一話 誅罰(3)
︎︎目が覚めると、そこは天国でも地獄でもなく、見覚えのある天井だった。日に焼けた黄銅色の格天井のます目にはひとつひとつ花の絵が描かれた花天井──正しくは私の寝室だった。朝露で冷えきった朝のせいか、脳がまだ混乱している。目をおもむろに見開き、グルングルンと眼球を回す。ああ、やっぱり、ここは寝室だ。
︎︎むくりと起き上がると、まだ昨夜の痛みが生々しく残っている気がした。柔和な肉に鉄の刃が割り込んでくるあの感触は、未だに体が覚えている。それでも、なぜか、あの深傷は嘘のように消えていた。
「夢でも見ていたのか……?」
︎︎寝服に着替えずに眠った巫女服には、血の跡すら残っておらず、斬られた痕さえない。おかしい。何かがおかしい。私は胸や脇腹をこれでもかと触った。触りすぎて傷跡が浮かび上がるんじゃないかというほどに、ただあの傷跡を探していた。それでも、何もなかった。
︎︎──この無傷こそが、後に全てを狂わせる最初の齟齬だった。
「……痛ッ」
目に針を刺されたかのような痛みが走った。髪の毛が皮膚に刺さったような痛みだ。おそらく、毎日のように泣いているせいだ。誰かが来る度に涙を拭い、その際に目をゴシゴシと撫で回している。最初の少女が犠牲になってから涙を零さない日はなかった。
︎︎でも、まだ私には生きる価値がある。悪夢のことなどすぐに忘れ、とりあえず墓場の掃除をしようと考えた。箒を抱えて神社の前に出ると、いつも早朝にお参りしてくる老人がやってきた。
「おはようございます。すいません、汚れていて、今片付けますので少々お待ちください」
そう言った途端、その老人が悪魔を見たかのような表情をした。
「お、お前さん……そ、その目は……」
「はい? どうかしましたか?」
「あ、ああ……お前は……お前は……」
「……悪魔であったのか」
その老人が踵を返すと、足をもつらせながら石段を転がるように逃げ去った。切り裂くような風の音が耳に残り、心臓が激しく脈打ち始める。私は慌てて鏡を覗き込んだ。
そこには、赤く……まるで鮮血を湛えたかのような瞳を持つ化け物がいた。いや、それは紛れもなく私だった。きっと、私が襲われたときに目の中に赤い染料を入れたに違いない。──いや、でも、それなら、なぜ傷が癒えているのだ。未知の恐怖が思考を妨げる。
︎︎なぜだ……なぜだ……この矛盾は一体なんなんだ……!
︎︎目玉をくり抜こうと思った。歯刷子の柄を眼窩に突っ込んで、ほじくり出そうと思った。だって、だって──目が充血しているという説明では済まされないほどに、黒目も白目も真っ赤だったからだ。嫌だ嫌だ──これじゃあまるで、私が悪魔のようじゃないか。
︎︎いやいや、待てよ。ああ──そうだ、そうだった。私は巫女だ。まごうことなき巫女だ。高潔なる巫女が自分の目玉をくり抜いて、その間抜け面を大衆に晒すなんざ、馬鹿のすることだ。高潔の欠けらもまるで無いじゃあないか。私は巫女。ああ巫女だ。アハハ──。アッハッハッハッハ──。なんでこんなことをするのだろう。笑いが、笑いが止まらない。自分は馬鹿だ。愚かで阿呆だ。されども巫女だ。あはあはあはあは……。
そこからの記憶がなかった。あの老人はきっと村人たちにこのことを言いふらし、彼らは私を殺しにくるだろう。だが、ここで逃げたら、“悪魔”というものの存在に一層の信憑性を与えてしまう。そう考えあぐねていると──案の定、村人たちが鍬や鎌などの農具を手にこちらへ集まってきた。
村人たちの顔が硬くこわばり、誰も目を合わせようとしない。その様子に胸が締め付けられる。ざわめきが耳鳴りのように響き、誰かが小声で呟いた。
「化け物……」
