偽物令嬢にされて冷遇に文句を言ったら改善されたので本物の令嬢を探してあげました
悪役令嬢ものでよくある設定を少し変えてみました。
石畳の冷たさが、薄いボロ布越しに肌を刺す。
ひどい頭痛と、胃袋が裏返りそうなほどの空腹感で、私は目を覚ました。
「……ここは、どこ?」
身を起こして周囲を見渡すと、そこは悪臭の漂う薄暗い路地裏だった。
自分の手を見ると、土と煤で汚れきった、骨と皮ばかりの細い子供の手。
私は『アイラ』という名前の、スラムで生きる孤児の少女だった。
――いや、本当にそうだろうか?
「……『意味記憶』はあるけど、『エピソード記憶』がない……」
ズキズキと痛む頭を押さえながら、私は無意識のうちにそんな言葉を口にしていた。
意味記憶、エピソード記憶。スラムの孤児が知るはずもない単語だ。
今の私の頭の中には、アイラとしての短くも過酷なスラムの記憶と、もう一つ、『別の誰か』の記憶が入り混じっていた。
舗装された道路、空を飛ぶ鉄の塊、四角い画面に映る映像。そして、安全で暖かな部屋と、豊富で美味しい食事の数々。
間違いなく、今のこの世界よりもずっと進んだ文明の知識が、私の脳内にインストールされている。
「なるほど。これが巷で言う『転生』とか『憑依』ってやつね」
私は冷静に自己分析を終えた。
しかし、厄介なことに、私の中にあるのは『知識(意味記憶)』だけで、『私が誰だったのか(エピソード記憶)』がすっぽりと抜け落ちていた。
名前も、家族構成も、どうやって死んだのかも思い出せない。ただ、美味しいものを食べるのが好きだったことと、便利な現代社会の常識だけが残っている。
「まあ、自分が誰だったかなんてどうでもいいか。問題は、このひもじい現状をどうするかだけど……」
ぐぅぅぅ、と腹の虫が盛大に鳴る。
前世(?)の豊かな食の記憶を思い出してしまったせいで、空腹感がより一層際立ってしまった。
まずはゴミ箱を漁るか、それとも親切そうな大人からパンでも恵んでもらうか。
私がふらりと立ち上がった、その時だった。
「――報告にあった孤児というのは、あれか」
路地裏の入り口に、不釣り合いなほど立派な服を着た男が立っていた。
銀糸の髪に、氷のように冷たい青い瞳。背が高く、ただそこにいるだけで周囲の空気を凍りつかせるような威圧感を放っている。
男の背後には、武装した屈強な騎士たちがズラリと並んでいた。
(えっ、なに? 私、何か悪いことしたっけ?)
身構える私をよそに、男は長い脚を動かして一瞬で私の目の前まで距離を詰めてきた。
そして、私の顔をじっと覗き込む。その冷ややかな瞳には、明確な疑念が浮かんでいた。
「……煤と泥だらけでよく分からんな。だが、年齢と背格好は情報通りか。ええい、構わん。とりあえず連れて帰るぞ。使い物にならなければ、また別の手を考えればいい」
「えっと、おじさん、誰……?」
「連れて行け」
「は?」
男が顎をしゃくると、背後の騎士が私の両脇をヒョイと抱え上げた。
抵抗する間も、説明を求める隙もない。
有無を言わさぬ完全な強制連行。拒否権など最初から存在しなかった。
「ひぃぃ、冷たい! 痛い! もっと優しく洗って!」
数十分後。
私はどこかのお屋敷の豪華な浴室で、数人のメイドたちにタワシのようなものでゴシゴシと全身を磨き上げられていた。
スラムの汚れを落とすためとはいえ、容赦がない。
ただ、彼女たちが私の頭越しにヒソヒソと交わす噂話のおかげで、私は自分の置かれた状況を大体把握することができた。
『ねえ、本当にこんなスラムの子供を、リリアお嬢様の身代わりにするおつもりかしら』
『しっ! レオンハルト公爵閣下のお耳に入ったらどうするの。お嬢様が誘拐されたことは絶対に秘密なんだから』
『でも……ご長男のセオドア様もよくお許しになったわね。見ず知らずの孤児を妹の代わりにするなんて』
どうやら私を拾ったあの銀髪のおじさんは、この国でも有数の権力を持つ『レオンハルト公爵閣下』というらしい。
そして、この家には『リリア』という最近行方不明になった娘がいて、私はその身代わりとして急遽連れてこられたということだ。
高級な香油を塗りたくられ、フリルのたくさんついた上質なドレスを着せられると、私は大広間へと引きずり出された。
「……っ!」
大広間で私を待っていたのは、路地裏で私を拾ったあの銀髪の公爵だった。
