。その背後で身を縮めたショートカットの女性は、どちらかというと可愛らしいタイプで、二人共とてもチャーミングに見えた。そして二人共、似たようなジャージを着ていた。
「お二人は?」財子がたずねた。
「私たちも、ここの体育教師です。私は、石坂桜子、こちらは日野先生、日野いすず先生です」
長い髪の石坂先生が名乗りながら身をずらすと、短い髪の日野先生がその傍らで会釈をひとつした。
「誠に残念ながら、本当のことです。お気持ちはお察ししますが、できれば少し、お話を聞かせていただけますか?」
財子がそのまま、二人を促した。もちろん二人共、動揺を隠せないでいたが、財子の要請にあらがう術も理由もなく、素直に聞き取りに応じてくれることになった。同僚の同席に、話を聞かせてくれていた中野先生の緊張が少しは和らぐかもと財子たち刑事は思ったが、むしろ、女性たちの登場に、違う緊張が上乗せされたかのようにも見えた。
「中野先生が発見なさったそうですね」
周辺の机用の椅子を寄せ集めて、机と机の間の狭いスペースに五人が車座で向かい合うように腰かけ直した時、最初に石坂先生が中野先生の顔色をうかがうように声を出した。
「は、はい、そうなんです。プ、プールの点検に早めに来たら…」
後から来た女性教師二人も、もとより不安な表情を浮かべながら姿を見せ、そのまま、その様子に変わりがなかったが、やはり緊張と不安の一番の主は男性教師の方だった。その上、刑事たちの目にはなぜか、彼がいっそう動揺の色を濃くしたようにさえ映った。
「今日は、体育の先生がお揃いだったんすね。偶然、そういう日だったんすか?」
布袋が体育教師たちを眺めた。
「ええ、何しろ今日はプールの日ですから。責任者は当番制ですけど、体育教師は一応、この日は登校するのが慣例なんです。その方が安全ですから。それにプールに来る生徒は男子だけではありませんから、何かの時のために私たち女性教師も出てくるんです。それからプールの日は夏休み中に、私たちと生徒たちが触れ合うことができるいい機会でもあるんです」
三人の中で一番気丈なのか、この渦中においても、石坂先生がはっきりと答えた。話しぶりのせいなのか、切れ長の目元とすっとした鼻、薄い唇のすっきりした顔立ちのせいなのか、彼女はやはりとても美人に見えた。
「では体育の先生は、皆さんで全員?」
布袋の問いかけに石坂先生が言葉を続けた。
「はい、うちでは男性教師二名、女性二名の計四名で、全学年の体育を受け持っています。授業のほか、生活指導や個人相談の相談員も務めたりもしますが、生徒数から考えると、うちは充実している方だと思います。男子にも女子にも、目が行き届いていると――」
話しながら、その充実のための人員を一人失ってしまったことに気付いたのか、彼女の言葉がふと途切れた。それをあえて気にもかけずに、布袋は問いかけを続けた。
「中野先生にもうかがいましたが、皆さんの関係がどんなふうか聞かせていただけますか?不躾で申し訳ありませんが――」
そういいながら、誰からも不躾に話を聞き出すことこそ、仕事の本分だと布袋は自覚していた。
「私たちの、関係?」
やはり最初に反応するのは石坂先生だった。
「ええ、立ち入ったことをお聞きするようで申し訳ありませんが――」
立ち入ったことを聞き出すことこそが、刑事の仕事に違いなかった。
「まあ、仕事の同僚、同じ学校の同じ体育教師どうしということですが…。私たち、タイプ、個性は全然違ったけど、四人ともけっこう気が合って、仲がいい方だと思いますよ。一緒にご飯行ったり、カラオケ行ったりしたこともありますし。ねえ、そうだよね」
石坂先生が、自分とはタイプの違う日野先生の方に顔を向け、同意を促した。それを受けてもう一人の方の美人の日野先生が、二重まぶたのパッチリした大きな目を泳がせながらコクリと頷いた。
「まあ、たまには、指導方針の考え方で、意見が合わないことはあったけど、何でもいい合える、そういう関係ですよ、ねえ中野先生」
石坂先生が次に同意を求めた相手は、力のない目を泳がせながら、頷くこともできずにいた。
「お二人にとって田辺先生はどういう方だったんですか?」
混乱を抜け出せずにいる中野先生をチラリと見て、布袋は聴取の相手を切り換えるように、わかりやすく視線を動かした。まだ声を出していない日野先生の話を聞くつもりもあったが、やはりまず答えるのは石坂先生だった。
「私たちにとっての田辺先生?そりゃあもう頼りになる兄貴っていう感じで、私たちには絶対、なくてはならない存在だったんです」
7
「ベランダにも釣りの道具、いろいろ置いてありますねえ。アイスボックスなんか、大きいヤツ、何個もありますよ」
入念な家宅捜査を進める中、ベランダにいた沙門が、部屋中を細々と確認する福田に声をかけた。福田の家探しは、衣類のポケットの中どころか、沙門が確かめ終えたはずの机界隈の引出しの奥の奥や、机やテーブルの上に積まれた本や雑誌の間、ページの間々にまで及んでいた。そんな所作に、後輩の沙門は、ベテラン刑事ならではの成せる業と、素直に感心こそすれど、ほかに思うことがあるわけではなかった。
「そうですかあ?やっぱり体育の先生、アウトドア派だったんでしょうかねえ。こちらは万が一、遺書や何かがあれば、とも思っていましたが、どうやらそうした類いの物は、ここにはなさそうですねえ」
そういいながら、福田は手を休めることはなかった。部屋の中央の大きめのローテーブルには、下段に小物の収納スペースがあり、福田の指先はそこに詰め込まれた細々した物たちを捌いていた。
「でもどうやら、田辺先生、病院には通ったことがあるみたいですねえ。ここに処方薬の袋、ありますよ。これ、何の薬なんでしょうね、何科の病院、行ってたんでしょうねえ」
薬の袋には病院名ではなく、街の処方箋薬局の名前が記されていた。
「病院ぐらい、誰だって行きますよ。お腹痛かったり、風邪ひいたり、みんな病院行くでしょ。こっちなんか、あちこちの病院行って、いろんな薬、もらってきてますよ」