︎︎声の主を特定するまでもなかった。彼ら全員がそう思っていたのだから。
対して私は唇を噛み締めた。──ああそうだ。私は悪魔だ……。そう心の中で嘯き、今にも薙刀で有象無象どもをずたずたに斬り伏せてやりたい衝動に駆られた。彼らを恐怖のどん底に突き落としてやりたかった。ああ、ああ。うるさい、うるさぃ──。心の中で何かがプツリプツリと音を立てて切れていくのを感じた。あの言葉が──あの与太言葉が脳髄に響いてくる。私は悪魔だ。いやいや違う──よく考えろ。私は巫女だ。そうだ、そうじゃないか。自分の首を強く絞めて、身の潔白を訴えた。吐き出すような怒りと恐怖が喉に絡みついた。
「これは誰かが仕組んだ陰謀だ!」私は声が震わせながら叫んだ。「昨晩、私は村人たちに襲われた!︎︎そこにいる青年。お前だ! お前が私の体を刺したのだ!」
震える指で青年めがけて突きつけた。昨夜、彼が泣きじゃくりながら脇腹を刺したのは今も覚えている。だが、青年は驚いたように目を丸くし、首を傾げてみせた。
「え? 俺が昨晩、あなたを刺した?」
「そうだ!︎︎間違えない!︎︎なぜそんな愚かなことをした!」
「……い、いえ、俺は……その時外には一度も出ていません。というか怪我をして、今朝まで寝込んでいたんです」
「……は?」
︎︎すると、ある村人が口を挟んだ。
「そうそう、こいつは畑仕事中に猪に突き飛ばされてな。完治するまでに一週間を要したぞ」
「なっ……どういうことだ?︎︎そ、そんなはずがない!︎︎確かに、お前が包丁で脇腹を刺したじゃないか!」
「では巫女様。やけにお元気そうですが、その怪我を見せていただけますかな?」
「──そ、それは……」
︎︎もちろん怪我などどこにもない。擦過傷どころか、傷跡ひとつ残っていない。
︎︎すると、村長が罵声を浴びせる。
「皆の者、騙されるな!︎︎巫女は悪魔だったのだ!︎︎嘘八百を並べて民を惑わせ、我々を破滅に導こうとしている!︎︎現にこいつは毎日のように悪魔を庇っていた。仲間を殺されたくなかったのだ!」
「──巫山戯るのも大概にしろ!!」
︎︎生涯で始めて激怒した。予想以上な声量に自分でさえも驚いた。突然の剣幕に一瞬の静寂が訪れた。鶯のあっけらかんとした鳴き声と、春のそよ風が私の髪を撫でていった。それでも、今の空間は氷のように冷たく、背筋をゾワッとさせる恐怖に陥った。
「もはや、巫女の威厳はどこにもないな。その赤眼を浮かび上がらせて、説得力があるとでも思うか?」
︎︎何も言い返せなかった。私は誰かの罠に嵌められたのだ。一体、どうして?︎︎何が目的だ?︎︎憎い、憎い。ああ──憎い。
︎︎すると、あの青年がぼそっと呟いた。
「……で、でも、あの巫女様は銀髪ですよ?︎︎髪は昔から変わっていない。悪魔は金髪で赤眼のはずでしょう?︎︎目が赤いだけで決めつけるのも早計かと……」
「何を寝惚けたことを言っている。目玉が突然赤く染まるなど、普通ではありえない。いずれ髪も金髪に化けるだろう。あいつは悪魔に魅入られたのだ。可哀想だが、殺してしまおう」
「で、でも巫女様ですよ?︎︎巫女様を殺めたら、誰が悪魔を殺すんです?︎︎ここらはほかの神社から遠いのに……途中で暴れて逃げられたらどうします」
「それに奴は薙刀使いだ。少しは手こずるかもしれん」
「案ずるな、女だから直ぐに──」
︎︎……プツン────……
︎︎その言葉に耳が届いた瞬間、頭の奥で最後の琴線が切れる音がした。心の中で何かが崩れ落ち、もう、諦めようと思った。抵抗するにも気力が湧かない。私の瞳──いや、赤眼にうつる人々のあの笑顔が、まるで悪魔が私を喰らおうとしているような、生き地獄に連れ去ろうとしているように──見えたのだ。