そしてその隣には、公爵のミニチュア版のような、同じく銀髪と冷たい瞳を持った少年――メイドたちが言っていた長男のセオドアが立っていた。
綺麗に磨かれた私の顔を見た瞬間、公爵は息を呑み、信じられないものを見るように目を大きく見開いた。
「……信じられん。本当に、瓜二つだ」
「はい、父上。まるでドッペルゲンガーのようです。これなら、リリアが誘拐されたという事実をしばらく隠し通すことができるでしょう。社交界も、領民たちも騙せます」
メイドたちの噂話と、目の前の親子の会話がぴたりと一致した。
愛娘の不在が知れ渡れば、公爵家の威信に傷がつくか、政敵に付け込まれる隙を与えるのだろう。
そこで、「スラムに似た子供がいる」という情報を得て、とりあえず身代わりとして私を連れてきたというわけだ。
「当面の心配はなくなったな。だが、あれはあくまで偽物だ。我々は一刻も早く、本物のリリアを捜索する」
「承知いたしました。あいつの世話は、使用人たちに適当にやらせておきましょう」
二人は、私のことなど路傍の石ころのように見ていた。
偽物の私に興味はない。ただ、そこでお飾りの人形として座っていればいい、と。
それ自体は構わない。私だって、こんな氷のような親子の家族ごっこに付き合う義理はないのだから。
(まあ、いいか。スラムで飢え死にするよりは、貴族の屋敷でご飯が食べられる方が百万倍マシだし)
私は能天気にそう考え、これから始まる優雅な令嬢(仮)ライフに胸を弾ませていた。
――しかし、その甘い期待は、数時間後の夕食であっさりと打ち砕かれることになる。
「さあ、お食事ですわよ。スラムのネズミさん」
豪華絢爛な食堂で一人ぽつんと座る私の前に、ふくよかなメイド長が嘲笑いながらお盆を置いた。
銀のお皿に乗っていたのは、カチカチに硬くなった黒パンの切れ端と、具材の影も形もない、冷めきった塩水のようなスープだった。
「……ねえ、これってどういう嫌がらせ?」
「嫌がらせだなんて心外ですわ。スラムの泥水よりはマシでしょう? どこの馬の骨とも知れない孤児の分際で、リリアお嬢様の身代わりとしてこの屋敷に居られるだけでも感謝していただきたいものです」
公爵と長男が私に全く無関心であることを見て取った使用人たちは、すぐに私を見下し始めた。
愛しき本物のお嬢様の居場所を奪った、卑しい泥棒猫。彼らの目にはそう映っているのだろう。
ふん、と鼻を鳴らして去っていくメイド長を見送りながら、私は硬い黒パンをスープ(仮)に浸して無理やり胃に流し込んだ。
だが、ただで泣き寝入りする私ではない。
(ふざけんな。こんなもんじゃ足りないわよ)
その日の深夜。私は使用人たちの目を盗み、厨房へと忍び込んだ。
スラムで培った隠密スキルは伊達ではない。見回りの騎士をやり過ごし、立派な鍵のかかった食料庫の扉を、拾った針金であっさりとこじ開ける。
中には、干し肉、上質なチーズ、柔らかい白パン、フルーツが山のように積まれていた。
「お宝の山だ……」
私は手当たり次第に食材をエプロンに包み込むと、誰にも見つかることなく自室へと帰還した。
命を脅かすような外敵がいないこの屋敷の部屋は、スラムと比べれば天国のように安全だ。
私はふかふかのベッドの上でチーズとパンをかじりながら、今後のことについて思案を巡らせた。
公爵家に拾われてから、三日が経とうとしていた。
昼間は与えられた部屋に軟禁され、食事の時間になれば残飯を出される。そして夜になれば厨房へ忍び込み、食料をくすねて自室でひっそりと食べる。
そんな奇妙なサバイバル生活を送る中で、私は自分の状況と『前世の記憶』の整理を行っていた。
前世の知識の中には、料理の作り方や、効率的な掃除の仕方、さらには簡単な計算式や交渉術など、使えそうなものがたくさんある。
さらに記憶を掘り下げていくと、私自身の内側に、ある不思議な感覚が眠っていることに気がついた。
(スラムにいた時も、はぐれた野良犬とか、なくした小銭とか、探すのが得意だったんだよね……)
自分の内側にある『魔力』のようなものを、特定の手順で練り上げる感覚。
試しに指先を少し傷つけ、滲んだ血を見つめながら意識を集中させると、脳裏に『探したいものの居場所』がふっと浮かび上がるような直感があった。
前世の記憶が混ざったことで、自分の感覚を客観的に言語化できるようになったらしい。
どうやら私には、血を触媒にして『人や物を探す』という、特異な能力があるようだ。
(……これ、もしかして高く売れるんじゃない?)