ベランダから部屋の中に戻って来た沙門が、福田の手にある薬の袋をのぞき込んだ。
「ここの人、体育の先生だっていうから、体を動かして、ケガをしたことだってあるかも知れませんよ。その時の痛み止めとか。その辺に、病院の診察券はなかったんですか。まあ、薬局に連絡をすれば、そのあたりの事情、薬をもらった経緯、じきに辿れますよ」
そんな言葉に頷きながら、福田は袋の中の薬を取り出して眺めていた。錠剤とカプセルの合わせて3種類の薬のシートが、飲みかけの様子になっている。それを袋に戻しながら、福田は思い出したように沙門にいった。
「それから沙門君、さっき下で車を停めた時、この部屋の番号と名前が書かれたプレートが付いた駐車スペースがありましたけど、車はなかったようですね。多分、田辺先生、車で通勤しているんでしょう。だとすれば、彼の車、学校に置いたままということでしょう。財子さんに連絡して、彼の車を調べるようにいっておいた方がいいでしょうね。こっちにはなくても、車の中で見つかる物、何かあるかもしれませんから」
「駐車場のこと、よく気がつきましたね」ポケットから携帯電話を取り出しながら沙門が答えた。
「なあに、たまたま目に入っただけですよ。それで家の駐車場に車がない、部屋の中にはキーが見当たらない、ならば車に乗って出かけたんでしょう。行った先に車、置いてありますよ、きっと」
家宅捜査の対象の周辺環境、外の駐車場にも取りこぼさずにきちんと目を届かせる、それを自然にする所作に、ベテラン刑事ならではの成せる技と、沙門はやはり素直に感心する。沙門は自他共に認める、思考が理論的なタイプだったが、杓子定規な理論や理屈よりも、時に単純明快な経験が、それに勝ることがあるのを承知していた。
「じゃあ、課長に連絡して、それを伝えておきますね。でも課長、意外とウッカリしてるから、電話しても、気づかれないこと、けっこうあるんですよね。出てくれるかなあ。たまに、どこかに置いてきちゃってることまであって――」
「沙門君、何いってるんですか。財子さんに、課長に連絡する時は、そばに一緒にいる、布袋君に電話をするに決まっているじゃないですか。布袋君にいって財子さんに伝えてもらう、それが普通ですよ」
経験が理屈に勝ることを、沙門はやっぱり承知した。
8
「――なくてはならない、お兄さんのような存在?」田辺先生を説明した石坂先生の言葉を、布袋が繰り返した。
「お兄さんじゃないわよ、兄貴って感じなの」
意表をついて布袋に切り込んだのは、隣にちょこんと腰かけていた財子だった。
「えっ?何すか?課長?」布袋は思わず首を横にして、聴取相手を見ていた視線を、財子に向けた。
「だから、お兄さんじゃないのよ。兄貴っていう感じ、だっていうのよ、ねえ、先生?」
財子が、同調を求めて石坂先生の方を見た。
「あ、え、ええ――」石坂先生は一瞬、戸惑った表情を浮かべ、二の句を飲み込んだ。
「え?どういうことっすか?だから、そういってんじゃないすか」
腑に落ちないのは、布袋だった。たがもっと腑に落ちていないのは財子の方だった。
「だ、か、ら、違うじゃないの。あんたがいってるのはお兄さん、石坂先生がいってるのはア、ニ、キ。ぜんぜん違うじゃないの。最高学府出てんのに、そんなこともわかんないの」
「ええ――、同じじゃないすか、兄貴とお兄さん。先生がいったことを、ちょっと丁寧にいったまでっすよ。意味わかんないすよ」
「あんた、それだから駄目なのよ、あのね――」
刑事二人の妙なやりとりに、その知らずに種をまいた石坂先生も、他の先生たちも、置いてきぼりをくっていた。
「――いい?兄貴っていうのはね、そうねえ、気心の知れた頼もしい相手っていう感じかしらねぇ。お兄さんっていうのは、単純に年上の人、もう少しこざっぱりした関係って雰囲気かしら。似てるようでも、そこに含まれるニュアンスが全然違うのよ。その人が持っている度量の大きさが違ったり、親しさの度合いが違ったり、とにかく、兄貴とお兄さんでは全然違うのよ。ねえ先生、田辺先生はお兄さんっていう感じより、兄貴っていう感じだったんでしょ。面倒見がよくて、頼り甲斐のある兄貴みたいな存在だったんでしょ?」
「は、はい、確かに、そんなふうな――」
「――ほらね。だから、そういう、言葉の持つ微妙な違いや雰囲気を察して、相手の真意を汲み取るってことが大切なのよ。特に私たちみたいな、こういうややこしい仕事をしている身の上ではね。わかったあ?」
「は、はあ、そ、そうすっね――」
釈然としない思いが布袋の中に込み上げていたが、それを声高にしない器用さも彼は持ち合わせていた。するとちょうどその時、まるで布袋の気分を形にして代弁したように、ポケットの中のスマホが鳴った。
「すいません。ちょっと失礼します。はい、布袋です。ああ、沙門君、あ、はい、大丈夫っすよ。ええ、そうっす――」
布袋は、ひと言添えてその場の了解を得て電話に出た。財子はそれを眺めるでもなく、改めて体育の先生たちに向き直った。
「すみませんねえ、気が利かなくて。こいつこう見えて、東大、出てるんですよ。なのに物好きで、刑事なんて因果な商売やっちゃってて。東大ったって、観音崎だか犬吠埼だか、どこの灯台だか、わかりゃあしませんけどね。先生たちを見習って、もう少し体の方を鍛えたら、見た目も頭の中もスマートになるんでしょうにね」
目の前で大柄な男と小柄な女が、その見た目とは真逆の力関係で会話をしていることに、その奇妙な光景に、ショックで心を固くしていた三人も、少し体の力を抜くことができたのかもしれなかった。率先して話をしていた石坂先生はもちろん、日野先生と中野先生も、いくらかは気が紛れたようだった。
「――そうっか。はい、了解しました。ええ調べておきます。じゃあ――。――すいませんでした。えっと――」
布袋が電話を終え、顔の向きを変えて、この場に戻って来た。その途端に、財子に話の腰を折られ、自分が電話に出てしまい、間があいてしまった事情聴取を、元のペースに戻そうと試みた。