「……もう良い。好きにしろ。私は悪魔だ。ここより地獄の方がマシだということに気がついた」
︎︎その後は──もはや、言わなくてもわかるだろう。案の定、例のごとく痛めつけられた。斧を持った老人が私の四肢をぶった斬ったり、髪を踏み躙ったり蹴ったりして、酷い辱めを受けた。肉が裂ける音が聞こえる。骨が折れる音が聞こえる。それでも痛みは感じなかった。あの子らの贖罪だと思えば、自然と和らいだ。蹂躙の後、村長から自分で火を起こして燃やされるか、地を這って崖から落ちるか、舌を噛み切って自害しろと言われた。無責任な話だ。だったらなぜ、最初から火を焚かないのだ。私は笑っていた。
︎︎途端に、ある警官帽を被った中肉中背の青年が入口に辿り着いて大声で叫んだ。
「正気が残っている者だけに告ぐ。この矛盾に違和感を抱いたものは今すぐこの町から離れろ!︎︎悪魔の化身の臓物を抜き取って清めるという風潮や、金髪で赤眼が顕現した子供らは愉快犯による偽装だ。ましてや異形学という思想は海外に存在していない!︎︎それらに違和感を抱いたやつは早く逃げろ!」
︎︎彼の声は必死で、怒号にかき消されそうになりながらも、遠くまで響き渡った。村人の何人かがざわめき、互いの顔を見合わせる。私は地面に仰向けとなって横たわったまま、薄い意識の中でその言葉を耳を澄ました。救いのような言葉だった。でも、もう手遅れだった。
︎︎すると、その警官は私の無惨な姿を見て息を呑んだ。
「──巫女よ。すまない。この異変に気がついていれば、貴方は犠牲にならなかったかもしれない。だが、多勢に無勢だ。私には父母がいる。守らねばならぬものを守らずして、警官は勤まらないのだ」
︎︎涙を隠そうとしたのか、帽子を深々と被り直すと、身を翻して神社から去った。
︎︎青空が──白玉模様の布切れのように見える。
︎︎──ああ、空が──空が、綺麗だ……。
︎︎私はこんなにも醜いのに、空は澄んでいて、春の兆しを告げる羊雲は悠々と漂っている。そんな日は雑草をむしって所々に出没する虫らに怯えながら掃除をしたいものだ。
「父よ。そこにいるなら、決断をしてください。私は、私は、いっぱい考えて、いっぱい思いました。その顛末は人生で一度も経験したことがない時間だった。父は、最悪な局面に瀕しても諦めることをしませんでした。ましてや、泣き言を零さずに、ただひたすらに、ひたむきに前に進んでいました。『男だから、勝機がなくても行かなければならない』……それが最後の会話だった。私はその言葉にはいつも鼻についた。私はその、男だからとか女だからとか、そういう枕詞が好きじゃなかった。そんな言葉に振り回されて自己の存在証明を否定する人生はいらないと、そう思っていた。現に貴方は負け戦に挑み、亡くなった。
︎︎悲しむ人がいるのに、貴方は行った。『行って来ます』ではなく、『行きます』と言った。私は泣いていた。されども貴方は笑っていた」
︎︎徐々に意識が遠のいていく。
「いやだ……いやだよぉ……まだ死にたくない……。あの少女の行方は……?︎︎あの警官が言っていたことは何だったの……?︎︎未練しかない……未練しかない……未練だけが、残る……。まだ、神の御前を掃いていない。神像を綺麗に拭いていない。薙刀の素振りをしていない。あの本もまだ読み終えていない。両親の遺品を拝んでいない──」
「あ……ああ──」
「──それでも、明日に生きる価値を……見いだせなかった……」
「お父様……お父様……ねぇ、ねえってば、この判断は正しかったの……?︎︎私には、もう……わからないよ……わかんないよぉ……」