残りのチーズを飲み込みながら、私は一つ溜息をついた。
自分の有用な能力に気づいたのはいい。
だが、今の現状はどうだ。いくら夜中に厨房から食料を調達できるとはいえ、毎日コソコソと泥棒みたいな真似をして食いつながなければならないのは、純粋に面倒くさかった。
そもそも、私は「本物の令嬢」の身代わりという重要な役目を押し付けられているのだ。
それなのに、この待遇はあまりにも割に合わない。
(公爵令嬢としての愛や待遇なんて求めてない。でも、堂々とまともなご飯を食べられないのは絶対に許せない)
前世の豊かな食の記憶があるせいで、私の「食」に対する執着はスラム時代よりもはるかに強くなっていた。
もう我慢の限界だ。
明日の朝一番で、あの氷の公爵閣下の執務室に乗り込んで直訴してやる。
――偽物の分際だと貶されるのは我慢する。でも、私の胃袋を舐めるなよ、と。
翌朝。
「公爵閣下に直訴する」と決意したものの、私はこのバカ広い屋敷の中で彼の執務室がどこにあるのかを知らなかった。使用人に聞いたところで、偽物の私にまともに答えてくれるはずもない。
そこで私は、昨日気づいたばかりの自分の能力を試してみることにした。
昨夜の厨房探索の際、ついでに洗濯室らしき部屋からくすねておいた、真っ白な上質なハンカチを取り出す。公爵家の紋章が刺繍されたそれは、どうやら公爵閣下本人の持ち物らしい。
それに服のほつれ糸を括り付け、目の前にぶら下げた。
「ええと……公爵閣下はどこ?」
持ち主を念じながら意識を集中し、ふっと魔力を練り上げる。
すると、だらりとぶら下がっていたハンカチが、まるで目に見えない磁石に引っ張られるように、ピンと特定の方向を指し示した。
「へえ、ダウジングみたい。これ便利だな」
私はそのハンカチが指し示す方向へと、迷うことなく歩き出した。
道中、すれ違う使用人たちが「偽物が部屋を抜け出してどこへ行く気だ」とばかりにジロジロと見てきたが、完全に無視だ。こちとらスラムの路地裏で野良犬と縄張り争いをしてきた身である。痛くも痒くもない。
ハンカチのナビゲーションに従って進み、やがて三階の奥にある分厚いマホガニーの扉の前に立つと、警備に立っていた護衛の騎士が怪訝な顔で立ち塞がった。
「おい、偽物がここで何をしている。閣下はご多忙だ、部屋に戻れ」
「閣下ー! アイラです! お話があります!!」
騎士の制止を無視して扉越しに大声で叫ぶと、中から「……入れ」と氷のように冷たい声が返ってきた。
騎士が渋々といった様子で扉を開けると、そこには書類の山に囲まれたレオンハルト公爵閣下がいた。銀髪に青い瞳。相変わらず、そこにいるだけで空気がピリッと引き締まるような威圧感だ。
「なんの用だ。私は忙しい」
「単刀直入に言います。私、この家を出ていきたいのですが」
「……却下だ」
書類から顔を上げた公爵様は、秒で私の提案を切り捨てた。
「あのですね、私は別に令嬢ごっこがしたいわけじゃありません。このままじゃ餓死しちゃいます」
「餓死? なにを馬鹿なことを。我が家から逃げ出したい口実か? お前は本物のリリアが見つかるまで、ここで身代わりを務める義務がある」
「口実じゃありません。せめて、まともな温かいご飯が食べたいんです。それさえ約束してくれるなら、本物のお嬢様が見つかるまで大人しく身代わりを務めます」
私の言葉に、公爵閣下のペンの動きがピタリと止まった。
その冷ややかな青い瞳が、すっと細められる。
「……まともなご飯、だと? お前は毎日、厨房の料理長が腕によりをかけた令嬢用の食事を摂っているはずだが」
「え? 昨日のお昼も夜も、カチカチの黒パンと塩水みたいなスープでしたけど?」
「なっ……!?」
ガタンッ! と、公爵閣下が勢いよく立ち上がった。
執務室の空気が、急激に冷え込んでいく。比喩ではなく、本当に室温が下がった気がした。これが高位貴族の放つ魔力というやつだろうか。