「――とにかく、田辺先生、皆さんにとってはア・ニ・キのように、心強い存在だったんですね。学校の中での評判は、生徒たちにとっては、どんな先生だったんでしょうか?」
布袋はあえて、石坂先生以外の二人に向けて視線を送った。先程までの硬直した表情が、心なしか和らいでいるような気もしたが、それが思い過ごしではなかったのか、目の合った日野先生が、その時はじめて口を開いた。
「せ、生徒たちにとっても、頼もしい先生だったと思います。せ、先生、積極的に、生徒たちと、触れ合うように、してましたから――」
石坂先生に比べれば、とてもか細く聞こえたが、日野先生はイメージ通りにやさしく可愛らしい声の主だった。
「熱心な先生だったんですね」布袋が日野先生に狙いを定めた。
「は、はい、すごく、生徒たちに、前向きでした。で、でも、その代わり、その分、厳しくもあって、起こると怖い、というイメージもあったようですけど……。でも、それも生徒たちを思ってのことですから――」
「それを理解できない生徒たちからは、単純に怖がられたり、時には反感を持たれたり、先生の立場としては、そういうこともありそうじゃないですか」
布袋は続けて日野先生を見つめていたが、それまで質問に答える立場を務めてくれていた石坂先生も、気を取り直し、また、率先して口を開いた。
「小学生といっても、高学年ともなれば、いろいろと考える年頃ですから、断定的なことはいえませんが、田辺先生に限ってはどの生徒からも慕われていたと思います。愛情を持って接していることは、生徒たちもわかっていましたら。その証拠に、みんながいろんなことを先生に頼んでいましたよ。鉄棒や跳び箱の指導を個人的に頼む子もいれば、水泳のコーチを頼んだり、他にも花壇を作る手助けをしてもらったり、うさぎ小屋の修理をお願いしたり。とにかく田辺先生、頼まれたらいやとはいえない性格でしたから――」
「――田辺先生、人気者だったんですね」
布袋が口を挟むと、女性二人がはっきりと頷いた。男性の中野先生も、それにつられた。
「ですから私たちも、つい、いろんなことを頼んでしまっていました。面倒見のよさに、つい甘えてしまって、ねえ、日野先生」
「は、はい、本当に」
日野先生が今度は声を出して頷いた。まるでそれを合図にでもしたかのように、石坂先生が説明を続けた。
「自分から何でも率先してやってくださってて、手が空いている時には、何か手伝うことがないかとたずねてくださるほどで。パワフルによく動いてて――。先日も声をかけてくださったので、だったらってお願いしたんです――」
「どんなことを頼んだんです?」
布袋が石坂先生の顔をうかがった。ポニーテールをゆらして話す彼女は、改めて、着物が似合いそうな、和風の美人に思えた。
「まもなく学校の夏の行事で、臨海学校を開催するので、その時のためにゴムボートの点検を手伝ってもらうようにお願いしたんです。学校の備品の救助用のボートを海まで持っていくので、状態を確かめておこうと思って。空気を入れてちゃんと使えるかどうか、穴が開いていないかどうか、確認しないといけないんです」
「――ゴムボートを――?」
「――ええ、ボートはプールサイドの用具室の中に入っているので、プールの日のついでに、点検しようと思っていたんです。それ、けっこう大変なので、もちろん田辺先生だけじゃなくて、私たちみんなで…」
「臨海学校のためのボートの点検を、プールの日にしようと…」
布袋は呟きながら、財子はその呟きを聞きながら、先程までいたプールサイドの光景をそれぞれ思い浮かべ直していた。
〝そういえば視界の隅に、黄色のゴムボートがあったような…〟布袋はそんなふうに思い、〝そんな物、あったのかしらん〟財子はそんなふうに思っていた。
「日野先生も、田辺先生に頼んでいたこと、何かありますか?」
布袋が今度は、日野先生の様子をうかがった。大きな瞳を心なしか潤ませたように見える彼女は、ショートカットの髪と小柄な体型だったが、どことなく艶やかな雰囲気が勝っていた。
「え、ええ、私もお願いしていたこと、あります。実は、その、ボートも入っているプールの用具室なんですが、以前、雨の日に中を片づけていたら、雨漏りをすることに気がついたんです。屋根に登ってする作業が大変だと思ったんですが、私には手に負えないので、田辺先生に、都合がいい時に一度、確かめてほしいとお願いしました。もちろん、快く引き受けてくださって、今度、見ておきますって、おっしゃってくださって……」
「――用具室の雨漏りですか……それもまた、プールの側での用事ですね。偶然、プール周辺での作業があったということですねえ…」
また呟くように話す布袋を、周りのみんなが眺めていた。するとふと思いついたように布袋は、しばらく口を閉じていた中野先生に向かって声をかけた。
「先生は、田辺先生に何か、最近頼んだこと、ありませんか?お願いした用事、何かありませんでしたか?」
ふいに聞かれたので、中野先生は少しだけきょとんとしたが、それでも一つ息を飲み込んだ後、ポツリと答えた。
「――いえ、別に――」
今や第一発見者は、すっかりその影を薄くしていた。
9
「――そうですか。わかりました。もし何か気がついたことや、思い出したことがあったら、ぜひ知らせてください。よろしくお願いします。おじゃましました」
そういって蛯沢は会釈をしながら、門のある大きな家の玄関のドアを閉めた。老川は先に振り返り、通りに向かって歩き始めている。二人は小学校周辺の近隣住民宅を訪ね、何か目撃情報がないか、あやしい物音を聞いた人がいないか、聞き込み調査に精を出していた。
「おやっさん、ちょっと待ってくださいよ。ねえ、やっぱり、これ、それぞれ手分けして回りません?その方が効率、いいですよ。二人でやってたら、時間ばっかりかかっちゃいますよ。ねえ、おやっさん」
蛯沢が声を上げたが、老川は知らん顔をして、次の家へと向かっていた。かと思うと、蛯沢に向き直っていった。