「……執事を呼べ。メイド長もだ。今すぐに」
地を這うような低い声。
呼び出されたメイド長と執事長は、部屋に入るなり公爵閣下の尋常ではない怒気を察して顔を真っ青にさせた。
「お前たち……このアイラに、一体何を食わせている」
「えっ……あ、あの、それは……スラムの孤児の胃腸には、公爵家の豊かな食事は毒かと思いまして、その、質素なものを……」
「質素、だと? 腐りかけの黒パンと塩水が、我が公爵家の『質素』なのか!? 誰がそんなことを許可した!!」
公爵様の怒声が執務室に響き渡った。
ビクッと肩を跳ねらせたメイド長たちは、その場に平伏してガタガタと震え始めた。
「貴様らは公爵家に仕えることの意味が分かっていない! たとえ偽物であろうと、今は『レオンハルト公爵の娘』として置いているのだ! それを蔑ろにすることは、私とこの公爵家への反逆と同義だと知れ!」
公爵様は、私が可哀想だから怒っているわけではない。「公爵家の名に泥を塗ったこと」と「自分の預かり知らぬところで不正が行われていたこと」に激怒しているのだ。だが、理由はなんであれ私にとっては好都合だった。
「お前たちはただちに降格だ。見て見ぬ振りをしていた他の使用人たちにも減給を言い渡す。今後、アイラへの待遇に一切の不備を許さん。……次に同じことが起きれば、首が飛ぶと思え」
「は、はいぃぃっ!!」
半泣きで逃げ出していくメイド長たちの背中を見送りながら、私は心の中で盛大にガッツポーズをした。
あー、スッキリした。これで今日から美味しいお肉が食べられる!
「……アイラ」
「はいっ」
公爵閣下が、ひどく疲れたようにこめかみを揉みながら私を見た。
「すまなかった。私の管理が行き届いていなかったようだ。……すぐに、まともな食事を用意させよう」
「ありがとうございます! ……あ、そうだ」
ホカホカのシチューと柔らかいパンを想像してご機嫌になった私は、ふと思いついて口を開いた。
「美味しいご飯のお礼に、本物のお嬢様、探してあげましょうか?」
「……なんだと?」
「私、探し物……というか『人』を探すのが得意なんです。さっきもこの部屋を探すのに使いましたし」
公爵様と、控えていた護衛騎士が胡散臭そうな目を向けてくる。
私は執務室の壁に貼ってあった、この国の広域地図を指差した。
「私の能力は、血族の血を触媒にして居場所を特定します。公爵様、少し血を貸してください」
私がそう言うと、公爵様はわずかに眉をひそめたものの、無言でペーパーナイフを手に取り、躊躇いなく自身の指先を少しだけ切って見せた。娘を助けるためなら、藁にもすがる思いなのだろう。
私はその血を指で拭い取り、地図の真ん中に一滴垂らす。
「いきますよ。【血盟探知】」
私が魔力を込めると、ぽっ、と地図の上に青い炎が上がった。
炎は血の滴を起点にして地図全体に燃え広がり――しかし、不思議なことに壁は一切焦げない。
やがて炎が収まると、地図の大半が灰になってパラパラと崩れ落ち、ほんの一部分、国境近くの深い森のエリアだけが焼け残って壁に張り付いていた。
「……ここです。ここに、血の繋がった娘さんがいます」
「馬鹿な……こんな魔法、聞いたことがない。地図を燃やして居場所を特定するだと?」
「疑うなら、試しにそこの護衛騎士さんの家族が今どこにいるか当ててあげましょうか?」
私は訝しげな顔をしている護衛騎士を指差した。
騎士は戸惑いながらも、公爵様に頷き返されて、自身の髪の毛を数本むしり取って私に渡した。血の代用品だ。
私は机の上に広げられた王都の詳細地図の上にその髪の毛を置き、再び魔力を込めた。
青い炎が燃え上がり、焼け残ったのは、王都の裏通りにある小さな区画だけだった。
「……えっ。こ、ここは……うちの親父が行きつけの昼飲み酒場です……!」