「何、ばかいってやがんでえ。刑事は二人で動いてなんぼだろうよ。それが基本ってもんだろうが。第一、別々に動いてみろよ。行く先々で、人相見て、あやしまれるに決まってるじゃねえかい。聞きたい話も、聞けやしないさ。あやしい人を見ませんでしたかって、あやしい人が聞いてちゃあさ」
「ええー?おやっさん、山の手の小学校、出てんでしょ。だったら、品がいいんでしょうから、大丈夫なんじゃないんですか。別にあやしく見えやしませんよお」
「何いってやがんでえ。俺あ、大丈夫に決まってんじゃねえか。あやしいのはお前の方だよ。行く先々でいやな顔されちまうぞ」
「そっちこそ、何いってんです。もうさっきから何軒も、僕が聞き込みしてるじゃないですか。留守だった家も勘定すれば、今の家で10軒目。どの家もちゃんと玄関、開けてくれてるじゃないですか」
「そりゃあよう、お前の後ろで、それこそ品のいい俺がやさしく微笑んでいるからに決まってるだろう。勘違いしちゃいけねえよ」
「あーあ、もうお話になんないですよ」
「さあ、グダグダいってねえで次、行くぞ。この辺り、小学校に面してる家は、どれもこれも大きくて立派な家ばかりだ。その分、一軒一軒、敷地が広いから、住宅の密集地に比べりゃ、訪ねて回る家の数、少なくてすんでんだ。ラッキーてなもんだぜ」
「最近、何だかおやっさん、妙に元気ですよね。何かいいことでもあったんですか」
「そんなんじゃねえけどよ。俺ももうしばらくすりゃ定年だ。残りのひと時を、せいぜいまっとうにご奉公させていただこうっていう、ただそれだけの了見さ。さあ、次はここんちだ。とっとと、ピンポン押しときな」
小学校の裏側、プールのある校庭に面して、一方通行の道路と歩道が通っていて、それを挟んで、一戸建ての大きな家が並んでいた。校庭の敷地沿いには頑丈な金属製の柵に加えて、高い金属塀が張り巡らされていたが、道路側からは、金網越しに小学校の様子をうかがうことができる。二人がこれから訪ねる家は、ちょうど道路越しにプールを望む辺りに建っていたので、何かの事情を見聞きしていないか、いくらか期待をしたい一軒だった。
昔ながらの日本建築、二階建ての立派な家には、道路沿いにひさしのついた木戸が設えてあり、その傍らはこれまた昔ながらの呼び鈴がついていた。それを蛯沢が押すと、少し離れた所でベルの音が聞こえ、木戸から飛び石五つ程先の玄関が開き、中からいかにもこの家の主然としたお爺さんが顔を出した。これ幸いとかいつまんで最小限の訳を話すと、玄関の土間まで招き入れられ、上りかまちに腰かけながら話を聞かせてくれることになった。
「うちの奴は、元気な声が聞こえてきていいじゃないかっていうんですけどね、実は日頃から、私は子供たちの声がうるさくて辛抱ならんのですよ」
聞き取りは、白髪頭をすっきりと刈り上げた高齢者の日常の愚痴から始まった。相手は蛯沢にとっては祖父ほどの、老川にとっては親ほどの歳回りに見てとれた。
「昔はそれほど気にもならなかったんですけどね、こうして歳をとって毎日家にいるようになっちゃ、気にならないってわけにはいかなくてね。外で長年働いてた人間が、家で過ごすようになったからって出くわしてる事情なんでしょうね。うちの奴なんかはもともとずっと家にいたわけだから、それが当たり前になってるんです。当たり前になっている手合いから、気にしないようにっていわれたって、こっちにとっちゃ当たり前じゃないんです。まあ、長いこと経つから、さすがにこの頃じゃ、当たり前にもなってきてるんですけどね」
都合のいい話相手を見つけたとばかりに、おじいさんは冗舌だった。ふだん話を聞いてくれるおばあさんは、今は多分、出かけていて留守なのだろう。二人の刑事はそんな察しをつけながら、話を聞きに来たのだから、相手の話を聞くこともやむなしと観念をしていた。老川にいたっては――おばあさんは川に洗濯に――どこまで行ったのだろう――などと、頭の中でおとぼけ交じりに呟いていた。
その後、家の前の小学校は、授業中は静かだが、放課後や体育の授業の時には、校庭での子供たちの声が騒がしいこと、夏場のプールでの授業では、プールの位置が間近なことから、ますますうるさいこと、子供の声は音域が高いのでいっそううるさいこと、授業の始まり終わりに鳴るチャイムでさえ近所迷惑なこと、夏休みに入って、ようやく少し騒音被害が軽減していることなどを、とうとうと説明された。蛯沢は質問の切り込み時をうかがっていたが、おじいさんの髪と同様にまっ白になっている眉毛に見とれてか、その隙をすっかり逃していた。
「夏休みになったから、あーやれやれ、一カ月の間は静かだと胸を撫で下ろしたもんですよ。ところがどうですか、週に何度かプールの開放日ってのがあるらしい。そんな日は朝から夕方まで、子供たち、はしゃいじゃって大変なもんですよ。水泳の授業じゃなくて自由にプールで遊ぶ日だから、うるさいったらありゃしない。だから張り出してあるプール開放日の予定表を見に行って、日にちをメモしてきて、家のカレンダーに書き込んだりしたんですよ。予定がわかっていれば、なんならその日には、こっちは出かける用事を入れることもできる。碁会所に行ったり、図書館に行ったり、うちのと一緒に百貨店へ行ったり、そうすればうるさい声やはしゃぐ物音をきかずにすむからね。だから今日だって――」
「お出かけになるご予定でしたか?」
蛯沢が試しに話の腰を折ってみた。
「ええ、そのつもりでいて、うちのなんかは友達と約束しててんから芝居見物になんぞ出かけちゃってて、私も適当には碁でも打ちに行くつもりにしてたんですけどね。ところが、いつもならとっくに騒がしい時間なのに、今日は意外に静かだなと思ってたら、なるほど、そういうことだったんですか、ほうほう、プールで事件がねえ、そりゃあ、大変なことですなあ」
その口ぶりは、意外に、大して大変なことでもなさそうなふうに思えた。もしかすると、プール開放日が中止になることの方が、事件が起こったことよりも重大さで勝っているのかもしれないと蛯沢は思った。