騎士が素っ頓狂な声を上げた。
「親父は今日非番で、朝から飲みに行くと言って家を出ました。……ま、間違いありません。この能力は本物です、閣下!!」
騎士の言葉に、公爵閣下の目の色が完全に変わった。
氷のように冷たかった瞳に、娘を救い出すという猛烈な熱が宿る。
「……すぐに騎士団を動かせ! 精鋭を集めろ!」
「はっ!」
「馬の準備もだ。私も出る!」
焼け残った国境の森の地図を乱暴に引っ剥がし、公爵閣下は血相を変えて執務室を飛び出していった。
後に残されたのは、ボロボロになった地図の残骸と、のんきに立つ私だけだ。
「……よし。おじさんたちも行ったことだし、私は厨房に美味しいご飯をもらいに行こっと」
私の人生における最優先事項は、何よりもまず「食」である。
見ず知らずの令嬢の救出劇は、あの過保護そうな公爵様と屈強な騎士たちに任せておけばいいだろう。
私はホカホカのシチューに思いを馳せながら、足取り軽く食堂へと向かった。
公爵閣下が執務室を飛び出していってから数十分後。
私は念願叶って、豪華な食堂のテーブルで湯気を立てるクリームシチューと、ふかふかの白パンを堪能していた。
口の中に広がる濃厚なバターの香りと、とろけるような肉の旨味。スラムの泥水やカチカチの黒パンとは次元が違う。
「はぁ〜、生きててよかった……」
私が至福の吐息を漏らした、その時だった。
「アイラ! 貴様、父上に何を吹き込んだ!!」
バンッ! と食堂の扉が勢いよく開かれ、公爵の長男であるセオドアが血相を変えて踏み込んできた。
その後ろには、オロオロとしている使用人たちの姿が見える。
「父上が突然、近衛の精鋭騎士たちを引き連れて馬で飛び出していかれた。行き先は国境の森だと言っていたが……貴様が執務室に行ってからの出来事だ。一体何があった!」
「ああ、セオドア様。お疲れ様です」
私はシチューを掬う手を止めず、もぐもぐとパンを咀嚼しながら答えた。
「私の能力で、本物のリリアお嬢様の居場所を見つけたんです。閣下は救出に向かわれました」
「……は? 居場所を見つけただと?」
セオドアは、私が突拍子もない嘘をついていると判断したらしい。氷のように冷たい瞳に、明確な怒りが宿った。
「馬鹿なことを言うな。我が公爵家の情報網を駆使しても足取りが掴めなかったのだぞ。スラムの孤児にすぎない貴様が、どうやって……」
「信じられませんか? じゃあ、お見せしますよ。閣下の執務室の地図は燃やしちゃったんで、ちょっと劣化版の能力になりますけど」
私は手元にあった銀の細いスプーンを手に取り、そこに自分の服のほつれ糸を結びつけた。
そして、セオドアに向かって手を差し出す。
「セオドア様の髪の毛を一本、貸してください」
「……何をする気だ」
「いいから」
警戒しながらも、セオドアは銀糸の髪を一本引き抜いて私に渡した。
私はその髪の毛を、スプーンに巻きつける。
「特定の家族――血縁者を探す場合、対象者と血の繋がった人間の『身体の一部』を触媒にするのが、一番強力で正確な人探しの魔法なんです」
髪の毛を巻きつけたスプーンを糸で吊るし、私はふっと魔力を練り上げた。
すると、だらりと垂れ下がっていたスプーンが、まるで強力な磁石に引かれるように、空中でピーンと真横を向いた。
スプーンの先端が指し示しているのは、食堂の窓の外――つまり、王都から遠く離れた『国境の森』の方向だった。
「なっ……!?」
「ね? 今、お父様とリリアお嬢様はあっちの方向にいます。閣下の執務室では、血を使って地図上に直接位置を炙り出したんです」
完全に物理法則を無視して宙で静止するスプーンを見て、セオドアは絶句した。
疑念に満ちていた彼の瞳からスッと険が取れ、代わりに驚愕と、そして深い安堵の色が広がっていく。
「本当に……リリアの、居場所が分かったのか……?」