「詳しい事情はまだわかりませんので、こうして皆さんに、お話を聞いて回っていると」う次第なんですよ」
ようやくこちらのぺーすに会話を持ってこられるのではないかと、期待しながら蛯沢は続けた。
「何かいつもと違う気配、たとえば誰かがいい争うような声を聞いたとか、変わったこと、気がついたこと、何かありませんか」
「いつもと違う変わったことねえ……今日はプールの開放日だっていうのに、キャーキャー騒ぐ声がしなかったこと以外に?」
「ささいなことでもいいのですが…」
「そうねえ、うん、ささいなことなら、昨日あったねえ。確かに夕方、ドボーンっていったんですよ、ドボーンって、そう、夕方にね」
「ドボーンって?」蛯沢がおうむ返しをした。
「そう、ドボーンって、何か大きな物がプールに落ちた音が、とにかくドボーンって大きな音がしたんですよ。あれ、プールは明日のはずなのにって思ったもんですよ。だから二階に上がって見てみたんですよ。うちはほら、二階の窓からプールの方、見えるから。手前に小さな小屋一つ建っていて、見えない所もあるけれど、大体は見えるから。それで見るとやっぱり、誰もいないので、あれ、気のせいかな、空耳だったのかなあと、思ったりもしたんですけどね」
「夕方、何時ごろか、わかりますか?」
世間話につきあった成果が、ようやく顔をのぞかせたので、蛯沢は少し安堵し、終始黙って話を聞いていた老川は、なぜか大いに満足気な顔をしていた。
「4時ちょうどですよ。見たい通販の番組が始まったところだったから間違いないんですよ。昨日は紹介する商品が、人の声やいろんな音がよく聞こえるようになる集音器と、補聴器でしたんでね、ぜひ見たかった。この歳になるとそういう道具が必需品にもなろうってもんですよ」
途端に、膨らみかけた蛯沢の安堵感は萎えてしまい、膨れ上がった老川の満足感は、音をたてて破裂してしまった。
10
「さっきのあれ、何なんすか?」
「あれって、何のことよ」
財子と布袋の二人は、小学校の校舎の裏側にある職員専用駐車場へと向かって歩いていた。沙門からの連絡で、田辺先生の車が学校にあるかもしれないと知らされ、話を聞いていた先生たちに確認すると、確かに彼は車で通勤していたという。いずれにせよ、手がかりを探して職員室の田辺先生のロッカーや机の中を調べる必要があったので、皆で話していた腰かけている傍らの田辺先生の机の辺りをまずは探ってみると、一番上の引出しの中から、車のキーがすぐに見つかった。田辺先生の足取りとしては、車で学校へ来て、職員室の自分の机の引出しの中にキーをしまった、そこまでは間違いはなさそうだった。
「――あれはあれっすよ。アニキとお兄さんが違うって件ですよ。何だったんすか、あれ」
「ああ、あれね。あんたが都合よくきっかけつくってくれたもんだから、ついね」
「まあ、いいっすけどね。どうせまたいつもの変なクセだと、こっちは思ってましたから」
「だって、先生たち、固かったんだもん。ショックで空気が重たいのは当然だけど、少し話しやすい雰囲気、欲しかったのよ。悪かったわねえ、あんたを出しに使って」
「本当っすよ。まあ、そんなこったろうとは思ってましたから、いいんすけどね。いつものことっすよ」
「あんたはそうやって頭の回転、早いから好きだよ。さすがは最高学府出てるだけのことはあるよ」
「最高学府って、課長だって名門大学出てんじゃないすか」
「私の学校は女子大。ちょっと特殊なのよ。私にとっての最高学府っていうのは、あんたのとこみたいなのをいうのよ」
「何すか、それ。あ、そういえば、大学といえば、あのジョーク、東大と灯台をかけたヤツ、あれやばいっすよ。今時、おやじだってあんなこといわないっすよ」
「あら、聞いてたの?抜け目がないわね」
「聞いてますよお、しっかりと」
「あんた、デレデレしてたわね。体育の先生、二人とも様子がいいもんだから。魅力的だから。どっちが好み?」
「何いってんすか、ちゃんと仕事、してんすから、ちゃかさないでくださいよ――それにしても、田辺先生、いい人だったみたいすね」
「あっごまかした」
「そ、そんなんじゃありませんて。課長、ふざけてないで、ちゃんとしてくださいよ」
「へーへー、わかったわよ――そうねえ、亡くなった田辺先生、どうやら私たちと同じ、できた人だったみたいね。まあ、今のところ、話を聞かせてもらっている分にはね。でもね、死んだ人を悪くいう人はいないものよ。いい人だったって決めつけちゃだめよ。とにかく彼は、不慮の事態に遭遇してなぜか命を落とした、それには何か理由があるはず。もしかすると、私たちがまだ知りえていない、表面には出てきていない、裏の部分、あやしい事情が何かあったのかも。先入観を捨てて当らないといけないわよ。でなきゃ手がかりを見逃すわ」
小学校の正門そばにある来客者用駐車場に比べ、校舎裏の駐車場は意外に遠かった。ようやく辿り着くと、充分な広さがある駐車場に、3、4台の車が止まっているだけで、夏休み中であることを、改めて知らせていた。黒くて大きな車が田辺先生の車だと聞きつけてきたが、黒い車は向かい合って2台止まっていたので、布袋はまずは片方に向かってキーをかざしてオートロックボタンを押してみた。案の定、キーを向けなかった方の車が、ハザードランプを点滅させながら音をたて、ロック解除の反応をしたので、もちろん財子は黙っていられず布袋に向かってあごをしゃくった。
「二分の一の賭けにも、負けてやがんの」
「うっさいすよ!」
性格を今や充分に承知しているつもりでも、あまりにも予定調和な反応をする財子に、布袋は思わず、部下である身を顧みず声を発した。財子の方も上司らしからぬ大人気無さを発揮して、したり顔で口元をゆるめた。
「さあ、車の中、しっかり確かめるわよ」
そこは、田辺先生が生前、一番最後に過ごしたプライベートな空間であることに違いはなかった。手がかりが見つかる可能性も少なくない。車はゴツゴツした大きなタイヤがついた国産の4WDで、行動派の体育教師がオーナーならば、頷ける車種だった。
「私の探して欲しいもの、よーく探してね」
車の大きな運転席側のドアを開け、中に乗り込みながら財子がいった。
「何を探して欲しいんすか?」
車の背後に回り、ハッチバックのドアをはね上げながら布袋が聞いた。
「何を見つけるべきなのか、その答えを見つけるのよ」
11
下町宝船署捜査二課の新米刑事の大黒は、署に戻り、上司の寿財子の命に従い、今回の件の情報を取りまとめようとしていた。事故ではなく殺人事件ということになれば、捜査本部を立ち上げることになるので、そうなった時にも、その場をそのまま使えるように会議室を確保し、鑑識係や検死官に状況を確認するなど、甲斐甲斐しく動いていた。外回り、聞き込みを終えた面々が帰って来るまでに、できるだけの準備を進め、段取りのよさで上司の期待に応えたいとも思っていた。
まずは連絡をとって準備ができたことを確認した鑑識課へ行き、情報を回収することにした。何十枚もの現場写真、各所各部分の指紋の痕跡など、鑑識係が手早い仕事っぷりで、情報を分析し、仕上げてくれたので、大黒はそれを会議室に持ち帰り、大きなホワイトボードを利用して、事態のあらましを開示することになる。たとえば書記係のような役割だが、上司の財子は大黒がそうした情報の整理術に長けていることを素早く見抜いていて、以前から署内での作業を任せることが多かった。ちなみに大黒は、偏差値の高い高校で生徒会に所属し、そこでも書記係を務めていたが、もちろんそんなことを口にしたことはない。まるで自分の得意を見透かされ与えられた役割だったが、新米の刑事としての現場の仕事が増えてきた中にあっても、署内での作業に気持ちに負担のかからない、どちらかというと心地よい自分の居場所を感じているのも事実だった。
検死の結果が出るまでには、もうしばらく時間を要するというので、まずは鑑識係が集めてくれた情報を、ホワイトボードに展開し、現場の状況を再現しようと大黒は思った。その際、ふと思いつき、渦中のプールとその界隈を平面図で描き、それに照らし合わせて順に写真や説明書きを貼付していこうと考えた。そうすれば、今朝、見てきた現場の風景や事情を、みんながホワイトボード上で簡単に効率よく思い浮かべることができる。よその捜査本部でよく見かける、写真をただボードに貼り付けたり、必要事項をただ書き付けたりすることに比べれば、なんと合理的かつ論理的なことか。それに大黒にとっては、正確に平面図を描くことは、いとも容易いことだった。ちなみに大黒は、有名私立大学の建築学科を卒業し、図面など描き慣れたものだったが、もちろんそんなことを口にしたことはない。
「―フン、フン、フン―」
今朝の事情を考えれば、神妙な面持ちでいるべきとも思ったが、得意な作業につい調子が乗ってきた。大きな横長のボードの真ん中よりに、小学校の25メートルプールとプールサイドの平面図をやはり横長に、丁寧に描き上げ、さらにプールの傍らの建物や、入口の階段付近、プールの側の校庭に面した道路などを、できるだけ忠実に描き加えた。その上、ボードの残りのスペースには、学校の校舎、校庭、体育館など、敷地全体の見取図も添えておいた。余白を作りながら仕上げた、簡易ながらも長けた図面に自身で満足した後は、連動した写真を貼り付けていく。鑑識係が撮影してくれた写真はよく撮れていて、各所の様子がよくわかる。デジタル時代ならではの精度とスピードは、少し前の、写真はフィルムで撮ってプリントした時代を知らない大黒にとっては、至極当り前のことだったが、同じ班の老川や福田といった年長組にとっては感心しきりのことで、まるで技術の進歩が若い世代の功績であるかのような気分も大黒は味わえていた。
適材適所に写真を貼付し、ホワイトボードを埋め尽くすと、確かにそこには現場の景色が再現された。さて今度は、亡くなった田辺氏の今朝発見された時の状況や死因、身上に関する情報を、詳細までまとめ上げる作業に移ることにする。同サイズのホワイトボードをもう一台用意し、横長の面を左右に分け、右側の中央には、田辺氏が携帯していた免許証から拡大した顔写真を貼り付け、左側の中央付近には、今朝田辺氏の遺体の様子の写真を数点並べることにした。顔写真の側には、現時点でわかっていることに加えて、この後、集めてこられるであろう個人的な情報を書き込み、遺体の写真の側には、まもなく確認できるであろう死因や検死の結果を展開するつもりだった。
ちょうどその時、大黒の携帯電話に連絡が入り、検死の結果が出たことが知らされた。
「あ、はい、わかりました。ありがとうございます。報告書を受け取りに、すぐ行きます」
検死の仕事は、鑑識のデジタル化に比べると、時代に関係なく、今も昔も専門的な知識と技術、経験がものをいい、丁寧、念入りかつ、迅速な気判断が求められるが、宝船署の検死官たちはベテラン揃いで、優秀な人材がその務めを果たしていた。大黒にしてみると、一つの死体からさまざまな情報を探り出す手腕には、羨望の眼差しを向けていて、無条件に信頼を寄せていた。
「――で、やっぱり、死因は、溺死ですか?」
大黒は、とりあえず電話の相手に、問いかけた。問われた相手は、電話の向こうで、解明したであろう死因について、言葉をいくらか並べたようだった。
「――えっ?プールで、見つかったのにですか?水の中で、うつ伏せになって浮かんでいたのにですか?はあ、そうなんですか。体の中に水が入っていないと。肺の中に水がなかったと。死後硬直が先だったから、体に水が入っていないというわけなんですか。ではとにかく、溺死では、ないんですね。ご遺体は、おぼれ死んだのではなかったんですね」
12
「さすがに体育の先生は、たばこを吸う人ではなかったようね。灰皿はピカピカで、一度も使った様子がないわ。車内にも、そういう匂いがないものね」