「はい。護衛騎士さんの家族の場所も当てたので、情報の整合性はバッチリです。あとは優秀な騎士様たちが助け出してくれますよ」
私がスプーンをテーブルに置くと、セオドアはしばらくの間、呆然と宙を見つめていた。
やがて彼は、ふうっと深く息を吐き出すと、私の前に歩み寄り――スラムの孤児である私に向かって、深く頭を下げた。
「……すまなかった。お前をただの身代わりの偽物だと蔑み、冷遇を放置していたこと、公爵家の次期当主として恥じ入るばかりだ。そして……妹を見つけてくれて、本当にありがとう」
さっきまでの冷酷な態度はどこへやら。妹を想う兄の、心からの謝罪と感謝だった。
「あ、いえ。頭を上げてください。私はただ、美味しいご飯の対価として仕事をしただけなので」
「食事のことか。……父上から聞いた。使用人たちが、信じられないような食事をお前に出していたそうだな」
セオドアは使用人たちを鋭く睨みつけ、再び私に向き直った。
「これからは、我が公爵家の賓客として最高の待遇を約束しよう。父上とリリアが帰還するまで、この屋敷で好きに過ごしてくれ」
「! 本当ですか! 言質とりましたからね!」
こうして、セオドアの態度は軟化――いや、劇的に改善し、公爵閣下と本物のお嬢様が帰還するまでの三日間、私は何一つ不自由のない最高峰の屋敷ライフと、絶品のグルメ生活を満喫することになったのである。
――一方、その頃。
国境の深い森の奥で、レオンハルト公爵は燃え盛る怒りを静かに解き放っていた。
「ヒィィッ! バ、バケモノめ……っ!」
誘拐犯のならず者たちが、恐怖に顔を引き攣らせて後退る。
彼らのアジトであった古びた山小屋の周囲は、レオンハルトの放つ氷の魔力によって文字通り『凍結』していた。武器を構えた盗賊たちは首から下を厚い氷に覆われ、身動き一つ取れない状態で生け捕りにされている。
「騎士団長。こいつらを決して死なせるな。厳重に地下牢へ移送しろ」
「はっ! しかし閣下、このような山賊どもを生かしておくのですか?」
「ああ。厳重な警備を敷いていた公爵邸から、ただの山賊が娘を攫えるはずがない。必ず手引きをした内通者や、背後にいる黒幕が存在するはずだ。……こいつらには、知っていることを全て吐かせねばならんからな」
氷のように冷酷な声で言い放ち、レオンハルトは山小屋の扉を蹴り破った。
薄暗い部屋の隅で、ボロボロのドレスを着た小さな少女が、怯えたように震えながら身を寄せている。
銀糸の髪に、青玉のような瞳。間違いない、彼の最愛の娘、リリアだった。
「……リリア!」
「お父、様……?」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたリリアを、レオンハルトは力強く抱きしめた。
娘の温もりを感じ、氷の公爵と恐れられる男の目から、ひとすじの涙がこぼれ落ちる。
「よく無事でいてくれた。もう大丈夫だ。家に帰ろう」
王都へ向けてひた走る、公爵家の豪奢な馬車の中。
身を清め、温かい毛布に包まれたリリアは、安堵の表情で父親の隣に座っていた。
「お父様。あんなに遠くて深い森だったのに、どうやって私を見つけてくれたのですか?」
「ああ……実はな、ある不思議な少女が、お前の居場所を教えてくれたのだ」
「少女、ですか?」
「そうだ。スラムで拾った孤児なのだが……驚くべきことに、その少女はリリア、お前と瓜二つの顔をしていた」
レオンハルトは、身代わりとしてアイラを連れてきたこと、冷遇されていた彼女に直訴されたこと、そして彼女が『血盟探知』という見たこともない能力を使って居場所を特定してくれたことを、隠さずに話して聞かせた。
「私と、瓜二つ……」
リリアは胸元を押さえ、不思議そうに呟いた。
なぜか、その『アイラ』という少女の話を聞いた時、リリアの胸の奥でトクリと小さな鼓動が跳ねたのだ。
まるで、ずっと昔に失くしてしまった大切な半身の話を聞いているような、不思議な温かさ。
「そのアイラさんは、今もお屋敷にいるのですか?」
「ああ。私が戻るまで、留守番をさせている」
「早く会いたいです! 私の命の恩人……どんなお顔で、どんな声でお話しするのか、すごく気になります」
目を輝かせる愛娘の頭を撫でながら、レオンハルトもまた、王都の屋敷で待つアイラの顔を思い浮かべていた。
恩人であるあの風変わりな少女に、どう報いるべきか。
少なくとも、ただの身代わりとしてスラムに放り出すような真似は、絶対にできない。
――そして三日目の夕方。
泥だらけになった公爵の馬車が、ついに王都の公爵邸へと到着する。
私は王都にあるレオンハルト公爵邸のエントランスで、いつでも出発できるように荷物をまとめた鞄を背負って立っていた。
「……アイラ! どこへ行く気だ!」
私が重い玄関の扉に手をかけようとした瞬間、血相を変えた長男のセオドアが階段を駆け下りてきて、私の前に両手を広げて立ちはだかった。
完全に、扉を死守する構えである。
「どこって、スラムに帰るんですよ。お嬢様も見つかったことですし、私の偽物としての役目は終わりですから」
「ならん! 帰すものか!」
公爵家の次期当主であるはずのセオドアは、エントランスの扉に背中をぴったりとくっつけ、なりふり構わず叫んだ。
「父上が何と言おうと、俺がお前の面倒を一生見る! だからこの屋敷に留まってくれ! 一緒に暮らそう! 我が公爵家を、妹の命の恩人をスラムへ放り出すような恩知らずの家にしないでくれ!」
「いや、私ずっとあそこで生きてきたんで平気なんですけど……」
「アイラ様ァァーッ! どうかお行かないでくださいませーッ!!」
セオドアだけではない。いつの間にか、エントランスにはメイドや執事たちがズラリと並び、床に崩れ落ちんばかりの勢いで私に懇願し始めていた。
「我々の無礼な振る舞いを許してくださったアイラ様の寛大なお心、一生忘れません! どうか今後も私が淹れたお茶を飲んでください!」
「お部屋のベッドは、最高級の羽毛を三倍に詰めてふかふかにしておきましたから!」
「アイラ様!! 今夜のメインディッシュを見てください!!」
ドンッ! と、ひときわ大きな声と共に、恰幅の良い料理長がワゴンを押して現れた。
ワゴンの上には、まだ焼く前の、美しいサシが入った巨大な霜降り肉と、宝石のように輝くフルーツタルトが鎮座している。
「この最高級の幻牛のお肉を、これから特製の赤ワインソースで煮込もうと思っていたのです! スラムに帰ってしまわれたら、このお肉はどうなってしまうのですかァ!」
「ぐっ……!!」
卑怯だ。胃袋への直接攻撃は、スラム育ちの私に一番効く。
肉とタルトから目が離せなくなり、私が思わず鞄を下ろしそうになった、その時だった。
「……お戻りになられました! 閣下と、リリアお嬢様の馬車が到着しました!!」
見張りの騎士の声が響いた。
扉を死守していたセオドアが「父上たちが!」と慌てて扉を開け放つ。
夕陽を背にして入ってきたのは、泥と埃にまみれながらも威風堂々としたレオンハルト公爵と、その腕の中に抱かれた一人の少女だった。
「おお……っ! リリア様! よくぞご無事で……っ!」
「父上! リリア!」
使用人たちが感極まって涙を流し、セオドアが弾かれたように駆け寄る。
公爵の腕から降りた少女――本物の公爵令嬢であるリリアは、兄の顔を見てふわりと安心したような笑みを浮かべた。
美しい金糸の髪に、青玉のような瞳。
なるほど、私と瓜二つ……というか、まるで鏡を見ているのかと思うほどそっくりだった。
(良かった良かった。怪我もなさそうだし、これで私の身代わり業務は完全終了ね。……あの霜降り肉には未練があるけど)
皆が感動の家族再会シーンに気を取られている今がチャンスだ。