そういいつつ、財子は運転席に座りながら、身を傾けてコンソールボックスやフロントパネルの収納スペースの当たりを探っていた。今回の顛末を解き明かすカギになるような、何かを書きつけたメモや、直近の行動を追跡するためのヒントになる買い物のレシートなどが見つかればしめたものだった。
「そっちはどお?何かありそう?」
ハッチバックのドアを開け、大きめのリアスペースを、まるで小さく見せるように大きな体をのぞき込ませていた布袋に、財子が声をかけた。布袋は、車に積まれていたいろいろな物を一つ一つ手に取りながら、見つかるかもしれない何かを探していた。
「これといったものはなさそうっすねえ、今のところ。どうやら、釣りに関する道具やなんかが、積みっぱなしになってる、そんな感じっすねえ。釣り竿に網、クーラーボックスに、長靴までありますけど、船まで買おうとしていた人の車に積んである物としては、ふつうっすよねえ。とくにかわった物、こっちにはなさそうっすよ」
「そうだった。この人、船買うんだったわね。大きいお金。使うことになるわよね。布袋、あんた、沙門と福さんに電話して、田辺積さんの部屋で、銀行の通帳関係、念入りに確かめるようにいっといてくれる?あんたがいうように、お金の動き、調べてみないとね」
探し物の手を休めないまま、布袋の方を見向きもしないまま、財子がいった。布袋はそれに返事もしないまま、携帯電話を取り出した。
「――もしもし、あ、沙門君。布袋っす。ああうん、車、確かにありましたよ。今、調べてる最中。ええ、そう。で、福さんと一緒だから、抜かりはないと思うんすけど、お金関係、念入りに調べるようにって、課長が。通帳、あたっといてくださいね。ええ、そう、じゃあ、よろしくたのんます」
そんなやりとりを聞くでもなく、財子は続けてサンバイザーの裏側や、ドアのポケットの中をあさっていた。
「ハン、ハン、ハン。どれどれ、何かあるかしらん?」
どうやら運転席側のドアポケットの奥に、まとめて押し込んである破紙の束を見つけた
財子は、わずかに期待をしながら、それをコンソールボックスの上で捌き始めた。
「――ガソリンスタンドの領収書、コンビニのレシート、コンビニのレシート、ガソリンスタンド、高速道路の領収書、ガソリンスタンド、駐車場の領収書、高速道路、ガソリンスタンド、コンビニ、駐車場、高速道路……ふーん、なるほどねえ……」
「なんか、出てきそうっすか?」
さっきまでリヤスペースでガサガサやっていた布袋が、助手席のドアを開けて、乗り込んできた。いつも二人で車の移動をする時は、布袋が運転をして財子が助手席にちょこんと乗っかるのが常なので、今はいつもと位置が逆で、少し妙な気がしたが、他人の車の中にあっても、デコボココンビたる所以の大男と小女の比率に変わりがあるはずはなかった。
「特に、これというのはなさそうなんだけど――うん、そうねえ、田辺さんの普段の行動パターンには見当がつきそうねえ……平日はコンビニでお弁当やパンを買うことが多い、車のガソリンはこの町内のいつも決まったスタンドで入れる、その頻度が高いから車で遠出することが多くて、休みの日の行く先は、都市高速を経由して、湾岸横断道路を使って、日の丸海岸方面――日の丸海岸にはマリーナも漁港も釣り場もあるわね」
レシート、領収書の小さな紙たちを、ジャンルごとに分けながら、そこから読みとれることを財子は口にした。その様子を隣で眺めながら、布袋も納得したように頷いた。
「そうすっねえ。聞いている話通りのことが、どんどん裏づけられてるって感じっすかねえ。体育の先生、週末ごとに、車で海に行ったみたいっすねえ」
そういいながら布袋は、財子が区分けした紙切れの中から、海に向かって走る高速道路の領収書を一枚、何となく指先でつまみ上げた。
「――うん?あれ、でも、ちょっと待ってよ。これも、そうだし、ああ、これも、これもそうね。あと、これもやっぱりそう――」
財子はふと、とあることに気がついた。
「どうしたんすか、課長?なんか、かわったことでもあります?」
布袋は、紙切れをせわしなく選んでいる財子の手元をのぞき込んだ。
「うん、変わったこと、ある。あんた、都市高速の料金って、今、いくらか知ってる?」
「ああ、今っすか?確か、700円とかじゃないっすか」
「そうだよね。確か、そうだよね。でも、これ、見て。100円だって。一体、どういうこと?じゃあ、湾岸横断道路はいくらか知ってる?その先にある、海浜有料道路はいくらか、あんた、わかる?」
財子の立て続けの問いかけに、布袋はいくらか戸惑いながらも、答えを口にした。
「――湾岸が1500円とかじゃなかったっすか?海浜道路は500円とかよ」
「そうだよね、きっとそうだよね。でも、ほら、湾岸は150円、海浜はなんと、50円だって。そんな料金、いつの時代かってことよね。〝昭和〟か!って話だよね」
財子は、両手の指先で一枚ずつ、辻褄の合わない金額の安い、有料道路の領収書をつまみ上げ、それを布袋に向かってかざした。
「本当っすね。150円、50円、100円……一体、何なんすかね、これ。まさかそんな金額、あるはずがないと思って、何気なく見慣れた領収書、ふつうに見過ごしちゃってんすけど、改めて見りゃあ、これ、ほんと、ありえないっすよね」
目の前にある数枚の小さな紙切れが、不思議な疑問を投げかけてきて、二人はいささか困惑の態で、しばし考え込んだ。
「――ははーん、なるほど、そういうことね」
まもなく財子がそんな言葉をしたり顔で呟き交じりに口にした時、布袋には面倒な予感しかなかった。こんな時に限って、財子が妙なことしかいい出さないことは、布袋にとってそれこそ予定調和でしかなかったのだから。
「布袋、わかったわよ。田辺さんの体育の先生以外の素性にまつわる、特殊な事情の一つが。つまりね、田辺先生は、週末ごとに海へ行っていたようだけど、海は海でも、タイムスリップをして――昭和時代の海へ出かけていたのよ」
13
下町宝船署捜査一課、一番若手の、大黒が準備を進めていた会議室に、一番最初に外回りから戻って来たのは、同課で一番年長者の、そしてその相棒の蛯沢だった。