私はこっそりとエントランスの隅を歩き、開け放たれた扉から外へ出ようと踵を返した。
「じゃあ、本物も見つかったことですし、私は今度こそスラムに戻りますね。美味しいご飯、ごちそうさまでし――」
ガシッ! と、背後からものすごい力で肩を掴まれた。
振り向くと、そこには絶対に逃がさないとばかりに目を血走らせたレオンハルト公爵様が立っていた。
「待て。どこへ行く気だ」
「え? いや、スラムに……私は偽物ですし、もう用済みですよね?」
「誰が用済みだと言った! 愛娘の命の恩人をスラムに帰すような薄情な父親が、この世のどこにいる!」
「えぇ……」
さっきのセオドアと全く同じセリフである。
公爵様の剣幕に目を丸くしていると、今度は私の服の裾を、小さな手がギュッと力強く握りしめてきた。
「……あ、あのっ!」
見下ろすと、涙ぐんだ本物の令嬢――リリアが、私を真っ直ぐに見上げていた。
「あなたが、私を見つけてくださったんですね……! お父様から、全部聞きました。私とそっくりな女の子が、不思議な力で助けてくれたって……」
「あ、いえ。美味しいご飯のお礼にちょっとしたことをしただけなので、お気になさらず……」
「私、ずっと……ずっと、お姉ちゃんが欲しかったんです!」
「……はい?」
初めて会ったはずなのに、なぜかリリアは私に対して異常なほどの親愛の情を向けてきている。
自分と瓜二つの孤児を見て気味悪がるどころか、まるでずっと探し求めていた魂の片割れを見つけたかのような、切実で熱を帯びた瞳だった。
「お願いです、どこにも行かないでください! 一緒に、公爵家で暮らしましょう?」
上目遣いで懇願してくるリリアの頭を優しく撫でながら、公爵様が私の前で片膝をついた。
国で一番権力を持つと言っても過言ではない男が、スラムの孤児に向かって膝をついたのだ。周囲の使用人たちがヒィッと息を呑む音が聞こえた。
「アイラ。お前の不思議な力がなければ、リリアは二度と私の元へは戻らなかっただろう。褒美と言ってはなんだが……今日からお前を、私の『養女』として迎え入れたい。リリアの姉として、この家で暮らしてくれないか?」
上目遣いで懇願する可愛い公爵家の一人娘。
絶対に逃がさないとばかりに見つめてくる親バカ公爵。
そして、背後で「絶対に我が家で囲う!」と謎の決意を固めているシスコンの兄と、最高級の霜降り肉を掲げてアピールしてくる料理長たち。
……スラムの冷たい地面と、公爵家のホカホカのシチューと巨大な肉。
比べるまでもない。
ちょっと面倒くさそうな家族(仮)だけど、前世の記憶に未練のない私にとっては、衣食住が保証されるのは何よりも魅力的だった。
「……あのお肉が、毎日食べられるなら、喜んで」
私が料理長のワゴンを指差しながらそう答えた瞬間、リリアが「わぁぁっ!」と歓声を上げて私に抱きつき、公爵様とセオドアが破顔した。
「よくぞ言ってくれた! お前は今日から、我が公爵家の長女だ!」
「すぐに最高の部屋の手配だ! 料理長! 今夜は公爵家の威信をかけた特大の宴の準備をしろ!」
「かしこまりましたァァァッ!!」
屋敷中が歓喜に沸き立つ中、私はリリアに抱きしめられながら、ぼんやりと考えていた。
(……なんか、思ってたより大ごとになっちゃったな)
かくして、身代わりの偽物令嬢だったはずの私は、公爵家の恩人として、そして「長女」として、この家に迎え入れられることになった。
――この時の私たちは、まだ誰も気づいていなかった。
私の『血盟探知』が、なぜあれほどまでに正確にリリアの居場所を特定できたのか。
そしてやがて、私の妹となったリリアの中に眠るもう一つの能力が、私たちに隠された『本当の関係』を暴き出すことになるということを。
この様な内容を見たことなかったので、自分で書いてみました。
楽しめたのなら幸いです。
続きを書くとしたら、能力的に探偵ものとかかな?