「あんちゃん、相変わらず、勢が出るねえ」
帰ってきた途端、大黒の所作を見て、老川が口を開いた。大黒はホワイトボードへの書き込みの手を休めないまま、老川たちの方へ目を向け、ペコリと一つ、首をたてに振った。
「おかえりなさい。聞き込み、お疲れ様です。聞かせてもらえる話があったら、教えてください。ボードに書いちゃいますから」
そんな声に呼ばれてか、老川は大黒の側に行き、しげしげと、写真や情報を網羅した、大黒が手をかけたボードを眺めた。
「それにしても真面目に、きっちりしてや眼なあ。一生懸命、整理してっけど、こんなものあ、だいたいでいいんだぜ、だいたいで。まあ、見やすいに越したこたあ、ねえけどよ。それにな、あんちゃん、内の仕事も大切だけど、やっぱり刑事は、外へ出てなんぼだ。みんなが持って帰ってきた情報、まとめてくれんのもいいけど、外回りにも、せっせと行くようにしなきゃだめだぜえ」
そういいながら老川は、大黒の肩をポンとたたいた。自分の親以上に歳上の、ともすれば祖父ほどに歳の差のある大先輩からの進言に、大黒は少し苦笑いを浮かべながら頷いたが、本当は自分が手がける目の前の作業を、ただ単純に誉めてくれるだけの方がうれしかった。
「大黒、おやっさんのいうこと、そんなに気にすることはないぞお。人は、それぞれなんだからな。得意なことも、仕事のやり方も、いろいろなんだから、自分のペースでやればいいんだぞお」
老川と一緒に戻り、会議室の端の方の椅子に先に腰かけていた蛯沢が、大黒に向かって声をかけた。老川のいうことが間違っていたわけでも、年長者と新人の二人のやり取りが見かねるほどだったわけでもなかったが、とりあえずそうした方がよいと思った。最近の世の中は面倒くさい。今までなら普通のことだった上司や先輩の苦言はパワーハラスメントになり、若い世代には協調性などという感覚はてんからなく、少し何かをいわれただけで、すねたりへそを曲げたり、時には逆ギレしてしまう。そんな世の中の風潮をかんがみて、チームのメンバーの中ではちょうど中間の世代に当たる蛯沢や沙門は、この頃、さり気なく気を遣っていた。幸い、課長の財子を筆頭にした七人のチームは、他の部署からは〝変なやつら〟と揶揄されながらも、なんだかんだといいながら、妙にまとまり、お互いに好きなことをいいあえる、気の合うメンバーが揃っていた。みんな、自分の居場所を概ね気に入っていたが、リーダーの寿財子は根っからとぼけた性格だったし、最古参の老川は、定年を間近にして、その所作、言動に箍が外れかけている。
現状の快適なチームのバランスを、維持・持続させるには、油断をしないで、他のメンバーに対して、中間層の自分たちの配慮や心遣いが求められる、そんなふうに蛯沢は感じていた。
「なんだよお。俺がせっかく、いいこといってんのによお。年寄りのいうこたあ、聞いとくもんだぜえ。まあ、いいや、老兵はただ消え去るのみってなもんなんだろうよ。後になって、あの親父のいってたこと、満更でもなかったなあんて、思うにちげえねえんだがよ」
老川はそういうとまた一つ、大黒の今度は背中をポンとたたき、蛯沢が座っている側と逆の端に行き、長テーブルから椅子を引いて腰かけた。それをまるで合図にしたように、今度は蛯沢が立ち上がって大黒の隣へ行き、ボードの一部分を指差しながら、聞き込み調査の説明を始めた。
「さしずめ、この辺りの家で、聞いた話になるんだろうなあ」
蛯沢は、大黒がボード上に描いた地域平面図のプールの側、道路を挟んで向かい側の住宅を指し示した。無論それは、何かが落ちるような大きな水音を聞いたという、耳が遠くなったおじいさんの話のことだった。
蛯沢の指示に従い、大黒は然るべく情報を然るべく個所に書き込んだ。こうして大黒製情報ボードは、外回り組が署に戻ってくるごとに、精度を上げていくことになる。かくして、事件か事故かを見極め、捜査本部を立ち上げることになるのかどうか、田辺氏が変死体として発見されたことをどう扱うのか、それを判断する材料がこの会議室に整っていく。そこは寿財子の班にとってまさに、次の一歩を踏み出すための道標になるのだ。
老川と蛯沢のコンビが会議室で時間を持て余し、大黒が二人のためのに用意した紙コップに入った薄いコーヒーもとっくに飲み干し、老川が長テーブルにうっ伏して居眠りを始めた頃、田辺氏の家宅捜査を終えた福田と沙門がようやく署に戻ってきた。かと思うと、今度はそれにいとまもなく、関係者たちへの事情聴取を終えた財子と布袋も帰ってきた。
大黒はさっそく、沙門から、田辺氏の自宅で得られた情報をこと細かに聞き出し、続いて布袋からは、小学校の同僚の先生たちが口にしていた話題を、もれなく聞きとった。それらは大黒が用意した田辺氏の身辺情報を表す側のボードにどんどん書き込まれ、不慮の死をとげた彼の素性を着々と浮かび上がらせる。事の真相を探るための、いわばヒントは一所に集まり始めているが、いい換えればそれは、道標の指す矢印の方向があちこちに向かって増えていることにもなりかねなかった。
下町宝船署の会議室に、今や、各々の当座の任務を果たした捜査一課・寿財子班の刑事七人が全員揃っていた。正面の二台のホワイトボードに向かって、コの字型に配置された長テーブルと椅子に、メンバーが思い思いに陣取っている。これからが、いよいよ、この班の本領が発揮されることになる。変人の集まりだのとぼけた連中だの、楽観的なやつらだの、署内では彼らのことをおもしろおかしく評することが多いが、確かに他の署員には類のない独特の発想や感性で、事件の結末を導き出すのがチームの常だった。それぞれ個性的でまとまりがないように見えて、そのくせ気がつくと意気投合するかのように皆がまとまり、同じ方向を見ているような、そんなどこかつかみどころのない妙な刑事たちの、肝心要の会議が、まさに今、始まろうとしていた。
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